外れスキル《着火》しかなかった俺は勇者を追放されたので辺境で炭焼きをしていたら、雪の中で次代の魔王を拾った
北へ行くほど、空は低くなる。
王都を出て三日目には、それが分かった。
山々は黒く、針葉樹の森はどこまでも続き、街道の両側には人の背丈ほどもある枯草が波打っていた。晴れていても陽の光は薄かった。風が吹けば、遠くの森が低い声で鳴った。
知らない世界だった。
空も、森も、道端に咲く小さな白い花も、何一つ見覚えがない。
それでも俺は、王都から離れるにつれて、少しずつ息ができるようになっていった。
召喚されたのは、俺を含めて五人だった。
大神殿の床に描かれた巨大な魔法陣。
金色の燭台。
白い法衣の神官たち。
玉座からこちらを見下ろす王。
あの光景だけは、今でも妙に鮮明に覚えている。
四人には、それぞれ立派な能力が与えられた。
【聖剣召喚】。
【万象解析】。
【絶対障壁】。
【治癒聖域】。
俺の番になったとき、鑑定用の水晶板に浮かんだ文字は、たった二文字だった。
【着火】
神官が眉をひそめた。
一度、水晶板を拭いた。
もう一度、俺に手を置かせた。
結果は変わらなかった。
「どのような能力でしょうか」
俺が尋ねると、神官は気まずそうに指を組んだ。
「触れた可燃物に、火を灯すものと思われます」
「それだけですか」
「……おそらく」
背後で誰かが笑った。
「便利じゃないか。野営で」
振り返らなかった。
たぶん、振り返っていたら、あの場にいた全員の顔を一生忘れられなくなっただろう。
三日後、俺は王城を出た。
追放されたわけではない。
王国は金貨二十枚と旅装をくれた。
「勇者としての務めを強いるものではない。自由に生きるがよい」
丁寧な言葉だった。
だから余計に、自分が不要なのだとよく分かった。
*
アルノという町にたどり着いたのは、その二週間後だった。
北方領のさらに北。
地図の端に、小さな点で記されているだけの町だった。
三方を山に囲まれている。
東には深い森。
西には岩山。
北へ延びる旧街道は、二十年前の戦争以来ほとんど使われていないという。
家々は黒ずんだ石と木で造られ、屋根には厚い板が載っていた。
町に入ったとき、最初に感じたのは煙の匂いだった。
家々の煙突から出る煙ではない。
もっと重い、土と木が焼ける匂い。
町の北側には、いくつもの炭窯が並んでいた。
「仕事を探してるのか」
声をかけてきたのは、片目の白く濁った老人だった。
「はい」
「何ができる」
少し迷った。
「火をつけられます」
老人はしばらく俺を見ていた。
それから笑った。
「そいつは結構だ。ここじゃ、火をつけられん奴より、つけられる奴のほうが役に立つ」
老人はガドと名乗った。
炭焼きだった。
俺は彼の小屋に住み込み、仕事を教わることになった。
木を切る。
乾かす。
窯に詰める。
火を入れる。
煙を見る。
空気の流れを読む。
「火はな、つけるより消すほうが難しい」
ガドはよく言った。
「燃やしたいものだけ燃やすってのが、一番難しい」
最初は意味が分からなかった。
火など、つけてしまえば同じだと思っていた。
半年もすると、少しだけ分かるようになった。
湿った薪には火が入らない。
乾きすぎた薪は、一気に燃えて炭にならない。
窯の中へ空気を入れすぎれば、すべて灰になる。
逆に閉じすぎれば、火は死ぬ。
俺の能力は相変わらず、指先ほどの炎しか生まなかった。
けれど、火そのものより、火が燃える条件のほうが大切なのだと知った。
それを知るまで、ずいぶん時間がかかった。
*
リリアを拾ったのは、最初の雪が降った日だった。
その年、冬は早かった。
朝から鉛色だった空は、昼過ぎになるとさらに暗くなり、夕方には細かな雪が森を覆っていた。
仕事を切り上げて小屋へ戻る途中、道から少し外れた場所に白いものが見えた。
初めは倒木に積もった雪だと思った。
違った。
髪だった。
雪の中に、少女が倒れていた。
銀色の長い髪。
薄い灰色の外套。
素手。
靴は片方なくなっていた。
息はかすかにあった。
「おい」
肩を揺する。
反応はなかった。
抱き起こした身体は、雪より冷たかった。
町まで運ぶには遠い。
俺は少女を背負った。
あまりに軽くて驚いた。
人間を一人背負っているのではなく、中身のない衣服を背負っているようだった。
小屋へ戻ると、暖炉に昨日の薪が残っていた。
俺は指を伸ばした。
「着火」
ぱちり、と音がした。
小さな赤い火が、細い枯枝に移った。
やがて薪へ移り、乾いた木が爆ぜた。
その夜、俺は初めて自分の能力を便利だと思った。
*
少女は三日眠った。
三日目の夜明け前、何かの気配で目を覚ました。
暖炉の前に少女が座っていた。
毛布に包まり、火を見ていた。
銀色の髪が、炎の色を映して橙色に揺れている。
「起きたのか」
少女はこちらを見た。
顔立ちは幼く見えた。
十六、七歳。
あるいはもっと上なのかもしれない。
目だけが年齢に似合わなかった。
疲れているのとも違う。
悲しんでいるのとも違う。
まるで、長いあいだ使われていない洞窟のように空虚な目だった。
「名前は?」
「……リリア」
声はかすれていた。
「家は」
「ありません」
「家族は?」
少しだけ間があった。
「いません」
俺はそれ以上聞かなかった。
*
リリアは小屋に居ついた。
元気になったら町へ送るつもりだった。
けれど町へ連れていくと、人が多い場所をひどく嫌がった。
宿屋も嫌だと言った。
教会も嫌だと言った。
「じゃあ、どうする」
「何でもします」
「何でもって」
「薪を割れます」
試しに斧を渡すと、俺より上手かった。
それで話は決まった。
リリアは炭焼き小屋の手伝いをするようになった。
ほとんど喋らなかった。
朝起きても無表情。
食事のときも無表情。
ガドに褒められても、ただ頭を下げるだけだった。
ただ一つ、不思議な癖があった。
夜になると、決まって暖炉の前に座った。
火を見ている。
一時間でも、二時間でも。
「火が好きなのか」
ある夜、訊いた。
「嫌いです」
即答だった。
「じゃあ、なんで見てるんだよ」
リリアは炎を見たまま答えた。
「暖かいからです」
「嫌いなのに?」
「嫌いなものが、暖かいこともあります」
妙な言い方だった。
*
春になった。
アルノの雪は、ある日突然なくなる。
溶けるのではない。
昨日まで白かった斜面が、一晩で黒くなる。
木々の根元から水が流れ始め、凍っていた川の表面が割れた。
森から鳥が戻ってきた。
リリアも少しずつ町へ出るようになった。
最初に覚えたのは、パン屋の老婆の顔だった。
老婆はリリアが魔族だと気づいていたのかもしれない。
額の生え際に、ごく小さな角の痕があったからだ。
それでも何も言わなかった。
売れ残った硬いパンを袋に入れ、
「炭焼きは腹が減るだろ」
と言って渡した。
その日、小屋へ戻る途中で、リリアが訊いた。
「人間は、みんな魔族を嫌っているのではないんですか」
「知らない」
「人間なのに?」
「人間が全員同じこと考えてるわけないだろ」
リリアは黙った。
その日の夕食で、彼女はいつもよりパンを長く噛んでいた。
*
夏には、町の子供たちが炭窯まで遊びに来るようになった。
リリアは嫌そうな顔をした。
けれど追い返しはしなかった。
ある日、一匹の子猫が炭窯の脇で足を怪我していた。
リリアは一日中、その猫のそばにいた。
「飼うのか」
「飼いません」
「じゃあなんで面倒見てる」
「死んだら嫌なので」
言ったあと、自分の言葉に驚いたような顔をした。
俺は何も言わなかった。
夕方になると、山の向こうから長い影が伸びた。
煙は真っすぐ上に昇った。
風のない日だった。
その静かな夕暮れの中で、リリアは子猫を膝に載せていた。
その横顔は、雪の中で拾った少女とは少し違って見えた。
*
異変が起きたのは、秋だった。
森へ木の実を拾いに入った子供が、魔獣に襲われた。
俺たちが駆けつけたとき、獣はすでに子供へ飛びかかっていた。
間に合わない。
そう思った。
その瞬間、空気が震えた。
音はなかった。
ただ、森の色が変わった。
木々の間が一瞬だけ赤く染まった。
魔獣の身体が宙へ浮き、数間先の幹へ叩きつけられた。
動かなくなった。
リリアが立っていた。
右手を伸ばしていた。
指先が震えていた。
胸元で、黒い何かが薄く光っていた。
「リリア」
呼ぶと、彼女は顔を上げた。
血の気がなかった。
「見ましたか」
「ああ」
「……そうですか」
彼女はそれしか言わなかった。
その夜、暖炉の前には来なかった。
*
三週間後。
北の監視塔から早馬が来た。
魔族の軍勢が旧街道を南下している。
数は約三百。
正規軍ではない。
王旗を掲げていないため、追跡部隊だろうという話だった。
町長の家でそれを聞いたとき、俺はすぐに理解した。
リリアも理解したはずだった。
小屋へ戻ると、彼女は荷物をまとめていた。
「逃げるのか」
「いいえ」
リリアは手を止めた。
「私が北へ戻ります」
「何言ってる」
「追っているのは、私です」
胸元から紐を引き出した。
黒い石のようなものが下がっていた。
秋の日、魔獣を倒したときに光ったものだった。
「王核と呼ばれています」
「王核?」
「古い魔族の王家に生まれるものです」
リリアは黒い結晶を掌に載せた。
「魔王というのは、種族の名前ではありません。魔族を束ねる王の称号です」
初めて聞いた。
王都では、魔王は魔族の頂点に立つ怪物だと教えられていた。
「私の父は、前の魔王でした」
薪の爆ぜる音がした。
「今の魔王は?」
「叔父です」
リリアの声は平らだった。
「父を殺しました。兄たちも。母も」
俺は何も言えなかった。
「でも、叔父には王核がありません」
「それで?」
「古い氏族の中には、王核を持つ者だけを正統な王と考える者がいます」
ようやく話が見えた。
「だからお前を殺したい」
「はい」
「今まで見つからなかったのは?」
「王核を眠らせていたからです」
リリアは胸へ手を当てた。
「力を使わなければ、気配はほとんど消えます。でも、あの日」
森で子供を助けた日。
「起こしてしまったのか」
「ほんの一瞬だけ」
リリアは目を伏せた。
「それで十分だったのでしょう」
*
なぜこれまで力を隠していたのか。
それでようやく分かった。
力がなかったのではない。
使えば居場所を知られるから、使えなかったのだ。
「じゃあ、雪の中で倒れてたときも」
「使えば助かったかもしれません」
「なんで使わなかった」
リリアは答えなかった。
暖炉の火が揺れた。
外で風が鳴った。
「リリア」
「……疲れていたんです」
小さな声だった。
「逃げることに」
それだけだった。
でも、その一言で十分だった。
*
アルノの住民には、翌朝までに避難命令が出た。
南へ続く街道を使い、山向こうの砦へ逃げる。
町の守備兵は十九人。
三百の追跡隊と戦うつもりはなかった。
時間を稼ぐ。
それだけだった。
住民が荷物をまとめているあいだ、俺はガドと町の北側を歩いた。
炭窯。
古い防火帯。
使われなくなった伐採路。
雨水を流すための溝。
全部見て回った。
「何を考えてる」
ガドが訊いた。
「火を使います」
老人の濁った目が細くなった。
「町を焼く気か」
「逆です」
俺は森を見た。
冬枯れの森。
落ち葉。
乾いた下草。
北から敵が来る。
風は南西から吹いている。
「燃やしたいところだけ燃やそうと思います」
ガドはしばらく黙っていた。
やがて、歯の抜けた口で笑った。
「やっと炭焼きらしくなったな」
*
その日いっぱい、住民総出で準備した。
北側の空き地に浅い溝を掘った。
屋根へ水をかけた。
森へ火が走らないよう、防火帯を広げた。
街道脇には木炭と湿らせた藁を置いた。
火を大きくするためではない。
煙を出すためだった。
乾いた薪は、敵の進路を狭める場所にだけ積んだ。
夜明け前、住民は南へ出発した。
残ったのは兵士十九人。
ガド。
俺。
そしてリリア。
「お前は行け」
言うと、リリアは首を振った。
「私のせいです」
「だから何だ」
「私が残れば」
「向こうはお前を殺して終わりだ」
「町は助かります」
「本当に?」
リリアが黙った。
「お前を見た奴がいる。お前がここで半年暮らしたことを知ってる奴もいる。お前を庇った町を、連中がそのまま残す保証があるのか」
「それは」
「ないだろ」
俺は荷物袋を押しつけた。
「南へ行け」
「あなたは?」
「火をつける」
「死にます」
「できる限り死なないようにする」
「できなければ?」
「そのとき考える」
リリアが睨んだ。
「馬鹿です」
「知ってる」
彼女は動かなかった。
仕方なく、俺は最後の手を使った。
「ガド」
「あいよ」
老人が背後からリリアの腕を取った。
「何を」
「悪いな」
町の石造りの貯蔵庫へ押し込み、扉に閂をかけた。
「開けてください!」
「追跡隊が引いたら開ける」
「あなたは自分が何をしているのか」
「分かってる」
「分かっていません!」
扉の向こうで声がした。
「また私だけ残される!」
手が止まった。
その声は怒鳴り声だった。
リリアがそんな声を出したのは初めてだった。
返事をしようとした。
でも、言葉が出なかった。
結局、俺は何も言わず、扉から離れた。
*
夕方。
北の森から鳥が消えた。
それが最初だった。
次に地面が震え始めた。
旧街道の向こうから、黒い影が現れた。
一つ。二つ。
やがて数え切れなくなった。
三百。
魔物と魔族の混成部隊だった。
中央に黒い鎧の騎士がいた。
兜には角が二本。
馬も黒かった。
町の北門前で軍勢が止まった。
「王女を差し出せ」
声が遠くまで響いた。
なるほど。
ただの逃亡者ではないらしい。
俺は柵の上から答えた。
「ここにはいない」
「嘘をつくな」
「だったら探せばいい」
黒騎士の兜がこちらを向いた。
「人間。なぜ魔族を庇う」
少し考えた。
「飯を作ってくれるから」
沈黙があった。
「それだけか」
「薪も割る」
「ふざけているのか」
「わりと本気だ」
黒騎士が剣を抜いた。
「進め」
軍勢が動いた。
俺は指先を下へ向けた。
街道脇の細い溝には、油をしみ込ませた縄が延びている。
半年間。
何百回もやったことだ。
「着火」
小さな火がついた。
本当に、小さかった。
けれど火は走った。
*
炎は、街道の両脇へ広がった。
敵を焼くための火ではない。
進路を狭める火だった。
同時に湿った藁が燻り、白い煙が一気に上がる。
南西の風を受け、煙は北東へ流れた。
魔物たちが騒ぎ始めた。
視界を奪われ、隊列が崩れる。
そこへ兵士たちが矢を射る。
敵は三百。
こちらは二十一人。
勝つ必要はない。
追えなくすればいい。
十分。
そう思った。
黒騎士だけが、煙の向こうから出てきた。
速かった。
馬を捨て、炎を越え、真っすぐこちらへ来た。
「術士かと思えば」
剣が光った。
「ただの火遊びか」
かわしたつもりだった。
肩に衝撃が走った。
身体が地面へ落ちた。
息ができなくなった。
視界の端で、空が赤かった。
夕焼けなのか。
炎なのか。
分からなかった。
「王女はどこだ」
「知らない」
黒騎士が俺の胸を蹴った。
何かが折れた。
「人間ごときが」
剣が上がった。
そのときだった。
音がした。
遠くで石が割れる音。
いや。
町全体が鳴ったような気がした。
黒騎士が振り返った。
石造りの貯蔵庫。
壁に亀裂が走っている。
次の瞬間、壁が内側から崩れた。
白い粉塵の中から、リリアが出てきた。
*
「馬鹿です」
彼女は言った。
こちらを見ていた。
「本当に、救いようがありません」
胸元の王核が光っていた。
黒ではない。深い赤。
濡れた炭の奥に残る熾火のような色だった。
「王核を起こしたな」
黒騎士の声が変わった。
初めて、恐怖が混じった。
「その意味が分かっているのか」
「分かっています」
「陛下に居場所が伝わる」
「もう伝わっているでしょう」
「ではなぜ」
リリアは俺を見た。
「死んでほしくないからです」
ひどく簡単な答えだった。
彼女は手を上げた。
空気が震えた。
黒騎士が剣を構える。
「王核を起こせば、もう逃げられんぞ」
「逃げません」
「魔王になるつもりか」
「いいえ」
リリアの髪が風に持ち上がった。
「王になるかどうかは、私が決めます」
その言葉と同時に、黒騎士の剣が砕けた。
*
戦いは長くなかった。
指揮官を失い、煙と火で分断された追跡隊は北へ退いた。
こちらも追わなかった。
追える状態ではなかった。
俺は途中から何も覚えていない。
次に目を覚ましたとき、見慣れた天井があった。
炭焼き小屋だった。
暖炉には火が入っていた。
椅子にリリアが座っていた。
「起きましたか」
「ああ」
「三日です」
「寝すぎたな」
「そうですね」
声が冷たかった。
怒っているらしい。
「悪かった」
「何がですか」
「閉じ込めたこと」
「それだけですか」
「死にかけたこと」
「それから」
「……黙って行ったこと」
リリアは黙った。
暖炉の中で薪が崩れた。
「私は」
彼女が言った。
「置いていかれるのが嫌いです」
「ああ」
「もう二度と、しないでください」
返事に少し迷った。
「努力する」
「約束してください」
「約束する」
ようやく彼女はこちらを見た。
目が赤かった。
「死にたくありません」
ぽつりと言った。
雪の中で拾った少女は、もういなかった。
「私、死にたくないです」
「ああ」
「怖いです」
「ああ」
「でも」
リリアは暖炉へ目を戻した。
「そう思ってもいいんですね」
何のことかは訊かなかった。
「たぶんな」
そう答えた。
*
その後、王都から勇者たちが北へ来た。
俺が召喚されたとき、一緒にいた四人だ。
彼らはすでに何度か現魔王軍と戦っていた。
俺たちは長い話をした。
彼らが教えられていた「魔王」と、リリアの話す「魔王」は、ずいぶん違っていた。
王都にとっては、人間領へ侵攻する魔族の王。
魔族にとっては、多数の氏族を束ねる支配者。
どちらも嘘ではなかった。
ただ、どちらも全部ではなかった。
戦争というものは、たぶんそういうものなのだろう。
誰も、相手の話を全部は知らない。
*
それから五年かかった。
現魔王は倒れた。
だが、リリアはすぐには魔王を名乗らなかった。
王核を持っているだけで王になれるなら、父も兄も死んではいなかっただろう。
人間側との交渉。
魔族の氏族との交渉。
北方の町々との交渉。
何度も破談になった。
何度も襲撃された。
それでも少しずつ、戦わずに済む場所が増えていった。
やがて北方には、人間と魔族の双方が暮らす小さな連合領ができた。
魔族たちはリリアを魔王と呼んだ。
人間たちは北境王と呼んだ。
本人はどちらでもいいと言った。
俺は彼女の補佐官になった。
正式な肩書きは長すぎて覚えていない。
ガドは、
「お前は炭焼きだろ」
と言った。
俺もそう思う。
*
冬になると、今でもアルノへ戻る。
町は少し大きくなった。
北門は石造りになった。
昔の炭窯は半分ほど残っている。
あの小屋も残っていた。
ある夜、リリアと二人で暖炉の前に座った。
外では雪が降っていた。
音のない雪だった。
窓の向こうには森がある。
黒い幹の間を、白いものが絶え間なく落ちている。
五年前と同じ景色だった。
けれど、まったく違う景色にも見えた。
「あなた」
リリアが言った。
「自分の能力が嫌いだと言っていましたね」
「言ったっけ」
「言いました」
「覚えてない」
「私は覚えています」
リリアは昔から、妙なことだけよく覚えている。
「今も嫌いですか」
俺は指先を見た。
相変わらず、何も特別なものはない。
試しに暖炉の脇の細い木片へ触れた。
「着火」
小さな炎が生まれた。
本当に小さい。
勇者たちの力とは比べものにならない。
世界を救うこともできない。
山を割ることもできない。
けれど、火は木片から薪へ移った。
暖炉が明るくなった。
「悪くない」
俺は言った。
「どうして?」
「火って、最初から大きい必要はないんだよ」
リリアがこちらを見る。
「一つつけば、次へ移る」
暖炉の中で、炎がゆっくり広がっていた。
「それで十分だ」
しばらく返事がなかった。
ふと見ると、リリアは火を見ていた。
昔と同じ姿勢だった。
銀色の髪。
白い横顔。
膝の上に組んだ手。
「なあ」
「はい」
「昔、火が嫌いだって言ってたよな」
「言いました」
「今も?」
リリアは答えなかった。
窓の外では雪が降り続いている。
森も。
道も。
屋根も。
すべて白く埋めていく。
それでも暖炉のそばだけは暖かかった。
「好きです」
ようやく彼女が言った。
「今は」
「そっか」
「ただ」
リリアがこちらを向いた。
「一つ、困ることがあります」
「何が」
「火というのは、消そうと思っても、なかなか消えないものなのですね」
「場合によるな」
「そうですか」
それ以上、彼女は何も言わなかった。
俺も訊かなかった。
ただ、椅子と椅子の間にあったわずかな隙間が、いつの間にかなくなっていた。
外では、雪が降っている。
あの日と同じように。
世界を冷たく覆い尽くすように。
けれど俺はもう知っている。
冬がどれほど長くても。
森がどれほど暗くても。
火は、ひどく小さなものから始まる。
指先ほどの炎。
一人分の暖かさ。
誰かにとっては、それだけのものだ。
それでも。
凍えている人間にとっては、それが世界のすべてになる夜がある。
あの雪の日。
俺は一人の少女のために火をつけた。
ずっと、そう思っていた。
けれど、たぶん違う。
あのとき火をつけてもらったのは、俺のほうだった。




