第七部 後鳥羽院の陰謀
源実朝が暗殺された翌日の建保七(一二一九)年一月二八日に鎌倉を出発した加藤景廉が京都に到着したのは二月二日の午後である。通常、噂の伝播スピードは公式な情報伝達より早い。しかし、鎌倉から京都まで五日間で踏破するという異例極まりないスピードであったこともあり、源実朝暗殺の情報が京都に届いたのは加藤景廉の知らせが最初の知らせであった。
源実朝殺害の知らせは一瞬にして京都内外を混乱に招いた。
源平合戦は忘れることのできない悪夢であり、悪夢の末に手にした平和の具現化こそ鎌倉幕府であった。その鎌倉幕府のトップである将軍源実朝がいなくなった。しかも、源実朝の後継者がいない状態で源実朝がいなくなったのだ。これで誰が今後の未来に希望を持てようか。
源実朝死去の知らせが京都に届いたとき後鳥羽上皇は水無瀬宮にいた。水無瀬宮の跡地を示す水無瀬宮址は現在の大阪府三島郡島本町にあり、近くを走る阪急京都線には水無瀬駅がある。関西地方に住んでいる方ならば大阪府の中でもっとも京都に近い地域の一つであると把握するであろうし、京都都市圏の一角であるというと納得してもらえる地域であると一方、水無瀬が京都の一部であると考える人は少ないであろう。あくまでも大阪府の一部であり、大阪府の中では京都に近い地域と捉えるはずである。
この概念は今から八〇〇年前にも通用する概念である。現在の水無瀬は大阪府であり、この時代の水無瀬は摂津国である。そして、この時代の交通の利便性は現代の足下にも及ばない。この時代の感覚で言うと、いかに京都と近くても水無瀬は京都から離れた土地であるという認識が存在し、山城国ではないという一点で情報の遅延が生じる。
実際、平安京から遠いだけでなく山城国でもないという理由で、京都に源実朝殺害の知らせが届いたときはまだ、後鳥羽上皇のもとに源実朝殺害の知らせが届かなかった。後鳥羽上皇が源実朝の死を知ったのは、鎌倉幕府からの正式な情報ではなく、大納言西園寺公経からの報告を受けてのことである。西園寺公経は鎌倉下向中である子の西園寺実氏からの急報を受けたため、一刻も早く後鳥羽上皇に教えねばならぬと考えて水無瀬殿に駆けつけ、後鳥羽上皇に源実朝の死を伝えた。これが後鳥羽上皇の元に届いた源実朝殺害に関する最初の連絡であった。
後鳥羽上皇が水無瀬を発って京都に戻ったのは二月六日のことである。院御所となっていた高陽院殿に入り、陰陽師達を全員解任した上で、後鳥羽上皇自らが五壇法、仁王経法、七仏薬師法などを修して、国土安穏と玉体安寧を祈らせたという。なお、この段階ではまだ、源実朝の右大臣拝命による拝賀式に参加するために鎌倉に向かっていた貴族達の安否は不明であり、我が子から書状が届いた大納言西園寺公経は例外である。後鳥羽上皇は予期せぬ出来事に直面し、自分も含む多くの人が動揺すると見て、どうにかして動揺を沈静化することを試みた。先に挙げた祈祷はそうした沈静化のための行動の一例であり、現代人からすると、後鳥羽上皇は無意味なことをしていると感じるかも知れないが、この当時の人にとっては治天の君である後鳥羽上皇が国のために、そして国民のために祈りを捧げることで責任を取るとアピールすることは、動揺する世相の沈静化させる効果があった。
なお陰陽師達を解任した理由であるが、源実朝の右大臣拝賀式が無事に完了するまで祈祷をさせていたからである。無事を祈っていたはずなのに無事に完了しなかったではないかと文句を言って解任させられたわけで、陰陽師達にしてみれば自分と無関係のところで起こった出来事で責任を取らされたのであるからたまったものではないが、それもまた陰陽師という職業に存在する現実であろう。
京都に源実朝が亡くなったというニュースが届いたのが建保七(一二一九)年二月二日、この知らせを受けて後鳥羽上皇が水無瀬から京都に戻ってきたのが二月六日のことである。
その間、鎌倉ではどのようなことが起こっていたかに着目すると、建保七(一二一九)年二月五日に、源実朝の右大臣就任拝賀式のために京都からやって来ていた上達部や殿上人ら等が京都へと戻っていったことの記録が見て取れる。
これを単に貴族達が京都に戻っていっただけではないかと考えるのは浅慮に過ぎる。貴族達が京都に帰れるだけの安全がようやく確保できたということなのだ。これまで鎌倉に滞在していたのは源実朝殺害事件という大事件が起こっていたためであり、今に生きる我々はただちに物騒な鎌倉を離れて京都に戻るべきと考えるところであるが、この時代にその考えは許されなかった。
京都もまた危険であるが、何より鎌倉から京都への道中が危険なのだ。
公暁が源実朝を殺害し、公暁もまた捕えられ殺害されたが、この事件が鎌倉だけの出来事である可能性はどこにもなかった。鎌倉幕府に対する反逆と考えた場合、鎌倉で起こったような犯罪が道中でも起こるかもしれないし、京都に戻ってからも犯罪が起こるかもしれない。京都は検非違使が警察権を発動させて治安維持をどうにかさせてくれていることが期待できても、鎌倉から京都に向かう道中となると、その危険性は計り知れないものがあった。
それに、源実朝、源仲章、源師憲の三名が鶴岡八幡宮で殺害され、その少し後に公暁らが殺害された後、少なくとも鎌倉市内に限れば事態は沈静化している。安全性だけを考えれば京都に向かうよりも鎌倉市中にとどまり続ける方がまだマシである。その後も鎌倉には続々と道中に関する情報は入ってきている。さすがに京都からの反応はまだだが、カレンダーを考えればやむを得ない。
一方、京都の立場で捉えると、源実朝暗殺という誰もが想像しなかった大ニュースが届いたものの、京都から鎌倉に向かった貴族たちの安否がわからなくなっている。鎌倉に赴いていた息子からの手紙が届いた西園寺公経は例外であり、多くの者は安否不明状態にあったのだ。こうなるといかに鎌倉の方がまだ安全だと言っても、ずっと鎌倉に居続けることはかえって問題となる。
新幹線や高速道路、飛行機などないこの時代、京都と鎌倉との間は基本的に陸路だ。源頼朝がいかに片道七日往復半月となるよう情報網の整備をしたといっても、それは鍛え抜かれた武士が馬を乗り継ぐことが前提の話である。貴族が陸路を移動するとなったら、それも、道中の安全性に懸念があるので慎重に移動しなければならないという制約があるならば、片道半月は要する。
このようなときは、ある程度の期間に限ったとしても鎌倉に滞在し続け、京都へ戻るときは周囲を護衛で固めた上で、襲いかかられることのないように集団で移動するのが最も安全性が高い。無論、一日あたりの移動距離は短いものとなる。夜明け前から移動をはじめ日没後まで移動し続けるなどという贅沢はできない。朝日が昇って周囲が明るくなってから移動を始め、日没前には安全な場所に宿泊する準備を終えなければならないのである。なお、貴族達が宿泊している最中も護衛の武士たちは交替で徹夜の見張りだ。
このような移動となったことの必要性は、奇しくも貴族達が京都へ戻って行った翌日に判明した。後鳥羽上皇が水無瀬から京都に戻ったのと同日の建保七(一二一九)年二月六日、鶴岡八幡宮別当の公暁が伊勢神宮に派遣した白河左衛門尉が、伊勢神宮に参詣して幣を捧げ終えて鎌倉に戻る途中、三河国矢作の宿場で公暁による源実朝暗殺と、その後の捕縛で公暁が命を落としたことを知り、自ら命を絶ったのである。彼の場合は純然たる神事に関する伊勢神宮への派遣であり、公暁による源実朝暗殺の片棒を担いでいるわけではない。しかし、公暁によって見出された者であることに違いはなく、公暁の破滅を悟って自暴自棄になる者が出たとしてもおかしくはなかったのだ。自暴自棄の矛先が自らの命に向かったから被害者は本人一人で済んだが、矛先が京都へ戻る途中の貴族達に向かったら、被害者は一人では済まなかったであろう。
建保七(一二一九)年二月九日に加藤景廉が京都から鎌倉に戻ってきた。
先に記したが、一月二八日の早朝に鎌倉を出発して二月二日に京都に到着したのが京都における源実朝暗殺の第一報であり、源実朝、源仲章、源師憲の三名が公暁によって殺害されたという知らせを受けて京都中が騒動となって、京都在駐の鎌倉幕府の御家人達だけでなく、北面武士や西面武士、また僧兵達も武装する騒ぎとなっていた。特に、それまで鎌倉幕府によって押さえつけられていた武士達が鎌倉幕府打倒の絶好のチャンスと考えて蜂起する動きを見せ、後鳥羽院から禁令が出たために強引に沈静化させられている。
その後も鎌倉幕府からは情報が定期的に京都に届いてきていた。特に重要なのが、源仲章と源師憲の両名以外に京都から鎌倉に出向いた貴族達は無事であり、鎌倉幕府の御家人達に護衛されて京都へ向かっている途中であるという知らせである。
これにより京都ではひとまずの安定を獲得できたが、それはあくまでも京都の安定であって日本国全体の安定ではない。
後鳥羽上皇はこれまで鎌倉幕府との協調を考え、鎌倉幕府から打診されていた源実朝の後継者としての皇族の下向についても前向きに考えていた。
その考えは源実朝の死によって一瞬にして消え去った。
後鳥羽上皇としては源実朝とのつながりを前提として鎌倉幕府との協調を図ることを考えていた。武装集団としての鎌倉幕府は自身に関連する圧力組織として計算できた反面、後鳥羽上皇が制御できる存在とはなっていなかったが、後鳥羽上皇と源実朝とは協調できており、源実朝を通じることで後鳥羽院と鎌倉幕府の武力との連携が構築されていたのである。
ここで源実朝がいなくなった。
そのため、後鳥羽上皇には二つの選択肢が示されたこととなる。
一つは以前からの誓願に応えるように皇族の誰かを新たな将軍として鎌倉に下向させることである。征夷大将軍は熱田神宮の宮司と連なる血筋の者が就くという前提があるが、その前提も皇族の前には霞む。皇族ではなく熱田神宮の宮司に連なる血筋の民間人でなければならないと誰かが言ってきたとしても、後鳥羽上皇は承元四(一二一〇)年一二月五日に伊勢大神宮神剣を天叢雲剣の形代であると宣告した過去があるのだから、その言葉は通用しない。
もう一つは鎌倉幕府からの誓願を無視して鎌倉幕府という組織そのものを取りつぶすことである。本音を言えば後鳥羽上皇にとって鎌倉幕府とは目障りな存在である。莫大な軍事力を持っているため無視できず、この軍事力が朝廷や院に逆らって蜂起する可能性が否定できない。先例を辿ると治承三(一一七九)年に平家が朝廷を掌握して当時の後白河院を機能不全に陥らせた歴史に行き着く。ただでさえ源実朝を亡くしたことでこれから先どのような行動に打って出るかわからない鎌倉幕府が、自暴自棄の末に三〇年前の平家と同じ選択をする可能性は否定できないのだ。
鎌倉幕府の内部でも鎌倉幕府をこれから先どのように存続させていくべきか検討が繰り返されていた。その中で意見の一致を見たのが、従来から誓願してきた皇室の男児の下向を求めることである。従二位の位階を持っているために一時的に鎌倉幕府の軸を担うことが許される北条政子が強く主張し、多くの御家人達も北条政子の意見に同意を示したため、皇室の男児を鎌倉に招くことを中心に話を進めることとなった。
建保七(一二一九)年二月一三日、鎌倉幕府は二階堂行光を使者として京都に向けて派遣することとした。六条宮雅成親王と冷泉宮頼仁親王のどちらかを新たな征夷大将軍として鎌倉に招き入れたいという誓願を朝廷に届けるためであり、二階堂行光の手元には、従二位北条政子をはじめ、鎌倉幕府のうち貴族としてカウントされている者の署名を集めた書状があった。
六条宮雅成親王は後鳥羽上皇の皇子で、順徳天皇の三歳下の同母弟である。
冷泉宮頼仁親王も後鳥羽上皇の皇子で、順徳天皇の四歳下の異母弟である。
後鳥羽上皇の皇子となれば熱田神宮の宮司の血を引いているかどうかなど関係なく、文句なしに征夷大将軍となることができる。鎌倉幕府の本心としては、征夷大将軍とは天叢雲剣の形代でなければならないという建前を崩したくはなかったし、ここで妥協を見せることは鎌倉幕府の根幹を揺るがす話となるが、源実朝が殺害されてしまったという重大事態の前には根幹を揺るがそうと構わない。源頼朝の子孫が将軍として存在し続けていることを前提とした組織存続であったのに前提が失われた以上、妥協であろうと何であろうと鎌倉幕府存続のためにはあれこれと言っていられる余裕などないのだ。
また、源実朝が殺害されたことを契機として出家した数多くの御家人達の中に、一二年の長きに亘って京都守護を務めていた中原季時がいたため、この時点では京都守護が不在となっていた。鎌倉幕府は、平時でも困難な職務をこの緊急事態にこなさねばならないこと、特に京都における武力発動の指揮を担う人物の派遣が何よりも優先されなければならないこと、この二点を念頭に置いて、まずは京都守護の武門担当として伊賀光季を京都に派遣することとした。伊賀光季は藤原秀郷の子孫の末裔であり、本名は藤原光季である。藤原北家の一員ではあるものの貴族の一員になる見込みはないという人物であったが、左衛門尉や検非違使を京都の地で歴任してきた経験がある。また、この人物の母は二階堂行政の娘であり、二階堂行政は鎌倉幕府の宿老の一人で一三人の合議制の一人にも選ばれた人物であるほか、生年不詳のため伊賀光季の姉もしくは妹であるとしかわからないものの、北条義時の継室である女性は伊賀光季と姉妹であったことは判明しており、伊賀光季は北条家の外戚の一人として北条義時が動かすことのできる鎌倉幕府の御家人の一人でもあったことは重要な意味を持っていた。
ただし、伊賀光季は武人として計算できても、京都守護としての行政能力には不安が残る。そこで、大江広元の息子であり北条義時の娘婿でもある大江親広を、京都守護の武門以外を担当させるために京都に派遣することを決めた。
これまで一人で京都守護を務めていた中原季時の後任を二名体制とすることで、緊急時の京都守護の体制を強固なものとすることに成功したと言える。実際、このあとの京都における鎌倉幕府の行動を見てみると、まずは及第点であったと言えるのだ。
ただし、この二人の京都守護は、これから二年後に京都で意見の違いから大問題を起こすこととなる。
京都守護の任命と並行して、鎌倉幕府として皇族を将軍として迎え入れることに異論はないという意思を示す必要もあった。皇族の男児を鎌倉に向かわせた後で別の源氏の男児が将軍位を狙うことが無いという意思を示すために、建保七(一二一九)年二月一九日に金窪行親をはじめとする御家人を駿河国へ派遣した。
吾妻鏡によると、源実朝の死の知らせを受けて、阿野全成の四男の阿野時元が軍勢を組織して駿河国深山に砦を築きあげたという連絡が二月一五日に届いたとある。阿野時元の言い分としては宣旨を受けて東国の統治を任されることとなったというものであるが、当然ながらそのような宣旨はない。
鎌倉に情報が届いてから四日後に鎌倉から軍勢を派遣したのであるが、鎌倉幕府としてではなく北条義時の個人的な軍事派遣である。厳密に言えば従二位の位階を持つ北条政子が甥のやらかしについて個人的に責任を取るとして、弟に頼み込んで軍事派遣を願ったという図式である。源実朝がいなくなっている現状で法的正当性を持たせるためにはこのような図式を用意しなければならなかったのだ。
阿野全成は源頼朝の弟であるため、阿野全成の息子である阿野時元も源氏であり、一見すると征夷大将軍に就く資格があるように思えるし、実際に阿野時元もその理屈で源実朝も公暁もいなくなったあとの東国武士団のトップは自分だと考えた。また、阿野時元と同調して立ち上がった武士達も、突然湧いて出てきた人生一発逆転の大チャンスに乗ったつもりでいた。
ただ、阿野時元は大切なことを忘れていた。源実朝とその子らが征夷大将軍となって権威を獲得したのは清和源氏だからではない。室町時代以後は清和源氏であることが征夷大将軍たる要件になるが、鎌倉時代の途中までは熱田神宮につながる血統を有していることが征夷大将軍たる要件であった。阿野時元の父の阿野全成は源頼朝の弟であるが、母親が違う。阿野時元の身体に清和源氏の血は流れていても熱田神宮の血は流れていないのだ。
ここで鎌倉幕府として阿野時元を倒すことは、源頼朝の近親者として征夷大将軍になりうると思われる、しかし実際には征夷大将軍に就く資格のない人物を排除することで、これから鎌倉へ下向してくる皇族出身の新たな征夷大将軍への忠誠を示し、同時に鎌倉幕府にとって厄介な存在を排除できる行動であったのだ。
二月二二日には阿野時元の兄である阿野頼高と阿野頼全の両名を駿河国阿野郡へと派遣された軍勢が討伐したという連絡が届き、翌二月二三日に阿野時元は自ら死を選んだという連絡が届いた。
鎌倉幕府はどうにかして新たな将軍として皇族を鎌倉に招き入れようとしていたが、後鳥羽上皇からの返答は良好なものではなかった。
後鳥羽上皇は自分の皇子である六条宮雅成親王と冷泉宮頼仁親王のどちらかを将軍として鎌倉に送り込むことを了承していたが、それは同時にリスクでもあった。
人質とされるのだ。
自分の子を将軍として鎌倉に送り込むことで後鳥羽上皇は鎌倉幕府の軍事力を手に入れられる。
同時に、鎌倉に送り込むこととなる皇族は後鳥羽上皇の皇子であるために皇位継承権を有していることとなる。
つまり、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の軍事力を手に入れられると同時に、鎌倉幕府としても皇位継承権に関与できるようになってしまうのだ。
そもそも征夷大将軍の持つ権勢の根拠は、源頼朝が熱田神宮の宮司の血を引くために、壇ノ浦に沈んだ天叢雲剣の新たな形代と扱われることである。源頼朝や源頼朝の子が征夷大将軍であり続けることが壇ノ浦の戦いのあとの皇位継承の条件となってしまっている以上、征夷大将軍は誰でもいいというわけにはいかない。たしかに後鳥羽上皇は鎌倉幕府の手にしていた天叢雲剣の形代という特権を剥奪し、承元四(一二一〇)年一二月五日に蓮華王院宝蔵の伊勢大神宮神剣を天叢雲剣の新たな形代とすると宣言したことで、源頼朝の子孫でなくとも征夷大将軍に就いても問題ないということにさせていたが、それでも、征夷大将軍の人選は慎重にならざるを得なかった。
その慎重さを乗り越える人材を求めるなら皇族というのは正しい答えであり、皇族の中でも皇位継承権を有する皇族であれば征夷大将軍として申し分ない人材になる。
申し分ない人材であるために、征夷大将軍が次代の天皇となる可能性も高いものとなる。
後鳥羽上皇が危惧したのはこの点だ。
ここで後鳥羽上皇が企んだのは、時間稼ぎによる鎌倉幕府の降伏である。愚管抄によると、この頃の後鳥羽上皇の思いとして「いかに将来にこの日本国を二つに分けるようなことを前もってできようか」という感情があったとしている。この国を二つに引き裂く事態を迎えるぐらいならば時間を稼いで鎌倉幕府を降伏させるのは選択肢として間違っていないと言えよう。
しかし、後鳥羽上皇の思いがどうあろうと、鎌倉幕府としては誰かを将軍としなければ組織が維持できない以上、後鳥羽上皇の思いを成就させるのは認められない。そこでいう「誰か」が源実朝の実子であれば何の問題もなかったろうが、源実朝は男児をもうけぬまま命を落としてしまった。しかも、実行犯は源頼朝の孫である公暁であり、公暁はその犯行のために討ち取られた。そのため、鎌倉幕府としては「誰か」として次善の策たる後鳥羽上皇の皇子を渇望している。それも、皇位継承権を有する血筋の皇子だ。
時間が経てば経つほど、鎌倉幕府は皇子にこだわる必要が減っていく。征夷大将軍に付随する天叢雲剣の形代としての側面は、後鳥羽上皇によって否定されたものの、肝心の熱田神宮が認めていない。ここで後鳥羽上皇の判断を覆すことができれば鎌倉幕府として大きなメリットがある。
そのメリットは時間経過とともに失われていく。後鳥羽上皇の求める最終的な着地点としては、皇位継承権と遠く、それでいて、征夷大将軍に付随する天叢雲剣の形代としての側面も持たない「誰か」を将軍とすることである。
情勢は後鳥羽上皇に有利になっている。
後鳥羽上皇は鎌倉幕府の武力を利用してきたが、実際に武力を発動するのではなく暗に示してきただけである。それだけで後鳥羽院の勢力が築けていた。僧兵が暴れるときは鎌倉幕府の武力に頼ることがあったが、そのときでも北面武士や西面武士との協力体制としての活用であり、鎌倉幕府の武力のみに全面的に頼ることはなかった。
後鳥羽上皇にとって最良なのは、鎌倉幕府の持つ武力と財力がそのまま後鳥羽院のもとに移行することである。それはさすがにムシの良すぎる話であるが、源実朝が亡くなったことで鎌倉幕府の存在が揺らいできていることもあり、不可能な話というわけではなくなってきていた。
最終的には鎌倉幕府の持つ軍事力の全てを後鳥羽院のもとへと吸収させ、後鳥羽院が政治勢力としてだけでなく軍事勢力としても、そして、財力においても日本最大となることを目標とするが、途中段階として鎌倉幕府は存続させる必要は感じており、源実朝の存命中に検討していた皇族将軍ではなく、皇位継承権とも、天叢雲剣の形代とも遠い人物を将軍とさせることで鎌倉幕府の軍事力以外の部分を弱くし、組織としての鎌倉幕府を軍事力だけを残して瓦解させ、残った軍事力を後鳥羽院のもとへと吸収するという、段階を経ることでの道筋を考えていた。
皇族将軍を後ろ倒しにしたのはその第一段階であるが、それで終わりというわけではない。後鳥羽上皇は第二段階として、鎌倉幕府を作り上げている貴族達、そして、鎌倉幕府に近い貴族達を、鎌倉幕府から遠ざけることを検討した。
後鳥羽上皇がまず考えたのは一条信能であった。一条信能は一条能保の次男であり、この時点ではまだ公卿の一人とカウントされる位階を得ていなかったものの、一月二二日に蔵人頭に任命されて将来の議政官入りが確実視されていた。
蔵人頭に任命されるほどであるから朝廷の中でも一目置かれる存在であったのだが、忘れてはならないのは、この人の父である一条能保は源義朝の娘を妻に迎えていることから一条能保は源頼朝と義理の兄弟であり、その両者の子である一条信能と源実朝とは従兄弟同士であるという点である。
建保七(一二一九)年閏二月時点で一条信能は鎌倉にいた。右大臣拝賀のために鎌倉を訪問したのは、貴族であるからというだけでなく、従弟の右大臣就任を祝うためという意味合いを持つ。そのこともあって、他の貴族達が連れ立って京都へと戻っていったのに対し、一条信能は京都に戻らずにいたのである。蔵人頭という天皇の秘書役の貴族がなかなか京都に戻ってこないことは京都の人達を戸惑わせたが、従弟が目の前で暗殺されたのである。これで平然としていられるわけはないと、一条信能が鎌倉に残っていることは理解されていた。
そして、後述することとなるが、このとき一条信能は一発逆転のアイデアを秘めていたのである。そのこともあって、一条信能は北条政子や北条義時といった鎌倉幕府の首脳達と頻繁に面会していた。
そのことを知った後鳥羽上皇は、ただちに京都に戻るように命令を出した。
吾妻鏡によると、京都にある一条信能の屋敷で、一条信能の身の回りの警護を担当する武士達と、大番役を務める武士達との間で乱闘があり、伊賀光季が慌てて乱闘を仲裁させ、大番役を務める武士達を検非違使に付き出したという事件があったという。そのような事件があったのに、当の本人である一条信能がいないのはどういうことだと後鳥羽上皇は怒りを見せたのだという。
なお、後鳥羽上皇から帰京命令が出たことについて一条信能は北条政子に相談したが、北条政子からは帰京を勧めないという回答が来ている。
建保七(一二一九)年は閏年である。
閏年と言っても現在の太陽暦ように四年に一度、二月二九日が発生する年というわけではなく、この時代の暦のシステムでは、一九年に七回、一年を一三ヶ月とするシステムになっている。
建保七(一二一九)年の場合は、二月のあとで一ヶ月を挿入し、閏二月とすることで閏年の対処としている。このこと自体は珍しいことではない。ゆえに、一月末に源実朝の暗殺からおよそ二ヶ月を経たのが建保七(一二一九)年三月であるというのもおかしなことではない。
話を元に戻すと、源実朝の暗殺から二ヶ月を経て、建保七(一二一九)年三月を迎えている。二ヶ月もあればこの時代の交通網や情報網であれば鎌倉で何が起こったのかの情報は京都に届くし、京都からのレスポンスも鎌倉に届く。そのため、京都でも鎌倉でも混乱の後始末が片付き、混乱後の再建に向かって動き出すという頃合いになっているのが建保七(一二一九)年三月である。
具体的な流れを追いかけていくと、まず、三月一日に鶴岡八幡宮別当として、永福寺別当三位僧都である慶幸を、公暁の死によって空席となった鶴岡八幡宮別当に異動させた。鶴岡八幡宮別当に対する自薦他薦は多々届いていたが、鎌倉近郊の永福寺から呼び寄せることで鎌倉内部の問題として片付けると宣言し、京都内外からの圧力を排除することに成功した。
ただし、鎌倉で排除できた圧力はこの一点だけであった。
たしかに北条政子は従二位の位階を持っている。ゆえに鎌倉幕府を構成する各種組織は、これまでの正二位右大臣源実朝につながる組織から、官職はないものの従二位の位階を持つ北条政子につながる組織に変更することで、暫定的ではあるが存続はできるようになっていた。とは言え、将軍空位である、すなわち組織の永続性に難ありという事態は好転することなく、時間が経てば経つほど後鳥羽上皇にとって優位な情勢に変化してきていた。
まず、建保七(一二一九)年三月八日に内蔵頭藤原忠綱が後鳥羽上皇の代理として鎌倉に到着した。一応は亡き源実朝に対して弔意を示す意図があってのことであるが、後鳥羽上皇の本意はそこではない。最優先となっているのは鎌倉幕府の勢力低減である。特に、源頼朝が獲得してから、源頼家、源実朝と引き継がれてきていた守護と地頭の設置権利について、後鳥羽上皇は揺さぶりを掛けてきていた。たしかに鎌倉幕府の組織は従二位の位階を持つ北条政子を前面に立てることで暫定的に継承できたのであるが、暫定的であろうと継承できるか否か微妙な立ち位置となっていたのが守護と地頭である。この二点は鎌倉幕府に対してはなく源頼朝個人に対して付与された特権であり、源頼家も、源実朝も、源頼朝の後継者であるために存続して権利を行使できていた特権である。すなわち、政所のように位階に基づいて得ている特権でもなく、また、征夷大将軍として得ている特権でもない。この特権を北条政子は行使し続けることができるかとなると、それは微妙である。
後鳥羽上皇はここで一つの駆け引きを持ち込んだ。藤原忠綱を通じて、摂津国の長江荘と倉橋荘の地頭職の解職を求めてきたのである。この二つの荘園は摂津国豊島部の神崎川と猪名川が合流する付近にあった荘園である。この二つの荘園は両方とも、川を下れば大阪湾に出て、さらには瀬戸内海へ向かうことができる一方、川を遡ると、水無瀬、鳥羽、さらには平安京へと至る水運の要衝に存在していた。後鳥羽上皇がこの二つの荘園に対する地頭職の解任を求めてきたのであり、荘園を手放すように求めたわけではない。元からして荘園の所有者は後鳥羽院の関係者であって鎌倉幕府ではない。しかし、この二つの荘園から鎌倉幕府の勢力を排除できるか否かは後鳥羽院の経済基盤に関わる話になる。
ただし、この話には大きな問題がある。倉橋荘はいい。実際に神崎川と猪名川が合流する地点に存在していた「椋橋荘」の別漢字表記であり、現在の大阪府豊中市に存在していた荘園であることは確実である。問題は長江荘だ。後鳥羽上皇が二つの荘園の地頭解職を求めたことは吾妻鏡にあるほか、鎌倉時代中期に成立した戦記物語である承久記にも記されているが、その他に長江荘の痕跡を伝える資料はなく、また、地名に痕跡を残しているわけでもない。しかも、承久記は戦記物語の常とすべきか、色々と話を盛っている。長江荘が三百町ほどの規模を持つ荘園であるだけでなく、後鳥羽上皇が遊女の一人である女性に与えた荘園であったとし、さらには、北条義時自身が地頭であったとしている。これはさすがに話を盛りすぎだ。もっとも、知行国よろしく鎌倉幕府の正当な手続きによることなく北条義時が地頭を任命する権利を持っていた可能性ならばあるし、名目上の地頭として北条義時自身がこの二つの荘園の名目上の地頭として任命され、この二つの荘園からの収益を北条義時の個人資産として計上する仕組みになっていた可能性ならばあるが、それでもあまり現実的な話ではない。
現実的に判断するとすれば、交通の要衝に置かれた地頭職を手放すよう後鳥羽上皇から鎌倉幕府に圧力をかけてきたという政治問題ではなく、守護職と地頭職の存続そのものにかかわる政治問題を後鳥羽上皇が突きつけたと考えるべきである。
ここで鎌倉幕府が後鳥羽上皇の要請を拒否した場合、守護職と地頭職の存在そのものが源実朝の死と同時に鎌倉幕府から失われる可能性がある。それこそ、源実朝亡き後も日本全国の守護と地頭は存続できるのかという根本問題に関わる。法的な扱いが微妙である守護と地頭の設置権そのものにかかわる話になると、最悪の場合、鎌倉幕府の統治も、そして財政も、早々に破綻することが目に見えている。
一方、ここで後鳥羽上皇の要請を受け入れると、源実朝の死後も守護職と地頭職の権利は鎌倉幕府に存在することを後鳥羽上皇が認めたということとなる。ただし、一つ、また一つと守護と地頭の権利が失われることにもつながる。
鎌倉幕府は、守護と地頭を置く権利を少しずつ失うか、一度に全て失うかという選択肢を突きつけられることとなったのだ。
ただ、選択肢は二つではなかった。
鎌倉幕府には第三の選択肢を選ぶ方法が存在したのだ。
源実朝の後継者となる正式な第四代将軍を鎌倉幕府で擁立することである。
鎌倉幕府はこの第三の選択肢を採用することで、二つの荘園の地頭職を解任せよという後鳥羽上皇からの要求を拒否するだけでなく、守護と地頭の権利を今後も保持することを宣言することとしたのである。
どうやら皇族将軍は難しい。
後鳥羽上皇の皇子が鎌倉に将軍としてやってくるというところまでは話をこぎ着けることができたが、建保七(一二一九)年三月時点では、皇族将軍が鎌倉までやってくるのはいつのことになるか話が全く見えてこない。
後鳥羽上皇の派遣した藤原忠綱は建保七(一二一九)年三月一一日に京都へ戻るために鎌倉を出発したが、そのとき、北条政子ら鎌倉幕府の首脳から、後鳥羽上皇からの二つの荘園の地頭職放棄について後ほど回答を送ることを伝えられている。
翌建保七(一二一九)年三月一二日、北条義時、北条時房、北条泰時、大江広元ら鎌倉幕府の首脳陣が北条政子の屋敷に集まり、一刻も早く新たな将軍を迎え入れるべく京都に使者を送り二度目の陳状をすることとした。
鎌倉幕府を安定させる最善策は、予定通り後鳥羽上皇の皇子に下向してもらうこと。次善策としては後鳥羽上皇の皇子でないにしても親王を新たな将軍として推戴することである。後鳥羽上皇は時間稼ぎの末に鎌倉幕府の要求断念を狙っている。そのため、時間をあまりかけるわけにはいかない。かといって、誰かを単身で京都に向かわせるのはあまりにも鎌倉幕府の慌てようを示すために得策ではない。
そこで、後鳥羽上皇に対するカードを一枚持っていった上で後鳥羽上皇に圧力を掛けることとした、
源実朝が亡くなったことで鎌倉幕府の軍事力が低下したと考えた者が、ここで一気に権勢を手に入れようとする動きだす気配は見られた。そのうちの一つに近江国での謀反計画があり、噂段階での捜査ではあるが謀反容疑で刑部僧正長賢の一族にある者を逮捕したのである。刑部僧正長賢は後鳥羽上皇の御持僧であるから、よりによって後鳥羽上皇の関係者が謀反容疑に加担したとあれば大スキャンダルだ。
鎌倉幕府はこのカードを持って、北条時房を京都に派遣することとしたのである。目的は二点。一点目は後鳥羽上皇からの地頭職解任拒否と同時に守護と地頭の権利を今後とも保持することを宣言すること。もう一点は鎌倉幕府第四代将軍の招聘である。
およそ一〇〇〇騎からなる陣容であるから源頼朝の上洛時に比べれば小規模であるとはいえ、なかなかに大規模な行列である。また、北条時房は、前年に北条政子が上洛した際に院御所で開催された鞠会で蹴鞠の技量を称賛されており、後鳥羽上皇から好印象を得ている。しかも、北条政子と北条義時の弟であると同時に政所別当でもある。つまり、後鳥羽上皇に幕府首脳部の主張を的確に伝える交渉役として最適である。ただし、北条時房の背後には一〇〇〇騎の軍勢が存在している。北条時房がやってくると聞いて待ち構えていたら北条時房の後ろに一〇〇〇騎もの軍勢があるのだから、後鳥羽上皇も、そして朝廷の面々も驚きを隠せなかったであろう。
さらに別の強攻策を鎌倉幕府は展開した。それも、朝廷への直接の強攻策ではないためにかえって朝廷に十分な圧力となるものであった。
鎌倉幕府は既に二階堂行光を京都に派遣していたため、北条時房は二人目の使節派遣ということとなる。もっとも二階堂行光は北条時房が京都に到着する前に鎌倉に向かって出発しており、京都における鎌倉幕府の代理人としての二階堂行光は十分な役割と果たせなかったと言えよう。いわば罷免である。
なお、伊賀光季と中原季時の二名を並立させる京都守護二名体制は、京都守護としての役目を果たすことができていたものの、緊急事態である以上、ある程度は鎌倉からの直接指令が必要となる。平時の京都守護ならばこの二名でどうにかなっても、緊急事態の体制となるとさすがに厳しいものがある。いや、これは誰が京都守護になろうと変わることのない話であるが。
さて、北条時房が鎌倉を出発したのは三月一五日、二階堂行光が京都から帰ってきたのは三月二八日のことである。ここまではいい。
問題はこの後。
実はこれから三ヶ月間の吾妻鏡の記録が現存していないのだ。幸いというべきか愚管抄にはその間の記述があるが、その間の記述は吾妻鏡ほど細かくはない。
ただし、残された数少ない史料を分析するかぎり、吾妻鏡が欠落している四月から六月という三ヶ月間に、鎌倉幕府の根幹を揺るがす大変動が起こっていたのである。
間違いなくこの大変動は北条政子を軸とした合議制での結論であろう。北条時房が京都に向かったのもその変動を実現させるためであり、後鳥羽上皇は鎌倉幕府の行動を受けて自らのカードを完全に失ったと実感したはずである。
そう、血縁を理由として鎌倉幕府第四代将軍となる資格を有する者が京都にいたのだ。
忘れてはならないこととして、源頼朝が特別であるのは、清和源氏の頭領であると同時に、熱田神宮の宮司の娘である由良御前を母として生まれた身であり、源頼朝は母系で熱田神宮とつながるという点に着目しなければならない。源頼朝は源義朝の三男であり、源頼朝には二人の兄と六人の弟がいたが、この九人兄弟のうち母系で熱田神宮につながると断言できるのは三男の源頼朝と五男の源希義の二人。四男の源義門も熱田神宮につながる血筋であるとする説もあるが、その説を確定できる記録はない。一方、源範頼や源義経、阿野全成といった源頼朝の弟達は鎌倉幕府誕生前から草創期にかけての重要人物ではあっても、鎌倉のトップに立つ資格がない。母が熱田神宮と繋がっていないからである。清和源氏のトップに立つだけでは鎌倉のトップに立てないのだ。
そこで源頼朝以外に熱田神宮とつながる血筋の者を振り返ると、まず、源義門の記録は平治の乱で終わっており、平治の乱の最中に命を落としたものとみられる。源頼朝が平治の乱のあとで平家に捕縛されたのが一三歳のときであり、源義門が源頼朝の弟であることを考えると、源義門が何歳のときに命を落としたのかは容易に想像がつく。当然のことながら、現存する歴史資料の中に、源義門の子であると主張した者がいたという記録など一例として確認されていない。
源義朝の五男の源希義であるが、源希義は平治の乱のあとで土佐国に流され、源平合戦勃発後に平家によって討ち滅ぼされている。その時点で源希義には何人かの子供がいたという伝承が残っているものの、源希義の子を名乗る者は自称でしか存在せず、確実に源希義の子であると断定できる者はいない。
つまり、源実朝も公暁もいなくなったということは、直系男子という考えを捨てない限り、源頼朝の後継者となる人物はいないこととなる。なお、厳密に言うと源頼家の息子の中に一人だけ建保七(一二一九)年三月時点で生き残っている男児もいるが、その男児のことをこの時点の鎌倉幕府は全く考慮していない。公暁も亡くなったことで源頼朝の直系男子はいなくなったという扱いになっている。
一方、鎌倉幕府の権威の由来を尋ねると、父系でなく母系を権威の由来としているのが鎌倉幕府の征夷大将軍である。そして、源頼朝には母を同じくする女性が一人いる。
その女性の子孫ならばどうなるか?
源頼朝と母を同じくする女性の名を歴史研究者は坊門姫としている。この時代の女性としては当たり前のことであるが、本名を伝える記録はない。さらには本名だけでなく生年も不明で源頼朝の姉とする説と妹であるとする説の双方があるなど彼女は御世辞にも十分な記録を残している女性とは言い切れないのであるが、坊門姫が源頼朝と母を同じくする女性であること、熱田神宮の宮司の娘の血を引いていることは確実であり、当時の人もそのことを十分に認識していた。
坊門姫の実父は源義朝である。源平合戦後ならばともかく、平治の乱から源平合戦勃発までの間、すなわち平清盛の時代において源義朝は国家反逆者として極悪人の烙印を押されており、その人物の娘なのだから普通であれば宮中に姿を見せるどころか隠遁生活を過ごしていなければおかしいところであるのに、坊門姫は藤原北家中御門流の貴族である一条能保のもとに嫁いでおり、一人の男児と三人の女児をもうけている。その三人の女児のうちの長女が後に九条良経のもとに嫁ぐことになる女児であり、次女が後に西園寺公経のもとに嫁ぐこととなる女児であり、三女が後に花山院忠経のもとに嫁ぐと同時に、後鳥羽天皇の乳母となることとなる女児である。父が極悪人とされていようと、母のバックボーンである熱田神宮の権威権勢はここまで強かったのだ。
それから年月を経て、坊門姫の長女と九条良経との間に生まれた男児は朝廷の若き俊英と称される九条道家となり、坊門姫の次女と西園寺公経との間に生まれた女児はそののち西園寺掄子と呼ばれる女性へと成長し、九条道家のもとに嫁ぐこととなる。
建保七(一二一九)年時点で左大臣となっていた九条道家には西園寺掄子との間に三人の男児がいた。この時点で二七歳の九条道家であるからその男児の年齢は何歳ぐらいであるか容易に想像できるであろう。
鎌倉幕府はその男児の一人を征夷大将軍として鎌倉に招き入れることを考えたのである。
藤原摂関家の男児を招くなど家格が尊ばれるこの時代では許されざることであるはずだが、そこは鎌倉幕府、なかなかに強かである。右大臣の死に伴ってできた空席に左大臣の息子を招くという図式を提示されると、いかに家格を尊ぶ人であろうと文句の付け所のない話になる。それに、元々皇族を招こうとしていたのだ。右大臣のもとに皇族を招き入れることができなかったから左大臣の息子を招き入れるというのは、藤原摂関家としても悪い話ではない。ここで上手くいけば鎌倉幕府の軍事力と財力をそのまま藤原摂関家、特に九条家と結びつけることができるのだ。
また、熱田神宮の血筋についても申し分ない。九条道家の子は、父方の祖母も、母方の祖母も、熱田神宮の宮司につながる血筋であり、父方の祖父と母方の祖父は藤原北家である。ここまでの血筋があれば、天叢雲剣の形代としての征夷大将軍として申し分ない存在となり、朝廷や院に対する圧力としても十分に機能する。
さらに源実朝の後を継ぐという点においても、源頼朝と母系で血のつながりのある男児であるので問題ない話となる。姓こそ源ではないため清和源氏のトップに立てるわけではないが、清和源氏のトップにつながる血筋となれば武家集団としてのトップに相応しい血筋と認識できる。
後に藤原頼経と名乗ることとなるその男児は、このとき二歳。寅歳寅日寅時に生まれたことから、この頃はまだ三寅と呼ばれていた。北条政子を主軸とする鎌倉幕府の首脳陣は、三寅を鎌倉に招いて鎌倉幕府第四代将軍とすると同時に、この男児が成長するまでは北条政子の位階を利用して組織を存続させることとしたのである。
一説によると、鎌倉幕府第四代将軍に三寅を強く推挙したのは大納言西園寺公経であるという。三寅にとって西園寺公経は母方の祖父だ。西園寺公経が権大納言から大納言への昇格を後鳥羽上皇に訴え出て拒否されたとき、西園寺公経は鎌倉に頼んで大納言へ昇格させてもらうと言い放ったために一時期謹慎処分を受けた過去がある。その西園寺公経が謹慎解除となった理由は鎌倉幕府の権勢を背後に示すことに成功したからである。西園寺公経にしてみれば何としてでも鎌倉幕府は存続してもらわねばならず、鎌倉幕府のトップは従来通りの征夷大将軍でなければならないという前提がある。その前提を踏まえ、自分の孫が新たな征夷大将軍となったならばどうなるか? 従来から鎌倉幕府との強いつながりを持つ西園寺公経が、従来をはるかに超える形で鎌倉幕府とのつながりを構築できることとなる。
鎌倉幕府としても、現役の大納言である西園寺公経とのつながりが強まるのは歓迎こそすれ忌避する話ではない。源実朝という右大臣まで上り詰めた貴族が鎌倉からいなくなったことで、朝廷権力における鎌倉幕府のプレゼンスは減っている。その穴を、申し分ないとまでは賞賛できないものの無視できないレベルで埋めてくれる人物の登場だ。二歳の男児を第四代将軍とすることで熱田神宮とのつながりと征夷大将軍に付随する権威を継承できるだけでなく、中央政界に鎌倉幕府からの楔を打ち込むことが可能となるのであるから、西園寺公経が持ちかけてくる話は悪いものではない。
繰り返すが、鎌倉幕府の組織を構成する一つ一つの機関は、後世に生きる我々からすると鎌倉幕府の独自の組織図に基づいて鎌倉時代になって誕生した機関であるかのように見えるが、実際には平安時代にはもう存在していた機関を利用したに過ぎない。政所にせよ侍所にせよ三位以上の位階を持つ貴族であれば誰もが設置できる氏族内機関として平安時代にはもう存在しており、現在の裁判所に相当する問注所も、貴族が持つことのできる氏族内機関を拡張したものである。例外は守護と地頭で、この二つについては源頼朝が個人的に獲得した特権であり、その特権を源頼家や源実朝が継承したという図式になっている。その他の鎌倉幕府の組織内機関は三位以上の位階を持つ者がいなくなったならば規模を縮小させなければならないものの、遠い未来であろうと三位以上の位階を手に入れることが確実視される後継者がいるならば氏族内組織として存続が許される。しかし、三位以上の位階を持つ可能性のある者が文字通りいなくなった場合は、氏族内組織としての存続もできなくなる。
源実朝が生きていた頃は問題なかった。政所や侍所といった三位以上の貴族であれば誰もが持つことのできた氏族内組織の存在根拠と、源頼朝が個人的に手にした特権である守護と地頭の存在根拠の双方を、源頼朝の後継者であり、また、正二位右大臣である源実朝に集約させることで、鎌倉幕府は組織内機関を存続させることができていたのである。
それが源実朝の死と同時に存在根拠を失った。
侍所や政所といった三位以上の位階を持つ貴族であれば誰もが設置できる氏族内機関は、従二位の位階を持つ北条政子に由来させることで存在根拠を維持できたが、守護と地頭については北条政子でもどうにもならない。
そこで、左大臣九条道家の子である三寅を鎌倉に招き、母系の血筋を利用して源頼朝が獲得した特権を維持させることとし、行く末は三寅の位階昇叙に合わせて、氏族内機関の存在根拠を北条政子から三寅へと移行させ、鎌倉幕府第四代将軍に基づく組織として鎌倉幕府を建て直すこととしたのだ。
この頃の吾妻鏡の記録は散逸しており、具体的な記録は残っていない。そのため、鎌倉幕府内部でどのような出来事が、また、都市鎌倉でどのような出来事が起こっていたのかを知る方法はきわめて乏しい。しかし、同時代の貴族の日記や、慈円の書き記した歴史書である愚管抄には、吾妻鏡ほどの詳しさはないもののそれなりの記録が残っている。それらを追いかけると、鎌倉幕府の、なかなか強かな姿勢が見て取れる。
愚管抄によると皇族将軍を主張する鎌倉幕府に対して後鳥羽上皇が難色を示し、妥協案として皇族ではなく摂政や関白の子であればただちに許可すると後鳥羽上皇から北条政子に返信があり、この返信を受けて左大臣九条道家の男児を鎌倉幕府が請願し、九条道家の子でこの時点でまだ二歳の三寅が選ばれたというストーリーになっているが、このあたりはどうもこの時点で広まっていた噂の記載のように見える。何しろ、鎌倉幕府は皇族将軍以上に都合の良い将軍を手に入れることに成功しているのである。仮に慈円が愚管抄に書き記した通りであるとしても、それは後鳥羽上皇を出し抜いたのではなく、既に決定事項となってしまっていることを、後鳥羽上皇の顔を立てた筋書きにするよう取り繕った結果とも言えるのだ。
建保七(一二一九)年四月二日、京都の鴨川近辺で大規模な火災が発生し、藤原道長が建立させた法成寺とその周辺の建物の多くが焼失した。
その一〇日後の四月一二日、火災に加え旱害も見られることから、建保から承久への改元が執り行われた。改元の理由の中に源実朝暗殺に伴う世情の混乱を憂う文言はないが、京都の朝廷や院と、東国の鎌倉幕府との関係がどうなるかを危惧している人が多い中で、朝廷の専決事項となっている改元をこのタイミングで実施したことは正しい判断であったといえよう。このときに選ばれた新元号である承久が後の歴史でどのような意味を持つ元号と認識されることを知らないでいられる間は。
鎌倉幕府が三寅を第四代将軍として鎌倉に迎え入れると打診してきたのは建保から承久への改元のあたりと想定される。北条時房がどのような交渉をしたのかは残念ながら歴史資料に残っていないが、承久元(一二一九)年六月初頭には確定事項となり、六月二五日に北条時房がいったん六波羅へ立ち寄ったのちに京都を出発して鎌倉に向かい、七月一九日に北条時房が鎌倉に到着したことは他の記録から明らかとなっている。
また、散逸している吾妻鏡も承久元(一二一九)年七月一九日より記録が復活し、その後の記録を追いかけることが可能となっている。
相変わらずというか、吾妻鏡は三寅の鎌倉入りそのものではなく、三寅の鎌倉入りの行列の様子を事細かに書き記している。北条家にとって都合良く編纂された歴史書であることを考えると、三寅の鎌倉入りに北条家の者をはじめとする御家人達がどれほど参加していていたかを書き記すことのほうが重要なのであろう。それは同時に、後世に生きる我々にとっても、三寅の鎌倉入りによって鎌倉幕府が存続できるとなったことへの安堵感を実感できる効果がある。さすがに源実朝の左近衛大将就任時や、結果的に源実朝の最期となった右大臣就任時の拝賀式のときの行列と比べれば規模は劣るが、それは京都から鎌倉にやってきた貴族達の少なさに起因するものであり、鎌倉幕府の御家人達がどれだけ揃ったかという点ではこれまでの行列と変わらぬ規模なのだ。
まず、二歳児を鎌倉まで連れてきたこともあって、何より育児が最優先される。実母と別れて暮らさなければならない三寅のため、三寅の育児のための女性が行列の先頭を飾っている。もっとも、さすがに藤原摂関家である九条家の男児とあって、三寅の育児のための女性は錚々たる面々である。また、坊門姫が嫁いだ一条能保の家の女性や、北条義時の正妻も行列の先頭となっている。
そのあとで随兵が並ぶ。鎌倉幕府の御家人達から選ばれし面々であり、恒例というべきか二名一組にとなっている。
三浦重連と三浦盛連。
天野兵衛尉と宇都宮頼業。
武田信政と小笠原時長。
相模小太郎と下河辺行時。
北条重時と結城朝光。
この後ろに巻狩装束の面々がやはり二名一組で並ぶ。三寅の乗った輿の前後は彼らが囲むこととなる。
三浦義村と後藤基綱。
葛西清重と土屋宗光。
千葉胤綱と八田朝重。
北条朝時と小山朝政。
北条泰時と足利義氏。
このあとで三寅の乗った輿が続くのであるが、厳密に言うと、三寅の乗った輿の左を北条泰時が、右を足利義氏が固めており、その他の御家人達も左右の間が接近しておらず、三寅の乗った輿のスペースが空いている。
三寅の乗った輿のあとにも巻狩装束の御家人達は続いており、その構成は以下の通りとなっている。
佐貫次郎と波多野朝定。
山内弥五郎と長江小四郎。
木内胤家と渋谷光重。
本間兵衛尉と飯富長能。
土肥兵衛尉と高橋太九郎。
このあとで、この時点で鎌倉にいた京都の貴族達が続く。
まずは後鳥羽上皇の使者として京都から鎌倉にやってきた藤原実雅が行列に並び、甲斐宗保、三善光衡、藤原行光の三名が続く。
その後ろに藤原左衛門尉光経、主殿左衛門尉行兼、四郎左衛門尉友景が続く。この三名は京都で検非違使を務めている貴族でもある。
その後ろに医師である丹波頼経、陰陽師の安倍晴吉、護持僧の大進僧都寛喜が続く。
以上の一〇名が京都からやってきた貴族達である。
その後ろに随兵が二名一組で続く。
島津忠久と中条家長。
足立元春と天野政景。
伊東祐時と遠山景朝。
境秀胤と長江師景。
加治義綱と橘公業。
北条資時と兵衛大夫季忠。
三浦泰村と河越重時。
伊東祐時と小山宗政。
そして最後に北条時房。
さて、この行列に北条義時の妻はいるものの、北条義時本人はいない。ただし、そのことについて誰も何ら指摘しないでいる。理由は明白で、三寅を迎え入れたのは北条義時の屋敷なのだ。北条義時は三寅を迎え入れる側であり、三寅の行列に加わるのはありえない話なのである。北条義時が三寅を迎え入れたのも、北条義時がこの時点の鎌倉幕府の最大実力者であるという点は否定できないが、それよりも大切なこととして、この時点の鎌倉幕府で三寅の代理として御教書を発給できる人物となると、朝廷官職と位階を踏まえて考えれば北条義時しかいなかったからである。
同日の酉刻、現在の時制にすると夕方六時頃、三寅の政務はじめが執り行われた。とはいえ、そもそも二歳児に政務が執り行われるわけはなく儀礼的なものである。なお、鎌倉幕府は三寅を鎌倉幕府第四代将軍として迎え入れたものの、この時点の三寅はまだ征夷大将軍となっていない。ただし、将来の従三位以上の位階が約束された生まれであることに加え、熱田神宮につながる血筋でもあることから征夷大将軍になるのは約束されたようなものであり、守護と地頭の特権については三寅が継承することが認められた。併せて、政所や侍所といった鎌倉幕府の組織内機構については一時的に北条政子に紐付くものとされ、鎌倉幕府の統治は名目上こそ三寅をトップにすることになったものの、二歳児に政務をさせるなど現実的な話ではないこともあり、実質上は北条政子が御簾越しに執り行い、公的書類については北条義時が自身の位階と官職を利用した御教書をいつでも発給できる体制を構築することとなった。
吾妻鏡の巻首である「関東将軍次第」では、源頼朝、源頼家、源実朝の次に北条政子こと「平政子」を四番目として記しており、三寅こと藤原頼経はその次である。少なくとも吾妻鏡の編纂者は源実朝の死後ただちに三寅が鎌倉幕府のトップに立ったとは見做しておらず、間に北条政子を挟んで鎌倉幕府が組織として継続したと認識していたことが読み取れる。ただし、このことから研究者によっては北条政子を四代目鎌倉殿とする人もいるものの、この時代の記録の中に、北条政子を鎌倉殿とする史料は、あるいは現代でも北条政子の通称として使われることのある「尼将軍」と記した史料は存在しない。
鎌倉では三寅を擬似的な鎌倉幕府第四代将軍とすることで組織存続の強引に継続させた頃、吾妻鏡では奇妙な記録が出てくる。
承久元(一二一九)年七月一三日に京都で大事件が起こったとの連絡が届いたのだ。それも、鎌倉に到着したのは七月二五日になってからであるから、出来事から十二日を経てようやく連絡が届いたというのは、源頼朝による情報整備以降の出来事の中では特筆すべき遅さである。
情報が鎌倉に到着するのに時間を要した理由は後述するとして、出来事の内容を記すと、何やらきな臭くなる。
源頼政の孫で右馬権頭である源頼茂が殺害されたというのだ。
右馬権頭とは文字だけを見れば宮中の馬の管理監督をする職務に見えるが、実際には宮中の武官の官職の一種であり、内裏の警備を担当する職務になっている。ただし、職務の任命こそ朝廷からの任命であるが、忘れてはならないのが、ついこの間まで源実朝が武官のトップである左近衛大将であったこと、そして、源実朝の推薦に基づく武官の任命は珍しくないどころか通例化しており、この任命は源実朝の死後もしばらくは有効であったことである。これがもし、源実朝の死因が謀反を起こした末の誅殺であったならば源実朝の関わった人事は全て白紙に戻されていたであろうが、源実朝は謀反など起こしておらず、源実朝の死は不幸な出来事であり、源実朝の展開した人事は存続すべきであるというコンセンサスは鎌倉でも京都でも成立していた。そのため、源頼茂は右馬権頭であり続けており、その職務遂行のために大内裏の中の昭陽舎に常駐していたことも誰も何も言わないでいた。
その昭陽舎に向けて、後鳥羽上皇が西面武士を派遣したのである。
西面武士と昭陽舎の武士達との争いは西面武士の勝利に終わった。
源頼茂は殺害され、源頼茂の息子の源頼氏は捕虜となった。
源頼茂とともに西面武士と戦った者のうち、右近将監藤原近仲、右兵衛尉源貯、前刑部丞平頼国いった面々は情勢不利を悟って仁寿殿へ入り自ら命を絶った。また、仁寿殿は放火され、仁寿殿の観音像や応神天皇の輿、さらには大嘗会や即位式の輿を担ぐ者の衣装や仏具などもこのときに燃えてしまっただけでなく、朔平門、神祇官、外記庁、陰陽寮、園韓神社なども被害にあってしまった。
以上が京都での出来事である。
そして、こうも付け加えている。
三寅の鎌倉下向のために情報を伝えるのを遅くしなければならなかった、と。
これを文字通り捉えるのは厳しい。何らかの理由で鎌倉までの連絡が遅れたのは事実であるが、表向きの理由ではない真の理由が存在すると考えるべきであろう。
そもそも源頼茂が殺害された理由を吾妻鏡は「頼茂依背叡慮」、すなわち、後鳥羽院の意思に背いたからであるとしている。ただし、ここでいう後鳥羽院の意思とは何であるかを吾妻鏡は記していない。一方、他の記録には別の理由で殺害されたとしている。たとえば愚管抄では、源実朝が殺害されたという連絡を受けた源頼茂が、藤原忠綱と共謀して、左大臣九条道家の弟である権中納言九条基家を鎌倉幕府第四代将軍に就けようと画策したものの失敗し、三寅が第四代将軍として鎌倉に下向することに最後まで抵抗し続けたために西面武士によって討ち取られたとしている。また、保暦間記では、源頼茂自身が第四代将軍に就任することを画策したために、在京の御家人達が後鳥羽上皇に訴え出て、訴えに応じた後鳥羽上皇が源頼茂を召喚したものの源頼茂が後鳥羽上皇の召喚を拒否したために、後鳥羽上皇の命令を受けて出動した西面武士によって討ち取られたとしている。
後鳥羽上皇が鎌倉幕府第四代将軍として自分の皇子を鎌倉まで下向させることを拒否していたことは既に記した通りである。そして、吾妻鏡の欠けている部分である承久元(一二一九)年四月から六月までの間に三寅の第四代将軍就任という話が成立した。つまり、三寅が第四代将軍に選ばれるまでの間に後鳥羽上皇がどのような意思や行動を示していたのかを記す記録はどうしても乏しくなる。そのため、源頼茂が西面武士によって討ち取られただけでなく、大内裏の多くの建物が焼失してしまったというこの事件は、この後の歴史を知る者にとって伝聞や伝承が付け加えられた代物へと変化してしまった。中には後鳥羽上皇が鎌倉幕府調伏のための加持祈祷をしているのを源頼茂が察知してしまい、源頼茂に加持祈祷を見られた後鳥羽上皇が証拠隠滅のために西面武士を派遣して源頼茂を討ち取らせただけでなく、周囲の建物も焼却させたという話まである。最勝四天王院が取り壊されたのちに再建することになったのも、後鳥羽上皇が最勝四天王院で加持祈祷をしていたからで、取り壊しそのものが証拠隠滅の一環だというのだ。ちなみに、最勝四天王院がその翌年に再建工事を完了させたことの記録は存在しているので、時系列は一致していなくもない。
さらに着目すべきなのが、後鳥羽上皇が北面武士ではなく西面武士を出動させていることである。北面武士の出動があった可能性も否定できないが、少なくとも源頼茂を討ち取ったのが西面武士であることは確実視されている。つまり、純粋に後鳥羽上皇のみに仕える武士達を出動させたのではなく、鎌倉幕府の御家人も含めた武士集団を出動させている。北面武士は朝廷として院のために独自に雇用する武士からなる集団であり、北面武士は武士ではあっても鎌倉幕府の御家人ではない。言うなれば朝廷に仕える役人のうち院の警護を職務とする者が北面武士である。一方、西面武士は北面武士と同様に院のための武士であっても朝廷を介さず院が直接雇用しており、鎌倉幕府の御家人が西面武士として院と雇用契約を結ぶことは鎌倉幕府も認めている。そのため西面武士は、鎌倉幕府に仕えているわけではない武士と、鎌倉幕府の御家人である武士とが混在した組織となってている。後鳥羽上皇は西面武士の中に鎌倉幕府の御家人がいることを知っている上で、鎌倉幕府の御家人の一人である源頼茂を討伐するために、西面武士に対して出動を命じたこととなる。
残された記録からは、源頼茂が鎌倉幕府の将軍の地位に対してどのような感情を抱いていたのか知りようがない。それでも推測すると、源頼茂は自身の血筋を、すなわち、源頼政の孫であり、本流ではないとはいえ清和源氏の一員であるという血筋を、源頼茂は誇りの寄って立つところとしていたであろう。清和源氏の本流である上に熱田神宮ともつながる血筋を持つ源実朝が鎌倉幕府の将軍であるならば、いかに自分が清和源氏であろうと、将軍を自分の君主として戴き、自分は一人の御家人として仕える身になることを厭わないものとするに十分な理由だ。しかし、もう源実朝はいない。さらには、清和源氏の本流である男児もいない。こうなると源頼茂にとって主君として戴くに値する人物に誰がいるだろうかという話になる。誰かが鎌倉幕府の将軍にならなければならないというのは理屈としてならば理解できるが、その誰かを主君として戴き、自分は一人の御家人として仕えることができようかという話になる。
源頼茂は西面武士によって討ち取られた。つまり、後鳥羽上皇の命令によって武力発動があり、源頼茂が討ち取られた。これで源頼茂がどのような感情を持っていたのかという手がかりは完全に消えた。ただしそれは、鎌倉幕府の安泰を意味する話でもなければ、後鳥羽上皇と鎌倉幕府との関係の維持につながる話でもなかった。
言うなれば、不明瞭極まりない話なのだ。
考えていただきたい。源頼茂を討ち取ったのは後鳥羽上皇の命令による武力発動である。しかも、鎌倉幕府の内部の出来事に対してであり、その出来事について鎌倉からの直接的な命令を何一つ得ることなく全て事後報告で済ませることで完了させたのだ。より詳細に一連の流れを見てみると、まずは直訴があり、次いで召喚命令があり、最終的には院宣という手順を踏んで京都在駐の鎌倉幕府の御家人達は動き出している。鎌倉の指令を得るためには片道七日日往復半月の時間を要することを考えると、より短期間で済む後鳥羽院からの院宣という選択をしたのは理解できる。表向きの理由として挙げた三寅の鎌倉下向は全くの嘘では無いであろう。
ただ、それでも京都在駐の面々が鎌倉の指示を仰ぐこと無く独自の軍事行動をとった、しかもそのときに後鳥羽院の院宣を願い出たというのは、後鳥羽院にとって京都在駐の武士達、いや、武士だけではなく鎌倉幕府の面々のうち京都とその近くにいる者については、緊急事態が起こったならば鎌倉幕府から切り崩して後鳥羽院の指揮下に組み込めるのではないかと考えたのではなかろうか。元からして鎌倉幕府の軍事力をいかにして後鳥羽院の勢力に組み込めるか苦慮してきたのが後鳥羽上皇である。断言はできないものの、源頼茂を討ち取るに至るまでの経緯は、この後の後鳥羽上皇の判断を生み出すきっかけの一つとなったと言えよう。
もっとも、京都在駐の御家人達の軍事行動によって何が起こったかを考えると、後鳥羽上皇はこの状況を手放しで喜べはしない。
大内裏が焼け落ちたのだ。
後鳥羽上皇は大内裏焼失にショックを受けて一ヶ月近く寝込んでしまったのである。後鳥羽上皇は源実朝の死の知らせを受けてからおよそ一ヶ月半後の建保七(一二一九)年閏二月一六日にも心労で倒れており、源実朝を失ったことそのものに加え、源実朝がいることで成り立っていた後鳥羽院と鎌倉幕府の協調体制の喪失についても考えを巡らせたはずである。
源実朝亡き後、決断を遅くして鎌倉幕府を時間切れに追い込むべく自分の皇子を鎌倉に下向させることを拒否した後鳥羽上皇であるが、妥協案として提示された三寅の鎌倉行きは許容した。後鳥羽上皇からすればこれはかなりの妥協なのである。そうして鎌倉幕府に対して妥協を示したのに、鎌倉幕府が何をしたのかというと、源実朝の後継者争いの末に大内裏を焼失させたという大惨事だ。
これで後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して好意的になるわけはない。自分で源頼茂を討伐すべく西面武士への派遣命令を出しておいて何を言うかという話にも感じるが、大内裏消失までは求めていない。
愚管抄によると、承久元(一二一九)年八月には既に後鳥羽上皇が大内裏再建に向けて動き出していることがわかる。なお、愚管抄の著者である慈円自身はどうしてわざわざ大内裏を再建しようとしているのかわからないとしている。
承久元(一二一九)年八月四日の臨時の除目で藤原秀康が北陸道および山陽道諸国の国務担当に任命された。藤原秀康は下北面、すなわち、特別な待遇を受けている北面武士である。このときの藤原秀康の位階は六位であり、本来であれば位階の低さから後鳥羽上皇との接見自体が許されない。しかし、天皇に対する蔵人のように、位階こそ六位のままであるが特例として上皇と顔を合わせることが許されるという権利を、院が北面武士に対して発給することがある。これを下北面といい、藤原秀康は後鳥羽上皇から下北面の権利を受けた特別な北面武士であった。
実際、藤原秀康は文武両面で後鳥羽上皇を支える忠実な側近であり、後鳥羽上皇の命令のもと、藤原秀康は按察使藤原光親と分担してただちに任地に向かって出発したのも、これまでの後鳥羽上皇に支えてきた実績が評価されてのことである。
なお、そのときの顛末について承久記は卿二位、すなわち刑部卿藤原範兼の娘で後鳥羽院乳母の女性の言葉として、大極殿の造営に際して、山陽道の安芸国と周防国、山陰道の但馬国と丹後国、北陸道の越後国と加賀国、計六ヵ国の税収を造営費用に充てることにしたが、このうち四ヵ国では藤原光親と藤原秀康が政務を執り行えたのに、越後国と加賀国の二ヵ国では鎌倉幕府の地頭が命令に従わないと語る場面が存在する。
この記載は大内裏再建に熱意を示す後鳥羽上皇と鎌倉幕府の対立の側面があるが、さらにもう一つ、藤原秀康が按察使藤原光親と併存して職務にあたっていた、すなわち、後鳥羽上皇の大内裏再建に対する意欲の強さを見ることができる。藤原光親は按察使である。辞職したとはいえ以前は権中納言であり、その位階は正二位である。しかも按察使とは中納言以上が兼任する官職の一つであるから、同じ院近臣であっても藤原光親は藤原秀康よりはるかに上の地位の人物であるはずである。その二人が大内裏再建の前には並列なのだ。
なお、八月半ばに後鳥羽上皇は再び病に倒れており、九月初頭に復帰するまで安静にしていたことが記録から読み取れる。
源頼茂が西面武士に討ち取られた後も、鎌倉幕府が後鳥羽上皇とコンタクトを取ろうとしていた記録は存在する。
ただし、コンタクトを取ろうとした記録だけが存在し、コンタクトを取れたという記録は存在しない。
吾妻鏡によると、承久元(一二一九)年八月二六日に、鎌倉幕府は後藤基綱を上洛させ後鳥羽上皇と面会させようとした記録がある。名目上は後鳥羽上皇が体調を崩したという連絡があったことに対する見舞いである。
見舞いができたかどうかについて吾妻鏡は何も記していない。
ちなみに、愚管抄にいたっては三寅が第四代将軍として鎌倉に下向する直前で記載が終わっている。
この時代の出来事を記した歴史書としては吾妻鏡と愚管抄だけではなく他にもある。
たとえば、この時代を扱った歴史書の一つとしては六代勝事記が挙げられる。六代勝事記とは、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇、そして六代勝事記執筆時の天皇の六代の天皇の時代について書き記した編年体の歴史書である。ただ、一つ一つの出来事については詳しく書いてあっても、出来事と出来事との間はかなり間隔が空いてしまっている。このあたりが六代勝事記がこの時代の歴史書として優先的に取り上げられることのない事情であるともいえよう。
しかし、無価値というわけではない。吾妻鏡よりも執筆時期が早く、吾妻鏡よりも同時代史料に近いことから、後世の脚色や取捨選択の加えられていることの多い吾妻鏡よりも出来事に対する事実性の高さ、そして、著者は明瞭となっていないが後述するように朝廷の中枢に身を寄せている人物の書き記した歴史書であることは確実であるという点で史料価値が高い。
また、本来ならば順徳天皇の次は仲恭天皇であるはずだが、六代勝事記は順徳天皇の次を後堀河天皇としているというところからも、六代勝事記の著者のスタンス、それも執筆時の著者のスタンスが明らかになっている。
この六代勝事記の作者であるが、かつては源光行が作者であると考えられていたが、現在では藤原隆忠を作者であるとする説が強くなっている。その両名とも朝廷の中枢の一角を担っている人物であることに違いはない。
まず前者の源光行であるが、この人は二一歳となった寿永二(一一八三)年まで京都の官僚であったものの、父の源光季が源平合戦において平家方を選んでしまったために助命嘆願をせざるを得なくなり、鎌倉に赴いて源頼朝に面会を果たしたところ、源頼朝にその才能を見いだされ、その二年後には鎌倉幕府に仕える官僚の一人となっていたという人物である。史料によっては中原広元と同時に鎌倉幕府初代政所別当の一人となっていたとするものもあり、鎌倉幕府でかなり重用された人物の一人であったことは間違いない。しかし、源光行は後に鎌倉幕府を裏切ることとなる。六代勝事記の内容から六代勝事記が何年頃に誕生した歴史書であるかを考えると、源光行が作者であるとするのは納得のいく推測である。
もう一人の作者と推測される後者の藤原隆忠は松殿基房の息子であり、その血筋は藤原摂関家の当主になっていてもおかしくないものがあり、また実際に従一位左大臣にまで官位を進めたものの、摂政にも関白にもたどり着けず、順当に行けば近衛家や九条家と並立できたはずの松殿家の構築もできずに官界キャリアを追えてしまった人物である。しかし、そのキャリアの後に待っていた人生大逆転を考えると、藤原隆忠の手による歴史書が六代勝事記であるとするのも納得できる話なのだ。
どういうことかというと、前述の通り朝廷のかなり奥深いところまで知っている人物が書き記した歴史書が六代勝事記なのである。高倉天皇から後堀河天皇までの事績を追いかけた歴史書というスタイルであるが、記載のメインは源平合戦と承久の乱であり、源実朝の死とその後の記載は承久の乱の入り口というスタンスである。そして、六代勝事記における源実朝の記載は、源実朝の政治家としての実績を絶賛するものとなっており、源実朝の突然の死については悲しみとともに犯人に対する強い憎しみを残している。なお、源実朝と源仲章が殺害されたとき、同時に源師憲も殺害されたことを書き記している歴史書が六代勝事記である。
六代勝事記にも記載されていない時期の記録を吾妻鏡から追いかけていくと、源実朝を支えてきた人達、制度、そして建物も、一つまた一つと失われていく様子が刻まれているのがわかる。
まず、日付は少し遡るが、承久元(一二一九)年七月二八日に将軍の身の回りの固める役職である宿侍の担当を定めた。宿侍制度自体は以前から存在していたが、何しろ将軍となる予定の者は二歳の男児だ。しかも、鎌倉幕府存続のためにかなり無茶をして京都から呼び寄せた子であり、ここで三寅の身に何か起ころうものなら、いよいよ鎌倉幕府そのものの存続が危うくなる。前任者の死がどのような形で迎えたものであるかを考えると、警備はこれまで以上に厳重にする必要がある。そのため、従来は宿侍の常駐先を御所の西部の一画としていたが、より将軍の居場所に近い小侍に変更することとなった。また、従来は宿侍を侍所の管轄としていたが、将軍の近侍と将軍ならびに御所の警備、そして、そのための人員管理を担当する領域を侍所から切り離し、小侍所として侍所と併存する独立した組織を構築させることとなった。
ここまでであれば幼い三寅の身の安全を高めるための対処となるが、小侍所の別当に北条重時が任命されたとなると話は変わる。北条重時は北条義時の三男であり、長兄の北条泰時と次兄の北条朝時は既に鎌倉幕府の中でそれなりの地位を手にしていた。ここで三男の北条重時が新しく設置された役職のトップである別当に就任した。この時点で北条重時はまだ二二歳だ。たしかに成年であるが、将軍近侍の新たな役職の重職に抜擢するのは若すぎる。この時点では北条義時の息子である以外に北条重時を抜擢する理由はなかったのであるが、ここで北条重時は抜擢に対する十分すぎる解答を示した。長兄の北条泰時とともに次世代の鎌倉幕府を作り上げる幕府重臣の一人となる素地を見せることとなったのである。
新たに姿を見せる者があれば、姿を消す者もいる。
それが、十三人の合議制の一人である二階堂行政の息子、二階堂行光である。
二階堂家は藤原氏ではあっても藤原北家ではなく藤原南家であり、藤原南家は藤原北家全盛期を迎えたと同時に文人官僚として生きることを選んで生きることを選び、それからおよそ三〇〇年もの歳月を経過させていた。この長きに亘る歳月の中で藤原南家の面々は、自らの生き残りのために常に新たな時代の権力者を見出し続け、ときには迎合し、ときには対峙し、藤原氏でありながら藤原北家でないために政界の中枢を担うわけではないという位置を維持してきた。それは源平合戦も例外ではなく、源平合戦の混乱の中にあって朝廷ではなく新興勢力である鎌倉を選ぶ藤原南家の者も出てきた。それが二階堂家であり、二階堂行光の父の二階堂行政である。ちなみに、二階堂という苗字は鎌倉の栄福寺二階堂に由来している。
二階堂行政が鎌倉を選んだのは源頼朝との姻戚関係である。二階堂行政の母の兄は源頼朝の母方の祖父である藤原季範であり、この藤原季範が熱田神宮の大宮司である。平安時代叢書で源頼朝の母を頻繁に「熱田神宮の宮司の娘」と書き記しているのも、藤原季範が熱田神宮を掌握し、尾張国に一大勢力を築いていたことに由来する。二階堂行政はその熱田神宮の大宮司である藤原季範の甥であり、熱田神宮つながりで源頼朝を選び、鎌倉を選んだという経緯がある。
二階堂行光は父の選択に追従して自身も鎌倉を選んだのであるが、鎌倉に姿を見せた当時の二階堂行光はまだ二十歳にもなっていない若者であった。時代が時代ならば京都で官僚として活躍し、活躍次第では貴族の一員になっていてもおかしくなかったが、その若者は父と同じく鎌倉での文人官僚生活を過ごすことを決断し、当初は政所での勤務、後に北条政子の側近の一人として鎌倉で活躍するようになる。建保六(一二一八)年には鎌倉における実務官僚の序列でトップに立つようになっていたと考えられており、現存する史料においても政所内の実務官僚のトップである政所執事としてその名が登場するようになる。現在の省庁で言うと、政所別当が大臣とすれば、政所執事は事務次官といったところか。
さらに源実朝の死後は鎌倉幕府を代表して京都に赴き朝廷との交渉にあたっており、当初目論んでいた皇族将軍の下向には失敗したが、三寅を招き入れて鎌倉幕府の存続を図る筋道を立てている。
その二階堂行光であるが、京都から戻って半年も経過していない承久元(一二一九)年九月六日の時点で既に容態が危険になっているとの知らせがあり、それまで二階堂行光が務めていた政所執事の職務を伊賀光宗に交代すると発表になっていた。
それから間もない九月八日の朝、二階堂行光こと藤原行光が五六歳の生涯を終えた。
二階堂行光が命を落とした承久元(一二一九)年九月八日の昼過ぎ、伊豆国熱海の走湯神社より、火災の発生と建物喪失の連絡が届いた。およそ四十六時間を経てからの連絡であり、いかに鎌倉まで距離があるとはいえこの時間の掛かりようは意外とするしかない。しかし、その後で鎌倉で起こったことを考えると、このときの熱海での火災は不吉な前触れと言えるのである。
承久元(一二一九)年九月二二日、午後から夜にかけて、鎌倉を大規模火災が襲った。源頼朝が鎌倉入りしてからの三四年間で最悪の火災であり、阿野四郎の材木座側の浜の家の北から始まった炎は南風に煽られ、北は永福寺総門、南は浜の倉庫前、東は名越山の山裾、西は若宮大路と、鎌倉の都市機能を壊滅させるに十分な被害をもたらしたのである。幸いにして北条政子の屋敷と三寅の住む御所は被害を免れたが、それもギリギリのところでの火災鎮静化であった。
伊豆で神社が焼け落ちるほどの火災が起こり、それからおよそ半月を経て鎌倉で都市機能を壊滅させる大規模火災が発生した。なぜこのような火災が起こったのかを考えると、自然発火、ケアレスミス、さらには放火などの理由が挙げられる。しかし、もっと重要なのは、どうしてこれほどの大規模な火災になってしまったのかという点である。
日本という国はどこにいても地震が付きまとう。ゆえに、石造建設を諦めて木造建設にしなければならない宿命を持つ国である。石造建築は綿密な計算に基づく地震対策を施さないと震度五強程度の地震で簡単に崩落するが、木造であれば震度七の地震にも耐えられるからだ。だが、木造建築は火災に弱い。そこで我が国の祖先達は木造建築を選ぶ代わりに火災対策をあれこれと考え実行してきた。とは言え、現在でもなお、火災対策が万全であるとは言えない。
都市鎌倉は現在よりはるかに低いレベルの火災対策しか施されてこなかった都市である。急激な人口増加に加え、そもそも可住面積が狭いことから家と家の間の距離が狭く、道路幅も狭い。ただし、鎌倉を城塞都市と考えれば、家と家の間の距離の狭さも、道路幅の狭さも、攻め込まれてきたときの防御を考えると守りやすさを高める要素となるため、鎌倉幕府としても火災対策を高める代わりに防御力を弱めるくらいなら、防御力を維持する代わりに火災対策を後回しにするのも選択肢としてはおかしくはない。
おかしくはないのだが、相手は自然だ。人為的な失火をどんなに減らしても自然発火から逃れることはできないし、延焼対策を執らないままでいると発生してしまった火災を食い止めることが困難になる。家と家との距離の狭さも、道路幅の狭さも、炎が近隣に飛び火しやすくなる要素なだけだ。
ここに、承久元(一二一九)年夏以降の気象が加わる。現在まで残されている文献史料は毎日の記録ではないので断言はできないが、残されている記録に従えば連日の晴天に加え風も吹く日々であったという。夏の湿気が終わりを迎えて空気が徐々に乾燥し、晴天が続いて風も強いとなったら、ちょっとした火で火災は簡単に悪化する。
都市鎌倉はゼロからの復興を余儀なくされたのだ。
それはまさに、後鳥羽上皇が大内裏再建に執念を燃やすのと同タイミングのことであり、この日以後、京都と鎌倉の両都市で相互に呼応するかのように再建工事の音が鳴り響く日々を迎えることとなる。
後鳥羽上皇にとっての大内裏再建は日本国再建と同義であった。
先にも述べたように承久元(一二一九)年八月半ばに後鳥羽上皇は再び病に倒れることとなったが、九月初頭に復帰すると、九月七日、九月二〇日、一〇月二日、一〇月一三日と臨時除目を繰り返すことで朝廷内における自らの発言権強化を図ると同時に、大内裏再建をさらに強化する人事異動を展開した。
さらに後鳥羽上皇は、一〇月一〇日に最勝四天王院に御幸して名所和歌会を開催している。最勝四天王院は鴨川の東の白河の地の南端、具体的には現在の平安神宮や京都市美術館の少し南のあたりに後鳥羽上皇が建立させた寺院であり、元久二(一二〇五)年の建立時に、障子に日本国内から選りすぐりの四十六ヶ所の名所を描き、その名所を読み込んだ和歌を書き記したことから、最勝四天王院障子和歌の世界はこの時代における日本全土の縮図という概念が存在しており、後鳥羽上皇にとっては日本国の治天の君たる後鳥羽上皇の統治する領域の象徴ともなっていた。そこでの歌会の開催は日本全土に君臨する統治者としての後鳥羽上皇自身を再確認する意図もあり、源実朝亡き後の精神的および肉体的苦痛からの再起を果たした姿がうかがえる。
ただし、奇妙な記録も見つかる。最勝四天王院の建立は元久二(一二〇五)年のことであるが、百錬抄によると、承久元(一二一九)年七月一九日に白河から五辻殿に移築されたようなのである。二年後の後鳥羽上皇の行動もあって、後鳥羽上皇は関東調伏を隠蔽するための解体移築をし、一〇月一〇日の御幸は移築工事完了を記念しての和歌会であったというのである。
それならそれで話の辻褄も会うのだが、同じ百錬抄に奇妙な記載が存在している。
それは、承久二(一二二〇)年一〇月一八日、すなわちこれから一年後に最勝四天王院上棟という記録が存在するのである。
こうなると百錬抄の記録が信じられなくなる。
現実的に考えると、後鳥羽上皇が承久元(一二一九)年一〇月一〇日に最勝四天王院に御幸したのは移築前のこと。そして、この時に開催した和歌会で最勝四天王院の移築が議論の俎上にのぼり、およそ一年後、六波羅と近い場所にある最勝四天王院を、平安京の北端のさらに北、六波羅から少し距離の置いた場所に移転したというものである。なお、現在の京都で最勝四天王院の跡地として碑文が残っているのは移築前の白河の地にあった頃のことであり、五辻殿のほうは五辻殿の跡地であることを示す碑文があるものの、最勝四天王院跡地であることを強く主張してはいない。おそらく当時の人の概念の中にも、最勝四天王院とは白河の地にある寺院であり、日本国全土の縮図たる最勝四天王院障子和歌も白河の地にあるべき障子であって、これから三年後に灰燼に帰すこととなる五辻殿のほうの最勝四天王院は、知識としては知っていても、概念としては受け入れることが難しかったのであろう。
承久元(一二一九)年一〇月二〇日の記録として、要注意な記録がある。
吾妻鏡では数行しか記されていないあっさりとした記録であるが、今後の鎌倉幕府を考えたときに大きな意味を持つ記録である。
この日、北条義時の娘が一条実雅と結婚したのである。
純然たる慶事であるのだから祝福すべきことであるのだが、一条実雅が誰であるか、そして、このときの結婚の形がどのようなものであったのかを調べると、純粋に祝福するだけで留め置くのは厳しくなる。
まず、一条実雅の父である一条能保は源頼朝と義兄弟であることに注意しなければならない。一条能保の妻の坊門姫の生年は久寿元(一一五四)年とする説と久安元(一一四五)年とする説とがあり正式な生年は不明であるが、源頼朝と母を同じくする女性であることは間違いなく、生年が前者であれば坊門姫と源頼朝は同母兄妹、後者であれば同母姉弟となる。ただし、一条能保は一条実雅の父であるが、坊門姫は一条実雅の母ではない。坊門姫が亡くなった六年後に生まれたのが一条実雅のため、一条実雅には坊門姫の血、すなわち、源頼朝とつながる血は流れていない。それでも一条実雅は源頼朝の血筋に関連する人物の一人であることに違いはなく、一条実雅が鎌倉にいたのも、三寅を第四代将軍となるべく京都から鎌倉へと下向したときに同行したからである。
このあたりのことをもう少し詳しく記すと以下の通りとなる。
三種の神器の一つである天叢雲剣は熱田神宮にあり、壇ノ浦に沈んだ天叢雲剣は熱田神宮が作り出した形代である。本物が熱田神宮にありレプリカが朝廷に奉納されたわけであるが、公式にはどちらか一方が本物で片方がコピーというわけでなく、両方とも本物ということになっている。
その天叢雲剣が壇ノ浦の戦いで海に沈んだため朝廷はどうにかして取り戻そうとしたものの失敗しており、熱田神宮に対して新たな形代を用意するよう命じても、熱田神宮からは、熱田神宮の宮司の娘より生まれた源頼朝とその子孫こそが天叢雲剣の形代であるとの返答しか戻らないでいた。天叢雲剣の形代を務める者こそ征夷大将軍であり、征夷大将軍がいないと三種の神器も揃わず、皇位継承も認められないという異常事態になっていた。後鳥羽上皇は征夷大将軍ではなく文字通りの剣を天叢雲剣の形代とすると布告したものの、本来の天叢雲剣の形代は壇ノ浦に沈み、新たな形代は征夷大将軍であるという認識は強く残っていた。
その認識が残っているところで、源頼朝の血筋が途絶えてしまった。鎌倉幕府の存続に関係する話であるだけでなく皇統継承に関係する話である。源実朝の死後の征夷大将軍、すなわち天叢雲剣の形代をどのようにするかを検討しているときに出てきたアイデアこそ、源頼朝の母まで遡るというアイデアであり、源頼朝と母を同じくする坊門姫である。
熱田神宮の宮司の娘を母とするという一点に絞れば、源頼朝の子孫だけでなく、坊門姫の子孫にも熱田神宮の権威は継承される。坊門姫は一条能保との間に男児一名女児三名を出産しており、そのうち二人の女児が第四代将軍として鎌倉に迎え入れた三寅の祖母となっている。三寅から見ると、父の九条道家は坊門姫の娘の一人が九条良経との間にもうけた男児、母の掄子は坊門姫の娘の一人が西園寺公経との間にもうけた女児であるため、二人の祖母がともに坊門姫の娘ということになる。なお、九条良経に嫁いだ女性が仁安二(一一六七)年生まれであることは判明しているものの、西園寺公経に嫁いだ女性の生年は不明であり、この二人の女性のどちらが姉でどちらが妹なのかは不明である。
一条能保は、既に述べたように娘を九条良経と西園寺公経に嫁がせただけでなく、花山院忠経にも娘を嫁がせており、花山院忠経に嫁がせた娘である保子を当時の後鳥羽天皇の乳母とさせたなど、婚姻関係を用いて政界の中枢に食い込む政略をとっていた。妻の有する熱田神宮の権威、すなわち征夷大将軍と、征夷大将軍がトップを務める鎌倉幕府の権勢を暗に示しているが、受け入れる側にとっては歓迎こそすれ敬遠するものではない権威だ。
一方、一条実雅にその権威はない。たしかに一条実雅は一条能保の息子なのであるが、坊門姫は一条実雅の生まれる六年前にこの世を去っており、坊門姫の有する熱田神宮の権威は有していないのである。そのため、一条能保が亡くなるまでに築き上げてきた朝廷内の権勢は、一条能保の死と同時に異母兄である一条信能に受け継がれ、一条実雅は継承できないでいた。一条実雅は西園寺公経の猶子となっているので、一条能保の牽制は継承できなくても西園寺公経の権威ならば利用できる立場であったが、これでは弱いとするしかなかった。
その一条実雅が北条義時の娘と結婚した。これで一条実雅は鎌倉幕府の後ろ盾を暗に示せるようになったのだが、家格だけを考えると本来ならば不釣り合いである。
後世に生きる我々は北条家がこの国を掌握することを知っているから一条実雅の選択を理に適ったものと考えるが、承久元(一二一九)年時点での北条家を考えると、一条実雅の選択は相当なギャンブルなのである。しかも、形式的であるとはいえ婿入婚なのだ。一条実雅が北条義時の屋敷に入るという結婚であり、平安時代の貴族の一般的な結婚形態であるとはいえ、また、北条義時も一応は貴族の一員であるとはいえ、従二位権中納言まで上り詰めた一条能保の息子ともあろう人が、従四位下陸奥守というかなり格下である北条義時の家に婿入りするというのは前代未聞であった。
一条実雅にも言い分はある。源実朝の左近衛大将就任に合わせて京都から鎌倉に下向したのを契機に鎌倉に留め置かれ、源実朝の右大臣就任時には拝賀の場で源実朝の暗殺を目撃し、一旦は京都に戻ったものの二人の姉の共通の孫である三寅の下向に伴って再び鎌倉まで足を運ぶという、京都と鎌倉とを行き来する暮らしを余儀なくされた上で京都に戻るタイミングを失っていたのである。異母兄の一条信能にしてみれば、弟ではあるものの母が違うことから中央政界におけるライバルになる可能性のある人物を表立って京都から追放する口実として三寅の下向の随身を命じるのはあり得る選択であったとも言える。近親者であり、また、この時点で二三歳という若さであることを考えれば、体力的にも血筋的にも適任であるとは言える。しかし、一条実雅が異母兄の選択を快く受け入れるであろうかと考えると否という答えに至る。
一条実雅の立場で考えると京都から追放されたという構図ができあがる。自分から鎌倉を選んだのならいざ知らず、京都から追放されて鎌倉に留め置かれるという立場である以上、どうにかして捲土重来を図ろうと考えるのは普通だ。そして、鎌倉幕府を自身の元に引き寄せるというところまでは誰もが当然な選択と考えるところであったが、家格を落としてでも北条義時を選ぶというのは、この時代の概念ではあり得ない選択であったのだ。そのあり得ない選択を一条実雅は選んだ。しかも形式的とはいえ北条義時の屋敷に婿入りするという形での婚姻を選んだ。
この婚姻がどちらからの発案なのかわからない。もしかしたら自由恋愛の結果なのかもしれない。確実に言えるのは、この時代の結婚ではあり得ないことを、一条実雅は実行し、北条義時は娘の父として一条実雅の行動を受け入れたということである。
そして、この婚姻が正解であったことは二年後に判明する。一条実雅は鎌倉幕府の権勢を背景にすることができた一方、北条義時は後に将軍となる三寅の大叔父を娘婿とすることに成功したのであるから。
都市鎌倉は火災からの復興を図っていたが、都市鎌倉の復興についての記録はない。しかし、その後も凶事が鎌倉を、そして日本中を襲い続けたことの記録ならば存在する。
承久元(一二一九)年一一月二一日の夜明け前に台風が鎌倉を襲い、ようやく台風の勢いが鎮静化した正午頃、火災被害からの再建を終えたばかりの北条時房の新築の家が倒壊した。
一二月二四日には、亡き源実朝の屋敷で、源実朝亡き後は北条政子の住まいとなっていた邸宅が火災に遭い、北条政子は三寅のもとへ一時避難することとなった。
年が明けた承久二(一二二〇)年一月一二日には早朝に地震が起こった。
一月一六日には、公暁の空席を埋めるべく鶴岡八幡宮別当となっていた慶幸が亡くなった。
一月二九日には巌谷不動のあたりで火災が起こり進士判官代工藤左衛門尉の家をはじめとする複数の家屋が被害に遭った。
二月一六日には大町より南が火災に遭った。強い北風に煽られた火災は鎌倉の浜辺まで広がり、前年の火災からの復興途上にあった鎌倉を再び灰に戻してしまった。
十日後の二月二六日の夜には、今度は大町の北側で火災が起こり、北条泰時の邸宅の前まで火災が押し寄せた。
三月九日の夕方には、またもや巌谷不動の当たりで火災が発生し、数十軒の民家が火災に遭った。
いったい何が起こっているのかと言いたくなる、災害ばかりの記録の連続。実は、吾妻鏡を追いかけると、承久元(一二一九)年の終わりから承久二(一二二〇)年の終わりまで、災害以外に書くことはないのかと言いたくなるぐらいに災害の記録しかなくなる。また、実際にそれだけの災害が発生している。この翌年に何が起こったのかを考えると、これだけ災害が頻発していたことが世情の動揺を誘い、その動揺が大事件の一因となったと捉えてもおかしくないほどだ。
史料はなおも承久二(一二二〇)年の災害の記録が続けている。それも、今度は鎌倉ではなく京都での災害だ。
三月二六日、清水寺の本堂が火災で喪失した。
四月二七日、京都の中御門町から発生した火災が大内裏を襲い、陽明門、左近衛府、上東門の左、斎院御所などが火災で焼け落ちた。なお、後述することとなるが、このときの大内裏は災害からの復旧の過程であった。
五月一三日、祗薗本社が火災で焼け落ちた。
それにしても、およそ半年に亘って災害についての記録しか出てこないのはどういうことか。
極論すると、それが歴史資料というものの本質である。
人類の歴史は戦争の歴史というが、実際にはそうではない。ただ単に、戦争の記録ならば数多く刻まれ、結果として構成に数多くの資料が残されるというだけである。現在の新聞にしろ、あるいはテレビのニュースにしろ、何ら報道するようなことがなければ、ほのぼのとした内容を報道するか、些事を論ったりして紙面なり時間なりを埋める必要があるが、歴史資料はそうではない。記録に残すまでもないことしか起こらなかったときというのは、記憶に残さないのである。
裏を返せば、特に記録が残されていない期間というのは、当時の人にとっては当たり前の日々と認識されてきた期間であるということでもある。それは必ずしも現代人の考える当たり前の日々と概念を等しくするものではない。現代に生きる我々にとっては信じられない異常事態であっても、当時の人にとっては当たり前のことと認識されていたら、それは記録に残らない。
また、歴史資料は常に恣意的な視点が伴う。たとえば戦いの記録を調べても、一つは残虐な殺戮と書き記し、もう一つは正義の達成ないしは復讐の成就と書き記す。また、一方のみにしか記録がなく、もう一方の記載しか存在しない場合も存在する。相手を絶滅させ、かつ、その絶滅のさせ方が当事者ですら秘匿したいと感じられる内容である場合、歴史資料には秘匿が生まれることもある。資料の詳細な読み込みや発掘調査などによって歴史資料の空白が埋められることもある。
たとえば、ほとんどの史料で見過ごされている出来事について、予期せぬところから記録が発掘され空白が埋められることがある。その具体例が承久二(一二二〇)年四月に起こっている。源頼家の男児のうちただ一人の生き残りである禅暁についてはほとんど記録に残っておらず、その最後の記録が承久二(一二二〇)年四月一四日のことであるが、その内容は予期しがたい内容であった。
仁和寺に残されている記録だけが、承久二(一二二〇)年四月一四日に禅暁が京都東山、この事件からおよそ二百年後に銀閣寺が建立されることとなるあたりの地域で殺害されたことを記している。公暁のように大々的に名を残しているわけでなく、一人の僧侶として生きてきた禅暁は歴史の闇に埋もれるはずであった。その禅暁が殺害されたことは鎌倉幕府にとってだけでなく朝廷にとっても後鳥羽院にとっても都合が良すぎる話であるがゆえに後世から糾弾されること必定の流れであったことから、記録に残す者は少なかった。特に吾妻鏡は承久二(一二二〇)年四月から五月にかけての記事は天災と些細な出来事の記載のどちらかしかなく、禅暁という人物なんかこの世に存在しなかったといいたくなるほどに無視していた。
禅暁の死を取り上げているのは仁和寺日次記である。当然だ。禅暁は仁和寺の僧侶であったのだから。禅暁は源頼家の息子であるため源実朝が亡くなった後の第四代将軍候補に挙がってもおかしくない人物であった。また、建保七(一二一九)年閏二月五日には二階堂行光に伴われて京都を出立したという記録もあるが、その記録以外に源実朝の死に関連しての禅暁の記録はない。もっと言えば、禅暁という人物についての記録そのものが絶望的に乏しく、前述の京都出立の記事も仁和寺十五世門主である道助法親王の伝記の中にあっさりと記されているだけである。
禅暁に何か問題があったのではない。既に三寅を次期将軍とすることを決めているため、たとえば打倒北条を目的とし、禅暁を神輿に担いで反抗勢力が生まれる可能性があるのだ。ここで禅暁を連れて京都を出立したことの記録は仁和寺に残っていても京都に戻った記録はない。存在するのは京都出立から一年二ヶ月後に京都東山で殺害されたという記録だけである。
記録に残すべきと考える出来事もあれば、記録に残したくないという出来事もある。記録に残したくないが残さざるを得ない出来事もあれば、残したくないので記録に残さないでいたものの、他に記録を残した者がいたので記録を残さなかったことが知れ渡ることとなった出来事も存在する。
それでも出来事として認知されるならまだいい。
出来事として認知されることすらなく、記録に残されない出来事というのも存在する。この判断を個人の恣意的な判断に委ねると記録に残されず歴史の闇に消える。
この闇を少しでも減らすためにこの国は一つの制度を生み出していた。
どんな平穏な年であっても残さなければならない記録を定めたのだ。法により記録として残さなければならないと定め、また、社会的には些事であっても当人にとっては重要事である出来事の記録を残すようにさせたのである。日本という国は、記録を残していないようで残している国である。
残さねばならないと定められた記録の一つが公卿補任である。何年何月何日に誰がどのような役職に就いたか、また、その年は誰がどのような役職を務めていたかをまとめた記録であり、一度でも従三位以上の位階を得るか、一度でも参議以上の役職に就けば、その人の人生は朝廷の公式記録として後世まで残される。それが公卿補任であり、公卿補任とは明治維新により廃絶となるまで、歴代天皇に仕えてきた貴族達の足跡が連綿と書き足され続けてきた史料である。
ただ、これは平家政権と鎌倉幕府との大きな相違点の一つであるが、平家政権は平家の公達を続々と朝廷に送り込み、朝廷の中枢を平家が支配するに至ったのに対し、鎌倉幕府は源氏将軍ただ一人が朝廷の中枢に名を刻むのみ、それも、京都に足を運ぶことなく京都から遠い相模国鎌倉に身を置き続けている。つまり、平家政権の時代と違って、鎌倉幕府創設以後の公卿補任に名が刻まれているのは昔ながらの藤原氏の連続である。ごく稀に源氏がいるがその源氏は清和源氏ではなく村上源氏であることがほとんどで、鎌倉幕府の送り込んだ人材が名を刻むことは無い。例外は将軍本人だけである。
何ら記録が残っていない時期であっても、公卿補任をよく読むとその年に発生した事件を見つけることができる可能性がある。文字通り何の出来事もない年である場合は単なる名簿になってしまうが、そうでなければ、記録が残されていない出来事を復元できる可能性がある。
その上で、建保七=承久元(一二一九)年から承久二(一二二〇)年までの公卿補任を読むと、建保七(一二一九)年一月に右大臣源実朝が殺害されたという大事件があった後の人事の補完があった以外に、これと言って目を引くような人事異動は記録されていない。後鳥羽上皇は大内裏再建のために臨時の除目を繰り返したが、そこに目を引く記事はない。誰かが抜擢された、あるいは、誰かが失脚した、突然の死を迎えたなどの大事件があったならば目を引くことになったであろうが、後鳥羽上皇の主導する朝廷は、右大臣源実朝が突然の死を迎えてからこれまで何ら特筆すべきことのない人事を展開しているのだ。ちなみに、六位の身でありながら抜擢された藤原秀康はまだそこまでの位階に到達していないので公卿補任にその名を記してはおらず、大内裏再建に情熱を燃やす後鳥羽上皇の肝煎りの除目であっても、特筆すべきではないと言いたげなほどにこれまでと変わらない情景である。相変わらず位階はありながら役職に辿り着けないでいる貴族は数多く、従三位は無論、正三位、さらには従二位になっても参議にもなれないまま放置され続けている貴族が羅列されているだけである。そして、毎年のように新たな貴族が従三位の異界を得て公卿補任にその名を刻むようになっている。
ただ、さらに公卿補任を深く読み込むと、記録に残らない大きな出来事が進展していることが読み取れる。
国家経済の破綻につながる大問題が進展しているのだ。
この問題に承久二(一二二〇)年時点の人達は気づくことなく、何もない日々が続いていると認識していた。自分の生きる時代に記録に残す出来事があるとすれば自然災害のみという認識であった。
これは極めて危険であった。
では、公卿補任に刻まれている国家経済の破綻につながる大問題とは何か?
上級貴族の増大である。
先に、毎年のように新たな貴族が従三位の位階を得て公卿補任にその名を残すようになっていると記したが、このことが本来ならば異常事態なのだ。そもそも新たに従三位の位階を得る貴族とは数年に一度の割合で新たに誕生するかどうかという話であり、毎年誕生する、それも複数名の従三位の貴族が新たに誕生するというのは、通例になってしっているために見逃されがちであるが、本来であれば異常事態なのである。
その上でもう一度公卿補任を見つめていくと、カリスマ性に乏しく、上皇としての権威以外に人を惹きつける要素を持たない人生を過ごしてきた後鳥羽上皇の現実が見えてくる。源実朝が亡くなるまでは、鎌倉幕府の武力を背景にした上で、上皇としての強い推薦を示すことで位階を付与させて自派の構築をしてきた後鳥羽上皇が、鎌倉幕府との関係が断絶したために、ただでさえ莫大な人数になっていた無官の上級貴族がさらに増えてしまったのだ。後鳥羽上皇に近づけばこれまでの自分では考えられなかった出世が待っていると言われ、そして実際に念願だった従三位の位階を得て公卿補任に名を刻めたと思ったら、同じ境遇の貴族が数多くいて、従三位の位階を得たとしても、朝廷中枢の入り口でもある参議の役職を得るどころか、何の役職も得られぬまま位階だけが付与された無官の貴族となっただけなのだ。
とはいえ、従三位の位階を得ると得ないとでは、貴族としての収入に大きな違いが出る。一般的に、貴族は自分の所有する荘園からの年貢によって豊かな暮らしをしていると思われそうであるが、実際には、貴族の収入に占める荘園からの年貢はそこまで多くはない。極論すれば、荘園からの年貢がゼロになったとしても生きていけるだけの給与が国から支払われている。貴族とは現在でいう国家公務員、あるいは国会議員であり、国のために働く代わりに国から給与を得ている者という前提は存続しているだけでなく、国のためにどれだけ働いたかで国から支給される給与に違いが出る。その給与は位階に基づく給与と職種に基づく給与の二重構成となっており、何の役職に就いていなくても位階を得ているならば貴族として十分に生きていけるだけの金額が保証されていた。
ただ、保証される側の貴族の立場ならともかく、保証する側である国の立場に立つと、限度が見えてくる。赤字国債という概念のないこの時代、国が貴族のための給与をどこから出すかとなると、その財源は全て租税収入に求めることとなる。荘園制の進展により国の租税収入が減ってきてはいるものの、荘園の所有者である貴族も一応は自分の所有している荘園の規模に基づく租税はしているし、また、源頼朝の手によって荘園住人の年貢納入先は荘園領主ではなく地頭に変更となったが、その地頭もまた、一応は法に基づく納税をしている。つまり、少なくとも法に基づく租税収入はこの時代の朝廷にも存在していた。ただ、国に入ってくる租税収入は後鳥羽院の前と後とで大差はないのに、国が給与を支払う貴族の数となると後鳥羽上皇の院政開始以後に激増したのである。さらにいえば、後鳥羽院政の始まる前から貴族の数は年を経るごとに増えてきていたのが、後鳥羽上皇の時代になって急速にペースを上げてさらに増えた。ここに源実朝の死に伴う後鳥羽院と鎌倉幕府との関係断絶が加わったことで、後鳥羽上皇の権力強化のための貴族の人数増加が加速し、収拾のつかない事態にまで陥ってしまっていたのだ。
もしかしたら、この時代の人の中には気づいている人もいたのかもしれない。その中には後鳥羽上皇も含まれていたのかもしれない。それでも、多くの人は気づかないでいた、あるいは、気づかないふりをしていた。
気づいてしまうということは、自身がようやく手にした権利を放棄するに等しいことだから。
都市鎌倉も復旧の過程であったが、もう一つ、災害からの復旧の過程であった場所がある。
何度も記してきた大内裏である。
前年七月に源頼茂の討伐の過程で大内裏が大ダメージを受けていたこともあって後鳥羽上皇は復旧工事に注力していた。
後鳥羽上皇の命令による大内裏復旧工事の記録として、承久二(一二二〇)年四月二一日付の|典薬寮地黄御薗供御人等解《てんやくりょうじおうみそのくごにんとうのげ》に「去年十月、院宣を相副へ、仰せ下さる」との記述があることから、承久元(一二一九)年一〇月に後鳥羽上皇が院宣を下していたことがわかる。また、東大寺出納文書目録にも造内裏役のため承久元(一二一九)年一〇月一六日に文書を取り出して政所房に提出したことの記録が存在する。既に述べたように承久元(一二一九)年の八月にはもう大内裏再建のための人事改編を目的とする除目をはじめており、その後も何度も除目を繰り返していることから後鳥羽上皇がいかに大内裏再建に情熱を燃やしていたかが読み取れる。
ただし、後鳥羽上皇の情熱の記録は承久元(一二一九)年一〇月後半に一旦消える。一〇月一六日に母の七条院殖子を伴って熊野詣に出かけたからで、このときの熊野詣は後鳥羽上皇の人生で二七回目の熊野詣である。このときは老いた母を伴っての旅路ということもあって通常の熊野詣よりも日数を要しており、後鳥羽上皇の動静についての次の記録は承久元(一二一九)年一一月一九日となる。この日の記録として「諸道、梁年に当たり、内裏を造ることを勘申す」という記録があり、この記録が出てきてはじめて、後鳥羽上皇が熊野詣という非日常空間から政務という通常期間に戻ったことがわかる。梁年とは建設を慎むべき年という意味で、大内裏再建に相応しい年であるかどうか、正確に言えば大内裏再建に相応しくない年でないかどうかを陰陽師に占わせたのである。陰陽寮からの結果が示されたのは一ヵ月後の一二月一八日のことで、この日、「官室営造を憚るべからざるの由」との答申があったことで、後鳥羽は晴れて大内裏再建事業を本格化できたのである。
そして承久二(一二二〇)年一月二二日の除目で藤原公頼を参議に就任させると同時に大内裏再建工事担当の参議である行事参議とさせ、翌一月二三日には藤原頼資を右中弁に補任して行事弁とさせ、そこに院近臣藤原光親の子である右少弁藤原光俊を加えた三人を頂点とする造内裏行事所を発足させるに至った。また、権大納言源通具を行事上卿に任命することで大内裏再建工事の最高責任者を権大納言源通具であると内外に公表し、大内裏再建工事における現場の最高責任者が参議藤原公頼で、裏方も含めた全体の指揮官が権大納言源通具であるという図式を成立させた。上卿とは本来であれば議政官の中でそのときの会議の議長を務める貴族のことを指し、通常は左大臣、左大臣不在時は右大臣、右大臣も不在であれば内大臣を飛ばして大納言筆頭が議長となって政務を展開することになっている。この議長職を上卿という。しかし、大内裏再建工事のように次年度に実施することが明らかとなっている行事に関しては、その行事をとりまとめて責任を負う貴族を前年末に任命することがあり、この場合は、任命された貴族が担当者である行事上卿となる。
並行して、大内裏の再建費用として全国各地に臨時に税を課すことも決まった。これは一国平均役、すなわち、令制国単位に課される臨時租税であり、この租税を課された令制国は他の租税を減らすことで庶民の税負担を軽減させるか、あるいは一年限定のこととして臨時課税を令制国内に課すこととなる。ここまでであれば何ら珍しいことではないのだが、承久二(一二二〇)年の一国平均役は臨時課税の対象となった国の数がこれまでにない大規模なものであった。何しろ確認できるだけでも、山城、大和、河内、摂津、和泉、伊賀、伊勢、遠江、上総、下総、近江、美濃、信濃、下野、越後、加賀、淡路、丹波、丹後、但馬、伯者、備後、安芸、周防、壱岐、筑前、肥前と、日本全国のおよそ半分、この当時の人口を考えると、人口の過半数が一国平均役を課される対象となったのだ。
規模もこれまでに無いものであったが、税の徴収方法もまたこれまでに無いものがあった。小山田義夫氏の著した「一国平均役と中世社会」によると、このとき、造内裏行事所の統括のもとで各国の国衙が切符、すなわち田の面積に従って賦課割当を記した書類を作成し、切符に基づいて公領の場合は国司が直接、荘園の場合は荘園領主を通じて徴収したという。そこに守護や地頭の入り込む余地もなければ荘園領主の抵抗する余地もない、文字通り国を挙げての徴税であったという。しかも、二月中に半分を納め、残る半分を三月末までに納めるように命令するというのだから、命令する側にとっては理に適っている一方、命令される側にとっては苦痛でしかないスケジュールだ。前年秋の収穫の後に税や年具を納めた残りが農民の手元にあるのだが、それを差し出せというのだからたまったものではない。
ただし、上に政策あれば下に対策ありとはいつの時代でもどの社会でも変わらぬ真理であるようで、国衙は田の面積に基づいて徴税額を決めるが、ここでの田の面積とは記録に残っている面積のことであり、現実の面積ではない。自然災害に巻き込まれて耕作不可能となってしまった土地もあれば、病気や戦乱などの理由で耕作者不在となってしまった土地もある。こうした土地に対する課税をどんなに求められても、そのような納税などできないと訴え出ればそれで終わりだ。毛沢東やスターリンであったら如何なる事情があろうと問答無用で税を取り立てていたであろうが、幸いにして我が国の祖先はそこまで落ちぶれていない。耕作できない土地は耕作できないし、耕作する人のいない土地は耕作できない。そして、耕作できない土地からの納税もできないのである。
また、納税できるだけの収穫があった土地については、鎌倉幕府から派遣された地頭が立ちはだかった。国衙からは国司の名で使者が荘園や村落に派遣されてくるが、相手にするのが地頭の場合、国衙から派遣されてきた使者は望み通りの納税を遂行できなくなる。ここで地頭が各荘園に置かれていることがプラスに働く。地頭はそんな命令など聞いていないとして使者を追い返すだけでなく、いかに徴税という名目があろうと、そんな者は農民の手元に残る収穫物を盗みにきた強盗として国衙からの使者を逮捕する。使者がいかに公的な性格を帯びていたとしても地頭は武士として武装を固めており、殴り合いになったらどちらが勝つかは一目瞭然だ。その後に間違いであったと気づいたとしても、あるいは、最初からわざと間違っていたのだとしても、地頭は地頭としての職務を愚直に遂行したに過ぎず文句の言われる筋合いなどない。いつもならば目障りに感じるところのある地頭がこのときばかりは農民を守る存在になったのだ。
さらに、抵抗勢力として寺社が登場した。こちらも構図としては地頭と同じであるが、地頭の場合は鎌倉幕府に責任を問うことができるのに対し、寺社の場合は責任云々を問い合わせた瞬間に僧兵が群れをなして平安京に押し寄せることとなる。しかも、今回は鎌倉幕府の武力を頼れない。なぜなら徴税に対する抵抗という点で鎌倉幕府は寺社勢力と協調姿勢を見せたからで、京都守護の指揮下にある鎌倉幕府の御家人は無論、西面武士でもある鎌倉幕府の武士達も僧兵と向かい合うときの武力として計算できないのである。ここで無理して徴税するくらいなら色々と理由をつけて徴税を諦める方がまだマシである。
一箇所でも例外を認めるということは他にも例外を認めることにもつながるため、後鳥羽上皇は何とかして徴税を求めたものの、現場の担当者は後鳥羽上皇の命令に従うことができないという板挟み状態に陥ったのである。
記録によると、承久二(一二二〇)年三月二二日に大内裏造営のスタートである木作始を迎えたものの、全国各地から抵抗の嵐が吹き荒れて予定していた徴税ができずにいたことがわかる。
それでも後鳥羽上皇は無理に集めた税を用いた大内裏再建に固執し、百錬抄の承久二(一二二〇)年一〇月一八日の記録に、大内裏の殿舎、門、廊などの立柱上棟の儀式があり、上卿である権大納言源通具、行事参議である参議藤原公頼、行事右中弁の藤原頼資、行事右少弁の藤原光俊らが造内裏行事所に集ったことが記されている。およそ七ヶ月で大内裏再建はそれなりに形になってきたのであるが、手放しで喜べるかと問われると、その問いには否と答えるしかない。たしかに一一月二〇日に九条道家に対して揮毫を命じていること、また一二月八日に檜皮葺始を実施して殿舎に葺く檜皮の寸法を諮問したことなどからそれなりに形になってきていたのであろう。しかし、公卿補任の承久二(一二二〇)年の項を見ると、参議藤原公頼は一二月一八日に参議を辞めていることがわかる。公卿補任にその名が記載されるのは従三位以上の位階を得た、もしくは参議以上の役職を得た場合であるから、大内裏再建に携わった人物の足跡を公卿補任から追いかけるとすれば参議藤原公頼しかその名を追いかけることができない。そのため藤原公頼以外の人物については憶測となってしまうのであるが、大内裏再建は承久二(一二二〇)年一二月に完了したという扱いになり、大内裏再建のための造内裏行事所もその頃に役目を終えて解散となっていたと推測できるのである。実際、その後の大内裏再建に関する記録は見えなくなる。
それにしても、これまでの大内裏再建や内裏再建、また、閑院内裏の再建においてもそうであるが、再建に尽力した人達は時代の為政者に、位階や官職、あるいはモノでの報償が存在したのに、今回の大内裏再建は何の報償もない。記録に残っているのは、名目上は自主的な辞職であるにしても、再建担当の貴族がその任を解かれたこと、そこから推測されるのは大内裏再建と同時に再建に伴う組織体が解散されたことであって、尽力した人達に対する報償は何もなかったとするしかない。これはさすがに時代の為政者、承久二(一二二〇)年の場合は後鳥羽上皇の資質を疑いたくなる。
そこでもう少し大内裏再建に至るまでの経緯を見てみると、後鳥羽上皇一人の空回りが見て取れる。まず、陰陽寮による造営の吉凶の答申に一ヶ月近くかかかっている。おまけに、行事上卿である権大納言源通具が京都を離れて長期に亘って参詣に出かけ、行事右中弁の藤原頼資も一〇月二六日から一二月一三日まで熊野詣に出かけている。どう贔屓目に見ても大内裏再建に意欲的に取り組んでいるとは思えない。
こうした消極的な抵抗だけでなく、後鳥羽上皇の命令による納税に対する反発、そして納税拒否の動きは日本全国で展開され、それまであり得なかった寺社勢力と鎌倉幕府との連携すら誕生した。多くの貴族にとっては憎しみの対象にすらなっていた荘園監督の地頭がこのときばかりは納税への抵抗勢力として頼れる存在となり、庶民もまた、納税に抵抗する存在である地頭への協力を申し入れた。
後鳥羽上皇は大内裏の再建をなんとしても成し遂げようとしていたが、ここまで反発が強くなるとさすがに自らの意思を押し通すことは不可能になると考え、一二月八日の檜皮葺始を契機として大内裏再建工事をいったん中断した。
後鳥羽上皇の執念は実を結ばなかったのだ。
参考となるであろうか、この頃の後鳥羽上皇の苛立ちを示すエピソードがいくつか存在する。
まず、承久二(一二二〇)年の春に藤原定家に対して歌会出仕の禁止を通告している。もっともこれは、和歌を利用して後鳥羽上皇を批判した藤原定家のほうにも問題があったと言えるし、また、藤原定家の人となりがあまり褒められたものではないことも手伝ったと言えるが、それでも後鳥羽上皇が和歌の世界においても自らの苛立ちを隠すこともできなくなり、和歌の世界における最高の協力者の一人であった藤原定家を自らの周囲から突き放したのであるから、後鳥羽上皇の苛立ちは相当なものがあったのだろう。
さらに後鳥羽上皇の怒りは自分の息子で現役の天皇でもある順徳天皇に向けられることもあった。天皇臨席のもとで開催される弓道の儀式である賭弓習礼で、順徳天皇は儀式における擬主上、すなわち、天皇臨席の儀式においてどうしても天皇が中座しなければならないときに天皇の代役に殿上人である藤原重長を任命したことに対して激怒し、順徳天皇の軽はずみな行動を止めなかったとして、後鳥羽上皇は左大臣九条家道をかなり強い口調で怒鳴りつけている。
なお、後鳥羽上皇の順徳天皇に対する怒りの中には、順徳天皇が後鳥羽上皇の意に沿わぬようになってきたことも考える必要がある。順徳天皇は第三皇子として生まれ、異母兄の土御門天皇から譲位されたときは一四歳であった。院政開始以後の新天皇の年齢としては高い方である。一四歳という年齢からもわかる通り既に元服済であったために、順徳天皇に摂政はおらず、治政開始の時点で関白が政務を支えるという構図であったのだが、実際には関白である近衛家実ではなく、父である後鳥羽上皇の強い影響下にあり続けていた。院政に対して源頼朝が建久元(一一九〇)年に語った「天皇は東宮の如し」は後鳥羽院政でも健在であったのだ。皮肉にも、源頼朝が「東宮の如し」と語った天皇こそ幼い頃の後鳥羽天皇であるのだが、今やその後鳥羽天皇が退位して後鳥羽上皇となり、その後鳥羽上皇が順徳天皇を「東宮の如し」とさせていた。
ところが、徐々にではあるが順徳天皇は後鳥羽上皇の影響から脱却し始めるのである。先に記した賭弓習礼での擬主上の件における順徳天皇の判断について、順徳天皇の軽はずみな行動と言ってしまえばそれまでだが、それよりも大きな問題として、後鳥羽上皇と順徳天皇との間で天皇権力に対する認識相違があったのではないか、しかも、年齢を重ねたことで順徳天皇は後鳥羽上皇を必要としなくなってきているのではないかという問題がある。これは後鳥羽上皇にとって苛立ちを隠せぬ話であったろう。
ただ、藤原定家よりも、また、実の息子である順徳天皇よりも、後鳥羽上皇の苛立ちが激しく向かっていたのは鎌倉幕府、特に北条義時であった。
大内裏再建に執念を燃やしながら思うような徴税ができなかったこと、そして、その主軸を担ったのは鎌倉幕府が全国各地に派遣していた地頭達であったことを後鳥羽上皇は知っていた。そうした鎌倉幕府の地頭達を統率する存在として北条義時の存在がにわかにクローズアップされることとなったのである。
源実朝の死に際する弔意を伝える使節である藤原忠綱は、我が子を亡くした、それも孫の手によって殺害されたことに悲しみの日々を過ごしている北条政子に弔意を伝えた後、北条義時に面会して摂津国の長江荘と倉橋荘の地頭職の解職を求めてきたのである。このことについて、承久記では卿二位こと後鳥羽院乳母の女性の言葉として、「去バ、木フ切ニハ本フ断ヌレバ、末ノ栄ル事ナシ。義時フ打レテ、日本国ヲ思食儘二行ハセ玉へ」という言葉が残っている。木の幹を切り倒すとその木は枯れるが、枝を切ってもその木は倒れない。邪魔な枝を切り落とせということだ。そして、ここでいう邪魔な枝というのが北条義時であった。
ここで注意すべきなのは、後鳥羽上皇の苛立ちの対象が鎌倉幕府に向いてはいても、鎌倉幕府を取りつぶすべしという感情には至っていなかったことである。鎌倉幕府の持つ財力と軍事力は魅力的であり、源実朝が生きていたらまだ鎌倉幕府の財力と軍事力を後鳥羽院でも利用できたのに今は利用できなくなってしまった上に、鎌倉幕府内部のゴタゴタの影響で大内裏が焼失し、鎌倉幕府のせいで再建せざるを得なくなった大内裏の再建工事なのに、かつての閑院内裏のように鎌倉幕府が資金援助をするどころか、むしろ逆に資金調達の邪魔をしている。後鳥羽上皇としては鎌倉幕府の何かが変わってしまったという思いであったし、変わってしまったことの元凶をこの時点の鎌倉幕府の最高実力者である北条義時に見いだしたと言える。
ただ、これは北条義時にしてみればとばっちりもいいところだ。たしかに政所別当と侍所別当を兼任している。後世の我々も北条義時を鎌倉幕府二代目執権と考えることが多く、歴史の教科書でも鎌倉幕府歴代執権の二番目に北条義時の名が存在する。しかし、この時点ではまだ鎌倉幕府執権という役職が明瞭化されておらず、後世から眺めるほどに北条義時にそこまでの権力集中が起こっているわけではない。
源実朝暗殺事件を起こしてしまったのはたしかに鎌倉幕府の失態であるが、その後の大内裏の焼失は後鳥羽上皇の命令で出動した西面武士にも責任がある。西面武士の出動理由こそ源頼茂が後鳥羽上皇の召喚に応じなかったことであるものの、そもそも西面武士を出動させたのは後鳥羽上皇なのだ。たしかに源頼茂は後鳥羽上皇の召還に応じず大内裏に籠もったものの、西面武士に大内裏を攻撃させたために大内裏は焼失してしまったのである。これで大内裏焼失の責任を北条義時に押しつけられても、北条義時に何ができるというのか。
京都で後鳥羽上皇が大内裏再建工事に躍起になっていた承久二(一二二〇)年七月二九日から三〇日にかけて、鎌倉で大規模な災害が発生した。台風上陸である。雨量は三〇日の早朝にピークを迎え、鎌倉市中の至る所で民家の損壊が発生した。ある民家では風に倒され、ある民家は洪水に襲われ、川沿いに住む人の多くが命を落とした。
台風の次は火災である。九月二五日は風が強く吹いている日であった。その日の夕刻、西から東へと激しく吹く風に乗って炎が巻き起こり、大野右近入道や工藤八郎左衛門尉などの家が火災被害に遭った。なお、吾妻鏡はわざわざ北条義時の家が火災に遭わなかったことを記している。
火災は一〇月一一日の夜にも発生し、北条時村や大内惟信の家を含む多くの家が火災被害に遭った。
先にも記したが、承久元(一二一九)年の終わりから承久二(一二二〇)年の吾妻鏡の記載はことごとく、鎌倉をはじめとする日本各地で発生した自然災害についての記載に終始しており、京都と鎌倉とのやりとりは途中まで記されていない。おそらくであるが、この時点の北条義時はまさか自分が後鳥羽上皇の恨みを買っているなど全く考えていなかったであろう。鎌倉幕府のトップは幼い三寅であり、鎌倉幕府のトップに貴族であることが求められる局面が出てきたときは姉の北条政子が受け持っている。北条義時も貴族のうちの一人ではあるのだが、御世辞にも高い位階を持っているとは言えず、朝廷の中枢の一員としてカウントされるほどの官職にも就いていない。鎌倉では特別な存在と見做されても、日本全国レベルで見ると北条義時は特筆すべき人物ではない、ということになっている。
もっとも、京都と鎌倉との連絡が完全に途絶えていたわけではない。源頼朝が作り上げた情報網は源頼朝死後二〇年を経ても健在であり、現在の感覚ではタイムラグがあるものの、この時代の感覚では片道七日往復半月という異例の早さで情報のやりとりができるだけでなく、京都には鎌倉幕府の出先機関である京都守護が常駐し、鎌倉には京都から貴族が頻繁に足を運んできている。さらに重要なこととして、将軍たるべく鎌倉にやってきた三寅の実父は左大臣九条道家だ。遠く離れたところで生活しているとはいえ、我が子を見捨てるようでは父親失格である。
承久二(一二二〇)年一一月二三日、九条道家から我が子、すなわち三寅の着袴の儀に用いる道具一式や、儀式開催の吉日をまとめた日時勘文が鎌倉に届いた。鎌倉に住む人達はこれまで源実朝が左近衛大将になり右大臣になったときに京都の貴族の豪華さを垣間見ることがあったが、三寅のために九条道家が送ってきた道具一式はこれまでのどの調度品よりも素晴らしく目を見張るものがあり、鎌倉に住む人達は三寅の背後にある藤原摂関家の歴史と伝統を思い知ることとなった。
承久二(一二二〇)年一二月一日、三寅の着袴の儀が執り行われた。
着袴の儀とは現在でいう七五三に相当する儀式である。だいたい五歳前後に生まれてはじめて袴を着ることから、幼児の成長を祈願する儀式へと発展し、この時代の貴族や武士にとっては人生初の儀式と見做されるようになっていた。もっとも、儀式のメインではあっても幼児自身が儀式を準備、運営、開催するわけではなく、その幼児のバックボーンがいかに強固なものであるかを周囲に見せつけることが儀式のメインであった。
三寅は鎌倉幕府全体がバックボーンであるだけでなく、儀式に参加はできないものの左大臣九条道家が実父であり、このときの着袴の儀も、源頼家や源実朝のときより壮大な規模の着袴の儀になっていた。
そもそも何月何日に着袴の儀を開催するかを決めるところから違う。陰陽師に吉日を占わせるところから着袴の儀は始まるのだが、この日付については実父の九条道家が京都で陰陽師に占わせ日付を書き記した書状を鎌倉に送り届けていた。実父にして左大臣の送ってきた書状だ。天皇や上皇が別の日付を送ってこない限り、九条道家からの書状に書き記されている日付が覆されることはない。
儀式の開催場所は寝殿の南廂に設けた着袴所であり、さすがにこればかりは京都に住んでいる父が送り届けることはできないから鎌倉幕府が用意する。ただ、儀式に用いる用具一式は一族や親しい者の中の最上級者が揃えることになっており、既に述べたように九条道家が藤原摂関家として用意できる再要求の用具一式を送り届けてきたので、この時点の鎌倉で考えられる最上級の、さらには京都の貴族社会の中でも他に匹敵するものの少ない豪奢なものであった。
通例というべきか、吾妻鏡はこのような儀式において誰が参加したのかを細かく書き記している。
儀式はまず、北条泰時、足利義氏、三浦義村。小山朝政、千葉胤綱らが着袴所に鎮座し、一条実雅、北条時房がやや奥にいて、もっとも奥に三寅がおり、三寅の横に北条義時が侍っている。本来であれば幼児の側に侍るのは用具一式を用意した一族の最上級者、あるいは同性の親がその役割を務めるのであるが、実父である九条道家が鎌倉まで足を運ぶことが許されないだけでなく、鎌倉中を見渡しても三寅と強い血縁関係にある男性がいないため、ここでは北条義時が三寅の父の代役をつとめている。
緊張した空間ができあがったところで、彼らの前を後藤基綱が箱を捧げながら進んでいく。この箱の中に九条道家の用意した袴が入っており、箱を空けて袴を着させるのが、本来であれば同性の親の、このときの場合は北条義時の役目である。なお、このときに異性の親が手伝うこともあるのだが、その役割は北条義時の妻ではなく北条政子が務めている。
ここで着袴の儀の半分が終わる。残る半分は着袴の儀に関連する贈り物だ。
参加者が着袴の儀の主人公である幼児に対して様々な贈り物をするのである。
これが京都であったらごく普通の貴族の邸宅における着袴の儀の贈り物となったであろうが、ここは鎌倉だ。贈り物は武士の考える最上級品である。もっとも、武士でなければ喜べない贈り物というわけではなく、貴族社会にある人に贈ったとしても喜んで受け入れてもらえるであろう贈り物である。まず、北条泰時から太刀、足利義氏から弓矢、三浦義村から刀、小山朝政と長沼宗政から兜が贈られた。さらに、結城朝光と中条家長、三浦泰村と三浦光村、波多野経朝と波多野朝定の三組でそれぞれ一頭ずつ馬を引いてきて三寅に贈られた。
本来ならここで着袴の儀は終わるのだが、三寅の着袴の儀はもう少し続く。
というのも、誰かを京都に派遣して着袴の儀が無事に終わったことを三寅の実父の九条道家に報告しなければならないからで、このときの鎌倉幕府は一二月二日に小山朝政を京都に派遣している。
三寅の着袴の儀は都市鎌倉の誕生以降に開催された全ての着袴の儀の中で群を抜いた壮麗な着袴の儀あったが、承久二(一二二〇)年に開催された全ての着袴の儀の中で最上位の着袴の儀であったわけではない。
一一月五日に、順徳天皇第三皇子で皇太子である懐成親王の着袴の儀が執り行われたのだ。いかに三寅が藤原摂関家の一員であっても所詮は庶民、皇族相手にはどうあっても勝てない。まず、着袴の儀は本来であれば開催前に陰陽師によって開催日時が占われるが、このときの後鳥羽上皇は自分の孫の着袴の儀については宿曜師に占わせている。陰陽道は古代中国にルーツを持つ伝統を伴った天文学に由来する学問であったが、宿曜道はそれより新しく、古代ギリシャやメソポタミア、インドの天文学も混交させたこの時代の日本でもっとも新しい天文学に由来する学問であり、多くの寺院では最新の学問として陰陽道ではなく宿曜道を学ぶこともあった。
いかに宿曜道が真新しくても、このような儀式では伝統として陰陽師に占わせるのが通例であった時代に、宿曜師に日付を占わせるというのは、それだけで斬新さを周囲に示す好例となった。
さらに後鳥羽上皇は異例な宣言をした。懐成親王の着袴の儀の三日後である一一月八日に後鳥羽上皇が太上天皇の尊号と、周囲のボディーガードを務める御随身の辞退を申し出たのである。これは保延元(一一三五)年一二月に鳥羽上皇が太上天皇の尊号と御随身の自体を申し入れた先例に則ったものであり、前例の無い話ではないものの誰もが想定していなかったところでいきなり沸き上がった話であった。なお、鳥羽上皇が太上天皇の尊号と御随身の辞退を申し出たのは翌年が重厄の年であると占われたことについての対処であり、このときの後鳥羽上皇もおよそ一世紀前の鳥羽上皇と同様に重厄の年と占われたことに対する対処である。
ちなみに、後鳥羽上皇が先例とした鳥羽上皇はその後も上皇であり続け、康治元(一一四二)年に出家して、保元元(一一五六)年まで院政を敷いている。そして、後鳥羽上皇も先例に倣ったのかこの後も上皇であり続ける生涯を選ぶこととなる。
とはいうものの、研究者の中にはこのときの皇太子懐成親王の着袴の儀を契機として、順徳天皇から懐成親王への譲位を考えるようになったと考え、年明けの後鳥羽上皇の行動の先駆けであるという説を唱えている人がいる。翌年が重厄の年という占いで出た「重厄」とは北条義時のことであったと考えるようになったのだというのである。また、順徳天皇を退位させて順徳上皇とさせることで、院の勢力を強化することを考えるようになったという説を唱える研究者もいる。
三寅の着袴の儀を無事に終了したことを京都に報告するために鎌倉を発った小山朝政が鎌倉に戻ってきたのは承久二(一二二〇)年一二月二七日のこと。その七日前の一二月二〇日に京都から一つの連絡が届いた。大内惟信が送り出した使者が一二月八日に大内裏の建物が建ったことと、大内裏再建工事の担当者の名を伝えたのである。吾妻鏡はここで、前年七月に源頼茂を討伐したときに起きた火災の後の新築工事であることを明言している。ただ、これだけである。後鳥羽上皇の命令による徴税も、その徴税に鎌倉幕府が抵抗したことも触れられていない。
また、小山朝政が京都から戻ってきたことは記してはいるが、小山朝政が京都で見聞きしたこと、また、京都駐在の鎌倉幕府の御家人達や、九条道家をはじめとする貴族達と面会したことは確実であるのに、その面会の内容や成果についても記していない。
年が明けた承久三(一二二一)年は、鎌倉でも京都でも火災が相次いだ記録ではじまる。
一月二五日の深夜に大町大路で発生した火災の飛び火を受け三善康信の家が燃えてしまった。三善康信は源頼朝が流人時代に源頼朝とつながるスパイとして京都で活躍し、源頼朝の挙兵以後は鎌倉における文人官僚として特に司法においてその才能を発揮してきた。鎌倉幕府における司法を司る問注所は三善康信の個人的資質によることが多いことが問題を悪化させた。これまで鎌倉幕府の発給してきた重要書類、特に裁判記録が燃えてしまったのである。
その二日後の一月二七日、亡き源実朝の三回忌法要が開催された。多くの人は源実朝さえ生きていればこんなゴタゴタは起こらず、そして、こんな自然災害も起こらなかったとさえ考えた。
これはこの時代の概念であるが、凶事があったときに恩赦をし、さらに喜捨をすれば天が問題を解決してくれるというものがある。これは鎌倉幕府も例外ではなく、鎌倉幕府はこのとき、およそ一〇〇〇名のホームレスにこの時代は貨幣としても通用していた反物を配り、また、三〇名ほどの軽犯罪者を釈放した。このやりとりは安達景盛と二階堂行村が担当した。政治家としての源実朝を思い浮かべるとき、鎌倉幕府内の権勢では北条家の面々が有力者として君臨し、三浦一族も無視できぬ存在感を発揮しているが、政務の実務となると文人官僚の登場ということになる。
こうした鎌倉幕府の文人官僚達の行動は素早いものがあった。また、適切な行動でもあった。政治家としての能力は高いものがあった源実朝はもういない。源実朝と対立することもあった大江広元も政治能力は高いものがあり一応は現役でもあったが死を覚悟する大病を患って出家をした身であり、命は取り留めたものの年齢の問題は無視できるものではなかった。つまり、政治勢力としての鎌倉幕府の今後にも不安を感じる人は多かったのであるが、ここでさらに問題が加わったのが三善康信の邸宅の火災である。政治勢力としての鎌倉幕府の資質に不安を感じるだけでなく、これまでの記録も焼けてしまったとあっては、まだ御成敗式目も存在せず何かと前例踏襲が問われていたこの時代、鎌倉幕府に対する感情は期待ではなく不安のほうが強い。このときの三回忌法要はそうした不安を和らげる効果があった。
政治勢力に対する期待と不安は相対的なものである。与党が頼りないからといって野党に期待を寄せるとは限らないのは、野党のほうが与党より期待できないという相対的評価が下っているからである。
時代を承久三(一二二一)年一月初頭に戻すと、源実朝の死後、相次ぐ自然災害もあって時代に対する不安が民心を包み込み、未来に対する不安がそのまま鎌倉幕府に対する不安につながっていた。
その状態で始まった承久三(一二二一)年であるが、月が変わって二月になると鎌倉幕府に対する不安感が減ってきて期待感が増えてくる。この時点でもまだ期待より不安のほうが強いが、鎌倉幕府がどうにかしようともがき苦しんでいる姿は誰の目にも明かであり、不安解消とまではいかなくとも、不安解消への筋道が立っていることは理解されるようになっていた。
相手が自然災害であるから、統治者が何かしたところで満足いく結果とはならない。それでも、自然災害に遭って苦しんでいる人の立場に立つことはできる。
源実朝の死後に鎌倉幕府の実質的な最高権力者となった北条義時は、以前から政治家としての資質に不安を持たれていた。また、実際に政治家としての能力を考えても、御世辞にも高いものがあるとは言えなかった。ただ、この人は独裁者ではなく、行動については合意形成を図り、自らが出しゃばる場面ではないと把握したら一歩引いて有能な者に出番を譲り、自分は後方に下がって責任を取ることに終始する姿勢ならば持ち合わせていた。それは承久三(一二二一)年一月から二月にかけての鎌倉幕府の行動についても例外ではなかった。
たとえば、二月一〇日には京都で七条院藤原殖子、すなわち、後鳥羽上皇の母である女性の住まいである三条御所が放火に遭い、放火犯を見つけ出すよう京都守護の大江親広と伊賀光季の両名に朝廷から緊急要請が飛んだときのことは、鎌倉幕府の行動指針を指し示す好例である。京都守護からの知らせを受けた鎌倉幕府は二月二六日に町野民部大夫大江康俊を京都に派遣することが決まった。時間は要したものの、緊急事態に対する即時の行動であったと言える。それに、京都で発生した出来事に対して鎌倉から指示を出すのである。季節が冬であり移動に時間が掛かる季節であることを踏まえても、これぐらい時間を要することは当然と言える。この流れにおいて北条義時の果たした役割は無視できないものがあったと言えよう。
一方、先に述べた政治勢力に対する期待と不安という意味で失態を演じたのが後鳥羽院であった。後鳥羽上皇としてはただちに西面武士を派遣するなどして事態の沈静化にあたるべきであったのに、何もせずに放置し、鎌倉幕府の介入を招いたのである。これは行動実績もさることながら、政治勢力に対する相対的評価に関連する話である。何もせずに放置しているのと、少なくとも何かをしようとしているのとでは、何かをしている方が高い評価を得る。もっとも、明らかにアピールとなることだけをして何もしない、あるいは邪魔になることをして評価を得られるほど世の中甘くは無いし、何もしていないように見えて実は対応をしているというのを見過ごすほど世の中の目は節穴ではない。
鎌倉幕府と後鳥羽院に対する庶民からの視線は節穴ではなかった。
鎌倉幕府は少なくともプラスになるべく行動したのに対し、後鳥羽院は何もしなかった。何かをしたのに記録に残らなかったというわけではない。何もしないまま放置しただけでなく、後鳥羽上皇と連絡が付かなくなっていたのだ。
後鳥羽上皇は二月四日に生涯で二九回目の熊野詣に出たのであるが、通常であれば緊急事態の知らせを受けたならただちに熊野詣を取りやめるところなのに、後鳥羽上皇はそのまま熊野詣を続けたのだ。後鳥羽上皇にしてみれば、このときの熊野詣は張り詰めた緊張の日々の中で迎えた休息の時間であり、また、この後の後鳥羽上皇の野望のための準備期間でもある。放火事件は大事件ではあるものの、大事の前の些事とでも考えて、特に神経を張り巡らせはしなかったのであろう。
しかし、これは後鳥羽上皇にとって人生最後の熊野詣になってしまうのである。
熊野詣から戻ってきた後鳥羽上皇は、承久三(一二二一)年四月二日、伊勢神宮、石清水八幡宮、そして賀茂三社に奉幣して、これからの行動に対する準備を始めた。この時点ではまだ後鳥羽上皇の目論見が露見してはいない。
目論見が垣間見得たのは四月二〇日のことである。この日、順徳天皇から懐成親王への譲位が行われたのである。なお、現在に生きる我々は承久三(一二二一)年四月二〇日に即位した天皇を仲恭天皇と呼んでいるが、仲恭天皇への諡号は明治三(一八七〇)年の太政官布告まで待たねばならず、当然ながら明治維新より前の史料に仲恭天皇という名は登場しない。ただ、本作では明治維新以後の歴史学の慣例に基づいて仲恭天皇と記していく。
仲恭天皇は四歳での即位である。当然ながら天皇親政などありえず、順徳天皇の関白であった近衛家実が順徳天皇の退位とともに関白を辞職し、新たに左大臣九条道家が仲恭天皇の摂政に就任した。
四月二三日、三日前に退位した順徳前天皇に正式に太上天皇の尊号が奉られ、ここに上皇三人体制が確立する。過去三例の院政と同様に治天の君である後鳥羽上皇が頂点に君臨し、土御門上皇と順徳上皇が後鳥羽上皇の下に就くという構図であるが、厳密にいうと土御門上皇は表舞台から一歩身を引き後鳥羽上皇との関係もあまり良好なものとは言えなかったのに対し、順徳上皇は後鳥羽上皇の後継者であるかのように振る舞うこととなる。上皇の尊号が奉られてから三日後の四月二六日には順徳上皇が後鳥羽上皇の院御所である高陽院殿へと御幸している。
後鳥羽上皇にしてみればこれから自分が始めようとしていることへの協力者を一人でも増やしたいところであったので、自分の次に院政を始めることになるであろう順徳上皇を取り込めたのは成功であったといえよう。
ただし、ここで注意すべきところがある。
順徳上皇は天皇を退位したためにこれから新しく院を作っていかなければならない。退位した天皇が新たに院を作る時に必要な初期費用は朝廷が出すことになっているからスタートアップ予算については特に問題はない。しかし、維持費用となると話は別である。上皇としての生活に支障が出ない程度の予算は朝廷が出してくれるが、過去三例の院政、いや、後鳥羽院を入れれば過去四例の院政のような莫大な資産や権力を用意できる時代はもう終わってしまった。三〇年前は平家政権が、今となっては鎌倉幕府があまりにも強大な存在としてこの国に君臨し、新たな院の草創が簡単に用意できなくなってしまったのである。
しかし、ゼロから作り出すのではなく、親が子の資産を相続するという前提に立てば、後鳥羽院の資産を順徳院が継承するという構図を作り出せる。こうなれば後鳥羽上皇が手にしていた資産や権力を順徳上皇も手に入れられる。そのためには後鳥羽上皇の崩御を待たねばならないが、後鳥羽上皇との関係を良好なものとしたまま維持できれば、未来の話になるが順徳上皇にとっては申し分ない成果を手にできることとなる。
これから後鳥羽上皇が何をしようとしているか、高い可能性で順徳天皇は知っていた。知っていたからこそ順徳天皇は退位に同意し、上皇となることでマイナスの影響を最小限にしつつ、最大限のメリットを得ることを考えたのだ。
後鳥羽上皇の計画、それは、鎌倉幕府の吸収である。
歴史の教科書でも「承久の乱」と呼ばれることの多い後鳥羽上皇の企みは、一般に鎌倉幕府討伐の動きとされ、明治維新前の倒幕運動と重ねられたイメージとともに、朝廷による鎌倉幕府への反抗と見做されることが多い。
しかし、この後の後鳥羽上皇の動きを追いかける限り、また、後鳥羽上皇と同調した人たちの動きを見る限り、鎌倉幕府を滅ぼそうと考えた人はマジョリティではないと言える。後鳥羽上皇本人やその周囲の人達が鎌倉幕府に対して求めているのは、鎌倉幕府の持つ武力と権利と財力をそのまま後鳥羽院の配下に組み込むこと、現在でいうところの企業の吸収合併や子会社化である。
鎌倉幕府の吸収合併は後鳥羽院の視点から見れば最高の結果だ。今や無視できぬ勢力となった鎌倉幕府の持つ資産、武力、そして全国各地に派遣している守護と地頭の権利を含めた全ての権利を後鳥羽院の元に寄せることで後鳥羽院は過去三例の院政を越える存在へと昇華するのだ。
しかし、鎌倉幕府の御家人達にとっては何らメリットがない。
ここで鎌倉幕府が後鳥羽院の元に組み込まれようものなら、源平合戦で戦い抜いて勝ち上がってようやく手にした権利と権勢、そして資産を全部奪われる上に、自分達は権力組織の構成員ではなく既存権力配下の武人と扱われることとなる。鎌倉幕府の御家人達とて、自分たちが貴族より下の存在であることはさすがに認識している。清和天皇の子孫である清和源氏、桓武天皇の子孫である桓武平氏、あるいは藤原を姓とする血筋であることを声高に主張している者は多いものの、本質的には貴族より格下の存在であると自己認識をしている。一部の者は位階を手にして貴族の一員としてカウントとされる立場になっているものの、それとて鎌倉幕府としてこれまでやってきたことの積み重ねの結果である。苦労に苦労を重ねてようやくここまで来たというのに、鎌倉幕府が後鳥羽院のもとに吸収されてしまったら全て元に戻ってしまうことは、鎌倉幕府の誰もが理解するところであった。
これを誰が黙って受け入れることができようか。
無論、後鳥羽上皇とてこれぐらいは理解している。
後鳥羽院が考えたのは鎌倉幕府が一枚岩ではないという点だ。鎌倉幕府の中から後鳥羽院に対して反抗的な姿勢を見せる者を排除すると同時に、排除に協力した者を既存の朝廷権力の構図の中で評価し、位階や官職を与えることで吸収合併した後の鎌倉幕府の領導者とさせ、また、後鳥羽院に逆らう者は国家反逆者と扱うことで排除するならば、鎌倉幕府全体にとってはダメージでも、鎌倉幕府の御家人個人にとってはメリットのある話になる。
その第一弾として後鳥羽上皇が目をつけたのは、三浦一族の三浦胤義であった。この三浦胤義は三浦義村の弟である。
三浦胤義は後鳥羽上皇のこれからの計画を考えたとき、四つの理由から最も効果を発揮する人物であった。
まず、京都駐在のため後鳥羽上皇からの要望を届けるのが容易である。
次に、鎌倉幕府の中で圧倒的権勢を構築しつつある北条家に対抗する勢力として三浦一族を抜擢することで、鎌倉幕府内部で北条家と三浦一族との対立を生み出し、鎌倉幕府の上層部を弱体化できる。
三番目に、三浦胤義は三浦一族のトップではなくむしろ冷遇されてきた側であるため、三浦一族が鎌倉幕府の実権を握った後、後鳥羽院の傀儡として鎌倉幕府の中枢に送り込むことができる。何しろ、三浦胤義は在京であることも手伝って、鎌倉幕府公認のもと、三浦義村よりも上の官職を手にしていたのである。三浦一族のトップであり、また、兄でもある三浦義村よりも上の官職というのは本来ならば許されることではないのだが、三浦義村も、そして鎌倉幕府も、特殊事情ということで容認している。
最後に、三浦胤義は前年に一人の地頭として後鳥羽上皇の命じた徴税に抵抗した過去が存在する。ここで後鳥羽上皇が三浦胤義の叛逆を赦して自らのもとに引き込むことができれば、後鳥羽上皇の慈悲の姿勢として広くアピールすることができる。
承久記によると、後鳥羽上皇の命を受けた能登守藤原秀康が三浦胤義を自邸に招いて後鳥羽上皇の元に来るように勧めたところ、三浦胤義が鎌倉で受けた境遇について涙ながらに語って後鳥羽上皇のもとに仕えるようになったという。三浦胤義の妻は初婚ではなく、かつては源頼家の側室であり、彼女は源頼家との間に、のちに禅暁と呼ばれることとなる男児をもうけていたという。ところが、北条義時の命令によって源頼家が殺されただけでなく、このときからおよそ一年前の承久二(一二二〇)年四月には、源頼家の子であるという理由だけで禅暁が殺害されてしまった。夫を殺され、息子とは離れ離れになる暮らしを余儀なくされ、再婚してどうにか人生を建て直しつつあったところで息子が殺されてしまったことで塞ぎ込んでしまったという女性が自分の妻である。妻を思う気持ちから三浦胤義は鎌倉を離れて京都に赴き、チャンスを伺って鎌倉に対して、特に北条義時に対して、妻に代わって復讐してやりたいと考えていた。そんなタイミングで後鳥羽上皇から誘いを受けたことから、後鳥羽上皇の側に立つことを決めたというのである。
これが事実なら、三浦胤義の行動に同意できるところもあるであろう。
だが、実はこの承久記の記載、情緒に訴えることはできても、真実ではない。そもそも三浦胤義は建保六(一二一八)年には既に京都に駐在し、そのまま京都に滞在し続けている。三浦胤義が上総国の荘園の地頭であったこと、そして、地頭として上総国に課された臨時課税を拒否したことの記録も並行して存在していることから、京都駐在のまま代理の者を上総国に派遣して地頭業務をさせていたと推測される。
源頼家の子である禅暁が殺害されたことが三浦胤義の心情に何かしらの影響を与えたことは否定できないが、鎌倉を離れたタイミングを考えると辻褄が合わない。
研究者の野口実氏は、三浦胤義が鎌倉を見限って後鳥羽上皇の側を選んだ理由として、まずは一族内の対立があり、その対立を後鳥羽上皇が利用した結果だとしている。
こうした一族内の対立は三浦一族に限ったことではなく、それこそ北条家においても発生している。たとえば、北条政子や北条時房は鎌倉と京都を往復した過去があり、特に北条時房は京都の公家社会の文化の中で生きていけるほどの素養を身につけ、他ならぬ後鳥羽上皇から称賛を受けたほどである。北条時房も状況次第では後鳥羽上皇からのスカウトを受け、三浦胤義と同様に鎌倉幕府から袂を分かち後鳥羽院のもとに身を寄せたとしてもおかしくはなかった。また、これは吾妻鏡の記載によるが、建保二(一二一四)年に「武州時房」が三位の位階を求めたという記録がある。この時点で兄の北条義時の位階がどうであったかを考えると、「武州時房」が北条時房のことであるならば、北条家内部の対立の芽が存在していたこととなる。
以上を踏まえて注目したいのは、前年一月に北条時房の息子のうち二人が出家していたことである。吾妻鏡は北条時房の息子のうちの二人が出家したことを軽く書き記しているのみであるが、兄弟のうち兄の北条時村はその名に三浦義村の一字である「村」が入っていることから、三浦義村を烏帽子親として元服していたこと考えられている。その北条時村のもとに、あるいは、烏帽子親である三浦義村のもとに前もって何かしらの接触があった、誰からの接触かは明言できないが、少なくとも後鳥羽院につながる人物からの接触が早い段階から存在し、その接触が意味するところを悟って、本人だけでなく弟も連れて出家したのではないか、出家せざるを得ないほどに追い込まれたのではないかと考えられるのである。もっとも、そうだとすると後鳥羽院の計略は想定しているより一年近く前から練られていたこととなるので、タイミングとしては微妙なところではあるが。
さすがに北条家の分裂を生み出して鎌倉幕府の勢力を弱めると同時に後鳥羽院の勢力を強めることは困難であったと考えられるが、後鳥羽上皇とて三浦一族と北条家だけに注力していたのではない。それは承久三(一二二一)年四月二八日に明らかとなった。
この日の参集名目は記録によって異なっており、流鏑馬という名目で各地の貴族や武士を集めたとする記録と、城南寺の仏事を名目に各地の貴族や僧侶、そして武士達を集めたとする記録がある。ただし、名目は違えど、後鳥羽上皇の行動はどちらの記録も同じである。
一千余騎もの軍勢を集めたのだ。
承久記によると、後鳥羽上皇の招集した貴族としては、坊門忠信、藤原光親、源有雅、中御門宗行、一条信能、高倉範茂らが、僧侶としては、刑部僧正長厳や二位法印尊長らが、そして、武士としては藤原秀康と、藤原秀康の弟である藤原秀澄、そして、藤原秀澄の息子である藤原能茂のほか、鎌倉幕府の御家人でもある武士として、先に記した三浦胤義の他に、大内惟信、佐々木広綱、佐々木高重、後藤基清、八田知尚、大江能範、河野通信といった者の名が記されている。
並行して後鳥羽院は、丹波、丹後、但馬、播磨、美濃、尾張、三河、摂津、紀伊、大和、伊勢、伊予、近江といった国々の武士に召集をかけ、多くの武士が後鳥羽院の招集に応じた。
そしてもう一つ、ここに注目すべきところがある。
後鳥羽上皇だけでなく、土御門上皇、順徳上皇の両上皇に加え、六条官雅成親王、冷泉宮頼仁親王も集結したのである。そもそも上皇が三名いる時代であるというだけでも異例中の異例なのに、その三名の上皇が揃って行動を共にしているのだ。おまけに次期帝位に就く資格を有する二名の親王も集っている。わずか四歳の仲恭天皇を除く皇族の主たる面々も集まったことは、後鳥羽院に対抗する傀儡政権の樹立を封じる効果を持っていた。
これから後鳥羽院が始めようとしているのは鎌倉幕府の吸収である。当然ながらそれは鎌倉幕府の反発を招くこととなるし、鎌倉幕府が後鳥羽院に対抗するために平家政権の行動を繰り返すことも考えられる。すなわち、かつて平家政権が安徳天皇を奉じ、また、高倉上皇を利用した高倉院政を画策したように、鎌倉幕府の意に沿う皇族の誰かを奉じて傀儡政権を打ち立てるかもしれないのである。
そのことを踏まえると、後鳥羽上皇に加え、院政を敷く資格を持つ土御門上皇と順徳上皇も後鳥羽院のもと留めるのは有効な施策となる。平家政権が高倉上皇を利用して高倉院政を画策した前例に倣って新たな院政を樹立させようとしても、四歳の仲恭天皇を退位させて上皇とさせて院政を敷かせるなど無謀な話であり、その無謀な話を強行させようとしても新たな帝位に点ける皇族を容易に容易できなくなるのだ。
懸念点としては鎌倉幕府が藤原摂関家を通じて仲恭天皇の手による天皇親政を画策するかもしれないという点があるが、源実朝が存命中ならばともかく、源実朝亡き今、摂政九条道家と鎌倉幕府のつながりは薄くなっている。また、仮に源実朝が存命であったとしても、後鳥羽院と鎌倉幕府の対立がある状況下で、藤原摂関家に対して後鳥羽院と鎌倉幕府のどちらに味方するかを考えたら、迷うことなく藤原摂関家は後鳥羽院を選ぶ。いかに九条道家の息子である三寅が鎌倉幕府第四代将軍となるべく鎌倉に滞在していようと、鎌倉幕府と後鳥羽院との選択を迫られたならば藤原摂関家は、いや、藤原摂関家に限らず大多数の貴族にとって、その質問に対する返答は一つしかない。百歩譲って仲恭天皇の摂政が仮に九条道家ではなく、近衛家実をはじめとする近衛家の者が摂政であったならば九条道家とて逡巡するかもしれないが、今や摂政は九条家のものだ。近衛家と九条家の対立を利用して鎌倉幕府が藤原摂関家に食い込む可能性は否定できないが、藤原摂関家と鎌倉幕府との関係性を考えたとき、接点を持つのは九条家であって近衛家ではない。近衛家と鎌倉幕府との接点はゼロではないが九条家と鎌倉幕府とのパイプに比べれば細く、摂政の地位を失ったことの反動として近衛家が鎌倉幕府を利用しようとする可能性は低い。
こう考えると、後鳥羽院の戦略はなかなか強かなものが見える。
なお、承久記ではここで、この後の運命を指し示すような一つのエピソードを書き記している。七名の陰陽師にこれからのことを占わせたところ、直ちに開始するのではなく、改元した上で一〇月に開始するのが良いだろうと出たとある。しかし、後鳥羽上皇の乳母である卿二位藤原兼子が、このようなことは一人の耳に入っただけでも世間に広く伝わる代物であり、ましてや今回は一千余騎を招集している以上、鎌倉幕府の元に情報が伝わるのは時間の問題であり、こちらが動かないままで言うと鎌倉幕府が動くこととなると進言したのである。
これで後鳥羽上皇の腹は決まった。
後鳥羽上皇の計画が正式に公表されたのは承久三(一二二一)年五月一四日のことである。
摂政左大臣九条道家、前右大臣徳大寺公継、権大納言坊門忠信、前権中納言葉室光親、前権中納言源有雅、前権中納言葉室宗行、参議藤原範茂、参議一条信能といった貴族達に加え、僧侶の長厳と尊長も呼び寄せ、さらに一三年前に出家して政界から引退していた近衛基通まで呼び寄せた上で計画を公表したのである。
九条道家は鎌倉幕府第四代将軍になることが予定されている三寅の父である。
坊門忠信は亡き源実朝の妻の兄である。
一条信能の母は源頼朝ときょうだいである女性であるため、亡き源実朝とは従兄弟同士にあたり、また、実父の一条能保と鎌倉幕府とのつながりの深さは朝廷内に知らぬ者はいないほどである。
そして、僧侶の尊長は一条信能の実の弟であり、彼もまた、亡き源実朝と従兄弟同士のあたる人物である。
つまり、後鳥羽上皇は鎌倉幕府と縁の深い人物も招いた状況下で計画を公表したこととなる。
その計画とは、北条義時討伐。
鎌倉幕府を倒すのではなく、鎌倉幕府の最高実力者となった北条義時を討伐することを公表したのである。
これに真っ先に反対したのは鎌倉幕府と縁の深い人物ではなかった。
近衛基通と大炊御門頼実の二人が反対したのである。特に近衛基通は一三年前に政界を引退して出家した身となっており、このタイミングで政治介入するとは誰も想像していなかった。
そもそも近衛基通が呼び寄せられたのは、鎌倉幕府が近衛基通を利用して摂関政治の傀儡政権を打ち立てる懸念があったからである。ここに近衛基通を呼び寄せることは、鎌倉幕府と近衛基通の関係を断ち切ること、そして、近衛基通だけでなく近衛家全体の身の安全を図るという名目での監視の目的があるからであり、安全保障を感謝されこそすれ、何かしらの政治的見解の表明をするなど許されないと考えていたのだ。
さらに想定外であったのが大炊御門頼実である。大炊御門頼実の妻は後鳥羽上皇の乳母である卿二位藤原兼子であり、後鳥羽上皇にしてみれば育ての父といっても過言ではない人物である。その人物がまさか後鳥羽上皇の意見に異議を唱えるとは夢にも思っていなかった。
現存する記録の中に、この二人がどのような理由で反対したのかは残っていない。しかし、この二人が反対した理由は容易に想像はできる。
失敗に終わるのだ。
近衛基通も、大炊御門頼実も、後鳥羽上皇の立てた計画は失敗に終わると考えたのだ。
後鳥羽上皇にしてみれば、これから戦乱になる可能性があるが、勝者は自分達であると確信している。その上で、計画実施前に呼び寄せることで、当人の身の安全だけでなく家の今後についても後鳥羽院が保障するという意向が存在した。ゆえに、感謝されこそすれ、異議を唱えられる謂れはないというのが後鳥羽上皇の考えである。
だが、近衛基通も、大炊御門頼実も、そもそも前提が間違っていると考えた。
後鳥羽上皇はターゲットを北条義時に絞ることで、鎌倉幕府そのものを抹消するのではなく、鎌倉幕府の軍事力と財力を後鳥羽院のもとに吸収しようと試みたのであるが、北条義時が黙って後鳥羽院の命令を受け入れるだろうかという疑問がある。それに、後鳥羽院の命令を黙って受け入れたとしても、後鳥羽院の命令に反対して受け入れなかったとしても、後鳥羽上皇の求める結果にはならないことを見抜いていたのだ。
北条義時に対する悪評は多々あるが、独裁者という悪評だけは見当違いの悪評となる。北条義時という人は徹底して独裁と呼ばれるようなことを避けてきた人であるし、そもそも、これまでの鎌倉幕府は将軍以外の人物が独裁者として振る舞うことが許されない組織構造になっていたのだ。確かに多くの御家人が粛清されつつ、北条家の面々が鎌倉幕府で一大勢力を築いているのは認めなければならないし、鎌倉幕府における北条義時の存在の大きさもまた否定できるものではない。しかし、ここで北条義時を追討したとしても、鎌倉幕府としては有力御家人の一人がいなくなっただけという結果に終わり、鎌倉幕府という組織そのものが後鳥羽院のもとに組み込まれることは考えづらいのだ。北条義時がいなくなったとしても北条時房や北条泰時がいる。あるいは三浦一族もいるし、大江広元をはじめとする文人官僚もいる。そして何より北条政子がいる。鎌倉幕府の最重要キーパーソンが北条義時であることは否定できないが、北条義時がいなくなったところで北条義時の代わりを務める人物は多々いるし、北条義時がいなくなったところで鎌倉幕府は存続し続けるという組織構造になっているのだ。
それに、そもそも鎌倉幕府とは東国武士団の集合体であり、源平合戦期における鎌倉方を母体とした組織である。平家との戦いにおいて勢力を築き上げ権力と財力を手にした組織であり、彼らは血を流して現在の地位と財産を手にしたのだ。ここでどうして後鳥羽院のもとに全てを差し出さねばならないのか。北条義時討伐までは許容できたとしても、鎌倉幕府の持つ権威や権勢の放棄は断じて受け入れられないのである。
しかも、以上は全て北条義時討伐が成功した場合の話である。ここで北条義時討伐に失敗したならば、待っているのは後鳥羽院の破滅だ。平家政権による治承三年の政変は記憶に新しいところであり、北条義時討伐に失敗したときに待っている運命は、歴史を繰り返したものに、あるいは、前例にないものになる可能性もある。平家政権の悪夢を知る人には、あの頃の地獄が再現されるなど断じて許されない話になる。
軍事力を総動員して鎌倉幕府をこの世から消滅させれば平家政権の悪夢の再来とはならいと考えることもできるが、それこそ妄想の世界である。後鳥羽院の用意できる軍事力で鎌倉幕府の軍事力に太刀打ちするなど不可能である。鎌倉幕府の軍事力と正面衝突となったとき、後鳥羽院の武力は多少であれば抵抗できるかもしれないが、壊滅までにはそこまでの時間を有さない。全面対決となった場合、後鳥羽院の迎える運命は、多少の抵抗の後の無条件降伏しかない。先に後鳥羽上皇が一千余騎を集めたと記したが、この規模の軍勢は、京都ならば圧倒的な集団であっても、鎌倉幕府にとっては簡単に殲滅できる程度の軍勢なのである。
近衛基通も、大炊御門頼実も、平家政権の時代を知っているし、鎌倉幕府の軍事力も知っている。知っているからこそ、平家政権の時代を繰り返してはならないことを知っているし、鎌倉幕府の軍事力を侮ってはならないことを知っている。
だから反対したのだ。




