【 4 】
真柴さんがもっと先に行ってくれるまで時間を潰さなくっちゃ。
余裕をもって家は早く出ているけど念のために腕時計を見てみる。
AM 7:50分。
うん、学校が始まるまでまだ時間もあるし大丈夫だ。
その場から十メートルほどバックし、「立ち入り禁止」と立て札の置かれている空き地に突入する。
道路との境目には数本の有刺鉄線が張られていたけど、それは随分前に張ったものらしくてダルダルに緩んでいたので簡単に跨げた。
入ってみると中は草がぼうぼうで笑っちゃうぐらいの荒れ放題。形の良くない木も数本生えているしこの土地の持ち主さんが全然手入れしていないのが簡単に見て取れた。
しかしすごい元気な雑草だよな……。場所によっては僕の腿まで隠れちゃうぐらいの長さがある。
半端じゃなく伸びまくっている背の高い雑草を踏みしめて奥へと進んでみるとちょっとした冒険気分が湧き起こってきて、なんだか幼児に戻った気分だ。でもそんなに広くない土地だからすぐにブロック塀に突き当たってしまった。
この塀、妙に高い。
普通、家のブロック塀ってせいぜい二メートル前後なのに、この塀はその倍はあるから向こう側が見えないや。僕のポテンシャルなら乗り越えられそうもない。
何気なくブロック塀に手をついてみてその冷たさにビックリした。
なんでこんなに冷たいんだろう? 今は五月でこんなにいい陽気だし、この部分は日陰になっているわけでもないのに……。
違和感を覚えたので手を触れたまま塀沿いに右に歩いてみると、足元に雑然と生えている雑草に何度か足を取られて転びそうになった。あまりに何度も頻繁に足を取られるので、「そっちに行くな」と雑草たちが必死に引き止めているみたいにも感じちゃうよ。そんなことは絶対ないだろうけど。
「あれっ」
それを見て思わずそう声に出てしまった。
壁の突き当たり一番下の部分にぽっかりと穴が開いている。
ちょうど人一人がくぐり抜けられそうな四角い穴。真実の口に雰囲気が似ている。
―― なんでこんな場所に穴が開いているんだろう? この穴になんの意味があるんだろう?
頭の中にクエスチョンマークが乱舞し始める。
跪いて雑草を手で押さえ、その穴から向こう側を覗いて見た。
向こうもこちらと同じような光景だ。びっしりと背の高い草が生えていて様子が良く見えないけど、どうやら向こう側も空き地らしい。
「勝利兄ちゃんはヘタレだなぁ」と弟たちによく言われている僕だけど、この時は珍しく好奇心が勝って向こう側を見てみたくなった。
教科書やノートやファイルでパンパンになった鞄を脇に置き、上半身を穴の中にくぐらせてみる。
うん、いけた。
なんとか壁をくぐり抜けることに成功だ。顔に覆い被さってくる雑草を手で払い除けながら立ち上がる。
……あぁなるほど、こっちの道に出るのかー。
通学路じゃないから普段は通ることもない道だけどそういえばこっち側の空き地も見たことがある。
そうだ、せっかくだからこっち側の路地から学校に行こうかな。少し遠回りになりそうだけど、こっちの道から行けばもう真柴さんとニアミスすることも無いだろうし心安らかに通学できるよ。うん、そうしよう。
向こう側の空き地に置きっぱなしの鞄を取りに戻ろうと再びしゃがみこんだその時。
「触るなっ!! 変態共ッ!!」
背後から闇を切り裂く……じゃなかった、朝の爽やかな空気を切り裂く女性の怒鳴り声だ!
体が一気に硬直する。それはか弱き女性がピンチになっている、という焦りだけからくるものだけではなく、その怒鳴り声がすごく聞き覚えのある声だったからだ。
とりあえず鞄を取るのは後回しにして雑草ジャングルを急いで横断し、路地に飛び出して声が聞こえてきた方角を急いで見る。そして目に飛び込んできた光景に僕は愕然とした。
―― 真柴さんがガラの悪そうな男二人連れに絡まれてるー!!
しかも真柴さん、君は僕の前を歩いていたはずなのに、どうしていつの間にそこに!?
それに髪型もいつポニーテールにしたの!?
……って、あれれ?
素早く空き地横の電柱脇に身を隠し、丸い黒ぶち眼鏡を外して一旦目をこすった。そして再び眼鏡をかけて前方を凝視してみる。
「何すんだよこの不細工野郎っ!! そんな農耕馬みたいな間抜け面でこの私に触ろうなんて図々しいにもほどがある!! まずは自分の遺伝子を恨んでその小汚い顔を整形してから出直してきな!!」
……真柴さん? えーと君は真柴さんだよね? 『芽羊の小さな白百合』と名高い、あの真柴比奈子さんだよね? 君はそんなに下品な言葉も使うことが出来ちゃうの?
うーん知らなかった。さすが入学早々学年一斉に行われたテストで上位にランクインした才女さんです。なんの取り得も無い僕なんかと違って色んな面をお持ちなんですね……。
僕は感心しながら真柴さんがガラの悪そうな男たちに勇ましく啖呵を切っている光景を電柱の影から眺めていた。
「何いいッ!? 可愛いかと思って調子に乗ってんじゃねぇぞ!!」
「うるさい本当の事を言ったまでだ!! いいからさっさと行け!! あんたらみたいなクズと同じ場所の空気を吸っているなんて考えただけでもおぞましいんだよ!!」
「なんだとテメェ!!」
コケにされた不細工ブラザーズも黙っていない。
片方の男が背後から真柴さんの両手首を掴み、後ろ手に捻り上げる。ポニーテールが大きく揺れ、真柴さんの顔が苦悶の表情になった。
「離せっっ!! 小汚い手で触るなッ!!」
「ウへへ、所詮は女だな。掴まえちまえばなんてことねぇじゃん」
「姉ちゃん、あんたの気の強さもここまでだ。三十分もしない内にあんたは素っ裸で俺たちの下でひぃひぃ泣き叫んでいるぜ?」
不細工ブラザーズは下卑た声でぐふふと笑い、下品極まりないことを言われた真柴さんの顔色が変わる。
「クズ共がッ!! 恥を知れ!!」
「おい、叫ばれたら面倒だ。口塞いどけ」
「おう」
「やめっ…! ぐぅっ…!!」
手首を掴んでいない方の男が真柴さんの口を塞ぐ。真柴さんは苦しそうに暴れているけど、男二人がかりなので無駄な抵抗に終わっている。
ど、どうしようっ!?
今この路地には他に僕しかいない。ということは、僕が助けないと真柴さんはこのままどこかに連れ込まれてこの男たちに無理やり…………!
足が震えて来た。
でもどう考えたって僕があの男たちに敵うわけがない。自慢じゃないが僕はかなりの非力だし、ケンカだって生まれてこの方した事が無い。内気で根暗な僕を同級生達がたまにからかってくる時も、一切抵抗せずにひたすらおとなしく耐えて嵐が過ぎ去るのをじっと凌ぎ続けているくらいだ。
だから僕の人生辞書に 【戦う】 という文字は無い。
この先の僕の長い一生の途中でたまに発行されるであろう改訂版にも、その言葉が新たに書き加えられることはきっと一生無い。
【忍ぶ】
【耐える】
【篭る】
【閉ざす】
【堪える】
【逃げる】
等、後ろ向きの単語なら満員御礼、超飽和状態なんだけど。
「ん――! んん――っ!!」
あぁっ真柴さん!?
真柴さんは必死に抵抗しているけど、側に停めてあった車に強引に乗せられてどこかにさらわれようとしている!!
た、助けなきゃっ!! 今は僕しかいないんだから!!
そうは思うんだけど怖くてやっぱり体が動かない! で、でもっこのままじゃ真柴さんが……!!
「待て!!」
路地の奥から響くちょっと高めの声。
あぁ良かった! 誰かが助けに入ってくれたよ!
「その人を離せ!!」
…………え!? あ、あの、この声もどこかで聞いたような気がするんだけど……?
「なんだテメェ!?」
不細工ブラザーズがそのインパクトのある顔面で思いっきり凄んでも、聞き覚えのあるその声の主は怯まなかった。
「僕が誰だっていいだろう!! すぐにその人を離せ!!」
声の主は不細工ブラザーズの大きな身体に隠れて見えない。でも、この声ってもしかして……? いや、まさか、そんなことあるわけない! だって、だってさ……。
「すっこんでろや!! このボケがああぁぁぁああ!!!!」
ゲシッという嫌な音がして、一人の少年がこちらに向かって吹っ飛んできた。
ワンテンポ遅れ、その後を追うように緑色のフレームの眼鏡が大きな放物線を宙に描く。そして目の前の路地にズダンと背中から勢いよく落ちたその人物を見た僕は言葉を失った。
―― そこには、 僕、 がいた。