4章-1 財宝の少女
荒い息を吐きながら、うしろを振り返った。
校舎の影は随分と遠くなっている。そう確認したところで、やっと落ち着くことができた。
すでに集落は通り過ぎ、辺りには田畑のなれの果てである野原ばかりが広がっている。
校舎は脱出できたものの、学校の近辺はなおも危険だと判断し、少女を連れてここまで走り通してきた。“怪物”役も冒険者も、もはや関係ない。他の誰かと遭遇することは、命の危険に直結することになると痛感していたからだ。
しかしこれだけ学校から離れれば、とりあえずは安心しても良さそうだった。脱出口である縄梯子を発見できたことで時間も短縮できたはずだ。わずかな差かもしれないが、他の連中よりもリードできているだろうと思えた。
何より、僕の精神と肉体が休息を欲していた。
死と隣り合わせになりながら、学校を駆けずり回った。襲われ、逃走し、追い詰められ、それでもどうにか命をつないだ。
そして、殺人を目の前で目撃し、かけがえのない存在になってくれるかもしれなかった女性と、決別した。
心も体もとことん磨耗していた。耳を澄ませば、体内から悲鳴が聞こえてきそうだ。
野原の片隅に、一本の桜が立っていた。その下までたどり着いた途端、僕は座り込んでしまった。
「少し休んでいこう」
そう声をかけると、少女は僕の隣に腰を下ろした。足を真っ直ぐに伸ばし、雨合羽のすそを両手でぴっちりと押さえる格好で、お互いの肩がぎりぎり触れない程度の距離が空いている。
ああ、女の子なんだな、と改めて発見した気がした。そう言えば、まだ名前も聞いていない。
「君の名前は?」
問いかけて、先に名乗った。
「僕は三影平介。みっつの影に平らの介って書くんだ」
少女は不思議そうな顔で見つめ返したあと、ようやく思いついたように言った。
「うちは、咲。花が咲くの咲」
「へえ、咲ちゃんか。苗字は?」
何気なく訊ねたのだったが、途端に少女――咲は唇を尖らせた。
「……岬」
「みさき?」
「そう。海にある岬。それがうちの苗字」
みさきさき……岬咲。その名を頭で反芻する僕を、咲がにらんできた。
「ヘンな名前や思たやろ」
「あ、いや、そんなことないよ」
「ええねん。うちも気に入ってへんし」
僕はちょっと困りながらも、思ったままを口にした。
「確かに珍しい名前だとは思うけど、素敵だと思うよ」
「ええて。無理せんでも。学校の男子にもようからかわれんねん」
「別に無理なんてしてないよ。“岬に咲く”なんて、きれいな景色が見えてきそうだろ」
晴れた空と澄み切った静かな海。岬はやわらかな若草に覆われていて、その先に名も知らぬ花が咲いている。季節は春だろう。花の色は黄色が似合うと思った。
「ほんまにそう思う?」
上目遣いに訊いてくる咲に、僕はうなずいた。咲はちろりと舌をのぞかせるようにして、
「ありがと」と笑った。初めて見る咲の笑顔だった。
「学校の男の子がからかうのだって、咲ちゃんがかわいいだよ、きっと」
「えー、何それ」
「そういうもんだよ、咲ちゃんぐらいの年頃の男ってのは」
咲はちょっと考えるように首をひねってから、「そんなん、アホみたいやん」と一笑した。照れる様子もないところに、大人びた一面が見えるようだった。
携帯電話で時間を確認すると、とっくに日付は変わっており、午前一時も半分が過ぎようとしていた。タイムリミットまでは、あと三時間半。
今のうちに、体力を回復しておくべきだ。そう考え、僕は携帯食料を取り出そうと、リュックの中をまさぐった。緊張の連続からか空腹感は全くなかったが、いつ何が起こるかもわからない状況だけに、食べられるときに食べておく必要があるだろう。
と、咲の様子がおかしいことに気づいた。がくがくと体を振るわせている。
「咲ちゃん、どうしたんだ」
呼びかけると、咲は戸惑ったように弱々しく首を振り、自分の肩を抱いた。
「うち、ヘンやわ。今頃になって、なんでこんな……。さっきまではごっつ怖かっても、我慢できたのに……」
「咲ちゃん……」
「あかん。震えが止まらんねん」
咲は無理して笑おうとしていた。
僕は一瞬ためらってから、咲をそっと抱き寄せた。
「大丈夫だよ、咲ちゃん。よく頑張ったね」
息を吸い込む半瞬のあと、咲は声を押し殺して泣き出した。僕は咲の背中を抱き、頭を撫でた。
もっと早く気づいてやるべきだったと悔やんだ。
鎖につながれ、暗いトイレにずっと閉じ込められ、やっと開放されたと思えば、悪魔と罵られて襲われ、校舎の四階もの高さから、縄梯子だけを頼りに逃げ出さなくてはならなかったのだ。
僕のことだって、不安で一杯だったはずだ。いくら鎖を解いてくれたからといって、それだけで信用できる相手だとは限らない。なのに咲は何度も助けてくれた。年端もいかぬ身でありながら、精一杯に。
この子だけは死なせるわけにはいかない。水が大地に沁み込んでいくように、僕はごく自然な気持ちでそう思いながら、咲が落ち着くまでじっと抱き締めていた。
しばらくすると咲は泣き止み、うつむきながら僕から離れた。
タオルを渡してやると、ごしごしと顔を拭い、「恥かしいトコ、見られてしもた」と、また舌をのぞかせて笑った。ちろりと舌を見せるのは、咲が笑うときのくせであるらしい。
「咲ちゃん。はい、これ」
「へ? 何これ」
「夜食。泣くと、お腹が空くって言うだろ」
咲は探るようにお腹に手を当ててから、また照れたように舌をちろり。
「うん。もうぺこぺこ」
僕たちは水筒を片手に乾杯を交わした。
水を一口飲むと、それまで大人しかった肉体が、急に飢えと渇きを訴え始めた。
僕は体の欲するまま、水を体内に流し込んだ。ついでに汗と埃で汚れた、顔や首筋を濡らす。それだけで随分と甦った気がしてくる。
続いて携帯食料に手を伸ばした。
コンビニでも売っている、ブロック状の味気ない食べ物で、決して食にうるさいわけではない僕も、普段ならわざわざ食べようとは思わない一品だ。
なのに今は、それがとても美味だった。一袋目をあっという間にたいらげ、すぐに二袋目に取り掛かる。咲も同じような調子で、旨そうに頬張っていた。
「なあ、平兄ィ」
唐突にそう呼ばれ、目を瞬いた。
「へーにぃて?」
「平介お兄さんやから、平兄ィ。あかん?」
「いや、別にいいけど」
そう言いながら、僕はちょっと胸がこそばいような、落ち着かない感じだった。が、嬉しそうに「平兄ィ」と呼ぶ咲の顔を見ていると、呼び方を変えてくれとは言えなかった。
「あんな、平兄ィに教えて欲しいことがあんねん」
「教えて欲しいことって?」
訊き返すと、咲は不意に僕の方に向き直った。折り曲げた足を八の字に開いた格好で、僕のことをじっと見上げてくる。
僕はわずかにたじろいだ。咲は真剣な表情をしていた。幼いはずの瞳には、覚悟さえあることが伝わってきた。それはこの不条理な現実と、真っ向勝負してやるという覚悟だ。
咲がどういう気持ちでいるのかを悟り、僕も向かい合うように座り直した。
僕は咲にどこまで話すべきなのかをずっと迷っていた。でも咲の目を見て、全てをありのままに話そうと心を決めた。
咲はぐっと肩に力を入れ、身を乗り出すようにして問いかけてきた。
「ここはどこなん? うちらはなんで襲われんの?」
「咲ちゃんは誰かから、何かを聞いたかい?」
「なんも聞いてへん。知らん間に連れてこられて、トイレにつながれて……」
咲は自分の腕を抱き、小さく身震いする。
「顔隠した男のひとに、運が良かったら助かるって言われただけ」
ひとつ息をついてから、僕は答えた。
「まずここがどこなのかは僕にもわからないんだ。車に乗って来たんだけど、その中で睡眠薬を飲まされたらしくてね。起こされたときには、もうここへ連れてこられてたってわけなんだ」
「そうなんや……」
顔を曇らせる咲に、僕はゆっくりと続けた。
「僕はウロボロスというネットゲームをしていてね、今回はそのゲームの中で出会ったひとたちとの集まりのはずだったんだ」
「うん、わかる。オフ会のことやね」
咲の話によると、友達の中には、ネットを通じた文字での会話システム――チャットで知り合った仲間と、オフ会を開いている子が何人かいるということだった。咲自身はパソコン自体に縁がないということだったが、オフ会という言葉は聞き知っていたらしい。
「ネットの掲示板を見て、参加を決めたんだ。そこにはバーベキューをするって書いてあったよ。けれど本当はそれだけじゃなかったんだ」
「それだけちゃうって、何が?」
「とんでもないゲームが計画されていたんだ。それに僕たちは、問答無用で参加させられた」
「ゲームって?」
眉をひそめる咲に、僕は硬い声音で言った。
「本物の“財宝”を巡って、本物の武器を使って、本当にひととひとが殺し合うゲームさ」
数秒の沈黙のあと、咲は目と口を丸くした。
「……嘘や」
「嘘じゃない。実際にもう、何人も死んでるんだ。さっきだって――」
エルフェンのことを言いかけて、僕は口を閉ざした。墜落死したエルフェンの姿は、咲には見せていない。そしてこのまま、知らない方がいい。
が、咲はすでに何が起こったのかを、薄々勘付いていたらしかった。
「そやからあのひと……」
咲はつぶやき、絶句した。僕は唇を噛んでから、結局、うなずくしかなかった。
「でも、何でそんなゲームせなあかんの? みんなで逃げたらええやん」
僕は首を振った。
「ゲームに勝てば“財宝”が手に入るんだ。みんな、それを狙ってる。何も知らずにやって来たのは、八人の参加者のうち、僕を含めて三人だけさ。そのあとのふたりも、もう……」
「やられてしもたん?」
ユマノンとサブローのことを想いながら、僕は首肯した。
次に思い出したのは、ジャンヌのことだった。借金まみれになっている恋人を助けたい一心でゲームに参加し、命を落とした。
やめたくても、やめられない事情を抱えた者。他人を殺してでも、大金を手に入れる必要のある者。ベルはそういった“もうあとがない”人間を、『ウロボロス』で出会うプレイヤーの中から選び出し、ゲームに誘い入れたのだ。
「その“財宝”って何なん?」
一番辛い質問だった。でも、ごまかすわけにはいかない。
「“財宝”はふたつ用意されていたんだ。ひとつは、五千万円の小切手、もうひとつは」
咲を見つめながら、はっきりと言った。
「咲ちゃん、君なんだよ」
「え? うちが……?」
呆然とする咲に、僕は黒板に書かれていたメッセージと、トイレに置かれていた金庫のことを話した。
咲は口元を引き絞ったまま、じっと僕の話に耳を傾けていた。
僕はもしかすれば、咲が取り乱すかもしれないと思っていた。だが咲は表情を沈ませただけで、僕の言うことを冷静に受け止めたようだった。その態度には、あらかじめ覚悟していたような雰囲気があった。
話の全容を嚥下するような間を置いたあと、咲は僕の目をのぞき込んできた。
「じゃあ平兄ィは、お金やのうて、うちを選んでくれたってこと?」
「え?」
予期していない問いに、僕は戸惑った。
「あ、いや、違うんだ」
「でも平兄ィはうちを助けてくれたやん」
「そうなんだけど、ちょっと事情があるんだ」
「事情?」
「実は僕が持っていた鍵は、ゲームで用意されていたものじゃないんだ」
「どういうこと?」
「ゲーム開始直後のことなんだけど」
言いかけて、僕はふと単純な疑問にぶつかった。
「咲ちゃんは自分がなぜここに連れてこられたのか、何かわかることはあるかい?」
問いかけると、咲は途端に眉をくもらせ、ぎゅっと唇を引き締めた。
「うち、多分、売られてもうたんやと思う」
「売られた?」
「きっと借金の代わりやねん」
僕は目を丸くした。
「まさか……」
「でも、うちに来る借金取りが言うとったもん。金払えへんねやったら、娘もろていくぞって」
言葉を失う僕の前で、咲は堪えるように言葉をつむいだ。
「うちのお父ちゃん、仕事で失敗して、いっぱい借金作っとってん。そんで毎日、取り立て屋が来とった。お父ちゃんの体、全部売っても追いつかへん。そやから娘ももらうて言うてた。うちやったら、ごっつ稼げるやろて」
僕はどこか非現実的な気分のまま、咲の話を聞いていた。とても同じ日本に暮らしている女の子の話だとは思えなかった。
「咲ちゃんのお父さんは、どんなひとだったんだい?」
「いっつも怒っとるひと」
「怒る?」
「怖い顔でむっつり黙っとって、ほとんどしゃべらへん。夜もいっつも遅いし、顔合わせる暇もあらへん。そやから、何を考えとるかもわからんねん」
咲は膝を立てた足を抱え、その中へ顔を埋めた。下着が見えてしまうかどうかということも、もはや頭から吹き飛んでいるらしい。
僕は、咲にとって辛い質問になるだろうことを予感しながら、訊いた。
「咲ちゃんの、お母さんは?」
腕の中に顔を埋没させたまま、咲は首を振った。
「うちが小学校四年のとき、出て行ってしもた」
予想していた範疇の答えだった。それでもやはり、親がいないことを告白する咲の姿は痛々しかった。
同時に、似ている、と感じた。
僕も父子家庭で育った。だから、咲の寂しさや悲しさはわかってやれるつもりだった。
しかし、決定的に違う点が、ひとつある。それは――。
「うち、お父ちゃんに捨てられたんやろか」
そう咲がつぶやいたとき、突如、茂みがざわめいた。
風ではない。明らかに何かが動いた物音だった。




