8 さて、今後
「さて、ここからが本題なのだが」
「………っ」
すっかり冷めきった紅茶を一口飲み下していたレティシアは、グレイの一言に思わず浮かんだ疑問を寸でのところで飲み下した。
「充分、本題になりうるお話を聞いたと思うんだけど?」
「だが今後どうするのかは決めていないだろう」
「…そうだった。一番大事なのに」
考えてみれば、その通りだ。あまりな事実が多すぎて、解決策まで頭が回らなかった。
だいたいの状況が把握できたのだから、レティシアはこの後の行動を決めなければならない。
カチリとカップを置いた彼女は、顎に指を当てると思案顔で首を傾げた。
「取り敢えず、父さんと母さんは本当に国を出るのかしら?身分と立場、これまでに得た情報から考えたら、それってかなり危ない気がするのだけど」
「その通りだ。迂闊に他国に出るのは危険すぎるし、かといって母上は戻らないと強固だ。守りの強固なあの屋敷にしばらく滞在していただくのがいいだろうね」
突然王族が増えても、比較的安定した情勢の自国であれば多少貴族が騒めくだけで大きな問題にはならないだろう。だが、他国にまで名の知れた密偵が王族の妻を持ち、与し易い独身の娘を抱えて別の国に棲みつくなんて無理がありすぎる。
山奥でほぼ治外法権と化しているあの館なら、安全に暮らす分には困らないだろう。
考えるまでもなくそれしかないと確信したレティシアは、隣りの男に素直に頭を下げた。
「ご迷惑をおかけします」
「これまでにしていただいた恩を考えれば、当然のことだよ」
柔らかく口元を緩めたグレイの言葉に、彼女はなんて義理堅いんだろうと胸が痛む思いだった。
孤児を拾って育てたと常々彼は言うが、十一の男の子が男爵家にいたのなんてほんの五年足らずのことだ。めきめき頭角を現し文句なしの実力で仕事を得た後は、あっという間に独り立ちしていつの間にか大陸に名をとどろかす大商人にまでなったのだ。全て彼の実力なんだから、いつまでも恩義を感じる必要はないだろうに。
「当然でなんてないわ。それより家にお金があるっていうなら、ちゃんと滞在費を取ってね?」
確か両親との別れ際にずっといても構わないというようなことを言っていたが、甘やかしてはいけないと強い視線で見上げたレティシアに、グレイは必要ないと首を振る。
「金には困っていないし、これから先のこと考えるとお二人があそこに滞在するのは当然なんだよ」
この一言に嫌な予感がしないわけがない。
楽しげだった父と、言葉少なに早々と屋敷を後にしたグレイ。明らかにあの時点で何らかの話し合いがもたれ、下手をすると解決策まで考え終えての今なのだ。
一体どんな悪だくみをしてそれが進行形なんだと、不安に顔を曇らせたレティシアに男は相好を崩した。
「心配しなくても、君にそれほど負担はないよ。だが…聞いておかなければいけないことはあるな」
思案顔に一層良くない想像をした彼女は、訝しげに先を促す。
「トーマス様と結婚したい?」
「長い付き合いでしたけど、ここまでですわね、グレイ様」
あまりにもばかばかしい質問に、母直伝の淑女言葉と笑顔で切り返したレティシアは、半ば本気でソファーから腰を浮かせたところを、やんわりとけれど強制力を以てグレイに引き戻される。
「確認をしただけだよ。そう熱くなるものではない」
「大抵の女の子はね、一生のことである結婚をそんな風にからかわれたら怒るのよ」
何でも如才なくこなす男が珍しく自分の逆鱗に触れたものだから、年甲斐もなく膨れたレティシアはふいっと横を向いてしまった。それを微笑ましげに眺めていたグレイだが、目の前にさらされることになった小さな耳に唇を寄せると、艶を含んだ低音で囁いた。
「こちらを向いて、レーテ。大切な話がある」
「~~~~~~っ」
破壊力は、絶大だった。
全身をくまなく回った血のせいで真っ赤になったレティシアは、弾かれたようにグレイを振り返り、その近さにまた驚いてソファーの端まで飛び退くという随分忙しない行動を取った後、被害にあった耳を押さえて男を睨みつけた。
「そんなに急に動いたら、危ないだろう?」
「どどどっそんなことっ!!そ、そんなことどうだって、そう、どうだっていいの!はなしっ、話、早くしてっ!!」
くつくつ笑う声が決して心配していないと気づくと、喚く勢いで彼を急かしたレティシアは肘掛けにしがみ付きながら騒がしい心臓に悲鳴を上げそうだった。
グレイはあくまで兄であると、今の今まで認識していた彼女にとって、これは不意打ちで刺激的すぎた。まるで飛び切り上等な異性を前にしたときのように、意識して全身が反応するが煩わいと感じるほどだ。
違う、そうじゃないと否定しても、体の反応はなかなか収まらず目の前の男を直視することすらできない。
「早く…ね。では、お二人と私が君のために最も良いと考えたことを、提案しよう。レティシア、私と結婚しなさい」
ぱかりと口を開けても、驚きは声にならない。寧ろ空気と一緒に思考する力まで、そこから抜けていくようだ。
何故、結婚しなければならないのか。どうしてそれが最良なのか。何より提案と言いながら、命令しているではないか。
いくつもいくも、言いたいことが消えていく。何から話そうかと考えるほど、それは取り留めもない。
「…どうして?」
随分悩んだ気もするし、そうでないような気もする時間、やっとのことで頭を正常に回転させ口にできたのはこんな疑問だけだった。
赤味も消えすっかり血の気を失くした顔をこわばらせて、答えを寄越せとレティシアはせがむ。
「この問題の一番簡単な答えだから、だ。手順を踏もうとした王は、妹夫婦を取り込むことに腐心して姪への対応を誤った。君を貴族の娘として見ているから、度々家を抜け出して私の館に滞在しているなどと夢にも思わなかったのだろう。まあ、気取らせないよう皆が動いていたがね。だがおかげでレーテへと婚約話が行く前に、君は逃げおおせた」
これに驚いたのは、全くそんなつもりなくただ家出をしたつもりでいた本人だ。
「凄い偶然が重なったのね…」
呟きながら聞いた話を総合して日付を逆算していたレティシアは、随分と計算通りに事が運んだものだと感心する。三日前に家を出た時点で王と両親は会っておらず、翌日の謁見では話しをしたくても娘はもういないという言い訳が立つ、さらに翌日朝にはグレイの館に二人はいたのだから、本国では妹姫が宣言通り国を出たと大騒ぎしていることだろう。なんとも自分たちに都合よく物事が進んだものだ。
よかったのだが、なにやらできすぎていてすっきりしないと、顔を顰めているレティシアを眺めていたグレイは、口角を皮肉にくいっと上げた。
「そうだ。君が抜け出しやすいようお二人が揃って家を空けたのも、翌日城から前触れなく使者が来たのも、母上が啖呵を切った後、父上が『娘は既にグレイ・リウ・シーモアと結婚している』と宣言したのも、混乱の城内を抜け出し真っ直ぐ我が館にいらっしゃったのも、全て偶然のなせる業だよ」
「………そう、そうよね。……やっぱり、そうよね」
偶然だと言われるより、驚かない。寧ろそうであった方が納得できて、胸のつかえも消えるというものだ。
やり手と名高いグレイはともかく、大雑把な父もおおらかな母も、こうした緻密な計画を練るのに向いているとは全く信じがたいが、それでも全て偶然だなどと馬鹿なことを言われるより計算通りと言われた方が余程いい。そうだろうと頷ける。
だが、それでも。
「どうしてグレイ様と結婚なの?他に妥当な人はいなかったわけ?」
嫉妬やら商売上やらの理由で常に命を狙われることになりそうな人間の妻の地位より、適当な貴族の適当な息子の方が断然楽だとこめかみを揉みながら主張するレティシアに、いないとグレイはにべもない。
「自国の貴族では王家に利用され、他国の貴族では後に外交問題になる。勿論他国の王族ではただの政略婚になるし、なにより彼等の何人も妃をもつ結婚形態にレーテは耐えられないだろう。出自がはっきりした以上、ただの平民に嫁ぐと言い張っても体よく妨害されて連れ戻されるのは目に見えてるとなれば、自分で言うのもなんだが私より君の伴侶に相応しい男はいないよ」
こう言われてしまえば、何も言えないのであった。