30.世界の想い
☆クラン&リーフ
そいつは、どこにでもいるような普通の男だった。年恰好はオレ達とそんなに違わねぇ。ただ普通と違うところは、髪が銀色で、笑顔は見てるだけで凍りつきそうなくらい冷たい。
「なぜ……本当にあなたなの、ソエル」
あんなに冷徹だったリオタールが、すげぇ動揺している。あいつもミヌイ族みたいだけど、なんだってシグルドの内になんか……。
「オレが死んだと思ってたみたいだな」
「だって、あなた、確かに“聖獣”に……」
「そう、そして消えてしまった。でも存在までがなくなったわけじゃない。あの瞬間“聖獣”の力が少しだけ移行して、思念を糧に生きていたんだ」
なるほど。こいつ、リオタールの話にあった、“聖獣”大戦で犠牲になったとかってヤツか。でも、その後もなんやかんやで生き残って、“聖獣”と同じ力でシグルドにとり憑いてた、と。結構しぶといヤツだなぁ。
「生きて、生きていたのね……」
「……兄貴は助からなかったけどな」
「私、ずっとあなた達に謝らなければならないと……」
「謝る?」
ソエルの声と顔が、急に険しくなった。
「だったら、なんでオレ達と敵対したんだ? 今だってリオ姐の信念は変わっちゃいないんだろ? それなのに謝ってなんになるんだ? 婚約者を犠牲にしてまで貫いた意味がなくなってしまうじゃないか」
リオタールは言い返すこともできなくて、黙りこんじまった。まぁ、オレもあいつの言うことには賛成だな。今さら後悔なんかしたら、それこそ死んだヤツが浮かばれねぇよ。
「もう、あのころのように一緒に同じ道を歩くことはできないのね……」
「兄貴は最期までリオ姐のことを思ってた。だからオレも道を譲るつもりはない」
六百年前の交渉の続きは、今度もむなしいまま決裂した。リオタールがうなだれて下がったけど、ソエルは眉ひとつ動かすことなく、今度はオレに向き直った。
「それで、あんたが“聖獣”の宿主か」
「だからなんだよ」
「シグルドも言っていたと思うが、“聖獣”が固定されるなど、本来の世界の秩序を無視しているんだ」
「秩序だかなんだか知らねぇけど、なんでわざわざマイナスの力をばらまこうなんてするんだよ。よけいヤバいことになるじゃねぇか」
「負であれ正であれ、世界の想いを封じておくことは流れを、円環を遮ることになる。だから“聖獣”を解放して一度現実を作り直し、その上で夢と切り離さなければならない。そうしなければ夢は現実の犠牲になるばかりで、いつまでたっても同じことのくり返しだ」
「それは……」
どういうわけか、こいつの言葉には妙な説得力があった。確かに、そうかもしれねぇ……オレ達はいつまでたっても、戦争やら環境破壊やらを懲りずに続けてる。それで夢がとばっちりを受けるなんて、そりゃ許せねぇよな……。
「“聖獣”は、すべての生命の願いだ」リーフ……。「願いがなければ生きていくことはできない。大切な者を失ってまで世界を守っても、どんな意味があるのだ」
揺れかけたオレの心を、いつもの泰然とした相棒の言葉が支えてくれた。そうだよ、オレの大事なヤツらが消えていいはずがねぇ。
っと、せっかくオレも言い返してやろうと思ったのに、ソエルはどういうわけかリーフを見て固まっちまっていた。
「その目は……お前……」
「彼はエディスの子孫よ」
あぁ、こいつら、リーフのご先祖様と知り合いだったんだっけ。
「ソエル、あなたが愛した人と同じ心まで消してしまうつもりなの?」
「……」
ほんの一瞬、ソエルの顔に迷いが浮かんだ。でもすぐに目を上げて、何もかもを振り払うように叫んだ。
「オレは夢を守るって兄貴と誓ったんだ。そのためにエディスとも決別した……もう他に道はない!」
「ぐぁっ……!」
ソエルの決意が力になって、オレ達は見えねぇ衝撃に吹っ飛ばされた。駄目だ、この強固な意志は崩せねぇ……頭を抑えてどうにか起き上がったら、ヤツはイオリに光る槍を突きつけていた。
「イオリ!」
「おとなしく“聖獣”を解放するんだ。さもなければ、お前も大切な者を失うぞ」
「だから、どうすりゃいいのか知らねぇって言ってんだろ!」
「鍵であるイオリを傷つければ、お前たちにとっても問題だろう」
言いながらリーフが隣に出て来て、目を逸らさずに小声でささやいた。
「本当に解放する方法を知らないのか……?」
「知らねぇ。“聖獣”がなんか言ってたけど……」
なんかの言葉と一緒に願え、だって? なんだよ、何を言えばいいんだ……あんにゃろう、なんではっきり教えねぇんだよ!
「オレとしても、できればあんたや鍵を傷つけたくはないんだ。だが、世界といち個人とを天秤にかけるわけにはいかない。鍵にもしものことがあったら……そのショックで解放される可能性があるなら、彼女には悪いけど……」
「やめろ! そいつにだけは手を出すな!」
「……どうやら、知らないというのは嘘ではないようだな」
シグルドも出てきて、ソエルにうなずいた。
「“聖獣”の負の力が爆発するおそれがあるが……これしか方法がないでしょう」
「仕方がない……宿主の命を絶って、強制的に解き放つ」
オレは息を呑んだけど、それ以上の驚きはなかった。
リーフに“聖獣”の話を聞いたときから、なんとなくそんな覚悟はしてたんだ。“聖獣”は大丈夫だって言ってたけど、それはオレが自分で解放すればの話で、どのみちこのままじゃオレの精神は無事じゃいられねぇんだろうな、って。
もちろん、オレだって死にたかねぇよ。あいにく、世界の救世主なんかになる気はさらさらねぇし、普段から自分が一番大事だって思ってる人間だからな。
でも……駄目だな、オレ。自分より大事なもん見つけちまったら、どうしたらいいのか全然わかんねぇ。自分を犠牲にしてでもとか、そんなカッコいいもんじゃなくて、ただ、あいつのいない世界なんか想像もできなくなっちまった。
今なら思い出せる。本当に初めて出会ったのは、ラバトの山の街道わきなんかじゃなく、白い夢で獣になったオレが襲いかかろうとして……それなのにオレの苦しみを見抜いて気遣ってくれたあの目に、オレはずっと惹かれてたんだ。
「イオリ……」
「……!」
すまねぇ。あのときもそれからも、いつも何度も助けてくれたのに、オレ、お前にできること、これしかないんだ……。
お互いに言葉もなく、ただ目を合わせるだけで心が重なっていることが、たまらなくうれしくて、悲しかった。
ソエルの短い言葉で、しばらくの間、その場のすべての人間が動きを止めた。
もしも俺が彼の立場ならば、もしくはまったく関係のない第三者ならば……いや、何より自分の使命に忠実であろうとするならば、それは至極当然の結論だった。世界の想いを封じていれば、流れを止めて淀ませることになり、いずれは暴発するだろう。
わかっていたはずだった。いずれ、こうなることは。夢を守る責務と、かけがえのない現実と、どちらか一つを選ばなければならないときが来る、と。
「……」
コートに隠れた剣の柄に、そっと手をかけてみた。六百年前にも同じ決断を迫られた彼女は、どんな思いでこの剣を抜いたのだろう。本当にそれでよかったのだろうか。六百年たった今も、彼らの時間は止まったままだというのに。
初めての友と呼べる者と、特別なものなど何もないただの日常。それを失ってまで、守るべきものとはなんだ?
それとも、世界中の無数の命と一人の人間とを秤にかけること自体が間違っているのか? そんなものは、ただの俺の我が侭でしかないのか?
教えてくれ、エディス。あなたはどうやって、この現実に答えを見つけたのだ……。
「……リーフ」
一瞬、本当に彼女の声がしたのかと思ってしまった。我に返って顔を上げると、クランがふり向いて、奇妙にさっぱりした表情で言った。
「お前のその剣で、オレを刺してくれ」
言葉の意味が、まったく理解できなかった。
「勘違いするなよ。別にあいつが言うみたいに、世界を守りたいとか、そんなご立派なことじゃねぇんだ。でも、どうせオレは助からねぇみたいだし……」
「バカなことを言うな! お前が助かる方法が、きっと他に……」
「無理だよ、なんとなくわかるんだ。自分のことだし」
「しかし早まった真似はしないと、そう言ったではないか」
「これでも、オレなりに精一杯考えたんだぜ? イオリを守って、お前も助かる方法……やっぱ、これしか考えつかねぇわ」
「俺のことなど、どうでもいい! いや、お前を犠牲にして、俺が助かるわけがないだろう!」
「へへ、お前がそんなに怒るなんて、初めて見たぜ」
「当たり前だ! 俺はお前の相棒なのだぞ!」
「あぁ、だからせめて、相棒のお前に頼みたいんだ。いくらなんでも、あんなヤツらにやられるなんてゴメンだからな」
俺が怒鳴ったのが初めてならば、クランのこんな静かな言葉も初めてだった。まるで自分の意思とは関係なく、手が勝手に動いて剣が鞘からこぼれ落ちる。儚い願いを映しだす刃は、揺らめく月の光のように淡い悲哀をたたえていた。
「リーフ殿!」
「……ッ! ……ッ!」
戸惑うリオタールの悲鳴と、縛られたまま必死にもがくイオリの無言の叫びが、どこか遠くで響いているように思えた。じっと見守るソエル達の姿は、もはや視界には入らない。
そこにはただ、“聖獣”を宿した者とそれを討つべき者、二人の友しかいなかった。
「本当に、こうするしかないのか」
「すまねぇな、お前に辛い役を押し付けちまって……」
「後悔は、ないのか」
「未練なら、ちっとはあるかもな。イオリとずっと一緒にいたかったし、エリィちゃんの花嫁姿も見たかったし……あぁ、それと一回でいいから、お前をぎゃふんと言わせてやりたかったかな」
肩をすくめたクランは、場違いにも笑っていた。この上もなく優しく、この上もなく哀しく。
世界の命運も使命も、関係ない。相棒として俺にできることは、ひとつしかない。これが俺の、選択だった。
「いやあぁぁーッ! クラーーンッ!!」
抱きつくように、リーフの体がそこにあった。剣が貫いた感触はあったけど、不思議と苦痛も怖さもない。ただ、聞いたことのないとても悲しい声が聞こえた気がして、ちょっと胸が痛んだ。
「あとは頼んだぜ、エン……」
目を閉じて相棒に体を預けたら、オレは何かに引っ張られる感覚に流されるまま、気持ちのいい暗闇の中へと落ちていった。
ようやく声が戻ったイオリの最初の言葉は、心が壊れそうな悲鳴だった。クランは何かをつぶやいて、俺に寄りかかるようにくずおれた。すぐに剣を抜いて体を支えたが、出血も傷跡もないのに、もはや目を開けることはなかった。
クラン、これで本当によかったのか?
お前の願いを聞いて、お前の一番大切な者を守って、俺が苦悩を引き受けることしか、してやれることはなかったのか?
夢を守ろうとする者、現実を変えようとする者、責務に従う者、ただ平穏な日常を大切にしていただけの者……みな同じひとつのことを望みながら、なぜ悲しみばかりが増えてしまうのだ……?
世界の想いが俺の思いでもあるならば、今こそ願う。誰も犠牲にならず、誰も悲しまない道を、俺に教えてくれ……!
――――!!
突然、クランの体から黒い光が爆発した。すべての色と音が消し飛び、あまりの衝撃に世界が壊れてしまったのではないかと思った。ゆっくりと目を開けると、いつの間にか、そこには雪よりもなお白い光がいた。
「あれは……“聖獣”……」
現実と夢、二つの世界をつなぐ想いの円環――それは縁、遠、延、焉、淵、怨、炎……円。
黒く穢れた悪夢の具現は、柔らかい息遣いと穏やかな眼をした獣になっていた。世界の負の想いが浄化されたのか……だがその代償はあまりにも大きく、そして遅すぎた。“聖獣”はその場を見まわして、最後にこちらに向き直った。
『失われた言葉とともに、我を解放できたのだな』
「すまない、彼を守ると約束したのに……」
『彼の者の願いとお前たちの思い、確かに聞きとげた』
“聖獣”が大きく一声吼えた。その力のせいなのか、クランの意識が途絶えたからなのか、急速に夢の世界が遠ざかっていく感覚に襲われた。
「これで夢が救われたのならば、オレの役目はここまでだ」
「最後までお供します、マスター」
ソエルやシグルドが何かを話す声。
「クラン! クランッ!!」
その隙に逃れて駆け寄ってきたイオリの足音。
「“聖獣”が……」
ただ立ち尽くすリオタールやカリーナの姿。
冷たくて温かい何かが、俺たちを、世界を包み込む。恐怖、欲望、憎悪、憤怒――現実が生み出した負の思いが、現実に還っていく。同時に、押し込まれていた正の思い――信頼、安心、喜樂、愛情が、壊れた夢を再生させながら現実へと流れ込んでいく。
俺は動かない相棒を抱きかかえたまま、何を聞くことも何を見ることもなく、ただ光に飲み込まれていった。