1章-4 道中
駅を出発してから三十分もしないうちに、周囲の景色は渓谷のそれへと変わっていった。道中の案内標識には「美濃」や「下呂温泉」といった僕の知っている地名も見かけることができたが、ワゴンはそれらを全て無視しながら山間部の県道へ進路を取っているらしかった。
どこへ向かっているのだろう。その疑問は僕の頭にずっと浮かんでいたが、口に出すことはしなかった。どうせ今にわかることだったし、他の誰かが問うこともしなかったからだ。着いてからのお楽しみということでいいだろう。
車内の雰囲気は総じて和気藹々としていた。ジャンヌとエルフェンはふたりで話し込んでいたし、最後列の三人はずっとゲーム談義で盛り上がっている。助手席の佐々木も、ラジオから流れてくるポップ・ミュージックに合わせて陽気に口笛を吹いていた。
が、僕の座る二列目だけは違った。サブローはふてくされたように腕を組みながら目をつむっているし、ライデンも窓の外をじっと見て黙り込んでいる。
そんな状況の中、間に挟まれた僕はどうすればいい? おまけに運転手と目が合うのが怖くて、前を向いていることもできない。だから結局僕は肩身の狭い思いをしながら、視線を足元に落としているしかなかった。
ワゴンはいよいよ峠道に差しかかった。足元を見つめる僕を、遠心力が容赦なく左右に揺さぶる。決して乗り物に弱いわけではない僕も、こんなことを続けていればそのうちに酔ってしまう。そんな危惧を抱いたとき、ワゴンは道沿いの休憩所に停車した。
「トイレ休憩でーす」
佐々木の告げる声にほっと息をついた。時刻はまだ正午過ぎ。駅を出てからほんの一時間ほどしか経っていないが、もうニ、三時間も車に乗っていた気がしていた。
あとどのぐらいかかるのか。僕にとっては重大事だけに、車を降りてから佐々木にそっと尋ねると、「まだまだ遠いですよ。到着は夕方になりますね」と無慈悲な答えが返ってきた。
休憩所は公衆便所があるだけの簡素なところで、僕たちのほかに利用者はなかった。
トイレを済ませたあと、片隅に設置されていた灰皿の前で煙草を取り出した。一応のつもりで、ひと箱だけ持参していた。普段からさして本数を吸うわけではないので、一日ぐらい我慢しても平気だったし、アウトドアと知ったときからそのつもりでいた。だが今はとにかく一服したい気分だった。
煙草に火を点けたとき、司馬とユマノンがトイレから出てきた。ふたりとは最初の挨拶以外、ほとんど話せていない。どう声をかけていいかわからず、僕はただ軽く会釈した。
するとふたりは小さく手を挙げて、僕の前までやって来た。どうも、としか言えずにいる僕に、司馬は苦笑しながら小さく言った。
「大変ですね、ニトさん。板ばさみにされちゃって」
「え?」
「ライデンさんとサブローさんでしたっけ。巻き込まれちゃったんでしょ」
ユマノンがタオルで汗を拭きつつ、小刻みに頭を下げる。
「僕らもお助けしたいとは思ったんだけど、どう割り込んでいいかさっぱりわかんなくてね。傍観するしかなかったと言うか、ホント、ごめんなさいって感じです」
「あ、いや、そんなの全然、大丈夫ですよ」
突然の労わりの言葉に僕は慌てて首を振った。でも心の中には嬉しさがにじんでいた。ちゃんとわかってもらえていたという事実が、僕の心を癒してくれた。
「何でしたら、ここから席を替わりましょうか」
「窮屈なところでよろしければって感じだけど。なにせ僕と多賀さんがいるからね」
ユマノンの冗談に笑いながら、僕は司馬の申し出を丁重に断った。有り難くはあったが、司馬に重荷を背負わせるのは気が引けたし、気遣ってもらったことで気力も甦ってきたようだった。
「乗りかかった船だと思って頑張ります。その代わり、向こうに着いたら慰めてくださいよ」
半分ふざけながらそう言うと、ふたりは「任せてください」と笑顔を返してくれた。
単純なことだと自分でも思う。たったこれだけのやり取りで、僕の心は晴れていた。
しかし胸の中の晴天は、すぐに雲に飲み込まれた。
「なあ、ちょっといいか」
元凶がそう声をかけてきた。司馬とユマノンがすまなそうな顔をして車の方へ帰っていく。僕は圧迫感にも似た苦しさを憶えながら、声の主――サブローへと向き直った。
サブローは咥え煙草のまま、首を傾げてのぞき込むように睨んできていた。
「あんたにひとつ聞きたいんだけどさ、あの女とどういう関係なんだよ」
「どうって、今日会ったばかりだけど」
僕は意識して普段通りの話し方で返した。下手に丁寧な言葉を使ったりすると、余計に調子づかせると思ったからだ。
「ならどうして邪魔すんだよ。わざわざ真ん中の席に座ってきてさ」
「僕が望んだわけじゃない。彼女にそうしてくれって頼まれたんだ」
煙草を挟んだ指が震えていた。これだけの対応をするのに、僕は気持ちを奮い立たせなくてはならなかった。
「それ、ホントか」
「こんなことで嘘なんてつかないよ。初対面であんな風に声をかけられて、彼女も迷惑だったんじゃないかな」
僕はほとんど自動的にそう言っていた。口に出してから、きつい言葉だったと気づいた。サブローが怒り出すのではないか。僕は思わず身構えた。
「なんだぁ、そうかよ」
急にサブローが強張っていた表情を崩した。
「俺の女にちょっかい出しやがったって、彼氏のあんたが怒って隣に来たと思ってたんだよ。いや、俺の勘違いならそれでいいんだけどさ」
「へ?」
「けどやっぱ、彼女怒ってたかぁ。俺、いつも失敗しちゃうんだよ。調子のいいこと考えずに言ってさ、ひとを不機嫌にさせちゃってから後悔すんだよな。気まずかったからさ、車の中でもずっと寝たフリしてたんだぜ」
呆気にとられる僕に、サブローは拝むような仕草をした。
「な、あんたから上手く言っといてくんねぇかな。オフ会が始まるこれからってときに、こんな雰囲気はちょっと辛いだろ」
「あ、うん。まあ、彼女も別に怒ってるわけじゃないと思うから」
「そうかな。ま、よろしく頼むぜ」
そう言うとサブローは、小走りに車へ戻って行った。僕は拍子抜けした気分でその背中を見送る。
「やっと行ったわね」
うしろからの声に振り返ると、ライデンが立っていた。小さく肩をすくめながら、ライデンが悪戯っぽく笑った。
「あいつの声が聞こえたから、トイレの影に隠れてたの」
「反省してるみたいだったよ、サブローさん」
「みたいね。どこまで信用できるかわかんないけど」
あくまで痛烈に言ってから、ライデンは僕を見つめてきた。
「でもありがと。迷惑だってはっきりと言ってくれて。何だか頼もしかった」
「思ったことを口に出しただけだよ」
「それってなかなかできないものじゃない? 特に他人のためとなるとね」
ライデンは白い歯をのぞかせた。それは今までよりもずっと打ち解けた笑顔で、僕はどぎまぎしてしまう。
佐々木の声が届いた。
「みなさん、そろそろ出発しますよー!」
呼びかけに応じて、皆も車に戻り始める。ジャンヌはエルフェンと山の景色を楽しみ、多賀はひとりで体操をしていたようだ。
僕もライデンといっしょに帰ろうとしたが、不意にまた尿意をもよおし、再びトイレに引き返した。
便器の前に立ちながら、ひとりでに表情が緩むのがわかった。さっきまでの憂鬱な思いは霧散している。サブローも悪い男ではなさそうだったし、何よりもライデンと親しくなれたのが嬉しい。やればできるじゃないか、と少し自信も湧いてきた。
用を済まして洗面所へ向かう。そのときトイレに誰かが入ってきた。
あの運転手だった。予期しなかった相手に僕は驚いたが、それは男も同じようだった。お互いわずかに目を見張ってから、無言のまま会釈した。
洗面台に向かう僕のうしろを男がのろのろとした足取りで通り過ぎる。
さっさと戻ろう。思って顔を上げたとき、目の前に貼られた鏡の中で視線がぶつかった。
急いできびすを返し、外へ出ようとした。
「なあ、あんた」
男の声に僕は動きを止めていた。向き直ると、切羽詰ったような男の表情があった。顔色の悪さは変わらないものの、車の中で見た暗い形相は消えている。
「あんたは今日のこと、全部わかってて来はったんか」
「はい?」
「違うんか。なんも知らんと来たんか」
男は関西弁で問いを繰り返した。が、僕には言っている意味がさっぱりわからなかった。
「もしもあんたが、なんもわからんと連れてこられたんやったら……」
なおも男は言いかけ、その途中で息を飲んだ。
男は僕の肩越しに、僕の背後――トイレの入り口の方を見つめた。その目が怯えるように歪んでいる。
僕は硬直したまま、視線だけを鏡へ走らせた。そこに知らない男がいた。
いや、佐々木だ。そう気づいたとき、背筋に冷たいものが走った。
さっきまでの笑顔は欠片もなかった。別人の仮面をかぶったような無表情だった。その真っ黒な双眸だけが運転手を射抜いている。
見てはいけないものを見てしまった気がした。が、それも一瞬のことだった。僕が目を瞬かせている間に、佐々木はにこやかな顔を取り戻していた。
「さあ、急いでくださいよ」
すいません、と謝りながら、僕は足早にトイレをあとにした。見間違いだったのだろうか。そうは思ったが、逃げるような足取りは止められなかった。
外に出て、ほっと息をつく。ライデンが待っていた。先に車に戻ることで、サブローの隣に座る羽目になるのを避けたのだろう。
「何かあったの?」
「え?」
ライデンは待ち構えていたように言った。
「あの佐々木ってひと、ニトさんがトイレに入るのを見て、慌てて走って行ったのよ」
妙な話だと思った。そしてすぐにひとつの推測が浮かんだ。佐々木は僕とあの運転手が接触するのを阻止しようとしたのではないだろうか。
いや、馬鹿馬鹿しい考えだ。何のためにそんなことをする必要がある? 僕は笑い飛ばそうとして失敗した。なぜか心に引っかかるものがある。
だいいち、運転手は何を言おうとしていたのだろう。そう考え、僕ははっとなってライデンのことを見つめ返した。
――何も知らずに来たの?
思えばライデンもM駅の公園で同じことを言っていた。あとで説明するからと口止めされたのだ。
急にライデンの言葉が気になり始めた。説明すると言ったその中身は何なのか。根拠のないまま、僕はライデンと運転手の言ったことがつながっていると確信した。
でもここで問い質すわけにはいかなかった。すぐそばに佐々木がいる。僕のあいまいな憶測が正しかったときはもちろんのこと、間違っていたとしても聞かれるのは気まずい。
「うん、急いでくれってさ」
僕はトイレまで届くように、わざと声を上げて答えてから車に戻った。
待たせたみんなに謝っているうちに佐々木と運転手も帰ってきた。
「では出発です。旅はまだまだ長いですよ」
佐々木の陽気な声を合図に、ワゴンは再び走り始めた。
峠道が続く。道路は二車線分の幅もなく、見かける標識は「落石注意」ばかりだ。何だか秘境へ向かう探検隊のような気分になる。
休憩所を出発してすぐ、ランチタイムだと佐々木が告げた。用意されていたのはサンドイッチとペットボトルの飲み物だった。
「地元ではおいしいと有名な店のサンドイッチです。たくさん買ってありますから、おなかいっぱい食べてください。ちなみにお薦めは“みそかつサンド”です」
佐々木の説明通りサンドイッチは本格的なもので、また各人の好みを考えてか、様々な種類が用意されていた。僕はお薦めのみそかつサンドと野菜サンド、飲み物はオレンジジュースを選んだ。
ちょうど昼過ぎで、皆も空腹だったのだろう。サンドイッチを食べながらの会話は、より一層弾むようだった。ライデンとサブローも徐々に言葉を交わすようになり、僕はやれやれと安堵する。
そんな雰囲気の中、やっぱり考え過ぎだよな、と冷静にそう思い始めた。
運転手が怯えていたり、佐々木が怖く見えたのも、言ってしまえば僕の勝手な印象だ。ライデンとジャンヌの会話や運転手の言葉から察するに、今日のオフ会について僕の知らないことがあるのは確かなようだが、特に警戒する必要はないはずだった。
きっとホームページには書かれていない催し物があるというぐらいのことだろう。ただそのことをベルから聞いたかどうかの違いというわけだ。
悪い癖だと反省する。他人のことを容姿や印象で勝手に判断し、それを思い込んでしまう。サブローのことだってそうだ。最初は一番苦手なタイプだと決めつけていた。実際はちょっと不器用なだけで嫌な男ではなかった。
こんな性格が、前向きに生きられない要因のひとつになっている。それがわかっているから、なおのこと僕はうんざりとしてしまう。
とにかくオフ会の間だけでも、深く考えたり、勘ぐったりするのはやめよう。そう自分に言い聞かせ、僕は周りと話すことに努めた。
サンドイッチを平らげてしばらくすると、急に眠くなってきた。今になって寝不足が祟ってきたらしい。目を閉じると車の揺れも心地良い振動に思えてくる。
僕の様子に気づいたわけではないだろうが、佐々木が「まだ先ですからね。ゆっくりしてくださいよ」と言うのが聞こえた。いつしか流れてくる音楽もゆったりとしたオーケストラに変わっている。
眠れるときに寝ておこう。そう思ったのを最後に、僕の意識は安らかに途切れた。