3 輝ける海原へ
「うわ!グレイ様、グレイ様、海!海~!!」
「レーテ、落ち着きなさい。落ちるよ」
石造りの桟橋に巨大なガリオン船、紺碧に輝く湾内は行きかう船体に溢れて絵図で夢見た港そのものだ。
山に囲まれて育ったレティシアは、ふらりと異国の土産を携えて訪ねるグレイに航海の話しを聞くのが好きだった。ただ荷物の運搬をするだけでない、冒険譚のような胸沸く出来事の連続に何度、一緒に連れて行ってくれと頼んだか知れない。
その憧れの海が、目の前に広がっているのだ。興奮に思わず馬上から乗り出して苦笑交じりに窘められても、大人しくなどできようはずもない。
「だって、海なんだもの!何度頼んだって近寄らせてももらえなかったのに、今、そこにあるのよ!」
訳も分からぬうちに馬に乗り、息も止まるほどの速さで山を駆け降りてくる間中、決して機嫌のよくなかったレティシアはそれを打ち消して余りある光景に、全身で喜びを表すよう頬を染め輝く笑顔をグレイに向ける。
「君は、危なっかしいからね。今だって連れてくることに不安がなかったわけではないが、事情が事情だ。喧騒から逃げるのならばいっそ国外に出てしまうのも良いと思ったんだよ」
差し伸べた腕で軽々とレティシアを地に降ろしながら、グレイはそのまま手を引いてガリオン船までの長い桟橋を歩き始めた。
既に荷積みはほぼ終えているのか船員たちの動きは落ち着いており、行きかう人もまばらでレティシアが落ち着きなくあちらへこちらへふらふらと踏み出しても邪魔にする者はいなかった。ただグレイは繋いだ手を起点に、落ち着きのない歩みをとどめていたが。
「すごい、すごいわ!この船はどこまで行くの?」
小舟が運ぶ荷にも興味はあったが、レティシアの目は大きな木造船から離れることはない。彼女の住む小さな家など甲板に乗ってしまいそうな巨大船は、どんな風に海原を走るのだろう。
膨らむ想像にわくわくと傍らのグレイに問えば、漆黒の隻眼を細めた男は今回は東だと微笑んだ。
「ドーバル海を渡り、大陸へ荷を下ろした後、北で交易品を積んで戻ることになっている。ただし、今回はその前に南のパルバーへ寄港するがね」
「パルバー?あそこなら陸路でも三日かからないのに、わざわざ船で行くの?」
現在地である交易都市国家ケンガルドと南のパルバー王国はレティシアの住むカモナカ国を挟んだ反対側に位置している。
カモナカは国土全体がほぼ平地であり、またさほど大きな領土でもないので山を一つ越えると簡単に四方の国と行き来できる、利点のような欠点のような特徴を持つ国だった。おかげで商人などには陸の拠点として重宝がられ、領地が接している国には馬車で三日も走れば隣国へつけると揶揄される対象にもなるのだが、だからこそ海路を使いわざわざパルバーに行くと言うグレイの言は合理性に欠けるような気がしたのだ。
怪訝な顔でレティシアが首を傾げると、桟橋から船へと架けられた渡し板に片足をかけたグレイが、芝居がかった仕草で彼女を引き寄せて遥か上、甲板へと腕を伸ばして見せる。
「旅の話を聞かせるたびに、船に乗ってみたいとせがむお嬢さんの願いを叶えてやろうと思ってね。たった一日の短い航海だが、ともに行くかい?」
このとき彼女は、驚きすぎると言葉を失うのだと人生ではじめて知った。
普通の娘であればしばらく絶句する婚約破棄の場面でも飄々としていたレティシアだが、焦がれてやまなかった船旅を禁じていた本人が、突然許してくれたという現実に頭がついていかなかったのだ。
濃紫の瞳をまん丸に見開いてじっとグレイを見つめてることしばし。
じわじわと沸いてきた喜びに思わず目の前の男に飛びついて、頬にキスの雨を降らせる。
「行くわ!行くに決まってる!!ありがとう、グレイ様!大好きよ!!」
ずっと昔、レティシアがまだ小さな女の子だったころ、男爵の共でしばらく家を留守にした彼が些細な土産を渡すと必ず、首にかじりついて同じようにキスをくれたことを思い出し笑みを浮かべたグレイは、そのまま華奢な体を抱き上げると渡し板を甲板まで上がり始めた。
「では急ごう。我々が着くまでと既に出航を一刻ばかり遅らせているからね」
「まあ、だからあんなに馬を急がせたのね」
「そういうことだ」
子供のように扱われることにいつものなら文句のひとつも口をつくところだが、せっかくグレイが船に乗せてくれるというのに機嫌を損ねては一大事と、レティシアは大人しくなされるがまま意外に急な渡し板が終わるまで黙って男の腕の中にいた。
そうして降り立った甲板は、再び彼女を絶句させるに十分な壮麗さで二人を迎えてくれたのだ。
「う、わぁ…」
三本の巨大なマストに大きくかかる帆布、広い甲板にはいくつもの樽や太いロープに鎖が置かれ、いまいる所より一段高い甲板も見える。
グレイが話して聞かせてくた通りの様子だが、それらが実際目の前に広がっているということ自体が夢のようで、未だに子供のように抱かれたままだということすら忘れて、レティシアはぽかんと口を開けたまま甲板を飽きずに眺めていた。
「待たせたな、船長」
「いいやちっとも。手際の悪い役人に比べたら、このくらいたいしたことないさな」
そうして彼女が呆けている間に、五十絡みの身なりのいい男とグレイはがっちりと握手を交わして乗船の挨拶を済ませる。
トライコーンの帽子に長髪、長い髭といかにも船乗りらしい船長は、日に焼け皺の目立つ顔を豪快に笑み崩すと、グレイが降ろそうとしない娘にちらりと視線をやって大きくひとつ頷いて見せた。
「まさか会えるとは思わなかったが、そのお嬢ちゃんがドンの娘だな?」
「ああ、レティシアだ。貴方がここにいると知って、わざわざ旅程を変えたのだよ。いつかはと、言っていただろう?」
「覚えていてくれたとは、嬉しいね」
「忘れるわけがない。船長は命の恩人なのだから」
男たちは声を潜めて会話をした後、放って置けばいつまでも船を見ていそうなレティシアを現実に引き戻して自己紹介を済ませた。
「それじゃあ船長がいなかったら父さんとグレイ様は死んでいたのね?」
「ああそうだ。だが本当は俺がグレイに救われたのかもしれんな。なにしろ元の船が沈んじまった後、この馬鹿でかい船と貿易船の船長という肩書きをくれたのは、こいつなんだから」
最後の荷であったグレイとレティシアが乗船したことで、慌しく出港準備を始めた船員を横目に三人は邪魔にならない一段上の甲板で彼らの馴れ初めを聞いていた。
家族を心配させないようになのか、仕事の話をほとんど家でしない父だったが、どうやら正解だったようだ。もう十年以上前だと聞いてもレティシアの眉間に刻まれる皺は深くなる一方でちっとも消えないのだから。
ただ、この巨大船をグレイが買ったとは驚きだった。大金持ちの商人だとは風の噂に聞いていたが、どうやら財布の大きさが彼女の想像を遥かに上回るらしい。
「なに、恩を返したに過ぎないさ。何より陸に上がった船長が、猛獣より質が悪くてね。酒を飲んで暴れ回るので、海において置くほうが皆の為なのだよ」
見上げた先で器用に片眉を上げて見せたグレイは、そんなことはないとぶつぶつ言っている男を尻目ににやりと口元を歪めて見せた。
「なにしろ荒くれ者でも船に乗れば勇敢な海の男だ。誰もが尻込みする様な航路も二つ返事で引き受け、立派に荷を運びきる。私の仕事は義理があると優先してくれるし、今回のように遠回りして人間二人を運んでくれることもある。実にいい男だと思うね」
「やめろ!お前に褒められると、尻が痒くなる!!」
滅多に見られない大笑いするグレイと、いい年をして顔を真っ赤にして照れる船長と、見ている方が笑ってしまうような素敵な関係にレティシアの頬も緩み、長い出港準備が終わる頃にはすっかりこの男を好きになっていた。
「すごく素敵な船長ね。グレイ様がわたしを船に乗せてくれる気になったのも、彼が船長だからよね?」
外洋に漕ぎ出し、一層深くなった海の色を眺めながら彼女は傍らの隻眼を覗き込む。
「そうだよ。彼にはいつか、君を紹介すると約束していたからね」
欄干に長身を半分預けているグレイの顔は、いつになくレティシアに近い。そんな至近距離で美神と評される男に笑みを向けられたら、若い娘なら頬を染め心臓を高鳴らせそうなものなのに、子供の頃からこの美貌に慣れ親しんでいる彼女は動じることもなく、嬉しいと別の意味で頬を染めた。
「初めて乗せてもらった船がこんなに大きくて、しかも素敵な船長さんまでいるなんてすっごい幸せ!ここのところ碌な事がなかったのに、嫌な事なんて全部忘れてしまいそうよ」
昔からお人形遊びよりもグレイ相手に剣の練習をする方が好きな娘だった。
船に乗せてやれば喜ぶだろとは思っていたが、想像以上の反応にふと頭をもたげた不安が的中しそうで、グレイはひとつ釘を刺すことにした。
「…女は船に乗せない。船乗りたちの掟は覚えているね?」
「あら、今乗ってるじゃない」
やっぱりかとこめかみを押さえた男は、それから船長も巻き込んで客と船員では全く扱いが違うのだということを懇々とレティシアに言い聞かせたのだという。
渋々ながら彼女が納得したのは、海が綺麗な夕日に輝く頃だった。