2章-8 惨劇の跡地
地面を蹴り、全速力で橋に突入する。視線は回りに散らせながら、真っ直ぐに向こう岸を目指す。祈るような数秒間が刻まれる。
奇妙だったのは、橋から見下ろす川が完全に枯れていることだった。思い返せば、これまでも橋が見えていたから川があると思い込んでいただけで、水音を聞いた憶えはなかった。
人間が村を捨てたからといって、川の水まで消えるとはどういうことだろう。ちらりと思ったが、深く考えている余裕はなかった。今、動かさなくてはいけないのは、頭ではなく、足だった。
よし、橋を渡り切った。そのままスピードを落とさず、僕たちは目に付いた廃屋に走り込んだ。
崩された壁に背を預け、二度、三度と大きく息をつく。さらに数秒。何事もない様子に、力が抜けた。
「こんなに必死になって走ったのは、生まれて初めてかもしれないよ」
「わたしもよ。中学校のとき、チーム対抗リレーの代表選手になったときだって、もう少し余裕があったわ」
荒い息を吐きながら、笑みを交わした。そのとき僕は廃屋の片隅に段ボール箱が置かれているのを見つけた。中を調べてみると二十万円が入っていた。一回のレースの賞金とすれば、そこそこというところか。有り難く頂き、全額を香澄に預かってもらうことにした。
呼吸を整えてから、僕たちはいよいよ学校へのアプローチを開始した。
とは言え、かつては村の中心部であったと思しき場所だけに、廃屋が並び、また道も入り組んでいるために、真っ直ぐ学校へ向かうことは叶わない。必然的に僕たちは、物陰から物陰へと移動を繰り返すこととなった。
ひりひりとした緊張を感じていた。いつ、どこから、何が現れてもいいように、神経を集中させていた。だが心のどこかで、自信のようなものが芽吹きかけていたのも事実だった。
このまま何も起こらないのではないか。危険な目に遭わずに済むのではないか。自分たちで思っているよりも上手く、事を運べているのではないのか。そんな淡い期待が僕の中に生まれ始めていた。
幾つ目かの曲がり角を越えたとき、いきなり道幅が広がった。左右には石垣が組まれ、坂とも言えない程度の登り道が真っ直ぐに伸びていた。
「ちょっと面倒だけど、石垣を登って上を進もう」
「どうして?」
「ここで襲われたら、左右へ逃げることはできないだろ。危険だよ」
言ってから、香澄がまじまじと見つめ返していることに気づいて、僕は弁解がましく付け加えた。
「臆病かもしれないけど、念には念を入れる方がいいと思ってね」
香澄はぶんぶんと首を横に振った。
「臆病なぐらいがちょうどいいのよ。すごいわ、平介」
手放しで喜ぶべきなのか分からない微妙な賞賛を受け取ってから、僕は石垣を登り始めた。高さは二メートルほどで、手を伸ばせばらくに上まで届く。ひと息で登ってから、続いて香澄を引き上げた。
石垣の上は広い更地になっており、巨大な土管や錆びた鉄パイプなどがまとめて放置されていた。何かの大規模工事のあと、残った資材をそのまま捨て去って行ったような印象を受ける風景だった。
ざっと見渡したが、ここも今までと変わらぬ静寂が支配しているようだった。気は抜けないものの、襲撃がある気配はない。そう判断しかけたとき、香澄が口元に手を当て、前方の一角を指差した。
「あそこ、ひとが倒れてるんじゃない……?」
すぐに気づいた。積み上げられた土管の向こう、地面に投げ出されているのは、確かにひとの足だった。
胸を締め付けるような緊張が走る。僕たちは遠巻きに土管を回り込み、反対側の影をのぞいた。
ひとが倒れていた。頭巾をかぶったマント姿。“怪物”役だとわかった。
胸から棒が生えていた。矢だ。突き刺さった矢が、月光に鈍く光っている。
「死んでるの……?」
香澄の声に僕は首を振り、倒れている“怪物”役にゆっくりと近づいた。
中年の男だった。横たわりながら、目の前の何かに驚いているようだった。目を丸くして、口をぽかんと開いている。口元から奇妙な線が幾本も描かれていた。よく見るとそれは、流れ出した血液だった。
男が死んでいると確信したのは、矢の隣に突き立てられた軍用ナイフを発見したからだ。断言はできないが、位置的に心臓をとらえていると推測できた。矢で射たあと、ナイフで止めをさしたというところだろう。
誰がやったのか。すでにひとりの名前が浮かんでいた。
「多賀さんね。あのひとがやったのね?」
微弱に震える香澄の声に、僕もうなずいた。男を射抜いた矢は、アーチャーに支給されたものだった。ユマノンが同じものを持っていたのを憶えている。
もちろん、それだけの理由で多賀だと決め付けることはできない。だが僕たち冒険者側のメンバーの中に、すでに殺人を犯した者がいることは間違いなかった。
男の胸に突き立っているナイフが血に濡れながら、鈍く光っている。
このナイフを引き抜き、持って行くべきだろうか。
そんなことを考え、僕はすぐに首を振った。例えこの先、武器が必要になるのだとしても、とても恐ろしくて僕にはできそうになかった。
僕たちは男の死体から逃げるように、その場を離れた。
すぐにまた足を止めなくてはならなかった。数メートル先の生い茂る雑草の中に、別の“怪物”役が倒れていた。
呆然となりながら、何気なく視線を移動させると、僕たちが登った逆側の石垣の上にも“怪物”役を見つけることができた。
いきなり現実感が喪失していくようだった。死体がごろごろと転がっている映像。ここはブラウン管の中なのか? 突然、遠いところへ放り出されたようで、頭の中が虚ろになる。
だが、ぼうっとなっていたのはほんの一瞬だった。どこからか、うめき声が届く。
たちまち驚愕と恐怖が襲ってきた。頭のてっぺんから、大量の氷をざらざらと流し込まれたような感覚。冷たくて硬い氷が、袋となった僕をつま先から一気に埋め尽くしていく。
「そこにいるのは……誰だい?」
夜気に紛れてか細い声が聞こえた。僕は咄嗟に火炎瓶とライターを構えた。
「僕だよ、ジャンヌです。今、ちょっと動けなくて……」
名を告げられて、はっとなった。僕と香澄は目配せをしてから、声の聞こえた方へ慎重に足を向けた。
砂山があった。ひとの背丈ほどの高さに盛られている。根を下ろしにくいはずなのに、長年の歳月をかけて雑草が芽を出していた。
ジャンヌは砂山に背を預け、目を閉じていた。僕がそばに立つと、眠たそうに目を開いた。
「ああ、ニトさん……」
ジャンヌはうっすらと笑った。
「ちょっと満月を見てるんだ。なかなかいい月だよ」
ジャンヌの口から細く血が滴り落ちた。胸には矢が三本も突き刺さり、赤黒い染みを広げていた。アーチェリーのとはまた別の、短い矢だった。
傷ついた体で這い進み、この砂山まで来たのだろう。ジャンヌの足元からは引き摺った血のあとが続いていて、向こうには剣と盾が落ちていた。
医学の知識を全く持ち合わせていない僕から見ても、ジャンヌが死に瀕していることは一目でわかった。
どうすればいいのか分からないまま、僕はジャンヌのそばに片膝をついた。
「エルフェンさんとここまで来たんだけどね……、ばったり多賀さんと司馬さんのペアと出遭っちゃって……、そうしたら何だか競争みたいになってね、みんなで走って道を上ったときに、いきなり“怪物”たちに襲われたんだ……」
ジャンヌは途切れ途切れに言葉をつむいだ。
「もうわけ分かんなくなっちゃって、みんなバラバラに逃げたんだけど……僕はご覧の通りのありさまってわけさ……」
まさか、という思いがあった。ジャンヌこそが、メンバーの中に紛れたスタッフだと考えていたからだ。しかし三本の矢が、僕の読み違いを完全なまでに否定していた。
聞いておくべきことや、確かめておくべきことはたくさんあるはずだった。だが死に行く相手を前に、言葉が形にならなかった。それでも僕は、やっとひとつだけ問いかけることができた。
「ジャンヌさんは知ってたんですか。殺し合いをするゲームだってことを」
「まさか……。ただ、大金が手に入るって、ベルから聞いたから……」
ジャンヌは苦しげに目をきつく閉じた。
「お金が必要だったんだ。彼を助けようと……。たくさん借金があって、追い詰められてたんだ。最低だよね、ギャンブル好きってのは……」
隣にしゃがみ込んでいた香澄が、僕だけに聞こえるように、そっとつぶやいた。
「ジャンヌさんが“多重債務者”だったのね。閲覧したホームページはわたしと同じものだったんだわ」
ジャンヌが彷徨わせた手を、僕は握り返した。服の袖がまくれ、あらわになったジャンヌの腕には、みみず腫れのような傷が幾つも走っていた。
うわ言のようにジャンヌは続ける。
「でも力になりたくて……よせばいいのに、放っておけなくて……」
一秒ごとに不明瞭になっていく言葉は、消えかける蝋燭の火を思わせた。
「だけどこれで良かったのかも……。どのみちこのままじゃ、駄目になったからね……。大切なものが壊れる前に……終わることが……」
不意にジャンヌが胸を大きく上下させた。
長くは続かなかった。数度の呼吸のあと、空気が抜けていくように息を吐き出し、それきり動きは止まった。
「ジャンヌさん?」
返事があるとは思っていなかった。ただの確認だった。そして思った通り、もう反応はなかった。
香澄がジャンヌの手を胸の上で組ませた。
「結局、彼の本名もわからないままね」
寂しそうに香澄が言った。
「いくら何でも、死人の懐を探る気はしないものね」
僕は黙ったままうなずいた。香澄が示唆するように、財布を調べれば名前ぐらいはわかるかもしれない。が、少なくとも今は、そんな行為にさしたる意味があるとは思われなかった。プロフィールを見たところで、そのひとを知ることにならないのと同じことだ。
その死を誰よりもそばで見送りながら、僕は目の前の青年のことを何ひとつ知らない。だからだろうか。胸は痛んでも、涙がこぼれるほどではない。
でもそれはとても哀しいことのように思えた。せめて名前だけでも聞いていればと、ようやく後悔した。
ジャンヌの死を看取ってから、僕と香澄は付近を手早く捜索した。ひょっとすれば、他のメンバー――多賀、司馬、エルフェン――が負傷しているかもしれないと考えたからだ。
でも杞憂に過ぎなかったらしい。三名の姿はなく、また“怪物”役の何者かを発見することもなかった。
新たに判明したことは、“怪物”役は全て男であり、中年という言葉で括られるほどの年齢であるということだった。思えばあの運転手も同じ共通項に当てはまる。スタッフとは言うものの、バーベキュー会場で働いていた連中とは明らかな差があるようだった。
他のメンバーに遅れを取っているとわかった以上、ぐずぐずとしていられなかった。一度、誰かの手に落ちれば、五千万円の小切手を獲得するのは、より困難になるのは確実だった。
でも僕には大きな迷いが生じていた。
四人分の遺体が転がる現場の中で、淡い期待や希望は捨て去るべきだと痛感した。このまま進めば争いは避けられない。それはすなわち、否応なしで殺し合いに巻き込まれることを意味している。
しかし、追い詰められている香澄を説得できるほどの強い言葉を、僕は持っていなかった。
いや、本当のことを言えば、ひとつだけ方法がある。“あのとき”のことを話すのだ。僕が無意味で無価値な人間になってしまった、“あのとき”のことを。
だがそれを知れば、きっと香澄は――。
香澄が出発をうながした。もう考えている時間はない。僕は迷いを抱えたまま、怯えるような気持ちで提案した。
「ねえ、学校を素通りするって手もあるんじゃないかな」
「え?」
「ベルが言ってたろう? このゲームでは、最初に迷宮から抜け出した者が勝者となるって。要するに早いもの勝ちなんだ」
「だから?」
香澄の口調が変化したことには気づいたが、僕も引き下がるわけにはいかなかった。
「学校を無視して、先へ進むんだよ。きっと他のメンバーは、必死になって学校を探索してるんだと思う。その間に、僕たちはゴールへ向かうんだ」
「それは幸せなひとの意見よ」
香澄の瞳、口調、態度の全てが温度を下げていた。
「でもわかるでしょう? わたしは違うの。このままじゃ、帰る場所なんてないんだから」
予想していた通りの反応だった。
もう人生にあとがない。だから命に関わる危険があると知っても、ゲームから下りることができない。それはきっと多重債務者であったジャンヌも、元殺人犯や薬物中毒者である誰かも同じなのだ。
「だけどこのままじゃ、殺し合いをすることになるかもしれないんだよ。それを香澄は、ちゃんとわかっているのかい」
もう何度目だろう。またユマノンの言葉が反芻される。
――自分が生き残るために、誰かを殺す。その覚悟がある。そういうことだと思うわけです。
僕にそんな覚悟はない。覚悟をする気もない。
だったら逃げればいい。逃げて、逃げて、逃げまくる。
単純な答えだ。そして多分、一番いい答えだ。
この考え方自体が逃避なのかもしれない。それでもいい。逃げることの何が悪い?
ただし、ひとつだけ条件がある。
僕ひとりじゃ駄目だ。香澄もいっしょでなければ。
「わからないわ。わかるはず、ないじゃない」
香澄は今にも泣き出しそうだった。
「でも仕方ないの。このまま帰っても、わたしは死んでいるのと同じ。だから最後までやってみるしかないのよ」
「そんなことないよ。そんなことは絶対にないんだ」
「適当なことを言わないで。平介は何もわかってないんだわ」
違う。僕はわかっている。なぜなら、本当にぎりぎりのところまで追い詰められたことがあるからだ。
どうすればいい? やはり“あのとき”のことを言うべきだろうか。
「ここで別れましょう」
あきらめたように香澄が言った。
「平介は先にゴールへ行っておいて」
「香澄、ちょっと待って」
「大丈夫。わたしひとりでも何とかなるわよ。すぐに追いつくわ」
香澄はちょっと困ったように微笑んだ。その瞬間、僕の迷いは消滅していた。
言えない。やはり“あのとき”のことは言うわけにはいかない。それが僕の結論だった。
僕は卑怯者だ。“あのとき”のことを話せば、香澄を止められるのはわかっていた。なのに口を閉ざしたのは、香澄を失いたくなかったからだ。“あのとき”のことを知れば、きっと香澄は僕から離れていく。
香澄は僕にただひとり、意味と価値を与えてくれるかもしれない存在だった。そんな香澄を、僕はどうしても失いたくない。
僕はやはり自分を隠し、偽らなくてはならないのだった。そして、にせものとして生きることを決めたのは、他ならぬ自分自身なのだ。
「わかったよ。僕もいっしょについて行く」
僕の言葉に香澄は涙をにじませた。本当はどうしようもなく心細かったのだと告白したあとで、香澄は言ってくれた。
「平介が必要なのよ」
それは僕が一番聞きたいと望んでいた言葉だった。なのに胸中には、魂を売り払ってしまったような罪悪感があった。