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第八部 承久の乱

 鎌倉幕府につながりのある貴族の反対までは予期できても、そうではない貴族の反発は予期していなかった後鳥羽上皇であるが、それでも後鳥羽上皇は動き始めた。

 まずは承久三(一二二一)年五月一四日のうちに西園寺公経が息子の西園寺実氏とともに弓場段に幽閉されたのである。西園寺公経が三寅の関東下向に尽力し、鎌倉幕府との関係が深いことも周知の事実であり、鎌倉幕府に内通していると見做されたためだ。なお、西園寺公経は緊急事態が発生したことを鎌倉に送り届けるよう家司である三善長衡に命令したことで、鎌倉へと向かう使者が京都を出発した。これが京都から鎌倉に向かった最初の使者となる。

 翌五月一五日、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を発するだけでなく、仲恭天皇の名での官宣旨も発した。

 この瞬間、承久の乱が始まった。

 実は、仲恭天皇の名で発せられた官宣旨の原文は残っておらず、承久記にある文書は、内容に大きな違いが無いことまでは判明しているものの、抄略となっている。

 承久記における、仲恭天皇の名で発せられた官宣旨を現代語訳すると以下の通りとなる。


五畿内(山城、大和、摂津、和泉、河内)の諸国はすみやかに北条義時を追討して院庁に参上して裁断を仰ぐこと。

諸国(東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、太宰府)の荘園の守護や地頭については右大臣久我通光より北条義時討伐の命令を公布すること。

近年、北条義時は朝廷からの命令を下しても巻頭の裁断であるとして天下の政務を乱しており、勝手気儘な裁断を鎌倉のみならず京都にも下し、天皇の支配下にある者が従うべき法を軽んじている。

こうした北条義時の行動は謀反とするしかない。

すみやかに五畿七道の諸国に対して北条義時の追討を命じる。

また、諸国荘園の守護や地頭らで言上すべき事項のある者は院庁に参って申し述べてその是非を判断せよ。

そもそも国司や荘園領主は天皇の命令に従うべき存在であり、勝手気儘な振る舞いや言動をしてはならない。

これを固く守り、違反する者がいるならばこの命により通知せよ。


   承久三年五月十五日  大史三善朝臣(右大史三善信直)

大弁藤原朝臣(右大弁藤原資頼)


 無論、この時点で四歳の仲恭天皇が発したのではなく、蔵人の誰かが起草し、上卿内大臣源通光のチェックを経て右大弁藤原資頼が文章を書き記し、右大史三善信直が清書をしたのちに発給したことが確認できている。

 一方、後鳥羽院の発した院宣も承久記に掲載されているが、こちらは原文の通りであるという。その原文と現代語訳を載せると以下の通りとなる。なお、院宣の起草は葉室光親であることが判明しており、後鳥羽上皇の裁可を経た文書ではあるものの、こちらもまた後鳥羽上皇の直筆の文章というわけではない。



被院宣偁故右大臣薨去後家人等偏可仰聖断之由令申

仍義時朝臣可為奉行仁歟之由思食之処三代将軍之遺跡称無人于管領種々有申旨之間依被優勲功職被迭摂政子息畢

然而幼齢未識之間彼朝臣稟性於野心借権於朝威論之政道豈可然乎

仍自今以後停止義時朝臣奉行併可決叡襟若不拘此御定猶有反逆之企者早可殞其命

於殊功之輩者可被加褒美也

宜令存此旨者院宣如此


悉之以状


承久三年五月十五日 按察使光親奉


(右大臣源実朝亡き後で鎌倉幕府の御家人らが後鳥羽上皇の判断を仰いできたため、後鳥羽上皇は北条義時を新しい主君の命令を執行する責任者とすると考えていたところ、三代将軍の後を継ぐ者が鎌倉にはいないため摂政九条道家の息子を第四代将軍とすべく鎌倉へと下向させた。ところが、北条義時は三寅が幼いことを利用して、野心を抱き、朝廷の威光を利用して自分に従わせようと考えた。したがって、北条義時の職務執行を停止し、すべてを天子のお心で決することとする。この決定に従わない者、反逆する計画を立てた者は間もなく命を落とすことになるだろう。なお、功のあった者には褒美を与える。承久三年五月十五日、按察使葉室光親奉)


 北条義時追討の院宣に加え、仲恭天皇の官宣旨を所持した密使として、歴史資料では「押松」と名の記されている密使を鎌倉に向けて出発させると同時に、日本全国に向けても発令した。鎌倉への密使は早急な密使であり、その他の地域に向けての院宣公布は通常の指令である。つまり、時間差が生じることを前提とした情報発信である。現在のように電波やネットを利用して遠隔地に向けて同時に、一瞬にして情報が伝えられる時代ならばともかく、この時代のように情報のスピードを時計ではなくカレンダーで測らなければならない時代は、こうした時間差を用いた情報発信を駆使することがある。その点でも後鳥羽上皇の情報発信のタイミングは完璧であったといえよう。

 ただし、鎌倉幕府という組織は公的な情報網を上回る情報路を有する組織であり、また、西園寺公経が前日の段階で既に使者を鎌倉に向けて出発させていることは忘れてはならない。いかに情報のやり取りに日数のかかる時代であろうと、一日のアドバンテージは大きなものがある。

 このことを後鳥羽上皇が知っていたのかどうかの確証はないが、おそらくは知っていたであろう。ただし、逆転可能であるという条件付きで。

 何しろ後鳥羽上皇は鎌倉幕府殲滅ではなく北条義時討伐を訴えているのである。ターゲットが鎌倉幕府ではなく北条義時一人であるという情報が伝わったならば、一日ないしは数日のタイムラグがあろうと、挽回できると考えたのであろう。

 さらに後鳥羽上皇は院宣発給と同時に平安京内外の武士達を後鳥羽院に招聘した。この招聘の中心となったのが藤原秀康である。承久記にも後鳥羽院の側の軍事面でのリーダーと描かれ、また、当時の人達からも後鳥羽院の武門におけるトップと見なされていた藤原秀康は、これまで北面武士や西面武士として京都で活躍してきた武士であり、鎌倉幕府の御家人ではない武士の中ではかなり有力な武士として名を馳せていた。また、院に長く仕えてきたことも手伝って、下野守、河内守、備前守、能登守、上総介といった国司を歴任し、鎌倉幕府と一線を画しながら武士から貴族へとステップアップすると同時に、国司を歴任してきたことも手伝ってかなりの富裕層へと上り詰めていた。

 ただし、この人物の素性は怪しいところがある。藤原秀郷の子孫を自称しているので藤原北家の一員でもある武士なはずなのだが、藤原秀康の父の存在は確認できても、祖父の存在は確認できない。祖父の名は残っているのだが、藤原氏の系図に該当する人物が存在しないのである。そのため尊卑分脈では、藤原氏ではない生まれの者が藤原氏の養子となって藤原姓を相続したとしている。

 後鳥羽上皇が武士としての藤原秀康を頼りにしていたことは間違いなく、五月一五日に武士を招聘するよう藤原秀康に命じたのも、これから始めようとしていることのキーパーソンの一人として藤原秀康を認識していたからであると言える。

 多くの武士は後鳥羽院から発せられた命令に従った。

 その中には京都駐在である鎌倉幕府の御家人の姿もあった。

 しかし、後鳥羽院の命令に従わなかった武士もいた。

 その中の一人が伊賀光季である。伊賀光季は二年前から京都守護であった。

 伊賀光季は、実の妹である伊賀方が北条義時の継室であるため、伊賀光季は北条義時と義兄弟ということになる。こうした個人的なつながりがあるために後鳥羽院に従わなかった可能性は否定できないが、伊賀光季のこの後の行動を考えた場合、彼もまた鎌倉武士の一人として後鳥羽院が何を求めているかを理解し、後鳥羽院の求めが成就した場合に何が起こるのかも理解し、そして、後鳥羽院の要求が鎌倉武士に何を求めているのかも理解した。ゆえに、後鳥羽院に逆らったと言えるのだ。

 伊賀光季は当初、自分の任務は京都の護衛であり、天皇や後鳥羽院からの直接の命令があったならば出動も考えるが、藤原秀康からの命令に従って職務を放棄することはできないとして拒否の姿勢を見せた。ここまでは法的に問題ない行動である。

 伊賀光季の出動拒否の連絡を受けた後鳥羽上皇は再び勅したものの、伊賀光季は二度目の指令についても拒否。この瞬間に伊賀光季は後鳥羽院の命令に背く国家反逆者となり、伊賀光季が住まいを構える京極高辻の宿所は襲撃を受けることとなった。それも、同じ鎌倉幕府の御家人である大内惟信や三浦胤義ら総勢八〇〇騎もの軍勢の襲撃を受けたのである。もともと伊賀光季のもとには京都守護としての武力が鎌倉幕府から与えられていたが、その軍勢は八五騎と、平時の治安維持であれば問題なくとも戦時の襲撃に耐えられる規模ではなかった。この段階でも絶望的な兵力差があるが、さらに問題であったのが、その八五騎の武士達の多くが後鳥羽上皇の命令に従うとして伊賀光季のもとを離れ、襲撃時はわずか三一騎しか残っていなかったことである。しかも三一騎という数字には、伊賀光季自身と、息子の伊賀光綱が含まれていた。伊賀光綱はこのとき数えで一四歳、満年齢で一三歳。現在の感覚でいくと先月中学に入学したばかりの中学一年生である。

 伊賀光季らは奮戦し、八〇〇騎もの京都方の軍勢のうち三五騎を倒したものの、それでも多勢に無勢の状況を覆すことはできず、伊賀光季は下人を伝令として鎌倉に向かわせて状況を報告させると同時に、屋敷に火を放ち、息子とともに自害した。なお、伊賀光季の派遣した伝令は伊賀光季の最期の様子を知っているが、公的にはまだ知らないこととされた。


 鎌倉武士の一人であり続けるために自害まで選んだ伊賀光季は、京都駐在の御家人たちの中ではむしろ例外であり、多くの武士は後鳥羽上皇の命令に従って軍勢を結集させていた。

 ただし、そこにいたのは必ずしも後鳥羽上皇の思惑に従う武士ばかりではなかった。彼らの多くは信念に基づいて鎌倉幕府に楯突くために後鳥羽上皇のもとに参上したのではなく、後鳥羽上皇の院宣が発せられ、さらに仲恭天皇の宣旨まで出ていることから、職務に従って軍勢を結集させたという認識であり、自分たちがこれから鎌倉幕府に楯突くことになると考えていなかった者も多かった。

 たしかに院宣のターゲットとなっているのは鎌倉幕府全体ではなく北条義時個人であり、これはあくまでも北条義時討伐のための軍勢結集であると考えることができていた。そして何より、京都における鎌倉幕府の指揮官ともいうべき二人の京都守護のうち、大江親弘は後鳥羽上皇の命令に従って後鳥羽上皇の元に馳せ参じている。これで、少なくとも京都守護のうちの一人が自分たちのトップとして後鳥羽上皇のもとに従った、すなわち、自分たちと鎌倉幕府との関係はなおも続いていると安心したのである。

 ところが、その安心を打ち砕くかのようなタイミングで京都在住の御家人達にショッキングなニュースが届いた。大江親弘と違ってあくまでも鎌倉幕府の一員たることを選び続けていた京都守護伊賀光季の最期である。伊賀光季が迎えた運命を知り、後鳥羽上皇のもとに集った御家人たちの中には動揺が広がった。

 大内惟信にしても、三浦胤義にしても、自分たちは官軍であるとして行動しており、伊賀光季が自害に追い込まれたのも官軍に抵抗したからであるということになっている。日本国の武人としてならば、大内惟信や三浦胤義の行動の方が正しいのだ。何しろこちらは朝廷のために軍勢を結集させたのであり、自分たち京都方は官軍なのである。だが、伊賀光季のように、あくまで鎌倉幕府の一員であり続けることに徹するのもまた、鎌倉幕府の御家人としてあるべき姿なのである。たとえ北条義時と義兄弟であったとしても、それは関係ない。

 武人として後鳥羽上皇の元に馳せ参じた者が大勢いるのは、そもそもここが京都だからであって、はたして鎌倉でも後鳥羽上皇の元に馳せ参じる武士はいるであろうかと彼らは考えた。あくまでも北条義時討伐が目的であり鎌倉幕府殲滅が目的ではないと考えるのは、かなり危険な希望的観測である。鎌倉では伊賀光季のように官軍に(やいば)を向ける武士だって珍しくないであろうし、そうした武士が鎌倉に集結して決起したならば、どう足掻いても今の京都の軍勢でどうにかできる話ではなくなる。伊賀光季が迎えた最期の情景を知ったことで、鎌倉幕府の御家人相手に自分達は官軍であり鎌倉方は賊軍であると訴えても意味がないことが判明してしまったのだ。

 伊賀光季が多勢に無勢で敗れたように、今後は自分たち京都方が兵力の少なさから兵力差で敗れる未来が見えてしまった。かといって、ここで鎌倉幕府に対して(やいば)を向けてしまった以上、鎌倉幕府は自分達を殲滅させに来るであろう。これまでの鎌倉幕府の御家人同士の粛清がどうであったかを考えたとき、それはかなりの可能性で死を意味する。

 既に動き出してしまった以上、どうやって勝つか、ではなく、どうやって抵抗するかという問題になってしまったのだ。

 さらに、彼らの上に立って京都方全体を指揮するのが鎌倉幕府の御家人ではない藤原秀康である。これまでは御家人として鎌倉幕府の一員として活動してきたのが、一瞬にして鎌倉幕府と決別することとなってしまったのだ。


 承久三(一二二一)年五月一四日から五月一五日にかけて、京都から鎌倉へと三名の使者が出発している。厳密には四名であるが、うち一名は私的なやりとりであるため、京都の情報を鎌倉に伝えるという意味では使者であるものの公的な人員としてカウントされるか否かと問うならば否という回答になり、京都から正式に派遣された使者としては三名とカウントされる。

 さて、この三名の使者は以下の通りである。

 一人目は五月一四日に西園寺公経が弓場段に幽閉される直前に出発させた使者。

 二人目は五月一五日に発給された後鳥羽上皇の院宣と、仲恭天皇の名の宣旨を伝える使者。この密使は「押松」という名が記録に残っている。また、押松は一人で行動していたのではなく、押松の他にもう一人の密使がいて、この二人で東海道を西から東へと行動していたことも記録に残っている。この、押松と同行した使者が前述の私的なやりとりとしての使者である。

 三人目は同じく五月一五日に伊賀光季が自害する前に鎌倉へと送り出した使者。

 吾妻鏡に従うと、京都を出発した三名の使者が鎌倉に到着したのはいずれも五月一九日のこととなっている。ただし、吾妻鏡では使者の京都出発を三名とも五月一五日としているので、ここに記録の齟齬が生じている。

 単なる日付相違と考えてもよいが、ここは意図的な情報操作を疑うべきであろう。

 あまりにもタイミングが良すぎる上に、鎌倉に到着した順番も鎌倉幕府にとって都合良すぎるのだ。

 吾妻鏡に従うと、最初に到着したのは伊賀光季が送り出した使者であり、次いで西園寺公経が送り出した使者、最後に到着したのが後鳥羽院の院宣を伝える使者の押松である。

 ただ、これでは順番がおかしい。普通に考えれば出発した順番に鎌倉に到着していなければならない。それなのに最初に到着したのは最後に京都を出発した伊賀光季の使者である。

 この時代の最速の情報伝達方法は、馬の乗り継ぎである。乗った馬の個体差を考えれば差が縮まったり開いたりすることはあるだろう。だが、いかに鎌倉幕府の情報路が既存の情報網より優れていようと、最後に出発した使者が一日のタイムラグをひっくり返して鎌倉に到着するほどとは思えない。もっと言えば、後鳥羽上皇の送り出した使者はともかく、西園寺公経が送り出した使者は鎌倉幕府の情報路を利用できる。

 そこでこのように考えることができる。

 吾妻鏡では二番目に到着したことになっている西園寺公経が送り出した使者は五月一九日より前に鎌倉へ到着しており、鎌倉幕府はまず西園寺公経の送り出した使者からの第一報を受けて少人数での協議を重ねていた。そこに第二報である伊賀光季からの使者が到着し、この使者からの報告を第一報とし、緊急事態発生のために御家人達を集結させた上で西園寺公経が送り出した使者が到着したという体裁にした。西園寺公経からの報告内容によると、後鳥羽上皇を中心に朝廷が軍勢を結集させ北条義時を討伐することとなったという内容になる。西園寺公経と西園寺実氏の親子が幽閉されてはいるものの、この段階で鎌倉幕府の側に死傷者は出ていない。また、二人の京都守護のうち、一人は鎌倉幕府を捨てて後鳥羽院の側を選び、もう一人は賊軍として討ち取られたことも、この段階ではまだ伝わっていない。つまり、異常事態ではあるものの反対派の貴族を幽閉しただけで命にかかわる話には発展していない。

 ここまでであれば、鎌倉幕府としては何らかの対処が必要となるのは誰もが認めるところである。そして、鎌倉幕府の対処の選択肢の中には北条義時失脚も含まれる。

 無論、北条義時がそれを許容するとは思えない。

 いや、北条義時だけでなく鎌倉幕府の首脳部の誰もが北条義時失脚という妥協案を受け入れるなどできないという意見の一致を示している。後鳥羽上皇が狙っているのは北条義時の失脚ではなく鎌倉幕府そのものであり、源平合戦以降の長きに亘って鎌倉方の武士たちが築き上げてきた成果の全てを、後鳥羽上皇は白紙撤回するよう求めているのである。その中には自分達が血を流して築き上げてきた地位の向上の白紙撤回も含まれている。

 とは言え相手は官軍だ。朝廷の正式な指令に背くことは自分達が賊軍となることを意味する。日本国の歴史を振り返ったとき、賊軍となって命を長らえた者などいないし、命を賭して官軍と戦うことで自らが築き上げた組織を永続させることに成功した者もいない。賊軍となったときに待っている運命はただひとつ、破滅しかないのだ。それも、本人の身の破滅だけでは済まず、組織全体の破滅である。ここで後鳥羽院に逆らって全てが消え去るぐらいなら、北条義時失脚を引き換えに自己と組織の永続を考えても不合理な選択肢ではなくなる。

 だが、伊賀光季からの知らせが来たなら話は別だ。この人は自らの運命を鎌倉幕府に捧げ、息子を道連れにして自ら命を捨てる決心をしたのだ。北条義時と義兄弟であることを差し引いても、伊賀光季が迎えた最期の情景は鎌倉方の面々を決断させるに十分であった。なお、既に記したように伊賀光季が伝令を派遣したのは自らの死のタイミングであり、伝令は当然ながら伊賀光季の最期の様子を知っている。だが、その様子は知らないこととされた。伊賀光季が伝令を鎌倉に派遣した時点で、伊賀光季はまだ京都方に対して奮闘中であり、敗色濃厚ではあってもまだ決まったわけではないということにされたのである。それでも、鎌倉幕府のために戦っている、それも元服を迎えて間もない息子とともに戦っているという知らせのもたらすインパクトは大きい。この知らせを受けてどうして北条義時失脚という妥協案で納得できようか。合理的な判断ではないと認めようと、自分達のために命を捨てる覚悟で戦っている仲間がいる以上、仲間のために血を流す覚悟を見せなければ、それは武士ではない。

 ここで承久三(一二二一)年五月一九日の公的な時間軸を記すと以下の通りとなる。

 時刻は不明であるが、まず伊賀光季からの知らせが鎌倉に到着した。ここではじめて、後鳥羽上皇が軍を集めていること、そのターゲットが鎌倉幕府であること、二人の京都守護のうち大江親広は鎌倉幕府を見限って後鳥羽院の側を選んだこと、もう一人の京都守護である伊賀光季が鎌倉幕府を選んだために京都方の襲撃を受けていることが公表された。既に記している通り、伊賀光季はこのあとで屋敷に火を放ち息子らと共に自害しているが、その知らせはまだ鎌倉に届いていないということになっている。

 それでも、京都での官軍結成の知らせ、そして、伊賀光季の奮闘の知らせはただちに鎌倉中に伝わり、御家人たちは我先に大倉御所へと集結した。

 未刻、現在の時制にして午後二時頃、第二報が鎌倉に到着した、ということにされた。

 詰めかけた御家人たちの前に進み出た使者は、西園寺公経と西園寺実氏の親子が幽閉されたこと、そして、伊賀光季が京都方の前に敗れ去り、息子を道連れにして命を落としたことを鎌倉武士達に伝えた。これで御家人たちは怒りと動揺の双方の感情をみせた。仲間の死を悲しむ姿勢と、自分達が賊軍となりかねないという動揺の二つの感情である。本来は西園寺公経らの幽閉を伝える使者が、伊賀光季の奮闘と最期を伝える使者とされたのだ。

 このタイミングで三浦義村が駆けつけた。三浦義村のもとに弟から密使がやって来たというのである。密使の書状には、勅命に従い北条義時を誅殺すること、勲功の恩賞は望みのままであるという内容が記されていた。先に、後鳥羽院からの密使である押松が一人で行動していたわけではないことを記したが、押松と行動を共にしていた密使とは、京都の三浦胤義から鎌倉の三浦義村のもとに書状を届ける密使であったのだ。

 そしてここで、後鳥羽院から鎌倉に向けて密使が派遣されたことが鎌倉幕府に伝わった。密使の名である押松の記録の初出はこのタイミングである。なお、この時点での密使押松の所在は行方不明となっている。

 鎌倉幕府首脳部はただちに、宣旨が仲恭天皇の名で、院宣が後鳥羽上皇の名で発せられたこと、その内容は未確認であるものの鎌倉幕府討伐を命じたものである可能性が高いこと、宣旨と院宣は公表されたものではなく秘密裏に鎌倉へと届けられたものであること、密使として押松という名の者が京都から鎌倉へと派遣されたこと、押松の所在が不明であることを告げ、押松の捜索を命令したことで、鎌倉中が騒然となった。記録には「(やつ)七郷に騒がぬ所はなかりけり」とある。

 押松は間も無く葛西谷(かさいがやつ)の山里殿辺に潜んでいたところを見つけられ、ここで後鳥羽上皇の院宣と、仲恭天皇の名の宣旨を伝える使者が、送り出した側が想定していなかった形で鎌倉に届くこととなった。なお、後鳥羽院からの密使は鎌倉幕府の御家人達に向けて派遣された密使であり、宛先として八名の名が記されていた。武田信光、小笠原長清、小山朝政、宇都宮頼綱、長沼宗政、足利義氏、北条時房、三浦義村の八名である。宛先となっている御家人の全員が密使とまだ接しておらず、密使の伝える内容と接するのはこのときが最初であることも証明された。何しろ全員が密使の到着する前に御所に詰めかけていたのだ。これでは密使と接する時間など存在しない。

 押松は正式な情報伝達のための使者であるはずで、本来であれば朝廷からの使者として敬意をもって扱われるはず使者であるが、吾妻鏡によると隠れていたところを捕らえられて連れてこられたとある。

 なお、この使者の伝える知らせは公的な知らせであり、後鳥羽上皇の院宣だけでなく、仲恭天皇の名で発給された宣旨も存在するのだからぞんざいに扱っていいわけはないのであるが、押松に対する扱いは明らかに朝廷からの正式な使者を(もてな)す扱いではない。なにしろ密使なのだ。公的な知らせを密使として届けようとしたというまさにそのことが鎌倉幕府の御家人たちにさらなる動揺を生み出す知らせとなり、ぞんざいな扱いとなる理由となったのだ。

 押松の伝えた知らせの中に、使者が京都を出発した時点での京都方、すなわち官軍の一覧があったことも大きかった。一覧の中には数多くの御家人の名があり、大倉御所に詰めかけた御家人の中には、自分の親が、兄弟が、息子が京都方の一員として名を連ねている者もいた。これでどうして動揺を隠さずにいられようか。

 この動揺を鎮静化させたのが三浦義村である。三浦義村は弟を捨てて鎌倉方の一員として戦うことを宣言したのである。これで多くの御家人は決意を定めた。

 さらに御家人たちの決意を強めたのが北条政子である。ドラマなどでは御家人たちの前に歩み出て演説をしたとなっているが、実際には御簾の向こうのままにいた。

 日本という国は演説がさほど着目される国ではない。ただ長々と発せられる騒音を聞かされ続ける退屈な時間というのが日本国における演説だ。

 だが、例外はある。

 その例外のうちの一つがこのときの北条政子の演説であり、以下に現代語訳を記す。

 「みな、心を一つして聞きなさい。これが最後の言葉です。亡き源頼朝が朝敵を成敗し、鎌倉に幕府を創ってからこれまで、朝廷より与えられた官職や位階、報奨としての領地といった恩は山よりも高く海よりも深いものがあります。感謝の気持ちもまた、浅いものではありません。しかし、いま我々は、我々の裏切り者の誤った訴えのために、道理の通らぬ命令を朝廷から出されました。武士としての名を惜しむ者は、藤原秀康や三浦胤義を討ち取り、源氏三代将軍の残した鎌倉を守りなさい。ただし、後鳥羽院に付き従う者がいるなら宣言しなさい」

 北条政子のこの言葉を受けて、鎌倉幕府の御家人たちの意思は固まった。

 鎌倉幕府は押松に対し、宣旨にも院宣にも従わないことを告げる返信を持たせ、京都へと送り返した。

 賊軍と呼ばれようと後鳥羽院と戦うと決定したのである。

 ただし、ここで一つ問題が起こった。

 どこで、どうやって戦うのか?


 後鳥羽院は北条義時討伐を命令し、そのための軍勢を集めたが、その軍勢がいるのは京都である。

 一方、北条義時がいるのは鎌倉であり、賊軍と呼ばれようと官軍たる京都方と戦うことを決めた武士たちが結集しているのも鎌倉である。

 北条義時討伐を宣言しているのだから、普通に考えれば京都方が鎌倉までやってきて北条義時を討とうとする。ゆえに、鎌倉幕府としては攻めてくる京都方を鎌倉で待ち構えるのが戦闘の構図となるところだ。

 しかし、その構図を否定した者がいた。大江広元である。

 鎌倉に至る途中を封鎖するのは、一時的には効果を発揮しても長期戦には向かない。それよりもこちらから京都に向かって軍を進めるべきとしたのである。

 大江広元の意見に賛成したのが北条政子である。北条政子もまた、京都まで出向いて京都方を打ち破るべきと主張したのだ。

 一方、この意見に反対したのは実際に戦闘の矢面に立つこととなる武士たちである。彼らの多くは鎌倉に待ち構えての持久戦を主張した。鎌倉そのものが天然の要塞であるだけでなく、鎌倉の西側を封鎖して陣を構えれば京都方と渡り合えるし、足柄峠や箱根山を封鎖すれば鎌倉と距離のある場所で優位に戦闘を進めることが可能だ。また、京都方は京都から離れれば離れるほど補給路が伸びるために前線の兵たちが困窮するのに対し、鎌倉は西側のみを封鎖する代わりに東と北を開放しておけば、関東や東北からの補給を問題なく受けられる。こうなれば優位になるのは鎌倉だ。

 実際に戦場に立つ者が時間は掛かろうと戦いを優位に進める持久戦を主張するのに対し、戦わずにいる者が打って出ることを主張するのは世の常であり、多くは戦争の素人が戦争のプロに対して無茶を命じるという構図になるものであるが、このときは、戦争の素人が戦争のプロに正しい判断を下すという、歴史的に珍しい構図が成立した。

 忘れてはならないのは、大江広元も、北条政子も、武人として戦場に立った経験はなくても、政治家として庶民生活を守ってきた経験は豊富だということである。御家人たちの主張した持久戦は民間人の負担が大きいのだ。特に補給路に当たってしまった地域や前線に近い地域では、兵糧確保のための物資の供出や兵員補充のための人員の参加が命じられる。物資供出や人員の参加といえば聞こえはいいが、要は略奪と拉致だ。御家人たちの主張する持久性が実現した場合、生きていくために必要な食糧などを朝廷が派遣した京都方の兵士たちによって略奪されるだけでなく、一家の働き手が兵士として拉致され、働き出を失った家庭は生活を破壊され、耕す者の減った農地は荒れ果てて凶作となり、飢えに苦しむ者が続出するという悲劇が全国各所で展開されることとなる。これは許される話ではない。略奪や拉致や起こらないようにするには、それらが起こる前に事態を解決させればいい。そのためには一刻も早く戦乱を終結させる、それも勝利で終結させることが重要なのだ。

 このときは北条政子の意見が通り、遠江、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、信濃、上野、下野、陸奥、出羽の各国に対して軍勢派遣要請の書状を発給すると同時に、北条時房、北条泰時、北条朝時の三名を指揮官とする軍勢を派遣することを決めた。北条時房と北条泰時の両名は京都方を迎え撃つべく東海道を東から西へ進み、北条朝時は別動隊として北陸経由で京都へと向かうこととなったのである。

 ただし、この時点ではまだ出発していない。


 承久三(一二二一)年五月二一日、一人の貴族が鎌倉までやってきた。

 一条頼氏である。

 一条頼氏の父である一条高能は源頼朝の甥であり、一条頼氏の妻は北条時房の娘である。京都における鎌倉幕府の代弁者の一人でもある有力貴族の一人であったことから後鳥羽上皇の院宣が発せられて時間を置かずに鎌倉幕府の協力者とみなされて捕縛対象となっている。なお、叔父である一条信能と一条尊長の両名も鎌倉幕府の協力者とみなされていたが、この二人は早々に鎌倉方と袂を分かち、後鳥羽院の側についている。

 一条頼氏が鎌倉までやってきたことは鎌倉幕府の面々に二つの感情を呼び起こした。

 一つはこの情勢下で鎌倉を頼ってくれる貴族がいること。

 もう一つは、武士ではなく、ましてや武人としての訓練を積んでいるわけでもない貴族が、この短期間で京都から鎌倉までやってきたことである。

 貴族の中には身体の鍛錬を趣味としてきた者も多く、現代人が想像するよりアウトドアを愉しんでいた。その中でも後鳥羽上皇の鍛錬は当時の朝廷の中で群を抜いており、後鳥羽上皇の周囲に侍る一員になるには和歌と武芸鍛錬の双方で後鳥羽上皇に認められなければならなかった。一条頼氏は建保五(一二一七)年に二〇歳で侍従に任じられたことから当時の順徳天皇に仕える下級貴族の一員となることはできたものの、それはあくまで下級貴族のステップアップの一環であり、天皇の側近となったわけでもなければ、ましてや後鳥羽上皇の周囲の一員となったわけでもない。ちなみに順徳天皇の退位に伴って侍従職を解かれていることから、この時点では職務に煩わされることなく、ある程度自由に行動できたと考えられる。

 一条頼氏自身が鎌倉までやってくることの動機は問題なかった。鎌倉で把握できる京都の最新の情勢を伝えてくれたことはありがたい話でもあった。

 問題なのは、武芸鍛錬の評判を聞かない一条頼氏ですら京都から鎌倉に到着したこと、すなわち、京都が軍勢を派遣したならば、鎌倉方の面々が想像するよりも短時間で鎌倉まで到着することである。

 大江広元は一条頼氏の到着を知り、このままでは鎌倉だけでなく関東全域で動揺が広がってしまい、軍勢の結集は時間が経てば経つほど困難になると主張し、三善康信は今日になってもまだ軍勢が出発していないことは怠慢であるとした上で、指揮官だけでも早々に出発すべきであると主張した。なお、このときの三善康信は八一歳、現在でも十分に高齢者だが、この時代では例外的な高齢者であり、また、病に苦しむ身体であった。その三善康信が病を押して立ち上がり、自らの言葉を発したことで、鎌倉幕府の御家人達の意見は固まった。

 承久三(一二二一)年五月二二日早朝、小雨が降る中をわずか一八騎の軍勢が出発した。総大将は北条泰時。総大将に従うのは、北条泰時の息子の北条時氏、北条泰時の弟で北条義時の息子の北条有時と北条実義の兄弟のほか、尾藤景綱、平山弥三郎、綿貫次郎三郎、関実忠、平盛綱、南条時員、安東藤内左衛門尉、伊具盛重、武村次郎兵衛尉、佐久間家盛、葛山小次郎、勅使河原則直、横溝資重、安藤左近将監、横川中務丞、内島三郎といった北条家とその家臣達である。なお、ここで北条泰時がいったん引き返し、相手の軍勢の中に後鳥羽上皇をはじめとする皇族の方々がいたらどのようにすべきかと父の北条義時に質問し、北条義時からは敵の陣営の中に後鳥羽上皇がいたならばただちに武装解除をして恭順せよという回答があったというエピソードがあるが、このエピソードは南北朝時代に成立した「増鏡」になって登場するエピソードであり、当時の記録にこの話は存在しない。

 同日、少し遅れて北条時房、足利義氏、三浦義村、三浦泰村らが出発し北条泰時のあとを追いかけ東海道を西へと向かっていった。

 また、北条朝時は「北陸道の大将軍」として、北条泰時らとは別方面から京都に向かって軍を進めた。

 鎌倉に残るは北条義時、大江広元、三善康信、中原季時、二階堂行村、葛西清重、加藤景廉、小山朝政、宇都宮頼綱、八田知家、二階堂行盛、加藤景廉、二階堂基行、三善康清、大井実春、中条家長らである。その多くが高齢であったり、また、既に出家した身であることを理由とした鎌倉待機であり、吾妻鏡によると鎌倉待機組の面々は戦勝祈願に専念したという。


 吾妻鏡によると、五月二二日から五月二五日の早朝にかけて、東国武士の多くが京都に向けて軍勢を進め、また、鎌倉方の軍勢に参加したことを伝える使者を鎌倉へと送り届けたとある。数字の誇張は吾妻鏡の常道であるから信用できないところもあるが、それでも吾妻鏡に従うと、北条泰時以下、北条時房、北条時氏、足利義氏、三浦義村、千葉胤綱ら東海道軍が十万余騎、武田信光、小笠原長清、小山朝政、結城朝光ら東山道軍が五万余騎、北条朝時、結城朝広、佐々木信実ら北陸道軍が四万余騎の総勢十九万騎であったという。

 なお、この時点では北条泰時が武蔵守、北条時房が相模守、北条朝時は式部丞であり、各々の軍事行動は律令に基づく正当な軍事行動でもあった。相手が官軍であるという一点を除いては。

 彼らは軍を進めながら現地の武士達を吸収して軍勢を作り上げ、京都に向かっていった。軍勢を集めてから出発するのではない。出発してから軍勢を集めるのである。数の誇張がある可能性が高いが、それでもこの時代においては、源頼朝による奥州遠征に匹敵、あるいはそのときを越える大規模な軍勢である、それだけの軍勢をわずか三日で出撃させることができたのは、この時代の東国武士達の間に時流に取り残されることの恐怖があったからと言えよう。出撃しようかどうか悩んでいるときに周囲の武士達が出撃しているのだから、自分もここで出撃しなければ取り残されてしまう。宣旨や院宣に従って北条義時を討ったとしても、ここで鎌倉幕府に逆らうということは、一〇万を軽く超える軍勢を敵に回すことを意味する。そうなったときに勝ち残れる者など誰もいない。それならばいっそのこと、官軍たる京都方を敵に回そうと、賊軍と呼ばれようと、鎌倉方の一員として軍勢に参加する方が大きなメリットとなる。おまけに、鎌倉幕府の一員として出撃して軍功を残せば褒賞が期待できるのだ。

 結果として大軍となったが、通常であれば大軍となればなるほど行軍に支障が生じるものであり、大軍となったことを手放しで喜べるというのは能天気な話となる。北条泰時がいかに優れた指揮官であったとしても、大軍を無事に行軍させるには、指揮官の能力だけではないプラスアルファが必要となるのだ。

 そのプラスアルファがこのときの鎌倉方に働いた。天候が鎌倉方の味方をしたのである。現在の静岡県には太平洋に流れ込む河川が複数あるが、これらの河川は現在でこそ堅牢な橋が架かっているが、かつては橋を架けても増水すると流されてしまうこともあって、橋のなかったまま放置されてきた期間が長いという共通点を持っている。特に大井川は江戸時代に意図的に橋を架けさせなかったことで名を残しているが、意図的でないにしろ天竜川や富士川もまた橋のない河川であることが多かった。また、橋が架かっていても河川の増水で橋が流されたり、橋があっても通行不可になったりすることも珍しくなく、馬に乗った使者が渡河するなら橋がなくとも小舟でどうにかなっても、大軍の渡河となると問題となってしまうことはよくあった。だが、承久三(一二二一)年五月は気候の安定もあって増水は起こらず、大軍が問題なく駿河国や遠江国を行軍できていた。記録を読むと、北条泰時らは橋を渡らず河川を歩いて横切ったとある。

 東海道を東から西へと向かう鎌倉方の行軍はあまりにも順調に進んだ。それこそ順調すぎるために後世の手本とすることができないレベルで。


 後鳥羽上皇の発した院宣を改めて読み返すと、院宣で北条義時討伐を宣言し、また、実際に武士を集めておきながら、院宣の文章の中に軍勢出動の文言がどこにもなく、また、北条義時を討伐する軍勢の指揮官を誰とするかの記載もない。つまり、軍勢が勝手に結集され、勝手に北条義時が討伐されることを考えていたと見られている。

 それはあまりにもムシの良すぎる話である。いかに楽観的な考えであろうと、また、宣旨や院宣の効力が絶大なものであるとの自負があろうと、後鳥羽上皇は源平合戦の流れを知っているはずである。いかに源平合戦期は幼児であったといっても、平家がどのように朝廷を利用し、鎌倉方がいかに平家に立ち向かったかを知っていなければならない。その上で、平家が源平合戦期に安徳天皇を利用して宣旨を発給していたこと、その宣旨の効力を以てしても平家は敗れ去ったことは知っていなければならない。それも、平家の圧力で発給させた宣旨とは、源平合戦勃発直後、すなわち、平家の勢力が日本最大の軍事勢力であった治承四(一一八〇)年に発給させた宣旨なのだ。その宣旨で平家は人員をかき集めながら、富士川の戦いで総崩れとなり敗れ去ったのである。

 京都の有力者が鎌倉にいる集団を討伐しようとしているという構図を考えたとき、治承四(一一八〇)年の平家と、承久三(一二二一)年の後鳥羽院は似ている。ただし、用意できる軍勢には大きな違いがある。平家のほうが圧倒的に優勢であり、後鳥羽院は院の権勢を以てしても、さらには朝廷権力をフル活用してもなお、源平合戦時に平家が動員できた軍勢には及ばないのだ。

 このことは京都で後鳥羽院のもとに集った武士達が何より強く理解していた。京都で一千騎もの軍勢を集めれば大規模な軍勢だが、それでも鎌倉方が総力を結集させたならば足元にも及ばない程度の数字になる。また、京都から鎌倉は遠すぎる。京都で軍勢を結集させて京都から鎌倉を討伐させる軍勢を派遣するのは非現実的であり、実際に後鳥羽院はこのとき、集めた軍勢を鎌倉討伐ではなく京都護衛のために用いている。

 その上で後鳥羽上皇が狙ったのは、第二軍の結成である。具体的には、最初に集めた一千騎の軍勢を京都の護衛に残して第一軍とし、北条義時討伐の命令に従う武士達をさらに京都に集めて第二軍を結成し、新たに組織した第二軍を鎌倉へと派遣させるという構想である。第二軍の派遣前に、あるいは第二軍が鎌倉側とぶつかる前に鎌倉の中で北条義時が討伐されればそれでよし、討伐されなくても第二軍と鎌倉方とを向かい合わせ、戦場で勝敗をつければそれでよしという姿勢である。北条義時を討伐した武士に十分な褒賞を与えると宣言しており、武士の名誉欲を刺激したとも言えよう。

 その上で、宣旨と院宣という二段構えの命令を五畿七道に亘って布告している。それも、宣旨は日本全国を対象とした命令文である反面、どうしても情報通達に時間を要する。一方、院宣は北条義時討伐を成し遂げた者に褒賞を与えるとした書状であり、そこまで強力な拘束力は有さない。二通の布告を受け取る側に立つと、先に後鳥羽院からの院宣が届き、後になって仲恭天皇の名で発せられた宣旨が届くこととなる。つまり、先に要望が来て、次に命令が来るという図式だ。

 後鳥羽院からの指令は北条義時討伐について二段構えになっており、それは政治面でも軍事面でも非合理的で都合良いものと断じるのは難しい。むしろ、計画的で合理的なものであったとも言えるのである。

 ただし、机上の計算であるという問題からは離脱できない。


 後鳥羽院の机上の計算は早々に崩れた。

 承久三(一二二一)年五月二六日、美濃国に派遣していた藤原秀澄から、関東の武士が京都方と対決するために東海道を東から西へ向かっているとの報告が届いた。ただし、この時点ではあくまでも軍勢が向かっているとの報告のみであり、軍勢がどこにいるのか、その軍勢はどれほどの規模であるか、誰が指揮を執っているのかの情報は不明である。一縷の望みとして、後鳥羽院からの院宣が効果を発揮して北条義時の討伐に成功したものの、ごく一部の残党が破れかぶれになって小規模な軍勢が東から西へ向かっているという見方もあった。

 その一縷の望みは三日後の五月二九日に潰えた。

 北条泰時と北条時房の率いる大軍が京都に向けて押し寄せてきているとの急報が届いたのである。

 これで全面対決は免れぬものとなり、京都では動揺が広まった。

 さらに京都の動揺を強めたのが、鎌倉から送り返されてきた密使押松である。押松の伝える鎌倉幕府からの返信は、後鳥羽院の院宣のみならず、仲恭天皇の名の宣旨ですら拒否する、すなわち、賊軍となってでも朝廷と戦うことを伝える内容であったのだ。しかも、承久記によるとかなり挑発的な内容であったという。「東山道、東海道、北陸道より十九万騎の若き東国武士達を上洛させますので、西国武士をお召しになって、合戦をさせて、御簾の隙間より御覧になってください」というのだから、後鳥羽上皇としては、怒りを隠しようがなかったものの、十九万という軍勢に(おそ)(おのの)き、藤原秀康に急いで軍勢を揃えて鎌倉方と戦うよう命じるしかできなかった。このままいくと、平家政権や木曾義仲のときのような惨状を迎えてしまうと考えたのだ。

 また、この五月二九日という日は鎌倉を出発した軍勢がはじめて京都方と激突した日でもあった。この日、北陸道軍が越後国加治庄、現在の新潟県新発田市の願文山に立て籠もっていた酒匂家賢の軍勢を襲撃して願文山を制圧したのである。後鳥羽上皇の側近の一人であり、武芸をたしなむ貴族の一人であった藤原信成は、家臣の酒匂家賢に命じて北陸道を進む鎌倉方の軍勢を阻もうとしていたのであるが、酒匂家賢の用意できた軍勢は本人を含めてわずかに六〇騎。用意できる軍勢の差は北陸道でも既に如実に示されていた。

 軍勢を食い止めるのではなく、軍勢を結集させながら上洛を目指しているという鎌倉方の軍勢構成を活かした陰謀も計画した。結集しつつある軍勢の中に京都方の武士を混ぜて軍勢を翻弄させ、統率を乱す、あるいは軍勢そのものを鎌倉方から京都方へと寝返りさせるといった計画も立てて実行した。また、一度は鎌倉方の軍勢に加わりながらも、官軍たる京都方に行こうと考える武士を見つけ出して京都方に引き入れようとすることも見られた。五月三〇日、東海道軍の北条時房の軍勢が浜名湖のあたりに着いた頃、北条時房の家臣の一人である内田四郎が怪しい十数名の武士を見つけ出した。この十数名は夜闇に乗じて意図的に北条時房の軍勢の先頭に立ったため、怪しさを感じた内田四郎がこの軍勢に問いただしたところ、筑井高重らが京都側から送り込まれたスパイであり、うまくいけば軍勢全体を京都方に、だめでも自分達だけは京都方に戻るつもりであったことが判明した。同調者を探して陰謀を遂行しようとしていたようで、彼らは内田四郎もそうした同調者に加えようとしていたのであるが、内田四郎はその陰謀を許さないとして筑井高重ら十数名の武士を殺害した。

 六月三日、陰謀が失敗しただけでなく、鎌倉方の軍勢が無事に遠江国府に到着したとの報告が届いたことで、いよいよ後鳥羽院の側も事態は緊急を要していることを察知した。それも、北陸道、東山道、そして東海道の三つのルートから軍勢が京都に向かっている以上、迎え打つ側としても軍勢を三つに分けた上で防御陣営を構築しなければならないのである。なお、この段階ではまだ越後国で酒匂家賢が敗れ去ったという知らせは京都に届いていない。

 北陸道で京都方の奮闘が期待できるし、期待できなくても距離を考えれば、北陸道軍と残る二つの軍勢というように、軍勢を三分割ではなく二分割でどうにかなる可能性がある。本来の東海道は尾張国の西隣は伊勢国であり、美濃国は通らない。ただし、それはそういうルールがあるというだけで、戦時においてそのようなルールを守る必要はない。尾張国から伊勢国を経て伊賀国、大和国を経て京都に向かう本来の東海道のルートは大軍の移動に適しているとはいえない。大軍を移動させるならば、時間も距離も要するだけでなく道路整備の観点からも、大軍の移動に困難なルートではなく、時間も距離も道路整備も優れているルート、すなわち、尾張国から美濃国を経て近江国へと出る短絡路を通るのは戦時において一般的であるとさえいえた。これを現在で考えるのならば、名古屋から京都に向かうのに近鉄ではなく東海道新幹線を、一般道ではなく名神高速道路を利用すると考えると近い。

 多くの人が考える短絡路であるために、美濃国と近江国との間を封鎖する仕組みは既に存在している。そもそもが天然の楼門である上に、軍勢配置を駆使することで、近江国と美濃国との間を封鎖するのは軍勢規模の劣る京都方でも実行可能だ。これは壬申の乱でも選ばれた戦術であり、のちに関ヶ原の戦いの舞台となったことからも推測できよう。

 ところがここで、京都方は戦術ミスをする。

 北陸道に向けて、宮崎定範、糟谷有久、仁科盛朝、大江能範らが率いる軍勢を派遣する。ここまではいい。三つの軍勢に分かれた鎌倉方のうちの一つは北陸道を移動していることが判明しているのであるから、北陸道で鎌倉方を迎え撃つのは戦術的にもあっている。

 問題はここから先、承久三(一二二一)年六月三日の公卿僉議で人員配置に失敗したのだ。

 東山道と東海道を進む二つの軍勢が美濃国で合流して一つの軍勢となり、一斉に近江国に進んでくることは想像できることから、戦力を近江国と美濃国のあたりに集結させるところまでは納得できても、戦力を分散させてしまったのだ。

 吾妻鏡や承久記にはこのときの京都方の軍勢配置が記されている。

 阿井渡に、蜂屋入道。

 大井戸渡に、大内惟信、五条有長、槽屋久季。

 鵜沼渡に、斎藤親頼、神地頼経。

 板橋に、荻野次郎左衛門、山田重継。

 火御子に、内海、御料、寺本。

 池瀬に、朝日頼清、関左衛門尉、土岐判官代国衡、開田重知、懸橋、上田。

 摩免戸に、藤原秀康、佐々木広綱、小野盛綱、三浦胤義。ここが京都方の軍勢の中心となると同時に、ここまでの軍勢が東山道軍を迎え撃つこととなる。なぜなら、東山道軍と東海道軍とが合流するためには木曽川を渡らねばならず、木曽川を渡る場所となると限られるからである。木曽川を大軍が渡河するとしたら、最短距離ではなくなるものの、安全面を考えれば摩免戸が最善ということになる。

 ただしそれは、東山道軍が木曽川を渡河して東海道軍に合流するという前提の話であり、木曽川の左岸を東山道軍が、木曽川の右岸を東海道軍が進み、東海道軍が木曽川を渡河して東山道軍に合流することも考えられる。その場合の渡河地点は摩免戸より下流ということになり、必然的に京都方の陣容配置も摩免戸より下流で東海道軍が木曽川を渡河した場合を考えての陣容配置となる。

 食渡に、山田左衛門尉、臼井太郎入道、惟宗孝親、下条、加藤判官。

 上瀬に、滋原左衛間、渡辺翔。

 墨俣に、藤原秀澄、山田重忠。

 市脇に、加藤光員。

挿絵(By みてみん)

 後鳥羽院のもとで無理して集めた軍勢の総数は、史料によると一万九三二六騎と、鎌倉方のおよそ十分の一である。数字を大袈裟に書くことの多い吾妻鏡を信じるからそれだけの軍勢規模の差になり、実際にはもっと差が小さかったと推測できるが、それでも京都方の劣勢は否定できない。

 これだけでも問題であるのに、劣勢である京都方が軍勢を分散させてしまっている。これでは各個撃破してくれと頼み込んでいるようなものだ。

 なお、兵力差については後鳥羽院も理解しており、より多くの軍勢を集めるべく、かなり無茶な指令を発している。京都在住の武士だけでなく京都近隣の武士や、貴族に仕える武士、さらには寺社に対して僧兵の供出を命令したのがそれである。ただし、後鳥羽院からの命令に対する回答は後鳥羽上皇を納得させるものではなかった。参陣拒否が相次ぎ、命令に従って参陣したはいいものの明らかにやる気がなく、気づいたら軍勢を早々に引き上げさせているケースすら頻発した。

 さらに京都方の武士の意欲をそぐ事実が判明した。

 後鳥羽上皇は京都方の一員として戦う武士に対して報償を示すとしたが、その報償というのが院庁への参上と上奏の許可なのである。位階や官職を用意するわけでも、ましてや土地を用意するわけでもなく、既にその許可を得ている者にとっては意味が無く、許可をまだ得ていない者のうち京都とその周辺に住む武士にとっては願っていた報償があまりにも軽くなってしまい、そうでない武士にとっては特にメリットのない報償となってしまうのだ。そもそも院庁への参上にしても、上奏にしても、希少価値を有するからこそ意味のある話なのであり、生涯を掛けてきたことが評価されて許可が得られたというのであれば人生の見返りとして意味を持つ。貴族ではなく位階も有さない武士にとって、院庁への参上や上奏の許可というのは、一生を捧げた代わりに手に入れることのできる特別な栄誉なのだ。その特別な栄誉が、それまで一度も京都のことに、院のことに関心を示してこなかった武士が、ただ一度の戦いで得られる許可となってしまうと、人生を院に尽くしてきた者にとって人生の全否定となる。古参の家臣はこれまでの自分が全否定されたことに失望し、新参の家臣はメリットのない報償が提示されたことで失望するという、意欲が全く生まれない結果となったのだ。


 兵力差が冗談では済まないレベルになっている上に戦術ミスも存在していることを、京都方の武士達は早々に把握していた。

 そもそも京都方は後鳥羽上皇がトップに君臨するトップダウンの組織であり、誰であろうと後鳥羽上皇の意見に逆らうことはできない。たとえば、院宣を鎌倉に送り届ける経緯を追いかけても、その過程で誰かが指摘しなかったのかと言いたくなる失態である。押松を鎌倉に派遣したことまではいい。しかし、押松は後鳥羽上皇にとって安心できる人物であっても、京都から鎌倉までの道程に詳しいわけでも、鎌倉市街に詳しい訳でも、鎌倉幕府の面々に詳しいわけでもないという問題がある。押松が鎌倉に向かうときに一人で行動せず、三浦胤義から兄の三浦義村に向けて送り出した使者と同行したことを踏まえても、使者として相応しいとは言えない。これだけでも問題なのに、後鳥羽上皇からは院宣を鎌倉幕府に届けるのでなく鎌倉幕府の重要御家人達にピンポイントで院宣を送り届けるように命令が出ている。顔も知らず、邸宅がどこにあるかも知らない者のもとに秘密裏に院宣を届けることを考えると押松を使者として鎌倉に送り出すのは適切とは言えなかった。その結果が鎌倉方の一斉挙兵だ。誰か一人でも後鳥羽上皇に異を唱えていたならばこうはならなかったであろう。

 しかも、現在の苦境の理由を誰もがわかっているのに、誰もが口にできずにいる。口にできないまま苦境のままでなければならない。それが京都方の武士達の心情であった。

 一方、鎌倉方は誰かがトップにいるわけではない。北条義時なのか、北条政子なのか、あるいはこれから将軍になろうとしている三寅なのか、トップがはっきりしていない。裏を返せば、鎌倉方は何であれ合議制である。しかも、武士として前線の経験を積んでいない大江広元や三善康信も合議に参加できて指令を送り出せる。ただし、指令を送り出す代わりに後方からの支援を欠かさず、指令を逸脱しない限り細かなことまで指図しない。北条泰時ら指令を受け取った側は鎌倉に逐次状況を報告するが、基本的に前線では自己裁量で行動できるし、鎌倉からの指令が現実に背いていないとなったら鎌倉からの指令に背くこともある。事後報告ではあるが鎌倉にあるがままを報告し、その報告の内容が指令と反する内容であったとしても、結果が鎌倉の意に沿うものであるならば鎌倉からは特に何ら指摘されることはない。このあたりの仕組みは治承四(一一八〇)年に源頼朝が挙兵したときから変わることない鎌倉方の仕組みであり、源頼朝が生きていた頃は源頼朝がトップとして君臨してその周囲を有力御家人が固めた上層部を構成した上で、前線との情報連絡を維持しながらも前線にはそれなりの自由裁量が与えられていた。源義経が討たれたのは自由裁量で許されている範囲を逸脱したからである。源頼朝の死後はトップがいなくなり、名目上のトップとして二代将軍源頼家、三代将軍源実朝が君臨していたが、この兄弟は父のように絶対的なトップとなってはおらず、鎌倉方のトップは複数名からなる合議制が事実上の最重要権力機構として君臨しているという構図であった。この構図は源実朝が亡くなった後も変わらず正常に機能している。

 鎌倉幕府の歴史を追いかけると御家人同士の殺し合いが繰り返されてきてはいたものの、それでも誰か一人が圧倒的なトップとして君臨しているという構図は成立しておらず、合議制と権限付与という自己修復機能を持った軍事組織であり続けていたのであるが、このタイミングでこうした軍事組織であることが鎌倉方に優位な面となって機能した。

 さらに差が付いたのだ実戦経験の差である。こればかりはいかに訓練を積み重ねても未経験と経験済との間では大きな違いがある。京都でいかに武士が活躍したとしても、それは盗賊や僧兵が相手のことであって戦場での実戦経験というわけではない。戦場での経験を遡るとすれば三分の一世紀は遡ってのさかのぼっての源平合戦やそのあとの奥州遠征まで遡らねばならず、その経験を積んだ武士の多くはこの世の人でなくなっているか、隠居しているか、現役だとしても鎌倉方の一員となっている。一方、鎌倉方の武士は和田合戦に遡れば実戦経験にたどり着く。しかも、和田合戦は市街地での戦いであり、鎌倉と京都という違いはあるものの、都市での戦いが起こるとしたら、経験の程度は鎌倉方に軍配が上がる。無論、鎌倉幕府の一員として京都に派遣され、その流れのまま京都方の一員となった武士の中には和田合戦での実戦経験をした武士もいるが、その人数はあまりにも少ない。

 鎌倉方のうち東海道軍が遠江国を経て三河国に入り、先遣隊が尾張国府に到着したとの知らせを受けたことで動揺が広がり、持ち場を離れる者や今からでも鎌倉方に寝返ろうとする者も続出し、官軍たる京都方に留まることを誓った者の中でも現状では敗北必至であると悟る者が現れた。

 中でも、墨俣に拠点を置くよう命じられた山田重忠は戦術のミスと戦力差を指摘した上で、現状で取りうる有効戦術を提言した。

 その戦術とは、京都方のうち北陸道に派遣した軍勢を除く全てを一箇所にまとめ、墨俣から長良川を経て木曽川に向かい、尾張国府にまで出向いて、尾張国府を占拠した鎌倉方の先遣隊を打ち破った後、三河国を経て遠江国に渡って鎌倉方の東海道軍を破り、そのまま勢いに任せて鎌倉に進軍して北条義時を討ち、帰路は東海道ではなく北陸道を選んで北条朝時が指揮する鎌倉方の北陸軍を殲滅するという戦術である。

 しかし、山田重忠と同じく墨俣に陣を構える藤原秀澄は山田重忠の提案を拒否し、改めて墨俣に留まって鎌倉方を迎え入れることを宣告した。

 承久記では山田重忠の提唱したこの戦術を勇猛果敢な戦術と称えている一方、提案された戦術を拒否した藤原秀澄を臆病者と一刀両断しているが、これは拒否した藤原秀澄の方が正しい。山田重忠の戦術はあまりにも都合が良すぎ、現実をあまりにも無視しているのである。

 そもそも全軍を集めても兵力差が甚だしいのに鎌倉方の本隊である東海道軍に真正面から向かいあったところで勝てる可能性など低い。仮に戦勝を手にしたとしても、今度は鎌倉までの進軍に問題がある。鎌倉方が大軍を組織できたのは、鎌倉で大軍を組織したからではなく、鎌倉から京都に向かう過程で次々と軍勢を集めてきたからである。軍勢を養う食糧や戦闘に使う弓矢などの武具や馬も、参陣した武士達が自前で用意したものだ。一方、山田重忠の案を採用するとしたら、一万騎を超える軍勢をどうやって養っていくのかという問題が出てくる。既に鎌倉方が通り過ぎた後であり、道中の村々は既に鎌倉方に対する物資の供給や人員の提供をしている。つまり、一度なら耐えられても二度目は無理という情勢になっている。京都方が東海道を西から東に向かうということは、途中の村々に二度目の負担を強いることを意味する。当然ながら、満足いく供出を受けられる可能性は低い。略奪してどうにかなるか、あるいは、略奪してもどうにもならないかのどちらかだ。

 蛮行に染まった軍勢がどういう行動を見せるかは木曽義仲の例が示している。それを同じことを繰り返してはならない。


 承久三(一二二一)年六月五日、東山道軍と京都方が激突した。

 木曽川沿いに北東から南西に軍を進めていた東山道軍に対し、尾張国一宮に到着していた北条時房が使者を送り出している。

 その書状には、東山道軍を指揮する武田信光と小笠原長清に対し、大井戸と河合の渡河作戦を成功させたなら、美濃国、尾張国、甲斐国、信濃国、常陸国、下野国の六ヶ国の守護職を保証すると記されていた。承久記によると、北条時房からの使者が到着する前に武田信光が小笠原長清に対し、鎌倉方が勝ったならば鎌倉に付き、京方が勝ったならば京都に付くことにするとした上で、それこそが弓矢の道に生きる武士の習わしだと告げたという。そのタイミングで北条時房から六ヵ国の守護職について記した書状をもった使者がやって来たので武田信光も小笠原長清も目の色を変えて渡河作戦を断行したという。守護職を示したかどうかはわからないが、北条時房が遠く離れた仲間の状況を常に把握し続けてきたからこそ、行軍中に仲間を加え続けるという異例な形式の軍勢を構築しながら、東山道軍と東海道軍という二つの軍勢に分かれていても、事実上一つの軍勢として機能的に行動できたのは確実である。それにしても、電波を使ってのリアルタイムのやりとりができる現在と違い、この時代の情報のやりとりは人の行き来だけである。人のやりとりだけしかできないのに歩調を合わせただけでなく、軍勢の中の一人一人の状況に目を見張らせていたのは驚異とするしかない。

 気の毒なのは東山道軍を迎え撃つこととなった京都方の面々である。

 大内惟信は奮闘したものの息子である帯刀左衛門惟忠の戦死に強いショックを受けて退却し、蜂屋入道は負傷して自ら命を断ち、蜂屋入道の子の蜂屋三郎も討たれたことで京都方のほとんどは退却することとなった。

 一方、初戦を制した武田信光と小笠原長清の率いる東山道軍の軍勢は下流の鵜沼に向けて軍を進めた。これにより神地頼経率いる鵜沼の京都方は、一方は東山道軍、もう一方は東海道軍から派遣された毛利季光率いる軍勢と挟み撃ちとなり、鵜沼渡を守っていた神地頼経は情勢不利を悟って降伏を選んだ。ただし、神地頼経の行動については別々の資料が存在する。承久記によると自ら降伏して北条泰時のもとに出向いたところ、北条泰時は、京都方が官軍であろうとなかろうと、一度でも京都方についたならば最後まで京都方の一員として戦うべきであり、ここで鎌倉方に付くというのは武士として許されないことであるとして、降伏してきた神地頼経とその子ら九騎を梟首(きょうしゅ)にしたという。一方、吾妻鏡にそのような記載はなく、神地頼経が奮闘したものの生け捕りとなり北条泰時の元に連れてこられたところで記載が終わっており、神地頼経の運命がどうなったかを記していない。

 確実なのは、大井戸だけでなく鵜沼でも京都方は敗北し、鎌倉方の東山道軍と東海道軍が合流するのは避けられない情勢になったということである。ただし、この時点で東山道軍と東海道軍の合流地点は秘匿されており、京都方は合流地点を探ろうとし、鎌倉方は合流直前まで合流地点が悟られぬよう隠蔽に隠蔽を重ねている。

 さらに鎌倉方は京都方の各陣地に対して各個撃破を図るべく、池瀬に足利義氏を、板橋に狩野宗茂を派遣すると同時に、残りの軍勢を二手に分けて東海道軍を進めた。

 京都方が第一の要衝と見た摩免戸については北条泰時が指揮をし、三浦義村をはじめ侍所に祗候する者が集中攻撃する。墨俣は北条時房が指揮をし、安達景盛をはじめ、豊島、足立、江戸、川越といった武士団が攻撃を仕掛ける。この両拠点を鎌倉方が制圧できれば鎌倉から美濃国に至る全域を鎌倉方が完全に掌握できることとなり、いつでも京都に進撃できることとなる。

 この動きに対し、迎え撃つ京都方は奮闘を重ねた。板橋では荻野左衛門と、山田重忠の子の山田重継が、伊義渡では開田、 懸橋、上田が、火御子では内海、御料、寺本が懸命に防戦をしたことで鎌倉方に少なからぬ損害を与えたものの、最後は力尽きて京都方の面々は戦死し、生き残った者も逃亡した。

 北条泰時が指揮する東海道軍の主力と正面衝突することとなった摩免戸でも、防衛する藤原秀康や三浦胤義が奮闘して鎌倉方に対してダメージを与えることに成功したものの、京都方は最後には退却を選ぶこととなった。ただし、六月五日の時点ではまだ摩免戸が陥落してはおらず、残存部隊が鎌倉方に対して抵抗を続けているほか、墨俣を守っていた山田重忠が摩免戸へと移動して京都方の支援にあたっていた。

 一方、食渡の惟宗孝親と下条は、鎌倉方の狩野宗茂と大和入道らが渡河しているのを目の当たりにし、戦わずして逃亡した。

 京都方の中で最も奮闘したのが上瀬を守る渡辺翔こと源翔である。鎌倉方の軍勢の中に馬で駆け込んで戦いに挑み、狂気に満ちた振る舞いの前に討ち取られる者が続出した。しかし、渡辺翔の奮闘も多勢に無勢であり、渡辺翔は退却せざるを得なくなった。


 承久三(一二二一)年六月六日、摩免戸陥落。

 二十歳の北条時氏と十九歳の北条有時の二人の若者に率いられ、大江佐房、阿曽沼親綱、小鹿島公成、波多野経朝、三善康知、安保実光といった武士たちが、京都方のうち摩免戸に留まって奮闘する山田重忠や、佐々木広綱の甥の鏡久綱らに攻撃を続け、山田重忠は退却、鏡久綱は自害を選んだ。

 さらに、山田重忠は自分が陣を構えていた墨俣に戻ってみると、藤原秀澄が墨俣を捨てて退却していたことを知り、ここで美濃国の防衛は失敗に終わったことを悟った。ただし、ここで一矢報いることを考えた山田重忠は、東海道軍と東山道軍の合流地点が杭瀬川であることをようやく突き止め、合流地点に向かって鎌倉方の指揮官や幹部を打ち取るべく突撃を繰り広げた。

 承久記によると山田重忠は三〇〇騎の軍勢を指揮して合流地点に総攻撃を仕掛けたとある。この山田重忠に向かい合ったのが鎌倉方の主力の一つである児玉党で、武蔵七党の一画を為す児玉党はこのとき三〇〇〇騎を擁していたという。三〇〇対三〇〇〇という戦力差一〇倍の相手に向かい合っていったのであるから本来であれば瞬殺されるところであろうが、このときの山田重忠の指揮が素晴らしかったのか、児玉党数百騎がただちに打ち取られただけでなく、劣勢であるはずの山田重忠が児玉党を手玉に取る情景が展開された。

 しかし、兵力差は如何ともしがたく、山田重忠は戦場を捨てて京都へと逃走し、ここに美濃国も完全に陥落した。京都方の分散配置は、個々で見れば奮闘が見られた箇所があったものの、全体的には劣勢に次ぐ劣勢であり、わずか二日で美濃国を失ったこととなるだけでなく、東海道軍と東山道軍の完全合流も実現させてしまったのである。 

 翌六月七日、美濃国府近くの垂井と野上に陣を築いた鎌倉方は、北陸道軍の扱いをどのようにすべきかで軍議を重ねた。北陸道軍の到着を待つか、それとも、東山道軍と東海道軍だけで京都に進軍すべきかである。

 ここで三浦義村はある提案をした。

 確かに美濃国を制したものの、京都までの間には近江国があり、また、山城国に入ってもそれだけでは京都を制したことにはならない。北陸道軍の到着までに京都を包囲するように要衝の各所を制することで、三軍揃っての京都制圧をより容易にするべきとした提案である。

 この提案に鎌倉方の面々は賛同し、京都を取り囲む前提で五ヶ所の要衝の制圧を計画した。

 瀬田は北条時房。

 手上は安達景盛と武田信光。

 芋洗は毛利季光。

 淀渡は結城朝光と三浦義村。

 そして、北条泰時率いる主力部隊は、最重要要衝である宇治を制圧する。

 なお、直ちに軍勢を向かわせるのではなく、兵士に少しの間の休息をとらせている。兵士は機械ではなく、これまでの戦闘で傷ついた者も数多くいる。また、このタイミングでの休息は相手にとって脅威ともなる。戦場で勝利を刻み込むだけでなく、相手に余裕を示すのも軍略において重要なポイントだ。

 これにより鎌倉方は北陸道軍到着までの時間を稼ぐと同時に、京都制圧をより完全なものとできる可能性が高まった。


 承久三(一二二一)年六月八日、北陸道軍と京都方と激突のうち最大の激戦が起こった。北条朝時、結城朝広、佐々木信実らの率いる鎌倉方の軍勢が、越中国の在国武士達を率いた宮崎定範、糟屋有長、仁科盛朝、友野遠久らの京都方と激突し勝利したとの記録が残っている。ただし、この時点ではまだ北陸道軍の居場所が越中国であり、東海道軍と東山道軍の合流にさらに加わるとすれば、加賀国、越前国を経て近江国に入らなければならない。これは一日や二日でどうこうなる話ではない。もっとも、鎌倉を出発した後の距離を考えれば順当か、あるいは順当以上にスピーディーな動きである。

 一方、同じ六月八日の京都は混乱を極めた。この日、藤原秀康と五条有長が負傷した姿で京都に到着し、摩免戸をはじめとする美濃国の各地で京都方がことごとく敗れ、ある者は戦場に散り、ある者は逃亡し、京都に戻る者がいてもそれは自分達のように負傷した姿であることを伝えたのである。

 彼らの姿と伝える言葉に院中は騒然となり、坊門忠信、土御門定通、土御門有雅、高倉範茂といったら院近臣の公卿を、宇治、瀬田、田原方面の防衛に派遣することが決まった。彼らは武士ではなく貴族であるが、趣味の一環として武芸鍛錬はしている。鍛錬はしてはいるが、いかんせん、本職の武士ではない。名はあるが実はない者を武装させて前線に立たせようというのであるから、後鳥羽上皇もかなり追い詰められていたのであろう。

 さらに後鳥羽上皇は、土御門上皇、順徳上皇、雅成親王、頼仁親王らを院近臣二位法印である僧侶の尊長の邸宅に招いて評議を重ね、比叡山延暦寺に加勢を求めることとした。そのためには後鳥羽上皇自身が比叡山延暦寺に向かわねばならないという結論に至ったことから、同日夕刻、甲冑を身につけた源通光、藤原定輔 、藤原親兼、藤原信成、藤原隆親といった公卿や殿上人に加え、評議の場を提供した僧侶の尊長も同行させ、西園寺公経と西園寺実氏の父子をあたかも囚人であるかのように引き連れ、さらには幼い仲恭天皇まで行幸させるという、この時点の朝廷ができる最上級の対応で後鳥羽上皇は延暦寺に向かったのである。

 しかし、比叡山延暦寺に向かう途中の後鳥羽上皇のもとに届いた比叡山延暦寺からの返答は後鳥羽上皇を落胆させるものであった。延暦寺は僧兵の派遣を拒否したのである。衆徒の微力では東士の脅威を防ぎ難いというのが延暦寺からの回答であり、六月一〇日、後鳥羽上皇らは虚しさを隠せぬまま高陽院殿に還御した。なお、この間に京都で北条義時が誅殺されたとの風聞が広まり後鳥羽上皇らの周囲では安堵の声が広まり、また、西園寺公経とその息子に死罪を命じるべしとの意見が出たが、北条義時誅殺が誤報であると知れ渡ったことで空気は一変し、それまで囚人同様の扱いをしていた西園寺公経と西園寺実氏の親子に対する勅勘を解き、西園寺親子に鎌倉幕府との和平交渉を測るよう命じた。命じたが、これは遅すぎた。

 一日置いた六月一二日、後鳥羽上皇は自分たちの最後の軍勢を配備して鎌倉方に向かい合うことを命じた。

 三穂崎に、美濃竪者観厳ら一千騎。

 瀬田に、山田重忠、伊藤左衛門尉、山僧ら三千騎。

 食渡に、大江親広、藤原秀康、小野盛綱、三浦胤義ら二千騎。

 鵜飼瀬に、藤原秀澄、長瀬判官代ら一千余騎。

 真木島に、安達親長。兵数不明。

 芋洗に、 一条信能、尊長。兵数不明。

 淀渡に、坊門忠信。兵数不明。

 そして、軍勢の大部分を宇治に配備することとした。ここで宇治防衛を命じられたのは、源有雅、高倉範茂、藤原朝俊、伊勢清定、佐々木広綱、佐々木高重、快実らであるが、その兵力は二万余騎である。

 無理に無理を重ねて兵力を動員しても三万騎に届かない。これがこのときの京都の限界であった。

 一方の鎌倉方は余裕を見せていた。

 東海道の宿駅である野路駅付近に鎌倉方の軍勢は陣を敷き、しばしの休息を取り、また、酒宴を開催していた。北条泰時や北条時房が野路駅付近で陣を敷いて休息を取っていることは周囲に広まっており、情勢不明瞭として様子見であった武士の多くがこのタイミングで鎌倉方への帰順を申し出た。吾妻鏡はここで、北条泰時を慕う幸島行時が参陣したこと、北条泰時のために命を落とすのは武士の本望であると述べたことで北条泰時が幸島行時を歓待したことを書き記している。北条泰時の思い遣りを見て鎌倉方の武士達がさらに勇気を奮い起こしたというのが吾妻鏡の記載だ。


 承久三(一一二一)年六月一三日、休息を終えた鎌倉方が一気に動き出した。

 北条時房率いる軍勢が瀬田へ、北条泰時率いる軍勢が宇治へ、毛利季光と三浦義村がそれぞれ淀と芋洗へ向けて出陣した。

 最初に戦闘が繰り広げられたのは瀬田である。瀬田は琵琶湖の付け根の土地であり、大阪湾へと流れる瀬田川の始まりの土地でもある。東海道や東山道から陸路で京都に向かうには瀬田の橋を渡るのが一般的であり、京都方は瀬田の西岸に陣を構えると同時に瀬田橋の板を外すことで渡らせなくさせていた。

 この瀬田を守っていたのが、美濃国で奮闘するも敗れ去った山田重忠と、比叡山の僧兵達である。後鳥羽上皇の応援要請に対して僧兵派遣を拒否したはずの比叡山延暦寺であるが、瀬田は延暦寺の近くの土地であり、また、交通の要衝でもあるため、瀬田を制圧されると延暦寺にとって大ダメージとなる。後鳥羽上皇の支援に乗ることはできなくても、自分たちを守るためならば僧兵の派遣には躊躇しないということか。

 瀬田まで軍を進めた北条時房ら鎌倉方は、当初は橋を渡って攻め込もうとしたものの橋板が外されているので瀬田川を渡ることはできないと悟っただけでなく、橋板を落とした橋桁の上で暴れ回る延暦寺の僧兵達に苦戦していた。

 この局面を打開したのが、瀬田橋の上流およそ一町、メートル法に直すと一一〇メートルほど離れたあたりに陣を敷いていた宇都宮頼業である。宇都宮頼業は弓矢での攻撃を続けていたのであるが、高低差のない土地での弓矢での戦いは、こちらの矢が相手に届くことと、相手の矢がこちらに届くことが同じ意味を持つ。あとは弓矢の技量の差だ。

 最初は京都方の矢が宇都宮頼業のすぐ近くに届いた。京方にとっては弓矢の威力を相手に見せつける飛距離と正確さとなるはずであったが、宇都宮頼業は違った。自分で弓矢を手にし、山田重忠のすぐ近くにまで矢を放ったのである。その距離およそ三町、メートル法で三三〇メートルもの距離である。しかも、単に矢が届いたのではなく矢が威力を伴って突き刺さったのだ。これに山田重忠は恐れ慄きただちに軍勢を引き返した。

 さらに宇都宮頼業は瀬田川を船で航行し、鎌倉方に弓矢を向けてきた美濃堅者観厳率いる軍勢にも矢を放ち、僧兵を二人倒したことで美濃堅者観厳も慌てて引き返した。

 これにより瀬田の京都方は総退却となり、近江国の要衝も鎌倉方の手に落ちた。


 宇治に向かった北条泰時らは当初、まずは宇治に向かう途中で陣を張り、翌朝に宇治に向かって行軍して戦闘を開始する予定であった。そして、実際に全軍に対して陣を敷くよう命令した。なお、北条泰時らがどこで陣を張ったのかの記録は一定ではない。吾妻鏡によると栗小山であるとしている一方、承久記では岩橋に陣を張ったとしている。どちらも翌朝の宇治への攻撃を考えれば適切な地点だ。また、この日は雨が降っており、行軍に必ずしも適した天候であるとは言えなかったことから陣を張って夜が明けるのを待つのは定石と言える。

 しかし、三浦泰村と足利義氏の二人は違った。北条泰時に告げることなく陣を抜け出し、手勢を率いて勝手に宇治橋に攻め寄せたのである。

 宇治橋の北岸には二万騎もの京都方の軍勢が集結している。しかも、後鳥羽上皇の求めに応じて軍勢を派遣した奈良や熊野の僧兵達まで加わっている。全軍で見れば鎌倉方の方が圧倒的人数であるが、個々で見ればむしろ京都方の方が圧倒しているのがこのときの宇治であった。

 京都方からの弓矢の攻撃は三浦泰村と足利義氏の率いる軍勢に大ダメージを与え、先駆けして手柄を手にするどころか、鎌倉方の計画を破綻させる失態ですらあった。

 宇治橋で戦闘が始まっているとの報告を受けた北条泰時は豪雨の中を宇治橋まで駆けつけ、始まってしまった戦闘を勝利で終わらせるべく奮闘しようと試みるも、ここでも瀬田橋と同様に橋板がはずされて宇治橋が渡れなくなっているだけでなく、ここでも瀬田橋と同様に橋桁に僧兵が陣取って暴れ回っている。

 鎌倉方の武士達は名乗りを上げて攻撃をするも京都方に一蹴され、ある者は矢で、ある者は僧兵の操る太刀で、またある者は橋から宇治川に突き落とされて命を落とした。豪雨も手伝って宇治川の水量は増している。普段なら泳いで渡れる川幅や水深であっても、この日の宇治橋は泳ぐのに不適切であった。おまけに夜とあってはさらに渡河が不可能になる。

 北条泰時は一旦攻撃中止を命じると同時に、宇治橋以外に川を渡れるポイントはないかを探し出すこととした。

 北条泰時に命じられたのは芝田兼義である。芝田兼義は水練の達人であり、このときの宇治川のように天候のために増水している川であろうと渡れるポイントを探し出すのが得意であった。

 そして、芝田兼義は北条泰時の求めに応じて宇治川を渡れるポイントを見つけ出した。それは宇治橋の下流の真木島で、宇治川が増水しているのに真木島は川の中洲として増水した川の流れにあっても沈まずにいた。芝田兼義は実際に真木島まで泳いでみたところ、軍勢を渡らせることが可能な浅瀬があること、ただし、対岸に京都方が陣を張っていることを見つけ、結果を北条泰時に報告した。

 なお、芝田兼義はこのとき一つの残虐な行為をしている。浅瀬がどこにあるかを地元の老人に尋ねたのであるが、その老人に尋ねたのも脅迫に似た強引なやり方であっただけでなく、情報を聞き出して実際に浅瀬があることを知ると、芝田兼義はその老人を切り殺したという。情報漏洩を防ぐためである。似たような話は平家物語にもあり、それが当時の当たり前であったのかと言ってしまえばそれまでであるが、これを仕方ないと言い切って割り切れるほど、人間の復讐心というものは軽くはない。


 承久三(一二二一)年六月一四日早朝、北条泰時は攻撃開始を命じた。芝田兼義、春日貞幸らにまずは宇治川を渡らせ、佐々木信綱、中山重継、安東忠家らがそれに続く。

 鎌倉方が宇治川の中洲を見つけたと知った京都方は矢を射かけて防戦し、さらにここに増水した宇治川の水流が加わる。渡河しようとする鎌倉方の少なくない者が宇治川の流れに流されて命を落とした。

 これを見た北条泰時は、息子の北条時氏を呼び寄せて渡河を命じ、北条時氏は佐久間家盛、南条時員ら六騎を率いて川を渡った。また、三浦泰村も主従五騎で川を渡った。なお、北条泰時も川を渡ろうとしたが、このときは春日貞幸によって止められている。

 京都方とて鎌倉方が渡河作戦を強行することは理解できていた。そのため、二重、三重の罠を仕掛けていた。河岸から弓矢で攻撃を仕掛けるのもその罠の一つであるが、弓矢のターゲットは武士とは限らない。馬に乗って渡河する武士を倒すには、武士ではなく馬を射るほうが効果的だ。矢でやられた馬に乗った武士は武装したまま増水した宇治川に投げ出されることとなる。普段なら泳げても武装していては泳ぐのに困難だ。溺れずに済んでも弓矢のターゲット、弓矢のターゲットにならずに済んだら溺れ死ぬ運命。運が良くなければ渡河できなくなっていた。これにより、関左衛門入道、幸島行時、伊佐大進太郎、三善康知、長江小四郎、安保刑部丞実光ら鎌倉方で計九六騎の死者が出ている。

 さらに京都方は宇治川の河川途中にロープを張って渡河を妨害していた。増水していることもあって宇治川の水は泥で濁っている。普段ならロープを目にできるであろうが、濁っていては判別など不可能だ。矢を射られなかった馬も、足をロープに取られての転倒が頻繁に起こり、馬が転倒したあとで馬に乗っていた武士が待っているのは、馬を矢で射られたときと同じく、弓矢のターゲットになるか溺れ死ぬかのどちらかである。

 ここでさらに鎌倉方で九八騎が負傷し戦線を離脱している。

 この情景を観た尾藤景綱は、平出弥三郎に命じて周囲の民家を取り壊して(いかだ)を作らせた。浅瀬を教えた老人を殺害したのも野蛮な話であるが、民家を解体するのもまた野蛮な話である。もっとも、それらの行為は戦場においてやむを得ないことであると判断されたのか、北条泰時や足利義氏は躊躇いを見せずに(いかだ)に乗って宇治川を渡っている。

 この頃になると京都方は次々と渡河してくる鎌倉方に取り囲まれるようになり、ある者は討ち取られ、ある者は戦場から逃走した。

挿絵(By みてみん)


 なお、このときの戦闘で興味深い記録がある。

 百錬抄の六月一三日の記録によると、京都方の兵士達が兵糧を守ろうとし、鎌倉方の武士達が京都方の兵糧を奪おうとし、それが戦闘の勝敗を決めたというのである。おそらく鎌倉方の兵糧はギリギリなところであり、ここで京都方の兵糧を奪わなければ戦いは継続できなくなっていたであろうこと、それは京都方も同じで、ここで兵糧を奪われたならばもはや抵抗はできなくなったであろうことを示している。

 劣勢となっただけでなく兵糧を奪われた京都方は総崩れとなり、ある者は討ち取られ、ある者は馬にも乗らず走って戦場から逃げていった。後鳥羽上皇から戦場へと派遣されていた貴族である源有雅と高倉範茂もまた戦わずに戦場から逃げ去り、戦場に残された八田知尚、佐々木惟綱、小野成時といった京都方の武士達は、右衛門佐藤原朝俊をこの戦場における大将軍に立てて鎌倉方に対して奮闘したものの力尽き、一人、また一人と戦場に散っていった。

 戦場を離脱した京都方の兵士達も安心はできなかった。北条時氏は敗残兵を追いかけており、宇治川北辺の民家に逃げ込んだ京都方の残党は、民家に火を付けられたことであぶり出され、生け捕りになるか戦死するかのどちらかとなった。

 京都方の大部分を割いて配備した宇治で鎌倉方に敗れたことは京都方にとって大きな損失であったが、もっと大きな損失であったのは、宇治以外の場所でもことごとく敗れ去ったこと、すなわち、もはや京都に攻め込もうとしている鎌倉方を武力で食い止める方法など何一つ存在しないと明らかとなったことであった。

 瀬田で北条時房率いる鎌倉方の前に敗れ去った大江親広、藤原秀康、小野盛綱、三浦胤義らが陣を棄てて帰京する道を選んだ。

 淀と芋洗に人を構えた京都方は毛利季光と三浦義村によって撃破され、多くの者が淀川沿いを北に進んで京都へと逃れていった。


 宇治を突破した北条泰時らは、鵜飼瀬、木幡、伏見を経て深草河原に陣を敷いた。もはや京都は目と鼻の先である。

 鎌倉方が間近に迫っていることを知った京都方は、西園寺公経を通じて北条泰時のもとに三善長衡を使者として送り込むこととした。捕縛状態にあった西園寺公経を解き放つことでようやく後鳥羽上皇と北条泰時との間にコンタクトを取る手段が確立されたわけであるが、それはあまりにも遅すぎた。情勢は決着していたのである。

 北条泰時から三善長衡への返答は二点に集約できた。

 明日、入京する。

 南条時員に命じ、西園寺公経の屋敷を守らせる。

 以上である。

 これで意味するところは判明した。

 鎌倉方は京都に攻め込むのだ。

 西園寺公経は鎌倉幕府のために奮闘し、捕縛されもしたのだから、その安全は守る。しかし、その他については何ら保証されるものではない。

 鎌倉方が攻めてくるとの知らせを受けて騒然としている京都にやってきたのは、戦場で敗れ去った京都方の将兵達であった。藤原秀康や三浦胤義らは四辻殿に参上して、宇治と瀬田の合戦で敗北したこと、鎌倉方の武士たちが大挙して入京する形勢にあることを上奏した。また、大江親広は京都に戻らず、山城国と近江国の国境である逢坂関の東にある関寺付近で行方をくらましたために不在となっていた。

 指揮官だけでなく一般の兵士達も京都に戻ってきていたが、戦場から生きて京都に帰ってくることのできたとしても、彼らをもう一度戦場に立たせるなど無理な話になっていた。捲土重来など期待していない。リベンジも期待していない。今となってはいかにして鎌倉方の目をかいくぐって生きていくか、あるいは、最後の抵抗を見せて命を落とすかのどちらかしか考えられなくなっており、その中に京都を守るために戦うという選択肢はなくなっていた。

 なお、承久記によると、後鳥羽上皇は彼らを見捨てたとある。

 たとえば、後鳥羽上皇の命令で戦い、戦場で敗れて京都まで逃れてきた三浦胤義は、六月一四日の夜中に後鳥羽上皇を頼ろうと後鳥羽上皇のいる高陽院にまで出向いたが、高陽院の後鳥羽上皇からの返答は、敗残兵が高陽院にいると鎌倉方が高陽院に攻め込んでくるから早々にここから立ち去れというものであった。この一言で三浦胤義は自らの選択の過ちを悟り、せめて最期は兄の手でこの生涯を終えようと覚悟して、平安京南部にある東寺に立て籠もり鎌倉方に抵抗することを決めた。勝つためではない。生き残るためではない。京都を守るためでもない。自分が死ぬために抵抗するのである。

 一方、淀と芋洗を制圧して南西から京都へと向かっていた三浦義村は、弟が東寺に籠もっていることを当初は知らず、知った後も東寺に向かわなかった。「愚か者と渡り合っても無駄なこと」という冷たい態度は三浦胤義に現実を悟らせるに十分であったのだ。ここではじめて三浦胤義は和田合戦と比較することで自らの過ちを悟る言葉を述べたと承久記にある。それでも何とか兄の手で自らの最期を決めてもらおうと東寺から出て三浦義村率いる軍勢に襲いかかろうとするも、三浦義村のもとへ辿り着けず、三浦一族の佐原氏の軍勢と戦いを繰り広げるのが精一杯であった。

 その戦いでも命を落とすことができず、三浦胤義は京都南西の木島里に逃れ、その地で息子の三浦重連とともに自害した。吾妻鏡によると三浦胤義の首はいったん太秦にある三浦胤義の郎従の家に置かれた後、兄の三浦義村に差し出され、北条泰時のもとに届けられたという。

 後鳥羽上皇に門前払いを受けた武士は三浦胤義だけではなかった。そして、門前払いがどのような意味を持つかを悟った武士も三浦胤義だけではなかった。

 門前払いを受けた武士の一人である渡辺翔こと源翔は、手勢を率いて入京してくる鎌倉方と戦って最後の抵抗を見せた後、大江山へと逃れていった。伝承によると大江山で自ら命を絶ったとあるが、公式記録における渡辺翔のその後の動静は不明である。

 山田重忠もまた、渡辺翔と同様に名乗りをあげて鎌倉方と激しく戦い、実際に鎌倉方の武士を一五騎討ち取ったものの、山田重忠の軍勢の被害はより大きく、嵯峨まで逃れることはできたものの、追いかけてきた天野左衛門の軍勢と戦い、敗れ、自害を選んだ。


 これから鎌倉武士がやってくる。

 京都を守る武士はもういない。

 北条泰時は、後鳥羽上皇らによって捕縛されていた西園寺公経の邸宅については守ると布告したものの、その他については何も記していない。

 戦々恐々とした情勢の中、朝廷にできるのは鎌倉方に対して、限界まで譲歩を重ねた上で講和条件を結ぶことだけであった。

 承久三(一二二一)年六月一五日の辰刻、現在の時制に直して午前七時から八時頃に、朝廷からの勅使の小槻国宗が、官掌二名、使部二〇名などの下級役人を伴い、仲恭天皇の名で発給された勅定を携えて、六条河原まで派遣されてきた。鎌倉方に対して朝廷からの条件を示すためである。この一団の中にはその中には源実朝の家司であった中原俊職も含まれていた。

 北条泰時も北条時房も朝廷からの正式な使節であるため下馬の礼で小槻国宗を迎え入れ、小槻国宗の携えてきた勅定を承った。

 勅定に記されていたのは三点。

 北条義時追討宣旨の撤回。

 都での乱暴狼藉禁止。

 その他のことは鎌倉方からの要望に応じて聖断を下す。

 以上の三点である。

 北条泰時らは朝廷からの勅定を承諾し、鎌倉方の武士達に対して内裏への出入を禁止すると発表。また、三浦義村がこのタイミングで、宮中を守るためとして源頼重らを派遣した。源頼重の父の源頼茂は大内守護、すなわち内裏警護を務めていたキャリアがあり、源頼重自身も右近将監の官職を得ている。そのため、あくまでも経験のある者が官職に基づく職務を遂行するという前提で、宮中を守るために派遣されることとなった。

 承久三(一二二一)年六月一五日の巳刻、現在の時制に直して午前一〇時頃に北条泰時らの軍勢が六波羅に到着。この時点ではまだ北陸道軍が到着しておらず、北陸道軍が到着したのは、六月一七日とする記録と六月二〇日とする記録とがある。記録のあやふやさはともかく、北陸道軍の到着が北条泰時らの六波羅入りより数日遅れたことは確実である。

 なお、吾妻鏡にはこのときのエピソードとして、小槻国宗が携えてきたのは仲恭天皇の名で発給された勅定だけでなく、後鳥羽上皇から発せられた院宣もあったとしており、北条泰時以下五千騎余の武士の中から院宣を読むことのできる者として藤田能国が選ばれたというエピソードを載せている。後鳥羽上皇はこの院宣で、北条泰時に対して洛中で狼藉を行わないよう配下の武士たちに命令せよと述べており、御随身の秦頼武が、院中への武士の参入は既に禁じたという後鳥羽上皇の決定を伝えている。この二点については北条泰時も同意したというのが吾妻鏡の記載だ。なお、吾妻鏡はこの院宣の中に記された内容、すなわち、この戦いは後鳥羽上皇の「叡慮」で発生したものではなく「謀臣」が起こしたものであるという内容を記すことで後鳥羽上皇の責任転嫁を記しており、後鳥羽上皇の無責任さと他責思考を示すエピソードとして捉えさせようとしている。

 なお、鎌倉方に対する乱暴狼藉の禁止については、かなり高いレベルで守られていたことは確認できているものの、問題発生はゼロではなく、六月一五日の夕刻に京都方の宿所のうち数カ所が放火されて焼失するという事件が発生している。また、当時の貴族の日記によると、鎌倉方の武士が京都方の敗残兵を探し出して次々に首を刎ねていたという。

 そして、このように書き記している。

 神武天皇より代々続いてきた皇室が間もなく終わりを迎えるのではないか、と。

 結論から言うと、皇室は存続している。鎌倉方も皇統断絶など毛頭考えていない。ただし、対処は考えている。

 翌日、北条泰時は鎌倉に向けて戦勝報告の書状を送った。

 この瞬間、承久の乱の戦闘は正式に終了した。


 北条泰時は戦勝者として京都と目と鼻の先の六波羅に入った。現在の六波羅は京都の一部であるが、この時代の六波羅は平安京の外であるために厳密に言うと京都ではない。そのため、平安京内の武装は正式な武官や検非違使のみに許されるというルールを北条泰時は守っていることになる。

 ただ、今後も平安京の中に軍隊が攻め寄せないことを意味するものではない。鴨川を渡った六波羅に詰めかけている大軍がいつでも平安京の中に突入できる状態が続いているため、戦いで敗れた者の命運は北条泰時ら鎌倉方の手に握られることとなったのである。

 北条泰時は合議の席で、疑わしい者の刑は軽くすることを主張し、温情措置とすることで合意を形成した。たとえば高倉範茂に従って宇治川の戦いに赴いた清水寺の僧の敬月は、常陸房、美濃房の二人の弟子とともに捕縛され斬首となるところであったが、和歌を泰時に献じたことから遠流への減刑となっている。

 ただし、勝者の赦しは敗者のプライドを壊すことがある。勝者が敗者を残虐に扱えば扱うほど敗者は死後の名誉回復をより強く期待できるようになるし、敗者の親族や子孫は勝者に対する怨嗟を正当化できるようになる。それなのに、敗者を赦そうものなら怒りのぶつける先がなくなるのだ。鴨川東岸の鷲尾、現在の円山公園音楽堂のあたりに身を潜めていた佐々木経高に対して北条泰時は使者を派遣し、鎌倉に書状を送って恩赦を申請すると伝えたのであるが、佐々木経高はこの温情でプライドが壊され、自ら死を選ぶこととなった。

 吾妻鏡は北条泰時のこのような温情措置を、そして、温情措置を受け入れる、もしくは拒否する鎌倉武士達の姿勢を書き記す。しかし、同時代の貴族の日記によると鎌倉方の手による敗残兵の掃討作戦は苛烈を極めたという記録もあり、承久三(一二二一)年六月一九日に藤原秀康以下を追討せよという仲恭天皇の名で発せられた宣旨が京畿諸国に布告されたことで、残党討伐は朝廷の正式な指令に基づく行為となった。

 宣旨が発給された六月一九日に錦織義継が佐野太郎らによって六波羅で捕縛され、翌六月二〇日には神地頼経が貴船付近で生け捕りにされた。

 さらに逃走した者の本拠地が平安京から遠くにある者に対しては、その本拠地に対して、承久の乱で京都方の一員として参戦した者が帰郷したならば討伐するよう指令が飛び、平安京近隣に潜んでいると話が出た者は捜索隊が派遣された。この討伐は長く続き、六年後の嘉禄三(一二二七)年六月まで討伐により捕縛したことの記録が確認できる。

 北条泰時には残党討伐と並行して進めなければならないことがあった。なお、北条義時の一存ではなく北条時房との共同作業である。

 それは、功績を残した武士に対する評価である。

 ほぼ全ての武士が自らの勲功を訴え出て、功績に見合った所領を求めたのである。吾妻鏡によると、承久三(一二二一)年六月一七日に宇治川の戦いの先陣を巡って芝田兼義と佐々木信綱とが争ったという。一番乗りの功績をめぐっての争いである。先に宇治川を入っていったのは芝田兼義であるが、先に宇治川を渡りきったのは佐々木信綱である。芝田兼義にしてみれば自分が宇治川の浅瀬についての情報を手に入れたから宇治川を渡り切れたのであるが、先に敵陣にたどり着いたことのほうがより高く評価されるべきことであるという判決が出て、軍配は佐々木信綱に上がった。この判断に対し芝田兼義は不満を隠せなかったという。

 評価そのものについては北条泰時や北条時房が下したが、下した評価や戦闘のとりまとめ記録である交名(きょうみょう)は、後藤基綱が中心となり、関実忠や、金持兵衛尉の協力のもと作成され、まずは北条泰時に提出し、六月一八日に恩賞審理のために鎌倉へと送られた。

 この交名(きょうみょう)を吾妻鏡は詳細に書き記す。


六月十四日宇治合戰討敵人々

秩父平次五郎〔一人不知名〕

小笠原四郎長清〔一人付絃袋〕

佐々木又太郎右衛門尉〔同〕

奈良五郎高家〔一人〕

横溝五郎〔一人〕

佐竹六郎〔二人内一人手討〕

押垂三郎兵衛尉〔一人郎等討之〕

冨田小太郎〔一人〕

戸村三郎〔三人内生虜一人勅使左衛門尉入道〕

浦太郎〔三人〕

嶋津三郎兵衛尉〔七人内僧一人生虜二人〕

若狹兵衛入道の部下〔三人〕

宮木小四郎〔一人野次郎左衛門尉〕

大井左衛門三郎〔一人〕

品河小三郎〔二人〕

品河四郎太郎〔一人〕

於呂左衛門四郎〔二人内生虜一人〕

同五郎〔四人内一人生虜〕

葛山太郎〔一人弦袋〕

駿河次郎泰村〔四人内奴加澤左近將監一人小河兵衛尉一人討也〕

伊具六郎〔二人内深草六郎一人染屋刑部七郎一人討之云々〕

並木弥次郎兵衛尉〔一人法師〕

天野右馬太郎〔五人内一人手討〕

黒田三郎入道〔一人郎等討之〕

佐竹別当義季の部下〔二人〕

梶原平左衛門太郎の部下〔一人〕

四宮右馬允〔二人〕

香河小五郎〔二人太刀長輻輪〕

豊嶋九郎小太郎〔二人郎等信濃討之〕

高野弥太郎〔一人〕

塩尻弥三郎〔出雲國小三郎云々〕

庄四郎四方田弘季〔一人生取〕

同五郎〔一人生取〕

潮田四郎太郎〔一人〕

蒼海平太〔二人但首者梟宇治云々〕

大貫三郎〔一人〕

大和太郎左衛門尉〔一人手討二人郎等討之〕

大和藤内〔一人〕

山田八郎〔二人手討〕

同次郎〔二人手討〕

河越三郎重員〔一人手討〕

小野寺左衛門入道〔五人内一人手討〕

澁谷三郎〔二人手討一人荻野三郎〕

澁谷權守太郎〔二人内一人手討一人生取〕

澁谷又太郎〔一人手討出雲國神西庄司太郎〕

縣左近將監〔二人〕

神保与三〔一人〕

多胡宗内〔一人〕

椎名弥次郎

小手左近將監〔二人内一人生捕〕

三善右衛門四郎〔三人手討〕

澁谷六郎〔一人郎等討之〕

以上九十八人〔此内衛府五人生取七人〕。判官代の記録に基づく。

長布施四郎〔三人内一人荻野太郎等一人佐々木判官親者一人生取〕

猪俣左衛門尉〔一人〕

佐貫右衛門十郎〔四人〕

金子大倉太郎〔二人〕

金子右近将監〔二人〕

金子三郎〔一人〕

須久留兵衛次郎〔一人〕

岩田七郎政広〔一人〕

豊田四郎〔一人〕

同五郎〔四人〕

佐貫七郎〔一人〕

小代右馬次郎〔二人〕

河村四郎〔一人〕

於呂小五郎〔一人西面衆〕

松田小次郎〔二人内一人甲斐中將侍刑部丞云々〕

松田九郎〔二人内西面平内一人熊野法印親者〕

小越四郎〔一人〕

秩父次郎太郎〔一人上臈云々〕

三ヶ尻小次郎〔一人〕

藤田兵衛尉〔一人手討佐々木判官手者云々〕

内嶋三郎〔二人〕

小越四郎太郎〔二人〕

大井太郎光長〔一人〕

小越右馬太郎〔二人〕

中村四郎〔二人〕

河原田四郎太郎〔一人〕

人見八郎〔一人〕

木内次郎胤家〔一人〕

風早四郎〔一人〕

山城右衛門尉〔十六人〕

兒玉刑部四郎〔一人〕

河村太郎〔三人郎等討之〕

河村三郎〔一人手討〕

河村五郎四郎〔一人手討西面〕

勅使河原五郎兵衛尉〔一人郎等討之〕

勅使河原四郎〔一人手討〕

大田五郎〔一人手討〕

香河三郎〔一人手討〕

甘糟小次郎〔一人〕

河匂小太郎〔一人手討〕

波多野弥藤次〔一人手討梟宇治云々〕

小澤太郎入道〔二人梟宇治云々〕

沼田小太郎〔一人手討熊野法印子〕

佐田太郎〔一人手討〕

糟谷三郎〔一人手討〕

糟谷四郎〔一人手討〕

小代与田次郎〔一人〕

以上八十四人〔此内衛府五人生取七人〕。金持兵衛尉の記録に基づく。

相良三郎〔一人渡部弥三郎兵衛尉北面云々。直垂綾〕

長布施三郎〔一人〕

二宮三郎〔二人不知名〕

曾我八郎〔一人宰相中將格勤者〕

曾我八郎三郎〔一人同格勤者〕

泉八郎〔二人〕

同次郎〔三人〕

安東兵衛尉の家来、伊予玉井四郎資重〔一人〕

肥前房〔一人山口兵衛尉小舎人童生取〕

權守三郎〔一人甲斐中將中間云々〕

二藤太三郎〔一人佐々木判官親者〕

藤巻藤太〔一人三郎法師生取〕

淸久左衛門尉〔二人〕

曾我太郎〔一人〕

成田五郎〔一人〕

成田藤次〔一人〕

奈良兵衛尉〔一人山法師〕

別府次郎太郎〔一人〕

荏原六郎太郎〔一人下総前司郎等〕

荏原七郎〔一人郎等討之〕

岩原源八〔一人〕

弓削平次五郎〔一人〕

河平次郎の部下〔四人熊野法師一人弦袋〕

土屋三郎兵衛尉宗遠〔一人〕

宇津幾十郎〔一人〕

佐貫右衛門尉十郎〔一人弦袋〕

宿屋太郎手〔五人〕

興津左衛門三郎〔二人手討〕

六月十五日以降に京都にて記載

植野次郎〔一人〕

角田太郎〔一人手討九郎判官郎等美六美八〕

波多野中務次郎経朝〔一人熊野法印長輻輪太刀〕

内藤左近將監〔一人熊野法師郎等〕

内記左近將監〔二人熊野法師郎等〕

荻窪六郎〔二人内一人肥前國佐山十郎〕

西條四郎〔一人郎等手討〕

古郡四郎〔一人瑠璃王左衛門尉西面生取〕

天野平内次郎〔一人〕

山田藏人〔三人生取下総前司郎等〕

仁田次郎太郎〔五人内一人生取宮分刑部丞〕

金持兵衛尉〔五人二位法印家人〕

豊嶋十郎〔一人付金云々〕

中村小五郎兵衛尉〔一人生取中七左近〕

荻原小太郎〔一人〕

佐々木四郎右衛門尉〔一人手討佐々木太郎右衛門尉〕

以上七十三人

そのほか二百五十五人

六月十三日十四日宇治橋合戰手負人々

十三日

冨部五郎兵衛尉

冨部町野兵衛尉

松田小次郎

松田三郎

松田五郎

松田平三郎

松田右衛門太郎

波多野中務丞次郎経朝

波多野五郎

牧右近太郎

牧中次

小澤太郎入道

小澤藤次太郎

椎名小次郎

横田右馬允

阿曾沼六郎太郎

香河小五郎

豊田平太

豊田五郎

保土原三郎

今泉弥三郎兵衛尉

今泉五郎

今泉須河次郎

今泉五郎

今泉堤五郎

世山三郎

河田七郎

甘糟小太郎

藤田新兵衛尉

須賀弥太郎

安保右馬允

目黒小太郎

井田四郎太郎

沼田小太郎

沼田佐藤太

以上三十五人

十四日

小代小次郎

行田兵衛尉

古庄太郎

曾我太郎

源内八郎

女景太郎

宇津幾平太

宇津幾十郎

山口兵衛太郎

須黒兵衛太郎

加世左近將監

加世弥次郎〔死亡〕

仙波太郎

仙波左衛門尉

國分八郎〔相摸〕

興津左衛門三郎

興津四郎

興津六郎

興津紀太

興津八郎太郎

興津十郎

河村藤四郎

岩原源八

吉香左衛門次郎

大内十郎

大内弥次郎

源七刑部次郎

源三郎太郎

児島三郎

児島六郎

児島七郎

矢部源次郎

内記四郎

屋代兵衛尉

葛山小次郎

波賀小太郎

古谷八郎

古谷飯積三郎

古谷十郎

岡村次郎兵衛尉

岩平小四郎

岩平五郎

岩平余一

河原次郎

皆河太郎

大江兵衛尉

同四郎

井田四郎

岩田八郎五郎

大倉小次郎

高井小太郎

高井小次郎

長澤又太郎

佐加江四郎〔重傷〕

佐加江九郎〔重傷〕

矢田八郎

妻良五郎

西郷三郎

新開弥次郎

布施左衛門三郎〔渡河被疵〕

奈良左近將監〔渡河被疵〕

宇治次郎〔渡河被疵〕〔又号波多野〕

佐貫右衛門六郎〔渡河被疵〕

安東の部下肥前房〔渡河被疵〕

松野左近將監

志水右近將監〔渡河被疵〕

平河刑部太郎

平河又太郎

蛭河刑部三郎

蛭河三郎太郎

佐野七郎入道

澁谷平太三郎

澁谷權守六郎

澁谷七郎

品河四郎

阿曾沼次郎

高橋九郎

塩谷左衛門尉

澁谷太郎

澁谷六郎

塩谷弥四郎

澁谷奥太

塩谷小三郎

澁谷五郎

冨田太郎

冨田五郎

玉井小四郎

俣野小太郎

河平三郎

寺尾又太郎

鴛四郎太郎

天野平内太郎

安東藤内

庵原仲次

奥沼二藤三郎

熊井小太郎

鎌田平三〔甲斐〕

以上九十八人

そのほか百三十二人

神保太郎

高井五郎

江田兵衛尉

江田五郎太郎

高井弥太郎

高井室三郎

屋嶋次郎

小串五郎

靑根三郎

六月十四日宇治橋合戦の渡河時での死者

布施右衛門次郎

縣佐藤四郎

高野小太郎

女影四郎〔武藏〕

内嶋七郎

荏原六郎

同弥三郎

太田六郎

今泉七郎

片穂刑部四郎

飯田左近將監

志村弥三郎

志村又太郎

善右衛門太郎

安保刑部丞

安保四郎

安保左衛門次郎

安保八郎

塩屋民部大夫

關左衛門入道

金子大倉六郎

春日刑部二郎太郎

春日小三郎

澁谷四郎

澁谷權守五郎

潮田六郎

志水六郎

於呂七郎

若狹次郎右衛門入道

綱嶋左衛門次郎

大舎人助

飯沼三郎

同子息一人

大河戸小四郎

幸嶋四郎〔又号下河邊〕

梶原平左衛門次郎

成田兵衛尉

同五郎太郎

玉井兵衛太郎

佐貫右衛門五郎

佐貫八郎

佐貫兵衛太郎

長江余一〔被討〕

長江小四郎〔被討〕

相馬三郎

相馬大郎〔被討〕

相馬次郎

小田切奥太

小野寺中務丞

石河三郎〔被討〕

古庄次郎〔被討〕

麻續六郎

中村九郎左近將監

中村三郎

鮫嶋小四郎

新開兵衛尉〔於橋被討〕

大山弥藤次

山内弥五郎

千竃四郎

千竃新太郎

金子小太郎

藤次〔横溝五郎親類〕

寺尾左衛門尉〔於橋上被討〕

庄三郎〔爲敵被討取云々〕

大河戸六郎〔同上〕

佐貫太郎次郎〔被疵於河死〕

佐貫次郎太郎

佐貫八郎

品河次郎

品河四郎三郎

品河六郎太郎

大塩次郎〔信濃〕

浦四郎

江戸四郎三郎

安東平次兵衛尉

安東藤内左衛門尉

町野次郎〔十三日於橋上死〕

仙波弥次郎〔被疵三箇日已後死〕

新太郎

櫻井次郎〔浦太郎手者〕

平次太郎〔寺尾四郎兵衛尉手者〕

高井三郎

嶋名刑部三郎

屋嶋六郎

神保與一

道智三郎太郎

麻祢屋四郎

麻祢屋次郎

武蔵守北条泰時の家来

平六

少輔房

五郎殿

石河平五

佐伯左近將監

片穂刑部四郎

飯田左近將監

足洗藤内

中三入道

後平四郎


 鎌倉へ書状を送ったのは、第一報が承久三(一二二一)年六月一六日、第二報、すなわち交名(きょうみょう)が六月一八日である。できる限り早急に鎌倉に届けるとしても、鎌倉からの返信が来るのは早くても月末、順当に行ったとしても七月初頭である。

 つまり、鎌倉から戦後処分についての指令を記した書状が来る前に、北条泰時と北条時房は、京都でできる範囲について動き始めなければならなかった。残党討伐は当然であるが、鎌倉方の支配下に置かれることとなった面々についての処遇も決めなければならない。

 これが普通の戦いであれば何ら問題ない。しかし、今回は皇族の面々を敵に回した戦いであり、しかもその戦いに勝利したのである。上皇も、親王も、六波羅に駐在している鎌倉方の武士達の支配下ということになってしまったのだ。

 鎌倉からの回答が来るまでの間、北条泰時らは前例のない行動を選ばねばならなかったのである。

 まず、六月一九日に後鳥羽上皇を四辻殿に移して武士達の監視下に置くと同時に、土御門上皇、順徳上皇、雅成親王、頼仁親王を本来の御所に戻した。四辻殿を含むそれらの御所の警備は、名目上は検非違使とその部下である武士達が務めるということになっているが、実際には鎌倉方の武士達に見張られているのと同じである。

 後鳥羽上皇を四辻殿に移したことで、院御所である高陽院殿は無主の邸宅となり、高陽院殿に武士がいるならばそれは敗残兵ということになった。敗残兵が待っている運命は斬首だ。しかも、高陽院殿の周囲は鎌倉方の武士が警護をするが中には入らない、ということになっている。中には不届き者がいて、高陽院殿に忍び込んで略奪に手を染めようと考えた者がいるかもしれないが、そうした者がいたならば、単なる盗賊ではなく敗残兵として直ちに首を切られることとなる。その者がいかに承久の乱で功績を残そうと関係ない。犯行に走った瞬間に敵の残存勢力と見做され首を切られるのである。これで誰が犯罪に手を染めようか。

 六月二〇日、仲恭天皇が閑院内裏に還御したことで、実質的にはともかく理論上は通常の政務が再開可能となった。ただし、内裏に参内できる貴族は極めて限られた。後鳥羽院の側に立たなかった貴族でなければ参内できず、後鳥羽院の側に立った貴族は鎌倉方の武士達の監視下に置かれ続けたのである。

 六月二四日、藤原光親、源有雅、中御門宗行、高倉範茂の四名の貴族が六波羅へ移送された。後鳥羽院の側に立って積極的に発言し行動していた四名である。

 六月二五日、坊門忠信、一条信能、僧侶の長厳、同じく僧侶の観厳らが、前日に移送された四名の次に後鳥羽院の側の中心を担っていたとして六波羅へと移送されることとなった。

 こうして六波羅へと移送された貴族達は、武田信光、小笠原長清、小山朝長、北条朝時、千葉胤綱、結城朝光、遠山景朝といった鎌倉幕府の有力御家人のもとに預けられる身となった。


 北条泰時から鎌倉に送られた戦勝報告が鎌倉に到着したのは、承久三(一二二一)年六月二三日の未明、丑刻というから今で言うと夜中の二時頃である。

 息子から届けられた戦勝報告を読んだ北条義時は喜びを爆発させたという。五月二二日に北条泰時らを派遣させてからの北条義時は、戦勝と平穏を祈る祈祷を、鶴岡八幡宮、勝長寿院、永福寺、大慈寺で開催させており、六月八日には北条義時の邸宅の建物の一つに雷が落ちて、その建物で働いていた者が一人亡くなったという事故が起こっており、これを凶事と考えた北条義時に対して大江広元が、源頼朝の奥州遠征時にも陣営に雷が落ちたことがあったが、奥州遠征は勝利に終わったことを例に挙げて、このたびの落雷は凶事ではなくむしろ吉事であるとしただけでなく、陰陽師達に占いをさせて「最吉」であるという占い結果を伝えさせている。動揺を隠せない一ヶ月を過ごしていた北条義時に対して届いたこれ以上ない吉報は、北条義時を狂喜乱舞させてもおかしくない。

 なお、吾妻鏡にはこの時に北条義時が喜びを爆発させたことが書いてあるのみで具体的な姿を描写してはいないが、承久記には北条義時がこれまでの鬱憤を晴らすかのように、「今は義時、何も思うことがない。義時の果報は王の果報より優れていたのだ。この世に生まれる前の前世の行いに足らないところがあったから武士のような低い身分に生まれたに過ぎなかったのだ」と述べたという。これが本当なら無礼極まりない発言であり、これを聞いた人は北条義時の驕りを感じることがあっても、これで新しく北条義時への支持を決めた者などいないであろう。

 承久記は喜びを爆発させたあまりにとんでもない発言をしたと書いてあるが、吾妻鏡には喜びを爆発させたのちに、敗者となった京都の面々をどのように扱うかの会議を開いたとある。北条義時のこれまでの行動を考えたならば、喜びの爆発まではあってもそこまで無礼な内容ではなく、その後の会議招集を最優先に考え、会議に専念したであろう。

 前例踏襲の時代であり、この時代に承久の乱の勝者の取りうる先例となると、源平合戦終結後の文治元(一一八五)年のこととなる。大江広元は源平合戦の前例をもとに京都に対する処遇を提唱し、この処遇を鎌倉幕府の首脳部の面々が了承したことで、ただちに鎌倉から京都へと使者が派遣されることとなった。

 この時点での内容は以下の通りである。

 まず、後鳥羽院政は終わりとし、後鳥羽上皇の兄である持明院宮守貞親王を新たな院として院政を開始させること。

 また、仲恭天皇は退位させ、守貞親王の子である三郎宮茂仁親王を新たな天皇として即位させること。

 本院後鳥羽上皇は隠岐国へ流罪とすること。

 雅成親王と頼仁親王も流罪とするが、流罪先は北条泰時に決定させること。

 後鳥羽院の側に立った者のうち、公卿ならびに殿上人は関東地方へ向かわせ、それより下の身分の者は全て斬首とすること。

 一方、後鳥羽院の側に立たなかった者は手厚く保護し、特に近衛家実、九条道家、七条院殖子、六条院、仁和寺宮道助法親王、徳大寺公継、中山頼実、そして鎌倉方に通じているとして捕縛された西園寺公経の邸宅とその周辺は厳重に警備すること。

 鎌倉方の武士達にはいかなる乱暴狼藉も禁じ、略奪や暴行をやらかした者がいるなら問答無用で斬首とすること。

 北条時房は京都に駐在させ、北条泰時と北条朝時の両名は鎌倉へと帰還すること。その際、源平合戦期の養和の飢饉を繰り返さぬよう、北条朝時は北陸道七ヵ国の支配を固め、京都への物資搬入路を維持し、平安京内外での食糧難を起こさせないこと。

 なお、北条朝時は鎌倉からの指示に従い北陸道へと向かったが、北条泰時についてはこののちも京都に滞在し続けていたことが記録より確認されている。北条泰時は鎌倉からの命令のうちの一つを無視したわけであるが、それによって北条泰時が何かしらの処罰を受けたということはなく、何事もなかったかのように京都に留まって淡々と実務を処理し続けたことで京都の平穏を作り出したので、このあたりの現場裁量の自由度と、命令を無視したとしても結果を出したなら何ら問わないという姿勢も、鎌倉方の勝利の一因ともいえよう。


 鎌倉を出発した使者が京都に到着したのは承久三(一二二一)年六月二九日である。使者の携えた書状をもとに、北条泰時、北条時房、三浦義村、毛利季光らが評議を行い、鎌倉からの指令を実行することとなった。

 七月一日、六波羅に預けられていた貴族らが鎌倉へと護送されることが決まった。

 翌七月二日、鎌倉幕府の御家人でありながら京都方の一員となっていた、後藤基清、五条有範、佐々木広綱、大江能範らが梟首(きょうしゅ)となった。

 七月五日、鎌倉へ護送される途中であった一条信能が、鎌倉へ向かう途中の美濃国遠山荘で斬首となった。なお、一条信能の甥の一条信継は鎌倉への護送ではなく配流となっており、丹波国芦田で斬首されている。

 七月六日、後鳥羽上皇の身柄が平安京内の四辻殿から平安京の南の鳥羽離宮へと移された。このときの後鳥羽上皇を乗せた牛車の後ろには、西園寺実氏、藤原信成、藤原能茂の三名が騎馬で付き従っている。これまで何度も鳥羽離宮を訪れたことのある後鳥羽上皇も、これまでのような遊興としての御幸ではなく、軟禁のための御幸であることを理解して陰鬱な様相であったという。

 七月八日、持明院宮守貞親王に太政天皇号を奉り、守貞親王、いや、後高倉法皇を新たな治天の君とする新たな院政をスタートさせた。不登極帝(ふとうぎょくてい)、すなわち、帝位経験のない皇族が上皇として治天の君となる異例の院政、後高倉院政のスタートである。後高倉法皇は寿永二(一一八三)年に平家の手によって兄の安徳天皇とともに西へと連れていかれ、安徳天皇と違って無事に帰京できたものの、皇位に就く機会を失い、出家して持明院を御所とし持明院入道行助と名乗っていた。その人物に対して鎌倉幕府は、帝位に就いた経験を持たぬまま太政天皇号を奉り院政を取り仕切らせることとしたのである。後の後醍醐天皇のように院政は不要で、天皇親政こそこの国のあるべき統治スタイルであるとは誰も考えなかったのであろう。この後高倉法皇は現在に至るまで史上唯一の帝位に就いたことのない上皇として名を残すこととなる。

 同日、鳥羽離宮で後鳥羽上皇の肖像画が描かれた。描いたのはこの時代の似絵(にせえ)の名手として名を馳せていた藤原信実である。現在も大阪の水無瀬神宮に所蔵されている後鳥羽上皇の肖像画はこのときに描かれたものである。なお、肖像画の後鳥羽上皇は僧体でないが、後鳥羽上皇はまさにこのタイミングで息子である仁和寺宮道助法親王を戒師として出家しており、僧体でない肖像画ができあがった頃は、後鳥羽上皇、いや、出家したのであるから後鳥羽法皇はもう俗人ではなくなっていた。歴史資料によると、この日に鳥羽離宮を訪れた後鳥羽法皇の母の七条院殖子は、息子が出家したことを知り、また、出家しようと世俗の身であろうと、これから間も無く迎える運命は決まっていることを悟り、涙を懸命に堪えて帰っていったという。

 承久三(一二二一)年七月九日、仲恭天皇が退位し、後高倉院の息子である茂仁親王が天皇に即位した。後堀河天皇の治世の開始である。このとき、後堀河天皇一〇歳。仲恭天皇の退位に併せて摂政九条道家も摂政を罷免となり、前関白近衛家実が後堀河天皇の摂政に就任した。

 仲恭天皇は即位から退位までわずか七八日と、現時点でもっとも治世の短い天皇であり、また、明治維新まででは史上唯一、在位期間が一年に満たない天皇とされていた。史上唯一ではなくなったのは、明治三(一八七〇)年に大友皇子を正式に即位していた天皇であるとし、漢風諡号である弘文天皇の諡号が贈られるのを待たねばならない。

 さらに言えば、仲恭天皇は即位礼も大嘗祭を執り行わなかったことから正式な諡号が贈られることはなく、現在に生きる我々は仲恭天皇と呼んでいるものの、当時の人はそう呼ばなかった。「九条廃帝」「承久廃帝」「半帝」「後廃帝」が仲恭天皇に対する呼びかたであり、仲恭天皇の諡号が贈られたのは、前述の弘文天皇と同じく明治維新後である。ただし、即位していたかどうかの議論まで起こり結論は明治維新まで待たねばならなかった弘文天皇と違い、仲恭天皇は正式に即位していたことは誰もが認めており、ただ単に、諡号が贈られていないだけという認識であった。

 仲恭天皇の退位については多くの人が反発した。たしかに後鳥羽上皇の策略によって帝位に就いたのは事実である。そして、北条義時追討の宣旨も仲恭天皇の名で交付されている。責任を全くのゼロであるとするのはできない。それが為政者に課された責務であると言えばその通りである。だが、仲恭天皇はまだ四歳の幼児だ。まだ四歳の幼児が自発的に何かできようか。

 仲恭天皇の退位について強い反発を見せたのが、愚管抄の作者でもある慈円である。慈円は後鳥羽上皇の挙兵を激しく非難し、鎌倉方の勝利を喜んでもいたが、ここで仲恭天皇を退位させるというのは納得がいかず、ただちに帝位に復すことを求める願文を鎌倉に送り届けている。

 だが、慈円の書状も鎌倉幕府を動かす効果はなく、仲恭天皇は退位したのち、自分の摂政を務めていた九条道家の邸宅に引き渡され、その地で残りの人生を過ごすこととなった。


 承久三(一二二一)年七月一〇日、北条泰時の息子の北条時氏が鳥羽離宮を訪問し、後鳥羽法皇に対して隠岐への流罪を正式に告げた。承久記によると、後鳥羽法皇が出家したのは七月八日ではなく七月一〇日であるとしており、一度目の流罪告知を後鳥羽上皇は理解せず、二度目でようやく理解し、ここでせめて最後に会いたい人がいるとして伊王左衛門能茂こと藤原能茂を呼び寄せたところ、後鳥羽上皇の願いを聞き入れた北条泰時が藤原能茂を呼び寄せた上で藤原能茂を出家させ、僧体で鳥羽離宮へと向かわせたという。藤原能茂と対面した後鳥羽上皇は、藤原能茂が出家したことを目の当たりにして自分も運命を迎える時が来たと実感し、息子の仁和寺宮道助法親王を戒師として出家したという。その際に切り落とした(もとどり)は母の七条院殖子に届けられ、ここで七条院殖子は息子の迎えた運命を悟って嘆き苦しんだとある。ただ、このあたりは承久記の創作の可能性が高く、日付が不整合を起こしているのも承久記の特徴といえよう。

 七月一三日、後鳥羽法皇の隠岐への移送が始まった。

 後鳥羽法皇の身柄は伊東祐時に預けられ、伊東祐時は後鳥羽法皇を四方(よも)逆輿(さかごし)に乗せた。四方(よも)逆輿(さかごし)とは輿を進行方向と逆にする罪人護送時の輿の使い方であり、後鳥羽法皇を四方(よも)逆輿(さかごし)で移送することは、後鳥羽院が完膚なきまでに敗れ去ったこと、時代は鎌倉幕府のものになったと見せつけるこれ以上ないアピールになった。

 また、御鳥羽法皇の周囲につき従う人の少なさも時代の移り変わりを実感させた。供奉(ぐぶ)したのは、出家して僧体となっていた藤原能茂、同じく出家して僧体となっていた高倉清範、坊門信清の娘で頼仁親王の母である西ノ御方(にしのおんかた)をはじめ、名の伝わっていない二名の女性の計五名であったという。なお、隠岐への護送途中で後鳥羽法皇が命を落とした場合に備えて(ひじり)が二名付き従っていたとの記録もあるが、その人達を含めても合計七名である。なお、吾妻鏡によると藤原能茂は従っておらず、高倉清範は途中で京都への帰還を命じられ、代わりに和気長成と藤原能茂がやってきて後鳥羽上皇に付き従うこととなったという。ちなみに、藤原能茂と同様、和気長成も出家した身であるため、このときは僧体である。

 七月一四日、中御門宗行が駿河国藍沢原で斬首された。

 七月一八日、高倉範氏が相模国早河で伏漬(ふしづけ)にされた。これは、身体を拘束して重石(おもし)をつけ、水中に沈めるという処刑方法である。

 鎌倉へと護送せよと命じられた人の多くは鎌倉までたどり着く前に鎌倉武士達の手によって運命を迎えさせられていたのである。

 これらの知らせは多くの貴族や僧侶を絶望させたが、たった一つだけ希望があった。北条政子をはじめとする鎌倉幕府の重要人物に慈悲を乞う手紙を送るのである。うまくいけば命が助かる可能性があるのだ。

 こうして助かった者も中にはいたが、無事に京都に戻ることのできた者だけではない。死ではなく流罪となった者もいたし、慈悲を乞う手紙を送り届け、その返信がまさに送られている途中であるのに、返信が届く前に死を強要された者もいた。

 それが承久の乱の敗者の運命である。

 鎌倉幕府の慈悲を期待できない者が選んだのは、徹底した逃避行であった。


 流罪となったのは後鳥羽法皇だけではない。

 七月二〇日、順徳上皇が佐渡へと配流になった。順徳上皇には一条能氏、藤原範経、源康光の三名のほか、名が伝わっていない二人の女性が同行したとある。ただし、一条能氏は佐渡へ向かう途中で病気になり京都へ戻され、藤原範経も途中で重病となり越後国寺泊に留め置かれることとなった。

 七月二四日、六条宮雅成親王が但馬国へ、翌七月二五日には冷泉宮頼仁親王が備前国へ配流となった。

 なお、三人の上皇のうち土御門上皇については承久三(一二二一)年七月時点で鎌倉幕府は何ら処断していない。さらに言えば、そもそも土御門上皇については有罪としない方針でいた。しかし、後鳥羽法皇も順徳上皇も配流となったのに自分一人だけが無罪でいることは許容できないとして、土御門上皇自身が配流を希望したという。吾妻鏡によれば、鎌倉幕府として関知せぬという前提で土御門上皇が自分の意思で土佐国へと渡り、のちに阿波国へと自分で自分を配流したというのが吾妻鏡の記載である。

 時代は後高倉院政を迎えるようになっていたが、その背後には六波羅に駐留し続けていた鎌倉方があった。北条泰時は三年後、北条時房も四年後まで六波羅に滞在し続け朝廷に目を光らせるようになっていたのである。

 その後も北条家の誰かが六波羅に常駐し、京都を監視すると同時に西日本各地に目を光らせる体制が構築された。京都守護はその役職を終え、新たな役職である六波羅探題が誕生したのである。

 白河法皇以後、朝廷で生きるために必要なのは院とのつながりと藤原摂関家とのつながりのどちらか、あるいはその両方であったが、承久の乱の後は、そのどちらも重要ではなく、鎌倉幕府とのつながりこそが幅を効かせるようになった。鎌倉幕府に親しいという理由で乱の勃発直後に捕縛された西園寺公経は、承久の乱を終えると鎌倉幕府の権勢を背景に朝廷権力を上り詰めていくこととなる。内大臣を経て従一位太政大臣へと上り詰め、ついには西園寺公経個人の持っていた鎌倉幕府とのつながりが朝廷の正式な職務である関東申次となっただけでなく、西園寺家が関東申次を世襲することで、藤氏長者の地位を争っていた近衛家と九条家に匹敵する権勢を手にすることとなる。

 鎌倉幕府誕生から二九年、鎌倉幕府は東国の政治勢力から、日本全体を掌握する巨大勢力へとのしあがり、平安時代は終わりを迎え鎌倉時代が始まることとなる。

 それから七世紀半、日本国は武士が統治する時代を経験することとなる。


 ― 完 ―


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