3章-6 廃校⑥ ~決別~
「これだけはわかって。わたし、本気だったのよ」
香澄の瞳が、光を放ったように見えた。
咄嗟に体をひねった。刹那、左腕に灼熱が張り付いた。
僕はそのまま床に倒れた。衝撃の中、香澄の名を呼ぼうとした。苦悶の声しか出なかった。
不意に、図書室の扉が突風に叩かれたような勢いで開かれた。
影が躍り込んできた。頭巾にマント姿。“怪物”役たちだった。
雪崩のように足音が響く。香澄が身を翻すのがわかった。澄んだ粉砕音。どこかでガラスが割れた。
僕は立ち上がった。目の前に“怪物”役の姿があった。
驚く気配が伝わってきた。僕に気づいていなかったのだろう。
モップを両手に支え、“怪物”役にぶつかった。雄叫びを上げていた。相手が転倒した。それを飛び越え、出入り口へ走った。
怒号が聞こえた。またどこかのガラスが砕けた。
「香澄!」
叫んだ。しかし返事はなく、姿も見えなかった。
背後で“怪物”役が起き上がろうとするのを感じた。
僕は走り出した。もう振り返っている余裕もなかった。
一階へ続く階段。駆け下りた。すぐうしろから、誰かが追いかけてくるのがわかった。
踊り場で折り返したとき、ヒップバッグから火炎瓶を引き抜いた。
床に叩きつける。ガラス瓶は簡単に砕け散った。
愛用していたジッポライター。火を点けた。
“怪物”役が踊り場に着地するのが見えた。フードの奥から殺意が吹きつけてくる。
ライターをそのまま投げ捨てた。ぼうっ、とうなり声とともに、炎が広がった。
階段の幅いっぱいに、炎が踊る。あっという間に、熱気が立ち込める。
“怪物”役が慌てて後退さる。僕はそのまま一階へ向かった。
右手に通用口。左手に廊下。考えもなしに、通用口の扉を開いていた。
外の風が僕を包む。後ろ手に扉を閉じた。
運動場に飛び出した。がむしゃらに走った。胸が張り裂けそうに痛かった。
運動場の真ん中に、大銀杏が立っている。僕はその巨影に向かって全速力を出した。
このまま激突してやろうか。本気で思った。
なのに、その手前で足が絡まった。思い切り転んだ。
痛みが僕を嘲笑う。涙がにじんだ。
左腕を押さえた。血にぬめる感触があった。上腕部分に深い傷ができていた。ボウガンの矢がかすめたあとだった。
僕はよろめきながら、大銀杏に近づいた。木の幹に額を押し当て、拳を打ちつけた。
怒りがあった。哀しさがあった。悔しさもあった。情けなさもあった。全部、自分を責める、行き場のない感情だった。
「結局、僕は、自分を隠したままで、何も言えなくて、香澄も止められないで……」
何度も拳で大銀杏を叩いた。
「僕は、ほんとうにどうしようもない男だ……!」
空しく声が響く。ざざっ、と大銀杏が風にざわめいた。
僕は大銀杏に背を預け、座り込んだ。深く息を吐き出す。心も体も打ちのめされたように疲れていた。これからどうすればいいいのか、何も思いつかない。
大銀杏からは校舎の全体像が見渡せた。幹の裏手に回りこんだ方が安全なことはわかっていたが、それさえも面倒だった。
図書室があった辺りを見る。火炎瓶を投げつけたことで、火事になるのではないかと思っていたが、特に異変は起きていないようだった。すぐに鎮火されたのかもしれない。
香澄は無事に逃げおおせられたのだろうか。それだけが気になった。
腕の傷がずきずきと痛んでいた。その痛みが、磨耗しきった僕の精神と肉体を、覚醒させ続けていた。
治療をするため、“回復の泉”で手に入れた薬を取り出した。
消毒液を塗ったあと、傷薬を大量に擦り込む。上から分厚く重ねたガーゼを押し当てた。すぐに血がにじんできたが、構わずハンカチできつく縛った。
抗生物質があったことを思い出し、ポケットをまさぐった。指先に金属の感触があった。
何だろう? 取り出してみて驚いた。
鍵だった。いまどき珍しい、古い形の鍵――。
僕は狼狽した。なぜならその鍵はどう見ても、“財宝”を手に入れるための鍵だったからだ。サブローが手に入れ、今は香澄が持っているはずの鍵。それがどうして、僕のポケットの中に?
ただ異なるのは、図書室にあった鍵が金色をしていたのに対し、僕の手にある鍵は、真鍮の鈍い銀色をしていることだった。
思い違いだろうか? だとしても、いつ、どこで紛れ込んだのだろう?
と、鮮やかに甦った光景があった。
運転手の男。血を吐く直前、僕にすがりつくようにして倒れたあのとき、腰の辺りに男の手が這うのを感じていた。
さらに記憶が繋がっていく。
男は僕に訴えていた。フードに顔を隠しながら、声を出さずに、唇の動きだけで。
その言葉ははっきりと覚えている。ただ、あのときは意味がわからなかった。
でも今なら――。
黒板に書かれていたメッセージ。財宝はふたつ用意されている。そう、財宝は二種類あるのだ。
まさか、と思う。常識では考えられない。しかし殺人さえ容認されているこのゲームの中で、禁忌などあるはずもない。
僕はすでに、ほとんど確信していた。二種類ある財宝のもうひとつは“それ”なのだ。
鍵を強く握り締めた。だからと言って、どうする? どうすればいい?
財宝が本当に“それ”だとすれば、僕がこのゲームを乗り切るのはさらに困難になるだろう。それでもいいのか?
畜生。男は死の直前、安堵の表情を浮かべていた。なぜだ?
わかっている。僕が男の願いに、うなずいたからだ。だから男は僕に鍵を託した。安心して死んで行ったのだ。
僕は校舎を見上げた。一角だけ、高さの違う部分がある。四階だ。おそらくはあそこに“財宝”がある。
行くのか? 自分に問いかけても、震えしか返ってこない。
今すぐにゴールを目指せば、助かる確率は大きく上がる。逆に“財宝”を取りに行くことは、殺し合いに身を投じるということだ。
自ら進んで、己の命を掛け金として、このゲームに乗るということだ。
馬鹿げている。やめておけ。
どこかでもう一人の僕が囁く。
だけどここで逃げ出して、それで助かったとして、僕は真っ直ぐに生きていけるのか?
出てしまった答えからは、目をそむけることはできない。
僕は立ち上がり、再び校舎に向かって走り出した。




