1.喜びの婚約破棄
「主から書状を預かってまいりました」
子爵さまの使いだという立派な身なりの執事が男爵とは名ばかりの質素な我が家へ現れた時、やっと終わったと正直レティシアは胸をなでおろしていた。
周囲や両親から手を回され、嫌と言えない状況で騎士ランスと婚約させられたのは一年も前である。
顔はいいがどことなく信頼できない男をどうしても好きになれず、デートの誘いを断り、結婚式の日取りを決めることを先延ばしにし、会わないように話さないように、涙ぐましい努力で接触を断っていたというのに、敵はなかなか諦めてくれない。
それでも親切な婦人や令嬢がわざわざ訪問したり手紙を書いたりして、ランスがほかに好いている方がいるようだとか、望まない相手と結婚することに絶望しているようだとか教えてくれるたび、まだ希望があるとレティシアは拳を握り締めて燃えたものだ。事実、一月ほど前から聞くようになった子爵令嬢との噂は、なかなか信憑性があった。
どこぞの別荘へ数日篭っていただとか、隣国の社交場で二人仲睦まじげに寄り添っていただの、貴族のパーティーを隠れ蓑にこっそり逢引していただの。
子爵令嬢にも結婚間近といわれる婚約者がいたはずなので、下手したら大騒ぎになるだろうに良くやるなぁと最近めっきり減ったランスの訪問にほくそ笑みながらレティシアは思ったものだ。と同時に、そのまま結婚したいから婚約は解消してくれと言ってくれないかとも思っていた。
なにしろ相手の都合で破談になれば慰謝料を貰える。平民騎士のランスには到底無理でも、裕福な子爵家であれば相応な金額になるだろう。元が取れるのであれば、つらかった婚約期間も報われるというものである。
そんなわけだから鬼の形相で婚約解消を告げる手紙を握りつぶした父には悪いが、望みどおりにことが片づき、レティシアは御の字だった。
「それでは、コーエン男爵、並びにレティシア嬢、こちらが子爵家とランス様からの慰謝料となりますのでお納めください」
去り際に執事が置いていった箱一杯の金貨と、ここから少し離れた場所にある荘園委譲の目録に、わりと実入りはよかったなと彼女は内心ほくそ笑む。
世間体が婚期がと泣き崩れる母には悪いが、冗談抜きに素晴らしい結末を迎えることができたではないかと、ご満悦のレティシアなのだった。
そして翌日、隣家の友人の部屋にて。
摘みたてベリーを浮かべたお茶を啜りながら、生まれた時から顔を突き合わせている幼馴染のマーサに事の顛末を聞かせると、長々とため息を吐かれてしまった。
何故だと年の割に大人びた親友を不満たっぷりに見やれば、榛色の瞳をくるりと回した娘は呆れたと言わんばかりに問うてくる。
「そりゃあ確かに大層な金額を手に入れたかもしれないけれど、婚約を破棄されたという醜聞は消えないのよ?19なんて行き遅れ寸前のくせに、どうするのよ」
「そうねぇ。隣国で騎士でもやろうかしら。ここだと父さんが邪魔して、させてもらえないから」
なんだそんなことと、微笑みすら浮かべながら気楽に言い切ったレティシアに、俄かに痛み始めたこめかみを抑えながらマーサはどこで育て方を間違えたのかしらと、母親のような後悔を零した。
身内のひいき目をさし引いたとしても、レティシアは充分魅力的な女性である。栗色の柔らかな巻き毛と、深い紫の瞳、美女と名高い母によく似た顔立は騎士よりも大きな屋敷でお姫様然として優雅にお茶でも飲んでいる方がよほど似合っているだろう。
だが、天は二物を与えなかった。というよりバランスよく二物を与えたというべきかもしれない。
母から美貌を受け継いだなら、父からは竹を割ったような気性をレティシアはきっちりと受け継いでしまったのだ。おかげで見かけに惹かれて声をかけてきた男は、ことごとく玉砕していき、ランスはやっとできた婚約者だっというのに。
「ま、冗談はともかくよ。あの人は最初からわたしにくっついてくる爵位が目当てなんだもの。よりよい条件のお嬢様がいらしたらさっさと乗り換えるでしょう」
結婚した後浮気されるより破談の方がよっぽどましよ。
さばさばと結構な批評をしたレティシアだったが、内容には妙な説得力があってマーサはそういわれればといくつかランスという男について気になったことを思い起こしていた。
平民上がりとして数十年ぶりに異例の出世をしたランス・ロードンは、金髪碧眼に女受けする容姿と何拍子もそろったような人間であった。当然世の娘は彼に群がったが、爵位を持った娘ともなればそうもいかない。いかに好ましい男であっても、家名を継ぐ限り家の利益にならない相手と婚姻を結ぶわけにいかないのだ。
しかし自力で出世しようにも周辺国と順調に友好関係を続ける国内では武勲を上げる機会もないランスは、跡継ぎ娘と結婚することで貴族になろうと画策したらしい。
言い寄ってくる相手も、己が声をかける相手も、選考の基準は爵位の有無。本来の目的を隠しもせずに伴侶を物色して、貧乏ながら貴族の末端に引っかかるレティシアに彼は目を付けた。他に候補に挙がった令嬢方も条件は彼女と似たり寄ったりだったが、レティシアの美しさは群を抜いていたのである。父親の男爵が元騎士団の副団長である伝手を生かしてまんまと両親から取り込んだランスは、嫌がるレティシアをものともせずに婚約者に収まり、首尾よくいった後はちらほらと女性関係の浮名を流し始めていたのだ。
「まあ、ね。確かに後々のことを考えるなら、慰謝料までもらえて清いままお別れできるなら最高よね」
「でしょ?」
結婚してしまえば離縁は簡単ではないし、無一文で再出発だって十分あり得る。ならば数年は食べるに困らないだけの金貨と、売っても畑を作ってもいい荘園を貰って次の婿を探す方がよほど建設的だ。
冷静に考えればマイナス面よりプラスの方が多いと、笑いあった彼女たちの明るさはそう時を置かずして事態の急転を呼んだのだった。
まず元婚約者であるランスが、突然国境警備団(事実上の左遷)に送られた。
表向きは急な欠員に対しての増員とのことだったが、事実は彼が関係していた伯爵家の未亡人が妊娠してしまったことが原因だった。彼女は年老いた伯爵が死の間際に娶った元メイドで、既に伯爵位を継いでいた息子にとっては浪費するだけの金食い虫。これ幸いとランスに責任の全てを押し付け、伯爵家から追い出してしまったのだ。
高潔であれがモットーの騎士団に籍を置いていて、この状況で彼女を放り出すわけにいかず、泣く泣く整ったばかりの子爵家令嬢との婚約を破棄して未亡人と結婚することになったランスは、それまでこだわってきた爵位を手に入れ損ねたばかりか左遷される羽目とあいなったわけである。
因果応報は恐いと、これは世の男たちの教訓になったとかならないとか。
次に本来は同情されてしかるべきの子爵令嬢であるが、なんと婚約不履行で訴えられた。彼女の元婚約者である貴族の四男は、レティシア同様、相応の手切れ金を渡して縁切りしようとした子爵家にノーを突きつけたのだ。
元々は爵位の保全を目的とした政略結婚である。一人娘である子爵令嬢と、爵位も領地も継ぐべく物はないが貴族で居たい四男が双方の事情を考慮して縁組したというのに、ほかに好きな人ができたからこの話なかったことにしましょうと言った所で納得してもらえるはずもない。
そんなわけでこの一件、揉めに揉めた挙げ句に司法院へ訴え出られるという貴族にとって最も不名誉な事態に陥ってしまったのだ。
ランスの事情が変わった今も、この争いは続いている。
その他にも、出世欲の塊であったランスに恨みのある人間や、人の恋人を略奪するのが趣味と言われている子爵令嬢に煮え湯を飲まされたことのある娘たちがあることないこと吹聴して後押しした、結果。
「わたし、どえらい悲劇のヒロインにされてるんですけど」
宥められたり慰められたり同情されたり、煩わしい上に騒々しいと社交界から逃げ出したレティシアは、身の回りの物を纏めると一人で馬を駆って…なんと国境を越えてしまった。
ここは嘗て父が騎士団で育てた密偵が、大商人と情報屋の二足の草鞋で富を成し建設した、城塞のような館である。小国の城など足元にも及ばない堅牢さと、室内の美しさでは定評のあるここは、十を少し過ぎた頃よりレティシアお気に入りの避難場所でもあった。
つまり、度々家出先に利用されている、公然の隠れ家なのだ。
勝手知ったる何とかと、門番に笑顔で通行許可を得た彼女は迷うことなく主の部屋まで突進して、勝手に淹れた紅茶を客用ソファーで啜っている。
そうして愚痴を零す先には、政務机で片頬杖をつき闖入者を眺める屋敷の主がいた。
「そのようだね。ここまで噂は届いているよ」
平均より頭半分大きな身長、一見細身に見えるがトレードマークの黒ずくめの衣服の下にあるのは鍛え抜かれた肉体であることは、黒豹と評される彼の身のこなしが証明している。皮のアイパッチをつけ片方だけ光る瞳は黒曜石、背の中ほどまで伸ばした艶やかな黒髪は烏の濡れ羽色と、様々な形容詞で褒め称えられる彼が最も人目を惹くもの。それは”現世の冥王”と紳士が畏れ、淑女が心奪われる怜悧な美貌であろう。
近寄りがたいほどの麗人は、孤児だった彼をレティシアの父親が自宅に連れ帰って以来、何くれと彼女の面倒を見てくれる年の離れた兄のような存在だった。その気安さから、話しかけるに勇気を要するといわれる男に、レティシアは易々と我儘を言う。
「だからね、グレイ様。しばらくでいいので置いてください」
いくらなんでも隣家に隠れたのではすぐに居場所が知れてしまうし、何より鬱陶しいのは同情からなのか良い機会と思ったのか増え続ける求婚者なのだと、ここにいる利点をこんこんと説いていくレティシアを微笑みながら見ていたグレイは、一通りの主張を聞き終えると頷いて好きなだけいるといいとあっさり許可を与えてくれる。
「ただし、いつもの客間ではなく三階を使ってくれ。イースに案内させよう」
「はーい。ありがとう、グレイ様!」
これまで断られることの無かった居候のお願いが今回も通ってご機嫌な娘は、その後に続いたいつもと違う要求にも疑いなく返事をして、後ろも見ずにスキップする勢いで執務室から消えていった。
「無邪気なことだ。可愛らしい」
きっとこの時、彼女が僅かでも疑心を覗かせれば。
運命は変わっていたのかもしれない。