葵サイド
宙の温かい手が差し伸べられた。そして、ゆっくりとその胸に引き寄せられた。
「ヒロちゃん……疑って……ごめん」
「葵……帰ろう。なっ?」
宙の低い声が耳元で聞こえた。
「うん。荷物……取って来る」
葵はそう頷いて宙の腕から離れた。
美津子はフローリングに座り込んだままエプロンで顔を覆い、声を出して泣いている。
「おばさん。私……こんなに母親に面倒見て貰ったのは初めてだったの。生まれた時から私のお母さんは働いていたから一歳からずっと保育所に預けられてて……それ以外はお祖母ちゃんに面倒見て貰ってた。お母さんの温もりとか細かな心使いなんて始めて受けたかも知れない。物凄く嬉しかったし、ミチルちゃんは幸せだったんだなって羨ましく思った。でも、やっぱり、私は自分の生活に戻りたい。今まで本当にお世話になって有難う御座いました」
そう言ってペコリと頭を下げたが美津子は何も返事をしなかった。
そんな美津子に後ろ髪を引かれる思いだったが葵は自分に宛がわれた部屋に向い、置いてあったスポーツバックを手にした。
スポーツバックを肩に担いで部屋を出てから直ぐにリビングに戻った。
直ぐに葵からスポーツバック取り上げて宙が二コリと笑った。
「持ってくれるの?」
「うん、俺は手ぶらで来たからな」
キッチンを通り抜けて、狭い玄関で宙より先に靴を履き、玄関のドアを開けて外に出た。
後から出て来る宙の為にドアノブを持ったままドアを開けた状態で立っていると、リビングで果物ナイフを持っ
たまま立ち尽くしている美津子が見えた。
宙はスニーカーを履く為、美津子に背中を向けた状態で低い玄関の敲きに腰を掛けている。
それは……一瞬だった。
美津子が果物ナイフを手にしたまま宙に覆い被さるように倒れ込んできた。
葵も必死だった。
間一髪で葵は宙と美津子の間に身体を滑り込ませた。
ドンッ!!
腰に激痛が走った。宙におんぶされる格好で身体を滑り込ませたので、果物ナイフが葵の腰に刺さったのだ。
「ミ……ミチル……?」
美津子の震える声が聞こえた。
ナイフを手に握りしめたままの状態の美津子がゆっくりと葵から離れた。
血まみれになったナイフが美津子の手からポトリと落ちた。
「葵? 葵? お前……何で?」
葵はダラリと宙の背中に力なく倒れ込んだ。腰の激痛で足全体の力が抜けたのだ。
葵を背中に背負ったまま宙が急いで外へと飛び出した。
「葵? しっかりせぇ! なんで俺を庇った。どこまでアホなんや!」
宙がアパートの外で葵を背中から降ろした。着ていた薄手のチュニックが見る見る内に赤く染まり出し、コンクリートの床にポタポタと血が滴り落ちた。
「うん。アホだよ。ヒロちゃん疑うなんて本当に私……」
「もう、喋んな。どうしよ……葵……血止まらへん」
血が滲み出て来る場所を宙が手で覆っていたが宙の手を染めるだけで、止まる気配が無い。宙が葵を抱きかかえたまま、血に染まった手でジーンズのポケットから携帯を取り出した。
「すみません。至急救急車をお願いします。彼女が刺されたんです。はい、果物ナイフで刺されたんです。血が止まりません。早く……来て下さい。はい、住所は……」
宙はここの住所を暗記していたらしい。直ぐに携帯を切って、また電話をかけ始めた。
身体中の熱が少しずつ奪われ、葵に寒気が襲った。
「ヒロちゃん……寒い」
「カーやん。早よ親父に変わってくれ。葵が刺されたんや。血……止まらへん。このままやったら死んでく。葵……死んでく。止血の仕方……教えてくれって聞いてくれ」




