29.解放
◇リーフ
コルスコートに戻った俺たちは、すぐにリシュトの町はずれにある森へと急ぐためアパートから車を出したが、クランは裏道を飛ばせるからと、一人バイクで先行した。
「イオリ、待ってろよ……!」
疲労の色も無視して飛び出していった後ろ姿は、悲愴でさえあった。
カミーユ殿が貸してくれた高速船でも、アルカ共和国からは一日と数時間かかってしまった。まさに一年にも思えるくらい長かったが、その間にもウィルドに電話をして夢の中を調べさせ、城からも官憲を動かせる限り出動させておいた。
しかし、クランは船に乗るなり倒れてしまい、港に着く直前まで寝込んでいた。聞けば、トゥレフ島を出る前にも意識を失いそうになったらしい。うなされてはいなかったが、寝ているのとはどこか違う。そう、まるで夢死者のような、穏やかすぎる眠り……また“聖獣”と対峙していたのだろうか。
「いったい誰なのかしら。イオリちゃんを誘拐するなんて」
助手席のエリィは、ずっとそれを考えていた。イオリをさらい、クランを呼び出した人物……まさか……。
「クランさんは誰かに恨まれるような人じゃないし……ねぇ、リーフさん」
「……」
「リーフさん?」
「ん? ……あぁ、そうだな」
考え事を振り払おうとハンドルに意識を戻したが、思いついた可能性を否定するだけの論理的根拠は、どうやっても作り出せなかった。
「いったい、なんのつもりだ……」
森の入口で車を捨てて駆けつけたら、小屋の前でクランの後ろ姿を見つけた。その向こう、木に縛り付けられて意識のないイオリの横には……。
「答えろ、シグルド!」
いつもの微笑は場違いなほど穏やかで、ぞっとするほど気味の悪いものだった。夢でミヌイ族の前に現れたという男とは、間違いなく彼だろう。しかし、誘拐犯は一人ではなかった。
「あなたもいらっしゃったのですね、閣下」
「やはりお前だったのか……カリーナ」
夢境省副大臣であり、大臣(俺)の有能な右腕でもある彼女は、城での職務のときにいつもそうしていたように、きっかりと会釈をした。こんな森の中で顔を合わせようとは、互いに想像もできない世界の間柄だったのだが……。
「ご存知だったのですか、私のことを」
「予想はしていた。信じたくはなかったが……」
「リーフさん、あの人は?」
「俺の仕事の部下だ」
“三英雄”として名高いシグルドはもとより、外見も態度もごく普通の女性に、エリィはイオリの誘拐との関係がつかめずにいた。ごく普通だからこそ異常な事態に、俺はエリィに車の後ろまでさがっているように目で示して、カリーナに向き直った。
「おかしいとは思っていた……ちょうど俺たちが訪ねていたミヌイ族に接触し、言づてをするなど、偶然とは思えない。俺がアルカ共和国へ行くことを知っていたのは、仕事のことで電話をしたお前だけだ」
「さすがは閣下。いつもながら、その洞察力には敬服いたします」
これが城の外でなければ、まったくいつもどおりの礼儀正しい立ち振る舞いだが、今はそれが逆に不自然な違和感に思えた。
「しかし、なぜ……いや、その前にシグルド、なんのためにイオリを捕らえたのだ」
「君なら、それもわかっているんじゃないのかい?」
笑顔のままで肩をすくめ、あくまでもシラを切ろうとした。だがそれをまともに受け流すほど、クランは素直でも冷静でもない。
「てめぇが何考えてようと、オレには関係ねぇ。さっさとイオリを放しやがれ!」
「残念だけど、大いに関係がある。彼女こそ、“聖獣”を解放するための鍵なのだからね」
……やはり、そういうことか。
「何わけのわからねぇこと言ってやがる。そいつは何も知らねぇ!」
「いいや、その狼狽ぶりが何よりの証拠だ。君のその態度で確信が持てたよ」
「『“聖獣”を宿す者の最も大切な存在』……それが鍵となるのだな」
隣に出てきた俺にクランが向き直り、シグルドは薄く笑ってうなずいた。
「どういうことだよ、リーフ」
「負の想いを解き放つことができるのは、最も強い正の想い……“愛”という心しかない。お前の父上は、最後にそれを伝えようとしていたのだ」
これまでの境遇では、誰かを愛することはおろか、人を信じることさえできなかった。しかし、たまたま夢を渡っていてイオリと出会い、その後に現実でも知り合ってからは、裏切られることを恐れながらも彼女に惹かれていった。
そう、今になって思えば、クランが“聖獣”の影響を現実に受けるようになったのは、イオリと正式に付き合うようになったころからで、誰かを助けようと本気で思ったときに強く表れていた。
だが、それで“聖獣”を解放するとはどういうことだ? シグルドやカリーナは、いったいなんのためにそんなことを……。
「確かに、アーレント博士は最期にそんな意味のことを言っていたよ」
「なんでお前が親父を知ってるんだ?」
「“聖獣”を固定するメカニズムを教えてくれるように『お願い』しに行ったんだけど、どうしても承諾してくれなくてね。交渉に協力してもらおうと思った家族は、わたしが刃を突き刺す瞬間まで死んだと言っていたんだよ」
「な、なんだと……!?」
モルディア国でクーデターが起こる直前に暗躍していたという、存在さえ不確かな謎の男のうわさ……アーレント博士の存在を抹消したのは今の政権を牛耳る軍部なのだろうが、実際に暗殺した張本人がまさか実際に、目の前にいるとは。
「てっ……めぇぇーッ!」
自分の運命を狂わせ、親を殺した仇に、クランは我を忘れて突っ込んでいった。手にしたナイフがシグルドに届く直前、カリーナが何かを取り出した。
「……ッ!?」
俺も反射的に銃を抜いたが、あたりに急速に広がった白い煙に視界を奪われた。いや、これは……。
「リーフさん! クランさん!」
どうやら催眠ガスだったらしい。後ろで離れていたエリィは助かったようだが、彼女の声を遠くに聞きながら、意識が落ちていくのを止めることはできなかった。
気がつくと、何もない白一色の世界に立っていた。耳が痛いくらいに静まり返っていて、前も後ろも上も下も、どこを見ても同じ景色が続いている。以前“聖獣”と対峙したときと同じ場所だと、すぐにわかった。
「ここは……オレの夢?」
戸惑うクランも、すぐ近くにいた。夢の一族であるキリルの一件はともかく、いつかの魔王のような悪夢の核でさえ、現実とは切り離された一個の人格であるのに、クランはいつもビクティムの夢に入っているときと同じように、自分の夢に意識を持って現れたというのか。
「……! ……ッ!」
「イオリ!」
エリィをのぞく全員が、そのまま夢に移動したらしい。ここでは意識を取り戻したイオリが縛られたまま叫ぶように口を開いたが、駆け寄ろうとしたクランは見えない壁にぶつかった。夢の中でなら、どんな魔法も現象も制限はない。
「私が開発した夢誘いのガス、いかがですか?」
カリーナが、子供のように誇らしげに言った。現実では見たことのない彼女の一面が、そこにあるような気がした。
「本人ごと特定の夢に入るとは、画期的な視点だな」
「お褒めに与り光栄です」
「やはりわたしが見込んだとおり、優秀な女性だ。なぜ、それをこのようなことに使うのだ。お前が何を望んでいるのか、まったく見当がつかない」
「私にも、閣下のお考えが理解できません」
カリーナの声が、少し上ずった。
「閣下は政治的にも人間的にも、人の上に立つべき力をお持ちでありながら、なぜそれを隠してまで国王陛下に尽くされるのです? アルベール陛下はお優しいだけで、ご自分の意見も通せない軟弱なお方です」
「カリーナ、それは前にも言ったように……」
「陰から支えることが、本当の忠誠なのですか? まわりを欺き、自分を殺し、結果的には陛下まで謀り操っていることになるのではないのでしょうか。力のある者が正しく評価され、まわりを導くという本来の国のあり方を作るために、私はシグルドに協力しました」
「……」
「閣下が真に国や私たちのことをお考えになられていることは、わかっております。しかしどんなに尊敬し、お慕いしようとも、あなたはけっしてまわりに心を開かれることはなかった……!」
偽りの仮面こそが現実である世界において、俺もまた、彼女の本当の姿を知ることはなかった。初めて聞かされた心の痛みは、自分と家系に対する揺るぎない自信に、初めて暗い影を落とした。俺は……。
「ったく、甘えたこと抜かしてんじゃねぇよ」
突然クランが割り込んできて、俺もカリーナも目を見張った。
「黙って聞いてりゃ、リーフのやり方が気に食わねぇだの、心を開かねぇだの、結局は自分を主張したいだけだろ。自分の本心もやりたいことも抑えて、こいつがどんだけ苦労してきたか、お前こそ全然わかってねぇじゃねぇか」
「そんなことはない! 私は間違ったことなど……」
「あぁ、あんたは間違っちゃいない。でも、こいつも本気なんだ。そんなこともわかんねぇでこいつの相棒を名乗ろうなんざ、甘えてんじゃねぇよ」
聞いていて、俺にも耳が痛い話だった。クランがこれほど真剣に考え、理解してくれていたとは思っていなかった。俺もまだまだ相棒としての努力が足りないな。
「カリーナ、そんなきれい事になど耳を貸す必要はない」
今やはっきりと言葉も態度も変えたシグルドが、迷いの色を見せ始めたカリーナにイオリを預け、後ろに下がらせた。
「他人をわかったような顔をして自己満足しているお前たちには、まったくヘドが出る」
「シグルド、お前は……」
「わたしはな、孤児だったのだよ。生まれてすぐに捨てられ、育ての親に虐待され、友人ヅラした仲間に殺されかけ、それでいったい人間の何を信じろと言うのだ? 悪夢を見たからと、自分の欲を棚に上げてすぐに助けを求めるビクティムも、何も知らずにキャーキャー騒ぐ女どもも、まったく、ゴミ屑以下ではないか」
シグルドという人間を、まさに初めて知った。彼はクランと同じような過去を背負っていたのか……地獄の幼少期、裏切り、生命の危機。
普通ならば、人間不信になって当然なのだろう。明暗を分けたのは、いつもすぐそばにあった想い、“聖獣”の存在なのか。だとすれば、シグルドもまた犠牲者であり、俺の相棒もこうなっていた可能性があったということなのだ。
「どんな人間も、しょせんはうわべだけで、真に理解することなどない」
「はん、やっと化けの皮がはがれたな。オレは最初っから、てめぇは胡散臭いと思ってたんだよ」
「お前のその妙なカンには、正直手を焼いたよ。おかげで“聖獣”が近くにいるとわかっていても、お前たちの身辺を調べるのは骨が折れた」
「流行り病のときに薬を持ってきたのも、“聖獣”のためだったというわけか」
「宿主にもしものことがあったら大変だからな。だが……」
縄ではない見えない力で縛ったイオリに目をやり、シグルドが薄く笑った。
「ようやく鍵を探し当て、宿主の夢に入ることにも成功した。さぁ、クラン。お前の大切な者を助けたければ、“聖獣”を解放しろ」
クランは、にらみ付けていたシグルドからわずかに目を逸らせた。
「んなもん、オレは知らねぇ。けど、今わかってることは……」
透明の壁を突き破ったクランが、現実と同じようにナイフを振り下ろしていた。鋼鉄の盾を出現させて頭上ギリギリのところで防いだシグルドに、クランはさらに飛びのいて銃を連射した。
「てめぇをブチのめして、力ずくでもイオリを取り返す!」
「ふん、相変わらず短気だな。せっかく話し合いで解決しようと思ったのに」
怒りに任せて乱射した銃弾を、シグルドはいとも簡単によけながら横に動いた。カリーナはエラン・ヴィタール二重構造遺伝子を持たない普通の人間だから、自由に動くことはできないし、何より彼らにとっても大切な人質であるイオリを傷つけるわけにはいかない。彼女たちを巻き込まないよう、少し離れた場所で銃弾が嵐のように飛び交った。
「シグルド、ひとつ聞かせろ」
クランの背後に降ってきた弾をすべて叩き落して、俺も戦いに加わった。
「なぜ“聖獣”を解放しようとしているのだ?」
懐に飛び込んで至近距離から発砲するクランをかわし、シグルドは空中に浮かび上がって爆撃を降らせた。俺がガラスのような壁で防ぎ、クランもミサイル並みの銃弾で応戦する。
「ならば逆に問うが、お前たちは“聖獣”が封じられていることの意味がわかっているのか?」
思いがけない問いかけに、リオタールの言葉がよみがえった。
『封じられた“聖獣”を倒すということは、そこに溜まったあらゆる感情や思いを解放するということです』
病気や災害が続くこの不安定な時代に、蓄積された世界の思い……それがどのようなものかは、“聖獣”の姿が物語っている。そんなものを解放すれば……。
「確かに、今の“聖獣”は負の思いで真っ黒に染まっている。だが、それも元をただせば現実の人間の感情ではないか。たとえそれを解放した結果どうなろうとも、すべては自分たちの責任だ。いや、むしろそれこそが世界のあるべき姿だ。夢が現実の犠牲となる義理はない」
初めて感情の起伏を見せたシグルドの言葉に、何か違和感を覚えた。
「まるで自分は現実の人間ではないような、第三者的な言い方だな」
「残念ながら、わたしは正真正銘の人間だ」
シグルドは俺たちの足元に撃って間合いをとると、銃をおろして笑った。
「いいだろう。ならば我が主に会わせてやる」
「主……?」
「孤児だったわたしを助け、力を与えてくれたお方だ。クランの内に“聖獣”が封じられているのと同様、主もわたしの内に宿っておられる。……お出でください、マスター・ソエル!」
シグルドから光が溢れ、あまりのまぶしさに目を開けていられなかった。彼の内に宿っているだと? アーレント博士の技術を利用したにしても、普通の人間が夢に固定されるなどあり得ないのでは……。
「リーフ殿!」
声がした方にふり返ってわずかに目を開けたら、リオタールがどこからともなく現れた。
「夢にあなた達の存在を感じて駆けつけたのですが、この波動は……?」
どう答えたらいいのかわからず言葉に詰まっていたら、光が少しずつ人の形を造っていった。やがてすべての光を吸収した“それ”は、俺でもクランでもなく、まっすぐにリオタールを見て微笑んだ。
「久しぶりだね、リオ姐」