2 混乱のお屋敷滞在
大商人であるグレイ・リウ・シーモアは、様々な国に拠点となる屋敷を持っている。
本人曰く一つ所に根付くのは都合が悪いため、通常はそれらを点々とし、また転売しながらしょっちゅう居所を変えて生活しているのだが、何年も手放さずに持っている屋敷がひとつだけあった。
国境から続く山ごと買い占めてあるその土地は当然関係者以外立ち入り禁止で、人が通れるよう整備してある唯一の山道には常に数人の私兵が常駐している。そんな状況でももちろん侵入者は後を絶たないが、山中には故意に放たれた獣がうようよしているので、命からがら逃げ帰るか骨も残さず食べつくされるか、運が良ければ館にたどり着き私兵に捕えられ筆舌に尽くしがたい目に合されるか…無条件で通行を許可されているレティシアは知らないが、かなり危険な場所なのだ。
難攻不落やら公然の秘密屋敷やら人食い館やら、二つ名に事欠かないこの城塞、グレイの商売敵は彼が禁制品や財産を隠していると信じて懲りずに手下を送り込んでいるが、事実は家出を繰り返すレティシアのために維持されているに過ぎず、華美を好まない彼女の趣味で簡素な調度品ばかりの室内は資産価値も低く、当然商品もなく重要な書類も主と共に移動している数枚程度と、仕事上でも最も重要度が低い。
しかしネズミとり(・・・・・)としての機能も捨てがたいと、グレイは敢えて同業者の勘違いを正さず侵入者の返り討ちを楽しんでさえいた。
…何も知らぬ娘はいつでも自由に滞在できる別荘感覚なので、難しいことは考えず本日も荷物一つ持たずにご機嫌で遊びに来たようだが、さて。
「…ここって、グレイ様のお部屋と続き部屋、よね?」
滞在許可を得て一息ついたレティシアは、ふかふかのソファーから日当りのいい室内をくるりと見渡し首を傾げた。
増えに増えた私物でほぼ自室と化していた客間がそのまま移動してきた部屋は、なるほど見覚えのあるもので溢れている。違いは部屋の広さと天蓋付きの大きなベッド、カーテンくらいなものか。
しかしイースに案内されたドアの前でまさかとは思ったが、踏み入れた先に内扉を見て疑念が確信に変わると、どうしてどうして途端に腰が落ち着かなくて困る。
「はい。そちらから共用となっているリビングに出られますよ」
すっかり馴染となっているメイドのフラウは、常であればレティシアの部屋に侍って世話をしてくれることなどない。屋敷の規模にしては使用人の少ないここで女性使用人を纏める彼女は、三十手前にして頗る有能で、夫で執事のマティオと共にあちらへこちらへといつだって動き回っている印象しかなかった。
それが今日はイースと共にレティシアを部屋に案内したまま残って、やれ着替えだお茶だと下にも置かぬ扱いではないか。
部屋のことといい何やら今回の滞在腑に落ちないと、眉間にしわを寄せた彼女は人好きのする笑顔で心を読ませないフラウを訝しむ。
「どうかなさいました?」
お茶のお代りを用意していた有能なメイドは、口にされる前に先手を打ってお伺いを立ててきたが、それすら今日のレティシアには、怪しいばかりであった。
「どうかしてるのは、フラウさんじゃないですか。いつもはわたしの世話をやいたりしないでしょう」
あれこれ手を出すなんて、変よ。眇めた瞳で言外にそう問えば、彼女はお客様ですもの当然ですと、白々しいことこの上ない。
客だというのなら、七年以上レティシアはそうであったはずだ。
主人に滞在を許され、主人に館内を自由に闊歩する権利を与えられ、主人と正餐を共にする。これを客と言わずして、何を客というのだ。
だがレティシアにこれまでメイドが付いたことはない。しつこいようだが彼女は着替えもお茶も一人でこなせる貧乏男爵の娘で、不自由も感じなかったから悠悠自適、したいようにこの館での滞在を楽しんでいた。
なのに、なぜ、今更メイドが、よりにもよってフラウがつくのだ。
「…なんか、変です。客だからと宛がわれるメイドなら、忙しいフラウさんである必要ないのに」
百歩譲ってこの待遇を受け入れるのならせめて、年若くレティシアでも気後れしない女の子にしてくれないものかとした抗議もあしらわれ方はいたって粗雑だった。
「人手不足ですので、致し方ないのです。諦めてくださいな」
こう言われて一体レティシアに何が言えただろう。
万年人材不足を知っている身としては、黙って受け入れるよりなかったわけだが、それほど忙しくもないだろうにと一人だけの滞在客としては内心ふくれっ面であったりもした、昨夜。
「これは…何事?」
早朝からフラウに叩き起こされ、騒がしい屋敷に首を捻りながら、それでもしっかり朝食を食べたレティシアは、紺の簡素なドレスを着せられて黒の外套を羽織らされた。同じく黒のボンネットを被った姿で鏡の前に立った自分を眺めて、思わず零れた呟きにまたしてもフラウの返答は簡潔だ。
「旅装です。街までは馬車より馬が早いですから」
つまりそれは、昨日登ってきた山道を今日下れと言うことだろうか?まさか、父さんか母さんに何かあった?
あまりに黒が多すぎて、ともすれば喪服に見えなくもないドレスを摘まんだレティシアは青くなったのだけれど、急かされて出た玄関ホールに見つけた姿にその不安は消し飛んだ。
「二人とも…どうしたの?」
到着したばかりなのか開け放たれた扉の前に佇んでいた両親は、書置き一枚で飛び出したおてんば娘の声に眉を跳ね上げたが、それにびくりと首を竦めた彼女が多少なりと罪悪感を持っていることに溜飲を下げて、招待されたんだと目元を和らげる。
「元上官殿や公爵夫人、それにお前の求婚者が煩くてな。辟易としていたところにグレイにここを提供されたんだよ」
「ええ、朝早く逃げて…いいえ、出立してきたからしばらく誰にもばれないでしょう」
悪戯が成功した子供の様に楽しそうなところ申し訳ないが、いい年した大人が逃げてきたってどうなんだとレティシアは思わず頭を抱えてしまった。社会的責任があるのだから、そんなに簡単に物事は決められないだろうに。
「仕事はどうするのよ。いくら閑職でも、父さん一応騎士団所属でしょ?」
新人騎士を育てる教官をしている父はほかの騎士たちのように急に呼び出されることはないが、定期的に宿舎に泊り込んだり野外研修と称して山に篭ったり、それなりに仕事をしている筈なのに簡単に休めるのかと問えば、彼はたくましい胸を得意げに反らせるではないか。
「休めるに決まっている。一人娘の…」
「お待ちしておりました、男爵」
遮った声に振り返ると、玄関扉から爽やかな朝にふさわしくない漆黒の長身が滑り込む。
「リウ!なんだ、相変わらず黒いな」
相好を崩した父が嬉しそうにグレイを抱きしめるのを、レティシアと母は呆れて眺めていた。
小国の国主より金と人脈を持つと言われる男を、少年の頃と同じように扱う人間は大陸中探してもこの貧乏男爵一人であろう。父親代わりだったと自負する気持ちがそうさせるのか、単なる無神経か、理由は定かではないが養い子でも部下でもなくなった今も、彼はまるで小さな子のように自分より色々な意味で大きなグレイを扱うのだ。
「あなた、失礼よ。グレイ様はもう家の子じゃないんだから」
見かねて母が夫を諌めるが、レティシアにしてみればどっちもどっちもだ。
三十過ぎた男に、家の子って家の子って…。
娘は頭を抱えたが、当人であるグレイは楽しそうに碧眼を細めて、構いませんと首を振る。
「私は今でもお二人の息子ですよ…お許しをいただければ、ですが」
「許すに決まっているだろう!いや、お前はずっと俺の息子だ」
「そうね、グレイ様が…いえ、リウがそれでいいのなら、わたくしは貴方の母ですよ。ずっとね」
三文芝居を見ているような錯覚にくらりとしながら、抱き合わんばかりの三人に思わず遠い目をしてしまうレティシアだった。なにしろ彼等は会うたびにこの下らないやり取りを挨拶代わりに見せつけてくれるのだ。
確か一月前にも我が家の狭い玄関で同じものを見た気がするもの。
こめかみをぐりぐりと揉み解しながら、さてどこで止めたものかと機会を計っていたレティシアは、急に肩を抱かれて目を白黒させた。
「では、父上、母上。この騒動が収まるまでどうか我が屋敷でお寛ぎください。ああ、お二人が望むのであればここを終の棲家と定めていただいてもよいのですからね」
いつになく楽しげにそう告げた男は、礼を言う両親に相応の礼を取った後、訳も分からずなすがままのレティシアを馬の上に押し上げて旅装の一行に出立を宣言したのであった。
「え?あの?一体、どこ…っえーっ!!!」
周囲の馬に合せて命じる間もなく走り出した馬の上では、長く若い娘の悲鳴が響いていたという。