23.舞踏会
◇リーフ
裏組織のひとつが突然壊滅したというささやかな“事件”が新聞の三面に小さく載ってから、数日が過ぎた。アパートに戻ってきたクランは、次の日にはいつもどおりに仕事をこなし、この前のやり直しだと言ってイオリも加えて『エーミル』で食事もした。
「今日も早いな」
「へへ、まぁな。お前もたまには早起きしてみろよ。気持ちいいぞ」
理由を訊いても何も言わず、軽やかな鼻歌と気持ち悪いほどの笑顔で、日の出前から毎日そうじと料理をしていた。部屋をのぞくと、いつも酒ビンやちり紙が転がっていた床が、輝くばかりにきれいになっている。
ここからまた、クランの新しい日常が始まっていくのだ。今はしっかりと、その手ごたえを確かめておけ。もう二度と、見失わないように。
「お、どっか行くのか?」
「少し屋敷へ戻ってくる。お前が前に進み始めたのだから、俺も動かないとな」
「オレを見習うのはいいことだぜ。ま、お前もがんばれや」
にこにこ笑いながら皿を洗うクランに見送られて、流行り病で寝込んで以来、初めて屋敷に戻った。
世間から忘れられた湖のほとりは、秋の色に包まれているということだけが時間の流れを表していて、流行り病も急増する犯罪も、ここでは関係がなかった。
「若、お元気になられて何よりでございます」
車を降りる前に、じいがいつかのシアのように門まで駆け寄ってきた。医師団を派遣しようとしたのはどうにか止めさせたが、様子を伺うために密偵を放っていたことは知らないふりをしている。俺が無理を言って単身で町に出ているのだから、屋敷の執事兼教育係としては気を揉むのも当然だろう。
「例の、モルディアの研究資料をそろえてくれ」
かばんとコートを受け取ると、すぐにじいが召使い達に指示を出した。
クランの身の上が落ちついたところで、残る不安材料は彼の内に封じられている“聖獣”だ。本人が知らない以上、いつどうして封印されたのかも訊けず、夢に関しては世界第一を自負するクラウス家の情報知識でさえわからない。三ヶ月前に“聖獣”と対峙してから何度も屋敷に戻り、地下の書庫にある初代のころからの文献を洗い直しているが、それらしい記述は見つかっていない。最も怪しいのは、やはりクランの故郷、コルスコートと並ぶほど“聖獣”研究に力を入れていたモルディア国だが、十七年前の政変で今は鎖国同然となっている。
「正規のルートでは、やはり限界があります。裏にも手をまわしておりますが、思うように情報が集まっておりません」
クーデターが起こる直前に暗躍していたという、存在さえ不確かな謎の男の噂などは、諜報部員を持つ者なら誰でも知っている。研究所所長のアーレント博士が行方不明という正式発表の裏で暗殺されていることも、今ではほとんど常識だ。外部にわかっているのは流言やお粗末な嘘ばかりなのだが、それでもなお情報を秘匿しているからには、何かしらの研究成果があったものと思われるのだが……。
「クラン様のご容態は、その後いかがでございますか?」
じいには同居人のことも、彼に“聖獣”が宿っていることも話してある。夢の番人を担う家系に仕える身として、もちろんその意味も熟知している。
「若が初めてお心を開かれたお方ですから、わたくしにも人事ではございません」
「大げさだな。それほど、わたしに友人がいないと心配していたのか」
「もちろんですとも。これまでむずかしいお顔ばかりされておられましたが、町に出られてからの若は、表情も雰囲気も柔らかくなられました。やはりお話に聞く、クラン様のさっぱりと明るいご気性のおかげでしょう」
まぁ、否定はしないが、そこまで変わったと言われると、以前の俺はそれほどまでに暗く気難しかったのかと、少し居心地が悪い。それに影響を受けたのは彼だけではないと、最近になってようやく気付いていた。……。
『お前が前に進み始めたのだから、俺も動かないとな』
屋敷へ戻る前にクランに言った言葉が、自分の背中を押しているような気がした。不確かで初めての気持ちに気付いた今こそ、俺も動くべきときだ。
「モルディアの調査は、もうしばらく続けてくれ。……ところで先月、招待状が来ていただろう」
「は? ……あぁ、秋の晩餐会でございますか」
突然話が変わったから、じいは驚いてわずかに間をあけて、すぐに棚から封書を取り出した。受け取ったときにはいつものように欠席の口実を考えていたのだが、病で返事が遅れていて助かった。
「返事を出しておいてくれ。同行人を連れて出席すると」
「かしこまりました。して、どなたがご一緒に? クラン様でございますか?」
「いや……」相棒のことならなんでもないのに、こちらはなぜか口にするのもためらった。「もう一人の、わたしを変えた人間だ」
自分の顔がどんな表情をしているのか不安になり、すぐに机に向き直った。背中で心得顔のじいが笑っている。
「若のお父上の、お若いころを思い出します。旦那様と奥方様も、舞踏会で出会われたのですよ」
何も言っていないのに、じいは一人で昔の思い出に浸っていた。やれやれ……とため息をついたものの、興味こそあれ怒りはなかった。これまで遠い存在だった父と、初めて深く話をしたいと思った。
「そのお方に、わたくしめも近くお目にかかることができましょうか」
「あぁ、そうありたい」
それは、俺の心からの願いでもあった。
翌日、屋敷から戻ってくる足で、そのまま『エーミル』に向かった。夕方の混み始める前の時間帯だから、早い常連と軽食をとっている老人しかいない。洗い物をしていたエリィは、カウンターに座るとすぐに水を出してくれた。
「いらっしゃい。こんな時間にめずらしいですね」
「エリィ、お前、ドレスは持っているか?」
俺にとっては昨日からずっと考えていた言葉だったのだが、当然ながら彼女にとっては突然のことで、後片付けをする手を止めて首をかしげた。
「ドレスっていっても、兄の結婚式に着たくらいのものしかないけど……どうかしたんですか?」
「今度の日曜日、城で催される舞踏会にある方から招待されているのだが、一緒に来てくれないか」
「えぇっ!?」
エリィは目を丸くして皿を落としてしまったが、大きな音で砕け散ったことにも気がついていないようだった。
「なんだ、俺とは嫌か?」
「い、いえ、そうじゃないけど……いきなり舞踏会だなんて言われても、私、お城にも行ったことがないのに……」
「そんなことなら問題はない。では、日曜のこの時間に迎えに来るからな」
「えっ、あ、ちょっと……!」
エリィが叫びかけたのを聞かずに、一方的に話を切り上げて店を出ていった。少し強引だったかもしれないが、彼女が何を言おうとしたのか聞くのが怖かったからなどとは、自分でも信じられない。冷静沈着と言われ、先を読むことが得意だったはずなのに、これほど自分に不安を覚えたのは生まれて初めてだった。
宮廷晩餐会用のスーツを町で着るのは初めてだったが、落ちつかない理由はそれだけではない。社交界に出て以来、憂鬱でしかなかった舞踏会が、いつもとはまったく違った意味を持っているからだ。
「エリィ、どうだ? 準備は……」
店の裏手に車を停めて声をかけたら、すぐにエリィが出てきた。黄色い花飾りがついた淡い緑のシンプルなドレスに、セミロングの髪をまとめてアップにしている。普段は薄いナチュラルメイクだから、少し頬と唇に紅を加えただけでとても艶やかに見える。出会ってから二年もたつというのに、彼女にこんな一面があったことを初めて知った。
「こ、こんな感じでいいですか?」
「あ……あぁ」思わず見とれた目が離せなかった。「とてもきれいだ」
思ったことをそのまま口にしたら、エリィの顔が真っ赤になった。外見は違っても、そういうところはいつものままだ。
「さぁ、どうぞ」
助手席のドアを開け、彼女を乗せて車を出した。途中でどんな会話をしたのかはよく覚えていない。ただ、丘を登っていく道が遠いようで近いようで、通り慣れた道とは何かが違っているようだった。
「わぁ、すごい! お城ってこんなに大きいなんて……」
人に会いにくいよう、わざと時間を遅くして到着した城門で、エリィは目と口を大きく開いて呆然とした。俺は初めて連れられた幼少のときの記憶もないが、やはりこの壮大な王城を初めて見た者は、みな感嘆のため息をつく。丘の三分の一近くもある庭園にはかがり火が置かれ、色とりどりの花が咲き乱れる昼間とはまた違った幻想的な闇の中に、白亜の宮殿をより壮観に浮かび上がらせている。
「これから、あそこへ行くのだぞ」
「き、緊張するわ……」
「エリィ」
顔をこわばらせる彼女をこちらに向かせて、できる限り静かに言った。
「いつも、どんなときでも、俺は俺のままだ。それだけは忘れないでくれ」
「え? ……えぇ、もちろんです。あなたを信じていなきゃ、こんなところへ来ることもできなかったわ」
「それは光栄だな。では、行こうか」
やっと笑ってくれたところで左腕を差し出すと、エリィは戸惑いながら右手を絡ませた。庭園の中を城へ向かって歩く間、何度も見上げる彼女の視線を感じながら、笑いそうになるのをなんとかこらえて無表情を装った。
「リーフさん、なんだか貴族様みたい」
「ふふ、そうかな?」
つい微笑んで横を見ると、恥ずかしそうに目を伏せる彼女こそ、どこの貴族の令嬢にも負けないくらいまぶしかった。
コルスコート国王主催の定期晩餐会は年に四度、そのうち夏と秋は中庭で盛大な舞踏会も行われる。俺は年に一度も出席するかしないかだが、近隣国の貴賓も加えた貴族連中にとっては政治性の思惑が飛び交う重要な社交場として、ほとんどの貴族が息巻いて出席している。
「おや、クラウス殿。貴殿がご婦人をお連れしているとは」
ディファンス国の外相と談笑していた壮年の侯爵が、俺たちを見つけて近づいてきた。候は王党派の有力者で、俺の父の親友だった。
「マクマード候、お久しぶりです。こちらはサマド嬢、今宵は無理を言ってパートナーになっていただきました」
「それはますますめずらしいな。わたしはウォルス=ティムール=エル=マクマード侯爵です。以後、お見知りおきを」
「あ、はい。わ、私はエレアノール=サマドです。よろしくお願いします」
恰幅がよく、きれいに整えられたひげで微笑すると、穏やかながらも無条件の威厳を感じさせる。エリィは元が人見知りの性格であり、身分を理解するより候の人柄に気圧されて、怯えるようにおろおろしながら頭を下げた。
「ふむ、なるほど」候は目を細めてでうなずいた。「よい目と澄んだ声をしておられる。クラウス殿が惹かれるのもわかる気がするな」
「からかわれますな」ときどき父のようなまなざしをする候にはかなわない。「それでは、まずは陛下にご挨拶に伺いますので失礼します」
マクマード候と向こうで待っていた外相に目礼して、その場を後にした。おぼつかない足元で、エリィが俺の腕につかまるようにして必死についてくる。
「あの、リーフさん。陛下って、もしかして……」
ふふ、と口の中で笑っただけで、あえてそれには答えなかった。ささやかな意地悪心がなかったわけではないが、今ここで説明をしても、かえって動揺するだろう。なれば、先にありのままの現実を見てもらう方がいい。
「アルベール陛下、このたびは舞踏会にお招きいただき、ありがとうございます」
「リーフか、待っていたぞ」
玉座にひざまずいてご挨拶を申し上げると、陛下はすぐに立ち上がって降りてこられた。同じように隣で頭を下げていたエリィは、目だけで精一杯上を向いて、もう真っ青な顔色になっていた。
「お、王様……ほ、本当に本物?」
「はっはっは! わたしはあまり表には出ないからな。王といえば、もっと厳格な老人だとよく思われているようだが」
陛下が気さくに笑いかけられても、エリィはどうしたらいいのかわからず、目を泳がせた。クランのときはあまりにあっけなかったから、どこか安心してしまっていたのだが、よく考えたらこれが普通の反応だ。
「しかしリーフ、そなたがご婦人を連れてくるなど、初めてではないか」
「エレアノール=サマド嬢です。先ほどマクマード候にも同じようにからかわれました。確かに、わたしにはもったいない、すばらしい女性です」
「は、はじめまして……えっと、あの……お、お目にかかれて光栄です」
「そう硬くならんでもよい」まったく、どこかの誰かにも見習わせたい。「そうか、クラン殿が話していたのは貴女だったのだな」
「クランが?」
「そなたがとても大切にしている、心の休まる女性だと言っていたよ」
また余計なことを……。
「リーフよ、これでようやくクラウス家も安泰かな?」
「ご心配をおかけして申し訳ございません。そうであればよいのですが、まだ彼女には何も話しておりませんので……」
その意味を即座にご理解なされた陛下は、席を立ち中庭の立食パーティー会場に向かわれた。陛下のお心遣いに感謝して、呆然としているエリィに向き直った。
「あ、あの……?」
「エリィ、今まで黙っていたが、聞いてほしい」
これを言うと、もう後戻りはできない。いや、ここへ連れていくと決めたときから、先へ進むことしか考えていなかったはずだ。国王や他国の重鎮に対しても気後れしたことなどないのだが、次の一言を口にするには数秒間の緊張があった。
「わたしの本当の名前は、リーフェンシュタール=アドルノ=エル=クラウス。このコルスコート王国と王家に忠誠を誓い、五年前に父から伯爵の名を継いだのだ」
エリィは小さく口を開け、やはり数秒間、瞬きも呼吸も止まった。やがて何度も目を瞬かせて、初めて見るようにおずおずと俺の顔を見上げた。
「リーフさんが……伯爵様……?」
人々の目も喧騒も届かない裏庭に出て、エリィはようやく人心地がついたようだった。といっても、黙って後ろからついてくるばかりで、下を向いて俺を見ようとはしない。初めて出会った二年前も、こんなふうにうつむいていたな。
「驚かせてすまなかった」
「い、いえ……と、とんでもございません」
いつもの丁寧な言葉遣いだが、今はよそよそしさが感じられて、刺すような痛みを感じた。やはり、真実を知ってしまえば態度が変わるのは当然なのか。感覚のずれた相棒のように、誰でも平然としていられるわけではないのだ。
「そんなに、かしこまらないでくれ。いつもどおりにしてほしい」
「でも、伯爵様にそんなご無礼は……」
「俺は俺だ。何が変わるわけでもない。だからお前も変わらないでくれ。頼む」
貴族であろうと一介の解夢士であろうと、屋敷に住んでもアパートに住んでも、変わるのは人の目であって、俺は俺のままなのだ。だが、人の目はそう簡単に納得できるものではなく、いや、たとえ万人にどう思われようとも、俺にとって今は彼女の目だけがすべてだった。
「……そう、ですね。あなたはあなたのままだって、約束してくれたもの」
ようやく顔を上げて微笑んでくれただけで、瞬く間に胸が軽くなった。まったく、彼女の反応のひとつひとつに、これほどまでに一喜一憂するとは。感情がないと言われ、心を動かすなど皆無だったのに、俺にもこんな人間性があったのか。
「みんなにも、秘密にしているの?」
「クランだけには言ってある。もっとも、まったく興味も関心もなさそうだったが」
「ふふ、クランさんらしいですね。ある意味、大物かも」
エリィが小さく笑った。いつもの彼女に戻ったということは、それだけ俺を信用してくれているのかと……それは俺の思いあがりだろうか。
「でも、どうして私にまでそんな大事なことを……?」
俺のすべてを、知ってほしいから――その気持ちを伝えるタイミングがつかめず、こぼれかけた言葉をすんでで飲み込んだ。
「俺は厳格な伯爵家に生まれ、社交界では感情を殺すことを美徳として、今まで心から人と接したことはなかった。しかし町に出て、感情を知り、肩に力を入れることなく笑えることを知って……つまり……」
何を言いたいのかわからなくなり、はたから見れば苦笑するほど狼狽していた。理路整然な論理が売りだったこの俺が、なんという慌てようだ。それが自分でもおかしくて、ふっと自嘲した瞬間、戸惑いも迷いも吹き飛んだ。
「エレアノール」
いつもの愛称と違うことに驚いたのか、それとも俺が急に抱きしめたからなのか、エリィは息を呑んでピクリとも動かなかった。ヒールを履いたら俺の首の高さにある耳に、顔をかがめてささやいた。
「愛情というものを、お前が教えてくれた。他の誰も、お前の代わりはできない。だから、ずっと俺のそばにいてくれ」
「それ、って……」
「俺と結婚してほしい」
世界で一番長い数秒間が、永遠のように流れた。いきなりこんなことを言われて、驚かないわけがない。まして彼女の気持ちがどこにあるのか、なんの確信もないというのに、それでも俺は、自分の気持ちに素直に従えたことに後悔をしていなかった。
「私……」
かすかに顔を上げて、しかし目を伏せたままエリィが言った。
「じつは、私、先月にも同じようなことを言われたんです」
「……」
「お受けしようと、思ってたの」
体がしびれたような痛みをよそに、頭はなぜか恐ろしいほど冷たく落ちついて、心にもないことを口から吐き出していた。
「そうか、わかった。お前が選んだのなら、俺はその選択を尊重する」
「リーフさん、あの……」
「その者と、幸せになってくれ」
「だから違うの、聞いて」
どういうわけか、エリィがあわてて目を上げて言葉をさえぎった。
「あのね、その人はリーフさんもとてもよく知っている人なの」
「クラン……ではないな。誰だ?」
「小さいのに背伸びして、私の手をつかんで言ったの。『ずっといっしょにいて、ママになってほしい』って」
「まさか……シアが……」
少女のように、エリィがいたずらっぽく笑った。衝撃が収まると体中の力が抜けて、その言葉を理解するのに今度は俺が数秒間を要した。
「いい、のか……?」
「リーフさんこそ、私なんかでいいの? 私はただの一市民だし、お金もないし、美人とも言えないし……」
「身分など関係ないし、金ならもう掃いて捨てるほどあるし、お前はとても美しい。……他にまだ何か問題があるか?」
矢継ぎ早にすべての言葉を封じると、エリィは本気で困った顔をして考え込んでしまった。そう、もはや言葉はいらない。どちらからともなく抱き合い、唇を重ねたら、もう言葉など必要なかった。
「未来の我が妻、わたしと踊っていただけますか?」
「よろこんで、未来のだんな様」
頬を赤らめて微笑むエリィをエスコートして、宮殿に戻っっていった。新しく始まった楽曲にのって、舞踏会の真ん中で手を取り合って踊る。それは新しい未来を二人で拓く、最初のステップだった。




