幸也サイド
ビクリと緊張した小さな背中は力を入れると折れそうだった。
「どうしたの?幸也君マザコン?」
大通りから車の排気音が聞こえる。
「あなたは……ずっと気付いていたんでしょ?僕の気持ち。僕はあなたを宙のお母さんだなんて思いたくない」
月が雲に隠れて辺りが暗くなった。時間はまだ止まっている。ピンク色の花びらが栗毛色の髪にチラチラと落ちる。
背後で錆びたブランコが風に揺れてギィと音を立てた。
友香子が持っていた紙袋を地面にゴトリと落した。
そしてゆっくりと腕を解いて幸也の方を向いて、軽く背伸びをした。
幸也の唇に柔らかい唇がフワリと触れた。
友香子からの突然のキスだった。
「私は、あなたが思っているほど良妻賢母でも何でもないのよ。ましてや、子供の友達にこんな事をするなんて最低な女なの。だから幻滅しなさい。そして軽蔑しなさい」
「僕を遠ざけようとしているんですか?それは逆効果だ」
幸也はさっきより、もっと力を込めて友香子を抱きしめ強く、深くその唇にキスをした。
友香子が力いっぱい幸也を突き放そうとしたが、幸也は腕の力を緩めなかった。
もう、戻れない。戻りたくなかった。
時間はこのまま壊れてしまえばいい。
諦めたのか、友香子は抵抗しなくなった。
何度も何度も角度を変え深く口づけた。
何年も押し殺してきた思いを友香子にぶつけた。
唇を離して、もう一度友香子を抱きすくめた。
「気が済んだ?こんな事いきなり他の女の子にすると振られるわよ」
友香子がゆっくり幸也の腕から抜け出した。
「僕は他の女の子に何か興味ないです。僕はずっと前からあなたが…」
その言葉を遮るように友香子が大声を上げた。
「やめなさい。あなたは間違っている。こんな間違った呪縛から早く抜け出しなさい。あなたは勘違いしているの。私は宙の母親よ。こんな年寄り女のどこがいいの?あなたに合った女の子は沢山いるでしょ」
「間違っているのは十分分かっています。他の子を好きになればどれほど楽かも知っています。それが……僕には出来ないんです」
「やめなさい。そんな事言うのは……あなたが可哀相過ぎる」
友香子が泣き出した。
友香子が女の顔で泣き始めた。
この人は宙の母親ではない。
母親にしては弱すぎる。
この人は……ただの美しい女性だ。
「あなたは……本当に……宙のお母さんですか?」
「あなたたちはうちの違和感に気付いているからそんな事聞くんでしょ?」
「宙の本当のお母さんじゃないんですね」
「だからなんだって言うの?」
「ずっとあなたを思って来た僕にとっては、それだけでも救いなんです」
「あなたは聡明で晴騎君は勘が鋭い。でも、二人は優しいからうちの家庭内の違和感には決して触れない。あなたたちは優しくて素敵な男の子よ。幼い頃から知っているもの。だからわたしは、もっと幸せになって欲しいだけ」
友香子は布袋を持ち上げ、走り去った。
公園で一人幸也は月明りに照らされた桜を見上げた。
不思議な感覚だった。
心が幾分軽くなった。
自分勝手な行動を取って大事な人を泣かせてしまったのに、心の底に溜まっていた澱が綺麗に無くなり心が軽くなっていた。
宙と友香子の違和感。ずっと気付いていたが確信はなかった。
彼女は……今それを認めた。
彼女に言った通り、それだけが救いだった。
永年押しつぶしていた思いを打ち明け、一歩踏み出せそうな気がした。
彼女への思いに今夜、決着がついた。
幸也はゆっくりと向きを変え歩き始めた。
顔を上げると、街灯下から人影が見えた。
その暗い影がゆっくりとこちらに近づいてくる。
だんだんと近づいて来て、その人影がくっきりと浮かび上がって見えて来た。
人影に……見覚えがあった。
ゾクリと寒気がした。
人影は幸也に一目もせずに通り過ぎた。
ツンと澄ました中性的な横顔。
擦れ違いざまにその人影がボソリと呟く。
「最悪や……」
人影は……友香子の息子で、幼なじみの桂木宙だった。