2.海辺の喫茶店
◇リーフ
夢から戻ってビクティムの帰還を聞いた俺たちは、夕日が傾く時間にようやく解放された。人々がこれから夢を見る時間に帰れるのはめずらしい。
王城の丘を中心にした街の、東地区の港が見えるところにある『夢殿』は、俺の亡き父が設立にかかわった民間組織だ。俺は夢境省の大臣として宮廷に仕えると同時に、二年前から本名と身分を隠してここに所属している。今はリーフ=ソルクという名前の、ただの一市民だ。民間といっても事実上、夢境省(俺)の管轄下にあるから、身分や名前を偽証するくらいは造作もない。
相棒であるクランにだけは俺の正体を明かしているが、ほとんどなんの興味も反応もなかった。俺もクランの過去はあまりよく知らない。誰にでも言いたくない、思い出したくないことはあるだろう。彼の過去はわからなくても、現在の彼なら嫌というほど知っているから、何も問題はない。
「おい、リーフ! 早く行こうぜー。酒だ、酒!」
……いや、問題はあったな。口は悪いし態度はもっと悪いし、おまけに酒癖まで悪い。問題だらけだ。
「なに今さら情けなそうな顔してんだ。行かねぇのか?」
「あぁ、お前が情けないことなど今さらだったな」
「てめぇ、いつもそんなにオレにケンカ売って楽しいか?」
「そんなつもりはない。相棒にはなんでも包み隠さず、オープンに話したいだけだ」
「ちったぁ包めよ」
そういうクランこそ、言葉や態度を作ることができないから、裏も表もない。俺は、いったいどこまでが本当の自分なのだろうか。厳格な家庭に育ち、伯爵家の当主を継ぐ前から宮廷に出入りしていたために、いつの間にか“あるべき自分”というものを作って、自然とそれを演じていた。だから本当の俺がどんな人間なのかは、俺にもわからない。
「ムカついたから、今日はお前のおごりだ!」
「どういう理屈だ」
ただ、最近は肩が凝るのが少なくなったのは確かだな。別の気苦労は増えたが。
いつもは夜中から朝方までの仕事だが、たまにこうして早く終わった日には、決まって寄っていくところがある。海が一望できる、東地区で一番見晴らしのいい喫茶店『エーミル』は、今日も大勢の客でにぎわっていた。
「あっ、リーフさん、クランさん! いらっしゃいま……キャッ!」
両手に皿を持って忙しく走りまわっていたこの空間唯一の女性が、俺たちの姿を見て笑いかけたものの、危うくテーブルにつまずきかけた。
「相変わらず、そそっかしいな」
「だって、この時間は忙しくて目が回りそうなんだもの」
「商売繁盛、景気がいいではないか」
「みんな、ここをどこだと思ってるの? ウチは酒場じゃないのに……」
「おーい、エリィちゃん! いつもの!」
誰にともなく訴えるそばからクランが叫ぶものだから、エリィはため息をついて、あきらめたように注文をとりに行った。ウェイトレスの理想を裏切って、この店は夜になると仕事帰りの客で毎日満席になる。確かにマスターが作る料理もおいしいが、何よりも彼女を目当てに来る男たちが圧倒的に多い。
どうにか空いているテーブルを探して、クランはビールを、俺はワインを乾杯した。
「やっぱりエリィちゃんはかわいいよなぁ」
「女好きのクランさんに言われてもうれしくないです」
「オレは女の子に優しいだけだぜ?」
「じゃぁ、ここでもナンパしていたこと、イオリちゃんに言ってもいいのね?」
「ち、違うって! いや、あいつは関係ねぇだろ!」
「エリィがかわいいなど、お前もう酔ってるのではないのか?」
「リーフさん、今日こそツケを払ってもらいますよ」
「俺はツケをした覚えはないが」
「クランさんの二ヶ月分、同居人として取り立てさせていただきます」
こちらも無茶苦茶な理屈だな……。宮廷会議でも社交界でも的確に切り返す自信があるのに、なぜか彼女だけは調子が狂ってしまう。俺としたことが言いくるめられたまま、グラスをいっきに飲み干した。
初めて会った二年前、エリィは恥ずかしそうにうつむいて、まともに目を見ることもできなかった。それから数ヶ月して、ようやく少しずつ笑うようになってきて、今では俺まで言い負かすほど遠慮なくしゃべってくる。それでも元が人見知りの内気な性格だから、どこかの無遠慮な輩と違って、親しい中にも控えめな態度と配慮がある。
「おい、嬢ちゃん! つまみはまだか?」
「あ、はい! すみません!」
常連客でも俺たち以外とはあまり親しくないらしく、エリィは目を逸らしてあわてて料理を運んでいった。そしてまたつまづきそうになったり、スープを客の頭に落としそうになったりしている。
「ありゃ絶対、運動ニブいよな」クランがおもしろそうに眺めながら言った。「この前もデートに誘ったんだけど、山登りなんか疲れるから嫌だって言うんだぜ。動かないと太るぞって言ってやったんだけどなぁ」
「山登りが疲れるのは普通だ。というか、またナンパをしていたのか? 呆れたやつだな」
「いーじゃねぇかよ。山登りは気持ちいいぜ? でもエリィちゃん、ガード固いから、なかなかオッケーもらえないんだよなぁ」
「昨日もブロンドの女性と出かけていたではないか」
「ありゃ、ただの買い物の付き合いだよ。そういうお前はどうなんだ? ん? いっつも適当に答えるだけで、全然誰も相手にしてねぇじゃねぇか」
「俺はお前のように軽くないのでな」
「けっ、カタブツめ。人生楽しまなきゃ損だぜ? おーい、もう一杯!」
強くもないのに酒が好きなクランは、二杯目を頼むころにはもう真っ赤な顔になっていた。彼は酒だけでなく、人との関わりもそう見えるのは、俺の気のせいだろうか。好きでもない相手と付き合い、いつも誰かと一緒にいる。まるで独りになるのを恐れているように……。
「……フッ、考えすぎだな」
「おう、考えすぎだぁ! お前、まーたむずかしい顔してただろ。おら、飲め飲め!」
すでに三杯目で呂律が回らないクランが、抱きついて絡んできた。断れば泣き、反論すれば怒り、飲めば満面の笑みでよろこぶ。俺はあまり酒が好きではないが弱いわけではないから、クランが寝てしまうまでおとなしく付き合ってやった。下手に刺激すると、暴れてタチが悪いからな。
「ふふ、お疲れさま」
他の客も帰ったか寝てしまったかで店内がやっと静かになったころ、後片付けを始めていたエリィがコーヒーを持ってきた。いつも最後にコーヒーを飲むという俺のこだわりは、注文しなくてもオーダーに入っている。
「ふむ……まぁまぁだな」
これまで、もっと高級な豆を使ったコーヒーを飲んでいたのだが、この店の味はどこの誰にもまねできない。特に有名というわけではなく、絶品と言うにはまた違うのかもしれないが、なんだろう。この甘さと苦さは、俺の好みに完璧に合っているのだ。
「まぁまぁって、かわいくないですね。私の特製コーヒー、おいしいって素直に言えばいいのに」
「あまり誉めたら、お前の向上の可能性を潰すことになると思ってな。もったいないだろう?」
「じゃぁ、おいしくなるまで無理に飲んでいただかなくても結構よ」
「いつになるかわからないから、それまで俺が毒見をしてやる」
「あらあら、それは光栄ですね」
「エレアノール! ちょっと手伝ってくれ!」
「はーい、叔父さん! ……いつか絶対においしいって言わせてあげるから、楽しみに待っててくださいね」
マスターに答えながら、エリィは小さく舌を出して厨房へ入っていった。確か、クランと同い年だったかな。会話ややり取りがしっかりしているようにも見え、そそっかしいところやさっきのような仕種は幼くも見える。隣を見たら、テーブルに突っ伏したクランが気持ちよさそうに熟睡していた。こちらはまだまだ子供だな。
「二十六、か……」
俺がこの歳だったときに彼に出会い、今までとまったく違うこの暮らしが始まった。俺は自分でもかわいげのない子供だったと思うほど、昔から大人びていた。大人になろうとしていたと言った方が正しいのか。父が晩年、病で臥せりがちになったころには、老練な政治家や貴族連中とも対等に渡り合おうと気負っていたものだ。まだ二十歳を少し過ぎたばかりの、青い思い出……いや、それは今も同じかな。
「またワイン、飲む?」
思わず自嘲していたら、奥から出てきたエリィが控えめに声をかけてきた。俺はすぐに彼女が言いたいことに気付いて肩をすくめた。
「飲まなければやっていられないような、ひどい顔をしていたかな?」
「悩んでる顔までサマになっていたけどね。それじゃ、コーヒーのおかわりでいい?」
「いただこう」ふと思いついて、隣を目で示し。「ついでにこいつの代わりに、少し付き合ってくれ」
「キャバクラじゃないんだから、仕事中にお相手はできません」エリィはピシリと言ってから、すぐに笑った。「でも、あと少しで終わりますから待っててください」
カウンター裏で洗いものを手早く片付け、寝込んでいる客を遠慮がちに起こして帰らせる様子を見ながら、俺はおとなしく待っていることにした。たったひとつ残された空のカップを手の中で転がして、何とはなく考え事をしていたら、最後にカーテンを閉めたエリィが入れたてのコーヒーを二つ持ってやってきた。
「ここからは仕事じゃないから、これは私のおごりね」
「俺を待たせたのだから当然だな」
「然るべきところなら指名料いただきますよ」
「先ほどのキャバ……なんとかか? 何なんだ、それは?」
「え、知らないんですか?」
自由に一人で出歩くようになって二年、まだ知らないところは多い。「そんなに有名なところなのか?」
「まぁ、リーフさんは行きそうにないですよね。全然知らないのはびっくりだけど」
「乗馬や紅茶の集まりとは違うのか?」それなら、昔からしょっちゅうあったが。
「それじゃ、まるで貴族様のサロンじゃないですか。まぁ……あとでクランさんにでも訊いてみてください」
なぜか少し怒ったように、エリィはその話を打ち切ってしまった。クランが詳しいなら……彼の趣味だという、自然愛好会か何かなのだろうか。
「リーフさんは、どうして解夢士に?」
急に話を変えられたからというよりも、そんなことを訊かれたのは初めてだったから、不意を突かれてすぐには答えられなかった。
「俺の……」使命だから、と言うわけにはいかず。「俺の父が、同じ関連の仕事をしていたのだ」
嘘ではない。正体に関わることは伏せておかなければならないとはいえ、できる限り嘘を言いたくはなかった。
「私の兄も、悪夢の退治をしていたんです」
「故郷でか? 確かアルカ共和国だったな……あそこは夢に関していろいろともめているから、政府が禁止しているはずだが」
「よくご存知ですね。でも悪夢に囚われる人がいないわけではないですから、有志の団体が地下で活動しているんです」
「政府に逆らっても人々を助けようとするとは、兄上殿はご立派だな」
「いえ、兄はもうやっていません。……できなくなってしまいました。とても強力な夢魔に襲われて……どうにか助けられたけど、瀕死の重傷でした。もう十年くらい前の話ですけどね」
「そう、か……」
兄上殿の不幸より、彼を襲ったという夢魔の方が気にかかった。有志で活動していたのならば、ある程度以上の力はあったはずなのに、瀕死の重傷まで負わせるとなると……。
「リーフさんは、怖くないんですか?」
「……ん?」
「だって、夢の中で何かあったら、二度と戻ってこられないかもしれないのに」
「そうだな」正直、怖いと思ったことはないが……。「自分を信じるしかない。夢は思いをそのまま反映するからな」
「そうだけど……」
うつむいたエリィの気持ちは、わからなくもない。夢の中に入ったことのない人間にしてみれば、それ自体が恐ろしいことだろう。それでも俺は、生まれたときから与えられたこの使命を嫌だと思ったことはないし、持って生まれたこの力を人のために使えることを誇りに思っている。きっと彼女の兄もそうだったのだろう。
「兄上殿が選んだ道だ。彼が後悔していないのならば、問題はないだろう」
「そうじゃなくて、私は……!」……? 「ごめん、そうよね」
突然声を荒げたかと思ったら、すぐに視線を落として黙り込んでしまった。しばらく続きを待っていたが、エリィはコーヒーカップを見つめたまま動かない。どうしてそんな悲しい顔をしている? 何を言おうとしたんだ?
「エリィ?」
「えっ……」
肩をつかんでのぞき込んだら、すぐそばで目が合った。澄んだ青の瞳に映るのは、不安か恐れか、それとも……。
「……あっ、もうこんな時間! お店閉めなきゃ叔父さんに怒られちゃう」
一瞬だったのか数分だったのか、我に返ったエリィがあわてて立ち上がり、その拍子にイスが倒れた音で俺も現実に戻った。結局、彼女の真意もわからないまま、エリィはまた元のエリィに戻っていた。
「クランさん、こんなところで寝ていたら風邪ひきますよ。ねぇ、リーフさん?」
「俺につれて帰れ、と?」
「当然じゃないですか。同居人を見捨てて帰るつもりだったの?」
見捨てるも何も、面倒を見るつもりなど始めからなかったのだが……。エリィの無言の圧力に負けて、仕方なく熟睡したままのクランを担いで店を出た。
「あの、リーフさん、また来てくださいね」
「あぁ、もちろんだ。彼のツケがあるし……」少し迷ったが、ふり返って付け足した。「お前のコーヒーを飲みに来なくてはいけないからな」
「ふふ、素直に飲みたいって認めたんですか?」
「次までには、もっとうまくなっていろよ」
「はいはい。それじゃ、リーフさんの特別コーヒーを作って待ってますね」
坂道を登っていく間、ずっと背中に見送る視線を感じながら、肩にかけた腕を放り出したい衝動を懸命にこらえた。坂の先にあるアパートのさらに奥には、爪の先のような細い月が浮かんでいる。
「……重い」
クランが起きる気配はまったくない。この貸しは必ず返してもらうからな。