4章-9 哀しみの再会
廃村からの脱出は、もうあきらめなくてはならなかった。
“怪物”役たちはもちろん、スタッフの連中にも、僕が川沿いに逃亡を計ったことは露呈しているだろう。今やこの枯れた川は、一番の危険地帯になってしまっている。一刻も早く地上へ上がり、川から離れなくてはならない。
だが下流へ進むほどに、川幅は狭くなり、両岸の崖は高くなっていくようだった。その分、月明かりも届きにくくなり、沈殿する闇は一層濃度を増している。
僕と咲は拾ってきたライト・スティックを片手に先を急いだ。明かりを手にすれば、追っ手に見つかる危険が高まるのはわかっていた。だが足元もおぼつかない暗闇の中では、人工の光に頼らざるを得ない。
数メートル進むごとに、うしろを振り返った。とりあえず、追っ手を引き離すことはできていた。追いかけてきていた光の群れは、闇の向こうに消えている。
美濃部からの連絡が途絶えた以上、連中も警戒しながら進むしかないはずだ。追いかける足も必然的に鈍っているのだろう。
だがそんな考えも、僕の心に何ら平安をもたらしてはくれなかった。
僕と咲が生き残っていることは、すぐに知られてしまうだろう。そうなれば“怪物”役の連中は、死に物狂いになって追跡してくるに違いない。彼らとて、命が懸かっているのだ。
僕は川岸をたどりながら、地上へ上がれる場所を探し続けた。このままではいずれ追い詰められてしまう。
「平兄ィ、ほら、あれ見て」
不意に、咲が囁き声を弾ませた。
地面ばかりを見回していた僕に、咲は頭上を指し示した。見上げれば、夜空を分断して、細い影が左右の崖をつないでいた。高さは十五メートルほどもあるだろうか。一本の吊り橋がかかっている。
電光のように閃くものがあった。僕はすぐにライト・スティックをかざし、付近の斜面を調べた。
下流に向かってまず左側の斜面。何もない。急峻な崖がそびえているだけだ。
でも落胆はしなかった。ここで間違いないという、根拠のない自信があった。川を横切り、次に右側の斜面を明かりで照らした。
見つけた。真新しいロープ。手に取ってみると、崖の上に生えている木につながっているのがわかった。
体重をかけて引っ張った。大丈夫。頑丈に結ばれている。
なぜここにロープが垂れているのか。
多賀だ。このロープは多賀が川に下りてくるために使ったのだ。
「本当に僕は、咲ちゃんに助けられてばかりだな」
僕は本心からそう言った。久々に、ちろりと舌を出す、咲の笑顔を見ることができた。
まず咲を上らせ、そのあとに僕が続いた。斜面は急だったが、足場はしっかりとしていて、難なく崖の上に到達することができた。
上り切った僕は、ぶら下がっているロープを手繰り寄せておいた。これで“怪物”役たちの追跡を、いくらかでも遅らせることができるだろう。
僕と咲は吊り橋の袂に立った。
暗い森がたたずんでいた。吊り橋を挟んだ一筋の林道だけが、随分と傾いた月明かりに、かろうじて浮かび上がっている。
確かなことはわからなかったが、自分たちが村の端までやって来ていることは見当がついた。すなわち、スタート地点であった広場から、川に沿って造られていた村を縦断し、ついに逆側の境界線までやって来たということだった。
終わりは近い、と僕は感じた。もちろん、どんな形で結末を迎えることになるのかは、ひと欠片も予想はつかないが。
道は前後に伸びていた。吊り橋を渡って行けば村の方へ戻ることになり、逆を行けば山手へ入っていくことになる。
選択の余地はなかった。僕たちに許されたのは、前へ進む道だけだった。
山側へ通じる道は、ほんの数メートル先で、錆びきった鉄柵によって封鎖されていた。きっとかつては誰かの私有地だったのだろう。主人が村を捨て去った今も、鉄柵は他人の侵入を阻んでいた。
だが僕がその先へ進むという選択肢を捨てたのは、鉄柵があったからではない。そこに真新しい鉄条網が巻きついているのを見たからだった。
毒の塗られた鉄条網が、ゲームの舞台はここまでだと告げている。
鉄柵の向こうには静寂があるばかりに見えるが、どこかに銃を携えた監視者が潜んでいるのは間違いない。ユマノンのことを思い出し、僕は苦い気分と同時に、煮え立つような怒りを感じながら、鉄柵に背を向けた。
いや、違う。たとえ鉄条網がなくとも、監視者がいなくても、僕はやはり、ここから逃げようとは考えなかっただろう。そう、僕はもう一度、彼女に会わなくてはならないのだから。
僕は吊り橋の前に立ち、向こう岸を眺めた。
吊り橋は、幅がおよそ一.五メートル、全長は二十メートル程度のものだった。両岸に打ち立てられた鉄柱を数本のワイヤー・ロープがつなぎ、足場として何枚もの金属板が連結されている。
僕は隣に立つ咲に、小声で話しかけた。
「咲ちゃん、高いところは大丈夫かい」
「うん、うちは平気。こんな橋を渡るんは初めてやから、ちょっとどきどきするけど」
鼓動を確かめるように、咲は胸に手を当てる。僕は小さく笑ってから、ゆっくりと言った。
「僕が先に行くけれど、落ちないようにしっかりとロープを握ってるんだよ」
「うん、わかった」
「それと、いいかい? もしも僕に何かあっても、咲ちゃんはとにかく急いで向こう岸まで渡るんだ」
咲の顔にかすかな曇りが差した。
「何かって、何なん?」
「万が一ってことだよ」
僕はごまかしの言葉を口にした。咲はまだ何かを言いたそうだったが、こらえるように唇を引き結び、うなずいた。
僕は先頭に立ち、吊り橋へ一歩を踏み出した。両側のワイヤー・ロープをつかみながら、慎重に足を進める。一歩ごとに生じる、突き上げるような揺れに逆らわぬように注意し、バランスを崩さないように。
ロープの間や踏み板の隙間からは、眼下に寝そべる暗黒がのぞいていた。もし足を踏み外すようなことになれば、ただではすまない。
途中で一度、咲のことを振り返った。心配は無用のようだった。腕をいっぱいに広げてロープをつかみ、橋の真ん中を軽快に歩いている。目が合うと、またちろりと笑って見せた。
吊り橋の半ばを過ぎたとき、僕は足を止めた。
覚悟はとっくにしていたはずなのに、僕の胸の中には切なさにも似た痛みが広がった。それはこれから訪れる、避けることのできない悲しみの予感だった。
「もう一度会えるって思ってたわ」
香澄は何も変わらぬ口調で、何も変わらない微笑を浮かべていた。その瞳に、唇に、髪に、体に、全てに涙が出そうだった。
香澄がその足を、大地から吊り橋の上に、滑るように移動させた。
新たな振動が僕を揺さぶる。僕は再び出会ってしまったことを、肉体で感じた。
「不思議よね。でも確信してたの。平介は絶対に生き延びて、ここまでやって来るって」
静かに言う香澄に、僕は固まりかけた口を無理矢理にこじ開けた。
「僕も、もう一度会いたかった。けれど、もう会わないほうがいいと思ってた。本当にそのつもりだったんだ」
「そうね。わたしもそう考えたわ。わざわざ会わなくても、気持ちの整理はつけられるんじゃないかってね」
僕は香澄の言う“気持ちの整理”がどういう意味なのかを察した。
「だから多賀さんを……」
「まあ、ちょっと利用させてもらったのよ。ああいう男は操りやすいものね」
香澄は肩をすくめて、ちょっと困ったような笑みを見せた。一歩ずつ、その距離は縮まっている。
「一度、脱がせただけで、もう女が自分のものになったと勘違いする。全部を知った気になってる。馬鹿よね。それが本当なら、昔の客はみんな、わたしのことをわかってくれてることになるじゃない。そんな単純なことですむのなら、誰も不幸になんてならないわ」
香澄は挑発するような冷ややかな口調で続けた。
「だいたい、女がモノを隠す場所は色々あるのにね。体を調べれば、それで全部だと信じきってるんだもの。お笑いよ。だけど、そんなつまんない男に殺されるぐらいなら、それはそれで仕方ないかって思ってたの。でも――」
すっと香澄が瞳を細め、僕を直視した。
「平介、あなたはこうしてわたしの前までやって来た。あなたがやって来たのよ」
「エルフェンさんのときは、僕を助けてくれたじゃないか」
香澄はゆるゆると首を振った。
「助けたんじゃないわ。確かにあの女を、屋上から突き落としはしたけどね」
「じゃあ、なぜ……」
「当然でしょ。平介はわたしの大切なひとなんだもの。わたしの関係ないところで、死なせやしないわ」
僕は息を飲み、また言葉を失った。香澄は僕のうしろを見つめ、うっすらと笑った。
「かわいい子ね。その子がもうひとつの“財宝”ってわけね」
僕の背中越しに、反抗するような声が応えた。
「咲。うちは、岬咲」
「どうでもいいわ、そんなこと」
香澄は両断するように言った。
「この子が誰だとか、どうしてもうひとつ鍵があったのか、なんてことはね」
香澄が歩みを止めた。僕と香澄は数歩の距離を挟み、吊り橋の上で対峙した。
「ねえ、平介。いっしょに行きましょうよ。わたし、あなたとなら幸せになれる。はっきりとわかるのよ」
「それは香澄が、僕のことを知らないからだよ」
「関係ないわ」
香澄は当然のことのように、さらりと言った。
「平介はわたしのことを全部、わかってくれてるんだもの。それだけで十分よ」
香澄は手を差し出した。
「そんな子は放っておいて、ふたりで行くの。大金もあるんだもの。ふたりで生きていきましょうよ、ね?」
悠然と立つ香澄が、僕にはすがりつく子供のように見えた。ひとりぼっちになるのが怖くて、それでも懸命に強がっているような。
そして僕は――。
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ランキングではまだまだ下の方ですが、こんなにたくさんの方に読んで頂いていると思うと、とても励みになります。
物語はいよいよ終盤に入っていますが、どうぞ最後までお付き合い頂ければと思います。




