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夢人〜Dreamer〜  作者: chro
18/33

16.イオリの苦悩

◇リーフ



 アパートに戻っても眠ることなどできず、それ以上にクランの前で冷静でいられる自信がなかったから、俺はそのまま外を歩いた。日の出の時間でも、すでに動き始めている町は港や市場を中心に活気が溢れている。こんなとき、ゆっくりと静かに考えられる場所といえば屋敷の書斎が一番なのだが、あそこへ帰る気にはならなかった。あの部屋にいれば、嫌でも“聖獣”に関する書物が目に付く。それよりもまずは頭の中を整理して、これからどうするべきなのかを考えなければならない。

「あそこがあったな」

 ひとつだけ、この近くで人がいないところを思い出し、すぐに足を向けた。

 町はずれの森は朝日が木洩れ日になって降りそそぎ、その間を小鳥が飛びかっていた。朝の森はこんなにも空気がうまいものなのか。昔は市街地にも植物があり鳥も来ていたのだが、ここ二十年あたりの急激な経済成長で車や工場が増え、自然は消えた。生まれてからずっとリシュトに住んでいたのに、そんな変化にも気がつかなったのか……いや、だからこそなのかもしれないな。

「……ふぅ」

 雷に打たれたらしい倒木に腰をおろし、環境問題のことはひとまず棚上げにして頭の中からしめ出した。ここなら考えごとをするにはちょうどいい。考え直さなければならないこの複雑な現状で頭が爆発しそうだ。

 まさか“聖獣”が現世に、それもこんなに近くに存在していたとは……。我がクラウス家にのみ伝わる、表の世界では抹消された裏の歴史――その中には“聖獣”のことが詳細に記されている。これは実際に“聖獣”と戦った先祖の手記だから、事実とみて間違いない。……はずだった。

「しかし、あの色は……」

 記録にある純白という表現とは明らかに違う。白や黒が他にもいるというのか? ……あんなものが何匹もいると考えるだけで気が滅入る、却下だ。だいたい、“聖獣”が複数存在するという話などまったくないし、“儚月(ぼうげつ)”を知っていたというところからも先祖が封じたそれに間違いないだろう。しかし、それではあの色は説明がつかない。毛が生え変わる時期だったんだと、クランなら簡単に片付けるのだろうな。お前のその単純な思考がうらやましいよ……と、勝手な想像の中の相棒に毒づきたくもなる。

『“獣”をもはるかに凌ぐ力を持つ“聖獣”は、威厳のある黒い姿と圧倒的な力を持っている――』

 いま思い返したら、シグルドの言動もまったくの偶然とは思えないところがあった。もしや、俺も知らない何かを知っている……? いや、それは考えすぎか。もしそうだとしても、どうなるわけでもない。解夢士(かいむし)として人より多くの書物を調べていただけだ。おそらく彼も、俺のことを同じように思っているだろう。

 “聖獣”とは、夢を破壊し世界を破滅させる最凶最悪の悪夢、と言われている。六百年前にはちょうど世界大戦とも重なって、死者の数は数千万にものぼり、地図上から消えた町や村も少なくない。もちろん表の歴史では戦争の被害しか語られていないが、夢死(むし)と思われる原因不明の死者も含めればさらに一桁増え、まさに有史以来の未曾有の危機だったことは間違いない。

 しかし、俺が実際に対峙した“聖獣”は……。

『せめて彼の者が深淵に堕ちぬよう……頼んだぞ』

 伝承どおりの、そこにいるだけで全身が凍りつくほどのあの力は想像をはるかに超えていたが、気性は穏やかで、落ちついた物腰はこの俺さ気圧されるほどの威厳があり、それなのになぜか憂いまであった。最後に見せたあの眼に、悪意は感じられなかった。

「“聖獣”、か……」

 我ながら情けないくらい今さらだが、なぜ人々にとっての恐怖の存在が“聖”なる“獣”と呼ばれているのだろうか。むしろ、この前の作り物の夢……あーるぴーじー、と言ったか? ……に出てきたような、魔王と呼ばれてもいいほどなのに。誰かがかつて神のように崇めていたと? まさか。未だはっきりしていない、他の“獣”の存在理由と、あるいは関係しているのかもしれないな。すべて読み尽くした屋敷の書物を、もう一度視点を変えて読み返してみる必要があるかもしれない。

『人間の科学というものは、我を固定するまでになったようだな。それが自滅の道だということも知らずに』

 なんにしても、目下一番の危険は“聖獣”がクランの内にいる、ということだ。誰がどうやって封じたのかということも気になるが、封印が完全ではないということの方が問題だ。

 “聖獣”がもし本当に俺が感じたように温厚だとしても、たとえクランの暴発を抑えるためとはいえ月に一度暴れているのならば、必ず死者が出る。ビクティムが死んでも消えないから、生き証人がいなければ今まで存在さえ気付かれなかったのも当然といえば当然だ。あれほどの強大な力を内に宿したクランは、いつ精神が崩壊してもおかしくない。だが、解放するわけにも……。

『自滅の道だということも知らずに』

 待てよ。“聖獣”はなんと言った? “聖獣”を封じていることは俺たちにとって危険だというのか? 最も残酷で的確な考え方をするのなら、クラン一人が犠牲になることで世界を守れるのではないのか。夢の番人としては、そうすることが最善なのかもしれない。……が、俺は相棒を見捨てるほど堕ちてはいない。

「……ん?」

 ふと顔を上げたら、イオリがすぐそばに立っていた。目の前の光がさえぎられるまで、まったく気がつかなかった。

(そんなにむずかしい顔してたら、ハゲちゃうよ?)

 ここに来る前から用意していたらしい紙を見せて、カップを渡してくれた。さっぱりとした香りのハーブティーだ。

(クスリュア草を煮出してハチミツを入れたの。クランもこれ飲んで落ちついたから、効果抜群よ)

「彼がハーブティーを飲むとは初耳だな」

(梅干しを食べるみたいな顔してね。この前、リーフさんとケンカしてここへ来たとき、すっごく荒れてたのよ。あ、これ、内緒ね)

 ほう、それはおもしろいことを聞いたな。彼女の名誉のために直接言うことはしないが、何かの折には使えそうだ。クランは本当にからかいがいがあるからな。

「ところで、よく俺に気付いたな」

(私、すぐそこに住んでるのよ? ここはクラン以外の人が来ることはめったにないし。……また、ケンカしたの?)

「ケンカならどれだけよかったか……」

 思わず心の中のことをこぼしてしまいそうになり、すんでのところで言葉を飲み込んだ。本心を見せないことを美徳とし、見せ方さえ忘れてしまったと思っていたのに、今の俺はそれが自然に溢れてしまうほど心が弱くなっているらしい。

(クランに何かあったの? リーフさんがそんなに思いつめるほど……)

 あぁ、それが言えたらどれだけ楽になれるだろう。

「気遣ってもらって悪いが、これは……言えない。クラン本人にもな」

(……。それじゃぁ、私が聞いてもらってもいい?)

「? あぁ、構わない」

 逆にイオリが相談したいと言い出し、俺は少し驚きながらもうなずいた、もしこんなときでなければ、そして彼女の文字が震えていなければ、ただ聞き流していたかもしれないが。

(私が初めてクランに会ったときのこと、知ってる?)

「三,四年前だったか? 確か、人さらいに襲われていたところを……」

(そう、ちょうど四年前の春。ラバト街道のはずれで助けられて……。でも、本当は、その前にも会っていたの)

 どちらか、あるいはどちらも気付いていなかったというだけで、世間が狭いのか縁があったのか、初対面だと思っていた相手とじつは以前に会ったことがあったというのは、よくある話だ。しかし、イオリの表情からは笑みが消えていた。

(六年前……高校生のとき、とても怖い夢を見たの。今もはっきりと覚えてる)

「それが原因で声が出なくなったと言っていたな」

 急に話が変わったが、先ほどの続きを言うのをためらったのだろうと思った。もしかしたら、これが本題だったのかもしれない。夢の相談を受けるのは本職だ。

「もしよければ、夢の内容を話してみろ。何十年たっても消えない悪夢もあるから、今からでも遅くないかもしれない」

(うん、リーフさんならそう言ってくれると思った)

 なぜもっと早くクランに相談しなかったのか、それが少し気になった。

(途中までは、普通の夢だったの。学校で友達と遊んでいる夢。……でも急に校庭も友達も消えて、私一人だけ真っ白なところに立っていた。すごく広くて、どこを見ても何もないところ)

「場面が突然変わるのは、夢ではめずらしいことではない。そこに見覚えは?」

(ないわ。友達を探してずっと走ったけど、誰もいないし物音もしない。空も地面もなかったの)

 孤独やむなしさを暗示する夢だな。しかしこれはまだ声が出なくなる前のこと、特に悲しい出来事があったようにも思えないが……いや、それよりこの光景、どこかで……。

(そのとき、大きな影が出てきたの。大きな、灰色のオオカミみたいな……)

「まさか……!?」

 思わず息をのんでイオリの方を見た。彼女は当時の恐怖を思い出し、ぐっと目を閉じている。まさか、本当に……“聖獣”が夢に現れて生きていた者など、これまで一人もいないというのに……。

(真っ赤な眼でうなりながら、オオカミが近づいてきて、私、食べられるって思った。でも、牙がすぐ目の前で止まったの)

「止まった?」

(とても怖くて逃げることもできなかったのに、オオカミは何かに吼えたり飛びかったりして私から離れたわ。なんだかそれが苦しんでいるみたいに見えて、苦しいの? って訊いたら、オオカミが止まって目が合って……そこで目が覚めたの。どうしたのってあのオオカミに言おうとしたんだけど、そのときからもう声は出なかった……)

 よく、よく無事でいたものだ……普通ならば“獣”でない夢魔にさえ抗うのはむずかしいのに、これは運がよかったというだけで片付けられることではない。

「声が出なくなるのも無理はない。生きていて何よりだ。俺も動くことさえできなかったからな」

(リーフさんも知っているの? あのオオカミ)

 イオリは“獣”も“聖獣”も知らないから、さらに恐怖を与えることもないと思い、とても強力な夢魔だということだけを話した。もちろん、俺がどこでそれに会ったのかは言わずに。

(それじゃぁ、リーフさんも見た? 脚の付け根のところ、白い毛)

「そういえばあったな。全体的にほとんど黒に近い灰色だったから、よく目立った。三日月のような形の……おい、どうした?」

 イオリは先ほどよりさらに青い顔をして、俺の腕をきつくつかんだ。声なき声で怯えている様子は尋常ではない。

(私……見たの)

 イオリはペンを持つこともできず、ゆっくりと手話をした。震える手が示す、“聖獣”よりも恐ろしい悪夢。

(クランの肩に、同じ、形の、白いあざが……)

 イオリの腕をつかんで、もうそれ以上は言わなくてもいいと首を振った。

 彼女は知っていたのだ。クランの内に“聖獣”がいることを……最初はもちろんわからなかっただろうが、助けられた後も親しくなり、仲が深まり、そのことにはっきりと気付いてしまった……。

「辛かっただろう。本人が近くにいるのに……」

(違う! 私はしゃべれなくなったことで、クランを恨んだことなんか一度もない!)

 イオリは必死に手を動かした。そんなことはわかっている。人を信用することに必要以上に警戒するクランが、ただ一人心を許している。彼女もまた心から慕っているからこそ、彼は安心して信じられるのだ。

(私が怖いのは、あのときみたいにクランが苦しんでいるんじゃないかって……)

「俺も、そのことは知っている。ついさっき知ったばかりなのだがな」

 もう彼女に隠しておく必要はない。むしろこれまで誰にも言えずにいた彼女の苦悩を、これからはせめて独りで抱え込まなくてもいいのだということを教えてやりたい。俺がこんなにも戸惑っていたというのに、イオリはどんな思いで四年も笑顔で耐えていたのだろう。

(月に一度、クランはあのオオカミになるってこと?)

「まだはっきりとはわからないが、クランの精神が暴発するのを抑えるための発散となっているようだ。しかし本人はまったく何も覚えていない。たまにおかしな夢を見て、体が疲れてしまうということくらいしかな」

(でも、あのオオカミにはクランの意志が残っているわ。だからあんなに苦しみながら止めてくれたのよ)

 それはそうかもしれないが……実際、どれだけ多くの夢死者が出ているかということを思えば、必ずしも自我があるとは言えない。なぜイオリだけが助かったのか、理由はわからないが。

(ねぇ、クランはどうなるの? どうすればいいの?)

「わからない。あれは特殊な夢魔だから、解夢士(かいむし)でも対処することは……」そういえば。「鍵といって、心当たりはないか? 最近クランが見つけたものらしい。あの夢魔をどうにかできるかもしれない、今のところ唯一の手がかりだが」

(鍵? クランはアパートの鍵とバイクのキーしか持っていないと思うわ)

「もしかしたら、普通の鍵の形ではないのかもしれない」

 ここ一年くらいの間でクランが買ったり手に入れたりしたものを、イオリは真剣に思い返していた。俺は一緒に住んでいてもプライベートには立ち入らないようにしているし、クランは彼女にだけはなんでも話しているようだからな。イオリの言葉や態度で、そうしていることくらい簡単にわかる。

(クランを助けたい。お願い、リーフさん。私にも協力させて)

 顔を上げたイオリの目は、やっと見つけたまだ見えない希望を探そうという力に満ちていた。彼のことを一番理解している彼女にそれらしいものを探してもらい、俺は鍵というものが何を表しているのかを調べてみることにした。

「クランを支えてやれるのはお前だけだ。俺も必ず助ける方法を見つけ出す。だが、クランにはもうしばらく黙っていろ。対策がわかるまでは知らない方がいい」

(病気の人はまわりが隠していることに気付きやすいっていうから、リーフさんも気をつけてね)

「おいおい、俺を誰だと思っている」誰と言うわけにもいかないのだが。「とにかく、これはあまりに大きな問題だ。彼が受け入れられるようになるまでは……」

「おーい、イオリ! 今日は森、に……」

 タイミングがいいのか悪いのか、ちょうど話が終わったところで、そしてイオリの肩を抱いて励ましていたところへ、クランがやってきた。三人ともしっかりと目が合い、それぞれの状況を理解するのにたっぷり数秒かかった。

「て、てめっ! 何してやがる!」

(クラン、違うの! リーフさんは……)

「あぁ、邪魔が入ったな。続きはまた今度だ」

(ちょっ、リーフさ……!?)

「さっさとイオリから離れやがれ!」

 笑いをこらえてわざとらしく肩をすくめたら、クランは本気で怒鳴ってイオリを引き離した。彼女も口をパクパクさせて、俺に無言で文句を言っている。

「イオリ、ヤツに何もされなかったか?」

(だから、そういうのじゃないってば……)

「こいつに手ぇ出したら、てめぇでも容赦しねぇからな」

「……フッ」

「な、なに笑ってやがるんだ!」

 俺はさっきから何も言っていないのだが、怒ったり焦ったり忙しいな。……これでクランは余計な詮索をする暇がなくなったし、イオリもしばらくは不安な気持ちを忘れられるだろう。まぁ、これから起こるだろう彼らの間の誤解には、ご愁傷様と心の中で言っておくとして。

「そんなに大切なら、絶対に彼女を放すなよ」

「ったりめーだ! イオリは世界一好きなオレが絶対に守る!」

 やれやれ、聞いているこちらが恥ずかしくなるな。至極まじめに宣言するクランの腕の中で、イオリは真っ赤な顔で金魚みたいな口になっている。邪魔者はさっさと退散して、エリィのところへ飲みにでも行くか。たまには外へ食事に誘うのもいいな。

『早く我を解放しなければ、それこそ夢が崩壊するぞ』

 森を出て町へ向かう間にも、あの声がよみがえる。“聖獣”とはいったいなんなのだろう。封じていることが本当に正しいのか? それとも、やはり解放すれば世界を滅ぼすのか? 俺はそれを止められるのだろうか。相棒を……見殺しにしてでも……?

『じゃぁ、もし使命うんぬんがなかったら、どうするんだよ』

 これまで当然だと思っていたことが否定されようとしている。これからどう動くかが、真に試されるのだろう。そのとき俺は……何かを犠牲にしなければ何かを得られないという選択を迫られても、俺は迷わずに進めるのだろうか。なぜかそんな不安が、理由もなく頭の中に生じて離れなかった。


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