3.花見
◆クラン
あー、よく寝た! なんて気持ちのいい朝なんだ。潮風が走り抜ける窓から見える町は活気に溢れていて、空はこれでもかってくらい青い。
「おう、おはよー!」
顔を洗ってメシを食ってたら、リーフがやっと起きてきた。なのにせっかくオレが元気に挨拶してやっても、返事ひとつ返ってこねぇときた。
「何むすっとしてんだよ。お前、朝弱ぇよなぁ」
「そういうことではなくて……」
「ん? あぁ、先に食ってたの怒ってんのか? 心配すんなって、ちゃんとお前のぶんも作ってあるからさ」
「……お前、昨日のことは覚えていないのか?」
リーフがでかい声で怒鳴ることなんて、まずあり得ない。いつもどんな状況でも静かで、ほとんど表情も変えない。……だからこそ、怒るとかーなりタチが悪い。
「自分より長身の上に熟睡した人間を運ぶのがどれだけ大変か、わかるか? ん?」
あぁ、始まっちまったよ、リーフの嫌味攻撃。どうやらオレは昨日、『エーミル』で飲んだあと寝てしまったらしい。全然覚えてねぇ……そういや店に行ってからの記憶が曖昧なのに、気がついたらアパートのベッドで起きたんだよな。どうりで目覚めがいいはずだ。
「だいたいお前は、すぐに酔うくせに考えもなしに勢いで飲む。その酒癖の悪さをなんとかしろ」
「いーじゃねぇか。酒なんか考えて飲むもんじゃねぇだろ」
「それで苦労する俺の身にもなれ」
「でも、ちゃんと運んでくれたんだろ? ありがとよ〜、リーフちゃん♪」
「……。途中で何度捨てていこうと思ったことか。エリィに感謝するんだな」
こいつ、何気にエリィちゃんには弱いんだよな。エリィちゃん、なんて言って押し切ったんだろう……オレも今度、こいつの皮肉を言い負かす秘訣を聞いてみよう。
その後三十分も説教じみた皮肉を延々と聞かされて、やっと解放されたときには、もう一日分の体力を使い果たしちまった気分だった。せっかくのいい天気。せっかくのすがすがしい朝なのに。あぁ、だからなんでオレはこんなヤツなんかと一緒にいるんだ……誰か教えてくれー!
「ん? 出かけるのか?」
「オレがここにいる理由を探してくるよ……」
「哲学にでも目覚めたのか? いいことだ」
もう言い返す気力もない。なぜか妙にすっきりした笑顔で見送る同居人に片手を上げて、オレはふらふらと部屋を出た。
愛用のバイクを出して、今日は坂道を上に向かった。人と車の多い表通りは避けて、途中からビルの隙間の裏路地を抜けていく。こんな気分どんよりなときには、あそこへ行ってリフレッシュするに限るぜ。
ここリシュトは大国の王都のくせに、町はずれに結構大きな森がある。大昔、西の工業地帯で百年も人が住めないくらいの公害が起こって、その反省のタマモノなんだそうだ。オレに言わせたらそんな申し訳程度の気休めより、黒ずんだままの海とか煙を出しっぱなしの工場とか、中途半端な科学技術をなんとかしろよって思うけど、それでもリシュトは他の国や都市に比べたら住みやすい方だ。
「……!」
森の入口にある小さな家のそばで薬草を干していた人影が、オレの足音に気付いてふり返った。オレより四つ年下だけど、一人でこんなところに住んでるしっかり者で、誰にでも変わらずに明るい。
「よっ、イオリ。今日は何並べてんだ?」
イオリはポケットからノートとペンを取り出して、(クスリュア草)と書いた。あー、前に教えてもらったことがあったな。確か……。
「食べすぎに効く薬だっけ?」
(それはギミルの実。これは精神安定にいいんだよ)
「あぁ、そう、それそれ」
いや、ちょっと勘違いしていただけだって。あわてて言っても、イオリの目は明らかに笑って聞き流している。
「ちぇっ、薬草はいっぱいあり過ぎて覚えきれねぇよ。それよりほら、いいもん持ってきたんだ。食おうぜ」
途中で買ってきたクレープを渡したら、イオリはすぐに手を止めた。頭を下げて礼を言う目が、満面の笑みになっている。イオリの大好物、生クリームたっぷりバナナチョコクレープを、ごろごろしている岩に並んで座って食べる間、ときどき目を合わせて会話をした。
彼女は見てのとおりしゃべれねぇから、いつも話は簡単な手話かノートに書いている。って言っても、別に生まれつきの障害じゃなく、耳は聞こえるし言葉もわかる。六年前、夢魔に襲われたショックで口が利けなくなったそうだ。オレが出会うより前のことだから、イオリの声は聞いたことがない。でも元は明るい性格で、よく笑うしくるくると表情が変わるし、むしろ普通にしゃべるヤツより明るい。
「なぁ、ラバトの町へ抜ける山道、覚えてるか? イオリに初めて会ったところ」
(うん、覚えてる。クランが助けてくれたところ)
オレがリシュトに流れてきて二年くらいしたころだったかな。街道の奥にある桜がきれいだって聞いて一人で花見に行ったら、人通りのない山の中で、ゴロツキどもと女の子っていう妙な組み合わせの一行を見かけた。オレが無視できなかったのは二つ。一つは町で噂の人さらい集団だったってこと、もう一つは山火事の大敵タバコを捨てていきやがったことだ。これ以上の理由はねぇ、ってことで問答無用でぶっ飛ばしてやった。
(あのときは本当に怖かった。薬草を採っていたら急に囲まれて、人を呼ぶこともできなくて……)
「あ、ごめん。悪いこと思い出させちまったな」
(ううん、大丈夫。だからクランに会えたんだもん)
……なぁ、なんでそんなに笑えるんだよ。人さらいに襲われた恐怖より、オレと会ったことの方がうれしいなんて、そんなことをあっさり言える笑顔が、どうしようもなくうれしくて、うらやましい。オレにはそんなにも簡単に人を信用するなんてできねぇよ。たとえ、こいつでも……。
(クラン?)
「あ、いや、なんでもねぇよ」なに言ってんのか自分でもわかんねぇ。「あぁ、そうだ。今、あのあたりの山の桜が満開なんだ。花見にでも行かねぇか?」
ぶんぶんとうなずくイオリは、笑い声が聞こえてきそうなくらいうれしそうだった。それから指で三と丸を作ってオレを押さえるようにして、急いで家の中に走っていった。三十分ここで待ってろ、ってことか。
この国は四季のある暖かい気候だから、植物もよく育つ。オレは名前を覚えるなんて面倒なことはしねぇけど……いや、覚えられねぇわけじゃねぇぞ、もっと感覚で楽しみたいからだ……小さな町くらいのこの森には、四十種類の樹木と百五十種類以上の草花があるらしい。イオリはその中から薬として使える植物を採ってきて調合して、町の薬屋に売っている。科学の進んだコルスコートじゃ、大量生産された最新の薬が普通に買えるけど、最近は自然薬がちょっとしたブームになっているからな。
でも、口が利けないってことで、だまされたり差別されたり、いろいろ辛い目にあってきたみたいだ。こんな町はずれに一人で住んでいるのも、薬を採るのに便利だからって言ってるけど、本当はどうだか。まぁそのおかげで、オレは誰にも邪魔されないで二人だけ出会えるんだけどな。町じゃすぐに女たちに見つかって囲まれちまうから、全然落ちつかねぇ。
「……!」
手話やノートがなくても、イオリの気持ちは表情でわかる。お待たせ! と“叫ぶ”彼女は、たとえ今だけだとしてもとても幸せそうで、オレはそれだけで救われる気がした。
「んじゃ、しっかりつかまってろよ!」
森からさらに北西、市街地とは反対方向に向かって出発した。フルフェイスのヘルメットをかぶった後ろのイオリは、言われたとおりに力をいれてしがみついている。
バイク飛ばして風を切るの、気持ちいんだよな。夢の中でも空を飛んでみたいと思うけど、飛ぶイメージってのは想像以上にむずかしいんだよ。自慢じゃねぇけど、昨日オレが使った銃や盾も、普通はあんな使い方や一瞬で出すなんてことはできねぇんだぜ? はっきりと姿形をイメージして、それが存在することにこれっぽっちも疑問がねぇくらいの想像力と信じることが絶対の条件だ。銃とか棒なら現実にあるから、訓練したら出すくらいはすぐにできるようになる。へへ、それをばっちり使いこなせるからこそ、オレ達は『夢殿』期待のエースなんだよ。
「とーちゃくだ!」
イオリは大丈夫だって言っても、やっぱりラバト街道には行かないで、途中の分かれ道を折れて展望台に来た。ここは政府が余興で建てたはいいけどこんな山奥まで誰も来ねぇよっていう失敗作の代表で、オレ達専用の穴場になってるんだ。
「……!」
ん〜! イオリが叫びたくなるのもわかるぜ。このあたりで一番高いここから正面と右手には山がいくつも連なっていて、左下には海と小さくなったリシュトの町が見わたせる。でっかい城がそびえる丘があそこだから、アパートはあの辺かな? 小さすぎて全然わかんねぇ。
「うぉ〜!」
海から吹き上げる風に乗って、青一色の抜けるような空に桜吹雪が舞い上がっていく。かすかに甘い、柔らかい匂い。都会の喧騒もここまでは届かねぇから、目の前に見えるのに完全に切り離された別世界だ。
(ねぇ、クラン)
あんまり気持ちがいい天気だから上着を脱いだら、イオリがなんか迷ったみたいに声をかけて……じゃなくて、ノートに書いてきた。
(人さらいから助けてくれたとき、ナイフで切られてケガをしたでしょ)
「あー、そんなこともあったっけ」
左腕をかすった程度で、あんなのどうってことはない。実際、傷痕もよく見ねぇとわからないくらい消えてるぜ?
(うん、それはよかったんだけど……肩の後ろにあるのは傷じゃなくて、アザなの?)
「アザ? そんなのあったっけ?」
自分の背中なんか見たことねぇし、シャツまで脱がないとわからねぇから、誰も知らなかった。イオリに言わせると、肩の後ろに白い跡があるらしい。
「そんなところケガしたことねぇと思うから、傷じゃないだろ。それがどうかしたのか?」
(あ、ううん、なんでもない! それよりこれ、食べよ)
「おっ、弁当じゃねぇか!」
イオリが三十分で作ったサンドイッチは、メチャメチャうまかった。生きててよかった〜!
(クランは本当にお花見が好きだね)
イオリがのぞき込んで笑った。確かに花見は好きだけど、楽しい理由はそれだけじゃねぇってこと、わかってるのかな。
「森とか山とか海とか、自然の中にいるのが好きなんだ。ほら、なんつーか、色があるだろ?」
(色?)
「自然の原色って、見てて飽きない。コルスコートは年中いろんな色があるってのが、オレがここに居座った理由のひとつなんだ」
(クランはどこの出身なの? 前に、北の方って言ってたよね?)
「あぁ……モルディア国だ。年中雪に埋もれて、白と灰色しかねぇ、つまらないところだよ」
言いながら、それじゃぁ夢と同じだと思った。でもオレが覚えている故郷はそれくらいしか記憶にねぇし、今さら思い出したくもない。
(いいなぁ。私は子供のときの旅行くらいでしか外国に行ったことないもん)うらやましそうにイオリが書いた。(中学に入る前にね、家族でアルカ共和国に行ったの。そのときはまだエリィちゃんと友達じゃなかったけど、今度は家に遊びに行きたいな)
中学、か。オレなんか小学校も卒業してなかったっけ。あのころはもうそんなことも言ってられなかったもんな。別に学校に行けなかったこと自体は大した問題じゃねぇし。それよりも、生きていくので精一杯だったから……。
(どうしたの? ごめん、それ、苦かった?)
「え? ……あ、んなことねぇよ、全然。そっちも食っていいか?」
(もちろん!)
イオリ特性の薬草入りドレッシングのサラダなら、キュウリも食べられるから不思議だ。エリィちゃんの店でも薬味に使っていて、二人はよく買い物にも行くくらい仲がいい。おとなしいのにリーフとも対等に張り合えるエリィちゃんは、事あるごとにイオリにチクるって脅すもんだから、この二人の間でどんな話がされているのか気が気でならねぇんだよな。
それから花びらを集めて思いきりばら撒いたり、展望台のてっぺんから町を見下ろしたりした。もしここに誰かいたらオレばっかりしゃべっているように見えるだろうけど、実際にはほとんどイオリが話すのをオレが聞いていた。イオリは口が利けなくてもよくしゃべる。ノートはもちろん表情や仕種でも。オレは訊かれたらちょっと答えるだけで、あとは昨日焦がした料理のことから、鉄棒に手が届かなくて学校で泣いた話まで、ネタは尽きない。
(私ね、もしまたしゃべれるようになったら、歌を歌いたいの。クランは歌、好き?)
「ロックくらいしか聴かねぇけど、お前の歌は聴いてみたいなぁ」
こうやって話が盛り上がってるとき、たまにふと思う。イオリのことはいっぱい知ったのに、オレは自分のことをほとんど話してねぇ。不公平だよな。でも、どうしても言えねぇ……オレの過去は、そんなに笑って話せるような楽しいことなんか何もないんだ。もし知ったら、イオリはなんて言うだろう。どうでもいいはずのリーフにさえ話したことはないんだ。そのときの顔を想像したら……とても言えねぇよ……。
いつか……話せるときがくるんだろうか。
「それじゃぁ、またな」
(楽しかったね。ありがとう!)
暗くなる前にイオリを送り届けて、オレもアパートに帰った。仕事の時間にもちょうどいい。でも、その前に風呂に入っていこうかな。
「花風呂とは優雅だな」
部屋の前で鉢合わせたリーフに言われて、初めて体中に桜の花びらがついていたことに気付いた。なんだか帰ってきてもまださっきの時間が続いているみたいで、いつもの皮肉も聞き流せた。
「なんだ、やけに楽しそうだな。ついに何か悟ったのか?」
「あぁ、ばっちり充電してきたぜ。今日の仕事も足引っ張るなよ!」
鼻歌を歌いながら風呂場に向かったら、リーフは本気で怪訝な顔をしていた。めったに見られないあいつの驚いた顔を拝見できるなんて、やっぱり今日はいい日だ。結局なんであいつといるのかわからないままだけど、まぁどうでもいいかと思った。