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同期の美女から毎週ご飯に誘われていますが、恋愛相談だと思っていました

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/05

「今夜、空いてる?」


 金曜の午後六時二分。勤怠の画面を閉じたところで、相沢さんが俺の机に片手をついた。


 肩のところで巻いた髪が、少しだけ前へ落ちる。

 それを耳にかける指まで見てしまい、俺は慌てて通勤鞄を持った。


「空いてるけど」

「じゃあ、ご飯行こう。二人で」

「……また恋愛相談?」


 相沢さんは、開きかけていた口を閉じた。

 一度だけ天井を見てから、俺へ視線を戻す。


「今日は、その認識から直したい」

「認識?」

「うん。とりあえず、下で待ってる」


 そう言って、相沢さんは自分の席へ鞄を取りに戻った。


 何か気の利いた返事をしようとして、できないまま俺は立ち上がる。

 椅子の脚に自分の靴を引っかけた。誰も見ていなかったことを確認してから、椅子を机の下へ押し込んだ。


 俺、瀬川征也は二十四歳。入社二年目の事務職だ。

 度の強い眼鏡。美容室で説明するのが苦手で、いつも「短くしてください」で済ませる髪。平日は紺か灰色、休日は黒の服を着ている。


 仕事の電話なら、用件があるので困らない。

 好きなゲームの話なら、相手が引くくらい話せる。

 ただ、女性と二人で食事をするときに何を話せばいいのかは、二十四年生きてきても分からなかった。


 その俺を、相沢帆乃香さんは四週続けて金曜日の夕食に誘っている。


 相沢さんは、同期の中でも目立つ人だった。

 同期だけで撮った入社式の写真を母に見せたとき、「この子、女優さんみたいね」と言われた。一年前の写真でも、目を引くくらい綺麗だった。

 今は髪も服も少し変わって、さらに近寄りがたくなった。


 もっとも、本人は近寄りがたいどころか、隣の部署のおじさんにも普通に話しかける。

 俺にもそうだ。

 俺がコピー機の前にいたら「先どうぞ」と言うし、朝は目が合えば手を振る。


 だから、食事に誘われたことにも理由を見つけられた。

 相談だ。相手が俺なら、恋愛の話が妙な噂になる心配も少ない。


 最初の日、相沢さんは実際にこう言った。


「好きな人がいるんだけど、全然気づいてくれないんだよね」


 俺は緊張していた肩を、少しだけ下げた。

 何を期待していたんだ、と自分に呆れた記憶もある。


 好きな人がいる。

 当然だと思った。


 相沢さんのような人を、放っておく男ばかりのはずがない。



 ◇



 一階のロビーに着くと、相沢さんはスマホを見ていた。

 俺に気づくと画面を消し、鞄の中へ入れる。


「今日、お店変えてもいい?」

「うん」

「駅の裏にある洋食屋さん。知ってる?」

「前を通ったことはある」

「そこにしよう。予約したから」


 準備がいい。

 相談が長引きそうなのだろうか。


 そう思いながら、俺は相沢さんと並んで会社を出た。


 四月の夕方はまだ少し冷える。

 相沢さんは薄いコートの袖に手を半分隠して、俺の歩く速さに合わせていた。


「寒くない?」

「ちょっと。お店まで何分?」

「七分くらいだと思う」

「じゃあ平気」


 顔を見られると、こっちの歩幅が分からなくなる。

 俺は前を向いた。


 食事をするのは四回目でも、慣れたわけではない。

 相沢さんが笑うと、何を話していたのか忘れることがある。

 メニューを覗き込む顔が近いと、文字を読んでいるふりをするしかなくなる。


 最初の食事は、会社から二駅離れた中華料理店だった。


「好きな人って、会社の人?」

「うん」

「よく話す?」

「最近は、前より」


 それなら食事に誘ってみたらいい、と言った。


 相沢さんは炒飯をすくったまま、俺を見ていた。


「誘ってるんだけど」

「ああ、もう行ってるのか」

「……行ってる」

「じゃあ、向こうも嫌ではないんじゃない?」


 俺に言えることなど、その程度だった。

 恋愛をしたこともないのに、知っているような口を利いていいのかと思った。


 相沢さんは、少し考えてから炒飯を食べた。


「瀬川くんだったら、嫌な人と二人でご飯行く?」

「行かないと思う」

「そっか」


 そのとき、ようやく笑ってくれた。

 役に立てたのだと思い、俺も嬉しかった。


 二回目は、会社の近くの定食屋。

 相沢さんは俺の皿に乗った唐揚げを見て、「一個ちょうだい」と言った。


 俺が小皿ごと差し出すと、自分の焼き魚から大きめの一切れを取って、その皿に載せた。


「交換」


 彼女にとっては、何でもないことだったのだろう。

 俺は帰宅してからも、その小皿のことを思い出した。


 三回目はパスタの店だった。


「今日の服、どう?」


 相沢さんは、椅子に座る前にそう尋ねた。

 淡い青のブラウスだった。袖口のボタンが、照明の下で小さく光っていた。


「似合ってると思う」

「ほんと?」

「うん」

「よかった。瀬川くん、青好きって言ってたから」


 俺が青を好きだと言ったのは、二回目の食事の帰りだ。

 駅の広告にあったゲームの主人公の衣装から、好きな色の話になった。


 そんなことまで覚えている。

 人に好かれる人は、やっぱり違うと思った。


 その夜、彼女は恋愛の相談をしなかった。

 代わりに、俺が休日に何をしているか聞き、最近買ったゲームの話を最後まで聞いてくれた。


「楽しそうに話すね」


 そう言われて、しゃべりすぎた、と後悔した。


 好きな男のことで困っている人を前にして、俺はゲームの説明をしていた。


 だから今夜は、ちゃんと聞こうと思っていたのだ。



 ◇



 洋食屋は、路地に面した小さな店だった。

 木の扉の窓から、柔らかい明かりが漏れている。


 相沢さんが名前を告げると、奥の二人用の席へ案内された。

 卓上の小さな照明のせいか、いつもより距離が近く感じる。


 俺はメニューを開いた。

 相沢さんも開いたが、料理より俺の顔を見ていた。


「瀬川くん」

「うん」

「先に言っていい?」


 俺はメニューを閉じた。


「好きな人のこと?」

「そう」


 相談を始めるときの顔には見えなかった。

 相沢さんはコップに触れ、飲まずに手を離した。


「瀬川くんが好き」


 店の奥で、食器の重なる音がした。


 俺は相沢さんを見たまま、動かなかった。

 言葉を聞き違えたとしたら、どの言葉だったのだろう。


「相談相手として、ではなくて」


 相沢さんが付け足した。


「付き合いたい方の好き」


 そこまで言われたら、別の意味を探すこともできない。


「……俺?」

「うん」

「俺で合ってる?」

「瀬川征也くん。同期の、二十四歳の」


 逃げ道を丁寧に塞がれた。

 相沢さんは髪を耳にかけ、すぐに戻した。

 一瞬見えた耳が赤かった。


「最初から?」

「最初のご飯から」

「好きな人がいるって」

「だから、瀬川くん」


 俺は眼鏡を押し上げた。

 指先が、少しだけレンズに触れた。


 食事に誘えばいい。

 そう助言した相手に、自分は誘われていた。


「ごめん」


 相沢さんの顔が固まった。

 そこで俺は、今の言い方が最悪だったことに気づいた。


「違う。断る方のごめんじゃなくて。今まで、相談だと思ってて」

「……びっくりした」

「ごめん」

「それ、もう言わなくていい」


 彼女は息を吐いて、コップの水を飲んだ。

 俺も飲もうとしたが、空だった。さっき店員が置いてくれた水を、いつの間にか全部飲んでいた。


 相沢さんが俺のコップを見た。

 笑いそうになって、笑うのを我慢したような顔をする。


「返事、急がなくていいから」

「いや」


 今度は、続きを急いだ。


「嬉しい」


 それを言うと、相沢さんの指がコップから離れた。


「ほんとに?」

「うん。かなり」


 かなり、では足りなかった。

 けれど、ほかの言葉を考える余裕がない。


 金曜日が近づくたび、昼休みにスマホを見ていた。

 今週も誘ってもらえるか、気にしていた。

 木曜の夜には、金曜に着るシャツを出して、襟を確かめた。


 それを全部、相談されるのが嬉しいからだと片付けていた。


「俺も、相沢さんとご飯に行くの、楽しみにしてた」


 彼女は俺を見ていた。

 続きが必要だ。今のままでは、相談相手としてと言われても仕方がない。


「会社でも、相沢さんがいると見ちゃうし。話しかけられると、嬉しいし」


 テーブルの下で両手を握った。


「好きだと思う」


 口にしてから、最後の三文字を取り消したくなった。


「思う、じゃなくて。好き」


 相沢さんは、俯いた。

 口元を片手で覆っている。


 まずかっただろうか。

 今さら気づいたくせに好きだと言って、調子がいいと思われただろうか。


 彼女はしばらくそのままで、それから顔を上げた。


「よかった」


 小さい声だった。

 会社で聞く声よりも、ずっと。


「今日も駄目だったら、どうしようかと思ってた」

「駄目?」

「伝わらなかったら、ってこと」


 俺は頭を下げかけて、さっき謝らなくていいと言われたのを思い出した。

 途中で止まったせいで、変なお辞儀になった。


 相沢さんが、とうとう笑った。


「そんなに緊張しなくても」

「するよ」

「私もしてるけどね」


 彼女の手元を見た。

 メニューの角をつかんだ指が、白くなっていた。


 俺だけではなかった。


 そう分かったところで、店員が注文を取りに来た。

 俺たちは慌ててメニューを開き直した。


 相沢さんはオムライスを頼んだ。

 俺はハンバーグにした。ソースを聞かれ、デミグラスと答える。

 何とか注文を終えて、店員が離れるのを待った。


「相沢さん」

「うん」


 さっき、彼女は付き合いたいと言ってくれた。

 俺は好きだとは言ったが、まだちゃんと返事をしていない。


「俺でよければ、付き合ってください」


 相沢さんは一度唇を結んで、それから笑った。


「うん。こちらこそ」


 そこでようやく、俺も息を吐けた。


「……こういうの、言うの緊張するね」

「分かってくれた?」

「かなり」


 彼女は笑ったまま、両手を頬に当てた。


「私も今、ほっとしてる」



 ◇



 自分で言ったくせに、どうも実感が湧かない。

 向かいに座っているのは、さっきまでと同じ相沢さんだった。

 けれど、彼女が俺を見るたびに、何か重大なものを受け取っている気がする。


「一個、言っておきたいんだけど」

「うん」

「俺、付き合ったことない」


 相沢さんは、驚かなかった。

 ただ、少し首を傾げた。


「一度も?」

「うん」

「そっか」


 そこから何も続かないので、俺が続けるしかなかった。


「だから、デートとかも、どこに行けばいいか分からないし」

「それは調べよう」

「はい」


 あまりに普通の返事だったので、思わず頷いてしまった。


 相沢さんは笑った。


「私も、瀬川くんの行きたいところは知らないから」

「俺の?」

「うん。瀬川くんが好きなお店にも行ってみたい」


 俺は、最近行った場所を頭の中で並べた。

 会社。スーパー。家電量販店。ゲームのグッズを売っている店。

 どれも彼女を連れていく場所には思えなかった。


「映画とか?」

「何を観たいの?」


 具体的な題名を聞かれると、何も出てこない。

 映画ならデートらしいだろうというだけで言ったからだ。


 相沢さんは俺の顔を見て、何か察したらしい。


「今、決めなくてもいいよ」

「……考える」

「私も考える」


 彼女は、紙ナプキンの端を折った。


「あと、さっき言い忘れたけど。私もそんなに経験あるわけじゃないから」

「そうなの?」

「そうなの」


 少しだけ、言い方が強くなった。

 俺は座り直した。


「なんか、勝手に想像してた」

「うん。してそうだと思った」


 見抜かれていた。


「好きな人をご飯に誘うの、けっこう勇気いるんだからね」


 俺は一回目の誘いを思い出した。

 会社の廊下で、相沢さんは俺に声をかけた。

 俺が振り向くより先に、「もし予定があったら、全然いいんだけど」と言った。


 あれは彼女の口癖ではなかった。


「よく、俺を四回も誘えたね」

「二回目は、断られるかと思った」

「どうして?」

「一回目のあと、ありがとうって連絡くれたでしょ。それっきりだったから」


 食事のあと、俺から送ったのは、帰宅してすぐの礼のメッセージだけだった。

 彼女から返信があり、それにはスタンプで返した。


 それ以上は送れなかった。

 相談の用もないのに連絡したら、鬱陶しいかもしれないと思った。


「誘われた側が、次も誘ってって言うのは図々しいかと」

「次も行こうって言ってくれればよかったのに」


 そうか。

 それくらいなら、言えた。


 俺が黙ると、相沢さんは少し身を乗り出した。


「でも、二回目はすぐ返事くれたでしょ」

「うん」

「あれで、嫌われてはいないんだなって」


 二回目の誘いは、木曜の昼休みに届いた。

 俺はスマホを持ったまま食堂にいたので、すぐ返信できた。


「もしかして、嫌な人とはご飯行かないかって聞いたのも」

「うん」


 相沢さんが頷いた。


「私が聞きたかったのは、瀬川くんのことだったの」


 彼女は、料理を運んできた店員に明るく礼を言った。

 会社でもよく聞く声だった。

 ついさっき、返事を待っている間はあんなに小さな声で話していたのに。



 ◇



 目の前にハンバーグの皿が置かれ、ようやく手の置き場ができた。

 ナイフとフォークを持つと、少し落ち着く。


 相沢さんは、オムライスの端をスプーンで崩した。


「食べる?」


 彼女が皿を少し押し出す。

 俺はフォークを持ったまま止まった。


「交換の方ね」


 そう言われ、ハンバーグを一切れ切った。

 取り皿を頼んで、前の定食屋でしたのと同じように交換する。


 同じことなのに、彼女が俺の切ったハンバーグを食べるのを、まっすぐ見られなかった。


「おいしい」

「こっちも」


 卵が柔らかかった。

 味は分かった。その点は少し安心した。


 相沢さんはスプーンを皿に置いて、俺を見た。


「瀬川くん、何か聞きたいことありそう」

「顔に出てる?」

「ちょっと」


 俺は迷った。

 聞きたいことは、告白された瞬間からあった。

 ただ、せっかく好きだと言ってもらえたのに、理由を求めるのは失礼な気がした。


「俺の、どこを」


 相沢さんは続きを待っていた。


「どこを好きになったのか、聞いてもいい?」


 彼女は、椅子の背から少し体を起こした。


「覚えてるかな。去年の六月、私が月次の資料間違えたとき」


 覚えていた。

 俺たちは同じ部署で、担当する取引先を分けている。

 相沢さんは前月の数字を一か所残したまま、集計表を上司へ提出してしまった。

 営業へ配る前に見つかったので、取引先に迷惑はかからなかったが、社内の締切には遅れた。


 あの日、俺は自分の資料の提出を終え、相沢さんが修正する横で別の表を見ていた。


「手伝った日?」

「うん。その翌朝」


 謝られたのは覚えている。

 礼も言われた。

 けれど、そのあと何を話したかまでは思い出せない。


「私が、瀬川くんがいてくれて助かったって言ったら」


 相沢さんは少しだけ、声を低くした。


「昨日、途中から自分で直してたじゃん。俺に全部助けてもらったみたいに言わなくていいよ、って」


 言った気がする。

 俺が手伝ったのは参照先の確認だった。

 それ以外を直したのは相沢さんで、上司への説明も自分でしていた。


「あれ、嬉しかった」

「そんなこと?」


 口に出してから、しまったと思った。

 相沢さんは、俺の顔を見ている。


「私には、けっこう大きかったよ」

「……うん」


 俺はフォークを置いた。


「自分でやったって言ってもらえたの、あの日は初めてだったから」


 相沢さんは、オムライスの端を見ていた。


 あのとき俺は、彼女が泣くのではないかと思った。

 上司が帰ったあとも、相沢さんは唇を結んでパソコンに向かっていた。

 普段の彼女しか知らなかったので、何と声をかければいいか分からず、黙って隣に座った。


「ほかにもあるよ」


 相沢さんが顔を上げた。


「瀬川くん、私の話を途中で決めつけないで聞いてくれるし」

「聞くのは、しゃべるより得意だから」

「でもゲームの話はいっぱいする」


 俺は口をつぐんだ。

 そこは反省していたところだった。


「あれは、ごめ……」

「楽しかったって言ったでしょ」


 相沢さんの方が早かった。


「いつも会社だと、話し終わるとすぐ机に向かっちゃうから。あんなにしゃべるんだ、って思った」

「長かっただろ」

「ちょっと長かった」


 ちゃんと長かったらしい。


「でも、また聞きたい。次は私にも分かるところから」


 彼女は、スプーンを持ち直した。


「あと、笑ったときの顔が好き」


 俺は、切りかけたハンバーグに視線を落とした。

 返事をする前から顔が熱い。


「今それ言う?」

「今、聞いたの瀬川くんだよ」


 それはそうだった。


 相沢さんが笑っている。

 俺は彼女の笑った顔が好きだ。


 三回目の食事で、ゲームの説明が通じなくて困ったときも、彼女は笑った。

 俺を笑ったのではなく、分からない言葉ばかりで自分が困っていることを、楽しそうに話した。


「待って。その人は味方? 敵?」


 そう聞かれて、俺はようやく説明の順番を直せた。

 普段なら、もういいやと話をやめていたと思う。

 彼女とは、続きを話したかった。


 そのことを、今なら言ってもよかった。


 言おうとしたが、相沢さんがオムライスを口に入れたので、待った。

 飲み込んで、コップを持つところまで待つと、彼女がこっちを見た。


「どうしたの?」

「俺も」

「うん?」

「相沢さんが笑うと、嬉しい」


 彼女はコップを置いた。


「それ、もうちょっと早く聞きたかったな」


 笑っているのに、目を合わせてくれなくなった。



 ◇



 会計は、俺が出すと言った。


「どうして?」

「今日は、お祝いで」

「何の?」


 彼女は笑いそうな顔で聞いた。

 分かっているくせに、言わせようとしている。


「……付き合った」

「うん」

「お祝い」


 相沢さんは、財布を鞄へ戻した。


「じゃあ、ごちそうになります」


 店を出ると、さっきより冷えていた。

 風が吹いて、彼女がコートの前を押さえる。


 俺は自分の上着を見た。

 貸そうとして、彼女には肩幅の大きすぎる上着を着せるところを想像した。

 変ではないか。いや、変かどうかより、寒いなら。


「駅まで近いから、大丈夫」


 何も言っていないのに、相沢さんがそう言った。


 俺は襟から手を離した。

 そんなところを見られているとは思わなかった。


 並んで歩き出す。

 路地を出れば駅までほとんど一本道だった。

 会社から歩いてきたときより、彼女が近い。


 手が触れそうだった。

 触れるかもしれないと思っただけで、右手に力が入る。


 ポケットへ入れかけたところで、相沢さんが俺を見た。


「手、つないでもいい?」


 俺は右手を戻した。


「うん」


 彼女の左手が、俺の右手をつかんだ。

 指先が冷たい。

 手のひらは、思っていたより小さかった。


 どれくらい力を入れていいか分からず、ぎこちなく握り返す。


「痛くない?」

「大丈夫」


 相沢さんは、つないだ手を少し持ち上げた。


「ちゃんとつながってる」


 俺は返事の代わりに、その手をもう少しだけ握った。


 駅前へ出る手前に、家電量販店がある。

 入口の大きな画面では、ゲームの宣伝が流れていた。

 先週、俺が話しすぎたゲームだった。


 普段なら必ず見る。

 今日は、相沢さんとつないだ手に意識が行って、見ないまま通り過ぎようとした。


「あれ?」


 彼女が足を止めた。


「瀬川くんが言ってたの、このゲーム?」

「あ、うん」


 画面の中で、青い服の主人公が建物の屋根を飛び越えていた。


「これ、二人でもできる?」

「できるけど。対戦じゃなくて、協力して進むやつ」

「私でもできるかな」

「最初はちょっと難しいかもしれない。でも、慣れれば」

「教えて」


 彼女は、画面を見上げたまま言った。


「いつか、一緒にやりたい」


 俺は頷いた。

 自分の部屋で、彼女とゲームをする。

 その想像は、今まで考えたどんな休日よりも楽しそうだった。


 ただ、最初のデートをいきなり家にするのは、違う気がした。

 外で一緒に過ごしたい。

 金曜日の夕食だけでは分からない彼女を、もっと見たかった。


 量販店の向かいに、小さな看板が出ている。

 二階の喫茶店のものだった。

 プリンの写真と、土日限定という文字。


 相沢さんは前に、喫茶店の固いプリンが好きだと話していた。

 カラメルは、少し苦い方がいいと言っていた。


 看板の前を通るとき、彼女がそれをちらっと見た。


 俺は、その店の名前を覚えた。


 駅に着き、つないでいた手を離す。

 相沢さんは、スマホで時間を確かめた。


「次、七分後だ」

「俺は十二分」


 改札は同じで、ホームが違う。

 ここで別れたら、月曜まで会わない。


 いや。

 会う約束をすればいい。


 俺はスマホを出して、さっきの喫茶店を調べた。

 プリンは本当に土日限定だった。午前十一時から。食事のメニューもある。


「瀬川くん?」


 相沢さんが俺を見ていた。


「あのさ」

「うん」


 今日誘われたときより、緊張していた。

 会社の電話なら、名乗って、用件を言って、相手の返事を待てばいい。

 それくらい分かっているのに、声が出にくかった。


「明日、空いてる?」


 相沢さんの目が、少し大きくなった。


「空いてる」


 俺はスマホの画面を見せた。


「さっき、看板あった店。土日しかプリンないらしくて。昼ご飯もあるから」


 理由が長い。

 早く用件を言え。


「一緒に、行かない?」

「行く」


 早かった。

 俺が続きを言う前だった。


「十一時くらい、どう?」

「大丈夫」

「そのあとも、よければ」


 行き先はまだ考えていない。

 けれど、プリンを食べ終わったらすぐに帰るのは嫌だった。


「どこか、行こう」


 相沢さんはスマホを見て、それから俺を見た。


「瀬川くんの行きたいお店も、連れてって」

「ゲームの店になるけど」

「うん。瀬川くんと行くんだもん」


 胸の辺りが詰まった。

 こんなに嬉しい言葉を、彼女はどうして普通に言えるんだろう。


 そう思ってから、彼女の手元に気づいた。

 スマホを持っていない方の手が、コートの袖をつかんでいた。

 顔も、ほんの少し赤い。


 俺はスマホをしまった。


「明日、楽しみにしてる」


 今度はちゃんと言えた。


 相沢さんは笑って、頷いた。


「私も。すごく」


 そのあと二人で改札を通った。

 ホームへ向かう階段の分かれ道で、彼女が手を振る。


「また明日ね」

「また明日」


 相沢さんは二段だけ上がり、振り返った。


「あ、あと」


 俺は足を止めた。


「明日は恋愛相談じゃないからね」


 分かっている。

 けれど、彼女が笑っているから、俺も少し笑えた。


「うん。デート」


 彼女は、袖口で口元を隠した。


「……今の、もう一回言って」


~完~


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