【 3 】
音を立てずに部屋を抜け出し、そぅっと階段を途中まで下りる。そしてその隙間から玄関先を覗きこんでみた。
開け放たれた玄関扉から差し込む陽光を背にしているので顔はあまりよく見えないけど、そこに仁王立ちで立ち塞がるのは間違いなく真柴さんだ。
「北原っ! どうして学校に来ない!?」
うわちゃー、こっちの真柴さんまた怒ってるよー。
もしかしたら僕はこれから修羅場を見てしまうのかもしれない……。頑張れ、ショーリ! 生き延びろ! 僕は階段の隅から密かにエールを送る。それしかすることがないし。
「ごっごめん! 一度家に戻ったら行くのが面倒になっちゃったんだ」
「朝の件が理由で来られないのかと思ったがそんな理由か! 怠惰な奴だ!」
ポニーテールを揺らし、プリプリと怒りながら真柴さんは玄関の上がり口にドサリと乱暴に座る。
で、でも、そういう真柴さんも結局学校に行っていないんじゃ……?
「北原もそこに座れ!」
「はっ、はいっ!」
歯向かうことなど許されざるこの雰囲気。
結局ショーリもその場に座らされた。しかも正座で。
なんかここから見ていると、“ 怖いやり手の女性上司から叱責を受けるドジな新入社員の図 ”って感じだ。
「顔、見せてみろ」
真柴さんはそう言い放つと自分のスクールバッグから次々に医薬品を取り出し始めた。
包帯、オキシドール、脱脂綿、ピンセット、バンドエイド、マキュロン、サージカルテープ、三角巾……、なぜかボラギノールに正露丸……ん? ピンク容器のあれは…………。
まさかイチジク浣腸ッ!? ……あのー真柴さん? 君、それで一体何を治そうとしているの!?
「うわ、薬がいっぱいだ……。真柴さん、これどうしたの?」
「保健室から勝手に持ってきた」
あっさりと言う真柴さんに僕もショーリもただただ絶句。
いけません真柴さん、それは立派なかっぱらいです。
「早くしろ」
真柴さんはそう言うとショーリの顔をグイと自分の正面に向ける。
「……顔には一発喰らっただけなのに結構ひどいな。色が変わっている部分があるじゃないか」
オキシドールのビンにピンセットでつまんだ脱脂綿をひたしながら真柴さんが呟く。
「どうせ消毒も何もしてないんだろ?」
「うん、帰ってから軽く水ですすいだだけ」
「ったく手間をかけさせる奴だ」
呆れたように言いつつも真柴さんのピンセットはとても優しく、丁寧に動いている。
右頬を殴られたショーリは唇の端も切れていた。そこに脱脂綿が触れ、沁みたのだろう、ショーリの体が一瞬ビクッと後ろに反る。
「我慢しろ、これぐらい」
「う、うん」
あれ? 少しずつ真柴さんの声が柔らかくなってきているように聞こえるのは気のせいかなぁ?
消毒が終わり、頬の切れた部分にバンドエイドを貼り終わると真柴さんは次の命令を下した。
「次は腹を見せてみろ。二度も蹴りを喰らってたからな」
「いっ!? いいよいいよっ! もう大丈夫だって、真柴さん!」
焦った様子のショーリは正座をしたまま、何度も首を振る。
「いいからさっさと見せろ。一応私にも多少の責任がある」
「いや、本当に大丈夫! 見たって何も手当てなんて出来ないって! 損傷があるとすれば内部なんだから!」
あくまで拒否をするショーリに真柴さんの声に一気に凄みが増した。
「……北原、お前私の看護では不服だということか……?」
「いやっ、そっそういう意味じゃなくって! もう大丈夫なんだ、本当に!」
「何故だ? 女じゃあるまいし、私に上半身を見せることになんのためらいがある?」
「だ、だって……真柴さんの前でそういうことしたらさぁ……」
ショーリは困り顔で首筋に手をやった。
「なんだ?」
「そのまま襲っちゃうよ?」
「襲、う…………!?」
真柴さんはこれ以上無いくらいにまで完熟したトマトそっくりの顔になった。あれれ、なんか可愛いかも。
「だって今、この家には誰もいないし」
途端にガチャン、ガタンと騒々しい音。玄関に並べてあった薬ビンの数々を焦った真柴さんが盛大に倒しちゃったらしい。
真柴さんは多少ぐらつきながらも立ち上がると叫んだ。
「きっ、北原っ、その冗談は笑えないぞ! ふざけるにもほどがある!」
「ふざけてないよ、大真面目。だって僕、真柴さんのこと好きだし」
わー! いきなり告白したー! ショーリが真柴さんに告白してるー! しかも正座したままでー!
真柴さんは、といえばその顔は相変わらず取れたてもぎたての熟れた果実のような瑞々しいフレッシュレッドだ。
「だから服を脱ぐのは勘弁してよ。そのまま理性が飛んじゃいそうなんで。ね?」
ショーリの笑顔にジリ、と真柴さんが後退する。そして赤い顔のまま、何も言わないでスクールバッグを掴むと外に飛び出して行ってしまった。
家の中に沈黙が訪れ、ショーリは微動だにしないで石像のように佇んでいる。階段の途中からそっと声をかけてみた。
「……行っちゃったね、真柴さん」
「うん……」
振り向きもせずに正座をしたままポツリとそう返事をしたショーリの背中が、哀愁を帯びて見えたような気がした。一階に降りてショーリのすぐ後ろにまで歩み寄る。
「ねぇ、今の告白ってもしかして見切り発車?」
「うん……。今の真柴さんの反応、どう思う?」
「ん? 脈はあるかってこと?」
「そう」
ここは希望を持たせてあげたほうがいいんだろうか。
「……びみょー……かな?」
僕の返答に大きくため息をつくと、正座を崩したショーリは顔を歪めた。
「あたたた……足が痺れた」
「踏めば早く治るよー」
親切な僕は渾身の力をこめて痺れた両足の先端を踏み踏みしてあげた。
「うわっ! 止めてくれよ!」
後ずさって壁にまで逃げたショーリはまだ「いたた……」と言いながら苦しんでいる。
「ねーちょっと大袈裟すぎない? もう痺れのピーク過ぎたでしょ?」
「過ぎてるけどさ……、痛いのは足じゃないんだよ」
「どこ?」
「ここ」
ショーリは自分のお腹をさする。
「あ、お腹か! ちょっと見せてよ。僕に見せるのならヘンな気も起こらないだろ?」
「当たり前だろ」
「見せて見せて!」
苦笑しながらショーリはTシャツを捲り上げて腹部を見せてくれた。
「うわー……ひどいな……。こっちも色が変わってるね……」
ショーリのお腹は二度強烈な蹴りを喰らって痣が出来ている。蹴った二人組の一人の方は爪先が鋭角な革靴を履いていたので、そっちで蹴られた方なんか銃弾で撃ち抜かれたみたいな赤黒っぽい痣になっていた。
「もしかしてこれを真柴さんに見せたくなくて、さっきあんなセクハラまがいの台詞を言ったの?」
「そうだよ。きっとこれを見たら真柴さんなら気にしちゃうと思うんだ。でもそうやって気を使われるのも嫌だし。僕は真柴さんとは対等でいたいんだよ。……弱すぎてまだ全然同列じゃないけどね」
ショーリのお腹の痣と顔の痣を交互に見てみる。
それぞれ色の濃さの違う赤い痣が今の僕にはそれがショーリだけが持つ、紅い勲章に見えていた。
この勲章は勇敢な者しか持てない勲章だ。
あの時足がすくんで動けなかったちっぽけな自分が、むしょうに恥ずかしかった。