4章-12 邪神降臨
僕の中に生まれた巨大な喪失感は、次第に等しい大きさの後悔へと変化していった。
どうして、また会ってしまったのか。そのことばかりが頭の中を渦巻く。
もう一度出会えば、お互いに傷つけ合うことはわかっていた。同じ孤独を抱えながら、同じ場所にいられないことはわかっていたのだ。
だからもう会わないつもりでいた。その方がいいと思っていた。なのに会ってしまった。なぜだ?
追っ手が迫っていたから、他に逃げ道がなかったから、香澄が待っていると知ったから――確かにどれも理由にはなる。
でも本当にそれだけか? 僕はそれを言い訳に使っただけじゃないのか? 本心は別のところにあったんじゃないのか?
やっぱり僕はもう一度、香澄に会おうとしてたんじゃないのか?
そしてまた、あの綺麗な笑顔を欲しがってたんじゃないのか。心地良く響く声を聞きたがってたんじゃないのか。ちょっと艶かしく動く唇を見たかったんじゃないのか。きめ細かな黒髪が踊るのを楽しみたかったんじゃないのか。不意に触れてくる細い指の感触を味わいたかったんじゃないのか。もう一度、平介、とからかわれるように呼ばれたかったんじゃないのか。もう一度、キスしてほしかったんじゃないのか。
――これだけはわかって。わたし、本気だったのよ。
いい気になってたんじゃないのか。全てを打ち明ければわかりあえるなんて期待してたんじゃないのか。生き方を変えさせられると自惚れてたんじゃないのか。ずっといっしょにいてられるなんて愚かな夢を見ていたんじゃないのか。
あれは香澄の悲鳴だったのに、心からの叫びだったのに、僕は一方的な願望をぶつけただけだったんじゃないのか。
――あなたには失望したわ。
でも僕は本当に、ふたりを助けたかった。香澄、君を助けたかったんだ。そのためになら、僕は犠牲になってもいいと思ってた。僕の命をそのために使いたかったんだ。
間違っていたのか、僕は? だとすれば、どこが? 僕はどうすべきだった?
香澄、君は最期に何て言ったんだ? 香澄に切られた僕の手の傷が、ずきずきと痛む。
――あなたは結局、欲しがっているだけなのよ。
わからないまま僕は、香澄を今度こそ本当に、永遠に、失ってしまった。
もう僕は駄目なのかもしれない。生まれ変わることなどできないのかもしれない。
僕は僕である限り――無意味で無価値な存在であり続けるのかもしれない。
そんな空虚な僕の思考は、林を抜けた瞬間に、一気に現実へと引き戻された。
圧倒的に巨大な影が、眼前に屹立していた。
それは遥か天へとそびえる、一枚の壁だった。その頂上を見定めるためには、僕たちは首をほとんど真上に向けなければならなかった。
壁は山と山をつなぎ、谷間を途切れさせていた。まるでその巨身で大地そのものを分断するかのようだった。
「これは……」
僕は驚嘆の声を洩らしながら、ゆっくりと視線を巡らせた。
林が途切れたそこは、広大な空き地だった。人工的に整地された平らな大地。雑草もほとんど生えていない、剥き出しの平野が広がっていた。
これまで村を隔絶させるように連なっていた左右の山々が、ここではお互いの距離を縮めていた。奇妙だったのは、その斜面の形だった。定規で測ったような直線で、大きな段がつけられている。明らかにひとの手で切り崩され、補強されたあとだった。
「なんや、これ。何でこんな大きいもんがあんの」
ぽかんと口を開く咲に、僕は答えた。
「ダムだよ」
しかも僕たちがいるのは、ダムの内側だった。もちろん僕も真下からダムを眺めるなど初めての経験だった。月明かりの加減で全体が影となり、その細部も確認できない。だがアーチ状に大きく膨らむ壁面と、周囲の構造がそう教えていた。
同時に僕は、ゲームの舞台とされたこの廃村がどういう場所なのかを理解した。
ここは水没予定地なのだ。目の前のダムが産声を上げるとき、この廃村は湖底に沈む運命にある。
まともな姿を留めた廃屋がなかったことも、これでうなずける。全ての廃屋は朽ちて崩壊したのではなく、人為的に壊されていたのだ。家屋の一部だけが残っていたのは、浴室や手洗いといった水回りを中心に、頑丈に造られている箇所だけが取り残された結果だろう。
思い返せば、水に浮くようなものはひとつも放置されていなかった。小学校の校舎に様々な廃品が放置されていたのも、水没時に散乱しないようにするためだろう。児童たちの学び舎は、その最期に、回収する価値もないゴミを抱えて姿を消すことになるのだ。
川が枯れていた謎もこれで解けた。ダム建設時、現場を流れている河川は排水トンネルで転流させられる。僕たちがたどった支流の水はもちろん、村の中央を流れていた本流の水も全て、今はどこか別の場所を流れているに違いない。
なるほど、まさにここは狂った殺人ゲームの舞台にうってつけだった。幾ら死人が出ようとも、適当な場所に埋めておけばいい。どこが破壊されようとも問題にはならない。全てはダム湖となって沈むのだから。
そして僕は思い至った。村はここで終着だ。ならばこのダムがゴールとなっているのではないのか。
僕はダムの左右を見回した。どこかにダムの上に行くための通路があるはずだった。
空にはかすかに夜明けの気配がにじみ出していた。遠く正面の空が、うっすらと青味がかり始めている。
しかしダムの落とす影が、一帯の闇を濃くしていた。大まかな地形をとらえるにも、目を凝らさなくてはならなかった。
僕たちがいる側の壁面には、通路らしき場所は見当たらなかった。接続している山の斜面が急峻で、ダムとの境界も複雑に入り組んでいる。いくら手を加えたところで、ひとが容易に往来できるとは思えなかった。
対する向こう側の斜面はなだらかな線を描いていた。通路があるとすれば、おそらく対岸の壁面だろうと見当をつけた。
僕と咲はダムの前に広がる空き地を横切り始めた。目指す対岸までは数百メートルもの距離がある。しかし遠くは感じなかった。ゴールは近い。生きて帰れるのだという思いが、疲労を忘れさせ、新たな力を供給しているようだった。
途中で息が切れ、足を緩めた。何と巨大な建造物だろう。ようやくダムの中央を拝むことができた。肩で息をしながら先を望んだ。あと、もう少し――。
そのとき、小さな拍手が聞こえた。
続いて点された幾つものライトが、思い思いの方向に光を投げかけた。それまで泥のように溜まっていた闇は一掃され、ダムの足元が光に浮かび上がった。
僕は手をかざして光をさえぎった。白い視界の中で、誰かが近づいてくるのが見えた。
「おめでとう、ニトさん」
弾むような子供の声がダムの壁に反響した。刹那、一言では言い表せない感慨が、僕の胸を過ぎった。
車椅子に乗ったベルがいた。そのかたわらには佐々木の姿もある。闇に溶け込むためなのか、ふたりは黒一色の衣装をまとっていた。
僕たちは十メートル近い距離を挟んで向かい合った。
ベルたちのうしろには、濃緑色のテントが張られ、その前にはテーブルも設置されていた。テーブルの上には飲み物類に混じって、数台のノートパソコンが置かれている。またテーブルの近くには、シートに覆われた大きい荷物があった。どうやらベルと佐々木は、ずっとここに陣取っていたらしかった。
ベルは満面の笑顔で手を叩いていた。
「ニトさん、やっぱり君はボクの見込んだ通り、真の冒険者だったね。ここまでたどり着いてくれたニトさんのことを、ボクは心から祝福するよ」
「祝福……」
僕は無邪気にはしゃぐベルを前に、呆然と立ち尽くした。咲も不気味なものを感じたのだろう。僕の服の裾をつかみ、うしろに半身を隠した。
「戦うことを最小限に抑えて、知略で難局を切り抜け、敵である者も助けようとする。何と言っても真骨頂は、五千万円を目の前にしながら、その女の子を助けたことだよね」
熱く語るベルに、佐々木が変わらぬ作り笑いで応じる。
「私も感服しましたよ。まあ“財宝”の鍵の入手方法には、ちょっとズルがあったようですけれど……」
「佐々木はわかってないなあ」
ベルはすぐさま反論した。
「あれも勇者ならではの幸運なんだよ。真の冒険者は運も兼ね備えてなくっちゃ」
「ああ、なるほど。確かに言われてみれば」
ベルと佐々木が交わす内容は、見終わったばかりの映画の感想を言い合うかのようだった。心に残った名シーンや名セリフを取り上げては、あれこれと楽しそうに話している。その態度は全てがスクリーンやモニタの中での出来事であったようで、僕からもどんどん現実感を奪っていく。
言葉を失う僕を見て、ベルはうしろのテーブルに並ぶノートパソコンを指さし、悪戯っぽく笑った。
「実はPCにつけておいた発信機で、みんなの動きを見てたんだ。村や学校の中には百台を超える小型カメラが設置してあったんだけど、気づかなかったでしょ。あとは“怪物”役のひとたちからの報告。そうやって集まってくる映像や情報で、僕は冒険を楽しむんだ。疑似体験しかできないのが、残念なんだけど」
「疑似体験……?」
「ボクはほら、足がこの通りだからさ。本当は僕もプレイヤーとしてリアルを感じたいけれど、仕方ないよね」
何を言っているんだ? 僕が言いたいのはそういうことじゃない。
呆然となって立ち尽くす僕に、ベルは、けれども、と声に力を込めた。
「やっぱり今回のゲームが素晴らしいものになったのは、ニトさんがいてくれたお陰さ。こんなに素敵な冒険が味わえるなんて、ボクも努力をした甲斐があったってものだよ。正直言うとさ、今までの二回はどちらも兄さんが勝っちゃったから、ボクとしてはイマイチ盛り上がらなかったんだよね」
ベルの言葉に、やっと僕の神経が反応した。
「司馬さん……いや、君のお兄さんも死んでしまった」
「うん、知ってるよ」
ベルは唇を引き結び、視線を落とした。
「本当に寂しいよ」
僕の驚愕はさらに大きくなった。確かにベルは悲しんではいる。だがその悲しみ方は、とても肉親を失ったときのものには感じられない。
「それだけなのか、君は」
うめく僕の声は届かなかった。すぐにベルは笑顔を取り戻した。
「だけど兄さんも満足だったと思うよ。ひとときでもニトさんと冒険ができたんだから。あ、けれどもしかしたら、悔しがってるかもしれないな。油断して死んじゃうなんて、格好悪いもんね」
ベルは面白い冗談を聞いたときのように、軽い笑い声を上げた。僕は足の先から凍らされていくような恐怖を味わった。
外見は子供かもしれない。でも中身は怪物だ。僕たちと全く違う思考を宿した生き物だ。僕はそうとしか思えなかった。
一方で怒りもあった。この狂ったゲームを創り上げた目の前の少年と、その仲間たちに対する憎しみに近い怒りだった。死んでいった者への悲しみがそのまま憤りに変わり、抱えきれないほどの塊になっていた。
しかし全ての思いは、深い空しさへと変わっていくようだった。心が麻痺したように、あらゆる感情がすぐに滑り落ちていく。ただ立っていられないほどの疲れを、僕は感じていた。
これ以上、ふたりの話を聞いている気にはなれなかった。ここに長居するつもりもさらさらない。このまま立ち去りたい衝動をこらえながら、僕は言った。
「ゲームは終わりなんでしょう。だったら僕たちを帰してください。生き残っている“怪物”役のひとたちも、同じように頼みます。もう、誰も死ぬことはないんですから。それと――」
あきらめている自分から目を背けて、僕は続けた。
「川の吊り橋の下に香澄が……、ライデンさんがいるはずです。もしかすれば怪我をして動けないのかもしれない。すぐに助けに行ってやってください。お願いします」
僕はベルと佐々木に頭を下げた。悔しいが、自分で救いに行けない以上、そうするしかなかった。
が、怪物相手にひとの言葉は通じなかった。
「それって何の冗談?」
降ってきたベルの言葉に、僕は顔を上げた。ベルはきょとんとした顔をしていた。
「ゴールはここじゃないよ。だってここは地下迷宮なんだから。ちゃんと地上世界に戻らないとヘンでしょ。それにニトさんはまだ、最後のボスを倒してないじゃない」
「あ……」
僕はこのゲームが『ウロボロス』を模したものだということを、完全に失念していた。
ベルは嬉しさを噛み締めるように、白い歯を見せた。
「ボク、ニトさんの活躍に触発されちゃってね、急遽、ラスボスとして参加することにしたんだ。だから最後に話しておきたいと思って、ここで待ってたんだよ」
「最後って?」
いきなり刺々しい警戒心が頭をもたげてきた。ちりちりと危険を僕に知らせ始める。
ベルは子供らしい邪気のない笑顔を見せた。
「やだなあ、ニトさん。ラスボスと冒険者がいっしょに生き残るのは無理でしょ。そんなのあり得ないもんね。だからボクとニトさんが話をできるのも、これが最後ってこと」
佐々木がきびすを返し、テーブルの隣に置いてあった大きな荷物に近づいた。勢いをつけて、かけられていたシートが取り払われる。
下から現れたのは、一台の大型バイクだった。その脇にはサイドカーが付いている。ベルたちの衣装に合わせたように、バイクも黒一色に塗装されていた。
「さあ、最後の戦いの始まりだよ。勇者ニトが滅びた賢者の都を救えるのか、それとも神世代の邪神“バルバロイ”による暗黒時代が続くのか――って感じだよね。それじゃ、ニトさん。君と知り合えて本当に良かったよ。バイバイ!」




