2章-1 ゲーム開始
誰もがゲーム開始のときを待っているようだった。
しかし時間は遅々として進まない。少なくとも僕にはそう感じられた。
異様な空気が流れ始めている。八人もの人間が集まっているとは思えないほどに静かだ。
「何だかすげえことになったよな」
サブローがそう言ったとき、皆は曖昧な笑みを浮かべただけだった。
「五千万円が手に入ったらどうします?」
ジャンヌの問いには、貯金だとか南国でのんびりとかいう適当な答えがぱらぱらとあっただけだ。
「みなさん、フェアプレイでいきましょう」
司馬の言葉にも相槌を打つような返事があって終わりだった。それからはもう会話らしい会話は途切れている。
僕は居心地の悪さをもてあましていた。お互いが警戒しあっているのを肌で感じる。激しい競争心を抱きながら、それを懸命に隠そうとしているのがわかる。緊張に張り詰めた雰囲気の中、僕は身動きせずに耐えているしかない。提示された五千万円は、僕たちの間を確実にひび割れさせていた。
でも、もしも本当に五千万円が手に入ったとすれば……。僕は今さらながら、その金額の持つ意味に思いを巡らせた。
現在の僕は、父が残してくれた遺産を食いつぶして生活している。ひとと交わらず、社会にも参加せず、何か目標を抱いているわけでもない。ときにアルバイトをしているのもただの気紛れに過ぎない。意欲があってしていることじゃない。まさに僕は死んだように生きている。
そんな生活も終焉を迎えようとしている。理由は単純なことで、預金がそろそろ尽きるのだ。
僕はずっと無価値なまま生きてきた。無意味な存在だった。
しかしこれからも生きていこうとするのなら、このままでは不可能だ。少なくとも“労働者”という価値や意味を、自分自身に付加しなければならない。食いつないでいくだけの収入を得なくてはいけない。
だが五千万円あれば――そう僕は夢想する。贅沢さえしなければ、このまま働かずとも一生、生きていける。残りの人生があと何年あるのかはしらないが、死の訪れるその瞬間まで、今と同じように生きていくことができるだろう。
じんと痺れるような誘惑に駆られた。それは甘美な毒酒に手を伸ばそうとすることに似ていた。
このままずっと、無価値で、無意味で、死んだように生きていく。変える必要はない。変わる必要もない。
やめろ、愚かなことを考えるな。僕は我に返り、身震いした。断崖絶壁に足を踏み出そうとした寸前に、目が覚めたようだった。自分の考えに飲み込まれてしまいそうな気がした。
このままでいいはずはない。それは決して生活費の問題ではないはずだった。
では何なのか? わからない。わからないからここへ来た。その何かが見つかることを願ってやって来たのだ。
「ねえ、ニトさん」
不意に横からつつかれ、僕はびくりとなった。隣で目を丸くしたあと、小さく笑ったのはライデンだった。
「な、何、どうしたの?」
僕が驚いて訊くと、ライデンは眉を寄せながら声を潜めた。
「どうしたじゃないでしょ。もうすぐゲーム開始なんだから、打ち合わせしようと思ったの」
「へ? 打ち合わせって?」
「いっしょに行くんだから当然でしょ」
僕はきっと、ぽかんとした顔つきをしたのだろう。途端にライデンの瞳に険が差した。
「何よ、ひとりで行こうとしてたの?」
「いや、そうじゃなくて、ライデンさんはサブローさんといっしょなのかなって」
「ちょっと、冗談はやめてよ。どうしてわたしがあのひとといっしょに行くのよ」
「でもずっと話してたろ」
「別にサブローさんとだけ話してたんじゃないわ。わたしは情報を集めてたんだから」
言ってから、ライデンは何かを思いついた顔つきをした。
「あれ? もしかしてニトさん、妬いてたとか?」
僕は慌てて首を振った。
「ち、違うよ。ただ単にそう思ってただけで……」
「ふうん? ま、いいけど」
まだ疑わしそうな目をしながらも、ライデンもそれ以上は何も言わなかった。そして正直、僕はほっとする。嫉妬という感情について告白するなら、少しはあったと思う。
「それで何を話し合えばいいのかな」
「そうね、まずは手に入れたお金はふたりで山分けする。これは絶対の約束」
「二千五百万円ずつってことだ」
おどけた調子で言うと、十分でしょ、とライデンは自信あり気な笑みを含ませる。
「それと、どちらかが失敗しても相手を責めないってのはどう?」
「構わないよ。僕ばかりが足を引っ張りそうだけど」
「それはどうかしら。わたしの鈍さを目の当たりにしてから、約束を反故にしないでよね」
ヘンなことで胸を張るライデンに、僕は笑ってしまった。周りの様子はさっきと変わらないのに、僕の心からはいつしか重苦しさは消えている。
「あとは何かあるかしら」
「必ずゴールまで行動をともにするってのは?」
僕の提案に、ライデンは指を鳴らした。
「それ、いいわね。お互いを決して見捨てないってことね」
「そんな大げさなつもりじゃないけど、まあ、仲良く行こうよってことかな」
「うん。それが一番大切かもね」
ライデンが小指を立てた手を前に出した。半瞬の間を置いて、僕はその意図を悟った。指きりげんまん。僕たちのささやかな誓いの儀式だった。
結んだ小指が離れたとき、ライデンが言った。
「伊東香澄」
「え?」
「わたしの本名よ。伊勢の伊に東と書いて伊東、あとは香るに水が澄む。今からわたしたち相棒なんだから、ニトとかライデンなんて呼び合うのヘンでしょ」
そう言って迫られ、僕は本名を名乗った。
「三影平介。三つの影に平らの介」
久しぶりに口にした自分の名前は、不思議な響きを持っていた。誰かに名乗るという行為がとても新鮮だった。
思えば名前が原点なのかもしれない。自分の名を認識すること。その名を誰かに知ってもらうこと。それが自分に価値や意味を内包させる最初の一歩ではないだろうか。
僕は今やっと、わけのわからないものから、三影平介という人間になった気がした。
「年はいくつなの?」
「え、二十四だけど……」
僕の答えにライデン改め、香澄が口をへの字に曲げる。
「やっぱり年下かぁ。まあ、この中で一番若そうだモンね。仕方ないかぁ」
「そういうライデンさんは?」
「ないしょ」
「そ、そう……」
少し気になったが、強いて聞き出す勇気もない。とは言え、僕とひとつふたつしか変わらないはずだ。
まあ、女性の年齢を見抜けるほど、知識も経験もないわけだが。
「でも平介って、なかなか個性的な名前ね。ちょっと古めかしい感じで」
「小さい頃は嫌だったけどね」
「そう? わたしは妙に凝ってるのよりいいと思うけど。で、何て呼べばいい?」
「お好きなように。呼び捨てでも、スケさんでも、タイラーでも、へーちょでも」
「何よ、それ」
「昔のあだ名」
「じゃあお言葉に甘えて“平介”って呼ばせてもらうわ。もちろん、わたしのことも呼び捨てでお願いね。苗字や“さん”付けって面倒だもん」
彼女は気軽にそう言ったが、僕は少々困っていた。なにせこの年まで、異性を呼び捨てにしたことなどないのだ。
名前を口にすることをわざと避けて、僕は問いかけた。
「ところで、君がベルから……」
「香澄、よ」
すぐに指摘された。香澄は怒ったように自分の名前を繰り返す。
僕は情けないことにすぐ降参した。香澄の気分を悪くさせるよりは、自分で気恥ずかしさを我慢する方がまだマシだった。
「……わかったよ。じゃあ、香澄に聞きたいことがあるんだけど」
よろしい、とうなずく香澄に苦笑しながら、言いかけていた質問を口にした。
「ベルからもらったポシェットって何が入ってたんだい」
香澄はぴんと指を立てた。
「わたしもそれを言おうと思ってたのよ」
香澄が開いて見せたポシェットの中には、二種類のものが入っていた。
ひとつは花火だった。いわゆる打ち上げ花火で、筒状の本体に「天空絢爛二十連発」や「スターフラワー十輪」といった派手な文字が躍っている。
そしてもうひとつは、タオルに包まれたジュース瓶だった。瓶口は蝋のようなもので固められていて、そこから布が外に顔を出しており、さらにキャップで蓋がされていた。
すぐにはわからなかった瓶の正体を悟らせたのは、かすかに立ち昇るガソリン臭だった。
「これって、火炎瓶……?」
見合わせた先で、香澄がおずおずとうなずいた。
「多分ね。いっしょにこれが付いてたもの」
香澄が見せたのは百円ライターだった。
僕の心の奥底にひんやりとしたものが広がった。今まで気のせいで片付けようとしていた不安感が強く自己主張を始めている。
魔法の代わりに花火と火炎瓶? ちょっと危険過ぎやしないか。遠い国の内乱のように戦車を相手に戦うのならばともかく、僕たちはただゲームをするのだ。火炎瓶だけじゃない。多賀やユマノンの弓矢だって洒落にならない。いや、僕の模造刀だって遊びで使う代物じゃない。
ベルがまだ子供だから、そういう判断がつかなかったのだろうか。だとしても、他のスタッフはなぜ止めなかった?
そもそも、どんなゲームをするのだろう――そう考えて、僕は大事な質問を思い出した。
「昼間の公園で言ってたろ、あとで説明するって。それを教えて欲しいんだ」
「あ、それは」
香澄が口を開いたとき、けたたましい電子音が辺りに鳴り響いた。
ゲーム開始の合図。みんながいっせいに立ち上がり、広場の出口へ向かい始めた。
「行きましょう、平介。その話はゲームを進めながらするわ」
僕にも異論はなかった。説明されるより、ゲームの中身そのものを見た方が早いだろう。リュックを背負い、僕たちも皆のあとに続いた。
そのときになって僕は初めて、パーティーがそれぞれにできていることを発見した。ジャンヌとエルフェンが肩を並べ、多賀と司馬、ユマノンの三人がひとかたまりになっている。
自然な成り行きの結果か、それとも密かな協定が結ばれていたのだろうか。とにかくこうして見ると、最初に乗ったワゴンの席順が全てだったのだとわかる。
唯一の例外がサブローだった。
「おっしゃぁ! 一番乗りィ!」
サブローはひとり奇声を上げながら、あっという間に広場から走り出て行った。他の者のことなどもはやどうでもいいという様子で、パーティーを組むという考えも頭からないようだった。
しかしサブローの行動が一同に火をつけた。のろのろとしていた皆の動きがやがて足早になり、ついには小走りへと変わっていった。装っていた平静が崩れ、五千万円という大金への執着がいっせいにあらわになったようだった。
「わたしたちも急ぎましょう!」
香澄に言われるまでもなく、僕も走り出していた。
お互いの競争意識が影響し合って、期待や焦りが増幅させられているようだった。急がなくては、という強迫観念にも似た思いが芽生えている。異様な興奮の中、僕は流されるように走っていた。
暗闇に沈んでいた広場の出口まで来ると、そこから茂みを切り分けた砂利道の坂が続いていた。幅は車がかろうじてすれ違えるほどで、途中にカーブがあるらしく先を見通すことはできない。言う間でもなく、すでにサブローの姿は消えている。
先を争うように坂道を駆け下りると、一気に視界が開けた。
一瞬、本当に迷宮へ迷い込んだような錯覚を覚えた。
舗装された道が真っ直ぐに伸び、そこからあぜ道が枝分かれしている。そしてその間に点在しているのは、もはや廃屋とも呼べぬ廃墟だった。家の形を成しているものは一軒もなく、どれも屋根が崩れ、壁などの一部を残すのみとなっている。
かつてはのどかな田舎の風景が広がっていたのだろう。だが村人がこの地を捨ててから、もはやかなりの時間が経っているようだった。晴れた夜空と月光に照らされて、廃村は青白い闇にひっそりと覆われている。
突然現れた廃墟を前に、全員の足がにわかに止まっていた。僕自身、どう行動すべきなのか判断がつかなかった。
そのとき廃墟のひとつから、サブローが飛び跳ねるように出てきた。僕たちを見つけたサブローは、持っていた封筒を掲げて驚喜の声を上げた。
「見ろよ、すげえぜ。三十万だ!」
サブローは封筒の中身を誇るように見せつけた。その手には束になった一万円札が握られていた。
そのままサブローは別の廃墟へ飛び込んで行った。
それがきっかけとなった。皆がまたいっせいに動き始める。
「手分けして探しましょう」
早口で香澄が言った。
「この辺りを探し終わったら、またここへ戻って来るの。いい?」
僕がうなずく前に、香澄は背を向けていた。
追い立てられるように僕も足を動かす。が、どこを探すべきかわからない。すでにみんなは周りの廃墟へ散っている。今さら目に付いた場所を探しても、何も残っていないだろう。
もっと別のところへ行かなくては。とにかくそう考えて、僕は左手にある脇のあぜ道をたどった。
すぐに汗が噴き出してきた。合計で十キロにはなろうかという荷物が瞬く間に体力を奪っていく。
荒い息を吐きながら、たちまち僕は後悔した。廃墟が並んでいたのは舗装された道路沿いだけで、僕の進んだ方向にはかつて田畑だったと思われる荒地が広がっているばかりだった。
「くそっ」と自分を罵ると、焦りが募った。再び香澄と落ち合ったとき、何も手に入れていないという状況だけは避けたかった。初っ端から香澄に失望されるようなことは絶対にしたくない。
引き返そう。そう考えて首を巡らせたとき、視界の端に小さな明かりが引っかかった。
最初は気のせいかと思った。それほどに淡い光源だった。
目を凝らすと、草むらの向こうに建物の輪郭が浮かんだ。光はその中から洩れている。建物は林の作る濃い影に埋没していた。目はとっくに闇に馴れているとはいえ、明かりがなければ見つけることはできなかったろう。
たどってきた道は茂みの中へ消えていた。僕は腰まで伸びた雑草を掻き分け、明かりを目指した。その建物もやはり家の形は留めていなかった。入り口の門とその周囲に壁が残っているだけだ。
ちょっと気味悪く思いながら、門から距離を置いて中をのぞいた。
か細い炎が揺れていた。テーブルの上に置かれたランタンだ。そしてその側にひとが立っていた。
僕は吐息をついた。相手がフード付きのローブをまとっていたからだ。どうやらスタッフのひとりらしい。
ごめんください、と声をかけ、僕は廃屋へと足を踏み入れた。相手がびくりと肩を震わせ、顔を上げた。
あ、と声を上げた。そこにいたのは、あの運転手の男だった。
僕たちはしばし見詰め合う格好になった。どう反応すればいいのかと、互いに探り合うような時間が流れる。
先手を打ったのは運転手の男だった。
言葉を失う僕の前で、男は懸命な表情で語り始めた。その内容は、ベルに教えられて出会った、最終迷宮に登場した賢者の亡霊が語ったものと全く同じだった。
長い科白を精一杯暗記したのだろう。男はところどころでつっかえながら、迷宮の物語を訥々と話した。
それを聞いているうちに、僕の戸惑いは去っていった。やはりこの男もスタッフの一員だったのだ。
しかしミスキャストだよな、などと失礼な感想を抱いたりもする。頬に傷のある男はとても賢者には見えなかったし、話し方もほとんど棒読みで、衣装を始めとするせっかくの演出も台無しだった。
『……呪いにより、わしの力ももはや尽きる。どうか冒険者の方々よ、この町を滅ぼした邪神を倒し、我らの魂をお救い下され』
ようやく科白を言い切った男は、懐から取り出したものを僕に握らせた。それは一枚のフロッピーディスクだった。
「あの、これだけ?」
ディスクを受け取りながらも、僕は肩透かしを食らった気分だった。てっきり現金の入った封筒がもらえると思っていたのだ。
すると男はテーブルを回り、僕のすぐそばまでやって来た。そして、いきなり僕の手を掴んだ。
僕は咄嗟に振り払おうとした。だが男の力は予想以上に強いものだった。
「ちょっと、何を!」
見つめた先で、男の口が動いた。
「え?」
男は僕を真っ直ぐに見つめながら、ほとんど無音に近い声で短い言葉を繰り返していた。僕は男の唇の動きからその言葉を理解した。理解はしたが、その意味するところがわからなかった。
「それって、どういう――」
問い返そうとすると、途中で口を塞がれた。分厚い男の手は、鉄のような臭いがした。
男は泣き出しそうな顔で指を口元に立て、首を振った。
なぜか話してはいけないらしい。そう理解した僕は、男の手から逃れたくて、とにかく首を縦に振った。
男は無声のまま、なおも同じ言葉を伝えようとした。僕はやはりうなずくことで答えた。
と、男の顔が緩んだ。それは安堵の表情だった。今までの険を含んだ陰気さはどこかへ消えていた。張り詰めていたものをようやく解くことができたような、そんな顔つきだった。
男は僕の手を開放し、ずるずると崩れるように両膝をついた。
すがるような手つきで、男は僕の腰辺りをまさぐった。わけが分からずに見下ろしていると、男はその場に土下座をした。
ますます不可解になった僕は、片膝をついて男に顔を上げさせようとした。
土下座ではなかった。
男の顔が青黒く変色していた。そう見て取った瞬間、男はくぐもった声とともにごぼりと血を吐き出した。
「あ、え……!?」
意味を成さない声を出していた。
男は正座をした格好で白目を剥きながら、ポンプが水を吐き出すように、数回に渡って血を吐いた。無意識のうちに後退りしていた僕は、その様子を硬直したまま、ただ見つめていた。
散々血を吐いたあと、男はゆっくりと自分の血の中へ沈み込んだ。その背中はしばらく痙攣していたが、やがてネジが切れたように動かなくなった。
まさかこれも演出なのだろうか。思って、自分を怒鳴りつけた。馬鹿な、違うに決まってるだろう!
跳ねるように外へ出て、それからよろめいた。たった今まで見ていたものが、現実だと信じられない。嘔吐感が込み上げてきて激しくむせた。
とにかくみんなに知らせなくては。混乱した頭でそれだけを思い、もつれそうになる足を叱咤しながら、僕は舗装道路まで駆け戻った。
予想していたことだったが、やはり誰の姿もなかった。“宝物”を求めて探索を続けているのだろう。
もどかしさを感じながら、僕は静まり返る廃墟へ向かって助けを呼ぼうとした。
声が出なかった。体の震えが声帯に伝染し、麻痺させているかのようだ。
僕は必死に息を整えてから、もう一度叫んだ。
「大変だ、誰か!」
かすれたような声が出た。腹に力を込め、さらに声を振り絞る。
「誰かいないのか、緊急事態なんだ!」
もうみんな、先へ進んでしまったのだろうか。ほとんど泣きそうになりながら、三度、声を上げようとしたとき、香澄の声が返ってきた。
「平介、どうしたの!?」
奥まった廃墟から香澄が急ぎ出てきた。ほとんど同時に、ジャンヌとエルフェンも別の場所から顔をのぞかせる。さらに数呼吸分の間があってから、多賀、司馬、ユマノンの三人組が中央の舗装道路を走って戻ってきた。
サブローだけが姿を現さなかったが、のんびりと探しているわけにはいかなかった。僕は全員の顔を見回しながら、勢い込んで言った。
「大変なんだ。あっちでひとが倒れた」また震え出しそうになるのを堪える。「……多分、もう死んでる」
皆がいっせいに息を飲んだ。
「死んでるって……どういうこと?」
表情が抜け落ちたような顔を見せる香澄に、僕は弱々しく首を振った。
「わからない。いきなり血を吐いて倒れたんだ。僕たちを乗せてきたワゴンを運転していた男のひとだ」
「場所はどこなんですか」
そう訊いてきたのは司馬だった。僕がさっきまでいた廃屋のことを教えると、司馬はとにかく行ってみようと提案した。反対する者はいなかったし、僕自身、それを望んでいた。
僕は先頭に立ち、再び脇道を引き返した。最初に来たときと同様に、すぐに明かりが見えてきた。まるで鬼火が揺らめいているようだった。その光を道しるべとして草むらを進む。
何かの間違いであって欲しいと願っていたが、現実は容赦なかった。当然のごとくに血の海が広がり、男が倒れていた。
皆が絶句する前で、司馬とジャンヌが男を調べ始めた。僕はその様子を外から一瞥しただけで、あとは背を向けていた。もう二度と廃屋へ入る気はなかった。
大した時間を待つ必要はなかった。すぐに六人は悄然とした顔つきで、廃屋から列を成して出てきた。僕が目線だけで問うと、司馬は無言のまま首を横に振り、ジャンヌは肩をすくめて「ご臨終」とつぶやいた。
男の死に際して、ひとつ気になっていたことがあった。僕はその疑問を口にした。
「どうして男は死んだんですか。病気なんですか。それとも他に理由があるんでしょうか」
誰も答えてはくれなかった。
が、皆が憶測するひとつの答えを持っているのではないか、と僕は感じていた。なぜなら、僕がそうだったからだ。
沈黙をごまかすように司馬が言った。
「わたしは医者じゃありませんしね。何とも言えませんよ」
確かにその通りだった。この場で正確な死因を断定することなど、医者や警察でも難しいに違いない。
だが訊きたいことはそういうことじゃない。男の無残な死を見て、不自然だと思わなかったのかを知りたいのだ。
僕はさらに核心を突くべきかを迷った。心にある考えを言葉にすることが、とても恐ろしかったからだ。
そのとき、消え入るような声でユマノンが言った。
「……まさか、毒とかじゃないよね」
一瞬にして空気が凍りついた。
僕が抱いていた考えと全く同じだった。そして、やはり皆も同じことを考えていたのだと僕は悟った。
「わかりませんよ、わたしには」
固執するように繰り返す司馬に、僕はたまらず言い返していた。
「待ってください。こんな風にひとが死ぬことってあるんですか。明らかに不自然だと思いませんか」
「わ、わたしにそんなことを言われても困りますよ」
「司馬さんはどう思うんですか」狼狽する司馬から、僕は周りへ視線を移して言った。「みなさんもおかしいと感じないんですか」
数呼吸分の沈黙のあと、声を発したのは多賀だった。
「とにかくここを離れましょうや。そこに血みどろの死体があるってのは、どうにも気味が悪い」
多賀がさっさと歩き出し、すぐに他の者もそれに倣った。無論、僕にもひとりで残る理由はない。胸の中で短く男に合掌し、廃屋をあとにした。
舗装道路まで戻ったところで、誰からともなく足を止めた。重苦しい雰囲気が立ち込める中、司馬が話の続きをするように言った。
「それで、これからどうしましょう」
その問いが、まず自分に向けられていることを察し、僕は答えた。
「とにかくスタッフのひとたちに連絡しましょう。それから救急車を呼んでもらえばいいと思いますけど」
「どうやって連絡を取ればいいんです? ベルさんをはじめ、スタッフのみなさんがどこにいるのかもわからない」
僕は言葉に詰まった。確かに指摘通りだった。
「なら携帯電話から直接119番に……」
言いかけたところで、隣にいた香澄が押し留めるように僕の肩に手を置いた。
「平介、気づかなかったの? ここ、携帯電話は使えないわ」
「え……」
慌てて携帯電話を取り出した。果たして画面を調べると、アンテナマークの横には「圏外」と表示されていた。
日ごろから電話のかかってくる相手がないため、僕には電波の受信状況を気にかける習慣が欠けている。だから今の今まで気づけなかったのだ。
僕の胸に羞恥心が湧いた。友人のいないことを暴露されてしまったような気がした。
「俺はこのままゲームを続けりゃいいと思うがな」
ぶっきらぼうにそう言ったのは多賀だった。
「このままゲームを続ける。そんで一番にゴールしたやつがスタッフに連絡すりゃいいんじゃないか。気の毒なこったが、あの男はもう死んでるんだし、なにも急ぐ必要はあるまい」
多賀の言葉は皆に提案するような調子だったが、実際は僕だけに投げかけられたものだった。その証拠に、見下ろす多賀の目は僕だけに注がれていた。無言の内に、言うとおりにしろという威圧感があるように思えた。
僕は引き下がらなかった。何か重大な間違いを犯しかけているような、強烈な違和感があった。僕にとってみんなの前で意見を主張することは苦痛をともなう行為だったが、このまま状況に流されると取り返しのつかないことになるという恐怖感がより強かった。
「ちょっと待ってください。ひとが死んでるんですよ。ゲームなんてしてる場合じゃないでしょう。ベルさんの話では、村を越えたところで待っているということでした。それならここにいる全員でそこまで向かうべきだと思います」
僕は懸命に言い募った。が、返ってきたのは新たな反論だった。
「ニトさんには悪いけど、僕も多賀さんの意見に賛成だね」
左手の盾を落ち着きなく指で弾きながら、ジャンヌが続けた。
「考えてもみてよ。これだけの準備はなかなかできるもんじゃないよ。それを台無しにしちゃうっていうのは、ちょっともったいないんじゃない? 運転手さんには悪いけど、ゲームが終わるまで待ってもらっても、バチは当たらないと思うよ」
ねえ、とジャンヌに声をかけられたエルフェンも、黙然とうなずくことで賛成の意思を示した。
僕は言葉を失いながら、さっきから感じていた違和感の正体を突き止めていた。
男の死体を目の当たりにしても、その死に方が不自然だとわかっていても、それでもなお、みんなはゲームを続けたがっている。
理由は何だ? 問いかけるまでもない。五千万円があるからだ。もしかすれば五千万円を手に入れることができるかもしれないと思うからこそ、異常な状況にも目をつむり、ゲームを続けようとしている。
それはすなわち他人の死よりも、手に入るかもしれない五千万円の方が大切だという思考の結果だ。
白目を剥き、顔を変色させ、血だまりに沈んだ男の死体を目の当たりにしながら、受けたはずの衝撃や混乱をこんなにもあっさりと片付け、五千万円のためにまたゲームを再開しようとしているその精神に、僕は違和感を憶えていたのだった。
異常事態に目をつむってまで欲した五千万円。それを巡るゲームがどんなものになるのかを思うだけで、僕は心が暗闇に閉ざされていくのを感じた。
「それでは多数決を取りましょうか」
そう言って司馬は「ゲーム続行に反対の方」と呼びかけた。
僕は力なく手を挙げ、皆を見回した。
予想外のことがふたつあった。ひとつはユマノンが手を挙げていたこと。もうひとつは、香澄が手を挙げていないことだった。
同じ予想を立てていたのだろう。司馬が香澄に問うた。
「挙手なさらないということは、ライデンさんは“賛成”ということでしょうか」
香澄は腕を組みながら、尖った口調で言った。
「こんな茶番に付き合う気はないの」
「茶番と言いますと?」
「最初から結果はわかってるじゃない。あなたを含めて賛成が四人。もう過半数になってる」
「それは心外ですね。私はあくまで中立の立場で話を進めていたつもりですよ」
憮然とした声で言ってから、司馬は続けた。
「ですから、まずは私のことは数に入れてもらわなくて結構です」
すなわち香澄が手を挙げてくれなければ、今の時点で賛成四、反対ニということで、ゲーム続行が決まるというわけだった。
香澄は司馬のことを探るように睨みつけたあと、鼻から息を抜いて手を挙げた。
「それではゲーム続行に賛成の方」
次の呼びかけには当然ながら、多賀、ジャンヌ、エルフェンの三人が応えた。
これで三対三となった。みんなの注目が司馬に集まる。
「こうなっては仕方ないですね」困ったように嘆息してから、司馬は言った。「すいません。私も続行に賛成です」
うなだれる僕の隣で、香澄が「やっぱり茶番じゃない」と吐き捨てた。