【 1 】
―― 僕はまた自分の部屋にいる。
もちろん自分の部屋といっても本来の僕の部屋じゃないけど。
道端で突然幽体離脱でもしたかのような放心状態の僕を心配して、二つ目の世界の僕がここまで運んできてくれたからだ。
この家にも今は誰もいないみたいだ。母さんの事を尋ねると、この世界の母さんはフルタイムで働いているらしい。
もう一人の僕が「落ち着くから」と淹れてくれたホットミルクを啜りながら部屋の中を見渡す。
この世界の僕は勉強家のようだ。部屋の中にはハンドグリップの代わりに広辞苑や参考書が整然と並べられている。
「怪我はないかい? さっきは済まなかったね。遅刻しそうになっていたものだから周りをよく見ないで走ってしまっていたんだ」
ふぅん、優等生そうなのに遅刻しそうだったんだ。意外だな。
「シャツ落としちゃってたけど汚れなかった?」
「うん大丈夫」
僕はそう言うとショーリにもらった開襟シャツの背中を捲り上げ、スラックスのウエスト部分にスクールシャツを挟み込んだ。これでもう落とさないだろう。
「でもなんで芽羊の指定シャツなんか持って歩いていたんだい?」
「ちょっと色々あって。それより学校に行かなくていいの?」
「もちろん行くよ。君が落ち着いたらね。だってさっきの君、あのまま気を失いそうなぐらい真っ青な顔をしていたからさ」
「……ごめん、迷惑かけちゃって」
「いいんだ。なんだか君とは初めて会った気がしないし。それよりさ、どうして僕たちはこんなに似ているんだろう? 見かけは少し違うけど顔のパーツがそっくりすぎる。まるで別々の場所で育った双子みたいだ」
ショーリと同じような事を言ってるや。
ついでだからショーリとシンパシーを感じるきっかけになったこの質問をぶつけてみようかな。
「あのさ、君ってクラスの皆からなんて呼ばれてる?」
「クラスの皆から?」
僕の突然の質問に、もう一人の僕は銀縁眼鏡の奥の目を瞬かせた。
「男は普通に北原で、女の子からは北原くんって呼ばれてるよ」
「ふーん……」
ヘンなあだ名つけられてないのかぁ。ちょっぴり、いや、かなり落ち込む。
でもそうだよな、頭良さそうだし、親切だし、今のところマイナス点なんて見つけられないもん。
僕が暗い顔で黙り込んだせいか、「でも親からはトシって呼ばれてるけどね。だったら最初からその名前にすればよかったのにって思ってるよ」ととってつけたように付け加えてきた。
「でもそれがどうかしたのかい?」
「……別になんでもない。じゃあ僕らの顔が似ている理由を話すから疑わないで冷静に聞いてくれる?」
一応そうは言ったけど、大人びているこの人なら大丈夫だろう。最初から全然動じていなかったし。
そこで僕は自分の名前も北原勝利だということ、そして今朝体験してきた出来事を一からトシさんに話してみた。するとトシさんは目を輝かせながら最後までとても熱心に聞いてくれた。
「すごい! すごいよ! 君がパラレルワールドから来たもう一人の僕だなんて!」
うわっ、なんかすごい喜びようだな……。
よくよく見るとトシさんの後ろの本棚にサイエンス系の雑誌がいっぱいある。この世界の僕はSFが好きなのかも。
とにかくあっさり信じてくれて良かった。分かってくれるまで何度も根気よく説得し続けるのももう面倒だし。
「それで君が通り抜けてきたパラレルワールドの入り口ってどこにあるんだい!?」
「……もしかして君もくぐってみようとか考えちゃってる?」
「是非行ってみたいね! だってすごいじゃないか! 本来なら平行に存在し、異なった空間にあるもう一つの世界に干渉出来るなんて夢のようだよ!」
「やめときなよ」
冷たく言い放った僕にトシさんが怪訝な顔をする。
「だって君は現にそうやってここに来たんだろう? 僕も量子理論をぜひこの身で実体験してみたいよ」
「……帰れなくなってもっ!?」
視界にじわじわと涙が滲んでくるのを感じながら、溢れ出してきた負の感情を何の因果関係もないトシさんにぶつけてしまった。
「ぼ、僕っ、帰れなくなったんだ! ここに来る前の世界でもう一人の僕と会った後、同じ穴をくぐったら戻れると思って、僕、勝手にそう思い込んで、今穴をくぐってきたらこの世界に来ちゃったんだ! だから僕はきっと、もう二度と僕の世界には戻れない! こうやって色んなパラレルワールドを幽霊のようにふらふらする迷子になっちゃったんだよ!!」
悠長にハンカチを出す余裕なんかない。黒縁眼鏡を外し、ショーリに貰ったシャツの上袖で涙を拭う。もう一人の自分とはいえ、人前で泣くなんてカッコ悪いと思うけど、涙はどうしても止まらなかった。
「迂闊にくぐると二度と元の世界には戻れなくなるのか……。他の世界に興味はあるけどそれはリスクが高すぎるなぁ……」
トシさんはそう呟いたが僕の涙を見てマズいと思ったのだろう。「軽率だったよ。ごめん」と謝り、優しく声をかけてくる。
「良かったら今日はここに泊まっていきなよ。母さんには友達が泊まるっていえば大丈夫だから。そして君の今後を一緒に考えよう」
「ありがとう……」
僕はぐしゅん、と鼻を鳴らしながらお礼を言った。