葵サイド~一年前の回想~
葵サイド~一年前の回想~
揺れる電車の中で水口葵は考えていた。
今日の五時間目が終わった直後、理数科クラスの彼氏でもある桂木宙が国公立進学組である葵の教室に訪れてかなり不機嫌な顔で『早引きするわ』とそう告げて直ぐに教室を出て行った。
付き合い始めて一年。
宙が早引きをするなんて一度も無かった事なので葵は驚いた。
身体の調子が悪いわけでもなく、ただ、機嫌が悪いだけと言った感じだったのでその様子が気になって仕方がなかった。
そんな思いが五時間目を終えた直後からずっと続いていて、この帰りの電車の中でもその思いをずっと引き摺っていた。
いつもとと変わらない景色が、いつも隣にいる宙がいないだけで、殺風景なモノクロ写真のように見える。
最初に宙と出会ったのはちょうど一年前の昼休みの図書室だった。
葵は女の子には珍しく甲虫好きでインターネットで購入したヘラクレスオオカブトをペアで飼っていた。
その為か図書室に行くとどうしても甲虫図鑑に手を伸ばしてしまい殆ど毎日飽きもせずその甲虫図鑑に見入っていた。
「お前、ええ加減にせぇよ。なんで毎日同じ図鑑ばっか見とるんじゃ」
そう言われて顔を上げると桂木宙が不機嫌そうな顔で葵を睨んでいた。
話しを聞くと彼もこの図鑑が見たくて毎日図書室に顔を出していたのだがこの図鑑を先に読んでいる女のせいで見る事が出来ないと文句を言ってきたのだ。
葵は「ごめん」と謝ってその図鑑を宙に譲った。それがきっかけでお互いが飼っているカブトムシの話しになりカップリングさせようと言う話しを持ちかけてきた。
最初に葵は相手のカブトムシの名前が気に入らないと言って断っていたが「名前を変えるから頼む」としつこく迫って来たので葵は渋々了承してペアのカブトムシを持って自宅から四駅先の宙の家に向かった。
彼の家は開業医をしていた。
なぜ、彼が理数科なのかよく分かった。彼も将来医学部に進学して親の後を継いで医者になるつもりなのだ。彼は葵と学年が同じでクラスは違ったが彼の存在は知っていた。
中性的な顔に似合わず関西弁を喋る宙は目立つ存在だった。
彼に思いを寄せる女の子も何人かいたが思った事をストレートに口にする為、告白すら出来ないとよくその女の子たちは嘆いていた。
宙の家は医者らしく豪邸と呼べるものだった。病院は表通りに面しており自宅はその裏手にあり自宅と病院を簡単に行き来出来るようになっていた。
玄関先に出て来た母親はとても可愛いお人形のような人で宙は大変母親に似ていると思った。
「まぁ、ヒロちゃんが女の子を連れてくるなんて初めてね」
母親は宙と共に玄関に立つ葵を見て女子高生のように喜んだ。
「コーヒーがいい?それとも紅茶?」
「どっちにする?ジュースもあると思うけど」
「うん、紅茶でいい。お邪魔します。水口葵といいます」
葵は頭を下げて挨拶をした。
「アオイちゃんね。可愛い名前ね。紅茶はミルクがいい?レモンがいい?」
「はい、ミルクでいいです」
「ヒロちゃんはコーヒーよね」
「いや、同じのでいい。ミルクティーにして」
吹き抜けの玄関の床は御影石で出来ていて足が冷たいでしょうと言って母親が葵にお客さん用のスリッパを差しだした。
シックな調度品が飾られた玄関は大理石よりこの御影石の赤茶けた色合いがとても合っていると思った。葵は二階の宙の部屋に案内された。
宙の部屋は子供部屋と言うより普通の家庭のリビングといった感じだった。お金持ちの息子の贅沢な部屋は男の子の部屋らしくモノトーンな色合いで統一されていた。部屋に置かれている1つ1つのものがホームセンターで買いそろえた安物ではないのがよく分かった。
部屋の中央には一メートル位の水槽が置いてあった。
葵は部屋に入ると遠慮もせずに水槽へ走り寄った。中には色んな形のサンゴが置いてあった。
「あれ?魚はいないの?」
「うん?」
部屋のドアの横に立っていた宙が葵の傍まで来て水槽を覗き込んだ。
「おった。このサンゴの下見てみ」
宙の指の先を覗きこんだ。
「きゃっ。かわいい。これってフグ?」
サンゴの下でヒレだけを動かしてジッとしている薄茶色のフグがいた。
「そう。ハリセンボンや」
「かわいいね。で、魚はこれだけ?」
「うん。ほんまはもっとおったんやけど、こいつが全部食うてしもたんや」
「食べちゃったの?」
「うん。こいつな、この前の春休みに俺の故郷へ帰った時に近くの海の堤防でサビキ釣りしてたら引っかかってきたんや。アジ狙いやったんやけどその時はこいつしか釣れなんであんまり可愛い顔で俺の事睨んどったさか家にお持ち帰りしてきた。それで水槽へ入れたら次の朝他の熱帯魚が一匹もおらへん。犯人こいつしかおらん」
「こんな可愛い顔してあなたが犯人?このフグ真正面から見たらもっと可愛い」
そんな葵を見ていた宙が顔を緩めながら
「あんたの表情のほうがおもろいわ」
「もう、どうせフグみたいですよ。ふん」
「そんなに怒るなよ。冗談や」
葵は宙の隣で暫く水槽に見入っていた。
「ねぇ。海水って何処から汲んでくるの?この辺りは海が無いでしょ?」
「海水の素って言うの熱帯魚ショップで売ってるんや。カルキ抜きした水に溶かして作るんやけど。その熱帯魚ショップの親父が関西人でな、つい乗せられて色々買わされるんや」
「関西人は商売が上手って聞いた事あるよ。でも海水って自分でつくれるんだ。塩水じゃダメなんでしょ?」
「うん、この比重計で海水濃度測りながら作るんや。水槽の中の水分が蒸発すると塩分濃度が高くなるから頻繁にチェックが必要で結構手間がかかるけど、見てると落ち着くし、海を思い出すから好きなんや」
「いいなぁ。すごく綺麗。こんなの憧れる。ずっと見ていたいな」
「維持費に凄い金がかかるけどな」
一般家庭の葵の家ではこんな大きさの水槽を広々と置くスペースさえない。
「私もこんな部屋が欲しいなぁ。桂木君は一人っ子?」
「うん。一人やから夜は暇で暇で、気が付いたら水槽が増えてた」
「私は三人姉弟の一番上。妹と同じ部屋だからこんな広々した一人部屋に憧れる。あの大きなベッドには勿論一人で寝てるんでしょ?」
「うん」
「私の部屋なんかあんな大きなベッド置くと部屋に何も置けなくなっちゃう。大の字になって寝ると気持ちよさそう」
「別に寝てええぞ」
「えっ?いいの?」
葵は立ちあがってそのセミダブルのベッドに近づいてそのまま倒れ込んだ。
「わー。やっぱり気持ちいい。スプリングが利いてる」
そんな葵を宙がジッと見て来た。
「何?」
「あんた、変わってるな?虫が好きやったり魚が好きやったり。男のベッドに平気で寝てみたり。女の子って特に虫は嫌がるもんやろ?」
「自分でもそう思うよ。だから、私が甲虫を飼っている事を知ってるの学校では桂木君だけだよ。女の子に知れたら変人って言われるのがオチだし。あっ。でも好きなのは甲虫だけだよ。蜘蛛とかゴキブリとかムカデなんてのは大の苦手だから」
そう言うと宙が笑い出した。
「ハッハッハ。その類の虫が好きやったら俺でも引くな」
「実は桂木君の部屋にその類の虫を別に飼ってたらどうしようってドキドキしながらここに来たんだよ。でも来て良かった。このベッド気持ちいいし。私ねいっつも妹と寝てるからたまには一人で寝て見たいって思うんだけど、一人で寝ると逆に寂しいって思うんだろうね。あー本当に眠りたくなっちゃった」
一回大きなため息を付いた宙がベッドで小さな欠伸をする葵に近づいてきた。
「あのなぁ。あんたの今の状態は俺を誘ってるんか?それともただの無防備なんか?」
「寝ていいって言ったの桂木君だよ」
宙が意地の悪い笑みを浮かべて
「わかった。じゃっ俺も隣で寝るわ」
宙が葵の隣で寝転んだ。
「ねっ十分だけ寝よう。ね?私、本当に眠くなっちゃった」
葵はゆっくり瞼を閉じた。そんな葵に背を向けながら
「健全な青少年なら普通はこの状態で眠るか?普通寝やんやろ?何か調子狂う女や」
「何ブツブツ言ってるの?聞こえているけど。だって夕べこれでも勉強してたんだよ。私、国公立進学組に入ってるけどついて行くのがやっとなんだ。親は国公立じゃないと大学行かせられないってお金の掛る私立はダメだって言うし。学校行く度にへこんじゃう」
背中を向けていた宙が向きを変えて
「何か目指しているもんあるみたいやなぁ」
「うん、幼稚園教諭になりたくて」
「保母資格はあかんのか?保母資格やったら短大卒でも取れるん違うんか?」
「就学前は保育所から幼稚園に変わるでしょ?その幼稚園がとっても楽しかったんだ。お昼までだったし、その記憶が残っててね。もう、別にいいんだ。大学行けなくても、どっかに就職して家計を助けてもいいんだけど。でもクラスのみんなが大学に行く姿は見たくないって思っちゃうだろうし」
「苦手な教科はあるんか?」
上向きに寝ていた葵は身体を宙の方に向けた。お互い向かい合って寝転んだ状態になった。
「一番困っているのが数学何だけど。授業の進む早さについて行けなくて、飲み込む前にもう次に進んでいる状態だから本当に泣けてきちゃう。毎日勉強しても追いつかないんだ。週一の塾もあんまり成果ないし。昔から数学は苦手だったけどきっと私は数学のセンスが無いんだと思う」
葵は自分の不甲斐無さを思い出し思わず泣き出してしまった。
「おいおい、この状態で泣かれても困るわ」
宙が起き上がってベッドの枕元に置いてあったティッシュを摘まんで葵に渡してくれた。
「「コンコン」」
「ヒロちゃん。入るわよ。紅茶が……ヒロちゃんベッドで何してるの?葵ちゃんに失礼な事したんでしょ。泣いてるじゃない」
その声に驚いた宙がベッドから飛び降りて
「カーやん。これは誤解。この子が数学の事で思い詰めて泣き出しただけで、俺は何にもしてないぞ」
母親が紅茶をガラステーブルの上に置いてから宙に詰め寄る。
「何を訳の分からない事言ってるの?初めて女の子が部屋に来てくれたからって浮かれ過ぎよ。葵ちゃん大丈夫?」
「大丈夫です。本当に桂木君に相談に乗って貰っていただけですから」
「ほら見ろ」
「そう。それなら良かったわ。あー。びっくりしたわ。ヒロちゃんが強姦魔になったらどうしようかと思った」
そう言って宙の母が部屋を出て行った。
「強姦魔やて。何でこんな酷いいわれ方するんやろ。男は損や」
「ごめん」
「そや、数学の話しやけど俺があんたに教えてもええで。俺も復習になるし」
「えっ? 本当に教えてくれるの?」
「うん。昼休みでも放課後でも時間のある時やったらな」
「嬉しい。本当にいいの? 桂木君は理数科だからもしかして得意なの?」
「得意って言うかやり出したら面白くて止まらんようになって気が付けば朝やった事はあるけど」
「数学が面白い? 信じられない……。今日、勉強道具持ってくれば良かったな」
「なんや、泣いたカラスがもう笑っとるが。なぁ、所で本題のカブトムシをそろそろカップリングさせよ」
そう言いながら部屋の隅に置いてある五十センチほどある水槽兼虫籠からカブトムシを取りだした。立派な角を持つカブトムシは葵の飼っている物より一回り大きい。