【 5 】
「北原っ!?」
激しく身をよじって男の手を口元から強引に外した真柴さんが叫ぶ。やっぱあいつは僕なんだ!!
……いやストップ。それは倒れているそこの僕に失礼だ。
だってそっちの殴られた僕はためらいもせず真柴さんを助けに行った。そこの僕は僕だけど、すごく勇敢だ。少なくても臆病な僕じゃない。
それによくよく見ると道路に落ちている眼鏡も僕のタイプと全然違うし、髪型もほんのちょっとだけ違う。顔はどうみても僕だけど。
「今助けるよ真柴さんっ!!」
勇敢な僕は口の端から流れる血を拭って素早く立ち上がると、もう一度男たちに向かって突進して行った。おっここから反撃!? もしかしてそっちの僕ってかなり強いの!? やった!! いけーっ!!
「ぐほっっ!!!」
不細工ブラザーズの狙いすましたような強烈な蹴りが愚かな勇者の腹にクリーンヒットする。
…………なんだよ、全然弱いじゃん…………。
やっぱり僕は僕だった。
腹を抱えてうずくまり、背中をアルマジロみたいに思い切り丸めてゲホゲホと咳ごむその姿は傍から見ていてかなりカッコ悪かった。
「北原!! お前弱いくせに何やってんだ!!」
不細工ブラザーズに身体を押さえつけられながらも真柴さんが再び叫ぶ。なんだかちょっと怒っているようだ。そうだよね、全然いい所ないもんね。
でも真柴さんに怒られてもみっともないもう一人の僕は諦めなかった。路地に少量の胃液を吐き切った後、また立ち上がり、拳を固めて男たちに向かって行く。
…………なんでっ!? どうして敵わないと分かってて行くんだよ、そっちの僕!?
ほら真柴さんだって怒ってるじゃないか! ここは一旦逃げて誰か助けを呼びに行くべきだろ!? そうだろ、ねぇそこの僕ってば!
「ぎゃははっ、何度やったって同じだっつーの!!」
さっき蹴りをぶち込んで来たのと反対の男が、諦めの悪い僕の腹を容赦なく再び蹴りつける。急所にもろに入ったらしく、再び苦しげな呻き声を上げて大地に思い切りキスをしている脆弱なもう一人の僕。そしてピクリとも動かなくなった。
「へへっ、気を失いやがった。しかしこいつ脳みそ足りねぇよな。勝てないと分かってんのにまた向かってきてよ」
「女の前でいいとこ見せたかったんじゃねぇの? 逆にやぶ蛇になってるがな」
気を失っている僕を嘲りながらゲタゲタと笑う不細工ブラザーズ。でもその油断が隙を生んだ。そしてその隙を男たちに捕まっていた真柴さんは見逃さなかった。
「ぎゃょよぅうわあああぁぁぁっ!?」
男の一人が何とも言えない滑稽な叫び声を上げてぴょんぴょんとウサギのように飛び出す。もう一人が「どうした?」と聞こうとしたようだが、すぐにそっちも同じような奇声を上げてちょっぴりレゲエ風の阿波踊りを踊り出した。
「お前らみたいな腐れ外道にこんな袋はいらないんだよ!! このまま去勢してやるから有難く思え!!」
あぁなんとも勇ましい、男の僕が聞いている分には震え上がるような台詞を吐きながら真柴さんが男たちの股間を素早く、そして的確に渾身の力で蹴り上げたようだ。
「あううぅぅぅぴぃやぁああ……」
“ 手心 ” という言葉を知らないのか、こっちの真柴さんはとにかく容赦が無い。
二度目の蹴りつけを喰らった方の男の体が小さく痙攣し始めた。
あぁなんて痛そうなんだ……。真柴さん、その攻撃、女性の君には分からないでしょうが、ある意味死ぬより苦しい痛みなんですよ?
「ちっ畜生!!」
まだ一度しか去勢手術を受けていない方の男が股間を押さえ、よろけながら運転席に乗り込む。そして助手席のドアを中から開け、「乗れ!」ともう一人に向かって怒鳴った。
ほうほうの体でもう一人もそこから乗り込むと、車はとてもよれよれと、元気な心電図のような激しい起伏のあるおかしなラインを取りながら逃げ去って行った。
「チッ、潰し損ねたか」
またしてもそんな恐ろしい台詞を吐き、鋭い目つきで忌々しそうに車を見送る真柴さん。こ、怖い……。
「おい北原!! 起きろ!!」
真柴さんは路地にうつ伏せに倒れているぼろ屑のような僕に近寄ると、硬い声で命令をした。
しかしもう一人の僕はまったく反応しない。そうだよな、あれだけ思い切りやられたら気も失っちゃうよね。
真柴さんは地面に膝をつき、土埃だらけの僕を抱え起こした。そして制服のスカートのポケットからハンカチを出し、その顔を拭き出す。
「馬鹿が……」
聞き取りづらかったけど真柴さんは確かにそう呟いた。
そうだ、そこの僕はバカだ。真柴さんの仰るとおりです。助けられないのを分かっているくせに何度も向かっていって、結局は真柴さんは自力でピンチを脱出しちゃったしさ。だからもっと罵倒していいよ真柴さん。どうせ僕なんだから。
でも電柱の影からそっと身を乗り出し、真柴さんの表情を見た僕は驚いた。
さっきまでの真柴さんの鋭い目つきはとっくに消え去っていて、今はその目にたくさんの涙を溜めている。でもとうとう堪え切れなかった涙が失神している可哀想な僕の頬の上に一粒ポタリと落ちて、慌てた真柴さんはそれも汚れと一緒に拭っていた。
「…………あ、真柴さん? 大丈夫だった?」
落ちた涙のせいか、カッコ悪いヒーローがようやく目を覚ましたみたいだ。
「だっ大丈夫に決まってるだろ!」
「……今もしかして泣いてた?」
「なっ!? な、泣いてるわけないだろうこの私が!!」
ゴツン、と音がした。
真柴さんがいきなり立ち上がったせいで、路地に再び投げ出されたあっちの僕が後頭部を地面に強打した音だ。
「いったたた……。ひどいなぁ真柴さん」
「ひどくないっ!! い、いいか北原!? 言っておくが、私はお前に助けられたなんて一ミクロンも思ってないからな!?」
「……うん」
「だから感謝もしないっ!! 絶対にしないからなっ!!」
「うん分かってるよ」
路地から身を起こして傷だらけの顔で笑う健気な僕。なんだい、その爽やかな笑顔は。
しかし真柴さんの口撃はまだ止まない。
「北原!! お前がもっと強かったら、私をちゃんと助けられたら、ほんのちょっとぐらいは感謝をしたかもしれないが、結局お前が弱いから悪いんだ!!」
「ほんとそうだよね」
「くっ……! だっだからお前が弱くなかったらもっと早く解決していたんだぞ!! 本当に分かってるのか!?」
でもいくら真柴さんがイライラした口調でその可愛い顔をキリキリに尖らせて、すごく勝手な言い分で呑気な僕を叱責し続けても、暖簾に腕押し状態はまったく変わらない。
「うん、真柴さんの言うとおりだよ」
「このバカ!!」
なんでもイエスで頷いてしまう僕にとうとう真柴さんがキレた。怒りをこめてダンッと強く地面を踏み鳴らしたせいで長いポニーテールと短いスカートがフワリと宙を軽やかに舞う。
「北原ッ!! お前にはプライドが無いのか!? 女の私にここまでバカにされて悔しくないのか!?」
「そりゃあもちろん悔しいよ。でも真柴さんの言うことは事実だ。僕が弱いから君を助けられなかった事実を認めなきゃ前には進めないしね」
またしても爽やかな笑顔。
……へぇ、僕ってこんな風に笑えるんだ……。
「もういい! 私は先に行くからな!!」
真柴さんはそう言い捨てると背を向けて歩き出した。しかし道の先に転がっている緑フレームの眼鏡を見つけると黙ってそれを拾い、クルリと踵を返してまだ微笑んでいるプライドの無さそうな僕の鼻先にズイと突き返す。
「ありがとう」
笑顔で受け取った礼儀正しい僕に真柴さんの顔が赤くなった。
「いっ、いい加減にしろ!! お前と話していると体内を流れる気が乱れる!!」
最後にそんな訳の分からない事を言って真柴さんは走り去って行ってしまった。
もう一人の僕は真柴さんの後ろ姿を眼鏡片手に名残惜しそうに見送り、ふぅ、と息をつくと制服の埃を丁寧に払い始めている。
……なんだろう、さっきまでメチャクチャカッコ悪いと思っていたもう一人の僕。なんだか今はちょっとだけカッコ良く見えるや。少なくてもこうやって電柱の陰に隠れてブツブツとネガティブなことを考えてばかりのこの僕よりは百万倍カッコいい。
ちょっぴり感動した僕は思わずふらふらと電柱の陰から出てしまった。
あらかた埃を払い終わり再び眼鏡をかけたもう一人の僕が、ふらりと現れた僕を見る。
「……エ……?」
まるで幽霊を見るような目つきだった。
眼鏡や髪型などのディテールはともかく、全体像がこれだけそっくり似たような人間がいきなり現れたら誰だってこういう反応をするだろう。分かるよ。
「お、おはよう…」
自分で自分に挨拶するなんて初めての経験だ。
「きっ君、誰!?」
「えっと、僕、北原勝利」
「それは僕の名前だ!!」
「うん知ってる。実は僕もまだよく理解出来ていないんだけど、どうやら僕は君みたいなんだよ。不思議だよね」
僕のこの言葉についさっきヒーローになり損ねた僕が呆けた顔になった。
「だって僕も北原勝利だし、君も北原勝利なんでしょ? なんでこうなったのかは分からないけど君と僕は二人いるみたいで……」
「うわああああああああぁぁぁぁぁっっっ――――!?」
エコー効果たっぷりの叫び声を上げながら、混乱しているもう一人の僕は反対方向にそのまま逃げ去り始める。
「あ!! ちょっと待ってよっ!! まだ話は終わってないんだけど――!?」
しかしもう一人の僕は足を止めてはくれなかった。その姿はあっという間に見えなくなる。
ズルいや、自分だけパニくってさ。僕だってまだ混乱しているってのに。大体、なんで僕が二人いるわけ?
それに真柴さんもやっぱりおかしかった。
だって僕の知っている真柴さんはあんな蓮っ葉な言葉遣いの乱暴な女の子じゃない。天女のような微笑みを持つ、優しくって可憐な女の子だ。
足元で何かが光っている。
拾い上げてみるとそれは真柴さんのヘアピンだった。
いつも長い黒髪を押さえている合計四本のヘアピンの内の一つ。そういえば今はポニーテールにしていたからこめかみの後ろ部分についてたっけ。
そしてこのヘアピンを見て僕は今逃げ去ったもう一人の僕や真柴さんがおかしいのではなく、自分がここで異端の者なのかもしれない、と思い始める。
だって拾ったこのヘアピンは真っ赤な色だ。
ついさっき僕と話をした優しい真柴さんのヘアピンはとってもきれいな桜色だったのに。