6.屋敷にて
◇リーフ
町で暮らすようになって二年、一市民として解夢士をしながらの日常は、とても新鮮で満足感を感じている。厳格な伯爵家に育ち、当主の名を継ぎ、宮廷に身を置いた二十六年間に不満があったわけではない。が、この新しい世界はまさに発見と驚きの連続で、休む間もなかったほどだ。
しかし、だからといって大臣としての責務を捨てるわけにはいかない。今でもこうして一ヶ月に一度ほど屋敷に戻り、いっきに宮廷の仕事を片付けている。屋敷の往復は人目につかないよう簡単な変装をして、さらに目立たない国内で一番ポピュラーな車で夜中に戻る。俺が町に出ていることを知っているのは、国王陛下とクランだけだ。他の者……特に貴族連中に知られたら厄介だからな。
王城の丘のまわり、貴族階級の屋敷が数多く並んでいる一角から、少し離れた小山のふもとにクラウス家の屋敷がある。近くには湖しかない静かな静養地、はっきり言えば人も交通も少ない忘れられた寂しい場所だ。
「リーフ! おかえりなさい!」
屋敷の門をくぐって車を降りるなり、場違いな明るい声とともに小さな影が転がるように飛び出してきた。どの召使いよりも早いこの出迎えは、窓から見張っていたに違いない。
「ただいま、シア。いい子にしていたか?」
「うん! もっちろん!」
「シア様! シア様! どこにおいでですか!?」
満面の笑みでうなずく少女の後ろで、メイドが叫びまわる声がする。よく見るとシアのパジャマはボタンが途中までしか止まっていないし、結いかけの髪も右半分が落ちている。
「また脱走してきたな」
「きょうはあたし、ちゃんとおうちのなかにいたよ!」
今日『は』? 「昨日は裏山にでも行っていたのか」
「うん! リーフのためにね、いーっぱいお花をつんできたんだよ! ……あれぇ? なんでしってるのー?」
くるくるした目で真剣に驚かれると、叱るに叱れない。俺はため息をついて、いつものようにあきらめると、小さな手をつないで屋敷に入っていった。
「お帰りなさいませ、若」
「留守をご苦労だったな。何か変わりはなかったか?」
「この春でシア様の身長が三センチも大きくなられ、新しい脱走経路を死守するのに、わたくしどもはますます体力勝負になってまいりました」
「せいぜい鍛えて長生きしてくれよ、じい」
父の代から我が家に仕えている執事は、俺が生まれたときから俺のすべてを心得ている。シアがいるこの場では無駄話をするだけで、かばんとコートを渡すと目でうなずいたじいは、先に書斎へ向かった。
「シア、お前は早くその続きを完成してもらってこい。わたしもじいと少し話をしてから、すぐに部屋へ行こう」
「すぐだよ! あたし、よんでもらいたいえほんがいっぱいあるんだ!」
こんな夜中なのに元気な声が、二階に走っていってもまだ響いている。一年前までは考えられないことだ。この荘厳な屋敷は、それでなくても一部で幽霊屋敷と呼ばれているくらい静まり返っていて暗かった。それが今ではどうだ、高い笑い声と怒鳴るような悲鳴の追いかけっこが、朝から晩まで懲りずにくり返されている。
「昨日、若からご帰宅のご連絡を受けてから、シア様はそれはもう楽しみになさっておいででした」
「大げさだな。わずかな時間しか帰らないのに、わたしがいてもいなくても、さして変わらないだろう」
「だからこそでございます。シア様にとって、今は若がただ一人のご家族なのですぞ。家族の帰りが楽しみでないはずがないでしょう」
じいの力説は、半分しか納得できなかった。シアを保護するのは俺の務めだ。交通事故で両親と姉を一度に失った幼女を、偶然通りかかっただけだとはいえ、放っておくことはできなかった。だから、こうして屋敷に預かることも教育を受けさせることも、当然だと思う。
だが、家族というものの役割りは……俺にはよくわからない。家族が帰ってくると、そんなにうれしいものなのだろうか。シアの満面の笑みからその感情は充分読みとれるが、理由までは理解できない。
「それで、反王党派の動きは?」
苦手な話を早々に切り上げて本題に入った。今夜と明日中に片付けなければならない仕事が一ヶ月分山積みになっているから、シアの部屋に向かう前に、じいに頼んであった問題の“あらすじ”だけでもつかんでおきたい。
「ここ数日、なにやら動きがあわただしくなってきたようでございます。四日前にはホーキンス様の別邸で晩餐会が開かれ、いつもの方々の他に、ウィルサム閣下とボーンド卿のお姿もございました」
「財務大臣はそう簡単には動かんだろうが、枢機卿は金で転がる可能性が高いな。いよいよ地盤固めに必死のようだが」
「申し遅れました。来週の会には、ぜひ若もご出席を、と」
金と宝石の粉をあしらったけばけばしい招待状を横目で見て、中身を読む気にもならなかった。表向きには最も閑職と言われている夢境省大臣まで引き込もうとは、ご苦労な連中だな。
「夢守のお役目は誰も知らないとはいえ、夢の重要さを理解されている方も少のうございますからな」
「彼らがほしいのは大臣としてのわたしではなく、伯爵の名だ。いや、いっそひと思いに消すつもりかな?」
新参貴族や市民階級の多い反王党派は、箔をつけ対外的な説得力を得るために、コルスコートでも一,二を争う伝統を持つ伯爵家を、いわば名誉顧問のような位置に据えようという腹だろう。普段から事あるごとに水面下で対立しているから、俺を真に仲間にしたいなどとは針の先ほども考えてはいまい。
利用できるならば親の仇にでも笑顔で腰を折り、そうでなければ執拗に潰す。彼らが得意とする姑息なやり方だ。もとが小心者の集まりだから、表立って本格的に手を出してくるとは思えないが、危険な目にあったことは一度や二度ではない。今なおささやかれている前クラウス伯毒殺の可能性も、今となっては誰も証明できないのだ。
もうひとつ、俺を狙う理由としては、王の側近という立場だろう。歴代のコルスコート国王に多大なご配慮をかけていただいている深い背景など、あの政治狂たちにはわかるまい。夢守という隠密の使命に支障がないようにと先祖が爵位を賜り、それ故に地位や栄誉は上がることも下がることなく、それ以上にに王家と祖国に対する絶対の忠誠も変わらないということを。王のお気に入りの奸臣だと思われようとも、俺は陛下と国を守る。
「我が家の名もわたしの命も、そう簡単には渡せない。狙うならば、相応のものを失う覚悟をしてもらわないとな」
「まったくでございます。若が食えないお方であられることくらい、よもやご存知ないわけがないでしょうに」
「言ってくれるな、じい」
「ほっほ。わたくしは取り扱い方法をよーく心得ております故、そろそろ下がらせていただきます」
じいは丁重に一礼して、俺が次を言う前にさっさと退散していった。まったく、とんでもない執事だ。俺のことを知っていて正面きってののしる者は、この世に三人しかいない。その中の一人……これは知っているといえるのかどうかわからないが、とにかく最も厄介な相手には違いない……彼女を怒らせないためにも、急ごう。
「あーっ、やっと来てくれた! おっそいよー!」
「待たせたな、シア。今日はどの本だ?」
「うーんとね……あ、それより、これ! じゃーん、リーフにプレゼント!」
怒ったり笑ったり忙しい。シアは持っていた絵本を放り出して、ベッドのわきに隠してあった花束を、ここぞとばかりに取り出した。
「ね、ね、きれいでしょ!」
「裏山は危険だ。一人で行ってはいけないと、前にも言っただろう」
「うぅ、でも……」
「最近は獰猛な動物だけでなく、盗賊や人さらいも横行しているのだ。いいか、今度から絶対に一人で外に出るなよ」
「ごめんなさい……」
「まぁ、しかし」彼女に泣かれると、どうにも参ってしまうな。「お前は今回の件で素直に謝ったのだから、わたしもこの花には礼を言おう」
「うん!」
ときどき演技ではないかと疑うくらい、さっき見せた涙はあっさり笑顔に取って替わった。我ながら甘いとはわかっていても、邪気のない子供に怒るのはむずかしい。宮廷では社交用の微笑みと鉄面皮しか見せたことがないのに、貴族連中がこんな俺を見たらどんな顔をするだろうな。
たまにしか屋敷に戻らず、それもほんのわずかな時間しかいないので、いつも寝ずに待っているシアの相手をできる限りしてやりたいと思う。今夜は枕もとでひと通り話を聞き、クマと少女が一緒に歌うという奇妙極まりない絵本を読み聞かせてやると、すぐに小さな寝息が聞こえてきた。先ほどまで目を輝かせて話したり聞いたりしていたときの、楽しそうな笑顔のままだ。つい仕事がら、悪夢を見ていないかと寝顔を見ていたら、遠慮がちなノックがした。
「お休みになられましたか?」
じいが小声で確かめて入ってきた。俺は差し出された温かい飲み物を受け取っても、しばらくベッドから目を離せなかった。
「やっと、深く眠れたようですな」
「やっと?」
「今でも、よくうなされているようです。やはり一年たっても、簡単に忘れられることではないのでしょう」
シアは去年のある日、乗っていた車の事故ですべてを失った。車外に放り出されて奇跡的にすり傷だけで助かり、血まみれになって動かない家族を見つめて立ち尽くしていたあのときの彼女の表情は、今もはっきりと覚えている。
『おいで。わたしと一緒に行こう』
『おじちゃん、だぁれ? パパもママもおねえちゃんも、どうしておへんじしてくれないの?』
『パパ達は……遠くに行ってしまったのだ。今日からは、わたしがお前の家族だ』
絶望より、何が起こったのかわからないショックの方が大きかっただろう。現実を理解するには、あまりにも幼すぎた。何もわからないまま新しい現実になじんだのかと思っていたが、今でも……いや、時間がたてばたつほど、過去がはっきりと見えてきたのかもしれない。
「一緒にいるだけで落ちつける。それが家族というものです」
「わたしには、そんな記憶も経験もないからわからない」その言葉に感情はなかった。「重い役目を背負った伯爵家の跡取として、厳しく教育されることも遊ぶ時間などないことも、当然だったのだろう。それを恨んだことはない。むしろ、何不自由ない生活を与えてくれた父上には感謝しているよ」
「お父上は……」じいは少し迷ったが、そっと話した。「いつも夜遅くにお戻りになられ、今日もまた若と話をすることができなかったと、写真を見ながら寂しそうにおっしゃっておりました。なので毎日、わたくしめが若の成長のご様子を報告していましたよ。絶対に若には言わないようにと厳命されておりましたが、もう時効でしょう」
父といえば、いつでも眉間にしわを寄せて考え事をしている厳格な姿しか見たことがないから、そんなことを言われても、にわかには想像もできない。なぜ同じ家にいる実の親子が、こんなにもすれ違っていたのだろうか。いや、ほんの最近まではそれが普通だと思っていたのだ。それを疑問に思わせてくれたのは、こんな小さな笑顔だった。
「じい、仕事をここへ持って来てくれ。今夜はここでする」
「くれぐれも、起こさないようにお気をつけ下さいませ」
そう言ったじいは、政務の書類をすでに外の廊下に用意していた。いつもながら、俺の思考を先回りして抜け目がない。仕事に取りかかる前に布団をかけ直してやると、シアはわずかに顔をしかめ、また力を抜いた。
「安心しろ。俺はいつでもそばにいるからな」
それでお前が幸せなら、俺もその幸せの意味がわかるなら、それもまたいいだろう。寝返りをうった幼い寝顔は、見る者まで温かくする安らぎに溢れていた。
翌日は、いつものように食事だけはシアと取り、あとはすべて仕事に集中した。客人との接見を午前と午後で一件ずつこなし、ぶ厚い決算書に目を通し、夢境省への来月分の指示を出し、閣議の意見案に修正を加え、王への奏上書に封をしたところで、ちょうど日付が変わった。
「これですべてだな」
「お役目、お疲れ様でございました。あとはわたくしめが、責任を持ってお城にお届けしておきます」
「シアは、もう寝たのか?」
「若のお仕事の邪魔をしないようにと、一時間ほど前にご自分から部屋に行かれました」
そうか……せめて、おやすみと言ってから行きたかったのだがな。また今回も、食事のわずかな時間しか一緒にいてやれなかった。父上も、こんなやりきれない気分だったのだろうか。
「では、屋敷のことと、シアを頼む」
「お任せください。お気をつけて行ってらっしゃいませ、若」
見送りのメイドや召使いも最小限にして、俺はまた静かに屋敷を出た。闇に紛れてアパートに帰ってきたのは、最も人通りが少ない時間帯だった。今からなら、まだ少しは寝られそうだな。
「ん?」
車を降りようとしたら、後ろでガタンと物音がした。盗賊か酔っ払いか、さっそく反王党派の歓迎か? 暗殺の危険には慣れているとはいえ、ここまで堂々とされるとな……。いつも持っている護身用の銃を取り出して、ゆっくりと後ろへまわり込んで誰もいないのを確認すると、次にトランクに手を伸ばし……。
「わっ!?」
きっと俺は、声も出ないほどものすごい顔で驚いていたのだろう。中にいた小さな刺客も目を丸くして、それからバツが悪そうに笑った。
「えへへ、ついてきちゃった」
まだ、盗賊や暗殺者の方が躊躇なく応戦できるだけマシだった。どうして……
「ここで何をしているのだ……シア」
どうして屋敷で寝ているはずのシアが、こんなところにいるのだ? 俺は混乱して、現実を理解するのに数秒かかった。
「いっつも朝になったらいなくなっちゃうでしょ。だから、あたしもいっしょにいくことにしたの!」
「外は危険だし、お前の面倒を見ている暇もない。おとなしく屋敷で待っていないと駄目だろう」
「だって……リーフ、きのう、ずっといっしょにいてくれるって言ったのに……」
布団をかけ直したとき、起きていたのか。痛いところを突かれたが、それでもこんなところに置いておくわけにはいかない。すぐに連れて帰ろうと思ったら、運悪く帰宅したクランと鉢合わせした。
「あ? なんだ、そのガキ?」
「あぁ、これは……」
「も、もしかしてお前、いつの間に隠し子を……!」
「いや、そうではなくて……」
「はじめまして! あたし、シア。四さい」
「おう、オレはクランだ。しっかし、びっくりしたなぁ。リーフ、お前も子供がいるならいるって言えよな」
「だからシアは……」
「きょうからいっしょのおうちでくらすの。ね、パパ!」
「なっ……!?」
シアが一緒に暮らすと宣言したことよりも、いきなりパパなどと呼んだことよりも、その笑顔が完全に確信犯であることに、俺はもう言葉もなかった。
「一緒の家って、あれ、オレの部屋なんだぞ。まぁ、ガキは嫌いじゃねぇからいいけどよ。あんまりうるさく騒ぐなよ」
「うん!」
「あと、掃除当番くらいは交代だからな」
「はーい!」
いつもながら、よい返事だ。きっと大きくなったら女優か、でなければ何人もの男を泣かせる女になるだろう。俺はその犠牲者第一号だ。
「ねぇ、いいでしょ、リーフ? おねがい!」
「あぁ、わかった、わかった。その代わり、今度こそ絶対に一人で外に出るようなことをするなよ」
「うわーい! リーフといっしょだぁーッ!」
足に飛びついてよろこぶシアに、ため息もあっさり苦笑に変わってしまう俺は、やはり甘いのだろうか。面倒が増えたと思いながらも、安堵感の方が大きいことに気付き、自分でも驚いていた。