3章-10 廃校⑩ ~脱出~
僕は屋上を見渡した。
広いL字型の大地が、暗闇の中にぽっかりと浮かんで見えた。外周には一.五メートルほどの高さの柵が設置されている。
が、確認できたのはそれだけで、僕の探しているものは見当たらなかった。
パソコンに入っていたデータには、賢者の塔にも屋上が存在し、塔から脱出するためのワープゾーンがあると記されていた。ならばこの学校の屋上にも、地上へつながる階段があるのかもしれないと、僕は考えたのだ。
問題はゲームの設定が、そこまで忠実に再現されているのかということだった。
ゲーム中における賢者の塔は十三階層から成っている。屋上にあるワープゾーンはその長い道のりを制覇したプレイヤーに対し、再び同じ道を引き返させる手間を省くための措置だ。
現実の建物である校舎に、ワープゾーンに相当する通路が存在している可能性は、果たしてどのぐらいあるのだろう。
疑念を抱いている暇はなかった。催涙スプレーの効力は、十五分程度だと香澄は言っていた。
僕は少女に向き直った。少女は暴れ回るエルフェンを、怯えた表情で見守っていた。悪魔だと罵られ、襲ってこられたショックがあるのだろう。だが一刻を争う今は、手伝ってもらうしかない。
僕は中腰になって少女と目を合わせ、ゆっくりと言い聞かせた。
「いいかい? この屋上のどこかに、非常階段があるはずなんだ。それをいっしょに探して欲しい」
すぐに全てを了解したように、少女はこくりとうなずいた。
少女には学校の裏手側を探してもらうようにして、僕自身は運動場側の柵へと走った。
柵から身を乗り出し、校舎の端から端までを確認する。左手には最初に入ってきた通用口があり、遠く右手には直角に折れ曲がって校舎が伸びている。折れ曲がった校舎の端の二階は、図書室があった場所だ。しかし、肝心の非常階段はどこにも見当たらない。
そのとき突然、校舎の一角に煌々と明かりが灯った。僕のほとんど真下、三階の廊下だ。
僕はぎりぎりまで体を乗り出し、目を凝らした。炎だ。火の手が上がっている。誰かが火炎瓶を使ったのだ。
炎の前には数人の“怪物”役たちがいた。突如発生した火に、逃げ惑っているのがわかる。
僕は廊下の逆方向へ視線を振った。橙色の明かりに照らされて、ほんの一瞬、長い髪が見えた気がした。
安堵と恐怖とせつなさが、ひとつとなって僕の胸に去来する。
僕は思いを振り切って、少女の方へ目線を戻した。同じように柵から校舎をのぞき込んでいた少女は、すぐに顔を上げ、腕で大きなバツ印を作った。
「あかん、非常階段なんてどこにもあらへん」
僕は胸の裡に影が差すのを感じた。やはり地上への脱出口というのは、ゲームの中だけのことだったのか。
ふたつの通用門がある壁面に非常階段がないことは、ここに来るまでにこの目でもう確認している。残るは短い直線部にあたる校舎の外側壁面だったが、そちらは山側に面しており、非常階段を設置するには不適当だと思えた。
時間切れ。そんな言葉が頭にちらつく。
エルフェンは鎌を振り回しつつもまだ起き上がっていなかったが、わめき声は随分と治まっている。催涙スプレーからの回復も時間の問題だと思われた。何よりも、殺意を抱いた他の誰かが、今にもやって来るかもしれない。
僕はうずくまるエルフェンを見つめた。とっくに思いついていた、もうひとつの脱出方法が頭をかすめる。
エルフェンの視界が閉ざされてる今なら、一方的に打ち倒すことができる。それから階段を下りていけばいい。
ただし手加減していては駄目だ。戦意と抵抗力を完全に奪うまで、徹底的に、容赦なくやらなくてはならない。
そう、殺意を持って――。
馬鹿な。浮かんだ想像を僕は一蹴した。
ここでひとを殺してしまったら、僕はどうなる? それで助かったとして、どうやって生きていくつもりだ?
父のことが脳裏に浮かんだ。僕が思い出すとき、父はいつも笑っている。それが最期だった。
父は僕の目の前で死んだ。あまりにもあっけなく。
それから僕は誰からも必要とされなくなった。自分が無意味で無価値な人間なのだと思い知らされた。
ひとと交わらず、社会に参加せず、ずっと閉じこもって生きてきた。苦しまずに逝けるのなら、いつ死んだっていい。本気でそう思うときもある。どうせ死んでいるように生きているのだ。本当に死んだところで、大して変わりはない。
だけどどこかで、僕はすがりたがっている。もう一度、ちゃんと生きてみたいと願っている。そう、生き返りたいと思っているのだ。
なのに、ここでひとを殺してしまったら、僕は二度と生き返れなくなるだろう。永遠に、無意味で無価値な存在から抜け出せなくなるだろう。
「なあ、お兄さん」
少女に呼びかけられ、僕の思考は途切れた。いつの間にか少女は僕のそばまで戻ってきていた。
「あっちからあの上へ行けるみたいやねん。ハシゴがついてる」
少女が指さしていたのは、四階部分だった。当然のことながら、屋上のその場所だけが一階層分、高くなっている。
四階部分の屋根には、二基の貯水タンクが鎮座していた。少女の言うハシゴは、その点検のために使われるものだろう。
と、僕は暗闇のなかに一点の光を見た気がした。
待て。思い出せ。どうして僕は、“財宝”が四階にあると推測したのか。それはたとえ全体の一部分であっても、四階が校舎の中における“最上階”だったからだ。ならば“屋上”も、同じように考えるべきではないのか……。
追い立てられるような気持ちが湧き上がる。僕は少女の手を取り、走り出した。
「こっちだ。急ごう」
四階部分の一角、ちょうどトイレのある空間の裏手にあたる場所に凹みがあり、そこの壁にに鉄製のハシゴが設置されていた。高さは三メートルほどはある。
「先に行くんだ」
言うと、少女はちょっとためらうような仕草をしてから階段を上り始めた。
僕はエルフェンの様子をうかがった。大丈夫。まだ立ち上がっていない。
「上、見たらあかんで」
不意の少女の言葉に、僕は上を見上げた。
雨合羽の奥に、少女の白い足と下着が見えた。うろたえながら僕は目を逸らした。
少女が上り切るのを確認してから、僕もすぐに続いた。
上に立つと、目線はさらに高くなり、暗闇に沈んだ村の全景が見渡せた。ぼんやりとだが、香澄とふたりでたどった道や橋も認めることができる。しかし今は、感傷に浸っている余裕も、景色を眺めている時間もなかった。
四階部分の屋根の一画が鉄柵で区切られ、中央に貯水タンクが並んでいた。すぐ目に付くものがあった。鉄柵のそばに、小さな黒い塊が置かれている。
僕はそれを手に取った。一見すれば、大量のロープと木の棒が束になっているようだった。でも違う。それは縄梯子だった。やはり脱出口はあったのだ。
しかし、すぐに不安が触手を伸ばす。こんなもので本当に、地上へたどり着くことができるのか。
僕は迷いを断ち切った。他に選択肢はないのだ。
縄梯子の一方の端は、すでに鉄柵に結び付けられていた。僕は縄梯子の束を抱え上げ、鉄柵の外へ放り投げた。踊るように縄梯子は落下し、たちまち一本の道となった。
柵から地上をのぞき込んだ。街中の高層ビルとは比べるべくもない。そこらのマンションだって、ここ以上の高さはある。なのに今は、地面が遥かに遠い。
学校の裏手にあたる下の平地は、運動場側とは打って変わって、雑草が伸び放題に生えた野原となっていた。ひとの手が感じられるのは、校舎のすぐ脇に作られた花壇ぐらいのものだ。無論、花壇とは言っても、レンガの枠組みが残されているだけだろう。
風に揺らめく縄梯子の先は、闇の中に消失し、確認することができなかった。ちゃんと地上まで届いているのか。そんな不安を拭い去れない。が、行くしかなかった。
「君が先に下りるんだ。下まで行ったら、茂みの中に隠れておくんだ。わかったかい?」
「うん。けど、お兄さんは?」
少女に問い返されて、僕は祈りを込めるような気持ちで答えた。
「大丈夫、すぐに行くよ」
手を握ってやりながら、少女に柵を越えさせた。慎重に縄梯子をつかませてから、そっと手を離す。
強い子だ、と思った。少女は顔色を失っているものの、決して弱気な表情はしていない。
「焦らないで。下を見ずに、ゆっくりと落ち着いて」
励ますと、少女は微笑みながらうなずいて、縄梯子を下り始めた。
少女の身軽そうな体重を受けただけで、縄梯子は屋上の縁で絞るような悲鳴を上げた。
すぐに僕もあとを追いたかったが、ふたりいっしょに下りていくのは危険だった。僕は少女が下りていくのを、じっと見守っていた。
少女の小さな胸には、今までに味わったことのない恐怖があるはずだった。
だが少女はそんな素振りをわずかも面に出していない。宿命なのだと思い定めたように、一歩ずつ地上へ向かって足を下ろしていく。
本当なら、絶え間なく声をかけていてやりたかった。でも誰かに聞きつけられることを考えれば、声を出すことはできない。
二分か、三分。いや、もっと長かったろうか。声の出せないことがどれほど辛いかを、たっぷりと痛感した頃、少女が地上へ降り立つのが見えた。
少女がこちらを見上げ、両手を大きく振った。
次は僕の番だった。邪魔になるモップをその場に置き去りにして、僕は柵を越えた。
柵の鉄柱を握りながら、縄梯子に足をかける。途端に、ぐらりと体が揺れた。
慌てて、腕で体を支える。ひやりとした思いに汗がにじんだ。
思った以上に、足場は悪い。注意しながら足を下ろし、ようやく全体重を縄梯子に託した。
短く息をついてから、僕は地上を目指し始めた。
足元だけを確認しながら、一段ずつ足を進める。高さは極力、意識しないように努めた。
意外にも、簡単にコツがわかってきた。縄梯子の揺れに逆らわず、足を伸ばしていくといい。最初は一段に両足をかけていたが、途中からは普通の階段のように、片足で一段ずつを進むことができるようになった。
ただ一段ごとの幅が狭く、なかなか思うほどには進まない。それでも四階を通過し、三階の半ばに差し掛かった。
この調子なら、じきに大地を踏みしめることができる。そう自分を励ましたとき、かたわらを何かが通り過ぎた。
地面で何かが乾いた音を立てた。下を見ると、二つに折れたモップが転がっていた。
屋上を仰いだ。ゆらりと立つ影法師。黒装束のエルフェンが、鎌を両手に僕を見下ろしている。
僕は歯噛みした。まさかこんなに早く、縄梯子を見つけられてしまうとは思っていなかったからだ。
だが僕の疑問にエルフェンが解答を与えてくれた。
「引っかかりましたね。私たちがすでにこの脱出口を見つけていたとも知らずに」
「えっ……」
「屋上の出入り口を封鎖していれば、きっとここを使うと思っていました。その方が私も手間をかけずに済みますから」
息を飲む僕を見下ろしながら、エルフェンがくすりと笑う。
「ああ、催涙剤で苦しかったのは本当です。ただ、すぐに回復していました。咄嗟に顔を背けられたおかげで、直撃ではなかったですからね。これも神と精霊のご加護でしょう」
「くっ……」
「そのあとは苦しんでいるフリを少々。もしあなた方が私の横を通り抜けるという選択をしたときは、この手で断罪を行おうと思っていたのですが……残念です」
激しい後悔と焦燥感が、胸の奥底から這いずり回り始める。全てエルフェンの掌で踊らされていただけだったとは。
「あの汚らわしい悪魔の化身も、私があとからちゃんと浄化いたします。あなたは先にヘブレイムの丘へお行きなさい」
エルフェンは見せつけるように鎌をきらめかせてから、その場にしゃがみ込んだ。途端に縄梯子に微弱な振動が伝わってくる。
僕は凍りついた。エルフェンは、縄梯子を切り落とそうとしているのだ。
地上まではまだ十メートル以上が残っていた。ここから転落すれば、ただでは済まない。
僕は急いで梯子を下り始めた。だが焦れば焦るほど、手足がうまく動かない。さっきまでのリズムもどこかに飛んでしまっている。
がくん、と大きな揺れに、僕はバランスを崩した。右手でつかんでいたロープの感覚が、いきなり消失する。
片側のロープが切られたのだ。思ったとき、僕は力を失った梯子に翻弄され、壁面に体をぶつけていた。
壁にこすりつけられ、体の各所に熱い痛みが走る。歯を食い縛って耐えた。ロープを握る手には渾身の力を込める。
一度、振り子のように大きく揺られたあと、縄梯子の動きは止まった。
休んでいる間はなかった。新たな振動がロープを伝ってくる。
僕は一本のロープとなった縄梯子を滑っていこうとした。が、梯子の段の役割をしていた木の棒が、降下しようとする僕の邪魔をする。
とても地上まで間に合わない。恐怖とともに思ったとき、声が届いた。
「お兄さん、ここや。ここの花壇に飛び降りて!」
少女が叫んでいた。手にはスコップを持っている。
僕は少女の言う意味を、瞬時に理解した。土が盛られている花壇なら、他の場所よりも柔らかいはずだ。
ロープにぶら下がりながら、僕は下を見た。花壇は校舎からニ、三メートル離れた場所に作られている。
届くのか。いや、そんなことを考えている余裕は、一秒だってない。
よぎった不安を振り切って、僕は壁を蹴った。
半瞬の浮遊感のあと、一気に落下が始まる。
足だけで着地しては駄目だ。テレビで観た、パラシュート部隊のイメージ。全身で転がるように着地する。
花壇の中央。地面に足を着いた。
そのまま大地に体を預けるように倒れ込む。勢いのまま転がった。数回、回転したところで止まった。夜空が見えた。
「大丈夫?」
少女が駆け寄ってきた。今にも泣き出しそうなその顔に、僕は微笑んで見せた。
僕は体を起こした。手足を動かし、首を回す。
平気だ。立ち上がって腰をひねった。いたるところがじんじんと痛んだが、骨には異常ないようだ。
「ありがとう。おかげで死なずにすんだ」
やっと少女も笑ってくれた。スコップを握ったその両手は土に汚れていた。
僕はもう一度、少女に心から感謝した。少女はあの短い間に、土がクッションになるように、花壇を掘り返してくれていたのだ。
夜気を切り裂くような悲鳴が聞こえた。
屋上を見上げた。エルフェンが宙を飛んでいた。
僕は咄嗟に、少女を胸の中に抱いた。
直後、どん、と重たい音が地面に響いた。
少女を強く抱き締めたまま、僕はぎこちなく目を動かした。
エルフェンがうつ伏せになって倒れていた。その頭部から、黒い染みが筆で刷いたように伸びていた。
再び屋上を見上げた。
誰もいなかった。が、翻った長い髪を、僕は見た気がした。




