2月10日
蠍の王ルカから権天使オーウェンへ
この書簡を定期郵便船で送るから、オーウェン、君の元に届くのはおそらく一週間後になるだろう。先月の明星祭の後、機構クリムトからの通達によって、君は御両親のいる租界地へ旅立ってしまったけれど、そちらの生活は快適かい?
小耳に挟んだところでは、最近、南軍が不穏な動向を見せているらしいから、総督府のすぐ近くに引っ越した君や、君の御両親がとても心配だ。まあ、君のことだから新天地でも上手くやっているのだろうけれど、できるなら日々の暮らしや出来事などを知らせてほしい。
さて、ここからは僕の近況を書くとしよう。
僕の? いや、正確には僕が通う蟹座学園の近況だ。
先月の明星祭で、僕ら二人の催し物が大成功に終わってからというもの、学園では退屈な日々が続いている。二月は外で遊ぶには肌寒い季節だし、残念ながら雪も降り積もることがなかったから、卒業式の時まで僕らは図書館や通天蓋市場で心を慰めるしかないわけだ。
……というのは表向きの話さ。オーウェンも、そんな話を読みたくないだろう?
僕らが今夢中になっているのは月読文具店だ。
不思議な名前じゃないか。
『月読文具店(LUNASPION)』
実物も名前に負けないくらい不思議な店なんだ。
ええっと、月読文具店について何から書けば良いのだろう。オーウェンは何も知らないわけだし……そうだ、やっぱり最初から書くのが一番だろうね。
それは、何の前触れもなく訪れる、冬の極日彗星のようだった。
明星祭の三日後、北部同盟の港湾都市『佃奉』から、三人の異邦人がやってきたんだ。
佃奉は地理の授業で勉強したとおり造船と貿易の街で、西の友邦都市連合や周縁サテライトからの物資や人が集中することで知られている。とはいえ、統制経済下にある僕らにとって佃奉は遠くて関わり合いのないところでもあったわけだけれど、明星祭の三日後、あれは満月の夜だった、三人の異邦人が馬車に荷物を山積みして蟹座学園に訪れたのさ。
彼らは学園の近くにあった古びた家を間借りして、真夜中だけの秘密の店を開いた。
それが月読文具店だ。
彼らは佃奉から来たけれど、彼の地の人間ではなくて、もっと遠い土地からずっと旅をしていたらしい。僕らの共通の友人、レイヴァンは彼らを「ロマ」と考えているけれど、本当の素性を知る人は誰もいない。まあ、彼らがどこの誰であろうが関係ないのだけれど、そういうこと、やっぱり気になるかな。
一人は女だった。店番をしている彼女を僕らはトーラと呼んでいる。
一人は男だった。いつも学園の周りを散策している彼を僕らはイェンと呼んでいる。
一人は正体を隠していた。僕も一度だけしか、灰色の布で全身を覆った彼の姿を見ていないし、文具店の地下に住む彼の呼び名はない。
彼らの店は日が沈み、群雲の中から月が姿を現したときだけ開かれる。
そこにある商品は、僕らが一度も見たことのないものばかりなんだ。クリムトの管理下におかれている僕らにとって、文房具といえば百合印の支給品と決まっていたから、とても魅力的だった。
例えば南洋の王様が持っていたという鯨骨の万年筆や古代パピルス紙のノート、レモネードの香りがする消しゴム、別世界地球儀、三頭政治時代の真鍮製ナイフ、それから……そう、この便箋もそう、蝶の紋章が透かしの技法で印された便箋は、タイマノフ社の世界に五つしかない特注郵便封筒だ。
租界地へ旅立ってしまった君へ手紙を送ろうと、初めて月読文具店を訪れたとき、僕の事情をそれとなく察したトーラが特別に一番奥の引き戸から出してくれたのさ。彼女はこの便箋なら、きっと君が気に入ってくれると保証した。それでもダメなときのことも考えて……ね、驚いただろ?
君が好きなライムミントの香水を一滴垂らしておいたよ。
親しい者への信書に香りを乗せるのは、友邦都市連合では割合普通に行われていることらしい。僕もそれに倣ったというわけさ。権天使の君と、蠍の王である僕の、変わらぬ友情のために。
でも、僕は一人だ。
通い慣れた学園に君の姿だけが欠けている。僕は毎朝、教室に入るとき、君の幻を見てしまうんだ。君の幻は瞬きによって消えてしまい、僕は一人、そこに取り残されてしまう。オーウェン、君に分かってもらえるだろうか? 僕は耐え難い感情を、強要させられる寂しさを、それでも押さえ込んで、今、この文をしたためているということを。
この心の虚ろさを埋めるのに、どうして月読文具店で事足りるというのか。
このまま君の中の僕が月日と共に風化して、ノスタルジアしか残さない存在に墜してしまうのは嫌だから、これからも手紙を書くことにするよ。
さよならが嫌いだから、結びの言葉は使わない。
ただ、大切な時間を僕の手紙で浪費させてしまったことに、
『ありがとう』
とだけ書き添えておく。