3月20日
蠍の王から権天使へ
もう暦の上では春だというのに肌寒い毎日が続いているのは、たぶん僕の心が影響を及ぼしているからなのだろう。咲き綻ぶ白い花は雪に変生して僕らの足下を埋め尽くす、なんてね、ちょっとした詩人のつもりで書き出しを始めたかったんだ。オーウェン、僕の大切な権天使、この手紙はたぶん君のすぐ側で読むことになるだろう。
目を閉じた君の髪を掬いながら、いや、横たわる君に覆い被さりながらかもしれない。もちろん冗談だから、心配しなくてもいいよ。君の身体はちゃんと棺に納めて、僕は湾の脇にある水瓶岩礁でこの手紙を朗読すると、心に決めているのだから。
僕は静かに眠る君の横で、自らの罪を告白するんだ。
オーウェン、僕は君を騙したことを謝らなければならない。
月読文具店の異邦人と、クリムトの監察官と、僕と君の共通の友であるレイヴァン。
ああいう風に書けば、君が僕を助けるために帰ってくるのは分かっていたよ。だって僕は誰よりも君の心を理解しているもの。前回の手紙に鍵を同封しておいたから、君は、蟹座学園に到着するとすぐに月読文具店に向かったよね。僕は嬉しかった、本当に。本当に、オーウェンが、僕が君のことを想っているのと同じくらい、僕のことを想ってくれていたと分かったから。
オーウェン、この蠍の王と権天使の友情は、誰であっても壊せやしないんだ。
たとえ機構クリムトであってもね。
君は月読文具店の地下で三人の異邦人と会い、今、こうして僕の側にいる。あの間際、君の見開いた両目は僕を見据えて「なぜ」と叫んだけれど、いつかきっと、君も分かってくれると信じている。
さて、何から話そうか?
異邦人たちの正体が知りたいかい?
僕らの知らないどこかから佃奉を経由してやってきた彼ら、レイヴァンは最初「ロマ」と考え、次に「人攫い」と決めつけた異邦人たちは、実は錬金術師だった。君も御伽噺の絵本の中で知っていると思うよ。魂が十の階段を降りて肉体を得る過程を、人為的に成し遂げる人たち。
ああ、でも彼らのことを語る前に、この世界のことを説明しなければならないね。
全ては卒業式の時、あの禁域で僕は観てしまったんだ。
僕は観た。水銀ロケットが禁域の上空三千マイルのところで爆発して、その「燃焼効果」で空が鴇色に染まったということを。僕が観たのは墓標の大地に散らばる残骸だった。トーラは僕に囁いた。空から舞い降りる蛍の一つを捕まえてね。蛍は、蛍のようなものという意味で、実際は蛍ではなかったけれど、それは墓標に着床すると瞬く間に消えてしまうんだ。
あの仄かに光るものが何だったのか、もう気付いているよね。
「これは、出席番号6、卒業生ユーグリット君の魂」と、トーラは呟いた。「彼は私が捕獲しなければ、熱帯の密林に住む甲虫になって、生きながらにして蜂に卵を産み付けられるところだった。ある種の蜂の幼虫は、甲虫の体内で孵化して、成虫になるまで生かさず殺さず肉を食べ続けるの。ほら、あそこに着床したのは出席番号15、卒業生トルア君の魂。彼は私の手が短かったから、これから千年生きた後、産業廃棄物によって五百年苦しみながら死んでいく樫の木になるわ。かわいそう」
彼女は予言者みたいに運命を言い当てていった。
「そうした命、蜂に卵を産み付けられる生でも、クリムトは意味があると考えている。確かに意味はあるわ。天秤宮院によって選別された卒業生は、まさか自分たちが空高く爆発して、そういう命を与えられるとは露程も思っていなかったでしょうけれど」
蟹座学園は、一つの魂が死んだ肉体から新たな肉体へと移る、そのモラトリアムのために存在すると彼女は言った。円の過程というのは、そういうことなんだよ。僕らは生まれ、死に、生まれ変わり、また死ぬ。その狭間で次の命を決定するための期間が蟹座学園であって、機構クリムトはまさに「三千世界の調和のため」に、僕らの魂を振り分けていく存在なんだ。
でも、特に気高い魂は、円の過程から解放されるようだ。
君のようにね。
まあ、そういう世界の仕組みは租界地に行ったオーウェンにとっては常識だよね。このルカという魂も、あのレイヴァンという魂も、その他大勢の魂も、オーウェンの位置を目指して生死を繰り返す。
命から命へ。でも異邦人は、命から物へ、だ。
錬金術師は生命精製の秘法を使い、魂を消しゴムや便箋や、象の置物や、「すっとするやつ」に変えてしまう。君の場合、一瞬の早業で魂を抜き取られた身体は僕の腕の中でみるみる内に冷たくなって、魂は、イェンとトーラ、そして灰色の導師ユロが唱える韻律によって万年筆へと精製された。
この文章を書いている、この万年筆にね。
僕はレイヴァンが監察官に世話を焼いていたように、異邦人たちに協力していたから、彼らにとって君の魂の万年筆はその謝礼というわけだった。何しろ、監察官を月読文具店に誘い出し、慎重に行動したがっていたレイヴァンの奴を急き立てたのはこの僕なのだから。
今思うと笑ってしまうよ。僕は君への大切な手紙にデタラメを書き連ねてたわけだ。
もし君が僕の手紙をクリムトに届けていたとしても、蟹座学園の生徒はみんな月読文具店の味方だから監察官やレイヴァンのことは完全に隠蔽されるだろう。もちろんオーウェンのこともね。僕は月読文具店を悪だとは思わないし、機構クリムトが間違っていると言うつもりもない。だけど、僕を騙し、オーウェンとの友情を消滅させようとしたことだけは我慢がならないんだ。
オーウェン、君をクリムトの汚い手から取り戻すためなら何でもするつもりだったさ。
オーウェン、やっと僕の元に帰ってきたね。
この枯れた心は君がいなくなって虚無しか感じられなくなったけれど、僕のささやかな死は、君の帰還によって今、新たな命を得た。こういう結末になって、オーウェンの透明な声や、屈託のない笑顔が見られないのは残念でならない。でも、瞼を閉じれば、ほら、君の魂の歌を聴くことができるよ。
オーウェン、君を騙し、君の身体を死に至らしめたのは本当にすまないと思う。他に方法がなかったなんて言い訳にはしたくない。僕はこの罪によって未来永劫、救われることはないだろう。でも、それで良いじゃないか。僕は救いが欲しいわけではなく、オーウェンとの永遠に続く友情が欲しいのだから。
それに、肉体を失ったオーウェンの姿は、翼を失い蠍の王の庇護を受ける権天使にぴったりだよ。
オーウェン、どうか僕を許してほしい。
オーウェン、僕らは最後の瞬間までずっと一緒だ。
だからオーウェン、僕は君の魂で精製された万年筆を抱きしめて、何度もこう呟くことにするよ。
「おかえり」
そして、水瓶岩礁から冷たい海水へと沈んでいく棺の君を見送って、最後に一言だけ言うんだ。僕の大嫌いな言葉、でも、吹き荒ぶ風に声帯が麻痺しても、この手紙と共に安らかな君の姿に手向ける。
ただそれだけに、
『さよなら』