【 4 】
マンション内に入ったトシさんはエレベーターには見向きもせず、そのままホールを突っ切って右に曲がると突き当たりにあったドアに歩み寄って行く。あ、真柴さんの家って一階なんだ。
1011と刻印されたドアの前に着くとチャイムを鳴らす前にキィ、と小さく玄関の扉が軋んでその細い隙間から真柴さんがほんのちょこっとだけ顔を覗かせた。
わぁこっちの真柴さんは髪が短いや! ショートカットの真柴さんも可愛いなぁ!
並んで現れた僕らを見て真柴さんは小さく息を呑む。
「北原さんは双子さんだったのですか……?」
「違うよ。どっちも僕だよ」
トシさんの省略しまくったぶっとび説明に、真柴さんが「私よく分かりません」と言いたげに小さく首を傾けた。うわぁ、その仕草もすっごく可愛い!
一人内心で大盛り上がりの僕をよそに、トシさんが一生懸命説明を始めている。
「真柴さん、こっちの僕はね、わざわざ異世界から幾多の危険や障害を乗り越えて、ここまではるばるやってきたんだ。それは君に会うためなんだよ。それなのにそんな場所から覗いてるだけじゃ、苦しんで血を流しながらも必死にやってきたこっちの僕があまりにも可哀想だと思わないかい? 君が少しでもそう思うならそこから出て来てこっちの僕と話しをしてやってほしいんだ」
―― この人、話を思い切り捏造してるよ!
いつ僕がそんな宇宙を股にかけるような大冒険をしてきたっていうんだ。しかも、別にこの世界の真柴さんに会いにきたわけじゃないし。確かに可愛いけど。
それよりも「異世界から来た」とかまで言っちゃっていいのだろうか。真柴さんに電波な男子だと思われたらどうするんだろう。
「さっきも来たばかりなのにまた来ちゃってごめん。でもこっちの僕のために話をしてやってほしいんだ。頼むよ真柴さん」
真横にチラリと視線を走らせると、真柴さんを説得しているもう一人の必死な僕がそこにいる。
玄関の隙間から何とかこっち側に来させようととにかく必死だ。さっきまでの大人びた落ち着きなんか、今はほとんど影を潜めてしまっている。
……あ、また湧き起こってきちゃった、僕の余計な助っ人心が。
でも僕はもう余計なことはしない。
そんな偽善的なことをしてもどうせ上手く行ったら行ったで、後でまた僕の中にどす黒い気持ちが出てきてそれに苛まれるんだから。嫌だ、もうさっきみたいな気持ちになるのは絶対にごめんだよ。
「ちょっとだけでいいんだ。逃げないでこっちの僕と話をしてあげてくれないか? お願いだよ真柴さん」
必死なもう一人の僕。
そして真柴さんが玄関から出てきてくれたら今度はこう誘うんだろう、「一緒に学校に行こう」って。
僕はそのための撒き餌だ。
真柴さんを誘い出すために必要な餌。
用が済んだらさっさとお払い箱の擬似餌。
はは、どうにもこうにも僕らしいピッタリの役だよな……。自嘲度100%でそう思う。
お腹がぐるる、と小さく鳴った。
あれ、朝ご飯は食べてきたのにもうお腹が空いたのかな?
でも次の瞬間に分かった。
今の音はさっきトシさんが僕に淹れてくれたホットミルクを胃袋が消化を始めている音だ。 「落ち着くよ、飲んで」と言って渡されたホットミルク。
そっとお腹に手を当ててみると、今もここだけがまだほんのりと温かいような気がする。
そう感じたのは体内に吸収してしまっているミルクの温かさがまだ残っているからじゃなく、トシさんの僕に対する優しい気持ちのおかげなんだろう。
それに気付いた時、僕の中にずっとこびりついていた黒い気持ちが粉微塵に砕け散ったような気がした。
「あの真柴さん。本当にちょっとでいいんで僕とお話してくれませんか?」
……言っちゃった。でもいいや。 後でまたどす黒い気持ちになったとしても、僕がそれを一人で抱え込めばいいだけの話だ。
今は真柴さんから学校に行かなくなった理由を聞き出し、なんとか学校へ行くように説得してみよう。それが僕に優しくしてくれたトシさんの望むことなら。
これこそ一宿一飯ならぬ、一宿一ホットミルクの恩返しってもんだ。
真柴さんは僕をちらちらと見ながらまだ悩んでいるようだ。
よし、こうなったら!
覚悟を決めた僕はおでこを廊下にこすりつけんばかりの勢いで、その場でガバッと膝を折る。
「お願いです!! どうか少しでいいんで、僕と話をして下さい!! ここまで死ぬような思いで旅をしてきたんです!! あなたと少しお話したら僕はおとなしく元の星に帰りますからっ!!」
トシさんがいきなり土下座を始めた僕を唖然とした顔で見下ろしている。もちろん玄関扉の隙間からこっちを見ていた真柴さんも同じようにビックリしているみたいだ。
でもいいんだ。どうせ守るようなプライドなんてミジンコの僕は元々持っていないし。
「真柴さんっ、お願いしまぁすっ!!」
「ほ、ほら、ここまで必死に頼んでるんだ。頼むよ真柴さん」
「どうかお願いしまぁすっっ!!」
「真柴さんっ」
同じ声で何度も代わる代わる懇願され、やっと真柴さんはおずおずと玄関扉の奥から僕らの前に出てきた。
「……ど、どちらでお話すればよろしいですか……?」
真っ白なワンピース姿で出てきた真柴さんはとても可愛いけどなんだか虚無的な感じがした。
生気が感じられない、というか、常に悲哀を感じさせるというか、このまま空気中にゆらゆらと消えていってしまいそうな感じさえする。
「このすぐ先に公園があるからそこでいいだろ?」
トシさんが何かを言いたげな顔で僕を見るとそう促す。
うん、と小さく頷き、残りの言葉はアイコンタクトで返した。
―― そうだねトシさん。やろう。僕らで真柴さんを説得しよう。
「あ、あの……ちょっと待っててくれますか?」
真柴さんはそう言うと一度家の中に入り、再び玄関の扉を開けて出てきた。右手に紐のようなものを持っている。
「真柴さん、それ、何だい?」
「リ、リードです」
リード? リードって犬の散歩に使うアレ?
「犬は連れて行かないのかい?」
トシさんの言葉に真柴さんは悲しそうに俯いた。その表情で今の質問は聞いてはいけないことだったんだ、と僕ら二人は同時に察する。
「真柴さん、行こう?」
静かに真柴さんは頷いた。