2章-6 彼女の事情
僕たちはしばらくの間、無言で歩き続けた。
村の中心部の方へと続く一本道を、ただ漫然とたどる。地図で場所を確認することもなく、周りを警戒することもない。こんな状態では危険だと、頭の片隅が警鐘を鳴らしていても、心がそれに反応しない。
――自分が生き残るために、誰かを殺す。その覚悟がある。そういうことだと思うわけです。
ユマノンの言葉だけが僕を激しく揺さぶっている。
生きるために殺す。自分の“生”を拾うために、誰かに“死”を与える。命を救うために、命を奪う。
弱肉強食。食物連鎖。生物のピラミッド。自然の摂理。そんなお題目はどうでもいい。そんな言葉はただの言い訳に過ぎない。
単純な問いかけだ。ひとを殺す――殺人――それができるのか? やれるのか? やるつもりなのか? 覚悟はあるのか? 決断は済んでいるのか?
僕が。この僕が。この手で。誰かを――殺す?
もう無意味で無価値な存在なのに? ひとを殺す?
そこにどんな意味がある? どんな価値が生まれる?
誰かを殺して命をつないで、そこからどんな風に生きていく?
さあ、決断の時間だ。殺人を犯す――イエスかノーか。
殺人を犯して生きていく覚悟がある――イエスかノーか。
答えは――。僕の答えは――。
「くよくよしても仕方ないわ。わたしたちはまだ生きてる。そうでしょ?」
不意に香澄の声が聞こえた。我に返って前を向くと、香澄の直視する瞳とぶつかった。
「今、必要なのは悩むことじゃなくて、必死に生き抜くことよ。最後の最後まで一生懸命生きて、それから考えればいいじゃない」
すぐに反応できなかった僕に、香澄は無理矢理何かを握らせた。スプレー缶だった。
「これは?」
「催涙スプレーよ。痴漢なんかを撃退するための護身道具。今日のために、わざわざ買ってきたの。効果はすでに実践済みよ。十五分程度は行動不能になるって聞いたわ」
香澄の言う“実践”に、僕はすぐに思い当たった。さっきの小屋で襲撃者から逃げ出そうとしたとき、確かに噴射音が聞こえていた。
「催涙スプレーには気体状と液体状があるらしいんだけど、それは液体状なの。気体状だと風向きで自分が被害を受ける場合があるらしいのよ。街中ならそれでも問題ないそうだけど、オフ会はアウトドアだってわかってたから、液体状のものを選んだの」
香澄は唐突に催涙スプレーの説明を始めた。僕にはその脈絡のない話が、心の整理をつけるのに必要な行為なのだとわかった。
「催涙スプレーは相手の顔に命中させなきゃ意味ないわ。でも液体状の欠点は、相手を狙いにくいこと。そこでコツなんだけど、まず相手の胸元を狙って噴射するの。それから腕を真上に振り上げる。するとそのまま相手の顔面に催涙液がヒットするってわけ。ちなみにボタンを押す指はひとさし指じゃなくて、親指の方がいいんだって。わかった?」
まるで教師が生徒に対するように、香澄は腰に手を当て、少し首を傾げて見せた。
「強いね」
僕は口元がほころぶのを感じた。
「香澄は本当にすごいよ」
「別にすごくないわよ。平介やユマノンさんと違って、わたしは始めから、ちょこっと覚悟してただけ」
微笑みながら、しかし香澄は真剣な声音で言った。
「それにわたしには、もうあとがないからね」
一瞬、言葉に詰まりかけたが、僕は訊いていた。
「彼氏のこと?」
「きっと今頃、血眼になって探してるでしょうね」
「どんなひとなの?」
普段なら到底、口に出すことはない問いだった。
「大好きだって言ってくれるわ。世界中の誰よりも、お前を必要としてるって」
「そうなんだ」
「それだけの男よ」
香澄は嘲弄するように唇を歪ませた。
「わたしのことを何も見てくれないし、考えてもくれない」
「でも必要だって言ってくれるひとがいるのは、大切なことだと思うよ」
誰からも必要とされないことに比べれば、と僕は胸中で付け足す。
「わたしもそう思ってたわ。だから必死になって、彼に応えようと努力した。けれど、あるとき分かったのよ。これは違うって」
「違うって、何が?」
「一方通行なのよ。わたしはあげるばかりで、彼は受け取るばかり。何にも返してはくれない。だから疲れちゃって、でも気づいたときにはどうにもできなくて、それでとうとう……」
香澄はしぼんでいく声に引き摺られるようにうつむいた。
僕は香澄が深い傷を抱えていることを察した。しかし一方で、香澄の言う意味をつかむことはできなかった。
誰かに必要とされたのなら、それは生きる力になるはずだ。少なくとも僕は今までの人生経験から、そう信じている。だから僕自身、自分に無理を重ねても、必要だと思ってもらえるように頑張っているのだ。
「ほら、見て」
一転して明るい声を発した香澄は、首から提げたペンダントを見せた。
「これだけが唯一の名残なの」
か細い鎖の先にプレートがぶらさがっており、そこに丸く青い石がはまっていた。石には銀色の模様が流れ込んでおり、宇宙から見た地球のように見えた。
「名残って?」
「彼と出会ったときに、わたしにくれたのよ。安物だけどね。彼からもらったプレゼントはこれっきり。幸せだった頃の名残ってこと」
胸が痛かった。香澄の笑顔がせつなかったし、見知らぬ香澄の恋人に怒りも湧いた。
「大切にしてるんだね」
「そうよ。これでもなかなか、ロマンチックなところもあるでしょ」
ふたりして小さく笑い声を上げた。それは、あまりにも殺人ゲームには似合わない一瞬だった。
「不思議よね。最低のオフ会だけど、ここに来てなかったとしたら、わたしたち、町のどこかですれ違っても、話すことなんてなかったでしょうね」
「確かにね。僕と香澄が並んで歩いていたら、不釣合いだって周りの男性陣から睨まれそうだよ」
「そうじゃないわよ」
香澄は腹を立てたように言った。
「平介こそ、わたしみたいな女、嫌いでしょ」
「嫌い? どうして?」
「わたし、馬鹿なのよ。ヘンな男につかまって、夜の店で働かされてるのよ。自分でもほとほと汚れてるって思うもの」
笑顔のまま、ため息をつく香澄に僕は言った。
「そんなこと、ない。汚れてるやつは、もっと他にいるよ」
それは不純物のない、強い思いだった。
父親の顔が脳裏にちらついた。忘れたいのに、そう努力しているのに、今でも鮮明に焼きついている。
ありがとう、と聞こえて、我に返った。
「優しいわね」
「そんなんじゃないよ。僕は本当にそう思うだけで……」
「ううん。わたし、正解だったわ」
「正解って?」
「パートナーに平介を選んだことよ」
香澄は悪戯っぽくはにかんだ。
「実はわたし、ゲームが始まる前からパートナーになってくれるひとを探してたのよ。ひとりじゃ絶対に勝てないって思ってたから」
「へえ。じゃあ、どうして僕を」
「平介はわたしの胸やお尻を、じろじろと見なかったわ」
目を丸くする僕をひとしきり笑ってから、香澄は「冗談よ」と訂正した。
「まあ女の勘ってやつかも。ひどい男はもう見慣れてるから」
「だからって頼りになるとも思えないけど」
苦笑しかけた僕をさえぎるように、香澄が見つめてきた。
「ねえ、平介」
「ん?」
「もしもこのゲームが無事に終わったら、またわたしと会ってくれる?」
「あ、うん。もちろんだよ」
さらりと答えた、と見えるように振舞った。が、成功したかどうかはわからなかった。
いきなり鼓動が跳ねていた。ここが暗い場所で助かった。もしも昼間なら、今頃僕の真っ赤になった顔を見られただろう。
馬鹿な期待をするんじゃないぞ、と誰かが忠告している。わかっている。わざわざ言われなくても、十分に承知している。香澄も本気じゃない。ちょっと口走ってしまっただけだろう。こんな極限状態にいるから、気持ちが昂ぶっているだけなのだ。
でも、それでも、全く期待していないかと問われれば、そうではないのが哀しいところだ。
しばらくまた、僕たちの間に沈黙が訪れた。
僕は息苦しさを感じていた。しかしそれは、さっきまでとは全く別の緊張感から来るものだった。この沈黙の意味は何なのか? 愚かしくもそんなことを考えてしまう。何もないところに何かあると信じたくなっている自分が、ひどく滑稽だった。