4章-8 消え行く者たち
体当たりを喰らった。僕は半瞬、宙に浮いたあと、地面に叩きつけられた。
後頭部を激しく打った。脳が揺れる感覚があった。ヘルメットがなければ、昏倒していただろう。
「くそったれが!」
怒りに沸騰するような、多賀の声が降ってきた。
直後、右腕に激痛が走る。僕は悲鳴を上げた。
思い切り踏みつけられていた。分厚いブーツの靴底と石に挟まれ、手に力が入らなくなった。
多賀は僕が手放したボウガンを拾い上げ、近くの岩に投げつけた。
ボウガンは簡単に分解してしまった。僕はその光景に、自分の運命を見た気がした。
腕を踏んだまま、多賀が僕を見下ろしてきた。その視線は殺意の塊のようだった。銃口の小さな穴が、僕の顔面に弾丸を撃ち込みたがっているようだ。
「惜しかったな」
多賀は歯を剥き出して笑いながら、ベストの前をはだけた。僕は、多賀がナイフに刺されても平気だったわけを知った。多賀は腹部の周囲に、何冊もの漫画雑誌を挟んでいた。
「俺にこれだけのことをしたんだ。本当なら殺してくれと頼みたくなるぐらいにいたぶってやりてぇところだがな、今は時間がねえんだよ」
多賀は焦っていた。いつ“怪物”役の連中がやって来るかわからないからだろう。
「さあ出せ。五千万の小切手はどこに隠してあるんだ」
「ぼ、僕は持ってない……」
右腕の痛みに耐えながら、僕は声を絞り出した。さらなる重みが、腕にのしかかってきた。
「嘘をつくんじゃねえ。俺はあの女から聞いたんだよ」
あの女? その言葉が僕の頭を冷やし、腕の痛みも忘れさせた。
「香澄に……会ったのか?」
「ああ?」
苛立ったように眉をしかめたあと、すぐに多賀は全てを納得したように口の端で笑った。
「確かに会ったぜ。学校を出たところでばったりとな」
「か、香澄をどうしたんだ」
「心配すんな。あんなにいい女、殺しゃしねえよ」
「じゃあ……」
「残念だったな。あの女は、もう俺のもんだ」
目を見開く僕を、多賀は好色そうに歪めた瞳で嘲笑った。
「もしかすりゃ、あの女がお宝を隠してるのかもしれねえと思ってな、リュックの中はもちろん、身体の隅から隅まで調べてやったんだよ。こんなときじゃなかったら、そのまま頂いてやりたかったが、今は仕方ねえ。まあお楽しみは、ここを出てからだ」
多賀の表情に、再び凶悪な影が差した。銃口が僕の正中線をなぞるように動く。
「で、あの女から聞いたんだよ。てめぇがお宝を持ち逃げしたってことをな」
「そんな……、嘘だ……」
不意に地面が消失した気がした。僕は真っ暗な穴の中に、どんどん落ちていく。すがっていた一本の綱は、目の前で断ち切られていた。
探知機に青いランプが灯ったときから、僕は心のどこかで香澄の影を感じていたのかもしれない。そしてなお、その意識を封印していたのかもしれない。
なぜなら僕は、香澄と再び出会ってしまうことが何よりも怖かったからだ。
僕と香澄は似ている。まるで同じ場所に同じ形の傷を負っているかのように。
だからこそ、もうふたりいっしょにいられないこともわかっていた。僕たちは決定的に違う生き方を選んでしまった。お互いのたどる道は、二度と交差することはないのだ。
もう一度出会っても、僕たちはお互いを傷つけ合うだけだろう。
意思とは関係なく、火と水がそのままの姿で同じ場所にいられないように、お互いがそのままでいっしょにいることはできないのだと確認するだけだろう。そして、どちらかが変わることも、また歩み寄ることさえもできないのだと思い知らされるだけだろう。
そんな哀しい想いをするぐらいなら、二度と会わないほうがいい。僕はそう考えていた。
だが、香澄はやって来たのだ。僕との決着をつけるために。
「そうか」
思いついたように多賀が言った。
「ガキがいやがるって言ってたな。そいつはどこにいる」
「もう逃がした。ここにはいない」
唐突に僕は気づいた。自分の中に戦う意思が生まれていることを。
僕は自由の利く左手で、転がる石を握った。この窮地を脱するには、何とか銃を奪うしかない。
多賀は無表情になって僕を見下ろした。
「なら、死ぬしかねえな」
僕は息を止め、腕に力を込めた。そのとき、咲が金切り声で叫んだ。
「うちやったら、ここや!」
駆け出す足音が聞こえた。咲は捨て身で僕を守ろうとしている。僕は胸中に、灼熱の炎を感じた。
「くそっ!」
多賀が僕の上でたじろいだ。右腕の重みが軽くなる。
銃口が動いた。咲を撃とうというのか。思ったとき、僕は雄叫びを上げた。
握った石を振り上げた。狙うのは、僕の腕を踏んでいる多賀の右足。その膝。側面から、渾身の力で殴りつけた。
砕けた。石を通して、骨が粉砕する感触が伝わってきた。
多賀が絶叫した。
僕は石を捨てて立ち上がった。銃を奪い取るのは今しかない。
しかし多賀も、凄まじい精神力を発揮した。確かに膝を砕いたはずなのに、多賀は倒れなかった。
多賀は怒声を迸らせ、拳銃を構えた。
僕は咄嗟に左側へ走った。
銃を向けられたなら、相手がそれを手にしている方へ動くのが鉄則だ。そうすれば相手の腕は開くために狙いは定まらず、弾丸は流れ気味となって命中しにくい。どこかで聞いたそんな知識がやけに鮮明に思い出された。
いや、それは相手との距離が十メートル以上離れていた場合だったろうか。どうでもいい。じっとしていれば命を落とす。それだけは確実だった。
至近で銃声が轟いた。平気だ。どこも痛くない。もう一発。またはずれた。
視界の端で、多賀が大きくよろめいた。やはり思うように動けないのだ。
僕は地面を蹴って方向を転じ、多賀に向かって走った。恐怖は吹き飛んでいた。やらなくてはいけないという思いだけが燃え立っていた。
多賀が苦悶に顔を歪めながら、銃口を向けた。僕は真っ直ぐに突っ込んだ。
僕は咆えた。多賀が怯むのがわかった。
がくん、と多賀の顔が揺れた。僕は思わず足を止めていた。月光がきらめいた。多賀の首を、サバイバルナイフが真横に貫き通している。
振り返った。倒れた司馬が弱々しく微笑みながら、片手を挙げていた。
多賀は信じられないという目つきをしていた。言葉にならない声とともに、大量の血を口からこぼした。
ついに耐え切れなくなったのだろう、多賀の膝が奇妙な方向に折れ曲がった。多賀は唸りながら、さらに一発を発砲した。
断末魔の弾丸は、足元の地面を削っただけだった。多賀は拳銃を落とし、そのまま横倒しになった。
僕は急いで多賀の銃を拾い上げたが、慌てる理由など、もはやなかった。
多賀の首からは、驚くほどの血が流れ続けていた。そこに転がっているのは、もはや返事をしないただの屍だった。
「咲!」
僕は我に返り、その名を叫んだ。しかしどこにも姿が見当たらない。
ずっと遠くへ逃げてしまったんだろうか。いや、もし流れ弾に当たっていたとしたら……。蒼白になりかけたとき、か細い声が聞こえた。
「平兄ィ、うちはここやで」
はっとなって、声のした暗がりへ駆け寄った。そこは最初に僕が隠れているように言いつけた、岩の陰だった。
咲はリュックを抱えながら、怒られる前の子供のような不安げな顔をしていた。
安堵する気持ちに、僕はやっと表情を緩めることができた。それを見た咲も笑った。怪我がないかを問うと、咲はこくりとうなずいた。
「もしかしてずっとここに?」
「うん。だって平兄ィがええ言うまで、出てくるな言うてたから」
「でもさっき……」
「ああ、あれはここで声上げながら、足をばたばたさせただけ」
咲はそう言って地面を指差した。僕は何だかおかしくなって、小さく噴き出した。
「もう大丈夫なん?」
「うん。終わったよ」
僕が手を差し伸べると、咲は強く握り返し、自分の胸に押し当てた。咲の手は、弱く震えていた。
「よかった。うち、平兄ィが殺されるか思て、ごっつ怖かった」
「実は、僕もだよ」
咲の頭を撫でてやりながら、本音をこぼした。不思議と生き延びたことを実感できた。と同時に、永遠の別れを告げなければならない相手がいることも悟っていた。
僕は咲を連れて、司馬のもとに歩み寄った。
司馬は僕たちを認めると、うっすらと笑った。何発の銃弾を受けたのか。胸元は血に濡れ、サマーコートまでが黒い染みに侵食されていた。
すでに司馬には、何かを話す力さえ残されていないようだった。司馬はゆっくりと目を閉じ、かすかな呼吸を数度繰り返したあと、息を引き取った。
司馬が最期に何を思って逝ったのか、もちろん僕にはわからない。ただその死に顔は、とても安らかに見えた。
僕はみっつの命が失われた死闘の現場を見渡した。骸となって地に転がる者と、それを眺める者。その差は紙一重のものでしかなかった。
持ち物を物色していくべきだろうか。そんなことを考えたとき、遠くうしろで光点が散らついた。
追っ手だ。“怪物”役の連中がやって来たのだった。
僕は多賀から奪った拳銃をズボンに挟み、リュックを背負った。
「急ごう」
咲の手を取り、僕は再び走り出した。




