【 3 】
僕は自分の名前が嫌いだ。
父さんと母さんが一生懸命考えてくれた名前なんだろうけど、根暗な僕にこんな雄雄しい名前は似合わない。
どんなに辛いことがあっても決してへこたれずに成功を収めるような男の子になって欲しい、そんな過大な願いをこめてつけられたこの「勝利」という名前は、何のとりえも無い僕には重過ぎてたまらない。
でもこんな僕だって、幼い頃は大きくなったらこの名前どおりに勝利を手にするヒーローになれると思っていた時期はあった。
小学校の入学お祝いで、父方の叔母さんが買ってくれた 『 ヒーローになったボク 』 という子供向け絵本。その絵本に幼少の僕は感化された。
きっとこの物語に出てくる主人公のように、大きくなった僕は腕っ節も強くなって、見かけもカッコ良くなって、すごく可愛い彼女ができている、そんなリア充な毎日を送るんだろうなと信じていた時期もあった。
でもその理想の生活は、ただの淡い夢、儚い幻、滲んだ妄想、揺らぐ蜃気楼、脆い砂上の楼閣だったんだ、ということに気付いてしまったのはいつの頃だったろう――。
だって現在十三歳になったばかりの僕は相変わらず弱虫だし、マイナス思考をさせたら右に出るものはいないくらいのネガティブ人間だし、女の子の前では上がりまくっちゃうし、勉強だってそんなに出来る方ではないし、見かけも中肉中背で顔にも何も特徴が無い。とにかく悲しくなるくらい際立った良い所が一つも無い薄っぺらな人間なんだ。
だから僕はいつも思っている。もし僕がこの世からいなくなってもきっと誰も悲しまないだろうな、って。
十三年前、僕が生まれた年に貰ってきた柴犬のプーギーが去年死んだ時、僕ら家族は皆それぞれ悲しんだ。
母さんが一番泣いていた。父さんは涙は流さなかったけど目は赤かったし、弟たちは泣きながらしきりに鼻をすすっていた。
いつも笑顔な家族がみんな泣いている。
初めて見たその光景は僕にはちょっとした衝撃だった。
だからつい考えちゃうんだ。
もし僕が何かのアクシデントで死んだ時、プーギーの時ほど家族が泣いてくれなかったらどうしよう、って。
さすがにまったく悲しまないってことはないだろうけど、僕には二人も弟がいるし、弟たちは僕と違って性格はどっちも明るい。だから家族が僕のためにきっと涙を流してくれたとしてもそれは一時のことで、僕のいなくなった穴は陽気で元気な弟たちによって簡単に埋められてしまうんだろう。
いつも結論はそこへ辿り着いて空しく終わる。
それに仲の良い友達は今のところ皆無、と言ってもいいほどだし、だから僕がこの世から消えたとしてもきっと嘆き悲しんでくれるクラスメイトなんて誰もいないはずだ。
……そう、今、僕の数メートル先を歩いているあの真柴比奈子さんだって……。
お葬式のあの独特の雰囲気に感化されて泣いてしまう女の子のクラスメイトはもしかしたら少しぐらいはいるかもしれない。真柴さんもクラス委員長として代表の弔辞をハンカチを目頭に当てながら涙声で読み上げてくれるかもしれない。
でも所詮はそこまでだ。
僕のお葬式がすべて滞りなく終わり、鉄壁の狭い空間の中で踊り狂う紅蓮の炎によって僕の体が煙へと姿を変えて天にゆらゆらと還っていく頃には、泣いてくれた女の子たちも僕のことなんてもうとっくに忘却の彼方で、その夜に放映される恋愛ドラマの続きの方がよっぽど気になっていたりするんだろう。
その事が寂しくない、と言えばもちろん嘘になる。
確かに寂しいけど、でも周囲と自分の位置関係は、臆病な分、誰よりもきちんと認識しているつもりだからそれも仕方が無いことなんだ。
だって僕はミジンコ級の人間だから。
……それにしても今日は本当に空が青いなぁ。
こんなに青い空なのにこうやって根暗なことをじくじくと考えて続けている自分が情けなかったりもするけど、でもこれが僕だから。
少し先を歩く真柴さんとの距離をもっと開けようと歩幅を狭くする。
あぁ、どうして僕はこうなんだろう。 本当は彼女の側に行きたいくせに。 彼女ともっと話がしたいくせに。 彼女に僕を、僕だけを見てもらいたいくせに。
…………なんて大それたことを考えているんだ、僕は。
「僕だけを見てもらいたい」だって?
恐れ多いにもほどがあるじゃないか。あの真柴さんだよ?
綺麗な流れる黒髪に優しい微笑み、今年の芽羊の新入生の中で一、二を争う可愛さだと評判のあの真柴さんに、「僕だけを見てもらいたい」?
もうありえない。それは本当にありえない。
この世に真の破滅の時が訪れて、伝説のノアの箱舟がお台場上空に突如現れること以上にありえないことだ。
あぁそうか。今日はあまりにも快晴だから僕のネガティブ思考も多少の影響を受けちゃって今いちエンジンのかかりが悪いんだ、きっとそうだ。
というわけで、さよなら真柴さん。お願いですからとっとと先に行っちゃって下さい。そしてもう少し早く歩いてくれると助かります。
こんな情けない奴ですが、一応僕も男なんで君よりは歩幅が広い。だから真柴さんに追いつかないようにこうやってチマチマと皇帝ペンギンみたいに歩いているとそれなりに疲れるんです。
ペンギン歩きに疲れたので一旦、足を止めてみた。
相変わらず真柴さんはとてもゆっくりと先を歩いている。少しだけその場に留まってみたけど、真柴さんとの距離はあまり変わっていない。早足に切り替えて黙って横をすり抜けていくのも感じが悪いだろうし、困ったな…………。すぐそこの空き地で時間を潰すしかないか。
優柔不断な僕にしては珍しく早い決断だった。
心の中でもう一度さよなら、と言うと僕は真柴さんにそっと背を向けた。