27.ミヌイ族
◇リーフ
港の朝は早い。
まだ暗いうちから次々と漁船が出港し、入れ替わりに貿易船が入港してくる。倉庫や市場ではすでに人と物が流れるように動いて、昼間より活気にごった返っていた。客船が来るのはもう少し後だが、すぐに宿場にも人の往来があふれるだろう。港の規模は、世界第一の都を名乗るコルスコートでさえ及ばない。
アルカ共和国についた次の日は、共和国政府に改めて航海の許可を申請し、ついでに仕事で農林大臣との会見も済ませておいた。
その翌日、空が白み始めたころ、俺たちは港のすみに用意されたサマド貿易会社の小船に乗り込んだ。小さいとはいえ、俺たち三人(エリィも行きたいと言い張ってついてきた)の他に水夫四人が乗り込んでも充分に余裕がある。
「わたしは仕事があるので同行できませんが、気をつけてください」
カミーユ殿と妻女に見送られ、大海原へと旅立つ他の船を横目に、朝日の昇る方角へと出発した。目指す孤島は、島影が蜃気楼のように遠く揺らめいている。船べりからその光景を見つめながら、俺の頭の中は疑問と懸念で渦巻いていた。
ここへ来る前、屋敷で新たにわかったことがあった。モルディア国のアーレント博士らの研究チームが、やはり“聖獣”に関する重大な発見をしていたようだと、密偵の報告が入っていた。ほとんどすべての資料データが破棄されていて、内容まではつかめなかったが、少なくともそのうちの一つが“聖獣”を特定の者に固定封印する手段であったことは、“聖獣”の話からしても間違いない。
わからないのは、それがなぜクランだったのかということだ。エラン・ヴィタール二重構造遺伝子を持っているからかとも考えたが、少数であってもそれほどめずらしいものではない。それに彼がモルディアにいたころはまだ十歳にも満たない子供であり、放浪していた時期にそれらしいことがあったという話も聞かない。いったい、いつ、どこで、なぜ……それがわかれば、あるいは解放する方法の手がかりもつかめるかもしれないのだが……。
「何たそがれてんだよ。まだ朝だぜ?」
どたどたと舟が揺れるほどの足音は、ふり向くまでもない。
「ミヌイ族に会ったら、お前は何を知りたい?」
「そうだなぁ。夢の住人なんだったら、現代科学で証明できねぇ裏事情なんかも教えてもらって、レヴォン賞でも狙うか?」
船べりに背をもたせ掛けて、クランはのんきに笑った。その声に必死に隠そうとしている緊張のような違和感を覚えたのは、気のせいだろうか。
「ま、“聖獣”を倒す方法とか、それで倒せとか、おおかたそんな話だろ」
「だろうな。しかし、もしもそうだとしたら……お前はどうするのだ?」
「さぁな。どれだけ強くて凶暴だとか言われてても、実際“聖獣”なんか見たこともねぇし。でもたぶん、オレは戦うだろうな」
それがオレの仕事だ、とクランは言い残して、波間に飛び交う魚を眺めているエリィのところへ行ってしまった。
仕事だから、という言葉が、おそらく彼のすべてだ。解夢士であることのみが自分の存在意義だという、半ば強迫観念のような決意さえ見える。やっと手に入れた平穏な日常を守りたくて、それがために自身を失うことになるかもしれないとわかっても、クラン、お前はお前のままでいられるのか……?
島が、もうすぐそこまで近づいている。同時に、もはや相棒に事実を話すべきときが迫っていることを、俺は痛いほど感じた。
砂浜に上陸して見渡す限り、トゥレフ島はしんと静まり返っていた。うわさによると、この森の中に“夜の民”が住んでいるらしい。水夫たちに舟を守って待っているように言って、クランとエリィに目で合図をし、ゆっくりと森に入っていった。
「ようこそ、我らの集落へ」
ほどなくして、どこからともなく数人が出てきた。年齢も性別も肌の色もさまざまだが、みな銀色の髪が木漏れ日に光っている。その中に、キリルもいた。
「来てくれてありがとうございます。長が、奥でお待ちしています」
俺たちが今日来ることをわかっていたかのように、無駄な話も説明の労力も必要なかった。彼らはキリルの他は誰も何も言わず、ただ歓迎と好奇と、多少の警戒を含んだの眼で、遠巻きについてきた。
すぐに森が開けて、丸い屋根がいくつか集まった村が現れた。立ち話しをする声があり、たき火の煙が昇り、まきを割る者もいる。この距離なら浜からもわからないはずがないのだが、まるでここだけ外界と遮断されているかのようだった。
「お久しぶりです、クラウス殿」
案内された一番大きな家には、俺たちとほとんど歳が違わないだろう女性がいた。はっきりと澄んだ声で、厳格な印象もあるが、微笑は柔らかい。
「私がミヌイ族の長、リオタールです」
後ろでクランが驚きの口笛を吹いた。長と聞いて、老人だとでも想像していたのだろう。正直、俺もこれほど若い女性だとは予想できなかった。
「ご招待いただいた、リーフ=クラウスです。失礼ですが、久しぶり、とは何かの間違いでは?」
「すみません。懐かしくて、つい」
リオタールは、俺たちに席を勧めてから答えた。
「あなたの先祖であるエディス=クラウスと、私たちは友人だったのです」
「初代と? しかし、あなた方の記述はまったくと言っていいほどなかったが……」
「我々のことが現実界に知られることを懸念したのでしょう」
「つーか、あんたら何歳だよ……」
ぼそっとツッコんだクランの言葉は、数秒間の間を置いた後、何事もなかったかのようにあっさり流された。
「今あなた達が使っている機械や科学的理論もなく、彼女は夢の世界を自由に行き来できた唯一の人間でした。そして“聖獣”を倒し、二つの世界を救った恩人でもあります」
夢の民の存在を知り、ミヌイという記述を手記に見つけたときから、初代と彼らの間になんらかのつながりがあったのだろうとは思っていたが、まさかその当時からの仲だったとはな。どうやらクランの疑問どおり、彼らは歳をとらないらしい。リオタールやキリルの、外見とは似つかない落ちついた雰囲気は、まさに年の功といったところだ。
「リーフ殿、ここに来てもらったのは、重大な話があるからなんですが……」
「彼らなら大丈夫だ」
相棒と婚約者を紹介し、秘密を共有していることを説明した。いや、今から知って共有することになる、と言うべきか。リオタールはエリィに一瞥しただけで、クランをじっと見据えた。
「あなたが……そうなのですか」
「ん? オレってもしかして有名人?」
「“聖獣”について、あなた達はどこまで知っていますか」
勘違いの軽口は、再びその場の誰も聞いていなかったがごとく流れて、リオタールも俺も次の話に進んでいた。
「我がクラウス家に伝わる資料が現実での最大の情報だと自負しているが、最も強力な悪夢だということ以外、“聖獣”の正体さえわかっていない」
「最も強力……それは間違いではないですが、一つ誤りがあります。“聖獣”は、悪夢ではありません」
「しかし、実際に多くの夢死者が……」
「“聖獣”という存在の成り立ちと意義を、お話しましょう」
ミヌイ族の長の話は、驚愕すべきものだった。
夢とは現実から生まれたものだが、“聖獣”だけはその夢から生まれたのだった。そして“聖獣”は夢と現実にあるあらゆる生命の感情を力に換えて、二つの世界のバランスをとっている。しかし現実において苦しみや悲しみという負の感情が増えると悪夢が増えて、夢魔が夢を荒らすといったことがあまりに深く急激に起こると、本来、生命を導くはずの“聖獣”が狂ったように暴れてしまう。
以前に対峙したときのあの感覚が、生々しくよみがえった。ただ一度のわずかな時間だったが、自分の死だけではない、すべてが消えてしまう絶望的な覚悟を感じたあの恐怖は、今もはっきりと覚えている。そして、あの憂いを秘めた哀しい眼も。
「あ、あの……」
説明が一段落したところで、エリィが緊張しながら遠慮がちに質問をした。
「でもそれじゃぁ、ますます現実の私たちが怯えて、それでまたよけいに夢が壊れてしまって、このままじゃどんどん悪い循環が続いてしまうんじゃないんですか……?」
「えぇ、どこかでその循環を断ち切らなければならないわ」
「だから手っ取り早く、“聖獣”をぶっ飛ばしちまったらいいんだろ?」
短気で短絡的なクランらしい発言に、俺は自分の顔がこわばるのを感じた。それが何を意味するのか、危うく口に出しそうになったが、このときは視線を逸らせることで思いとどまった。
「そういや、六百年前に“聖獣”が暴れたとき、リーフのご先祖サマがやっつけたんだろ? なんで今もまだいるんだよ?」
俺もそれが疑問だった。世界のバランスをとる“聖獣”が消えれば、現実はともかく夢の世界は消滅するのではないのだろうか。だが、初代が“聖獣”の暴走を止めたことは事実……でなければ、今ごろ現実も崩壊しているだろう。
「生命を生み出し力強く育む太陽の光だけでは、世界は成り立ちません。闇を照らし包みこむ月の光は、儚い希望を導きます」
「……そういうことか」
突然言い出したリオタールの奇妙な謎かけに、クランもエリィも首をかしげたが、俺にはすぐにわかった。
「“儚月”……彼女はあれで“聖獣”を浄化したのだな」
クラウス家の当主が夢の中にいるときのみ現れ、“聖獣”以外のものには抜くことさえできない剣は、初代が封印して以来数百年間、一度も使われることなく受け継がれてきた。
「エディスは“聖獣”の悪しき濁りを、あの剣で消し去ったのです。世界に渦巻く負の感情を断ち切り光に変えた。彼らを助けることはできなかったけれど、夢は救われました」
「彼ら?」
「私たちは世界と引き換えに、もっとも大切な友を失ったのです……」
リオタールはまぶたを閉じて、それきり言葉を切った。おおよその想像でしかわからなかったが、悲痛な過去は今もなお陰りを落としているようだった。
「つまり“聖獣”は消えないで残ってるけど、またリーフのなんとかいう剣でバッサリやったら万事おっけー! ってことだろ? あ、でも今どこにいるのかわからねぇんだよな」
場の空気を読んでいないのか、わざと気を使って明るくしているのか――いや、彼の場合は確実に前者だな――クランは早くものんきな結論を出そうとしていた。何も知らないとはいえ、どうしてお前はいつも自分の危険を考えずに……。
「……」
憤りに似たやるせなさは、このときもまたため息に消えた。しかし今度は、気付かれないように落としたはずのその焦燥を、リオタールが拾い上げた。
「“聖獣”の居場所は、わかっています」
「リオタール……!」
「リーフ殿、いずれ話さなければならないなら、今がそのときです」
「それはわかっている。が、しかし……」
「あなたが躊躇うのならば、私が話します」
「なんだ? なんの話だ?」
じっと見据えるリオタールと唇を噛む俺とを、クランが交互にのぞきこんだ。この視線を、話題を逸らせることは、もうできない。そして逃れられないのならば、相棒である俺に、それを果たす義務がある。
「クラン、これから言うことをよく聞け」
「あ? なんだよ、改まって。気持ち悪ぃな」
あくまでおどけて肩をすくめるクランの眼はしかし、予感めいた戸惑いを隠しきれていなかった。
「以前、俺がお前の夢に入ったことがあっただろう」
「え、あぁ。そういや、そんなこともあったな。でもお前が夢解したって言ってたくせに、こないだもまたうなされちまったぞ」
「確かに核と接触はした。だがあの夢は、そう簡単に解けるものではない。解いたとき……つまり核を消したら、お前も……消えるかもしれない」
「なんだよ、それ。なんで悪夢を消したらオレまで……」
「あれは悪夢ではない。お前の内には、“聖獣”が封じられているのだ」
いっきに吐き出した俺の言葉を懸命に飲み込もうとしているかのように、クランは何度も瞬きをした。
「“聖獣”が、オレの内に……? 冗談だろ」
「嘘ではない。俺は確かに、お前の夢で“聖獣”と対峙したのだ」
「……」
「いつ、どうやってお前の内に封じられたのか、それはわからない。ただ人間の科学力によって固定されたのだと、“聖獣”自身が言っていた。そして満月の日、お前がいつも定期的にうなされているあの夜に、“聖獣”が力を発散することで、お前の精神の暴発を抑えているのだそうだ」
この話が何を意味するのか、クランもわかっているのだろう。ここではないどこか一点を見つめたまま、しばらくの間、自分の中で思考を巡らせているようだった。
「あー……悪い。ちょっと、タバコ吸ってくるわ」
迷った末にやっと見つけた言葉を残して、クランは俺たちの顔を見ることなく外に出ていってしまった。リオタールも集まっていた他のミヌイ族も、みな彼を止めることはできなかった。
「クランさん……」
この場でもう一人、ここで初めて事実を知ったエリィは、姿の見えなくなった出口と俺とを交互に見た。
「クランさん、どうなっちゃうんですか……?」
「封じられた“聖獣”を倒すということは、そこに溜まったあらゆる感情や思いを解放するということです。たとえ前回のように浄化できたとしても、宿主がその影響に耐えられるかどうか……」
「そんな……!」
「心配するな、エリィ。まだそうと決まったわけではない」
感受性の強いエリィは、自分のことのように泣いていた。いや、たぶん自分のことであるより辛いのだろう。俺もこんなことを言って励ましながら、実際には何も手立てのない自分に憤りを感じていた。
「とにかく、もう少しだけ待ってくれ。次の満月までに、なんとしても対策を探し出す」
「わかりました。どのみち、クラウス殿の力がなければ“聖獣”に抵抗できません。私たちもできる限りのことを手伝いますが、猶予はあまりありません。夢と現実、二つの世界の命運がかかっていることを忘れないでください」
リオタールは俺たちに考える時間を与えるために、奥の部屋へ消えた。まだ動揺しているエリィの手をとって、どうするべきなのか目まぐるしく頭を動かしていたら、部屋のすみでひかえていたキリルが声をかけてきた。
「長は厳しい方だけど、自分の使命と夢を守ろうと必死なだけなんです」
「あぁ、わかっている。それは俺も同じだからな」
「六百年前のあのときも、そうでした。長は最後まで一族と世界のために闘い、その結果夢は守られけれど、長の婚約者とその弟が犠牲になりました」
先ほどの話の中で、助けられなかった友と言っていた彼らのことなのだろう。使命と私心の板ばさみになる辛さは、俺にはよくわかった。まさに今、俺自身がその選択を迫られているのだ。六百年たとうとも、その苦悩は消えないというのならば、大切な者の血の上に救われた世界に留まりたくないというのも……。
「少し、クランの様子を見てくる」
クランには辛いことだが、もはや事実を知った以上、本人に過去を聞くのが一番だ。悪夢にうなされるようになったのが十七年前という細かい年数を覚えていることからも、直接的なことでなくても、何か思い当たる事情があるはずだ。
「エリィ、お前はここで待っていてくれ。彼のことは、必ず俺がなんとかする」
「クランさんを、助けてあげて」
一度強く握った手を、エリィは自分から送り出すように離した。知ってしまったからには、もはや知らなかった以前に戻ることはできない。ならば前に進むしかないことはわかっていても、その先に何が待っているのか、俺はどの道を選ぶのか、今もその答えは見つかってはいなかった。