8.白い夢
◆クラン
ここはどこだ……?
耳が痛いくらい静まり返っていて、何もない白一色の世界……いや、何もないから白く見えるだけなのか? 白がずーっと、右も左も上も下も、どこを見てもどこまでも続いてる。白は昔を思い出すから、嫌いだ。もうずっと前に離れたきりの、オレの故郷と遠い過去。でも、ここはあそこじゃない。
夢……とっさにそう思った。こんなときでも現実じゃないって冷静に思えるなんて、ほとんど職業病だな。にしても、夢とも少し違うような気がする。なんだよ、この感覚……オレが溶けてしまいそうな……。
『クラン』
……ッ!? 誰だ!
何もないはずの空間で、いきなり声が響いてきた。どこを見まわしても、やっぱり誰もいないし、どこから声がしたのかもわからねぇ。そのとき初めて、自分の姿もないことに気がついた。そうか、だから変な感じがしていたんだ。意識だけで漂いながら、この白い光の世界を見下ろしているような感覚。
『やはり、覚えていないか』
どこにいるんだ? 出てきやがれ!
『我はお前の内にいる。いつも。昔から』
なに言ってんだ。オレはお前なんか……。オレはお前を、知ってる……?
『現に戻ればこの記憶は消える。だから何度会っても覚えていないのだ。感覚は残っていてもな』
オレ、前にもここへ来たことがあったのか。確かに覚えてはいねぇけど、なんとなくわかる気がする。それはそれで別にいいんだけどさ、結局お前は何なんだ? 人間じゃねぇんだろ? 夢魔か?
『我は……エン』
はぁ? 何わけのかわんねぇこと言ってんだよ。
『どうせ知ったとことで、目覚めれば忘れている』
そういう問題かよ……。なんかうまくごまかされたような気もするけど、もしかしたら前にも同じこと訊いてたのかもしれねぇんだよな。で、エン……円? 縁? 遠? ……うーん、まぁなんでもいいや。オレに何か用なのか?
『我を解放しろ』
……いや、だからオレは、お前がなんなのかも知らねぇって言ってるだろ。出たけりゃ勝手に出ていきゃいいだろうが。それより、なんでオレの中にいるんだよ。
『我は、人々の思いが強くなる刻にしか動けない。しかしお前はようやく、鍵となるべきものを見つけた』
人の話を聞けよー。解放? 鍵? さっきから一方的に話を進めやがって。だいたいその方法とやらを聞いたところで、やっぱり覚えてねぇんじゃ意味ねぇだろ。それにオレは、鍵なんか持ってねぇぞ。
『鍵を見つけても、まだ今のお前では我を解放することはできぬのだ』
じゃぁ、どうしろって言うんだよ?
『我はここでずっとお前を見てきた。お前は光の中にいても闇を抱き、闇の中にいても光を放つ、不思議な存在だ。お前ならば鍵を使う力、強い心を持つことができるはずだ』
誉めてんのか、それ?
『早く我を解放しなければ……バランスが……』
あ、おい! 何言ってんだよ!? 駄目だ、声が遠ざかっていく……。
意識が溶ける瞬間、光の中に何か別の大きなものが見えた。それがなんなのかはわからなかったけど、なぜかひどく懐かしい気がした。
「……夢?」
とっさにそう思った。何回か瞬きをして、やっと目の前にある天井を理解した。まだ真っ暗な部屋の中に、カーテンの隙間から月の光がまぶしいくらい差し込んでいる。
あぁ、今日は満月なんだな。起き上がってカーテンを開けようとしたら、いやに身体が重いことに気付いた。
「またか……」
全然これっぽっちも覚えてねぇけど、さっき夢見てたって思ったから、たぶんそうなんだろう。いつからだったか、ときどきあるんだ。こういうこと。どんな夢だったのかいつもわからねぇのに、起きたらダルさだけが残ってる。のどもカラカラだ。オレ、そんなにうなされてたのか?
言うことを聞かない身体を無理やり動かして、カーテンを引っ張った。内容は覚えてなくても、何度も見てる同じ夢だってことはわかる。それも毎日じゃなく、たまにだ。昼間になんかあったっけ? 朝から寝るまでの行動を思い返しても、別にいつもと変わったことはなかったぞ。それにどうやったら、あんな光……の中、に……。
「……?」
あぁ、くそ! いま一瞬思い出せそうだったんだけどなぁ。もう何を言いかけたのかも忘れちまったよ。
「……はぁ」
月がきれいだ。本当にまん丸で、バカみたいに明るい。満月を見ていると、普段は気にしねぇことをいろいろ思い出したり考えこんだりしてしまうのは、なんでだろう。きっと毎月一回だけの特別な日だから、うれしくて興奮しちまうんだろうな。オレなんか、ガキのころは白以外の景色を見られただけで喜んでたもんだぜ……。
『お母さん、見て! 赤い花が咲いてる!』
『まぁ、この季節にめずらしいわね』
『暖冬だな。あの花が今ごろ咲いてしまうくらい、温暖化が進んでいるとは』
『お父さん、こんなにきれいなのに、うれしくないの?』
『冬が暖かくなるのは、よくないことなんだよ』
『なんで? 寒くない方がいいよ?』
『冬が寒いというのは自然の摂理なんだ。それが今、狂い始めている。これは我々の責任であり、このままではそう遠くないうちに必ず罰が返ってくる』
『……よくわかんないや』
『クランもいずれわかるようになる。そのときが手遅れでないよう、お父さん達がなんとかしなければな』
チッ、また親父のことを思い出しちまったぜ。立派なことを言って、たとえ実際どれだけ立派だったとしても、オレは絶対に許さねぇ。少なくとも、あんなことになった理由を聞く権利が、オレにはある。でも……。
『おう、ボウヤ。一人でどこ行くんだぁ? おじさんにこれ、くれや』
『返してよ、僕のお金!』
『ふふ、かわいい子。お姉さんといいコトしない?』
『うあっ、ぼ、僕は……は、放して!』
『てめぇ、どこ見て歩いてやがる! 邪魔だから、いっそ歩けねぇようにしてやろうか!?』
『うっ! 痛……がはっ! ぐっ……!』
『おや、ケガをしているじゃないか。わたしが助けてあげよう。おいで』
『うん、ありがとう。――……え? ど、どこ行くの!?』
『活きのいいガキは高く売れる。逃げたりなんかしたら……わかってるだろうな?』
『奴隷め、働け! そんなにこの鞭で叩かれたいのか!』
『痛い! ゆ、許して……助けて……!』
……たとえどんな理由があったとしても、あの経験も記憶も、元には戻らねぇよ。それを今さらどうこう言うつもりもねぇ。それでも、あの男だけは殴らねぇと気が済まねぇんだ。それまでは……オレは絶対に許さねぇ。
もう一回空を見上げたら、月がさっきより西に傾いていた。夜明けまではもう少しある。あの胸クソ悪い過去を振り払うようにシーツの中にもぐり込んで、今度こそゆっくり寝られることを祈った。
「……今、波動を感じた」
「やはりこの近くに?」
「しかし、すぐに消えてしまった。これでは対処のしようがない」
「存在はつかめているのですから、せめて特定できれば……」
「このところ波動の揺れが大きくなっている。解放が近いのかもしれない」
「では、いっそ解放を待ってはいかがですか?」
「どんな状態で解放されるかわからないリスクは大きすぎる。やはりその前に本体と鍵を手に入れろ。本体がわかれば、鍵はすぐに見つかるだろう」
「お任せください、マスター」
「頼んだぞ……シグルド」