同期の美女から毎週ご飯に誘われていますが、恋愛相談だと思っていました
「今夜、空いてる?」
金曜の午後六時二分。勤怠の画面を閉じたところで、相沢さんが俺の机に片手をついた。
肩のところで巻いた髪が、少しだけ前へ落ちる。
それを耳にかける指まで見てしまい、俺は慌てて通勤鞄を持った。
「空いてるけど」
「じゃあ、ご飯行こう。二人で」
「……また恋愛相談?」
相沢さんは、開きかけていた口を閉じた。
一度だけ天井を見てから、俺へ視線を戻す。
「今日は、その認識から直したい」
「認識?」
「うん。とりあえず、下で待ってる」
そう言って、相沢さんは自分の席へ鞄を取りに戻った。
何か気の利いた返事をしようとして、できないまま俺は立ち上がる。
椅子の脚に自分の靴を引っかけた。誰も見ていなかったことを確認してから、椅子を机の下へ押し込んだ。
俺、瀬川征也は二十四歳。入社二年目の事務職だ。
度の強い眼鏡。美容室で説明するのが苦手で、いつも「短くしてください」で済ませる髪。平日は紺か灰色、休日は黒の服を着ている。
仕事の電話なら、用件があるので困らない。
好きなゲームの話なら、相手が引くくらい話せる。
ただ、女性と二人で食事をするときに何を話せばいいのかは、二十四年生きてきても分からなかった。
その俺を、相沢帆乃香さんは四週続けて金曜日の夕食に誘っている。
相沢さんは、同期の中でも目立つ人だった。
同期だけで撮った入社式の写真を母に見せたとき、「この子、女優さんみたいね」と言われた。一年前の写真でも、目を引くくらい綺麗だった。
今は髪も服も少し変わって、さらに近寄りがたくなった。
もっとも、本人は近寄りがたいどころか、隣の部署のおじさんにも普通に話しかける。
俺にもそうだ。
俺がコピー機の前にいたら「先どうぞ」と言うし、朝は目が合えば手を振る。
だから、食事に誘われたことにも理由を見つけられた。
相談だ。相手が俺なら、恋愛の話が妙な噂になる心配も少ない。
最初の日、相沢さんは実際にこう言った。
「好きな人がいるんだけど、全然気づいてくれないんだよね」
俺は緊張していた肩を、少しだけ下げた。
何を期待していたんだ、と自分に呆れた記憶もある。
好きな人がいる。
当然だと思った。
相沢さんのような人を、放っておく男ばかりのはずがない。
◇
一階のロビーに着くと、相沢さんはスマホを見ていた。
俺に気づくと画面を消し、鞄の中へ入れる。
「今日、お店変えてもいい?」
「うん」
「駅の裏にある洋食屋さん。知ってる?」
「前を通ったことはある」
「そこにしよう。予約したから」
準備がいい。
相談が長引きそうなのだろうか。
そう思いながら、俺は相沢さんと並んで会社を出た。
四月の夕方はまだ少し冷える。
相沢さんは薄いコートの袖に手を半分隠して、俺の歩く速さに合わせていた。
「寒くない?」
「ちょっと。お店まで何分?」
「七分くらいだと思う」
「じゃあ平気」
顔を見られると、こっちの歩幅が分からなくなる。
俺は前を向いた。
食事をするのは四回目でも、慣れたわけではない。
相沢さんが笑うと、何を話していたのか忘れることがある。
メニューを覗き込む顔が近いと、文字を読んでいるふりをするしかなくなる。
最初の食事は、会社から二駅離れた中華料理店だった。
「好きな人って、会社の人?」
「うん」
「よく話す?」
「最近は、前より」
それなら食事に誘ってみたらいい、と言った。
相沢さんは炒飯をすくったまま、俺を見ていた。
「誘ってるんだけど」
「ああ、もう行ってるのか」
「……行ってる」
「じゃあ、向こうも嫌ではないんじゃない?」
俺に言えることなど、その程度だった。
恋愛をしたこともないのに、知っているような口を利いていいのかと思った。
相沢さんは、少し考えてから炒飯を食べた。
「瀬川くんだったら、嫌な人と二人でご飯行く?」
「行かないと思う」
「そっか」
そのとき、ようやく笑ってくれた。
役に立てたのだと思い、俺も嬉しかった。
二回目は、会社の近くの定食屋。
相沢さんは俺の皿に乗った唐揚げを見て、「一個ちょうだい」と言った。
俺が小皿ごと差し出すと、自分の焼き魚から大きめの一切れを取って、その皿に載せた。
「交換」
彼女にとっては、何でもないことだったのだろう。
俺は帰宅してからも、その小皿のことを思い出した。
三回目はパスタの店だった。
「今日の服、どう?」
相沢さんは、椅子に座る前にそう尋ねた。
淡い青のブラウスだった。袖口のボタンが、照明の下で小さく光っていた。
「似合ってると思う」
「ほんと?」
「うん」
「よかった。瀬川くん、青好きって言ってたから」
俺が青を好きだと言ったのは、二回目の食事の帰りだ。
駅の広告にあったゲームの主人公の衣装から、好きな色の話になった。
そんなことまで覚えている。
人に好かれる人は、やっぱり違うと思った。
その夜、彼女は恋愛の相談をしなかった。
代わりに、俺が休日に何をしているか聞き、最近買ったゲームの話を最後まで聞いてくれた。
「楽しそうに話すね」
そう言われて、しゃべりすぎた、と後悔した。
好きな男のことで困っている人を前にして、俺はゲームの説明をしていた。
だから今夜は、ちゃんと聞こうと思っていたのだ。
◇
洋食屋は、路地に面した小さな店だった。
木の扉の窓から、柔らかい明かりが漏れている。
相沢さんが名前を告げると、奥の二人用の席へ案内された。
卓上の小さな照明のせいか、いつもより距離が近く感じる。
俺はメニューを開いた。
相沢さんも開いたが、料理より俺の顔を見ていた。
「瀬川くん」
「うん」
「先に言っていい?」
俺はメニューを閉じた。
「好きな人のこと?」
「そう」
相談を始めるときの顔には見えなかった。
相沢さんはコップに触れ、飲まずに手を離した。
「瀬川くんが好き」
店の奥で、食器の重なる音がした。
俺は相沢さんを見たまま、動かなかった。
言葉を聞き違えたとしたら、どの言葉だったのだろう。
「相談相手として、ではなくて」
相沢さんが付け足した。
「付き合いたい方の好き」
そこまで言われたら、別の意味を探すこともできない。
「……俺?」
「うん」
「俺で合ってる?」
「瀬川征也くん。同期の、二十四歳の」
逃げ道を丁寧に塞がれた。
相沢さんは髪を耳にかけ、すぐに戻した。
一瞬見えた耳が赤かった。
「最初から?」
「最初のご飯から」
「好きな人がいるって」
「だから、瀬川くん」
俺は眼鏡を押し上げた。
指先が、少しだけレンズに触れた。
食事に誘えばいい。
そう助言した相手に、自分は誘われていた。
「ごめん」
相沢さんの顔が固まった。
そこで俺は、今の言い方が最悪だったことに気づいた。
「違う。断る方のごめんじゃなくて。今まで、相談だと思ってて」
「……びっくりした」
「ごめん」
「それ、もう言わなくていい」
彼女は息を吐いて、コップの水を飲んだ。
俺も飲もうとしたが、空だった。さっき店員が置いてくれた水を、いつの間にか全部飲んでいた。
相沢さんが俺のコップを見た。
笑いそうになって、笑うのを我慢したような顔をする。
「返事、急がなくていいから」
「いや」
今度は、続きを急いだ。
「嬉しい」
それを言うと、相沢さんの指がコップから離れた。
「ほんとに?」
「うん。かなり」
かなり、では足りなかった。
けれど、ほかの言葉を考える余裕がない。
金曜日が近づくたび、昼休みにスマホを見ていた。
今週も誘ってもらえるか、気にしていた。
木曜の夜には、金曜に着るシャツを出して、襟を確かめた。
それを全部、相談されるのが嬉しいからだと片付けていた。
「俺も、相沢さんとご飯に行くの、楽しみにしてた」
彼女は俺を見ていた。
続きが必要だ。今のままでは、相談相手としてと言われても仕方がない。
「会社でも、相沢さんがいると見ちゃうし。話しかけられると、嬉しいし」
テーブルの下で両手を握った。
「好きだと思う」
口にしてから、最後の三文字を取り消したくなった。
「思う、じゃなくて。好き」
相沢さんは、俯いた。
口元を片手で覆っている。
まずかっただろうか。
今さら気づいたくせに好きだと言って、調子がいいと思われただろうか。
彼女はしばらくそのままで、それから顔を上げた。
「よかった」
小さい声だった。
会社で聞く声よりも、ずっと。
「今日も駄目だったら、どうしようかと思ってた」
「駄目?」
「伝わらなかったら、ってこと」
俺は頭を下げかけて、さっき謝らなくていいと言われたのを思い出した。
途中で止まったせいで、変なお辞儀になった。
相沢さんが、とうとう笑った。
「そんなに緊張しなくても」
「するよ」
「私もしてるけどね」
彼女の手元を見た。
メニューの角をつかんだ指が、白くなっていた。
俺だけではなかった。
そう分かったところで、店員が注文を取りに来た。
俺たちは慌ててメニューを開き直した。
相沢さんはオムライスを頼んだ。
俺はハンバーグにした。ソースを聞かれ、デミグラスと答える。
何とか注文を終えて、店員が離れるのを待った。
「相沢さん」
「うん」
さっき、彼女は付き合いたいと言ってくれた。
俺は好きだとは言ったが、まだちゃんと返事をしていない。
「俺でよければ、付き合ってください」
相沢さんは一度唇を結んで、それから笑った。
「うん。こちらこそ」
そこでようやく、俺も息を吐けた。
「……こういうの、言うの緊張するね」
「分かってくれた?」
「かなり」
彼女は笑ったまま、両手を頬に当てた。
「私も今、ほっとしてる」
◇
自分で言ったくせに、どうも実感が湧かない。
向かいに座っているのは、さっきまでと同じ相沢さんだった。
けれど、彼女が俺を見るたびに、何か重大なものを受け取っている気がする。
「一個、言っておきたいんだけど」
「うん」
「俺、付き合ったことない」
相沢さんは、驚かなかった。
ただ、少し首を傾げた。
「一度も?」
「うん」
「そっか」
そこから何も続かないので、俺が続けるしかなかった。
「だから、デートとかも、どこに行けばいいか分からないし」
「それは調べよう」
「はい」
あまりに普通の返事だったので、思わず頷いてしまった。
相沢さんは笑った。
「私も、瀬川くんの行きたいところは知らないから」
「俺の?」
「うん。瀬川くんが好きなお店にも行ってみたい」
俺は、最近行った場所を頭の中で並べた。
会社。スーパー。家電量販店。ゲームのグッズを売っている店。
どれも彼女を連れていく場所には思えなかった。
「映画とか?」
「何を観たいの?」
具体的な題名を聞かれると、何も出てこない。
映画ならデートらしいだろうというだけで言ったからだ。
相沢さんは俺の顔を見て、何か察したらしい。
「今、決めなくてもいいよ」
「……考える」
「私も考える」
彼女は、紙ナプキンの端を折った。
「あと、さっき言い忘れたけど。私もそんなに経験あるわけじゃないから」
「そうなの?」
「そうなの」
少しだけ、言い方が強くなった。
俺は座り直した。
「なんか、勝手に想像してた」
「うん。してそうだと思った」
見抜かれていた。
「好きな人をご飯に誘うの、けっこう勇気いるんだからね」
俺は一回目の誘いを思い出した。
会社の廊下で、相沢さんは俺に声をかけた。
俺が振り向くより先に、「もし予定があったら、全然いいんだけど」と言った。
あれは彼女の口癖ではなかった。
「よく、俺を四回も誘えたね」
「二回目は、断られるかと思った」
「どうして?」
「一回目のあと、ありがとうって連絡くれたでしょ。それっきりだったから」
食事のあと、俺から送ったのは、帰宅してすぐの礼のメッセージだけだった。
彼女から返信があり、それにはスタンプで返した。
それ以上は送れなかった。
相談の用もないのに連絡したら、鬱陶しいかもしれないと思った。
「誘われた側が、次も誘ってって言うのは図々しいかと」
「次も行こうって言ってくれればよかったのに」
そうか。
それくらいなら、言えた。
俺が黙ると、相沢さんは少し身を乗り出した。
「でも、二回目はすぐ返事くれたでしょ」
「うん」
「あれで、嫌われてはいないんだなって」
二回目の誘いは、木曜の昼休みに届いた。
俺はスマホを持ったまま食堂にいたので、すぐ返信できた。
「もしかして、嫌な人とはご飯行かないかって聞いたのも」
「うん」
相沢さんが頷いた。
「私が聞きたかったのは、瀬川くんのことだったの」
彼女は、料理を運んできた店員に明るく礼を言った。
会社でもよく聞く声だった。
ついさっき、返事を待っている間はあんなに小さな声で話していたのに。
◇
目の前にハンバーグの皿が置かれ、ようやく手の置き場ができた。
ナイフとフォークを持つと、少し落ち着く。
相沢さんは、オムライスの端をスプーンで崩した。
「食べる?」
彼女が皿を少し押し出す。
俺はフォークを持ったまま止まった。
「交換の方ね」
そう言われ、ハンバーグを一切れ切った。
取り皿を頼んで、前の定食屋でしたのと同じように交換する。
同じことなのに、彼女が俺の切ったハンバーグを食べるのを、まっすぐ見られなかった。
「おいしい」
「こっちも」
卵が柔らかかった。
味は分かった。その点は少し安心した。
相沢さんはスプーンを皿に置いて、俺を見た。
「瀬川くん、何か聞きたいことありそう」
「顔に出てる?」
「ちょっと」
俺は迷った。
聞きたいことは、告白された瞬間からあった。
ただ、せっかく好きだと言ってもらえたのに、理由を求めるのは失礼な気がした。
「俺の、どこを」
相沢さんは続きを待っていた。
「どこを好きになったのか、聞いてもいい?」
彼女は、椅子の背から少し体を起こした。
「覚えてるかな。去年の六月、私が月次の資料間違えたとき」
覚えていた。
俺たちは同じ部署で、担当する取引先を分けている。
相沢さんは前月の数字を一か所残したまま、集計表を上司へ提出してしまった。
営業へ配る前に見つかったので、取引先に迷惑はかからなかったが、社内の締切には遅れた。
あの日、俺は自分の資料の提出を終え、相沢さんが修正する横で別の表を見ていた。
「手伝った日?」
「うん。その翌朝」
謝られたのは覚えている。
礼も言われた。
けれど、そのあと何を話したかまでは思い出せない。
「私が、瀬川くんがいてくれて助かったって言ったら」
相沢さんは少しだけ、声を低くした。
「昨日、途中から自分で直してたじゃん。俺に全部助けてもらったみたいに言わなくていいよ、って」
言った気がする。
俺が手伝ったのは参照先の確認だった。
それ以外を直したのは相沢さんで、上司への説明も自分でしていた。
「あれ、嬉しかった」
「そんなこと?」
口に出してから、しまったと思った。
相沢さんは、俺の顔を見ている。
「私には、けっこう大きかったよ」
「……うん」
俺はフォークを置いた。
「自分でやったって言ってもらえたの、あの日は初めてだったから」
相沢さんは、オムライスの端を見ていた。
あのとき俺は、彼女が泣くのではないかと思った。
上司が帰ったあとも、相沢さんは唇を結んでパソコンに向かっていた。
普段の彼女しか知らなかったので、何と声をかければいいか分からず、黙って隣に座った。
「ほかにもあるよ」
相沢さんが顔を上げた。
「瀬川くん、私の話を途中で決めつけないで聞いてくれるし」
「聞くのは、しゃべるより得意だから」
「でもゲームの話はいっぱいする」
俺は口をつぐんだ。
そこは反省していたところだった。
「あれは、ごめ……」
「楽しかったって言ったでしょ」
相沢さんの方が早かった。
「いつも会社だと、話し終わるとすぐ机に向かっちゃうから。あんなにしゃべるんだ、って思った」
「長かっただろ」
「ちょっと長かった」
ちゃんと長かったらしい。
「でも、また聞きたい。次は私にも分かるところから」
彼女は、スプーンを持ち直した。
「あと、笑ったときの顔が好き」
俺は、切りかけたハンバーグに視線を落とした。
返事をする前から顔が熱い。
「今それ言う?」
「今、聞いたの瀬川くんだよ」
それはそうだった。
相沢さんが笑っている。
俺は彼女の笑った顔が好きだ。
三回目の食事で、ゲームの説明が通じなくて困ったときも、彼女は笑った。
俺を笑ったのではなく、分からない言葉ばかりで自分が困っていることを、楽しそうに話した。
「待って。その人は味方? 敵?」
そう聞かれて、俺はようやく説明の順番を直せた。
普段なら、もういいやと話をやめていたと思う。
彼女とは、続きを話したかった。
そのことを、今なら言ってもよかった。
言おうとしたが、相沢さんがオムライスを口に入れたので、待った。
飲み込んで、コップを持つところまで待つと、彼女がこっちを見た。
「どうしたの?」
「俺も」
「うん?」
「相沢さんが笑うと、嬉しい」
彼女はコップを置いた。
「それ、もうちょっと早く聞きたかったな」
笑っているのに、目を合わせてくれなくなった。
◇
会計は、俺が出すと言った。
「どうして?」
「今日は、お祝いで」
「何の?」
彼女は笑いそうな顔で聞いた。
分かっているくせに、言わせようとしている。
「……付き合った」
「うん」
「お祝い」
相沢さんは、財布を鞄へ戻した。
「じゃあ、ごちそうになります」
店を出ると、さっきより冷えていた。
風が吹いて、彼女がコートの前を押さえる。
俺は自分の上着を見た。
貸そうとして、彼女には肩幅の大きすぎる上着を着せるところを想像した。
変ではないか。いや、変かどうかより、寒いなら。
「駅まで近いから、大丈夫」
何も言っていないのに、相沢さんがそう言った。
俺は襟から手を離した。
そんなところを見られているとは思わなかった。
並んで歩き出す。
路地を出れば駅までほとんど一本道だった。
会社から歩いてきたときより、彼女が近い。
手が触れそうだった。
触れるかもしれないと思っただけで、右手に力が入る。
ポケットへ入れかけたところで、相沢さんが俺を見た。
「手、つないでもいい?」
俺は右手を戻した。
「うん」
彼女の左手が、俺の右手をつかんだ。
指先が冷たい。
手のひらは、思っていたより小さかった。
どれくらい力を入れていいか分からず、ぎこちなく握り返す。
「痛くない?」
「大丈夫」
相沢さんは、つないだ手を少し持ち上げた。
「ちゃんとつながってる」
俺は返事の代わりに、その手をもう少しだけ握った。
駅前へ出る手前に、家電量販店がある。
入口の大きな画面では、ゲームの宣伝が流れていた。
先週、俺が話しすぎたゲームだった。
普段なら必ず見る。
今日は、相沢さんとつないだ手に意識が行って、見ないまま通り過ぎようとした。
「あれ?」
彼女が足を止めた。
「瀬川くんが言ってたの、このゲーム?」
「あ、うん」
画面の中で、青い服の主人公が建物の屋根を飛び越えていた。
「これ、二人でもできる?」
「できるけど。対戦じゃなくて、協力して進むやつ」
「私でもできるかな」
「最初はちょっと難しいかもしれない。でも、慣れれば」
「教えて」
彼女は、画面を見上げたまま言った。
「いつか、一緒にやりたい」
俺は頷いた。
自分の部屋で、彼女とゲームをする。
その想像は、今まで考えたどんな休日よりも楽しそうだった。
ただ、最初のデートをいきなり家にするのは、違う気がした。
外で一緒に過ごしたい。
金曜日の夕食だけでは分からない彼女を、もっと見たかった。
量販店の向かいに、小さな看板が出ている。
二階の喫茶店のものだった。
プリンの写真と、土日限定という文字。
相沢さんは前に、喫茶店の固いプリンが好きだと話していた。
カラメルは、少し苦い方がいいと言っていた。
看板の前を通るとき、彼女がそれをちらっと見た。
俺は、その店の名前を覚えた。
駅に着き、つないでいた手を離す。
相沢さんは、スマホで時間を確かめた。
「次、七分後だ」
「俺は十二分」
改札は同じで、ホームが違う。
ここで別れたら、月曜まで会わない。
いや。
会う約束をすればいい。
俺はスマホを出して、さっきの喫茶店を調べた。
プリンは本当に土日限定だった。午前十一時から。食事のメニューもある。
「瀬川くん?」
相沢さんが俺を見ていた。
「あのさ」
「うん」
今日誘われたときより、緊張していた。
会社の電話なら、名乗って、用件を言って、相手の返事を待てばいい。
それくらい分かっているのに、声が出にくかった。
「明日、空いてる?」
相沢さんの目が、少し大きくなった。
「空いてる」
俺はスマホの画面を見せた。
「さっき、看板あった店。土日しかプリンないらしくて。昼ご飯もあるから」
理由が長い。
早く用件を言え。
「一緒に、行かない?」
「行く」
早かった。
俺が続きを言う前だった。
「十一時くらい、どう?」
「大丈夫」
「そのあとも、よければ」
行き先はまだ考えていない。
けれど、プリンを食べ終わったらすぐに帰るのは嫌だった。
「どこか、行こう」
相沢さんはスマホを見て、それから俺を見た。
「瀬川くんの行きたいお店も、連れてって」
「ゲームの店になるけど」
「うん。瀬川くんと行くんだもん」
胸の辺りが詰まった。
こんなに嬉しい言葉を、彼女はどうして普通に言えるんだろう。
そう思ってから、彼女の手元に気づいた。
スマホを持っていない方の手が、コートの袖をつかんでいた。
顔も、ほんの少し赤い。
俺はスマホをしまった。
「明日、楽しみにしてる」
今度はちゃんと言えた。
相沢さんは笑って、頷いた。
「私も。すごく」
そのあと二人で改札を通った。
ホームへ向かう階段の分かれ道で、彼女が手を振る。
「また明日ね」
「また明日」
相沢さんは二段だけ上がり、振り返った。
「あ、あと」
俺は足を止めた。
「明日は恋愛相談じゃないからね」
分かっている。
けれど、彼女が笑っているから、俺も少し笑えた。
「うん。デート」
彼女は、袖口で口元を隠した。
「……今の、もう一回言って」
~完~




