4章-15 それからの日常
それからのことを少し書く。
気がつくと、そこはオフ会の集合場所とされたM駅のターミナルだった。まだ早朝で、ほとんど人気はなかった。
僕はベンチに眠らされていた。隣では、僕にもたれかかって、咲が寝息を立てていた。
起こすつもりはなかったが、僕が動いたことで、咲も目を覚ました。おはよう、と声をかけたとき、帰ってきたことを実感した。
僕たちはジャージを着せられていた。気だるさが残っていたものの、傷は全て丁寧に手当てされていた。
足元に紙袋が置かれていた。調べると血まみれの服が出てきた。僕の着ていたものだった。他には、咲に着せていたレインコートとヘルメット、そしてトカレフが入れられていた。
僕のリュックやヒップバックはなかった。ゴールしたときに所持していたものだけに、所有権が認められているらしかった。
ふと思いついて、ポケットを探った。思ったとおり、財布や携帯電話といっしょにそれが見つかった。
香澄のペンダント。刻まれた名をもう一度確認したあと、僕はそれを失くさないように、財布の中に仕舞った。
時間を確かめて驚いた。丸一日が経っていたからだ。
僕はベルたちのうしろに、何か大きな存在があることを感じた。が、それを知る術はどこにもなかったし、知りたいとも思わなかった。
立ち上がろうとしたとき、ジャージのズボンに封筒が挟まれていることに気づいた。
咲が僕の元で暮らすために必要となるであろう、一切の書類が用意されていた。
僕はその中でふたつのことを知った。咲が十三歳であることと、咲の父親の名前だ。
三日後、僕は咲といっしょに、咲が暮らしていた家に向かった。
初めての京都だった。目的地は京都の中心地から少しはずれたところで、「大」の字が刻まれた山のふもとだった。その姿のまま「大文字山」というらしい。
咲によると「大文字焼き」なる夏の京都を代表する伝統行事があり、毎年八月十六日の夜に、五つの山で火が焚かれるという。「結構、有名なんやで」と咲は言っていた。
いつか学校で習った銀閣寺も近くにあり、さすが京都だけに雅な雰囲気だ、などと感じ入っていたのだが、案内された先は、いまどきこんなアパートが、と驚くほどに寂れた建物だった。
木造の二階建てで、炊事場とトイレが共同、もちろん浴室などついていない。貧乏を気取った学生なら、こんな下宿先を好むかもしれないが――実際、それらしき若者をひとり目撃した――親子で暮らすには大いに不便だろうと思われた。
通されたところは、ふすまで仕切られた六畳のニ間だった。すっきりとして見えるのは、置かれている物が少ないからだ。ちゃぶ台に洋服タンス、小さな冷蔵庫、窓際の部屋の隅にある、教科書の並んだ机。目につく家具はそれで全てだった。
僕の前で、咲は用意してきた段ボール箱に、手早く物を詰め始めた。衣類に鞄、様々な小物。やはり年頃の女の子らしいものは色々あったが、その数が圧倒的に少なかった。
持ってきた段ボール箱は全部でみっつあったが、自分で持ち帰るように鞄に詰めたものを除けば、全てがひと箱に収まってしまった。
「なんや、みっつもいらんかったわ」
そう笑う咲に、僕はとうとう問いかけていた。
「お父さんの物は、持っていかなくていいのかい」
無事に生還できたあの日から、咲は自分の父親のことについて一言も話さなかった。心配や疑念がないはずはない。ただ僕は、咲から口を開くのを待つ方がいいと考えていた。
咲の振る舞いを見て、僕は考え直した。咲は重大な思い違いをしている。正せるのは僕だけだった。
「お父ちゃんのことは、もうええねん。うちのこと、捨てたんやさかい。うちの方から縁切ったるもん」
まくし立てる咲に、僕は言った。
「それは間違いだよ。咲ちゃんのお父さんは、最期まで咲ちゃんのことを心配していたんだ」
「嘘や。何でそんなんわかるん?」
怒った目で見つめてくる咲に、僕は運転手の男のことを話した。ゲームに参加させられていたこと。僕に鍵を渡してくれたこと。その鍵があったからこそ、咲を助けることができたこと。
「あのひとは僕に鍵を託すとき、繰り返し、必死にこう言っていたんだ」
――娘を頼みます。
「咲ちゃんのお父さんは、咲ちゃんのことを本当に大切に思っていたんだよ」
茫然とした表情で、咲はつぶやいた。
「お父ちゃん、鍵職人やってん」
咲の瞳にみるみる涙が溜まり、流れ落ちた。咲は僕の胸に顔を押し付け、声を上げて泣いた。
結局、みっつの箱はいっぱいになってしまった。そのときから、咲の悲しい涙を僕は見ていない。
それから間もなく、僕は働き始めた。勤め先は冠婚葬祭を営む会社で、器材をトラックで運び、現場を設営するのが仕事だ。肉体的に辛いことも多いが、一応、正社員で雇ってもらうことができた。
単純なことだった。大切なものを守ろうとすれば、じっとしているわけにはいかなかった。もう僕はひとりじゃないのだ。咲が幸せをつかむまでは、倒れるわけにはいかない。どれだけ傷つくことがあっても、逃げるわけにはいかない。
そして気づけば、僕はもう、無意味で無価値な存在ではなくなっていた。
咲が十四歳の誕生日を迎えた。
いつもより豪勢な料理を前に――とは言っても、全部、咲に作ってもらっているのだが――ハッピーバースデイの乾杯をしたあと、咲が言った。
「あと二年か。長いなぁ」
「え? 二年って何のこと?」
「平兄ィと結婚できる年」
僕は飲みかけのビールで、漫画のように咳き込んだ。
「いきなりヘンなこと言うなよ」
「なんで? うち、本気やのに」
「まあ、今だけはありがたく聞いておくよ。咲ならすぐにでもいい男が見つかるさ」
「そやろか?」
「そうだよ」
「けど、うちは好みうるさいもん」
「へえ。どういう男がタイプなんだよ?」
「うちを守るためやったら、人殺しもできるひと」
僕は盛大にむせた。咲はうかがうように、僕を上目遣いで見つめている。
――運の悪い子やな。こんな真っ暗なとこで、鉄砲の弾に当たるんやもん。
あのとき、咲はそう言っていた。
が、真相はそうではない。僕が暗闇の中で放った弾丸が、偶然にベルをとらえたのではないのだ。
あのとき、トンネルを進んでくるベルの足音を聞きながら、僕は携帯電話を開いた。
それから何をしたか。時刻は『04:24』。二分後に、目覚ましが鳴るようにセットした。そして携帯電話を開いたまま、部屋の入り口の床に置いたのだ。
ベルが入り口までやって来る。当てずっぽうに矢を放つ。その間、僕は入り口からすぐ横の壁際に隠れ、時間が来るのを数えていた。そして百を数えたとき、暗闇の中で銃を構えた。
直後、タイマーが作動した。マナーモード。音は鳴らない。だが携帯電話のモニターは光を放つ。あまりに淡い光。しかしベルの居場所を知るには、十分な明かりだった。
僕は選んだ。殺人という選択肢を。
父のときのように、気づけば越えていたのではない。仕方がなかったなどと言い訳もしない。
僕は自分の意思で、殺意をもって、ベルに向けて引き金を引いたのだ。
自分の命をつかむため、そして咲を守るために。
ただ咲に殺人現場を見せたくなかったから、目を閉じているように言いつけていたのだ。
「見てたのか……?」
僕の問いを無視し、咲は言った。
「そやからうちは心配ないとして、問題なんは平兄ィの方やねん」
「僕の方って?」
「どんな女が相手でも、うちは勝つ自信あんねん」
堂々と言い放ってから、一転して咲は腕組みをして難しい顔をした。
「けど、あのひとはあかん」
「あのひと?」
訊き返すと、きつい目でにらまれた。
「ペンダントのひと」
今度こそ僕は絶句した。
「平兄ィ。言うとくけど、うち、かなり嫉妬深いねん。そやから――」
妙に落ち着いた声で咲は続けた。
「浮気なんかして、うちに人殺しさせんといてな」
僕は乾いた笑い声を立てた。
ほんの少し、無意味で無価値だった自分が懐かしくなった。
――了――
『OFF ~殺人の扉~』をお読み頂いた皆様へ
皆様、当作品に最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
ネット上に小説を投稿すること自体、初めての経験でしたので、
最初は誰かに読んでもらうという気持ちもあまりなかったのですが、
思いのほか多くの方に読んでいただき、それを力に最後までたどり着くことができました。
本当に感謝していますし、僕自身、とても良い経験になりました。
皆様にはちゃんと楽しんで頂けたでしょうか。
人生のほんのわずかの時間とは言え、僕の作品で楽しんで頂けたのでしたら、この作品にも意味があったと思います。
次回作となるといつになるかわかりませんが、またこの場をお借りして発表したいと思っています。
良ければまたそのときにお付き合い頂ければと思います。
それでは皆様、またいつか。
ありがとうございました。
筆者:もっさん