6 親の心子知らず
ここから2話、長い説明文が続きます。
あの後、泊まっていけ食事をしていけと騒ぐお子様方を宥めて、下町にあるというグレイの屋敷まで戻る馬車の中、レティシアは無言だった。
同乗するグレイには申し訳ないと思ったが、それほど彼女は混乱していたのだ。
父が重職についていたとか、母の出自とか。初耳ではあったが記憶を掘り起こせば所々に二人の事情に気付ける手がかりは常にあった。
ある日、拾ったと連れてきた隻眼の少年が数年で密偵として仕事をしていたこと。
若手騎士の養成をしている男が手塩にかけ常に連れ歩いていただけで、国の中枢にも関わる仕事に十代の素性も定かでない少年がなれるのであろうか?
答えは否だ。
社交界の華と言われる公爵夫人と社交界に出ることさえない男爵夫人。独身時代に親友であったと周囲が認識しているとはいえ、未だに頻繁に、十日に一度は直接お茶をする仲というのは行き過ぎではないのか?またそれをできる限り他人に隠しているのは何故なのか。
他にも数え上げればきりがない。父は新人の育成合宿だと度々泊りがけで家を空けるし、騎士団から休日にもかかる呼び出しも珍しくない。貴族の付き合いはほぼないと言いながら母は社交界のことに異常に詳しいし、彼女に届けられる差出人不明の手紙もまた多い。
自分のことだっておかしいと思えばいくらでも疑問は湧いてくる。貴族令嬢とはいえ内情は町娘とほぼ同等の暮らしをしているのに幼い頃から礼儀作法を嫌というほど叩き込まれ、また同時に剣や暗器の扱いもグレイが拾われてくるずっと以前から教えられていたのだ。
どれもが両親の仕事や素性を一度でも疑えば簡単に答えに行きつけるよう配慮されていたというのに、レティシアはそうしなかった。
現状に疑問を持たず、与えられるものだけで生きてきた。
「わたしが二人の仕事を引き継げるほど優秀ではないから…家を出ろというのかしら?」
観察力も剣の腕も、両親の望む程になれなかったから見捨てられたのだろうか?後継者としてきちんと教育されなかったのだろうか?
冷めてしまった紅茶をぼんやりと見つめながら、深くソファーに身を預けたレティシアがぽつりと零す。
そのどこかぼんやりとした瞳を隣りで静かに見つめていたグレイは、小さな子供にするように彼女の頭をそっと撫でた。
「そうではないよ。元より君に仕事を継がせるつもりは、お二人にはなかったからね」
「嘘っ」
慰めに適当な誤魔化しを言うなと、グレイを睨み上げたレティシアの視界が涙で曇る。
一つ、一つと知らぬふりをしていた真実を拾う度、自分は両親に見捨てられるのだという不安で揺れる心が、彼の言葉を否定することで溢れたのだ。
悲しみと悔しさと恐怖と、ない交ぜの感情が涙となり血の気を失った頬を次々伝って落ちる。
それをそっと指先で拭いながら、グレイは真剣な表情で首を振った。
「嘘など言わない。レーテを後継にしようというのなら、もっと幼い頃から事情を話していたし仕事も教えていた。事実、女の密偵はどの国もいるしまた、常に不足している。女性たちにしか入り込めない場所は、星の数ほどあるからね。けれどそれがどれほど危険であるか、男爵は誰よりご存知だ。金の為、家族の為と部下を志願する彼女たちにできるだけ違う仕事を仲介しながら、いつも辛そうに零しておられたよ。レティシアと重ねてしまう。あの子は危険から遠ざけているのに、彼女たちを敵の中に送り込まざる得ない自分の立場が嫌だと」
家の中では優しい父親だった。孤児を連れてきたのだって、グレイが初めてではない。もっと幼い子供を助けて、領地の子のいない夫婦に預けた事も何度かある。部下だって男女を問わずよく男爵家を訪れていた。今にして思えば極秘任務のためだったのかもしれないが、父と話す彼等の顔はいつだって楽しそうで、とても仕事上だけの付き合いだとは思えないほどだった。
そんな人だと知っているから、グレイの言葉はとても信憑性に溢れていたがレティシアは信じ切れずにいる。
「でも、家を継がせられないって言ったんでしょう?それはわたしに同じ仕事をしてほしかったのと、同意ではないの」
父だけではなく、母まで王家の目や耳として働いているのなら、二人とも後を一人娘に任せたかったのではないか、だから剣や礼儀を煩く教えたのではないか、そう問えば逆だとグレイは笑う。
「戦うことを教えたのは、父親のせいで命を狙われても身を守れるようにだ。生業とあの方が考えたなら、もっと厳しく仕込まれているさ。夫人が宮廷作法まで君に仕込んだのは、もしも王家の血が流れていると知られることがあっても恥をかかないため。まあ、あわよくばどこぞの貴公子に見初められて男爵家との縁が切れればいいとも思っていたようだがね。だが、王家や公爵家の者には会ったことがないだろう?上流の貴族社会にもほどんど知り合いはいないはずだ。情報を流すには不可欠である交流を、故意にもたせていないのだよ。意味は、わかるね?」
どちらも理解はできる。できるがあと少し、納得ができずにレティシアの顔は晴れなかった。
「それから、家はあくまで君の夫となる者が継ぐのが大前提だ。今回の婚約者はそれなりに条件が揃っていたから密偵としてどうだと検討したのであって、家督と職業は別だとお二人は常々言っていた。君を試したのも男爵家の存続に関してだ。爵位こそ低いが王家ともつながりがあるコーエンに滅多なものを引き入れるわけにいかない。あの男に押し負けて結婚してしまうようならば、今後も言いなりになって国の不利益となるので君を絶縁せざる得ないし、自分の力で退けることができるなら、夫がいなくても君が女男爵となればいいお考えだった。結果はどちらでもなかったが、国内でレーテの結婚話が出るたびに同じ問題が起こることを考えれば、君は何も知らないまま嫁に行くのがいいと夫婦で意見が一致したのだそうだ。珍しいことにね」
本当にグレイの言うことは真実なのか。疑い出せばきりはないが、未だに両親と親しく付き合う彼の言葉は、ついさっき様々なことに気付いたばかりの自分の考えより余程、信憑性に富んでいた。
なにより彼は大切なことでレティシアに嘘はつかない。長く信じてきた男の、澄んだ瞳をじっと覗いて彼女は微かに頷いた。
「…そう、ね。父さんも母さんも、わたしに仕事をしろという機会は幾らでもあったんだもの。下手な小細工なんて、しないわよ、ね?」
それでも残る不安を払拭しようと己に言い聞かせるように呟けば、肯定するようにグレイはふっと笑みを漏らす。
「ああ。他国を騙すのは得意だが、家族には何をどうしても勝てないからね、あの人は。そういった意味では夫人の方が一枚も二枚も上手だよ。彼女は常にレーテが見つけ易いよう、秘密を暴露していた。私の仕事内容を教えたのも、騎士団からの客をわざわざ家に招き入れたのも、自分宛の白封筒を君に受け取らせていたのも、母上だっただろう?幼い頃から国のために利用され続けた方だからこそ、娘に同じ道を歩かせたくなかったのだろうね。口癖は『早くレーテがお嫁にいけばいいのに』だったから」
「母さんたら…でも、そうか。母さんは辛かったのね…」
「若い頃は、きっと」
陽気でどこか呑気に見える母しか知らないレティシアは、彼女が秘密裏に行ってきた仕事が心に負担となることを思いやり胸を痛めたのだが、グレイは違った。隻眼を眇めると記憶を辿るように、彼女の知らない過去に思いを馳せてゆるりと首を振る。
「まあ、それはいつか本人に聞くといい。一つ言えることは、今の男爵夫妻は幸せだということだ。そして、娘を手放す決意もした」
「嫁に出すと言った、あれね?」
声に出しても、もう胸は痛まない。両親に見限られたわけではなく、理由あればこそでた言葉だと知ることができたから。
「君は遅くにできた待望の赤ん坊だったからね、できればずっと手元に置きたいと二人は昔から言っていた。レーテだってそのつもりでいてだからこそ今回のようなことにもなったのだろう。だが事情は変わって君が家を出るのなら憂いはない。お二人とも仕事を辞め、隠居なさるそうだ」