第六部 源実朝受難
建保五(一二一七)年五月一一日、鶴岡八幡宮第三代別当である三位僧都定暁が亡くなった。記録によると腫瘍が悪化しての死であったという。
この定暁という僧侶であるが、実に特殊な立ち位置の僧侶であった。鶴岡八幡宮初代別当の円暁の弟子であり、また、園城寺の公胤僧正のもとで修行をしていたので、僧侶として順調な階梯を踏んで鶴岡八幡宮の別当の地位に登ったと言える。
しかし、この人の生まれを考えると、時代の流れの中で異例な人生を過ごしてきたとするしかない。
この人は平時忠の一門であり、おそらくではあるが壇ノ浦の戦いでの平家の残党の一人であったと推測されるのだ。僧籍に入るときに全ての過去と決別して自分が平家の人間であることを徹底的に隠したようであるが、定暁が平家一門の人間であったことは周知の事実となっており、そのことは定暁の生涯について回ることとなった。
その定暁が、こともあろうに源氏の根拠地である鎌倉にまでやってきて、僧侶としての研鑽を積み重ね、鎌倉で最も重要な宗教施設である鶴岡八幡宮のトップに就いていたのである。これを異例と言わずに何と評せばよいのか。
もっとも、過去に縛られることなく、平家の落人ですら鎌倉においては実力に見合った地位を用意しているというアピールには役立ったことは否定できない。
また、鶴岡八幡宮初代別当である円暁と二代目別当である尊暁は実の兄弟であり、この兄弟の父は後三条天皇の孫、母は源為義の娘という貴種の生まれである。定暁が鶴岡八幡宮第三代別当に就任できたのも、僧侶としての研鑽の評価だけでなく、定暁の身体に流れる貴種の血が作用したことは否定できない。
その定暁が亡くなった。
では、誰を鶴岡八幡宮の第四代別当に就任させるべきか。
このときの鎌倉にはうってつけの人物がいた。
園城寺の明王院僧正公胤の弟子となっている僧侶であり、建保五(一二一七)年五月時点でも仏教学の勉強のため園城寺に住んでいた僧侶である。その僧侶はまだ一七歳という若さであること以外は、僧侶としての研鑽も、身体に流れる貴種の血も、双方とも申し分ない僧侶である。
その僧侶の名を公暁という。
この後で何が起こるかわかっている人からすると、よりによってどうして最悪の人物を鎌倉まで呼び寄せてしまったのかというのが感想であろう。しかし、この時代の人の立場で考えるとむしろ最良の選択であったと言えるのだ。
源実朝はまだ子供がおらず、このまま源実朝の身に何か起こったとしたら誰を源実朝の後継者とするのかという問題がある。
そこで、公暁となる。
何しろ公暁は前将軍源頼家の実子である上、源実朝の猶子にもなった過去がある。還俗させれば源実朝の後継者としてもおかしくない。評判によると、源頼家に似た大きな体格を持ち、父を思わせる激情家なところもあるものの、僧侶としての実績もまた十分にあるという。ここで鶴岡八幡宮別当という鎌倉における宗教界のトップの座の経歴を手にしたならば、公暁は源実朝の後継者として申し分ないキャリアを手にすることとなる。
鎌倉幕府はただちに園城寺に使いを出し、使者の要請に応じて、公暁は建保五(一二一七)年六月二〇日に鎌倉に到着。ただちに北条政子の指令で鶴岡八幡宮第四代別当に就任することとなった。鶴岡八幡宮は宗教施設であり、俗人である源実朝は一人の参詣者であることしかできないが、既に出家した身である北条政子は仏門に身を寄せる一人として鶴岡八幡宮の人事に口を出す資格がある。自分の孫を鶴岡八幡宮の別当に就任させることなど容易だ。
ただ、公暁を将軍に就けるとなると大問題がある。
大前提としては、源実朝がこれからも将軍であり続ける。しかし、源実朝は天然痘をはじめとする病気に倒れたこともあるし、中止となったものの南宋に渡ろうともした。つまり、ある日突然、源実朝が将軍としての職務を遂行できなくなることがやってきてもおかしくないのだ。起こってほしくない出来事がおこってしまったとき、公暁を源実朝の後継者とするところまでは考えられる。
ただ、公暁は僧侶なのだ。僧侶としてのキャリアならばあるが、官界におけるキャリアを全く積んでいない。官界でのキャリアを積んだあとで出家したのならばまだしも、この人は一二歳で出家してからこれまでずっと僧籍にあったのだ。いくら征夷大将軍が世襲の職位であり、また、さほど高い位階を有しているわけでなくても就くことのできる職務であるとはいえ、征夷大将軍とは官界でのキャリアがゼロである人間が就けるほど気軽に就ける職務ではない。本当に公暁を将軍にさせるとなると、まずは公暁を還俗させて民間人に戻し、そのあとで官界のピラミッドクライングに臨ませる必要がある。
かといって、公暁を還俗させて改めて官界にデビューさせるとなると、せっかく手にした鶴岡八幡宮別当というキャリアを失うこととなる。鶴岡八幡宮の別当として日々を重ね、研鑽を重ねることで評価を獲得し、源実朝の甥である高名な僧侶が叔父の緊急事態を受けて還俗して将軍になったという背景を用意しなければならない。それでようやく源実朝の後継者候補と見做されるようになるのだ。
なお、前にも書いたが公暁のふりがなは「くぎょう」ではなく「こうきょう」もしくは「こうぎょう」と推測されている。公暁の師となる公胤や、公胤の師である公顕など、公暁が在籍していた園城寺は唐代の発音を残している寺院であり、公胤は「こういん」、公顕は「こうけん」とされている。そのため、公暁の一文字目は「こう」と読むと推測されており、二文字目の「暁」は「きょう」もしくは「ぎょう」なので、公暁の読みは「こうきょう」もしくは「こうぎょう」となるというのが現在では有力である。
公暁が鎌倉に到着し、鶴岡八幡宮の別当となった。この記録は建保五(一二一七)年六月二〇日に登場する。ところがここから奇妙なことが起こる。
公暁の記録が全く出てこなくなるのだ。
そこでもう少し記録を紐解いてみると、公暁は鎌倉に到着してただちに鶴岡八幡宮の別当に就任したのではなく、少し間を置いてから別当に就任していることがわかる。具体的には正式に別当に就任したという記録が吾妻鏡には存在せず、一〇月に入っていきなり鶴岡八幡宮別当として公暁が登場する。
そこで、江戸時代末期に編纂された歴史記録集である「系図纂要」を見てみると、公暁が鶴岡八幡宮の別当に就任した日付として建保五(一二一七)年一〇月五日という日付が出てくる。どんなに短く見ても六百年後に記された記録にならないと出てこないというのも気になるところではあるが、一応は整合性の取れる日付ではある。系図纂要が事実だとすると、実の祖母である北条政子の圧力があったにもかかわらず公暁を別当に就けるためには三ヶ月以上の猶予期間を要したこととなるが、それでもまだ、ここまではまだ理解できる話である。
問題は、その間の歴史資料に公暁が全く登場しないことなのだ。それも、一個人として登場しないのみならず、僧侶である公暁が祖母や叔父の参加する宗教行事に参加しないというのは不可解とするしかない。単に名が漏れたというのならばまだわかるが、後述することとなる北条政子の今後の行動を見ると一つの推論が見えてくる。
源実朝の後継者候補とすべく園城寺から公暁を呼び寄せたものの、いざ会ってみると公暁は将軍たるに相応しくないと判断せざるを得なかったのではないか、と。
鶴岡八幡宮の別当とすることで箔をつけさせ、いざというときには還俗させて源実朝の後継者にとするという目論見であったのが、鶴岡八幡宮の別当にさせるだけに留めるところまででは妥協できても、それ以上はできないと判断せざるを得なかったのではないか、と。
たとえば、建保五(一二一七)年七月二四日に京都から急報が飛んできたときの対処はその例である。この日、後鳥羽上皇が瘧病、すなわちマラリヤに罹患してしまい、止まらぬ悪寒と震えに苦しんでいるという知らせが飛び込んできた。この時代にも医者はおり、医者の処方する薬で治癒を目指すこともあったが、治癒のために服薬ではなく祈祷を選ぶことも珍しくはなく、このときの後鳥羽上皇は各地から僧侶を招いて祈祷させている。これはこの時代の概念と医療水準を考えれば納得はいく話である。
ただ、この知らせを受けて、鎌倉幕府が後鳥羽上皇のもとに派遣したのは二階堂行村であったのだ。病気の見舞いということで理解はできる人選であるが、本来であれば、僧侶でもある公暁を後鳥羽上皇のもとに謁見させる絶好の機会でもあったのだ。鶴岡八幡宮次期別当にして源実朝の甥でもある僧侶を連れて行ったならば、鎌倉幕府が派遣する人物として問題なかったはずであるのに、公暁が同行したという記録は存在しない。
それだけならまだしも、八月に鶴岡八幡宮で開催された宗教行事に源実朝が出席した記録がある一方で、その場に鶴岡八幡宮別当の公暁が参加した記録すらないとなると、これはいよいよ怪しいこととなる。
公暁のほうも、自らが置かれた位置が当初の思惑と違うことについて違和感を覚えたようである。僧侶として申し分ない地位である鶴岡八幡宮別当に就くだけでなく、源実朝の身に何か起こったときという条件付きであるが、征夷大将軍の地位も夢ではないというのが、鎌倉に到着するまでの公暁の思惑であった。
それが鎌倉に到着した瞬間に変わった。
予定通り鶴岡八幡宮の別当に就いたものの、鶴岡八幡宮の宮司や僧侶はどう見ても歓迎していない。鎌倉幕府の御所に目を向けても、誰も公暁のことを次期将軍として扱ってくれてはいない。
これで自分を無視する人達に激しい敵愾心を向けるなら未来はよりいっそう閉ざされることとなるが、公暁はそうではなかった。自分を無視する人達を見返してやろうという思いに至ったようで、僧侶である自分のできるベストを考え、行動した。
千日講である。
一〇〇〇日に亘って外界とのやりとりを全て遮断して籠もり、ただひたすらに念仏を唱え続けるという修行である。平安時代末期から多くの人がチャレンジするようになり、そのチャレンジを無事に終えた僧侶は周囲から尊敬の念を集めた。この修行を二〇歳にもならない若き僧侶が挑むのであるから、僧侶の行動としてならば褒めるべき選択であろう。
しかし、公暁は鶴岡八幡宮の別当なのだ。トップとして鶴岡八幡宮を経営していかなければならない身であり、一人の僧侶としては褒められる選択であっても、鶴岡八幡宮別当としてはとてもではないが褒められた選択にはならない。むしろ無責任極まりない選択になってしまう。
僧侶としての価値を高めることで自らへの尊敬を集めようとした公暁の選択は完全に裏目に出てしまった。いや、この人は千日講に限らず、自らの選択のほとんどが裏目にでてしまう運命のもとに生まれたと言っていいほど、何をするにしてもうまくいかない人生を過ごすのである。
ならば流されるままに運命に身を任せればいいではないかと思うかもしれないが、公暁の立場から考えると、そもそも自分の運命を自分で決めることができないというのは耐えがたい苦痛である。公暁の人生を振り返ってみると、あまりにも過酷な運命に翻弄され続けた人生であるとしか形容できないのだ。三歳で父が病に倒れ、四歳で父を亡くし、同時に兄の一幡も殺害された。自分は殺されずに済んだものの、他のきょうだいとは離れ離れにされ、幼くして僧侶になる道を強いられ、鎌倉から遠く離れた園城寺へと連れて行かれ、出家を命じられた。園城寺の高僧である公胤の門弟という、一般の僧侶ではなかなか手に入らない好待遇であったとは言え、自ら望んだわけではない出家と僧侶としての暮らしである。
将軍になってもおかしくない血筋に生まれながら僧侶たることを求められていたところで、自分が将軍になれる可能性があるという話が飛び込んできた。これまで運命に翻弄されてきた人生を一気にひっくり返す大チャンスだ。これで公暁は人生を決める決断を即答したのである。園城寺を出て鎌倉に向かうという決断である。
公暁が千日講に入ったことで鶴岡八幡宮はトップ不在の宗教施設として運営することとなったのだが、結論から言うと、どうにかなかった。
現在でも、カリスマ性の持った経営者が第一線を退いたあとの新社長に前任の経営者の子が就任することがある。能力がないのに地位に就くという批判を受けることが多いのが世襲であるが、それでも世襲は消えることなく存在し続けている。
なぜか?
世襲というのは批判もあるが、組織の維持についてという点では無視できない大きなメリットを持っている仕組みである。何しろ、前任者不在のあとで起こる可能性の高い内部の派閥争いについて、世襲であれば未然に食い止めることができるのだ。
これがもし、実力者の間で新しい社長を選ぶとなったならば、新社長をめざす激しい内部分裂が起こることがある。最悪の場合はそれまでうまくいっていた会社経営が完全に破綻し、会社が複数に分裂することすらある。しかし、新しいトップとして前任者の子を就けるならば派閥争いを食い止めることができる。トップに就くのは創業者の子孫に限るとしたならば、創業者家族に生まれなかった者はどうあがいてもトップに就くことができない。どんな実力者も最高で副社長であり、何があろうと副社長の上に世襲の社長がいることとなる。
社長がいかに世襲だけで選ばれた者であろうと、それこそトップとしての能力が絶無な者であろうと、組織の責任者として対外的な顔を務めることとなる。それこそが、いや、それだけが社長の仕事としても良いほどに社長としての役割は限定される。
その代わり、社会人生活の全てをその会社に捧げてきたベテランから入社間もない新入社員に至るまで、会社の全ての従業員は、社長が対外的な顔を務めるという前提でそれぞれが企業内での役割を背負って活動し、結果を出すことが求められるようになる。
時代を建保五(一二一七)年に戻すと、この時代に民間企業というものはないが、院や貴族、荘園、そして寺社といった組織は現在の企業とほぼ同様に経営されてきた。これは鶴岡八幡宮とて例外ではない。
これまでの三名の鶴岡八幡宮別当は、高貴な血を引く生まれであると同時に、僧侶としての能力も実績も申し分ない者であった。その上で、寺院経営についても申し分ない実績を残してきた。そうした実績の中には、何らかの理由でトップが不在であるときの寺院経営が支障なく遂行されることも含まれる。すなわち、公暁が一人の僧侶として千日講に入るのは、一人の僧侶としてならば賞賛されることであっても、鶴岡八幡宮別当としては無責任な行為である。だが、別当である公暁が不在でも鶴岡八幡宮は経営できるだけの仕組みは既に存在していたのである。
ちなみに、鶴岡八幡宮は現在でこそ神社という扱いになっているが、明治維新までは神仏混淆の宗教施設であり、ときには鶴岡八幡宮寺と呼ばれることもあるほどに境内の中を僧侶が普通に歩いていた。現在の鶴岡八幡宮は神社としての設備しかないが、これは明治維新後の廃仏毀釈で鶴岡八幡宮内の寺院施設が全て破壊されてしまったためであり、江戸時代までの記録や鶴岡八幡宮内の遺跡には、鶴岡八幡宮内に寺院があったことが確認できている。
公暁が鶴岡八幡宮の別当となったと同時に千日講をはじめた頃、鎌倉幕府では予期せぬ問題が起こっていた。
大江広元が倒れたのだ。
最初の記録は建保五(一二一七)年一一月八日のことである。ここではじめて大江広元の体調悪化が公表された。目の病気に加え腫物ができてしまい、身動きができなくなったのだ。
翌一一月九日、北条義時が大江広元の元に見舞いに赴いたものの、大江広元の症状は想像以上に厳しく、起き上がることもできなかった。なお、ここで何らかの話し合いが行われたようであるが、この時点では話し合いの内容が公表されてはいない。
話し合いの内容の第一弾が判明したのは一一月一〇日のこと。この日、大江広元が出家したと公表されたのだ。これで当時の人は大江広元の容態がもう長くは無いことを理解した。同日、源実朝はここではじめて見舞いの使者を送り出している。本人が見舞いに行くのではなく代理の使者を送るのは薄情ではないかと思うかもしれないが、この時代の通例に従ったのともう一つ、源実朝自身がお世辞にも健康な人というわけではなかったことが理由にある。大江広元の病気が感染する可能性はゼロではないのだ。
大江広元が出家したことは、鎌倉幕府だけでなく朝廷として問題のある話であった。
大江広元は陸奥守でもある。それもこの年の一月に就任し、大江広元を通じた東北地方経営を軌道に乗せてきたところである。
奥州藤原氏を滅ぼしたのが鎌倉幕府であり、鎌倉幕府はそれまで奥州藤原氏が保持していた東北地方の統治機構をそのまま引き継いだが、鎌倉幕府が奥州藤原氏の統治機構をそのまま引き継げたのは、奥州藤原氏という存在そのものが、名目上であるにせよ、朝廷の統治機構に基づいて東北地方の統治をしていたからである。藤原秀衡が鎮守府将軍と陸奥守を兼ねていたのはその例だ。鎌倉幕府が奥州藤原氏の統治をそのまま引き継ぐとき、陸奥守の官職を利用するのは東北地方の統治を考えると納得いく話であり、また、文人官僚である大江広元が陸奥守を務めるのは鎌倉幕府にとって有効な戦略でもあった。ちなみに、鎮守府将軍についてはさらに上の権力を有する征夷大将軍が存在するので、鎌倉幕府として鎮守府将軍の官職を利用する必要はない。
しかし、出家した以上、大江広元が陸奥守であり続けることはできなくなる。
そうでなくても大江広元の病気はかなりの危機的状況なのだ。
ここで鎌倉幕府が採れる選択は、北条義時を大江広元の後任の陸奥守へと推挙することである。建保五(一二一七)年一一月一七日、鎌倉幕府は北条義時を正式に大江広元の後任の陸奥守とするよう朝廷へ推薦した。北条義時の統治能力に疑念を生じているのはその通りであるが、今の鎌倉幕府が送り出せる陸奥守の後任は北条義時しかいない。
と、ここまで対処したところで誰もが想像しない出来事が起こった。
建保五(一二一七)年一二月一〇日、大江広元の体調が回復したのだ。ただし、悪化した視力は元に戻らず、回復したと言ってもこれまでのように溌剌とした動きができるようにもなっていなかった。視力を失った代わりに一命は取り留めたというところか。
それでも大江広元が出家したのは事実であるので大江広元は陸奥守からは自動的に退任したことは変わらず、一二月二四日には朝廷から、北条義時を正式に陸奥守に任命したという連絡が届いた。
年が明けた建保六(一二一八)年一月、京都から平家の残党が見つかったとの連絡が届いた。発見したのは一月三日、鎌倉への報告は一月一二日である。これまでにも何度か平家の残党は見つかっており、簡単に逮捕できたわけではなかったものの、取り逃がすことも許さずにいた。いかに鎌倉幕府に対して反発を示す者であっても、平家の残党がやらかしている犯行から生活を守ってくれていることは認めなければならなかったのである。
かつては天下を手にした平家も今となっては残党が犯罪集団となっているのみである。ただし、平家の残党自身は自分達のことを犯罪者だとは考えていない。鎌倉幕府は無論、後鳥羽上皇のことも、土御門上皇のことも、順徳天皇のことですら正当な権力とは見做しておらず、平家の残党にとっての正当な天皇とは壇ノ浦の戦いで海に沈んだ安徳天皇のことである。安徳天皇がどこに行ったかわからないことは認めても、後鳥羽帝は天皇を僭称する不届き者でしかなく、その後継者たる土御門帝も順徳帝も天皇僭称者でしかないというのが彼らの主張だ。
かといって、平家の残党が権力を行使できているわけではない。平家政権の頃は権勢を手にし、位階と朝廷官職を獲得して大手を振って宮中を歩いていたのに、今となっては宮中に居場所など、いや、京都に居場所など無くなってしまっている。彼らに言わせれば、京都の宮中にいるべきは自分たちなのだが、宮中には天皇僭称者とその取り巻きがいて宮中に入れない状態が続いており、京都に近づくことすら難しい状況である、ということになっている。かといって、貴族や武士であることを捨てて一庶民となることについてはプライドが許さないでいる。位階も朝廷官職も自称でしか存在せず、そもそも一般庶民の圧倒的多数は平家の残党のことを権力者だと認めていないが、そんな現実など、彼らの自尊心の依って立つところを否定する材料にすらならない。
その結果が、反政府テロ、あるいは暴徒と化した集団の誕生である。彼らは徴税と称して強盗をし、貧しい者の住まいであろうと奪えるものをことごとく奪い去り、抵抗する者は容赦せずに命を奪っていた。それは平家の残党にとっては正当な権力の行使であったのだが、このような犯行が繰り広げられてしまっては、鎌倉幕府だけでなく朝廷も、平家の残党を犯罪者集団として取り締まるのは当然のこととするしかない。
一月三日の出来事も、白河のあたりに強盗が潜んでいるのを検非違使の後藤基清が逮捕しようとしたところ、強盗が集団であるだけでなく平家の残党を自称しており、後藤基清の家来の多くが負傷したという記録である。ただし、強盗集団の親玉を現地で打ち首にした上で素性を探ったところ、伊勢平氏である平正重を自称する人物であることが判明し、平家一門にカウントされる人物ではあるものの平清盛の近親者ではなく、官職経験としては掃部権助であったことの記録があるものの、その地位も源平合戦終了後に喪失していた。それでもなお自分は平家の一員であると主張し、正当な官職を持つ公人であると主張し、実際に平家の残党である者、あるいは平家の残党に同調する者を集めることに成功してそれなりの武装集団を構築することに成功していたのである。しかも、京都に近づくことすら難しかった彼らにとっては精一杯の場所である、白河の地という平安京の目と鼻の先の場所で。
壇ノ浦の戦いから三分の一世紀という時間が経過してもなお、平家残党問題は根の深い問題として横たわっていたのである。
鎌倉幕府は、平家残党問題については合格点をつけることができていたが、鎌倉幕府の存続性については大問題を抱えていた。
何と言っても源実朝の実子がいないことが大問題となっていた。源実朝の身に何かが起こってしまった瞬間、鎌倉幕府の組織としての存続名目が破綻するのだ。鎌倉幕府とは東国武士の集合体であるが、公的には上級貴族に仕える面々の集合体である。ここで源実朝がいなくなるということは、集合体の中心を担う上級貴族の喪失、すなわち、鎌倉幕府の存続根拠の喪失となるのだ。
そんな最中の建保六(一二一八)年一月一五日、政所で一つの協議が執り行われた。題目としては北条政子の熊野詣であり、北条時房が北条政子に同行することは決まった。ここまではどうということのない話である。
しかし、タイミング的に大問題となる話である。
今のこのタイミングでなぜ北条政子が京都に赴くのか?
名目だけ捉えれば熊野詣に行くだけと思うかもしれないが、京都に赴くこと無しに熊野詣だけを済ませるなどあり得ない。熊野詣の方が表向きの理由で、公然の秘密となっている実際の理由が存在する。それがわかっているからこそ、政所での協議は侃侃諤諤としたものとなった。
北条政子は源実朝の後継者を連れてくるつもりなのだ。帰路に連れてくるかもしれないし、北条政子が鎌倉に戻ってきてしばらくしてから源実朝の後継者が来るのかもしれない。タイミングはわからないが、源実朝の後継者となりうる上級貴族を連れてくる、あるいは皇族を鎌倉まで招く算段なのだ。
ただし、この段階ではまだ、誰を源実朝の後継者とするか決めかねている。
どういうことか?
源実朝は源頼朝の息子であり、また、源頼家の突然の病気という緊急事態があったこともあるが、元服直後に貴族の一員となってから順調に位階を高めて官職も手にし、上級貴族として申し分ない地位を手にしている。源実朝の地位があるからこそ、鎌倉幕府の御家人達は現在の社会的地位を手にできている。すなわち、源実朝の身に何が起こったとき、源実朝の後継者が求められる資質とは、一にも二にも上級貴族であることが最優先事項となる。その上で鎌倉幕府の中を見渡すと、源実朝以外に上級貴族となりうる人物は見当たらない。大江広元や北条義時が諸々の国司を歴任する貴族であると言っても、彼らは鎌倉幕府の中では上級貴族に近いと言えるものの上級貴族になることのできる血筋ではないし、そこまでの実績もない。
そこで真っ先に思い浮かぶのは源実朝の近親者である清和源氏ということになるのだが、ここが大問題であった。
当初は公暁を呼び寄せることで源実朝の後継者とする算段であったが、鎌倉幕府の主立った者は、公暁を源実朝の後継者とするのに反対するしかなくなった。鶴岡八幡宮別当というのは僧侶としての公暁の地位を高めるのに役に立ったが、肝心の公暁のマネジメント能力が大問題であったのだ。鶴岡八幡宮の神官や僧侶のうち、いったい何名が公暁に従っているのか。公暁が別当であることは認めなければならないが、公暁は千日講に励むだけで鶴岡八幡宮の経営に無関心であるばかりか、鶴岡八幡宮に勤める神官や僧侶を束ねるそぶりも見せていない。彼らは先代や先先代の別当の遺産のもとに従い行動しているのであって、公暁には従っていないのだ。能力がないなら能力がないでそれでいい。能力があるフリをしてもらえれば我慢できる。しかし、公暁はそんな振る舞いすら見せていない。これでは能力の有無の判定以前に、能力判定の舞台に立つことすら拒否していることとなる。これから人の上に立とうかという人物がその様子では、とてもではないが源実朝の後継者とすることはできない。
そもそも、源実朝に心酔している御家人が多いとは言えない。しかし、源実朝自身が源頼朝の後継者として振る舞い続け、理想の将軍であろうとし続けていることは理解していた。だからこそ御家人達は、大江広元や北条義時と政治的意見の対立を見せることも厭わない源実朝に敬意を払い、源実朝の命令に従っていた。
一方、公暁にはそうした痕跡が全く見られない。先ほど、公暁は能力判定の舞台に上がることすらしていないと記したが、それでも公暁に対する評判というものはある程度聞こえてくるし、実際に目にすることもできる。僧侶であるから仕方ないと言ってしまえばそれまでであるが、公卿には人の上に立つ者としての振る舞いもなければ、源頼朝の孫や源頼家の子としての振る舞いもない。我儘で粗暴な、図体だけは一人前で中身は半人前というのが御家人達にとっての公暁の評価なのだ。公暁が還俗して民間人となり、源実朝の後継者として第四代将軍になったとき、血縁だけを考えれば上級貴族になれたとしてもおかしくない。とはいえ、幼くして僧侶となったために朝廷官職の経験は皆無であり、清和源氏の血を引く身であろうと還俗した後は無位無官からのスタートとなる。しかも、源実朝のように後鳥羽上皇との個人的つながりも持たないため、源実朝の威光を背景とする蔭位の制を利用することで、貴族としてのスタートラインである従五位下になることまではできたとしても、そこから先の展望が全く見えない。公暁個人の資質で鎌倉幕府の求める上級貴族になれる可能性など極めて低いとするしかないのだ。それでも鎌倉幕府の御家人達は、一応は忠誠を誓うであろう。ただ、そのときの鎌倉幕府はどうなっているであろうかと考えたとき、公暁が権力者として振る舞うことはあっても、公暁が権力者に求められる行動を見せるとは到底思えない。公暁がこの後で改心して鎌倉幕府のトップに相応しい行動を見せる可能性ならばあるが、その可能性に賭けるよりも公暁以外の選択肢を求める方がマシと考えるようになったのである。
それでは、源頼朝の血を引く男児、あるいは源実朝の近親者のうち、公暁以外の男児はどうか?
まず、源実朝の異母兄である貞暁がいる。この人は公暁と同じく仏門に入った人であるが、公暁と違って僧侶としての名声も獲得しており、多くの人が貞暁のもとに帰依している。ここまでを聞けば公暁よりふさわしいと思えるであろう。しかし、異母兄であることが問題となる。この人は源頼朝の息子であるが北条政子の息子ではないのだ。源頼朝が大倉御所で働く女性に手を出し、妊娠させて出産させた男児であり、いかに僧侶としての名声を得ていようと、北条政子がこの人を源実朝の後継者として受け入れることはあり得ない。北条政子の意見を無視したとしても、北条家の血を引くわけではない男性が鎌倉幕府に落下傘で降り立ったとしたら、源実朝の後継者となる前に鎌倉幕府の混迷を生むこととなる。鎌倉幕府の御家人達の中に占める北条家の勢力はもはや無視できるものでは無くなっているのである。
次に、源実朝とは従兄弟同士の関係となる阿野時元がいる。だが、この人は清和源氏の一人とカウントすることはできても、源頼朝とその子孫のみが有する特別な血統を持っていないのである。阿野時元の父である阿野全成は源頼朝の異母弟である。つまり、源頼朝の弟であることは間違いないのだが、源頼朝と違って熱田神宮とはつながっていないのだ。源頼朝の権力の源泉は、清和源氏当主の継承者というだけでなく、源頼朝の母が熱田神宮の宮司の娘であるという点にある。源頼朝が母系を通じて熱田神宮につながるだけでなく、熱田神宮からは、征夷大将軍こそが壇ノ浦に沈んだ天叢雲剣の次の形代であると宣告されているのだ。今なお壇ノ浦に沈んだ天叢雲剣は見つかっておらず、承元四(一二一〇)年に後鳥羽上皇は蓮華法院宝蔵の伊勢大神宮神剣を天叢雲剣の新たな形代とする宣言をして順徳天皇の即位の儀を執り行なったものの、征夷大将軍と天叢雲剣との関係性は完全に白紙となったわけではない。ここで熱田神宮とつながっていない者を源実朝の後継者にしてしまうと、せっかく手にした征夷大将軍の権威の源泉の一つを自ら手放すこととなる。
では、この問題に対して源実朝はどのように考えたのか?
墓の下の源頼朝が聞いたら怨霊となって祟るであろう考えを示したのだ。
皇族を招いて源実朝の後継者とするのである。
その皇族が鎌倉に到着したと同時に源実朝が征夷大将軍の地位を手放すのでもいい。その皇族が臣籍降下して源氏となり、源実朝の養子となるのでもいい。皇族ならば上級貴族という枠を軽々と超えることができるし、臣籍降下したとしても誰もが認める上級貴族となる。源実朝がそのまま征夷大将軍であり続けるか、あるいは鎌倉まで赴いた皇族が新たな将軍となって源実朝は院政を模したかのように背後に引き下がるかはわからない。しかし、これによって鎌倉幕府の組織の存続は成り立つのだ。
北条政子は北条時房とともに熊野詣に向かうこととした。名目上はあくまでも一個人の、より正確に言えば出家した女性の、私的な宗教活動である。しかし、その目的は皇族将軍を鎌倉に迎えることにあったのだ。
毎年一月は貴族が位階を伸ばし、新たな官職を手にする可能性のある時期である。無論、全ての貴族が位階を伸ばし、新たな官職を手にできるわけではない。しかし、貴族であれば誰もがこの時期に未来を期待するものであり、位階を伸ばした、あるいは官職を手にしたという知らせがくるのを待ち侘びるものである。
それは源実朝とて例外ではなく、鎌倉の地に留まってはいるものの、京都に住む貴族達と同様に自らの栄達を待ち望んでいる。本当に待ち望んでいたかどうかはともかく、待ち望んでいるという姿勢を見せないと貴族として疑われる。鎌倉幕府の御家人達も源実朝が位階や官職の上昇を望んでいる姿勢を確認することで、自分達のトップが上級貴族であることを再確認する。
そして、源実朝の姿勢が成就したかのような知らせが一月二一日に飛び込んできた。一月一三日に源実朝が権大納言に昇格したのである。源実朝は権中納言筆頭であるため、権中納言から誰か一人を出世させるとすれば源実朝が選ばれるところまでは当然のことである。しかし、中納言を飛び越えていきなり権大納言に出世したというのはあまりにも異例だ。
ただ、吾妻鏡に二点のヒントがある。
一点目は既に述べている北条政子の熊野詣。熊野詣は院政期からレジャーとして整備されていたこともあって道程各所に宿泊施設も用意されており、事前予約無しでいきなり熊野へと向かったとしてもどうにかなるようになっている。ただし、いかに宿泊施設が整っていようと皇族や上位貴族が何の前触れもなく熊野詣に向かうことはありえず、通常は事前に連絡をしてから熊野へと向かう。北条政子自身は無位無官の尼僧ということになっているが、夫は正二位権大納言をつとめた源頼朝、息子も正二位で、年始時点では権中納言、一月一三日には権大納言に出世した源実朝である。夫や息子の官位官職を考えれば、北条政子を無位無官の者と扱うことはできない。熊野詣に出向くこと自体は貴族社会にいる者であれば珍しくない話であるから事前に熊野詣の予定を現地に伝えること自体はおかしくない。しかし、時代情勢、特に源実朝に男児がおらず鎌倉幕府の組織存続の問題があるという情勢下において北条政子から熊野詣の連絡が来たならば、その連絡がレジャーとしての熊野詣を意味することなどありえない。
おそらくであるが、北条政子の熊野詣そのものは前年の段階で既に連絡が行き届いていたのであろう。その解答の一つが、源実朝の権大納言昇格であると言えるのだ。
どういうことか?
源実朝の後継者に皇族の男児を招き入れたいという鎌倉幕府からの要望は、朝廷としても、院としても、受け入れがたい話なのだ。皇族の誰かを鎌倉に向かわせることそのものが問題になるのではない。鎌倉幕府とはイレギュラーな組織であるべきであり、鎌倉幕府というものは、清和源氏が相模国鎌倉に築き上げ、京都では平安京の目と鼻の先にある六波羅に出先機関を置いている一時的な組織であるというレベルに留め置かれなければならないのである。皇族が第四代以降の征夷大将軍として鎌倉に駐在するようになったならば、鎌倉幕府は権勢だけでなく権威も強大な組織へと変貌してしまうのだ。それこそ、皇族を抱えているために、征夷大将軍となった皇族、あるいは、その皇族の子孫が新たな天皇として、鎌倉幕府の勢力を背景に即位する未来すら考えられるのである。
朝廷にしても、院にしても、源実朝を権大納言に出世させるから、その代わりに皇族を新たな征夷大将軍とするのは断念してくれと願い出たというところか。
そしてもう一つのヒント。それは吾妻鏡にあるものの、朝廷の正式な記録としてはどこにも記されていない記録である。
時間は少しさかのぼって建保六(一二一八)年一月一七日、源実朝から朝廷に対し、北条泰時を新たに讃岐国司にするよう要望を出したという記録があるのだ。もう少し詳しく記すと、源実朝から京都守護の中原季時のもとに通知が送られたというのである。北条泰時は位階を得て貴族の仲間入りしたのは事実であるものの、その位階は従五位下であり貴族としては最下層である。鎌倉幕府の権勢、そして議政官の一員となった源実朝の推薦があれば不可能ではないものの、それでもどこかの国の国司というのは難しい。しかも、讃岐国となると鎌倉から遠く離れており、実際に北条泰時が讃岐国に赴いて統治するのではなく名目上の国司となる可能性が高く、北条泰時が誰かを代理に任命することでの令制国統治とすることを意味する。すなわち、讃岐国を鎌倉幕府の知行国とすることを暗に求める要望でもあるのだ。
この記録は吾妻鏡にのみ存在し、朝廷の公式記録のどこを見ても北条泰時を讃岐国司に任命したという記録は出てこない。また、讃岐国にも北条泰時を国司とした記録は存在していない。
とはいえ、朝廷の立場から捉えると、鎌倉幕府からの陳情を無視しては朝廷の日本国統治もできなくなってしまっているという現状、そして、その鎌倉幕府の意向が届いたという最新情報を組み合わせると、源実朝に何かしらの官職を与えることで、陳情に対する妥協点を提示したとも言えるのである。
北条政子が熊野詣に出向くと発表したのは一月のことであるが、おそらく前年末には朝廷に対して北条政子の熊野詣の意向が届いていたのであろう。
また、北条政子は京都を無視して熊野詣に出向くわけではないことを早々に公表した。しかも、誰も文句を言わせない形で。
亡き稲毛重成の孫娘で一六歳になっている少女を京都に連れて行くと公表したのである。京都へ連れて行く理由は彼女を土御門通行こと源通行に嫁がせるためであり、京都行きのメインは一六歳の少女であって北条政子は彼女の付き添いでしかないという公的見解を示したのだ。北条政子自身は無位無官でも、夫も息子も正二位権大納言となった女性であるので、貴族のもとに嫁がせる女性の後見人としては申し分ないのは事実である。誰がそのような公的見解を信じるのかと言いたくなるが、事実は事実として否定できない。京都からしてみれば厄介な客人であるが、ぞんざいに扱うことは許されない客人でもある。京都の朝廷や院ができるのは北条政子を鎌倉幕府の超重要人物として遇することだけである。
北条政子が京都に到着したのは二月二一日のこと。北条政子を迎え入れたのは後鳥羽上皇の乳母であった藤原兼子である。藤原定家は藤原兼子のことを後鳥羽院の最有力人物の一人と認識しており、土御門通親こと源通親亡き後の後鳥羽院では後鳥羽上皇の次の権力を手にしていたとまで扱っている。実母ではないものの、組織における権勢という点で藤原兼子と北条政子は似ていると言えよう。
ただし、藤原兼子は従三位藤原範兼の娘であり自身も位階を有していたのに対し、北条政子はこの時点でまだ無位無官である。北条政子は藤原兼子に会うところまでならばできても、皇族の誰かに会うのは本来ならば不可能である。しかし、ここで藤原兼子は北条政子に助け船を出した。
北条政子に位階を与えるべきだとの論陣を張ったのである。夫や息子の位階や官職を考えれば、北条政子にも相当の位階があるべきであるというのが藤原兼子の主張であり、また、実弟の北条義時や甥の北条泰時も貴族の一員に列せられていることも踏まえれば、今まで北条政子が無位無官であることのほうがおかしいともいえる。もっとも、夫の死に伴って出家して北条政子は僧籍に入っている。北条政子に位階を与えるのに反対する者がいた場合、北条政子個人に対する感情が本音として存在していようと、表向きは北条政子が出家していることを理由に位階を与えるべきでないという論陣を張ることとなるであろう。
このときの論争については、これより二ヶ月後の出来事として記すこととなる。
北条政子が京都に向かって出発してから六日後の建保六(一二一八)年二月一〇日、大江広元が一人の使者を京都に派遣することとした。源実朝が大将の位を希望しているからというのがその理由であり、それも、全ての武官のトップである左近衛大将への就任を願っているというのだ。
大江広元からの指令を受けた波多野朝定は、二月一二日に京都へと出発した。
それにしても本当に源実朝は左近衛大将への就任を望んだのであろうか?
源頼朝のキャリアの頂点は正二位権大納言右近衛大将である。源実朝は既に正二位であり権大納言であるから、あとは兼職となっている左近衛中将から一つ上の右近衛大将へ出世すれば父と並ぶこととなるし、二つ上の左近衛大将となると父を越えることとなる。
名目上の地位になったとは言え、武官としての官職は左近衛大将がトップである。左近衛大将と右近衛大将は大臣の兼職が通例で、大納言以下の者が兼職とするのは、その者はそう遠くない未来に大臣に就任することが確約されたようなものである。左右の近衛大将とは、武官としての実権は伴っていないものの権威は高く、それこそ、征夷大将軍など左右の近衛大将に比べればかなり格下の官職とするしかない。
この職務を源実朝が求めるところまでは問題ない。権大納言になった者が左近衛大将や右近衛大将を望むこと自体は珍しくなく、この一点だけを切り取ってみると権大納言としての通常態と言える。ただ、源実朝は征夷大将軍であり、この時代の日本国で最大の武装勢力を抱えている人物である。この人物が名目上とはいえ武官の最高位を手にした場合、鎌倉幕府の御家人達に対し源実朝の裁量一つで武官の地位を与えることが可能となる。これは莫大な人事権だ。
しかも、この莫大な人事権は単なる驚異ではなかった。朝廷での地位に納得できない者がいる場合、従来は朝廷で実直な日々を過ごして評価を獲得するか、藤原摂関家や後鳥羽院に頼るかして一発逆転を狙う方法しかなかったのであるが、この頃にはもう鎌倉の源実朝が十分な圧力として認識されるようになっていたのである。
確認できる記録では建保六(一二一八)年二月一八日のこととして、西園寺公経が謹慎を解かれたことの記録がある。これだけであれば貴族社会でよくあることであるが、謹慎しなければならなくなった理由、そして、謹慎解除の理由を振り返ると、源実朝の存在がより強く見えてくる。
西園寺公経は権大納言から大納言への昇格を後鳥羽上皇に訴え出たのであるが拒否された。ここまではよくあることである。しかし、ここで西園寺公経は鎌倉に頼んで大納言へ昇格させてもらうと言い放ったのである。この言葉が後鳥羽上皇の耳に届いてしまったために謹慎処分となったのであるが、その謹慎処分が二月一八日にいきなり解除となったのだ。
権大納言から大納言への昇格と書いたように、西園寺公経は源実朝より上の官職である。また、年齢も四八歳と断じて若手とは言えない年齢であり、格下で歳下の源実朝に頼るというのは本来であれば異常事態なのであるが、西園寺公経の妻は一条能保の娘であり、一条能保は源頼朝の実妹を妻に迎え入れた人物である。つまり、西園寺公経は源実朝の従兄なのだ。困りごとを従弟に頼っただけというのは表向きの理由であり、実際そのような言い逃れは可能である。だが、いったい誰がそのような言い分を受け入れようか。
西園寺公経が大納言への昇格を願い出たのは鎌倉から源実朝の左近衛大将就任の要望が届く前のことである。そして、鎌倉の源実朝から源実朝の要望が届いたと同時に西園寺公経への謹慎処分が解除となった。こんなわかりやすい構図があろうか。
鎌倉幕府が圧力団体と認識されるようになったことの記録は、吾妻鏡と、その他の歴史書と、朝廷の公式記録と、京都の貴族達の日記とを比べると別々の姿が見えてくる。
間違いなく言えるのは、鎌倉幕府からの陳状が朝廷に届いていたこと、そして、鎌倉幕府からの陳情は無視できるものではなくなったことである。
しかし、具体的な陳情となると差異が見える。
先に記した西園寺公経の記録は愚管抄に残っているものの吾妻鏡には残っていない。
そして、前に記した北条泰時の讃岐国司就任要請は吾妻鏡にしか記録に残っていない。
北条泰時の国司就任要請についての続報は吾妻鏡にのみ存在している。建保六(一二一八)年二月二三日に、鎌倉幕府からの讃岐国司の推薦について後鳥羽上皇が認可し、ただちに対象者に伝えるよう返信が来たというのである。
何度も繰り返すが、吾妻鏡は鎌倉幕府の正史であると同時に、北条家にとって都合良く編纂された歴史書でもある。つまり、北条家にとってプラスとなる出来事は余すところなく書き記すと同時に、北条家にとっては重要でないと判断されたなら、そして、同時代の人からも歴史書に残さなくても問題なかろうと判断されたなら、吾妻鏡に残らないこととなる。その一方で、最終的に辻褄が合うなら、実在したかどうか怪しいエピソードも追加される。全くのゼロから生み出された可能性ですら否定できない出来事も吾妻鏡には存在するのだ。
それが北条泰時の讃岐国司就任についてのエピソードである。
吾妻鏡に従えば、二月二三日の次の記録は三月一六日である。二月一二日に大江広元からの指令を受けて京都に向かった波多野朝定がこの日、京都から戻ってきたのである。三月六日に朝廷が発表した人事の結果を持ってきたのだ。
吾妻鏡に記載されているのは朝廷の発表した人事の一部抜粋であり、抜粋の中に左近衛大将源実朝の名があることで、吾妻鏡の中ではこれによって源実朝の要求が成就したということになっている。なお、当初は父の源頼朝と同じく右近衛大将とする予定であったところで鎌倉から左近衛大将就任を希望する知らせが届いたため、慌てて源実朝を左近衛大将にすることにしたという。このために里内裏となっている閑院内裏と関白近衛家実の屋敷を何度も往復することになったというのが吾妻鏡の記載だ。
一方、朝廷に残る記載を調べるともっと困惑が強まる。
源実朝が左近衛大将に就くことを望んでいるという知らせが京都に届いたことは一つの問題があったのだ。左近衛大将が空席であるならばまだいいが、左近衛大将は右大臣九条道家が兼任していたのである。左近衛大将の地位を源実朝に与えるためには右大臣九条道家に左近衛大将を辞職してもらわねばならず、公卿補任によると二月二六日に九条道家は左近衛大将を辞任している。ただし、左近衛大将であるために常時侍ることとなる随身達はこれまで通り九条道家のもとに侍るという特例が適用されている。
建保六(一二一八)年三月一六日の記録にはもう二点、特筆すべきポイントがある。
一つは北条泰時の名が無いこと、もう一つは安達景盛の名があることである。
ここに北条泰時の讃岐国司就任の話がなかったことについてはこのあとでさらにエピソードが追加されるので詳細はそのときに記すが、もう一つについては、驚天動地のニュースであったとするしかない。
安達景盛が出羽城介となったのだ。
出羽国は現在の秋田県と山形県からなる令制国であり、陸奥国に比べれば狭いとは言え、かなりの面積である。そのため、山形県庄内地域に国衙を置いて出羽守に出羽国全域を統治させると同時に、現在の秋田市のあたりに秋田城を設置し、出羽国のナンバー2である出羽介を常駐させていた。この役職のことを出羽城介という。
ただし、時代とともに出羽守と出羽城介の二つの役割を同一人物が兼任するようになり、醍醐天皇の時代の昌泰二(八九九)年以降は出羽城介が空席となることが増え、後冷泉天皇の時代の永承五(一〇五〇)年に出羽城介がいったん復活したことがあったものの、出羽城介は空席となるのが通例化し、それから一世紀半以上の時間が経過していたのである。
この出羽城介が復活したのである。
それも安達景盛が就任するという、誰もが想像すらしなかった通知が届いたのだ。この知らせを受けた安達景盛は、歴史を乗り越える長大な栄誉が自分に与えられたことに驚愕して打ち震えていたという。
安達景盛の父の安達盛長は、源頼朝が伊豆国に配流された身であった頃から源頼朝に仕えてきた鎌倉幕府の功労者であるが、その息子である安達盛長となると、鎌倉幕府で何かしらの特別な功績を残していたとは言いがたい。
とはいえ、安達景盛は傍流とは言え藤原北家の一員であり、このときの出羽城介任命時の朝廷からの書状も安達景盛ではなく藤原景盛に対しての任命となっている。また、安達景盛と源範頼は義理の兄弟であり、源範頼の養父は藤原範季、そして、藤原範季の娘は順徳天皇の母であるため、安達景盛は皇室につながる血筋の人間でもある。鎌倉幕府の有力者の一人にして皇室とつながる血筋の人間である安達景盛に対して何かしらの官職を与えるべきではないかと考えたとき、空席となっていた出羽城介の官職を与えることは、名誉としても、実利としても、無意味ではなかった。名誉としては歴史の中で消えてしまっていた官職を復活して付与することの名誉、そして実利としては、出羽国北部、現在の秋田市に公的な権力機関を常置することで東北地方の統治をよりスムーズにする効果を有している。鎌倉幕府がかつての奥州藤原氏の統治をそのまま継承したといっても、目と鼻の先にある平泉に根拠地を持っていた奥州藤原氏と、遠く離れた鎌倉が根拠地である鎌倉幕府とでは出羽国の統治のスムーズさ加減が大きく違う。ここで出羽国北部に鎌倉幕府ともつながりのある朝廷の出先機関を復活させることは極めて大きなメリットがある話であった。
さて、北条泰時の名が無いことについての逸話であるが、吾妻鏡に従うと以下の通りである。
まず、建保六(一二一八)年三月一八日に朝廷からの使者として権少外記中原重継が鎌倉に到着した。源実朝が左近衛大将と同時に左馬寮監に就任したことを伝えるためである。馬寮とは本来であれば朝廷保有の馬の飼育と、儀式や軍事行動時の馬の提供のための役所であるが、時代とともに馬は名目だけとなって武官組織の一部門となり、トップである左右の馬寮監はそれぞれ左右の近衛大将が兼職することが通例化した。そのため、左近衛大将となった源実朝が左馬寮監にも就任したことを伝える知らせが朝廷から鎌倉まで到着したのはおかしなことでなかった。
ただ、誰かを京都から鎌倉まで派遣しなければならなかったという点を差し引いても、権少外記という、御世辞にもあまり高い官職ではない中原重継が選ばれたのは異例であった。もっともこれは、大江広元がまだ改姓する前、中原氏のもとに養子に入ったために長きに亘って中原広元と名乗っていたこと、また、使者として派遣された者の今後のキャリア形成を念頭に置けば、異例でも中原重継が選ばれた理由は納得できる。まず、戦時ならばともかく平時となると、重要な連絡事項を伝える使者としては、訪問先本人ではなくその人物の側近の近親者を、この場合でいうと源実朝ではなく大江広元の近親者を選ぶのはおかしなことではない。ホテルという概念のないこの時代、旅行客は、野宿するか、寺院に泊まるか、誰かの家に泊まるかのいずれかである。中原重継の鎌倉での宿泊地も遠い親戚ということになっている大江広元の邸宅である。また、中原重継が今後のキャリアを作り上げることを考えたとき、建保六(一二一八)年三月に朝廷からの使者として鎌倉に赴いたというのはキャリアの一ページとして飾るのは悪くない話である。戦時ではなく平時であるために使者には即断即決ではなくマニュアル通りの行動が求められる上、鎌倉まで向かうという遠距離の移動であること以外はさほど困難ではないが、まさに鎌倉までの移動という遠距離であるため、徹頭徹尾マニュアルに従うことで難事完遂とされ評価を獲得できるのである。
中原重継が源実朝のもとに姿を見せたのは三月二三日のことである。鎌倉に到着してからこの日まで源実朝のもとに姿を見せなかったのは天候が理由であったとしている。吾妻鏡によると、天候が回復するまでの間、御家人達が連日交代で中原重継をもてなしと記している。
ようやく天候が回復した三月二三日に、北条義時に先導されて中原重継は源実朝のもとに出向き、源実朝は御簾を上げて中原重継から文書を受け取った。朝廷から派遣された使者を迎え入れてこのような書状を受け取った場合、受け取った者は相当の返礼を受けることが通例である。今回の場合、左馬寮監に就任したことと、鎌倉幕府そのものが多くの馬を抱えていることもあり、中原重継へは二頭の馬が引き渡された。この時代の馬は現在でいう乗用車、源実朝が渡す馬となると高級乗用車となる。二台の高級乗用車を贈り物として渡したと考えると、中原重継は想像以上の返礼を受け取ったと言えよう。
その翌日、中原重継は返礼の追加としてさらに一頭の馬を加えられただけでなく、砂金百両を受け取って京都へと戻っていった。砂金百両は現在の貨幣価値で言うと七五〇万円から一千万円近くに相当する金額である。
ここでようやく北条泰時の話が出てくる。北条泰時に加え、二階堂行村と小山朝政も中原重継を片瀬まで見送りに行ったのであるが、この少し前に、北条泰時は自分の讃岐国司就任について辞退したという。源実朝は北条泰時の意見を受けて、讃岐国司就任辞退の意思を中原重継に伝えたというのが吾妻鏡での記載なのだが、一連の流れはどうにも不整合とするしかない。
どういうことかというと、北条泰時を讃岐国司とするようにしたという記録は吾妻鏡にしかなく、朝廷の公式記録にはない。北条泰時を讃岐国司に任命した、あるいは新たな讃岐国司として北条泰時に内定を出した後で北条泰時から辞退の申し入れがあったとするならば、それはそれで不整合は解消できる。実際に讃岐国司になっていないのだから讃岐国司北条泰時という公式記録が存在しないのは当然だ。
当然なのだが、建保六(一二一八)年三月一六日の記事の内容をもう一度読んでみると別の姿が見えてくる。
京都から戻ってきた波多野朝定は、鎌倉到着の十日前である三月六日に朝廷が発表した人事の結果を持ってきたのだ。その内容は朝廷が発表した全文であったはずである。印刷技術が一般的ではないこの時代、文章を手に入れたければ全て書き写すしかない。一廉の貴族や役人であれば書き写す技術を身につけているし、その専門の職業の者もいたのであるから、波多野朝定から源実朝に差し出された文書には朝廷の公表した全文が記載されているはずである。
しかし、吾妻鏡に記載されているのは以下の通りである。
侍從藤範有
兵部權大輔藤頼隆
勘解由次官平範輔
出羽城介藤景盛
伊豫守藤實雅
左近大將源實朝
少將藤盛兼
右近少將藤能繼
右衛門權佐經兼
雜任略之〔三十餘人歟〕
從三位藤資家
從四位下平宗宣
このように途中で三〇名ほどの省略を入れている。
北条泰時がこの省略の三〇名に含まれていたならば整合性はとれる。このときに讃岐国司に任命されたのち、北条泰時が讃岐国司を辞退したというストーリーであれば納得はできる。
だが、本当に讃岐国司に任命されたならば、北条泰時の名は、いや、朝廷官職としての正式名称である平泰時の名は、源実朝より前に讃岐守あるいは讃岐介として記されていなければならない。先に文官の任命があり、いかに高官であろうと左近衛大将をはじめとする武官の名は文官の後となる。実際、左近衛大将源実朝の前に伊予守藤原実雅こと一条実雅の名が記されている。一条実雅はこの時点で参議ですらない従五位下の貴族で、正二位権大納言源実朝よりかなり格下である。また、一条実雅は一条能保の息子であり、一条能保の極官は権中納言である。つまり、本人だけでなく親の官職を考えたとしても、序列的に源実朝の前にくることは許されない。例外は、一条実雅が文官、源実朝が武官の官職を得たときのみである。武士であるか否かなど関係ない話であり、仮に北条泰時が本当に讃岐国司に任命されていたならば、一条実雅の前か後かは不明でも、源実朝の前に記されていなければならないのである。
さらに、既に記したように安達景盛がこのタイミングで出羽城介に就任している。しかも、長らく空席であった職務を復活させた上での出羽城介就任であり、吾妻鏡はそのことを誇らしげに書き記している。忘れ去られた職務である出羽城介の復活はたしかに特筆すべき出来事であるが、北条泰時が讃岐国司に就任した、あるいはそれに類する記録があったならば、出羽城介と並列で北条泰時の讃岐国司就任についての記事も存在していなければおかしく、実際に記録を調べてもそんな記事は見つからない。
こうなると、北条泰時が讃岐国司に推薦され、あるいは讃岐国司に任命されたのち、北条泰時が辞退を申し入れたというエピソードそのものが怪しくなるし、そもそも北条泰時と讃岐国司との関係のエピソードそのものが吾妻鏡編纂時に差し込まれた虚構であると考えるべき話になる。
建保六(一二一八)年四月二九日、北条政子が鎌倉に戻ってきた。熊野詣を無事に終えたというのが公式見解である。結婚を控えた一人の少女に付き添って京都へと寄り道したことは認めるものの、京都において北条政子自身が何かしらの能動的な行動を見せたわけではない、ということになっている。
その代わり、京都で奇妙なエピソードを体験したことは記している。
四月四日に後鳥羽上皇が大奉殿へ行幸するため、行幸の様子を見学しようと牛車を三条河原のあたりに停めて見物した。娯楽の乏しいこの時代、このような行幸は京都内外に住む人達にとって絶好の娯楽材料となり、見物しようと多くの人が押し寄せる。特に貴族は牛車に乗って見物しようとする。というより、皇族や貴族はこのようなとき、牛車から降りて見物すること自体が許されない。牛車の中から行列を見物するか、見物そのものに行かないかのどちらかであり、見物するならば、見物そのものを娯楽として楽しむだけでなく、自分の牛車をアピールすることでの関係性の構築、この場合は後鳥羽院と自己との繋がりを図らねばならない。そのため、牛車での見物は良い場所の取り合いになり、源氏物語の一幕でも記されたように見物に適した場所を巡っての文字通りの争いになることもある。
この時点での北条政子自身は無位無官の一庶民、さらにいえば出家した尼僧である。しかし、父は遠江守も務めた貴族でもある北条時政、夫は権大納言を極官とする源頼朝、息子は現役の権大納言である源実朝とあっては、北条政子も見物のためには牛車に乗らなければならない一人とカウントされる。ここまではいい。
問題はここから先。
何とこのとき、全く混乱が起こらなかったのだ。
貴族の牛車はその貴族やその貴族の近親者に仕えている武士が牛車周辺の警護をする。平安京の中で武装が許されるのは、六衛府や検非違使といった公的な官職を持った武官とその部下達のみであるが、こうした貴族に仕えている武士も公的な官職を持った武官であるので、武装して牛車の警護をすることは何の問題もない。
北条政子の牛車も例外ではなく、北条政子の実の息子である源実朝に仕えている武士のうち、公的な武官の官職を持つ武士とその部下達が牛車周辺の警護をする。
すなわち、北条政子の牛車の周辺は京都で集めることのできる鎌倉幕府の武士達が、あくまでも源実朝の実母の乗る牛車の護衛という名目で、北条政子の周囲を固めることとなる。
これでいったい誰が、場所を巡る争いに参加しようというのか。
北条政子は他の貴族達の牛車が北条政子の牛車の近くで見物することについて何も言わなかっただけでなく、貴族同士の繋がりを友好的に築き上げた。そのため、一見するといつものように行列見物のための牛車が集結しているという光景でありながら、いつものような場所取りを巡る争いが全くない、牛車が整然と並んでいる光景が展開されたのである。
繰り返すが、北条政子は何ら能動的な行動をしていない。ただ牛車に乗って見物に行っただけであり、見物の護衛として息子に仕える武士達も連れて行っただけである。しかし、それの意味するところは誰の目にも明らかであった。
このエピソードが届いたのか、それから十日後の四月一四日に、北条政子が従三位の位階を与えられたとある。
既に北条政子に位階を与えるべきという話は出ていた。
その話が具体化したのが四月一四日である。権中納言三条実宣からの提案として、北条政子に従三位の位階を与えるべきという意見が出たのである。実際には後鳥羽上皇の乳母であった藤原兼子の意向であるが、名目としては四月四日の牛車の整然を契機とし、権大納言の実母である女性にも相応の位階を与えるべきとの意見を出したのである。
これは意見が紛糾した。
特に問題となったのが、北条政子は出家していることである。
北条政子への位階授与に対して反対する者は、出家した者に官位を与えた例など奈良時代終わりの弓削道鏡しかないという論陣を張った。道鏡とは繰り返してはならない負の先例であり、二度目は許されないというコンセンサスが存在している。ここで北条政子に位階を与えるのは道鏡の悪しき先例を繰り返すことになるとして反対したのである。
しかし、賛成する側は別の事例を持ち出して正当化した。出家した者に位階を与えた例は他に二例あり、その二例とも女性への位階授与だとしている。一人は安徳天皇の祖母の平時子、もう一人は藤原忠実の母の藤原全子である。この両名とも出家後に皇后に準じる地位を得たための位階授与という特例であり、北条政子をこの両名と同列に扱うわけにはいかないのではないかとの意見も出たが、皇后に準じるわけではないにしても相応の有力者である女性に位階を与えることは問題ないとしたのである。
特に平清盛の妻である二位尼こと平時子の先例は強力であった。安徳天皇の祖母であることはその通りであるが、源平合戦において平家全体が朝敵となっただけでなく、平時子は安徳天皇を抱きかかえて壇ノ浦に入水したという、許されざる犯行に手を染めた極悪人である。そんな極悪人にも位階を得る資格があるのなら、北条政子はもっと資格があるとしたのである。
さらに、北条政子に位階を与えることに後鳥羽上皇が賛成しているという知らせが飛び込んできたことで、論争は位階授与で決着することとなり、北条政子はここで正式に従三位の位階を得ることとなった。
そしてこのときが北条政子の史料初出なのである。
このように書くとこれまで平安時代叢書で何度も北条政子と書いてきたではないか、そもそも北条政子についての記録は源平合戦の前から存在しているではないかと思う人もいるであろうが、実は「北条政子」という名が登場するのはこのときの位階授与なのだ。
平政子に従三位の位階を与えると発表されたのであるが、現在の我々が北条政子と読んでいる女性に対し、父の名から一文字採用して「政子」とこのときに名付けられたのである。それまで無位無官であった女性に対し、位階を与える側が嘉字一文字を選んだ上で「子」を加えた名を授けるのは、この時代の最上級の栄誉であり、北条政子は最上級の例に加わったわけである。
なお、北条政子は位階を得た翌日の四月一五日に後鳥羽上皇から面会を求められたが、辺鄙なところに住む老いた尼僧が後鳥羽上皇のような尊い方と顔を合わせるなどあってはならないことだとして、すぐに京都を発って鎌倉へと戻っていったというのが吾妻鏡の記載である。
なお、身代わりと言うべきか、北条政子と同行していた北条時房は、鎌倉へと戻ることなく京都へと留め置かれている。
北条時房が鎌倉へと戻ってきたのは建保六(一二一八)年五月四日のことである。姉が鎌倉へ戻るべく京都を発った後、姉の代わりに後鳥羽上皇に招かれたために、北条時房は鎌倉到着が遅れたというのが吾妻鏡での記載だ。
北条時房は従五位下相模守であり、位階も、官職も、ギリギリではあるが後鳥羽上皇と会うことが許されている地位にある。とはいえ、北条時房が京都の皇族や貴族達の間でのしきたりに詳しいわけではなく、また、後鳥羽上皇の愛好する和歌や蹴鞠の達人というわけでもない。
というタイミングで、困り切っている北条時房を助ける人物が二人登場した。
一人目は坊門清親。源実朝の妻の父である坊門信清の甥で、源実朝とは義理の従兄弟同士の関係にあたる人物である。また、坊門信清の娘の一人が後鳥羽上皇の元に入内しているため、後鳥羽上皇、坊門清親、源実朝の三名は互いに義理の従兄弟同士ということにもなる。この坊門清親が北条時房の側に常にいることで、宮中や院における礼儀作法に詳しいわけではない北条時房のサポートを続けた。
もう一人は北条時房の息子の一人で、父と同行していた北条時村。この人の生年は不詳であるが、建保六(一二一八)年時点では二十歳になったかならないかといったところである。その若者は、父の北条時房と違って和歌にも蹴鞠にも精通しており、困惑する父に代わって後鳥羽上皇の趣味に付き合ったのである。
吾妻鏡の記載に従うと、まずは四月八日の梅宮大社の祭礼の一環として蹴鞠があり、ここで久我通光こと権大納言源通光の隣席のもと北条時房は蹴鞠を披露した。このとき、父に従って蹴鞠に参加したのが息子の北条時村である。北条時房の蹴鞠の能力自体が平均以上であったが北条時村の蹴鞠は父を上回る見事なもので、その知らせが久我通光から後鳥羽上皇のもとに届き、四月一四日からは参内しての蹴鞠の披露となった。これだけでも緊張するところであるが、蹴鞠は一日だけでは済まず、翌日も、翌々日も、北条時房と息子の北条時村は蹴鞠を披露し続けることとなった。なお、北条時房と北条時村の親子だけが蹴鞠に参加したのではなく、他の貴族も参加していたこと、また、北条時房と北条時村がずっと蹴鞠を続けていたわけではなく、選手交代しながら蹴鞠をしていたことは判明している。ただし、具体的に誰が参加していたのかの記録はない。北条時村は貴族ではないが父の北条時房は位階も官職も得ている貴族であるため、これから位階や官職を手にする予定の貴族の息子という体裁で、北条時房とともに貴族達の座席の隅に座って蹴鞠を眺めてもいたというのが吾妻鏡におけるこのときの蹴鞠の情景である。
なお、日付的には北条政子もまだ京都にいた頃に蹴鞠の披露が始まり、三日連続での蹴鞠の途中で北条政子は鎌倉へと向かったこととなるが、北条政子が蹴鞠の見物に赴いたかどうかの記録はない。
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源実朝が権大納言という高位の官職に就いたものの、京都に足を運べないために議政官の一員として会議に参加することはできずにいる。
しかし、建保六(一二一八)年六月時点の貴族の序列でいくと、関白近衛家実、左大臣九条良輔、右大臣九条道家、内大臣三条公房に続く五番手グループを構成する一員となっている。本来であれば内大臣と権大納言との間に定員二名の大納言がいるところであるが、この年の一月に藤原兼宗と藤原兼基の二人の大納言が揃って大納言職を辞職してしまったために大納言職は空席となり、八名いる権大納言の誰かが大納言職の臨時代理を務める状況が続いている。ちなみに、この時点で太政大臣も適任者無しとして空席となっている。
議政官は左大臣が議長となり、左大臣が不在であれば右大臣が議長を務める。そして、左大臣も右大臣も不在であるときは内大臣ではなく二名いる大納言のうちのどちらか、通常は位階が高い者、同じ位階であるならば大納言に就任した日付が早い者が、左右の大臣の代行を務める。
ところが、建保六(一二一八)年一月に大納言が二人とも辞職してしまったために八名の権大納言のうち、もっとも序列の高い久我通光こと源通光が大納言代理を務めることになってしまったのである。これではさすがに職務が久我通光のもとに集中しすぎてしまう。そこで、八名いる権大納言で職掌を分散して一人あたりの職務を軽減化させるようにしていた。
ここまではいい。
問題は、八名いる権大納言のうち一名が、全く京都に姿を見せていないことである。すなわち、前述の通り鎌倉に留まっている源実朝は八名の権大納言うちの一人でありながら、権大納言としての職務を遂行するのに困難になっていたのである。
とはいえ、源実朝が権大納言としての職務を全くしていないわけではない。おまけに源実朝は左近衛大将を兼任しているから、朝廷における武官のトップとしての職務遂行も求められている。
先に、源実朝が左馬寮監に就任したことを伝える使者が三月一八日に到着したことを記したが、このあとの記録を紐解いていくと、朝廷からの使者が頻繁に鎌倉を訪れていることがわかるのである。彼らは鎌倉まで旅行に来たのではなく、権大納言兼左近衛大将源実朝の政務遂行のために朝廷から派遣されてきたのである。現在のビジネスでも出張はあるし現在の政治でも外遊はあるから、朝廷からの使者の派遣もそうした公的な移動と同レベルで考えることはできるが、それにしても、普段から武芸で身体を鍛えているならまだしも、武士でもなく身体を鍛えているわけでもない人間が頻繁に京都と鎌倉を往復することを考えると、体力面で心配になってくる。実際、源頼朝が整備したことで京都と鎌倉は片道七日往復半月というのが情報のやりとりの目安になっていたが、武人ではない人間の移動となると、急いだとしても片道一〇日が目安であったようで、京都を出発してから一〇日後に鎌倉に到着した人というのがかなり多く見られる。
なお、この頃の朝廷の記録を見ると、源実朝が征夷大将軍であることは認識されてはいるものの、征夷大将軍であることはさほど重要視されていなかったようである。源実朝がどうして京都に来ないのかという懸念があったときにはじめて、征夷大将軍としての軍事行動を遂行している最中であるために現地を離れることができないという公的理由が思い出されるといった具合だ。
源実朝が権大納言としてどのような職務を遂行していたのかという記録は多くない。しかし、左近衛大将としての職務遂行の記録ならばそれなりに存在する。
源実朝は鎌倉幕府の御家人達のトップであるだけでなく、鎌倉内外に住む人達にとっても自分達のリーダーと見做される人物である。その人物が権大納言になったことはそこまで特別なニュースと扱われていない。国政において八名いる権大納言のうちの一人に自分達のリーダーが選ばれたことはニュースではあるのだが、そこまで特別なニュースと見做されてはいない。
しかし、左近衛大将となると話は別だ。武官の最高位にして、大臣の兼職であることが通常の職務に自分達のリーダーが就いたのである。これは鎌倉中を熱狂させ、鎌倉幕府を熱狂させる大ニュースとなった。左近衛大将就任を祝うための拝賀式が鎌倉で開催されることとなり、その祝祭である拝賀式は鎌倉中を熱狂させ、鎌倉幕府の御家人達に鎌倉幕府の巨大さを自覚させる大規模なものとなった。
まず、建保六(一二一八)年六月一四日に新しく蔵人に任命された大江時広が京都から到着した。源実朝の左近衛大将任命の祝祭の先払いのためである。先月二七日に蔵人に任命された後の初出仕の場で鎌倉行きを命じられ、二八日にはもう京都から出発するよう命じられている。なお、鎌倉行きがよほど不満だったのか、鎌倉での拝賀式が終わったならば即座に京都に戻るつもりであると公表している。
六月一七日には、純粋に拝賀式に参加するために、一条実雅、一条能氏、源仲章といった貴族達が京都から鎌倉にやってきた。代理の者ではなく本人が京都から鎌倉へとやってきたことは、今回の祝祭がいかに特別であるかを鎌倉内外の人達にイメージづけるに十分であった。
六月二〇日、後鳥羽上皇の近臣の一人で内蔵頭藤原忠綱が朝廷からの使者の第二陣として到着した。藤原忠綱は儀式に参加するだけでなく拝賀式に必要な衣装や調度品を用意するのが役割であり、藤原忠綱はかなりの大人数で京都から鎌倉までやってきている。ちなみに同じ藤原忠綱という名の貴族は、藤原頼通の五男である男児や、伊藤忠清の息子など他の時代にもいるが、たまたま同じ名前になっただけで直接の関係はない。
同日、一条能保の次男で源実朝とは従兄弟同士の関係になる一条信能も鎌倉に到着した。
六月二一日、藤原忠綱から儀式用の調度品や衣服が源実朝のもとに届けられた。ここではじめて、衣服や調度品の全てが後鳥羽上皇からの贈答品であることが公表された。源実朝は後鳥羽上皇からの配慮に感謝したとある。
同日夜、平為盛と源頼茂の両名も鎌倉に到着した。源実朝の左近衛大将就任に伴う拝賀式への参列者として京都からやってきた貴族として名が残っている貴族は以上であるが、吾妻鏡には具体的な名は残されていないものの、その他の数多くの貴族が京都から鎌倉まで足を運んできたことが記されており、左近衛大将就任を祝福する拝賀式としては申し分ない規模である。また、戻ってきたことの具体的な明確な記載はないが、この頃には京都守護の中原季時も鎌倉に戻ってきているはずである。
建保六(一二一八)年六月二七日、源実朝の左近衛大将就任を祝福する拝賀式が鶴岡八幡宮で開催された。
拝賀式としてのメインは鶴岡八幡宮での参詣であるが、イベントとしてのメインは参詣を終えたあとの行列である。
まず行列を作る前に文章博士源仲章が御簾を上げ、陰陽少允安陪親職と陰陽権助安陪忠尚の両名がお祓いをしたのち、伊予少将藤原実雅が牛車を用意して源実朝が牛車に乗り込む。
この段階で行列はほぼ完成しており、あとは源実朝が乗る牛車が行列に加わることで行列が完成する。
まず、先頭の八名は牛の世話役である|居飼《いかいが横に四人二行に並ぶ。
次に、八名の御厩舎人が同じく横に四人二行を作る。
ここから先が、鎌倉幕府の御家人や京都からやってきた面々の行列である。
まず、府生狛盛光、将曹菅野景盛、将監中原成能の三名が横に並ぶ。彼らはまだ殿上人ではなく天皇に拝謁する資格を有さない。もっとも、今回の行列はあくまでも京都での行列の擬制であり、通常であれば源実朝に普通に会える人が、今日のこのタイミングに限っては源実朝に会えないということになっている。
この次に殿上人が続く。
大江時広、一条頼氏、花山院能氏、一条能継、一条実雅、源師憲、源頼茂、平為盛、源仲章、一条信能という順番であり、この行列においては彼ら貴族が名目上の源実朝の先導を受け持つ。
そのあとで源実朝の乗る牛車を護衛する武士が続く。牛車を護衛する武士自体は京都でも目にできる光景であるが、ここは鎌倉。源実朝の周囲を警護する武士とは鎌倉幕府の御家人である。
まず、一六名の武士が二人一組になって八行となり、馬に乗って笠を持ち行列を築く。
伊賀仲能と三条親実。
美作朝親と毛利季光。
中原季時と藤原経定。
蔵人大夫国忠と足利義氏。
右馬助範俊と北条時房。
蔵人大夫有俊と右馬助宗保。
源頼時と大江親広。
北条義時と大内惟義。
既に述べたように中原季時は本来であれば京都守護として京都に留まっているべき職務の人間であるが、このときは鎌倉にいて行列の一翼を担っている。
さらにこのあとで、朝廷の警備兵の責任者を務めることのある下毛野敦秀が家臣とともに控える。
このあとで源実朝の乗る牛車が来る。
牛車の後ろには朝廷から派遣されてきた警備兵である、秦頼澄、秦清種、下野野敦家、播磨貞直、下野野敦継といった面々とその家臣が並ぶ。
その後ろに源実朝の笠持ちが二名、雨用の皮張りが一名と筵持ちが一名並ぶ。
その後ろに武装した八名の御家人が二名一組で並ぶ。
大須賀道信と長江明義。
伊豆頼定と三浦義村。
北条泰時と筑後朝重。
安達景盛と土岐光行。
その後ろに検非違使である大江能範とその家来が並ぶ。
源実朝の弓矢を持つ佐々木高重が並ぶ。
このあと、朝廷から派遣された武官達が二名一組で続く。
大泉氏平と関政綱。
小野寺秀道と島津忠久。
平胤義と足立元春。
天野政景と伊賀光季。
後藤基綱と加藤景長。
伊東祐時と武藤頼茂。
中条家長と佐貫広綱。
大江範親と大井実平。
塩谷朝業と若狹忠季。
そして最後に東重胤が一人で並ぶ。
なお、吾妻鏡は行列が組まれたことと儀式を執り行ったことを記載するのみであるが、他の記録にはここで一つの失態があったことが記されている。三浦義村が失態を演じ、儀式の行列を遅らせてしまったのである。
こうして振り返ると、この行列に含まれていてもおかしくない人物が二名、その名を行列の構成者の中に含まれていないことがわかる。
一人は北条政子。北条政子の場合はこの行列の見物人の一人であることが求められる。息子の出世を祝う行列を眺めることは許されても、行列そのものに母が加わるというのはあり得ない話であり、このあたりは凱旋式に戦闘に参加しなかった者が勝手に加わったらどうなるか容易に想像できるであろう。母として息子の晴れ舞台を見物するところが限界である。
そしてもう一人が、鶴岡八幡宮別当の公暁。千日講に入っているためこうした儀式に参加できないのはやむを得ない話であるが、鶴岡八幡宮を舞台とする儀式で鶴岡八幡宮のトップが姿を見せないのは異例とするしかない。このあたりは後の伏線となるのであろう。
この拝賀式は鶴岡八幡宮を内裏と見立てて、京都における貴族の儀式を鎌倉で執り行うというものである。
本来は、京都在住の貴族であれば毎日内裏に参内するものであり、内裏で政務を執り行うものである。拝賀式も内裏で新たな役職に任じられたときに内裏で執り行う儀式であり、京都にいない貴族の拝賀式についてはそもそも想定されていないものであった。
ただし、ここで源平合戦期の福原遷都という先例が登場する。
福原遷都時は京都在住の皇族や貴族のほぼ全員が福原に移住しなければならなくなったのだが、福原は最後まで首都機能の完成した都市でないまま、遷都そのものが白紙撤回されて皇族や貴族が平安京へと戻ったという経緯がある。福原京は首都機能が完成していないために、通常であれば新たな首都となった福原京で執り行うべき儀式を、かつての首都ではあるものも、今となっては一地方都市となった、という扱いになっている平安京で執り行うこともあったのである。
源実朝はその先例を自分自身に適用したのだ。
鎌倉在住の源実朝は内裏への参内ができない。そこで鶴岡八幡宮を内裏に見立てて、福原遷都時の貴族のように首都から離れたところで儀式を執り行うという構図である。
なお、拝賀式は新たな役職に任命されたことを祝福する儀式であるが、新たな役職に任命されたあとで執り行う儀式はもう一つ存在する。
初出仕だ。
毎日の出仕は日常の光景だが、最初の出仕は拝賀式ほどではないにせよ、それなりの行列を用意して参内するものである。ここでも源実朝は京都での儀式を鎌倉で執り行うべく、拝賀式をそのまま利用して、初出仕という体裁で鶴岡八幡宮への参詣をしている。
ただし、拝賀式と初出仕は参加者の性格が異なる。拝賀式は新たな役職に任命されたことを祝福する儀式であるため、左近衛大将源実朝に直接仕えているわけではない貴族も多く参列している。一方、初出仕は源実朝に直接仕える貴族や護衛の武士だけが参加を許され、拝賀式に参列した貴族達は内裏で初出仕を迎え入れる側になるか、あるいは、初出仕を見届けることなく内裏で日々の政務にいそしむこととなる。実際、拝賀式に参列した貴族のうち、藤原忠綱は建保六(一二一八)年七月一日に、平為盛や一条能氏らの貴族は七月五日に鎌倉を発って京都へと戻っている。
初出仕が執り行われたのは建保六(一二一八)年七月八日のことで、拝賀式からそれなりに時間が空いているが、こうした時間のかかり具合はこの時代珍しいことではない。福原遷都時の前例を無理に適用させてはいるものの、実質的に史上初の出来事を執り行っているわけであるから、むしろ時間の短さを賞賛すべきであろう。
以下が初出仕のときの行列である。
まず、先頭に先払いの儀仗兵たちがいる。
ついで貴族でもある御家人達が源実朝の乗る牛車の先導をつとめる。拝賀式では先に殿上人達がいたが、初出仕では殿上人達が後ろになり、武装した御家人達が馬に乗って先導を務める。なお、ここは拝賀式と同様に基本的に二人一組であり、その順番も拝賀式での順番に似ている。
伊賀仲能と三条親実。ここは拝賀式と同じである。
毛利季光と美作朝親。ここは左右が入れ替わっている。
足利義氏と右馬助範俊。拝賀式では、蔵人大夫国忠と足利義氏、右馬助範俊と北条時房という組み合わせであったのと、三番手に中原季時と相模権守藤原経定の組み合わせがあったが、ここで大きく変わっている。
北条時房と蔵人大夫有俊。
源頼時と大江親広。
そして最後に大内惟義が一人のみ。拝賀式ではここに北条義時がいたのであるが、初出仕時の北条義時は鶴岡八幡宮で源実朝を迎え入れる側になっている。本来なら源実朝の行列の一人であるべきであるが、貴族でもある北条義時が内裏で政務を行っているという体裁で内裏に見立てた鶴岡八幡宮にいることで、他の貴族が政務を執り行っているときに初出仕したという構図を鎌倉で再現している。
この後に殿上人である長井時広、源仲章、一条信能が続き、その後ろに源実朝の乗った牛車が続く。源実朝が政務を執り行う前提で、源実朝の同僚として政務に協力する者が源実朝の前を行くという構図である。
源実朝の乗る牛車のあとは朝廷から派遣されてきた警備兵が続き、行列の最後は武装した御家人達が二名一組で並ぶ。
長江明義と三浦義村。
伊豆頼定と浅沼広綱。
北条泰時と筑後朝重。
安達景盛と土岐光行。
この八名の並びは拝賀式と少し順番が違うが、これは既に高齢である長江明義への配慮の結果である。牛車のすぐ後ろに誰が来るか、特に左に誰が来るかはそのまま御家人の序列にもつながる話であり、これまで鎌倉幕府に長く仕え、陰に日向に奮闘してきた高齢者に、一族の誉れとなる栄誉を与えるべきという三浦義村の言葉を受け入れたためにこのような順番となった。
初出仕の日、北条義時は行列に参加せず鶴岡八幡宮で源実朝を待ち受ける側になっていたのは先に記した通りである。
ではこのとき、北条義時は鶴岡八幡宮で何をしていたのか?
何もせずに時間を潰していたのではない。
鶴岡八幡宮と幕府御所のある大倉の地を眺め、新たな公共事業を始めることを考えたのである。
これが賛否両論を巻き起こした。
吾妻鏡は同時代資料ではなく後に時代に書かれた歴史書であり、吾妻鏡の編纂者は当然ながら、半年後に何が起こるか知っている。その半年後の大事件の時に北条義時がどのような立ち位置にあったかも当然知っている。そのため、このときの北条義時の言葉は半年後の出来事を見越しての発言というより、先に半年後の出来事があって、それから北条義時の言葉を捏造したと考えるほうが正しいであろう。
すなわち、夢に出てきた薬師十二神将のうち戌神が北条義時の枕元に立ち、今年の参拝は無事であったが来年は参拝には参加すべきではないというお告げがあったという北条義時の言葉を吾妻鏡の編纂者が捏造したといったところである。
表向きはこの夢に見た言葉を踏まえての薬師像と御堂の建立である。
しかし、実際には公共事業の一つである。
鎌倉中を熱狂させた一大イベントが終わり、鎌倉市中に祭りの後の静けさというか、何とも言えない不況感が漂い出していたのである。この不況感を解消するために、北条義時は新たな御堂を大倉の地に建立することを考えたのだ。御堂による霊験を求める思いはゼロではなかったろう。しかし、重要なのは工事そのものである。工事をすることで失業を減らせば不況感は減るのだ。
これが賛否両論を招いた。
特に北条時房と北条泰時が猛反対した。
拝賀式と初出仕の二度の行列のために京都からどれだけの人を招き入れたか、そのためにどれだけの負担をもたらしたか。しかもこの負担は鎌倉幕府の財政だけではなく、年鎌倉に在住する庶民一人一人の懐具合にも直結したのだ。確かにイベントによる需要喚起は成功した。需要に応える供給も生み出した。しかし、こうしたイベントによる一時的な需要喚起は反動がある。この反動が不況感の正体だ。
北条時房も、北条泰時も、鎌倉にいる誰もが既に限界まで負担を引き受けている以上、ここで新たな工事を始めるのは負担を増すだけだと主張したのである。
これに対する北条義時からの回答は単純明快である。
全ての費用は北条義時が受けもつ。鎌倉幕府の財政にも手をつけないし、ましてや増税もしない。
北条時房も、北条泰時も、北条義時のこの反論の前には黙り込むしかなく、北条義時は反対していた二人を無視して御堂建設に向けて匠、現在でいう大工を呼び寄せ、指図をした。この時代、指図というのは命令をすることではなく、設計図を提示することである。
それにしても、北条義時という人は独裁と無縁であることを演じ続けてきた人であるが、あくまでもそれは演技だったのではないかと感じてしまうこのときのやり取りである。弟や息子に対する強権発動の範囲であるのでまだ妥協の余地はあるが、このときのエピソードの不自然さは、エピソードそのものが吾妻鏡編纂時に考え出された虚構であったと考えるべき内容になってしまっている。
北条義時は政所別当と侍所別当を兼任している。
政所はいい。政所別当は複数名おり、北条義時は複数名いる政所別当のうちの筆頭、すなわち執権であり、政所の最重要人物であることは認めねばならないものの、北条義時がいなくても政所は組織として機能する。
しかし、侍所となるとそうはいかない。北条義時のもとに権力が集中しており、北条義時不在がそのまま侍所の機能不全に陥る可能性がある。侍所は、平時はともかく、戦時となったなら武士の配備について責任を負う組織となる。このような組織は複数の指揮命令系統が存在することは許されない以上、誰かのもとに権力を集中させなければならない。源平合戦期から別当をつとめていた和田義盛が源頼朝に仕える武士達を束ねる組織として侍所を構築し、組織を形成させていたことで問題発生を事前に食い止めていたのであるが、侍所別当が和田義盛の専任から政所別当北条義時の兼任に代わったことで、組織運営に支障が出る可能性が出たのである。
北条義時に対する非難の言葉は多々あれ、独裁者という非難の言葉だけは該当しない。北条義時は、たとえそれが名目上の範囲であるにせよ、議論検討の末の判断であるというパフォーマンスを崩さない人である。
ただし、自分のいないところで決まった話に黙って従うか否かは別問題だ。
政所はいい。北条義時がいなくても他の政所別当達の議論の末の決断であるならば、北条義時とて従わざるを得なくなる。
しかし、侍所となると話は別だ。幕府の人事や戦乱時の人員配置を司る職掌であり、また、都市鎌倉の治安維持も担当している。この職務において、侍所別当北条義時のいないところで勝手に決まった意見が侍所の判断であると公表されようものなら、北条義時個人の感情以前に、侍所の組織としての正当性が試される話になる。
とはいえ、北条義時は一人しかおらず、その北条義時が政所別当を兼任している以上、北条義時のいない侍所のあり方はさすがに考えねばならない。北条義時不在時に侍所としての意見を表明できる仕組みを作り、事後承諾であるにせよ北条義時もその意見に賛意を示すというシステムを作り上げなければならないのである。
建保六(一二一八)年七月二二日、侍所別当北条義時をサポートする職務である侍所所司、すなわち、次官が任命されることとなった。かつては和田義盛がトップである侍所別当、梶原景時が二番手である侍所所司という構図が存在しており、和田義盛と梶原景時の微妙なバランスのもとで侍所が成立していたが、その頃のバランスを、より安定した形で復活させることとしたのだ。
梶原景時の頃と違うのは、侍所所司が五名という点である。北条泰時、二階堂行村、三浦義村、大江能範は、伊賀光宗の五名である。この五人が北条義時の直下に位置する侍所所司であるが、五名は対等ではない。まず北条泰時が他の四名より上に立ち、二階堂行村と三浦義村の両名が北条泰時を支えると同時に、御家人達の鎌倉幕府内における人事を司る。大江能範は将軍源実朝の側に侍ることで源実朝と大倉御所内の日々の雑事をサポートし、伊賀光宗は御所の外での御家人の統率を担当する。拝賀式と初出仕は極端な例であるが、いかに源実朝が鎌倉に留まる人生を過ごしているとはいえ、御所の中に閉じこもっているわけではなく、それなりに各所へ出掛けている。その際、源実朝と同行する御家人を選抜するのは伊賀光宗の役割だ。
北条義時が侍所の政務にあたることができるならば、この五名の上に北条義時が別当として君臨する。しかし、北条義時が不在ならば、この五名の議論の末の決断が、侍所の意見となる。
これまで源実朝が左近衛大将としての職務にあたっているところを描いていないではないかと思うかもしれないが、実際には職務にあたっている。ただ、武官のトップとしての職務と征夷大将軍としての職務は重なるところが多く、これまでの征夷大将軍としての職務がそのまま左近衛大将としての職務になったというところである。
ただし、征夷大将軍と左近衛大将とでは権限が大きく違う。征夷大将軍はシビリアンコントロールを受けない代わりに征夷大将軍個人が集めた武人だけにしか命令権がない。しかし、左近衛大将となると、日本中の圧倒的大多数の武官に対する指揮命令権が発生する。左近衛大将の命令を拒否できる武官はただ一人、征夷大将軍だけである。源実朝が左近衛大将に就任したことで二つの権限が一人のもとに集中し、ここに絶大な権限を持つ武人でもある権大納言が誕生した。ここまでの武官の権限が一人に集中するなど前代未聞のことである。強いて挙げれば坂上田村麻呂、それも死後遺贈での名誉としての位階授受を踏まえた上での先例ということでようやく建保六(一二一八)年時点の源実朝に匹敵する先例となるが、これを先例とするには無茶がある。
しかも、無理に先例として挙げることのできる坂上田村麻呂にしても、戦時であれば都を離れることはあっても平時であれば都にいる。平城京、長岡京、平安京と首都が移り変わっても都にいることに違いは無い。都にいて平時の政務に携わることができる。一方で、源実朝がいるのは都から遠く離れた相模国鎌倉だ。征夷大将軍という職務は実質的にはともかく理論上は軍事作戦遂行中の最高司令官であるから、左近衛大将を兼職としていても、源実朝が征夷大将軍であり続けるために京都から離れていることは法的問題を有さない。とはいえ、平清盛のいた摂津国福原ですら京都から距離があると痛感していたのに、平安京との距離は福原の比ではない鎌倉とあれば、日常政務における京都からの距離がもたらす問題が発生する。その問題を抱えた上で現状に対処するため、京都と鎌倉との間で書状を携えた使者のやり取りが活発化し、京都から左近衛大将源実朝に宛てての陳情や要望に応えて使者を京都に送り届ける光景が通例化するようになったし、その手間を減らす手段も鎌倉幕府としてかなり前から構えていた。
実は、こうした陳情や要望の多くは左近衛大将ではなく征夷大将軍として対処可能な内容であることが多かった。すなわち、要望の大多数は犯罪対策や治安維持に関する内容であり、こうした要望については、鎌倉から六波羅に在駐する京都守護中原季時に対して命令を出し、中原季時は征夷大将軍源実朝の指令に従って、六波羅で用意できる鎌倉幕府の御家人達を集めて送り出すというシステムでどうにかなかった。
平安京の敷地内に武装して入ることが許されるのは、律令で定められた朝廷の武官とその部下、そして、検非違使とその部下だけである。これまでは、京都守護からの指令があっても、六波羅に集められた鎌倉幕府の御家人達は、検非違使の誰かの指令、あるいは、朝廷の武官の官職を持つ誰かの指令に従うという図式でなければ、平安京の内部に武装して入ることは許されなかった。ところが源実朝が左近衛大将となったことで、源実朝が京都駐在の特定の御家人に命令を出す、すなわち、同一人物が同一人物に対して下す命令であっても、余計な手間がかからずに堂々と武装して平安京の内部を闊歩できるようになったのである。
さらに、京都守護中原季時は左近衛大将である源実朝の部下でもあるから、中原季時は源実朝に問い合わせることなく、事後承諾を求める前提で独自の命令を発することが可能だ。ついこの前まで京都守護とは征夷大将軍の出先機関であったが、今や左近衛大将の出先機関である。京都で何かあれば六波羅の京都守護中原季時が動くという図式に変化はないが、中原季時の命令範囲は強大なものとなったのである。
これにより、目に見えて平安京内の治安は改善された。
犯罪対策や治安維持で有効なのは、犯罪に遭わないでいい社会を作り上げることである。犯罪に走った人の更正も大切であるが、犯罪に走ろうと考えている人に思いとどまらせることも重要である。それは犯罪だからやめろと忠告しても聞き入れない人はいるが、相手が武装をしていて、犯罪に走ろうものなら容赦なく命を奪うと宣言している相手からの忠告ならば犯罪を思いとどまらせる効果がある。話し合いの通用しない相手でも殴り合いは通用する。
これは自分がやっていることが犯罪であると自覚していない相手に対しても有効である。建保六(一二一八)年九月二九日、比叡山の僧兵が暴れ回っているのを沈静化したという報告が鎌倉に届いた。
僧兵達はおよそ二百年もの長きに亘って暴れるだけ暴れ続けてきた。名目はどうでもいい。重要なのは暴れることそのものである。
このときの僧兵達が名目として掲げたのは、比叡山の末寺で働く船頭長の光安が、筥崎宮の現地預かり人である僧侶に殺害されたことへの反発である。犯人二名は逮捕され投獄されたものの、これで比叡安延暦寺の怒りが収束することはなく、筥崎宮そのものの取り潰しと、筥崎宮の所有する全領地の延暦寺への引き渡しを要求したのである。仲間が殺されたのだから怒りはわかるが、この要求はあまりにも過大である。
要求を突きつけることまではまだいいが、本来ならば禁止されている武装をし、暴れ回り、後鳥羽上皇に要求を突きつけるとあっては大問題だ。しかも、彼らは自分のやっていることが犯罪だと認識していない。自分達を犯罪被害者であると認識しており、犯罪者に対する適切な処分と被害者に対する適切な賠償を求めているだけだと認識している。
おまけに彼らは神輿を担いできている。
僧兵問題の厄介なのはここだ。
自分達は正義であると疑わず、自分達の元には神の意志があるとしている。抵抗することは無論、対処することそのものが神罰であるという彼らの主張は、現在ならばともかく、この時代は無視できない主張であった。
後鳥羽上皇は直ちに北面武士と西面武士を集めて比叡山延暦寺の僧兵達を押さえ込もうとしたが、延暦寺の僧兵達は、日吉山王神社、祇園八坂神社、北野天満宮の神輿を担いで武装デモを展開している。延暦寺の本体だけでなく、延暦寺とつながりのある寺院や神社のうち京都に人員を派遣できる全ての寺院や神社に動員をかけたために、武装デモの規模は北面武士や西面武士にどうこうできる規模ではなくなっていた。
ここで京都守護中原季時が動いた。六波羅で集めることのできる御家人を総動員し、左近衛大将源実朝の指令として、比叡山延暦寺の僧兵達の暴動を強引に鎮静化することとしたのである。
源平合戦を戦い抜いた鎌倉幕府の御家人達の兼職も珍しくない西面武士はともかく、北面武士の多くは源平合戦と距離を置くことの多かったこの時代の認識の人である。
神輿に対して何かしらの攻撃的姿勢を見せること自体が許されないことだという概念は消せずにいる人が多い中で、鎌倉武士の心情は良かれ悪しかれこの時代の最新のものだ。神輿を担いで神の威光を示していようと、敵であれば殲滅する。かの有名なマンガはこの時代よりもっと後の時代を描いたマンガであるが、「侍の本懐とは舐められたら殺す」はこの時代にも適用できるのだ。
加藤光員、後藤基清、大友能直、佐々木広綱といった御家人達が家臣を率いて武装デモと向かい合っただけでなく加藤光員の息子の加藤光資は神輿を担いでいる男の腕を容赦なく切り落とした。神輿が血で汚れるなど本来ならばあってはならないと考えてきた人達には思いも寄らない話であったのだが、鎌倉武士にそのような概念など通用しない。神輿を担いでいようと敵は皆殺しというのが鎌倉武士だ。
これに延暦寺の僧兵達は驚きを隠せず、血で汚れた神輿を捨てて比叡山へと逃亡することとなった。この一連の流れは恐ろしい光景であったが、溜飲が下がる光景でもあったのだ。
建保六(一二一八)年一〇月八日から九日にかけて、朝廷は大規模な人事発表をした。
メインとなったのは空席となっていた太政大臣位であり、太政大臣を復活させて内大臣三条公房こと藤原公房を昇格させることとなった。そして、後任の内大臣には権大納言源実朝の昇格で埋め、空席となっていた二名の大納言は久我通光こと源通光と西園寺公経こと藤原公経の二名の権大納言が昇格、権大納言の空席には土御門定通こと中納言源定通が昇格し、これまでの八名体制から六名体制へと移行。中納言の空席は姉小路公宣こと権中納言藤原公宣が昇格し、権中納言の空席には西園寺実氏こと参議藤原実氏が昇格する。
それにしても、どうしてこのような大規模な人事の刷新があったのか?
一〇月一〇日に中宮九条立子が出産したのである。
一〇月八日時点で既に出産は秒読みとなっており、あとは無事に出産を終えるのを待つのみとなっていた。
このタイミングでの人事刷新は通常であればあり得ない。それに、生まれてくる子が男児であるかどうかもわからない。しかし、後鳥羽上皇の強い意向により生まれてくる子が順徳天皇の後継となる男児であるという前提で人事を動かしたのだ。
太政大臣は人臣の最高位であるが、空席であることが普通である職でもある。しかし、太政大臣が置かれなければならないシチュエーションは一つだけ存在する。
それは、幼くして帝位に就いた天皇が元服するとき。
皇族の元服は天皇による加冠が必須であるが、その天皇自身が元服を迎えるときはどうするのかという問題がある。
その問題を解決するために考え出されたのが、天皇の元服時は太政大臣が加冠役を務めるという仕組みである。
これはなかなかに巧妙な仕組みである。
太政大臣は人臣最高位であること間違いないのだが、議政官の一員ではなくなるため議決に参加することができない。議政官から上がってきた採決結果に対する拒否権はあり、太政大臣が拒否権を発動したら議政官は再度議決するか、あるいは廃案としなければならない。ただし、拒否権発動は全て公表されることもあって、制度上の拒否権はあっても拒否権の実行はほとんどない。太政大臣に与えられている拒否権は伝家の宝刀である。ただし、抜かれることがない刀でもある。
そして、この時代の官職に降格はほとんどない。少なくとも一度でも太政大臣に就いたならば、太政大臣であり続けるか、太政大臣を辞職するかのどちらかの選択肢しか残されていない。多くの場合は摂政や関白との兼任であるため太政大臣を辞職しても何の官職も持たない身となることはないが、稀に、太政大臣だけを職務とする人がいる。摂政や関白との兼任ができないまま太政大臣になった人である。このような人は、議政官の議決に対して拒否権を発動する権利を持った太政大臣であり続けるか、国政と何ら関わりを持たない元太政大臣となるかのどちらかしかない。
これは平清盛や、古くは藤原兼通にも適用された例であるが、内大臣は議政官の一員であっても、左大臣や右大臣と比べてその職権は乏しい。つまり、さほど有能ではない人物、あるいは、朝廷にとって不都合な人物を朝廷の中枢から排除する方法として、まずは内大臣にし、その後で太政大臣へと出世させるという方策が選ばれることがある。出世を重ねた結果であるものの、実際には左遷だ。
後鳥羽上皇は、次期天皇となる男児の出産に備えるという名目で人事の刷新をし、三条公房は出世という名の左遷を受けたのである。三条公房は御世辞にも周囲から快く受け入れられる人物とは言えなかった。傍若無人な振る舞いを繰り返し、言葉だけではない暴力も繰り返してきた人物である。現在であればパワーハラスメントとしてその振る舞いの惨さが新聞やテレビで叩かれ、ミームとなってネットを賑わせることになったであろうが、この時代はそのようなメディアなどないために、パワーハラスメントを繰り広げていようと責任を問われないままでいられた。血筋があるために朝廷の中枢にいることがやむを得ない人物について対処するためにこの時代にできたのは、内大臣を経て太政大臣にさせる方法だけだったのだ。
後鳥羽上皇の執念は結実し、一〇月一〇日に中宮九条立子が生んだ子は男児であった。懐成親王、後の仲恭天皇である。
三条公房を朝廷の中枢から排除するために、内大臣を経由して太政大臣とさせた。後任の内大臣は源実朝である。
このように記すと、このように考える人もいるのではないであろうか。
源実朝も排除される対象となるのではないか。
後の歴史を知る人ならそうではないことはわかるのだが、その歴史的瞬間が訪れる前から源実朝は排除対象でないことは示されていた。
比叡山延暦寺の大規模な武装デモがあったこと、左近衛大将としての源実朝の権限発動により強制的に沈静化させたことは既に記したとおりである。
その後の比叡山延暦寺がどうなったかの知らせが届き、源実朝が左近衛大将であることのメリットが如実に示されたのである。
僧兵による武装デモは、単に神輿を担いでデモに出かけるのではない。デモに出ている間、境内の様々な施設は封鎖されるのである。これは比叡山延暦寺に限ったことではないが、比叡山延暦寺のデモは比叡山だけでなく、周辺の関連する寺院や神社も全て封鎖されるのだ。このあたりはストライキ中に店舗や職場が封鎖される情景を思い浮かべていただければ、類似のものとしてご理解いただけるであろう。
また、このときの強訴は計四台の神輿を出動させており、引き下がった後も神輿はなお担がれたままであった。記録に従えば、血で汚れた神輿も持ち帰ったこととなる。本来ならば不浄として扱われるところであるが、どのような理由を掲げたのか、血で汚れたはずの神輿が担がれた状態が続いている。おそらく血については拭い去ったか、あるいは部品交換や塗り直しでどうにかしたのであろう。
今回のデモは神輿が担がれ続け、また、各種施設の封鎖が続いている限り、武装デモが続いているということになっているのだ。左近衛大将兼征夷大将軍源実朝の威光を背景とする鎌倉武士の活躍によって平安京内でのデモを強引に沈静化させたことで、比叡山延暦寺の内部だけなく、比叡山から離れたところにある延暦寺関連の宗教施設全体が混迷を極めることになったのだ。
無理難題ではあるが既に要求を突きつけている以上、デモに同調する僧兵達は要求貫徹まで引き下がらないつもりでいる。
かといって、デモに出向いた面々が鎌倉武士達にどのような仕打ちを受けたかを振り返ると、もう一度デモに出向くつもりにはなれない。より正確に言えば自分以外の誰かがデモに出て要求を満たしてもらいたいものの、自分が率先して武装してデモに参加するつもりにはなれない。
そのため、比叡山延暦寺の僧兵達は、デモを宣告しておきながらデモに出かけず、延暦寺や関連寺社に籠もり、それでいて延暦寺や関連寺社の各種施設は封鎖され、神輿も出動した状態のままという中途半端な状態が続いている。
デモを企画した側がこの問題を収束させる方法は二つあるが、そのうちの一つは実現不可能である。
一つはデモの要求が全て受け入れられ完全勝利に終わったと判断すること。
もう一つはデモが要求を取り下げること。
前者は既に左近衛大将源実朝の手によって封じられた。
ゆえに、デモをしている側のほうに要求を取り下げさせて通常に戻させるという選択肢しかない。
ではどうやってデモを諦めさせるのか。
建保六(一二一八)年一〇月一二日、延暦寺の幹部に相当する僧綱達が僧兵達に要求を撤回させることを確約し、延暦寺に向かって武装している僧兵達をなだめさせ、要求の白紙撤回を成功させた。
ただし、これは理屈ではない。
ここで要求を撤回しなかったら鎌倉武士が比叡山に襲撃を掛けるであろうと誰もが理解したのだ。その上で、鎌倉武士の襲撃を受けた比叡山延暦寺の迎える運命は、源平合戦期の東大寺や園城寺と同じとなるのもまた、誰もが理解するところであった。それに、比叡山延暦寺の者が犯罪被害に遭ったのは事実でも犯罪の実行犯は逮捕され収監されている。ここでさらに連帯責任を要求するだけでなく、その要求水準がとうてい許容できない代物であることもまた、僧綱達は理解している。
ここで選べる策は、要求の白紙撤回しかなかったのだ。
左近衛大将兼征夷大将軍源実朝が比叡山延暦寺の武装デモを完膚なきまでに叩きのめしたことは、僧兵の武装デモに苦しめられてきた平安京の庶民から拍手喝采を受けることとなった。
上洛した際に北条政子が従三位の位階を得たことは既に記したとおりである。
出家した北条政子に対して位階を与えることの是非についての議論に対しては、平清盛の妻で、壇ノ浦の戦いで安徳天皇を抱きかかえて入水した平時子の例を適用することで位階を与えることは問題なしとなった。
と同時に、平時子の例を適用するなら従三位で良いのかという問題も出てきた。
平時子が従二位となったのは、後に高倉天皇となる憲仁親王が立太子したことに伴うものであるが、平時子は高倉天皇の実母というわけではない。実母の姉である。後に娘を高倉天皇のもとに嫁がせ、高倉天皇との間に安徳天皇をもうけるが、位階という一点だけに注目すると、あくまでも立太子に伴う位階授与のうちの一環で従二位の位階を受けたのが平時子である。しばらくしてから平時子は天皇の祖母となったために絶大な権威を手にすることとなったが、平時子の位階と、平時子の絶大な権威とは無関係な話であったのだ。
そして、朝廷は平時子の前例をどうにかしたいと考えていた。
平時子が従二位の位階を得ていたことは壊すことのできない歴史の事実である。
だが、天皇を抱きかかえて入水するという許されざる悪行に手を染めたのだ。しかも、三種の神器も一緒に入水させた。源平合戦の顛末に同情できるところもあるが、平時子の行動は理不尽とするしかなく、先例ではあってもむしろ壊すべき先例となる話であったのだ。
ここで北条政子の位階を従二位に上げることは、北条政子にとってもメリットのある話であるが、もっと大きなメリットとして平時子を北条政子と同水準にまで下げるというのがある。平時子が天皇の祖母であるだけでなく従二位の位階も得ていたというのは平家の残党の誇りとするところの一つであった。
平家の残党のうち原理主義に近い者は建保六(一二一八)年時点でもなお安徳天皇を正式な天皇と考えていたが、そこまでこだわってはいない者は後鳥羽帝以後の朝廷の位階や官職を受け入れている。位階や官職を考えたとき、鎌倉幕府よりも平家政権のほうが上だと考えていたからである。たとえば、平清盛が太政大臣であったことや、平重盛が正二位内大臣兼左近衛大将であったこと、平時子が出家した後に従二位の位階を得たことなどは、平家の残党の誇りとするところであった。それが、源実朝も平重盛と同じく正二位内大臣兼左近衛大将となったことで誇りの一つが崩された。
これだけでも十分にショックな話であったのだが、北条政子が従二位になるとショックはより厳しいものとなる。誇りが完全に破壊されるのだ。
北条政子は源実朝の実母であるが、皇室に娘を嫁がせているわけでなく、ましてや天皇の実の祖母というわけでもない。一応は平家の血筋ではあるが貴族社会の生まれというわけでもなく、貴族社会に生きる者として求められる素養も全く身につけていない。北条政子に与えられている敬意の源泉は、夫である源頼朝と、息子である源実朝とに付随しており、北条政子個人で獲得した敬意ではない。
そんな女性が平時子と同じ地位に昇ったというのは平家の残党を絶望させるに十分であった。しかも、北条政子が上洛時にしたこと、より厳密に言うと何もしなかったことは京都内外の誰もが知っている。ゆえに、表向きは左近衛大将源実朝の実母という立場でしかない女性が平家の残党のプライドの一翼を担う平時子と同じ地位に昇ったことは、悔しさを隠せず、それでいて何ら対処できようのない出来事であったのだ。
はっきり言うと、朝廷にしても、後鳥羽院にしても、北条政子が従三位であろうと、従二位であろうと、そこに大差は無い。従三位の位階を授与したことで殿上人の一人にカウントしうる身分を与えたときは特別待遇であったという認識はあったものの、従三位から従二位への昇叙となると、平家の残党を黙らせる以外に特別な認識はない。
これは北条政子にとっても同じである。高い位階であることは悪くない話であるが、従三位以上であるか否かは重要であっても、従二位とまでは求めていない。平時子の先例を上書きしたいという朝廷の意向は理解できるから従二位への昇叙は快く受け入れたが、北条政子の心の内に浮かび上がった心情はそれ以上でもそれ以外でもなかった。
この時点では誰も、このときの昇叙が鎌倉幕府を延命させる法的根拠になるとは考えていない。
前年に鶴岡八幡宮の別当となった公暁についての動静はこの一年以上完全に消えていた。それも、鶴岡八幡宮であれだけの祭典を開催したにもかかわらず、鶴岡八幡宮別当の姿が見えないという異常事態が起こっていた。
その公暁の動静がようやく判明したのが建保六(一二一八)年一二月五日のことである。その三日前、北条義時が建立を命じた大倉新御堂の薬師如来像の開眼供養が開催された。その開眼供養には北条時房、北条泰時、北条朝時といった北条家の面々だけでなく、二階堂行光、二階堂行村、加藤景廉らも参列している。そして、この時代の鎌倉で集めることのできる数多くの僧侶が参加し、特に経典や願文を渡す役は鶴岡八幡宮の僧侶である頓覚房良喜が担当した。
だが、ここに鶴岡八幡宮別当の公暁はいない。
公暁の動静が伝えられたのは、公暁が鶴岡八幡宮寺で籠もったまま出てこないこと、いくつもの願掛けをしていること、そして、僧侶でありながら髪を伸ばしっぱなしにしているという三点である。ただし、全てが伝聞であり実情とは言い切れない。
確実な証拠として残っているのは、白河義典を使者として伊勢神宮へ奉幣のために派遣したことである。確実な記録として残っているのはこの一件のみであるが、その他にも数多くの神社に代参させているという伝聞は届いた。
まったく、公暁が鎌倉で何をしているかの動静がここまで伝わっていないのは異常とするしかない。もしかしたら残っていたのかもしれないが、翌月に公暁が何をしたのかを考えると意図的に記録を破棄したのかもしれない。
公暁の記録が残っていないのは事実であるが、公暁の関係者の記録として残っているのが一つだけ存在する。時間は遡るが、およそ三ヶ月前の建保六(一二一八)年九月一三日の夜、鶴岡八幡宮で一つの騒ぎが起こった。稚児と若い僧が美しい月を眺めようと歩き回っていたことを見つけた宿直当番の者がこの二人を咎めたところ、夜間にうろつくことを反省するどころか反発し、乱闘騒ぎへと発展してしまったのである。翌日に実況見分として金窪行親を鶴岡八幡宮に派遣したところ、前夜の乱闘事件に関わった稚児が三浦義村の息子の駒若丸であると判明した。
駒若丸は幼少期に鶴岡八幡宮に預けられた後、公暁が鶴岡八幡宮の別当となるべく鎌倉に到着してすぐに公暁の門弟となった少年である。本来は僧侶となるべく修行をしている身であり出家していてもおかしくはなかったのであるが、彼はまだ出家しておらず稚児の格好であった。現在の学齢で行くと中学一年か中学二年といったところであり、この時代の寺院にはこれぐらいの年齢でまだ出家していない男児がいることは珍しくない。
彼らは寺院の中で一つの役割を背負わされている。
女人禁制である寺院において、あたかも女性であるかのような役割をさせられているのである。師である僧侶の忠実な弟子というより事実上の配偶者ともいうべき関係になっている少年も珍しくなく、この時代、一定以上の地位にある僧侶は幼い少年を自分の愛人として囲っていることのほうが普通で、そうでない僧侶は異常者扱いされているほどであった。
そして、駒若丸は公暁の愛人でもある稚児であったとされているのだ。
このときの乱闘騒ぎを契機として駒若丸は大倉御所への出入りを禁止されたが、千日講を続けている公暁に会うことのできる数少ない人物のうちの一人であることに違いはなく、そして、駒若丸だけは鶴岡八幡宮別当の公暁と、実父である三浦義村との間を自由に行き来できる人物であり続けている。
先に記した公暁の容貌について記録に残ったのも、駒若丸が語ったからである。
ではなぜ、このタイミングで公暁の動静が出たのか?
この頃、一つの噂が広まっていたからである。
源実朝がさらに出世するという噂である。
この噂は、建保六(一二一八)年一一月一一日に左大臣九条良輔こと藤原良輔が三四歳という若さで命を落としたことに始まる。
九条兼実以降、藤原摂関家のうちの九条家は、九条兼実の長子の九条良通が文治四(一一八八)年に二二歳という若さで亡くなった後、次子の九条良経が摂政太政大臣にまで上り詰めるも元久三(一二〇六)年に三八歳で亡くなり、九条良経の死後は九条良経の子の九条道家が若き俊英として朝廷内でその名を轟かせるようになっていた。ただし、いかに実父が摂政太政大臣であった人物であるとは言え、父を亡くしたときの九条道家は権中納言。藤原摂関家の人物でなければかなりの出世であるが、藤原摂関家の人物である以上、権中納言では役職が低すぎて話にならない。それに、父を亡くしたときの九条道家はまだ一四歳だ。中でいかに争っていても外に対しては一枚岩になる藤原氏の特性はとっくに過去のものとなっており、同じ藤原を姓としていても、近衛家と九条家とは全くの別の氏族と言っていいレベルにまで分断されている。九条家としては、いかに九条道家が若き俊英として名を馳せていようと、一四歳の権中納言を九条家のトップとして掲げ、九条家として朝廷内に権勢を掴み取るなどできようがない。
そのため、元久三(一二〇六)年以降の朝廷内における九条家の代表格となっていたのが、九条道家の叔父の九条良輔である。九条良輔は間違いなく九条兼実の息子なのだが、正妻の子ではなく庶子であった。ただし、身元不詳の女性から産まれたわけではなく、九条良輔の母は高階盛章の娘である。八条院暲子内親王に仕えていた女性から生まれたこということもあり、幼くして八条院暲子内親王の猶子となり、九条家の一員でありながら八条院暲子内親王の朝廷内における代理人ともいうべき存在になっていた。なお、愚管抄の中で慈円は甥でもある九条良輔のことを、日本国の古今に比べる者のないほどの学者であるだけでなく、左大臣として朝廷の首席にあり、国の重宝であったとまで評している。ただし、九条良輔が九条兼実の子であることと、九条家の一員であることまでは認めていても、九条兼実の後継者の一人としては見做しておらず、八条院暲子内親王とのつながりのほうを強調している。慈円のこの姿勢を重要視する研究者の中には、藤原良輔のことを九条良輔ではなく八条良輔と記すべきとする人もいる。
本作は人口に膾炙して藤原良輔のことを九条良輔と書き記すが、左大臣九条良輔が建保六(一二一八)年一一月に三四歳という若さで命を落としたのは、再び流行しだした天然痘によるものであった。細菌やウィルスという概念が存在しないこの時代でも、天然痘が空気感染する病気である一方、感染によって一生身体に残り続ける痕が残ったにしても、命を落とすことさえなければ身体に抗体ができあがることは知られており、天然痘の流行が観測されたとき、天然痘に罹患した人は他者から離れ、これまでの人生で一度も天然痘に罹患したことのない人は他者との接触を避け、他者との接触は天然痘罹患経験の有無で分断することが生活の知恵としてできあがっていた。これは貴族社会だからできる贅沢でもあったのだが、天然痘に罹患した九条良輔のもとには、かつて天然痘に罹患しながら命を落とさずに済んだ人が仕えるようになったのだ。
そのために、他の天然痘患者には許されない贅沢、すなわち、臨終の言葉を伝えることが許された。自分はもう間違いなく死ぬであろう。見苦しい者でありながら、これほどの地位に就いたのであるから、憂喜集門という言葉は自分にも当てはまっている。「憂喜集門」とは、良いことも悪いことも幸運なことも不運なことも全て分かちがたく結びついているという意味であり、それが左大臣九条良輔の最期の言葉であった。
左大臣が亡くなった。それも予期せぬ形での突然死である。
これはそう遠くない未来に、一〇月初頭と同等の、場合によっては一〇月初頭を越える規模の大規模な人事改変があると予期させるに十分であった。
かつては左右の大臣のどちらかが年単位で空席であり続けることもあったが、この頃になると左右の大臣のどちらかが空席なのは例外的に長くてもせいぜい数ヶ月、通常は一ヶ月と経たずに左右の大臣とも埋まるようになっていた。空席ができたら問答無用で空席を埋めなければならないほどに、位階はありながら何の役職にも就けずにいる者が多かったのだ。
建保六(一二一八)年一一月一一日に左大臣九条良輔が亡くなってから一ヶ月も経たない一二月二日、噂に上がっていた大規模な人事の入れ替えが公表された。
九条良輔の死によって空席となった左大臣には、二六歳の右大臣九条道家が昇格。後任の右大臣には二七歳の内大臣源実朝が昇格。新たな内大臣として摂政近衛家実の息子でこの時点で一五歳である権大納言近衛家通が父の権勢を背景に二人の大納言、四人の権大納言を追い抜いて抜擢され、ここに、三人の大臣の平均年齢が二三歳という、異例中の異例の若さの三人大臣体制が成立した。ちなみに、摂政近衛家実と太政大臣三条公房はともに四〇歳と、平均年齢二三歳の三人の大臣に比べれば歳上であるものの、こちらもやはり、これまでの摂政関白や太政大臣に比べれば若い二人である。
源実朝が右大臣に昇格したという知らせが吾妻鏡で確認できるのは一二月二〇日のことである。ただし、この日に右大臣昇格の連絡が鎌倉に届いたというわけではない。いかに冬季ということで道路網に支障が出ていようと京都から鎌倉まで一八日間も時間を要するわけはない。吾妻鏡に記録に残ってはいないものの、これより前、それもかなり早い段階で京都から鎌倉まで知らせが届いていたはずである。
何しろ、一二月二〇日のこととして吾妻鏡の記録に残っているのは、源実朝が右大臣としての政務をこの日に執り行ったことなのである。厳密に言うと右大臣としての初の政務であり、初政務を祝しての儀式的側面について記した記事であるので、一二月二〇日には右大臣になったという知らせがとっくに届いており、その上で、鎌倉に留まったまま右大臣としての政務をする方法を模索し、一二月二〇日にようやく、鎌倉幕府の御家人達、また、鎌倉にいる文人官僚達を招いて右大臣としての政務開始の儀式を執り行えるようになったというところであろう。
また、右大臣としての政務開始と並行して、左近衛大将就任時と同等の規模で鶴岡八幡宮参詣の準備が始まった。鎌倉に住む人達にとっては一生に一度目にできるかどうかの一大イベントを立て続けに二度も目にできる滅多にない機会となるし、滅多にない機会であるというのは源実朝と同行して鶴岡八幡宮に参詣する御家人や文人官僚達も同じである。違うのは、左近衛大将就任を祝福する拝賀式が六月末であったのに対し、今回は年明けの一月に開催することぐらいである。
一生に一度あるかないかの式典を人生で二度も体験できる。このことは、建保六(一二一八)年一二月の鎌倉に住む全ての人にとって特別な感情を抱かせることとなるはずであった。
だが、その特別な感情は別の特別な感情で上書きされることとなる。
一生に一度あるかないかどころか、日本の歴史を激変させる出来事の舞台となるのだ。
年が明けた建保七(一二一九)年一月は不吉な出来事から始まった。
まず、一月七日の夜に御所近辺の大江広元の屋敷の近くで火災が発生し、およそ四〇軒の家屋が焼失した。
さらに、一月一五日の真夜中には、御所のある大倉の辺りで火災が発生し、足立遠元の娘で北条時房の妻である女性の住まいをはじめとする数十件の家屋が火災被害に遭った。
その後、頻発した火災の火を消すように鎌倉は大雪に包まれた。源実朝の右大臣就任報告の拝賀式のために、京都から続々と貴族や使者が到着していたが、彼らは一様に雪に苦しめられながらの鎌倉到着であった。
その中には源実朝の正妻の兄である権大納言坊門忠信こと藤原忠信もいた。坊門忠信にとっては久しぶりの妹との面会であり、また、義弟である源実朝との面会でもある。源実朝は右大臣、坊門忠信は権大納言、この二人は本来であれば同列に並ぶことは許されない関係であるが、公的な場所ではともかく、私的な場所ではそのような堅苦しさはない。雪に覆われた御所では義兄弟の和気藹々とした雰囲気に包まれ、右大臣就任という特別に彩りを与えていた。
鎌倉は雪の日と晴れの日を繰り返したため降り積もったまま放置された雪は徐々に固く積み重なっていた。拝賀式を開催する鶴岡八幡宮は石造りの階段を上って参詣する神社であるため、階段で滑って転ぼうものなら命に関わる。また、境内の至る所に固くなった雪が残っており危険である。雪国出身者であればどうということのない雪であろうと、雪に慣れていない人達にとっては雪が降っているときだけでなく雪の降り終えた後も危険だ。そのため、拝賀式に先立って右馬権頭源頼茂が鶴岡八幡宮に籠もり、できうる限りの除雪を担当した。
なお、吾妻鏡の建保七(一二一九)年一月二五日の記録によると、この頃に不吉な出来事が連発したという。
源頼茂が夢の中で鳩を杖で叩くと鳩が死んでしまい、目覚めたら本当に鳩が死んでしまっていた。
源実朝の出発前に大江広元が涙を流し、右大臣としての正装である衣冠束帯の下に腹巻、腹巻と言っても昭和時代に見られた腹部を温める衣服のことではなく簡易な鎧を着けて行くべきと進言した。
宮内公氏が源実朝の髪を梳いている途中で源実朝が自ら髪の毛を一本抜いて、「記念だ」と言いつつ宮内公氏に渡した。
庭の梅を見た源実朝が縁起のよくない和歌を詠んだ。
こういった凶兆は、カエサルにも、リンカーンにも、伊藤博文にもあったことで、いずれも後付けであることは共通している。探せばおそらく安倍晋三にもあったと言い張るのがいるだろう。
そのような後付けの凶兆など何の関係もなく、運命の一月二七日を迎える。
建保七(一二一九)年一月二七日、雪が降る中で源実朝の拝賀式が始まった。大雪となったために、およそ二尺、メートル法にすると六〇センチもの雪が積もった中での拝賀式である。源頼茂が前もって雪を取り除いていてくれていたために歩きづらさは最悪を脱することができていたが、それでも万全というわけにはいかなかった。
酉刻というから現在の時制に直すと午後六時頃、左近衛大将就任時の行列を再現したかのような壮麗な行列ができあがった。午後六時といっても旧暦一月であり、現在でいうとだいたい二月中旬である。冬至を過ぎてだんだん夜が短くなってきているとは言え、もう日が沈んでいる頃だ。
大倉御所から鶴岡八幡宮までの間はおよそ一キロメートル。この間をおよそ一〇〇〇騎もの武士が配備され、それぞれが松明を手にしているため、夜でありながらこの時代にしては例外的に明るくなっている。左近衛大将の拝賀式のときとは違う厳粛な雰囲気は鎌倉市中の庶民を行列見物にかり出した。
このときの行列を吾妻鏡は詳細に書き記す。
先頭に馬の世話人である居飼が四名。
次に源実朝の近辺に仕え雑事をこなす舎人が四名。
その後ろに近衛府の武官である菅野景盛と検非違使である狛盛光が続き、そのあとで近衛府の三番手である武官の中原成能が続く。
ここまでが武人の行列で、このあとは右大臣源実朝に仕える一〇名の文人官僚が二人一組で続く。
一条能氏と藤原頼経。
藤原実雅と源頼茂。
一条信能と一条頼氏。一条信能は特別に四人の子を随臣として同行させている。
一条能継と源師憲。
伊賀隆経と源仲章。
その後ろに笠を持つ前駈が続いたのち、鎌倉幕府の御家人達から選抜された二〇名の前駈が二人一組で続く。
藤原頼隆と平時盛。
中原季時と内藤朝親。
藤原経定と蔵人大夫以邦。
二階堂行光と蔵人大夫邦忠。
長井時広と前伯耆守親時。
足利義氏と北条時房。
佐々木重綱と左馬権助範俊。
右馬権助宗保と蔵人大夫有俊。
源頼時と大江親広。
大内惟義と北条義時。ただし、吾妻鏡によると北条義時は途中で腹痛を訴え行列から離脱している。また、ここでも京都守護の中原季時が姿を見せており、拝賀式に合わせて京都から鎌倉に到着していたことが読み取れる。
この二〇名の前駈の後に朝廷から派遣された泰兼峰と毛野敦秀が続いて、ようやくここで牛車に乗った源実朝が登場する。源実朝の乗る牛車には、四名の牛車への付き添いと、一名の牛扱いの牧童が付き沿っている。
この後ろに武装した一〇名の御家人達が二人一組で続いている。
小笠原長清と武田信光。
伊豆頼定と隠岐基行。
大須賀道信と北条泰時。
安達景盛と三浦朝村。
河越重時と荻野景員。
この一〇名は各が一名の兜持ちと一名の弓弦の張替持ちが近侍している。ただし、安達景盛は弓弦の張替持ちを同行させていない。
この後に源実朝個人に仕える雑色が二〇名続いた後、検非違使である加藤景廉が続く。加藤景廉は検非違使として認められている最大限の装備をしており、本人だけでなく、平塵蒔太刀の舎人が一名、郎等が四名、調度懸と小舎人童が各一名ずつ、検非違使に仕える者で牢獄の管理や犯人逮捕の実務を司る看督長が二名、検非違使に仕える下級役人である火長が二名、検非違使に仕える雑色が六名、そして、かつては検非違使に逮捕され有罪となった者のうち、刑期を終えて今度は検非違使に仕えるようになった放免が五名続く。
次に、左近衛大将でもある源実朝の弓と矢を佐々木義清が肩掛けして運ぶ。
そのあとで、身分の低い役人が六名、二人一組で並ぶ。
秦公氏と秦兼村。
播磨貞文と中臣近任。
下毛野敦光と下毛野敦氏。
いずれも身分が低いと言っても大和朝廷の頃から朝廷に仕えてきた旧家であり、時代が時代なら名門であった面々である。
そのあとで公卿が五名続く。このあたりは京都で右大臣が執り行う拝賀式と同じ光景であり、一応は二人一組ではあるのだが議政官の面々でもあるため、それぞれがかなりの数の随臣を従え牛車に乗っている。
権大納言坊門忠信と権中納言兼左衛門督西園寺実氏。
参議兼左近衛中将藤原国道と八條三位平光盛。
そして五人目に藤原宗長。
このあとで、残る鎌倉幕府の御家人達が二人一組で続いていく。
加藤光員と二階堂行村。
阿曽沼広綱と葛西清重。
関政綱と布施康定。
小野寺秀通と伊賀光季。
天野政景と武藤頼茂。
伊東祐時と足立元春。
市河祐光と宇佐美祐長。
後藤基綱と宗孝親。
中条家長と佐貫広綱。
伊達為家と大江範親。
紀実平と源季氏。
塩谷朝業と宮内公氏。
若狭忠季と綱島俊久。
東重胤と土屋宗長。
境常秀と狩野光廣。
これで行列が終わる。
参詣の儀式が終わり、すっかり日も暮れて鶴岡八幡宮の階段を降りた源実朝のもとを一人の僧兵が近づいてきたと同時に、源実朝の近くにいた者は信じられない言葉を聞いた。
僧兵の発する「ヲヤノ敵ハカクウツゾ」という言葉だ。
その僧兵は刀を振り下ろし、源実朝は一瞬にして首を切り落とされた。さらにその僧兵は北条義時にも攻撃を加えようとし、源実朝のそばにいた源仲章と源師憲にも襲いかかって命を奪った。
誰もが突然のことで動転した。しかも、右大臣としての参詣であるために源実朝の周囲にいるのは武芸の稽古とは無縁の貴族ばかりであった。そのため、本来であればこのような事態にただちに駆け寄れって対処できる御家人達も、目の前で慌てふためく貴族達が邪魔をして立ちふさがってしまっているという構図となってしまい、犯行に手を染めた僧兵は源実朝の切り落とした首を持ったままの逃走に成功してしまった。
それにしてもなぜ、源実朝の周囲は武芸の稽古とは無縁の貴族ばかりになってしまったのか?
吾妻鏡では途中で北条義時一人だけが腹痛を訴え行列から離脱したとしているが、これは吾妻鏡を編纂したときに挿入された逸話であろうというのが研究者の指摘である。詳細は後述するが、愚管抄をはじめとする他の記録によると御家人全体が行列から離脱していたのだ。源実朝より中門に留まるよう指示を受けたため、御家人の大部分が行列から外されたというのが吾妻鏡以外での記載である。
この時点ではまだ僧兵の正体が判明しておらず、鶴岡八幡宮はこの時代の他の寺院や神社と同様に内部に僧兵を構えている宗教施設であるため、殺害の実行犯は鶴岡八幡宮の僧兵の一人と見られていた。そのため、混乱の中からようやく犯人追撃のために御家人達が動けるようになったときに御家人達が向かったのは、鶴岡八幡宮内の僧兵の宿舎であった。
僧兵達は鎌倉武士達の突然の攻撃に驚きを隠せず、抵抗したものの鎌倉武士の前には全てが無駄な抵抗であると悟り、僧兵達は降伏を選んだ。ただ、ここに殺害実行犯の姿はなく、鎌倉幕府の御家人達は徒労に終わったことに落胆した。
実行犯の正体が判明したのはこのあとである。
犯人は鶴岡八幡宮別当の公暁だというのだ。鶴岡八幡宮のトップがやらかした不祥事というだけで済む話ではなく、源実朝の甥であり、前将軍源頼家の実子である人物が源実朝を殺害した、しかも、源実朝の首を切り落とし、首を抱えて逃走したというのだから、これはただ事ではない。
しかも公暁は、自分が大胆なことをしたという自覚があったものの悪事に手を染めたとは微塵も思っておらず、何なら自分は正しいことをしたという確信もあったため、源実朝の首を抱えたまま備中阿闍梨の雪ノ下の北谷の屋敷へ向かい、源実朝の首を抱えたままそこで夕食にありついたという。その上、公暁の乳母の子である弥源大兵衛尉を三浦義村の所へと向かわせた。将軍が死んだので次の将軍を自分にするようにという連絡を伝えるためである。なお、三浦義村の息子の駒若丸が公暁の門弟になっていることのツテで公暁は三浦義村に連絡を入れたという話もあるが、この時点での駒若丸の動静は記録に残っておらず、どうやらこの時点の駒若丸は公暁から少し距離を置いていたようである。
たしかに行列を構成する面々をどれだけ探しても、鎌倉幕府の有力人物である三浦義村の名は見つからない。この点を大々的に注目する人もいるものの、この件についても研究者は冷淡である。前年の左近衛大将就任の拝賀式において失態を演じて行列を遅らせてしまったこともあり、このときは前回の責任を取る意味もあって三浦義村は参加せず、息子の三浦朝村を参加させていたのである。このような形での不在は珍しい話ではない。
理由はどうあれ拝賀式から外れた三浦義村は自由に動ける身であるが、自由に動ける身であることと公暁に同調するとは一致しない。
三浦義村はただちに公暁から連絡が来たことを北条義時に伝えると同時に、公暁がどこにいるのかの情報も北条義時のもとへと届け、北条義時は即座に集められるだけの者を集めて対策を協議し、公暁討伐を決定した。
一方、公暁は三浦義村のもとから援軍が来ると思っていたのだがなかなか姿を見せず、しびれを切らして三浦義村の邸宅に向かうこととし、その途中で三浦義村の派遣した軍勢と出会った。
公暁はこの軍勢を目の当たりにしたとき、三浦義村が自分を将軍に就けるのをサポートするために派遣した軍勢と認識したようであるが、三浦義村の命令で出動した軍勢を率いていた長尾定景は、躊躇することなく公暁に襲いかかった。公暁は以前から武勇に優れた人物であるという評判であったが、長尾定景率いる軍勢の目には多勢に無勢であり、公暁は抵抗むなしく、つい先ほどの源実朝と同じく首を刎ねられた。
長尾定景は公暁の首をいったん三浦義村の邸宅に持ち帰り、公暁の首を受け取った三浦義村は公暁の首を北条義時の屋敷へと運び込んだ。
ただ、ここで問題があった。北条義時の屋敷の誰一人として公暁の顔を知らないのだ。公暁を自称したことと、鶴岡八幡宮の多くの者が公暁だと扱っていることから公暁の首だとしたが、確実に公暁の首であるという証拠はどこにもない。
この段階では、おそらくこの人物は公暁の首であろうという未確定情報である。特に北条泰時はより正確な判断を下すべきと主張したことで、本人確認は翌朝まで延期となった。
並行して、夜のうちに公暁の仲間を集めて監視下に置くよう北条政子が命令を下した。
源実朝暗殺事件の翌日の建保七(一二一九)年一月二八日の早朝、鎌倉幕府は加藤景廉を鎌倉から京都への使節として出発させた。源実朝が亡くなったことを朝廷へ報告するためであり、通常ならば七日間であるところ、このときは特別に五日間で京都に行くように厳命しての出発である。
同日の辰刻、現在の午前八時頃、源実朝の正妻である御台所が髪を落として出家をし、大江親広、長井時広、中原季時、安達景盛、二階堂行村、加藤景廉をはじめとする一〇〇名以上の御家人も源実朝が殺害されたことに心を痛めて出家を選んだ。その中の一人である中原季時は出家にあわせて京都守護を辞職した。
また、源実朝は首を切り落とされただけでなく首を公暁に持ち運ばれてしまったために、源実朝の五体は揃っていない。この時代の仏教の様式に従えば五体が揃っていなければ埋葬が許されないため、首から上のない源実朝の遺体は埋葬することができない。そのため、拝賀式の前に源実朝が宮内公氏に与えた髪の毛を頭の代わりとして入棺することとなった。
なお、公暁が持ち去った源実朝の首がどうなったか二一世紀の現在でも判明していない。
伝承によると、鎌倉市から離れた秦野市にある御首塚に源実朝の首が埋葬されているという。三浦義村の家臣である武常晴が源実朝の首の埋葬を任され、御首塚の近くに建立した金剛寺に源実朝の首を埋葬したという。御首塚は大正八(一九一九)年に調査が始まるまで荒れ果てていたが、調査によってかなり大きな邸宅がこのあたりに存在していたこと、その邸宅の北部に御首塚があることが判明した。これは源頼朝の墓所が大倉幕府の北に存在することを踏まえた対処であるともされる。
ただ、どう考えても不可思議である。
将軍の首が切り落とされただけでなく、伝承が正しければ三浦義村は少なくとも源実朝の首のありかについて知っていたこととなる。三浦義村は公暁が来たこと、そして、公暁がどこにいるのかについては北条義時に報告したが、どうして源実朝の首のことを報告しなかったのか。源実朝の埋葬は首のないまま進んだのである。あとで首が見つかったというなら埋葬しなおせばいいのだ。それなのに、鎌倉幕府として源実朝の遺体を五体満足に戻して埋葬したという記録がない。源実朝を殺害した人物を捜索した記録はあっても、源実朝の首を探したという記録がないのだ。
そこで源実朝暗殺事件について調べてみると、そもそも源実朝暗殺計画そのものが不可思議の連発なのである。
どうして北条義時は拝賀式を途中で離脱したのか。
どうして三浦義村は最初から拝賀式の行列に加わらなかったのか。
そして、源実朝の首はどうして全く探されなかったのか。
あまりにも怪しい要素が多いために、多くの人がこの件について研究を繰りひろげている。
何度も繰り返すが、吾妻鏡は鎌倉幕府の正史であるとは言え、後の時代に、それも北条家によって都合良く編纂された歴史書である。
一方、この時代を生きた人が書き記した歴史書も存在する。神武天皇から書き始めているために一つ一つの出来事に対する記載はどうしても少なくなる上、筆者自身は京都とその周辺で生きてきたため、この時代の鎌倉のリアルな様相を知ることはできなかったが、それでも源実朝暗殺事件そのものを京都で体験した人の記録になっている歴史書が存在する。
慈円の残した愚管抄だ。
愚管抄によると、拝賀式のあとで鶴岡八幡宮の階段を降りている途中で僧兵の出で立ちをした何者かが源実朝の行列に襲いかかり、倒れた源実朝の首を切り落としたのを契機として、何名かの僧兵が行列に対して一斉に襲いかかってきた。襲撃犯らは松明を持って行列の先頭に立って源実朝を先導していた源仲章を北条義時だと考えて殺害し、ただちに去って行ったというのが愚管抄に記された事件の情景である。なお、愚管抄には因幡前司師憲こと源師憲殺害についての記録はない。源師憲の殺害について記しているのは、吾妻鏡でも愚管抄でもなく六代勝事記である。
話を愚管抄に戻すと、慈円は愚管抄で吾妻鏡の記載を全否定することを書いている。
北条義時は腹痛を訴えて行列を途中で去ったのではなく、源実朝の命令で行列から外されていたというのだ。それも、行列から外されていたのは北条義時だけではなく、多くの武士が源実朝の周囲から外されており、源実朝の周囲にいたのは高位の貴族達だけであったというのである。
拝賀式のことだけを考えると、これは正しい。北条義時をはじめとして、鎌倉幕府の御家人達の中には五位以上の位階を得て貴族の一員と列せられている者もいる。しかし、彼らの身分は公達ではなく諸大夫である。右大臣である源実朝の周囲を固めるのは公達でなければならないのだ。慈円によると、源実朝が自分の周囲から武士達を遠ざけたことが理由でこのときの犯罪を食い止めることができなかったとしているが、それは公達だけを周囲に配備していた結果なのである。
そうだとしても源実朝の周囲を警護する者はいたのではないかと考えるかも知れないが、場所と犯人を考えていただきたい。事件現場は鶴岡八幡宮であり、犯行に及んだのは鶴岡八幡宮別当の公暁だ。不審者が鶴岡八幡宮に近づかないよう、また、鶴岡八幡宮の中においても源実朝のもとに不審者が近づかないように警護はしている。それに、この時代の寺院や神社というものは僧兵を抱えているものであり、このようなときに僧兵が警護の隊列に加わるのはおかしな話ではない。また、警護の関連で僧兵が持ち場を離れることもおかしな話ではない。被警護者の安全を守ることが最優先であり、持ち場を守ることよりも安全を高めることのほうが優先される。
つまり、周囲にいるのは公達だけで、北条義時をはじめとする御家人達は、いかに貴族の一員であろうと、諸大夫であるために源実朝の付近に近づけないものの、源実朝の行列の警護そのものは成立していたのである。計算外であったのは、警護の一翼を担っている僧兵の一人に扮した公暁がいたこと、そして、警護の一翼であるはずの者が源実朝に襲撃を加えたことである。
慈円によると事件発生の瞬間から少しの間、鎌倉幕府の御家人達の多くは事件を知らなかったという。事件の一部始終を目撃したのは源実朝の周囲にいた公達の貴族達であり、事件についての目撃情報、そして、犯行時に公暁の口にしたセリフといった内容は、現場にいた貴族達の証言が一致している。
そのあと、慈円は気になることを書いている。
源実朝の首は雪の中から探し出され、公暁が住まいを構えていた鶴岡八幡宮内の若宮房という住まいは北条義時の軍勢に攻め込まれたというのだ。これにより、公暁とともに暗殺計画に加担していた者の全員が討ち取られたというのである。
ただし、源実朝の首を切り落とした公暁が源実朝の首を持って三浦義村のもとに向かったこと、公暁を討ち取ったのは三浦義村指揮下の者であったことは吾妻鏡の記述と一致している。
源実朝暗殺事件についての同時代史料でもある愚管抄は、慈円自身が体験したことではないが、鎌倉でこの事件に直面し、また、鎌倉でこの事件の詳細を耳にした貴族達からの聞き取りの結果である。情報の不鮮明さは否定しないが、この時代の京都で手に入れることのできたかなり高精度の情報であったろう。
それでも、慈円にもどうしても理解できないことがあった。
誰が一体何のためにこの大事件を起こしたのか?
同時代の人でもわからないこの事件について、現在の研究者も様々な説を提唱しているものの決定的な説とは至っていないのが実情である。
ここでは、こうした様々な説を検証してみる。
まずは、北条義時黒幕説。
愚管抄にその記載は無いが、吾妻鏡によると北条義時は拝賀式の直前で体調不良を訴えて離脱している。つまり、直前に危機を脱している。また、このあとの鎌倉幕府の展開を考えたときに、ここで源実朝がいなくなって利益を得るのは誰であるかを考えると、北条義時という答えが出てくる。事件を前もって知っているからこそ行列から離脱できて危機を脱したことに加え、公暁を殺害犯とすることで源氏将軍の血を事実上絶やすことに成功したのである。このあとの北条家が鎌倉幕府でどのような地位を確立したかを考えると、ここで北条義時が主導して源実朝を排除するだけでなく、源実朝の次に将軍となり得る源頼朝の子孫も排除することは、鎌倉幕府における北条家の勢力をよりいっそう強化するものとなるのだ。
ただし、この説には難点がある。既に述べたように、この段階では源実朝の次の将軍として皇族の誰かに鎌倉に下向していただき将軍に就いてもらうという話が進んでおり、後鳥羽上皇も次期将軍の人選にあたっていたという。もっとも、皇族将軍が第四代将軍となるというのは未来の話のことであり、ただちに起こることを想定したものでもない。また、源実朝の退位も非現実的ではなく、源実朝退位後の将軍を想定しての者であっても、それもまた未来を想定してのことである。
その上で記すと、源実朝が将軍位を退いた後の将軍が皇族の誰かとなった場合、新たな将軍は鎌倉幕府の代表というより後鳥羽上皇の傀儡となる。これは、既に右大臣となっている源実朝が鎌倉を離れて京都に向かった場合でも、源実朝が殺害された場合でも変わらない。
承久の乱を知っているなら北条家が後鳥羽上皇と真正面から向かい合うことも想像できるが、建保七(一二一九)年一月時点の北条家は、とてもではないが後鳥羽上皇と向かい合うなど想定できない立場である。北条家のことを考えれば、源実朝が居続けてもらうことで後鳥羽院と関係性を持ち続け、その結果、鎌倉幕府はその権勢を維持し続けることができ、鎌倉幕府の権勢を維持し続けられるからこそ北条家も鎌倉幕府内の勢力を伸ばすことが可能となるのだ。ここで源実朝が亡くなることはメリットよりもデメリットのほうが大きい。
それに、北条義時が黒幕であるとすると大問題がある。北条義時がどうやって公暁と連絡を取ったのかという点だ。北条政子は公暁から見て実の祖母であり、北条義時は大叔父である。家族としての接し方であるならば連絡は取れよう。また、北条家の権勢を考えれば使者の一人や二人を公暁のもとに送り出すことも可能だ。ところが、北条義時が何らかの形で公暁と連絡を取っていたことを示す記録が無い。単に吾妻鏡にそうした記録を採用しなかっただけとも言えるが、後述するように、千日講に入っている公暁と連絡を取るのは容易ではなかった。連絡が取れること自体が特記事項となるのが暗殺実行前の公暁という人であったのである。
また、そもそも北条義時一人が行列から離脱したと記載しているのは吾妻鏡だけであり、愚管抄をはじめとする他の記録では北条義時を含むほとんどの武士が、源実朝の命令によって行列からの離脱を命じられている。北条義時黒幕説は、吾妻鏡の記載だけに基づけばどうにか成立する話であり、犯行によって誰が利益を得たのかを考えれば納得いく学説でもあるのだが、他の記録にも頼ると不完全部分の大きい説でもあるのだ。
次に、三浦義村黒幕説。
これは、公暁が源実朝を暗殺した後に北条義時を殺害しようとしたことから注目されている説である。
三浦義村の行動はたしかに怪しい。そもそも拝賀式の行列に姿を見せてすらおらず、そのときは自宅にいたのだ。
公暁が源実朝を殺害し、実際には源仲章であったが公暁の頭の中では北条義時も殺害したということになっている。ここでもし、源仲章ではなく本当に北条義時が殺害されていたならば、ここで一気に三浦一族の軍勢を蜂起させて北条義時亡き後の北条家を討伐し、公暁を第四代将軍として推戴することで鎌倉幕府内部の権勢を掴み取ることも可能であったというのが、三浦義村黒幕説の骨子である。
源実朝を殺害したあとの公暁が追っ手を撒きながら三浦義村の邸宅へと向かっていったことを考えると、三浦義村の計画通りだったのではないかとさえ感じるのはおかしくない。
また、重要なこととして、公暁の門弟である駒王丸が三浦義村の息子であったこと、そして、千日講の最中においても公暁と接することのできた数少ない人物のうちの一人が駒王丸であったことも忘れてはならない。公暁を巻き込んでの綿密な計画を立てるのは、北条義時にはできなくても三浦義村ならば可能だったのだ。
その上で、公暁が北条義時の殺害に失敗したことで三浦義村は公暁を見捨てたとしたらどうか。また、源実朝殺害の実行犯として公暁を処分し、何食わぬ顔でシラを切り通したらどうか。
以上を踏まえると三浦義村黒幕説も理解できなくはない。
ただ、これらの視点もまた、黒幕として断定するには根拠が乏しいとするしかないのだ。
実子の駒王丸が公暁の門弟の一人であることから、三浦義村が計画を事前に知っていた可能性はある。計画を知っていながら止めなかったのかと訝しげられそうであるが、冷静に判断していただきたい。鶴岡八幡宮のトップであり、また、源実朝の甥である僧侶が、叔父の右大臣昇格に伴う拝賀式で叔父を殺害するつもりだという話をして、いったい誰がその話を信用できようか。仮に計画を事前に知っていたとしても、実際に事件が起こったからこそ三浦義村の知った源実朝暗殺計画は事実であると判断できるのであり、事件が起こらなかったら三浦義村の理解不能な虚言として捉えられて終わるのである。
三浦義村が拝賀式の行列に参加しなかったことは事実である。ただしそれは、事件を事前に知っているために危険を避けて行列に参加しなかったのではなく、この人は前年に失態を演じているために自分の息子を代理として参加させたのである。仮に事件を知っているために自宅に留まっていたとしても、何も起こらなければそれで問題なし、何か起こったならばすぐに動き出せるように待機していた、そう考えればまだ納得はできるものの、それより先に進んで、事件の黒幕であるから参加しなかったというのは考えづらいのである。
三番目の説であるが、この説は信憑性こそ乏しいものの、これまでの源実朝の行動が完全に説明できてしまう新たな説である。
それが、最長で足かけ一二年に亘る長期計画説。
着目すべきは、源実朝の首が公暁によって持ち去られたまま源実朝が埋葬されたことである。首が見つかれば改めて埋葬すればいいのに再埋葬は執り行われていない。三浦義村が一時的に源実朝の首を取り戻したらしいという伝承はあり、慈円は愚管抄で鎌倉幕府が源実朝の首を雪の中から見つけ出したと記してもいる。しかし、誰かが源実朝の首を持参したという話も、源実朝の五体が揃ったので改めて埋葬しなおしたという話もない。三浦義村は公暁の首を持参しているのだから、源実朝の首を持参できなかったことの理由にはならない。
ここで源実朝の人生を振り返ると、大きなポイントが二点ある。
一つは承元元(一二〇七)年に天然痘に罹患して生死の境をさまよった過去があること。
もう一つは、一度として京都に足を運ぶことが無いまま生涯を終えたことである。
そしてこのタイミングで殺害され、首を持ち去られてしまった。
首の無い遺体となってしまった源実朝は、首が無いまま埋葬された。源実朝の首を三浦義村の手で取り戻せていたという伝承、雪の中から源実朝の首を探し出したという愚管抄の記述、それでいて、現在に至るまで源実朝の首を埋葬されている塚が鎌倉から離れた地に存在していること。
これらを考えると、そもそも殺害されたのは本当に源実朝だったのかという話に行き着く。この事件よりずっと前に源実朝は天然痘で亡くなっており、それからの源実朝は別人だったのではないかという説も出てくる。京都に行かなかったのも京都に行かないのではなく行くことが許されなかったからだとする説も出てくる。本当の源実朝が亡くなった後は源実朝の影武者が最長で足かけ一二年に亘って将軍を務めており、その人物をこのタイミングで殺害するだけでなく、首を切り落として首の無い遺体のまま埋葬することで、世間一般では源実朝が埋葬されたということにして、実際には正体不明の人物を埋葬したというのだ。
源実朝とされた人物が出世することは問題ないが、鎌倉幕府の監視を離れることは許されなかった。そしてこのタイミングで右大臣となった。鎌倉に留まったまま右大臣に就いたことは異例では済まない異常事態であり、遅かれ早かれ源実朝とされた人物は京都に向かわねばならない。だがそれは、鎌倉幕府の目を離れることを意味する。鎌倉幕府の目から離れた瞬間に自らが影武者であることを公表するかもしれないし、天然痘に罹患してその痕跡を残しているはずの源実朝の顔に天然痘の痕跡がないことが見破られるかも知れない。仮にその影武者の顔に天然痘の痕跡がなかったならば、の話であるが。
今までは源実朝の不在を源実朝の影武者でどうにかやりくりしていたが、もはやこれ以上はどうにもならなくなって、御家人達が共謀して源実朝とされた人物を殺害しただけでなく、ただちに埋葬した。ただちに埋葬したのは、そして、首を見つけ出しても再埋葬とならなかったのは、本来なら天然痘の痕跡が残っているはずの源実朝の遺体に天然痘の痕跡が無いことを悟らせないためではないかというのだ。
ただ、この説はあまりにも突飛に過ぎるし、研究者も非現実的としている。
研究者の中で有力となっているのは、原点である公暁単独犯行説である。
深く考えるから黒幕を考えつくし、もっと深く考えるから源実朝影武者説が登場するのであり、そもそもの計画の杜撰さを考えると、最初から公暁が計画して犯行に及んだと考える方がまだわかるのだ。
まず、公暁がどうして衆人環視のもとで犯行に手を染めたのかという点を考えねばならない。純粋に源実朝を殺害することだけを考えるのであれば、わざわざ衆人環視というシチュエーションで手を染めるのはリスクが高い。普通に考えれば邪魔される。いかに拝賀式が多くの貴族や御家人達に囲まれた行列であろうと、拝賀式の最中に源実朝が一人になる場面は存在する。たとえば、鶴岡八幡宮の本殿の奥深くで氏神に拝礼している場面というのは源実朝が一人で拝礼している場面でもあるだけでなく、本殿に入るにはいかなる武器の携帯も禁止される、それこそ護衛の者も立ち入ることは許されないほどであるから、文字通りの丸腰だ。
一方、公卿は鶴岡八幡宮の別当であるから鶴岡八幡宮のどこにでも自由に姿を見せることができる。それは鶴岡八幡宮の本殿とて例外ではない。一人であるべき源実朝と対峙することもできるし、そのときに公暁が武器を手にしていたとしても、そもそも公暁は武器を持っているか否かをチェックする側の最高責任者なのであるからノーチェックで源実朝のもとに近寄れる。あとは計画を実行すればいい。
それなのに、公暁はより困難な場面、すなわち、多くの人々の目に触れ、多くの人々の耳に聞こえる場面での犯行を選んだのである。
これは理屈で考えるよりも、カエサルや伊藤博文、また、安倍元首相暗殺事件や岸田首相暗殺未遂事件、米国大統領選挙におけるトランプ候補暗殺未遂事件を思い浮かべてもらいたい。実際に発言するチャンスがあるか否かは別にして、衆人環視のもとで犯行に手を染めることに意味があると犯行者は考えるのだ。犯行に手を染めるだけでなく、自らの犯行の正統性を、あるいは自らの主張を訴える手段を広く訴えるチャンスと考えて犯行に手を染めるのである。
愚管抄も、吾妻鏡も、公暁が源実朝を父の敵と、あるいは親の敵と叫んで犯行に手を染めていることを記している。また、そのときの公暁の言葉は多くの参列者の耳に届いている。叔父を殺害する、右大臣を殺害する、将軍を殺害するという許されざる犯行であるが、ここに親の敵討ちという側面が加わると、この時代の概念では一概に悪とは言えなくなる。曾我兄弟の敵討ちなどはその例だ。曾我兄弟が最後に迎えた運命は死であったが、公暁はここで、自分に世論の支持を身につけさせることで無罪放免を獲得するだけでなく、自分が第四代将軍として鎌倉幕府のトップに立てると考えたのかも知れない。
さらに着目すべきは、被害者が源実朝ただ一人というわけではないという点である。実際には成功しなかったが、源実朝と一緒に北条義時の殺害にも成功すれば、父だけではなく兄の敵討ちにも成功したという風潮を作り出せる。ここで源実朝の代わりに自分が就くと同時に、北条義時の地位に三浦義村を就けるというアイデアを三浦義村に持ちかければ三浦一族の支援を得られるとでも考えたのであろう、公暁のことのきの行動は、源実朝ただ一人ではなく源実朝のすぐ近くにいる人物にも向けられている。源実朝と北条義時を同時に殺害するチャンスを狙うのであれば、公暁が犯行に手を染めたタイミングは理解可能なタイミングである。
吾妻鏡は北条義時が急病で拝賀式から途中で離脱したとしている。それが北条義時黒幕説の一つの根拠になってもいるのであるが、実は、北条義時が拝賀式に参列していたとしても北条義時は難を逃れていた可能性が高い。どういうことかというと、犯行時刻と当日の天候を考えたとき、公暁らは北条義時に襲いかかることが難しかったからである。
まず、犯行時刻は夜であるために遠くから人を判別するのは難しい。源実朝の所在は確認できても、源実朝の周囲を固める貴族や御家人達の中から北条義時を見つけ出すのは難しい。しかも雪の降りしきる中であり、記録によればおよそ二尺、メートル法にすると六〇センチもの雪が積もっていたことから、襲撃する側は身軽な行動などできない以上、襲撃前からターゲットに狙いを定めて一直線に向かっていかなければならない。
吾妻鏡は何かにつけて行列の様子を細かく書き記しているが、そしてそれはこのときの拝賀式における行列も例外ではないが、なぜ行列を詳しく書き記しているかというと、行列に参加しているか否か、そして、行列に参加したならばどこに並んでいたかというのがそのまま御家人達の序列を示すのだ。
そして、行列の中で鎌倉幕府の御家人達にとって最上位となっているのが源実朝の直前を歩く前駈であり、その中でも最後尾の左側、源実朝から見て左前を歩くのが御家人最上位である。実際、左近衛大将就任に伴う拝賀式では北条義時が御家人最上位として前駈最後尾の左側を歩いている。その先例を踏まえれば北条義時は源実朝の左前を歩いて行くこととなるのであるが、御家人の序列の根拠となっているのは鎌倉幕府内部の序列ではなく朝廷官職と位階なのである。最後尾の北条義時は右京権大夫、北条義時とペアを組んでいる大内惟義は前駿河守、京都においては珍しくもない官職であっても鎌倉の御家人にとっては例外的な高位だ。ただし、官職としては北条義時の方が上でも位階では大内惟義のほうが上である。大内惟義は正四位下であり、北条義時は従四位下である。このような逆転が起こっているとき、優先されるのは官職のほうであり、位階が下であっても北条義時のほうが序列は上となる。
ところが、建保七(一二一九)年一月の除目で大内惟義は修理権大夫に就任した。これで官職としても大内惟義は北条義時と同格となり、既に正四位下の位階を得ている大内惟義は北条義時より格上となる。すなわち、源実朝の左前という御家人最上位は大内惟義ということとなり、北条義時は左前から右前へと序列を一つ落としたこととなる。
ここまでは周知されていることである。つまり、源実朝と北条義時を同時に狙うのであれば行列の右側から一気に攻撃を仕掛けていくこととなる。このあたりは記録や伝承と一致する。すなわち、鶴岡八幡宮の大銀杏の陰に潜んで、拝賀式の拝礼を終えたあとの源実朝に向かって右側から襲いかかった。ところが、先に述べたように前駈の二〇名、実際には北条義時を除く一九名の御家人は源実朝から中門に留まるよう命令されたため、公暁らの襲撃のタイミングに不在であった。そして、源実朝の前を歩く前駈の御家人達がいないため、前駈の前を歩いていた一〇名の殿上人の中で最後尾に位置し、かつ、右側を歩いていた源仲章が北条義時と間違われて命を落とすこととなったのである。
公暁の単独犯行説を主張する研究者が挙げる公暁の犯行動機としては、公暁自身が第四代将軍になることと、源頼家を殺害した真犯人への復讐を考えていたことの二つがあり、一方の動機のみであったのか、双方とも満たすことを目的としたのかについて説はさらに分かれる。それらを勘案してまとめると、公暁はまず、源実朝と、源実朝を支える北条義時を一度に討ち取り、三浦義村のもとに向かって三浦一族の軍勢を結集させて鎌倉幕府内部のクーデタを起こし、自分が鎌倉幕府第四代将軍になることを意図したということになる。
公暁は源実朝の後継者の一人として計算され、鶴岡八幡宮別当の地位が用意された状態で鎌倉にやってきた。しかし、公暁を源実朝の後継者とする話はだんだんとしぼんできており、後述するようにこの頃の鎌倉幕府は京都から皇族の誰かを新たな将軍に招き入れようとしていたのである。公暁の立場で考えると、これではいったい自分は何のために鎌倉まで来たのかという話になる。
公暁の頭の中では叔父の源実朝が父の源頼家を殺害したという筋書きになっており、その筋書きに従って凶行に及んだとするのは人口に膾炙されているところであるが、吾妻鏡にしろ、愚管抄にしろ、よく読むと公暁は親の敵討ちと宣言しているものの、そこでいう敵討ちが源実朝であるとは明言していない。暗殺事件において、公暁は源実朝を殺害して首を切り落とした後、源仲章らも殺害した後に逃走したことは記録に残っている。このとき、公暁は源仲章ではなく北条義時の殺害にも成功したと考えたのではなかろうか。北条義時が源頼家を殺害させたという話は元久元(一二〇四)年七月一八日に源頼家が伊豆国修善寺で何者かによって殺害された直後から北条義時が源頼家殺害の黒幕であるという噂が広く喧伝されており、公暁のメインターゲットは源実朝ではなく北条義時であったとするならば、まずは現役の将軍である源実朝を殺害し、次に父を死に追いやった北条義時に復讐をするという流れであったなら、話はスムーズに進むのである。
源実朝が殺害されたとき、僧兵の風体をした者が複数名いたこと、そのうちの一人が公暁であり、公暁が源実朝を殺害して首を切り落とし、源仲章も殺害し、その後で逃走したことは判明している。
また、三浦義村の差し向けた者によって、公暁だけでなく、公暁と行動をともにしていた風体の者が殺害されたことも判明している。
何度も繰り返すが、公暁は鶴岡八幡宮の別当であった。いかに鶴岡八幡宮の中で孤立していようと、また、千日講に入っていて外との連絡を絶っていようと、組織図上、公暁の部下であった僧侶もいるし、千日講に入っている公暁の身の回りの世話をしていた者もいる。
建保七(一二一九)年一月二九日から三〇日にかけて、鶴岡八幡宮に対する取り調べが行われた。
そこで判明したのは、一人の僧侶としての公暁の現実であった。弁法橋定豪、安楽坊法橋重慶、頓覚坊良喜、花光坊専念、南禅坊良智といった鶴岡八幡宮の有力僧侶らは最初から公暁を相手にしていなかった。公暁とかかわりのある数少ない僧侶のうちの一人である和泉阿闍梨重賀は公暁の子分であったとの噂があったが、その噂は早々に否定された。公暁に同情したくなることを言ったのは勝円阿闍梨である。この人はかつて公暁に仏法を教えていた過去があったことは認めたものの、公暁の頭が悪すぎて何を教えても無駄だと悟って、それでも仕方なしに仏法は教えようとしたが、何の役にも立たなかったまま、この惨劇を迎えてしまったと嘆いたのだ。
鶴岡八幡宮に対する取り調べを終えたのち、二月一日に北条義時が一つの布告を出した。鶴岡八幡宮はこれまで通り仏事や神事を執り行うこと。公暁と行動を共にし、源実朝暗殺計画に協力した僧侶は全て三浦義村によって討たれたため、これ以上は追及しないことを宣言したのである。
ただし、鶴岡八幡宮に対する制裁を一つだけ加えている。
厳密にいうと公暁が鶴岡八幡宮別当となったことで鶴岡八幡宮が得ていた特権を一つ剥奪している。
それは武蔵国熊谷に持っていた鶴岡八幡宮の所領である。元々は熊谷直実の持っていた所領であったが、熊谷直実が的立役を辞退したことを咎めた源頼朝が所領を没収し、鶴岡八幡宮に所領を寄付していた。ただし、源頼朝からの寄付であろうと例外とはならず、鎌倉幕府から派遣された地頭が置かれ、地頭によって年貢の取り立ても執り行われていた。
それが、公暁が鶴岡八幡宮別当に就任したことで一変した。地頭を置くことができなくなったのである。実際には公暁自身の言葉ではなかったものの、公暁が別当に就任してからの鶴岡八幡宮は、自分たちのトップが北条政子の孫であると宣言することで、どのような地頭が派遣されてきたとしても追い返すことができていたのである。
この特権は建保七(一二一九)年二月二日に正式に剥奪され、鶴岡八幡宮の所領であろうと地頭が派遣され、今後は地頭による年貢徴収が他の所領と同様に執り行われることになると宣言されたのである。
源実朝が殺害されてからの一連の流れにおいて中心を担っていたのは北条義時である。このときの北条義時は政所別当と侍所別当を兼ね、また、位階を有していることから御教書を発行できる権利も持っていた。そのため、建保七(一二一九)年二月時点で北条義時が各種命令を発行することについて法的な問題はない。
とはいえ、源実朝が幼い頃とでは事情があまりにも違う。
源頼家が病に倒れ源実朝が鎌倉幕府第三代将軍に就任したときは、源実朝がまだ位階の低い貴族であったものの近い未来に従三位以上の位階を得ることが確実視されており、北条義時が御教書を発行するのも源実朝が従三位に昇叙するまでの臨時措置とみなされていた。
だが今回は、源実朝が亡くなった。しかも、その後継者がいない。これではどうやって鎌倉幕府を運営して行けばいいのかという話になる。
事情が事情であるために少しの間は組織として存続できるであろう。だが、鎌倉幕府とはもともと上級貴族である源頼朝が三位以上の位階を持つ貴族のみに許されている権利を利用して成立させた組織であり、源頼家や源実朝は源頼朝の実子であり、また、源頼家にしても源実朝にしても自身が三位以上の位階にあるために鎌倉幕府を維持できていたのである。
源頼朝の直系男児が一人残らずいなくなったわけではない。源実朝には一人の子もいなかったが、源頼家は四人の男児と一人の女児を残している。そのうちの長男の一幡は建仁三(一二〇三)年に比企能員の乱の渦中において六歳という若さで殺害されている。公暁は次男である。三男の栄実は和田義盛の乱の戦後処理の過程で建保二(一二一五)年に一四歳という若さで自害に追い込まれている。だが、四男の禅暁は存命であった。ただし、禅暁の生年は不明であり、建保七(一二一九)年時点の年齢も不明である。兄の年齢を考えると、父の死後に誕生したか、あるいは父が亡くなる直前に生まれたと考えるのが自然であろう。生まれたときにはもう次期将軍の候補から外されており、かなり早い段階で京都の仁和寺に預けられ出家しており、生母は三浦胤義と再婚したことが判明している。この禅暁を京都から呼び寄せて還俗させて第四代将軍とさせるアイデアは誰も考えなかったらしい。あるいは公暁と同じ轍を踏ませぬようあえて外したか、生母が三浦家に嫁いだことから北条政子をはじめとする北条家が睨みを利かせたか、禅暁が次に史料に登場するのはこのあと二回しかない。
話を元に戻すと、鎌倉幕府を維持するためには、どうにかして三位以上の位階を持つ貴族を鎌倉幕府として用意しなければならなかった。あるいは、予定通り皇族の誰かを新たな将軍と任命し、鎌倉まで下向してもらうしかなかった。
そんな都合の良い人物などいるはずがない、誰もがそう考えていたところで、都合の良い人物が見つかった。
北条政子だ。
彼女は従二位の位階を得ている貴族だ。三位以上の位階を持つ貴族のみに与えられている権利を利用した組織を維持するにあたって、恒久的ではないにせよ、北条政子を中心にすることで既存組織の維持が可能となる。出家している北条政子は征夷大将軍になることができないだけでなく、そもそも朝廷からの公的な役職を与えられることはない。無理に探せば奈良時代末期の弓削道鏡という先例が見つかるが、先例は先例でも繰り返してはならない先例であり北条政子に適用できる先例とはならない。
また、いかに従二位の位階を持っていようと、北条政子を還俗させたところで北条政子を征夷大将軍とすることはできない。源頼朝以降の征夷大将軍とは、熱田神宮の宮司の娘からの母系の血統が求められている。源頼朝は熱田神宮の宮司の娘を母とする生まれであるが、北条政子は亡き源頼朝の妻であったことは事実でも、熱田神宮との血のつながりはない。三種の神器の一つである天叢雲剣の形代であるからこそ征夷大将軍には権威が発生し、天叢雲剣の形代になる資格は熱田神宮との血のつながりが求められる。いかに源頼朝の配偶者であろうと、また、源頼家や源実朝の実母であろうと、北条政子は征夷大将軍になれない。
源実朝の突然の死に慌てふためく鎌倉幕府にできることは、まずは一時的に北条政子を中心とする組織として鎌倉幕府を維持し、その間に新たな征夷大将軍を招き入れることであった。




