2月20日
拝啓、という前置きはこの際禁止にしてしまうというのはどうだろう?
形式なんて面倒だから、ゴミ箱に捨ててしまったよ。
前回は月読文具店のことばかり書いたから、今回は自分のことを中心に書こう。
今日は午前中までで授業が終了したので、僕は通天蓋市場の旧通りに出かけた。射手座航空社の六道通天台を仰ぐ、半世紀前もの建物が日陰によって保存された街並みを、「常夜路地」と表現したのは、あのレイヴァンの奴だった。常夜路地って統制経済で荒廃した通りに相応しい名前で気に入っているのだけれど、奴にそのことを伝えるのは僕の自尊心が許さないから、今まで一度もレイヴァンの前で口にしたことがない。
友人なのに? いや、友人だから、だろ?
まあ、それはともかくとして、僕は常夜路地の水道橋沿いにある魚座剥製水族館を訪れた。あのホルマリン漬けの古代魚が展示されている水族館に、僕は月に一度の頻度で通っている。寂しいことや辛いことがあったり、感情的になったとき、僕は水槽に浮かぶ龍魚や深海魚を見て心を落ち着けるんだ。
今日、そこへ行ったのは、もちろん君がいない世界に耐えるためだった。
……こうして君を想いながらペンを走らせていると、孤独が薄れてくるから不思議だ。僕は思う。オーウェンのいない世界は色彩も、星々も、四季もない空間だと。君を喜ばせるために書いている訳じゃない。学園で、つまらない授業を聞き流していたとき、僕は決闘拳銃で撃たれたみたく、そうした激情に支配されたんだ。
だから僕は逃げた。
魚座剥製水族館が、僕の心を一時でも慰めてくれるのを希望して。
水族館へは君も行ったことがあるだろう。僕はトークン三枚でチケを受け取ると、地下展示室に続く階段を下りた。黒く塗り固められた壁に、ほの暗い裸電球の明かり。階段の両側にはホルマリン水槽が填め込まれて、盲目の魚や手足の生えた魚、頭の部分が歪に大きい魚の死骸が僕を待ち構えていた。輪切りにされたシーラカンスや、鯨の胎児などが。
僕は魚の造形と、意志を持たない瞳が好きだ。
世の中のままならないことに身悶えしているとき、魚を見ると、心の揺れが瞬く間に凪になる。僕らはなぜ魂という厄介なものを持っているのだろう。魚のように、流れに任せて泳ぐだけの生で十分じゃないか。オーウェン、僕は時々、この心がとても邪魔になる。
……嘘だよ。
魂があるからこそ、君との友情を感じていられるのだから。
地下へ続く階段は、剥き出しになった岩盤の部屋へと繋がる。太古、この界隈は内海だったという。何百万年もの昔の地殻変動によって、堅い岩に閉じこめられた魚が化石になって、そのままの姿を留めている。地下展示室の四方を囲む岩盤に、群れをなす小魚や巨大な闘魚が浮かんでいた。
地上から隔絶された魚の墓地に、僕は降り立つと、そこには先客がいた。
「母なる海は闇、泳ぐ魚は銀河の星か」
と呟いていたのは、月読文具店を営む異邦人の一人、イェンだった。
偶然というのは何て都合の良い概念なのだろう。
彼は黒コートに色眼鏡、そして帽子という服装だった。背が高く、色白で、穏和な顔立ちをしている。イェンは毎日蟹座学園の周りを散策していた。ある人は、彼はこの土地の産物を物色しているのだと言い、ある人は、彼が土地の風物を紙に書き記していたのを見たという。イェンについて確かなことは何も分からず、僕にとって確かなことは、今、彼が魚座剥製水族館に来ているということだけだった。
僕が挨拶をすると、イェンも軽く会釈を返した。
僕が自分の名前を告げると、イェンは、
「君が、ルカ君か。トーラから聞いているよ」
と言った。
異邦人が僕の名前を知っていたとは思わなかったから、戸惑って頬を赤らめてしまったけれど、彼はそんな僕に水族館を案内してもらいたいと依頼したんだ。でも、イェンはとても物知りで、案内されたのはむしろ僕の方だった。あれはプロトプテルス・アンフィビウス、肺を持っていて夏眠をする、みたいな感じに。
一緒に化石魚展示室を巡っている間、僕はイェンに色々なことを話した。射手座航空社の黄道巡礼飛行船や、気象衛星から送られてくる天気予報について、北の禁域のこと、レイヴァンのこと、僕のこと、
そしてもちろん君のことを。
明星祭の時、僕らが演劇の主役だったことを、イェンは誰かから耳にしていたようだ。『天使と蠍』。天上での戦の最中、翼を失った権天使を、地上を統べる蠍の王が命に代えて守る物語は、友情を第一に考える僕らにとって聖典の文言に匹敵する意味を持っている。
イェンも、僕らの劇を拝見したかったと残念がっていた。
だから、僕は嬉しくなって、彼に明星祭の時の写真をあげたのさ。
丁度、天国から墜ちた君を、蠍の王である僕が助け起こす場面の写真を。僕のお気に入りの一枚だったけれど、それをあげるほど嬉しかったんだ。だけど、イェンは僕の宝物をただ貰うのは気が引けたようで、ポケットから青銅製の招待券と、小さな象の置物を手渡した。
招待券は、月読文具店の常連客にだけ与えられる、映画上映会に参加するためのものだ。
それは蟹座学園で今、最も価値があるアイテムだった。イェンは僕に「今夜は是非来て貰いたいな。海洋冒険の記録映画を上映する予定だから」と耳打ちして、岩に閉じこめられた魚たちの眼下で跪き、蠍の王である僕のために最高の席を用意すると約束したんだ。
イェンは昇降機で地上に戻るまで僕に付き従った。彼は今日一日、ここで魚の死骸を眺めているのだと言う。昇降機の扉が閉まり、左手に持っていた招待券を見つめ、僕はこっそり微笑んだ。だってそうだろう? 月読文具店で行われる上映会は、蟹座学園でも限られた生徒しか招待されないのだから。
この話を、クリスやマーチンに言ったら、物凄く嫉妬されるだろうね。
でも、本当はオーウェン、君と一緒に行きたかった。
こういうとき、僕は自分の弱さを痛感させられる。だって蟹座学園を離れて生活している君の方が、もっと孤独なはずなのに、僕はオーウェンへの手紙で弱音ばかり書き連ねている。僕はいつも強がっているけれど、本当は君がいないと何もできない弱虫なんだ。
弱さを認めるのは、とても勇気がいることだけれど、君には僕の弱さを知ってもらいたい。
さあ、もう上映会の時間が近づいている。今日はこのくらいにしておくよ。
イェンから貰った象の置物は、背中の部分が蓋になっていた。たぶんムガル王朝で使われていた薬瓶か小物入れなのだろうけれど、この手紙を入れて、小包で君の元に送ることにする。イェンもきっと、僕が君に手紙を書くことを見通して、この真鍮製の象の置物をくれたのだろうから。
それじゃあ、また。
こういうときに書く言葉、
『ありがとう』
と、書き添えて。
(追記)
そういえば、レイヴァンの奴は月読文具店と三人の異邦人を毛嫌いしている。あんなに楽しい場所なのに、なぜだろう。明日にでもレイヴァンに、理由を問い質してみよう。