第四部 和田合戦
三浦泰村や和田義盛といった三浦家の人物を京都大番役の管理監督に採用した経緯を見てくると、初期鎌倉幕府の本質が見えてくる。初期鎌倉幕府の本質を突き詰めると、これまでの国司の変遷と地方武士の誕生、そして、平家政権と鎌倉幕府の差異が読み取れる。そもそも国司についてたどると、地方の武士の勢力拡大の話につながる。
三浦家は地方武士の一例とも言える。
「受領は倒るる所に土を掴め」とは平安時代の国司の専横を示す有名なフレーズである。しかし、国司という役職自体はもっと前から存在している。それなのに奈良時代にはまだこのようなフレーズが登場せず、平安時代になってから国司の専横が話題となり、平安時代になってからこのようなフレーズが登場したのはどうしてか?
結論から記すと、平安時代の始まりからかなりの時間を経過してようやく、国司が専横できるような時代を迎えたからである。それまでは専横などしない清廉潔白な国司ばかりであったというわけではない。清廉潔白云々の問題ではなく、専横が可能か不可能かという問題が存在していたのだ。
国司とは朝廷が任命する令制国のトップであり、任命されたならば任地に赴いて令制国を統治しなければならない。ここで朝廷が求める統治とは令制国の治安維持と税の徴収であり、治安維持に成功したならば徴収した税のうちの一定割合を国司のものとすることが可能であった。清廉潔白な国司は自分の手元に残す税のごく一部しか自らの資産とせず、そうでない国司は法で認められている範囲、さらには法の範囲を逸脱するレベルで税から自らの資産を着服できるようになっていた。理論上は。
問題は、国司に任命され、国司として任地に赴いた末に待ち受けている現地の人々というのが、おとなしく統治に従い、おとなしく税を納める者ばかりではなかったことである。ときには山賊となって暴れ、ときには海賊となって襲撃し、平凡な暮らしをしている者も国司の支配に逆らう意思を隠さないことなど珍しくもなかったのだ。奈良時代までの記録を読むと、国司の専横どころか、襲撃されて都に逃げ帰る国司も出てくる。これではいったいどっちが専横なのかと指摘したくなるところだ。
そうした弱い国司を押さえつけるために朝廷が選んだのは、説得ではなく武力であった。話し合いの通用しない者であっても殴り合いならば通用する。これまで国司に対する反発を隠さなかった者であっても、国司に武力があり、国司に抵抗したなら国司の率いる軍勢に殺された上で全財産没収となると理解したならば、殴り合いではなく服従を選ぶ。これで統治は成功する。重要なのは任期中にゴタゴタを起こさないことであって、ゴタゴタの芽を摘むことではない。
武力を持つ国司は地方に派遣されて職務を遂行した後に、京都に戻って出世街道にチャレンジするか、京都に戻らずに現地に留まって豊かな暮らしを手にするかを選んだ。また、国司達の中には、息子の何名かを連れて京都に戻り、残る息子達を現地に残すことで、家全体として、中央での出世と地方で手にする富の両方を手にすることを選ぶ者も出てきた。この状態で世代を経ると、同じ氏族でも京都で貴族としての成功を選ぶ者と地方の富を選ぶ者とに分かれることとなる。そのうちの後者が、祖先をたどると上級貴族に行き着く地方在住の武士だ。鎌倉幕府に仕える御家人がそれぞれ苗字を名乗っていても、本来の姓は源であったり平であったり、さらには藤原であったりするのはこのような理屈であり、三浦家はそうした典型だ。
さらに地方に留まって武力に磨きをかけると、富だけでなく中央で権勢を掴むことも見えてきた。同じ氏族でも、京都に戻って貴族としての出世を選んだ一族と地方に留まって富を選んだ一族とでは別々になってきていたが、前者は中央政界での出世競争に明け暮れながらも富の獲得はさほど進まないどころか時代とともに相続分割によって世代を経るごとに貧しくなっていったのに対し、後者は武芸にさらに磨きをかけることで中央政界での出世競争に突入できる可能性も見えてきていた。
その当時、京都の朝廷が問題視していたのが、比叡山延暦寺をはじめとする宗教勢力の有する武力である。彼らの武装デモは厄介きわまりない話であったが対処するには困難な話でもあった。その困難に対処するための存在として目をつけたのが武士である。武士は、防人や六衛府のように律令に定められた国の正式な武力ではなく、あくまで民間の非公式な武力集団である。防人は健児を経て時代とともに消滅し、左右の近衛府、衛門府、兵衛府も徐々に名目だけの武官となっていったが、入れ替わるように検非違使が登場して朝廷は最低限の武力を常時抱えてはいた。抱えてはいたが、彼らの武力は強盗の逮捕ならどうにかなっても宗教勢力の武装デモとなると太刀打ちできる話ではなく、宗教勢力の武装デモに対処するために、朝廷の正式な武官ではないものの無視できる武力でもなくなっていた武士を採用するようになってきていた。
すでに宇多天皇の時代に滝口武者として非公式な形で朝廷が武士を抱えるようになっていたが、平将門と藤原純友の乱で武士が無視できない勢力であると認識されると朝廷だけでなく貴族も武士を抱えるようになり、院政がスタートすると院が北面武士としてほぼ公式な形で武士を雇用するようになった。さらには武士が検非違使をはじめとする朝廷の正式な官職を得ることも、五位以上の位階を得て自らの所領のある国とは別の令制国の国司に就くことも不可能ではなくなってきていた。
地方在住の武士にとっては武芸によって中央からスカウトされることはその時代で最高の栄誉であった上に実利も伴う。多くの武士は祖先をたどると中央政界の貴族に行き着くが、時代を経て、世代を経ることで中央とのつながりが薄くなっている。その薄いつながりを一瞬にして取り戻して、位階を手にし、官職を手にすることは、地方に戻ったときの自らの正統性をより強固なものとさせる要素となる。忘れてはならないのは、地方在住の武士は多いものの、彼らは協力し合う関係ではなく、本質的には対立する関係にあるというところである。そのときの妥協で手を結ぶこともあるし、祖先をたどると同じ血族ということで手を結ぶこともある。また、婚姻関係によって手を結ぶこともあるが、それでも本質的には所領を巡って争うライバルである。そうしたライバル達と争うときに有効となるのは中央とのつながりである。中央のつながりではなく武力そのものを選んだなら、中央からより強力な武力がやってくる。平将門が、藤原純友が、平忠常が討ち取られたように、また、前九年の役や後三年の役のように、中央の抱える強大な武力が刃を向けてくる。中央から武力が派遣されてこないレベルでの武力衝突で試行錯誤するよりは、中央から派遣されてくる武力と自らの勢力との合一性を確立する方が容易であるし、得られるメリットも大きい。
そうした中央の抱える強大な武力こそ、清和源氏と伊勢平氏であった。源氏も平氏もそのスタートは地方に赴任した国司の子孫である。しかし、地方に留まって勢力を手にし、武士としての価値を高めるようになったことで、時代とともに国内外の問題に対処するための武力として計算されるようになった。本来であれば、大和時代から朝廷の武門を担ってきた大伴氏や物部氏、坂上田村麻呂を輩出した坂上氏や、文屋綿麻呂を輩出した文屋氏、そして、平安時代に絶大な権勢を手にした藤原氏がいてもおかしな話ではないところであるが、平将門の乱における藤原秀郷や、刀伊の入寇における藤原隆家といった例外を除けば、武士が求められる場面で結果を出し、重宝されるようになったのは清和源氏と伊勢平氏であった。清和源氏にしても、伊勢平氏にしても、その血筋を遡ると国司をはじめとする地方官であり、地方官として赴任した者の子孫が武力を身につけて勢力を築き上げた集団が清和源氏や伊勢平氏である。しかも、この両者とも祖先を辿れば皇室につながるために、自らの正統性を訴えるときは藤原氏より皇室との深い繋がりを訴えることも可能な家柄だ。こうした家柄と実績を積み重ねた結果、武力が求められる場面となると朝廷が抱える律令に基づいた武官ではなく、非公式で私的な武装集団である清和源氏や伊勢平氏が求められるようになり、中央政界を見渡しても源を姓とする貴族や平を姓とする貴族は珍しくないにもかかわらず、源平と記すだけで武士であると認識されるようになっていった。
保元の乱までは源氏も平氏も朝廷の動員できる有力な武士であった。だが、平治の乱を迎えたときにはもう、清和源氏も、伊勢平氏も、朝廷の言いなりになる存在ではなくなっていった。先に伊勢平氏の平清盛が、次いで清和源氏の源頼朝が権力を手にするようになったのである。
ただし、平清盛の権力と、源頼朝の権力とは、その内部構造に大きな違いがある。平清盛は伊勢平氏の面々を上級貴族として朝廷に送り込んだのに対し、源頼朝は自分だけが上級貴族であり、源頼朝に協力する貴族ならば複数名いるものの彼らはあくまでも協力者であって源頼朝の勢力の一部ではないという権力構造である。さらにその権力構造を突き詰めると、平清盛は京都の貴族として新たな勢力を作り上げるのに自らの親族を利用した集団としたのに対し、源頼朝は京都と距離と置いた勢力として在地の武士達をまとめ上げたという違いがある。平清盛はたしかに武士として権力者となったが、平家政権は武家政権ではない。貴族として多くの平家を朝廷に送り込んだのであり、武士ではあるものの本質的には貴族が打ち立てた政権である。一方、鎌倉幕府は文句なしの武家政権である。ただし、建暦二(一二一二)年二月時点の鎌倉幕府はまだ天下を握ったわけではない。あくまでも関東地方を中心とする東国に拠点を持つ武士達の集合体であり、そのトップとして源頼朝の子である源実朝が、貴族の一員ではあるものの京都に赴かず鎌倉に滞在したまま一つの勢力を作り上げているという構図である。源実朝は東国の武士達が集まる際に用いられる神輿であって、源実朝自身に指導者としての強烈なカリスマ性があるわけではない。だが、源頼朝の実の子であり、征夷大将軍であり、鎌倉武士達に恩恵をもたらしていることは誰もが認めるところであり、源実朝の命令に忠実に従うことは東国武士達にとって納得できる話であった。
話が長くなったが、東国に拠点を持つ武士というのは、祖先を辿ると中央の有力貴族に結びつくと同時に、武力での淘汰を乗り越え、さらに時流を掴むのに成功した面々である。国家そのものが軍事力を持つ国軍など名目上でしか存在せず、国家として動員できる軍事力を個人に依存し、しかも、途中までは源平二流が併存していたのが源氏のみとなった上に、その源氏の軍事力も突き詰めると東国武士の集まった組織であるというのがこの時代の国内軍事事情だ。国家としての組織的な軍隊など存在せず、あるのは源実朝がトップに君臨する上で数多くの武士団が源実朝に従っているという構図の集団のみであり、その集団で人事権を有する和田義盛と、その集団の中で最大勢力というべき三浦家の当主である三浦義村の命令が発せられる。源実朝としては考えうる上から二番目のカードを切ったと言えるし、京都大番役を命じられる武士にとっても従わざるをえない状況が作られたと言えるし、京都とその周辺においても建暦二(一二一二)年二月時点でこれ以上は考えられない軍事的圧力を見せつけられたこととなる。実際、藤原定家の日記によると、このときの鎌倉幕府の圧力によって比叡山延暦寺の武装デモが一瞬にして静かになったとある。
ちなみに、一番目のカードは実際に軍勢を動かすこと。和田義盛にしても、三浦義村にしても、動くように命じただけであって、自分自身が動いたわけではない。
源実朝という人は生涯に亘って京都に赴くことのなかった人である。もっと言えば、鎌倉とその周辺だけが源実朝の行動範囲である。それでいて日本全国に視点を向けていた人であるが、足元に視点を向けていなかったわけでもない。これはどの時代のどの統治者にも言えることであるが、住まいを構えている地域の生活水準の向上、治安の安定、そして、人口増加というのは、その統治者の力量を図る重要な指標である。
源実朝が住まいを構える相模国鎌倉は目に見えて人口が増えてきていた。また、生活インフラも整ってきていた。ただし、万全とは言えなかった。増えゆく一方である都市鎌倉の人口が生み出す需要に応えきれていなかったのである。
特に問題であったのは相模川だ。
相模川は富士山に源流をもつ河川であり、現在の富士吉田市から都留市、大月市を経て甲斐国から相模国に入り、相模国に入ってから当初は東南に、途中からはほぼまっすぐ南に流れて相模湾に注ぎ込むという経路をとっている。相模国は相模川によって東西に分断されているといっても過言ではないが、文字通り分断されているわけではなく、地域住民にとっても、東海道を旅する者にとっても、渡ることのできない河川というわけではない。ただ、渡るに困難な河川ではあった。
鎌倉は相模国の東にある都市である。つまり、鎌倉から京都に向かうなら必ず相模川を渡らねばならず、鎌倉武士の中で相模川を渡ったことのない者を探すほうが困難なほどである。そうでなくとも相模川の東から西、西から東に向かう人の流れは多く、相模川には多くの橋が架かっている。
問題は、相模川に架かっている橋の耐用年数が厳しくなってきていることだ。
壊れかかってきているなら、修繕するか、新しい橋を架けるかすれば良いところであるが、相模川の橋の修繕に関するインフラ整備は建久九(一一九八)年を最後に止まってしまい、それから一四年間に亘って放置されてきたのである。
なぜか?
源頼朝が亡くなったのが相模川に架かる橋の落成記念式典の帰路の落馬であるからだ。稲毛重成が亡き妻を偲ぶために橋を架け、完成した。源頼朝は、稲毛重成が架けさせた橋の完成式典に出向いた帰りに命を落としたのであるから、鎌倉幕府の中では相模川の橋そのものに不吉というイメージがつきまとってもおかしくない。おまけに、橋を架けさせた稲毛重成が元久二(一二〇五)年の畠山重忠の乱の渦中で誅殺されたとあっては、相模川に架かる橋の建造や橋の修繕自体が縁起でもないと見送られ続けてきたのである。
しかし、縁起でもないと言って橋をそのままにしていてはさすがに生活に支障が出てくる。建暦二(一二一二)年二月二八日、三浦義村から橋の修繕を復活させるべきとの申し出があり、この申し出を北条義時、中原広元、三善康信らが討議し、その討議の結果を踏まえるという図式で源実朝の名で橋の修繕工事復活が正式に宣言された。源頼朝の死去も、稲毛重成が誅殺されたことも、橋とは無関係であるという宣告が降りたのである。
さて、先に源平こそが武士であり、その他の氏族は、それこそ隆盛極める藤原氏ですら、武士としてはカウントされることが乏しかったと記したが、藤原を姓とする武士がゼロであったわけではない。特に平将門を打ち破った藤原秀郷の子孫を称し、摂関家ですら近衛や九条といった苗字で呼ばれることが珍しくなくなった時代にあって、姓をそのまま苗字とする藤原氏の武士も存在していた。
そのうちの一人が藤原秀能である。彼も藤原秀郷の子孫を称する藤原氏の武士であり、藤原北家の一員である。もともとは土御門通親に仕える武士であったが、和歌への才を見せたこともあって北面武士の一人として後鳥羽上皇に抜擢されて、院に、そして朝廷に地位を築き上げるまでになっていた。
着目すべきは、武士としてのキャリアを積み上げながらも鎌倉幕府とは距離を置いていたことである。鎌倉幕府はこの時代最大の軍事組織であるが正式な国軍というわけではなく、鎌倉幕府の御家人ではない武士も存在していた。ただし、彼らの立場は極めて弱い。源実朝は征夷大将軍として軍事作戦中であるという指揮権が与えられており、鎌倉幕府の御家人達は朝廷から距離を置くことが求められている一方で、鎌倉幕府の権勢を背景として朝廷の干渉を拒絶しての行動が認められている。後鳥羽上皇が独自の軍事力を手にするために既存の北面武士ではなく新設の西面武士を創設したのも、鎌倉武士を北面武士として採用するのは征夷大将軍の指揮権に干渉することになるのに対し、西面武士であれば鎌倉幕府の御家人でも兼任可能だからである。すなわち、北面武士であったというキャリアは、鎌倉幕府と距離を置いた、それでいて武士としてはそれなりの成功を手にできていたことを意味する。しかし、かつては院や藤原氏のもとに源氏や平氏が武士として仕えていたのに、藤原秀能の武士としてのキャリアのスタートが土御門通親こと源通親に仕えるところからだったというのも何とも皮肉な話である。土御門通親は清和源氏ではなく村上源氏なので、藤原秀能は武士としての源氏に仕えていたわけではないと言ってしまえばそれまでだが。
その藤原秀能であるが、建暦二(一二一二)年五月に後鳥羽上皇から九州に派遣されたという記録がある。壇ノ浦の戦いで海に沈んだ天叢雲剣の捜索のためである。なお、この記録は尊卑分脈に残されているのみであり、他の記録、特に吾妻鏡には残されていない。残されていないのは当然で、鎌倉幕府としては征夷大将軍こそが天叢雲剣の形代であったという建前が存在していたし、順徳天皇の即位時は蓮華王院宝蔵の伊勢大神宮神剣こそ新たな天叢雲剣の形代であるとして三種の神器が復活したという公的見解を示すことで、天叢雲剣が失われたことそのものを無かったことにしたからである。
とはいえ、後鳥羽上皇はこのような公的見解をいつまでも続けておくつもりもなかった。壇ノ浦に沈んだ天叢雲剣を見つけることには執着したのである。もしかしたら、壇ノ浦から天叢雲剣が見つかったなら伊勢大神宮神剣のことなど無かったことにして、天叢雲剣が見つかったと大いに宣伝するつもりであったのだろう。さすがに事情が事情なので認めざるを得ないが、四半世紀以上前に海に沈んだ剣が、しかも、現在のように潜水艦どころか酸素ボンベも無い時代に海に潜って見つかるであろうかという疑問は誰もが抱いたようで、後鳥羽上皇の気まぐれとして捉えたようである。
鎌倉幕府の本質は東国武士の集合体である。流罪となって京都から流されてきた源頼朝が、東国の武士達が集まった勢力のトップに君臨しているというのが鎌倉幕府の図式であり、誰の言葉であったか、これからJクラブ入りを目指そうとしているアマチュアクラブに日本代表の選手が一人やってきて一気にJ3、J2と駆け上がり、J1に名乗りを上げて優勝争いするようになったのが鎌倉幕府である。しかも、現実のサッカークラブと同様に、叩き上げの選手もいれば他クラブから移籍してきた選手もいる。かつてアマチュアクラブであった頃は無名であった選手が、J3、J2とステップアップしてJ1のクラブのレギュラーとしてベストイレブン争いをするまでに名を馳せるようにもなったと考えるとわかりやすいであろう。比喩にある日本代表の選手たる源頼朝は引退し、トップの地位は、源頼朝の死後は源頼家、源実朝と受け継がれてきた。また、鎌倉幕府を構成する面々にどのような人物がいるかは広く知られるようになってきていた。北条にしても、三浦にしても、かつてはアマチュアクラブの選手であったのに、今やJ1の強豪クラブのレギュラーとして名を轟かせるようになっている。
比喩で言うJ1に位置するようになって世代交代が進んできているものの、それぞれのクラブにある特色はいつまでも変わらないように、鎌倉幕府も本質的には東国武士である。つまり、血の気が多い。まあ、血の気が多いのは東国武士に限らず平安時代の貴族も似たようなものであるが。
吾妻鏡の建暦二(一二一二)年五月から六月の記事を読むと、鎌倉幕府に存在する東国武士の特色が残存していることを思い知ることができる。
まず、五月七日のこととして、北条義時の次男で北条泰時の弟である北条朝時が女性問題を起こした。源実朝に仕える女性の一人に惚れ込んでラブレターを送るも無視され続け、この日の夜に彼女のもとに忍び込んで誘い出したとある。このあたりは吾妻鏡のぼやかした記載なところもあり、このあとの北条義時の行動を見ても、北条朝時がやらかしたのは性犯罪としか言えない内容であろう。北条義時は自分の次男を鎌倉から追放して駿河国富士郡への謹慎を命じただけでなく、家族関係の断絶を意味する義絶を言い渡している。
次いで六月七日の出来事として、丑刻というから現在の深夜二時頃、御所で宿直中の武士達の間で騒乱が発生した。そしてこれは平安貴族よりも物騒な事情なのであるが、殴り合いではなく武器を手にしての殺し合いになったのだ。最低でも被害者二名、実行犯も二名を数える。佐々木義清が場を納め、真夜中に起こされた和田義盛が自分の子や配下の武士達を引き連れて御所に足を運び容疑者を確保した。
翌朝、深夜に発生した事件に対する取り調べが行われたところ、何ともあきれた理由が判明した。宿直時の寝る場所で揉めたのだ。容疑者として捕らえられたのは伊逹為家と萩生右馬允の二名、伊逹為家が萩生右馬允の配下の者を殺し、萩生右馬允が伊逹為家の配下の者を殺したという状況である。
忠臣蔵は江戸城での出来事であるが、御所での刃傷事件という一点に限れば、やっていることは忠臣蔵の松の廊下事件と同じである。違うのは一方的な刃傷事件ではなく双方ともに武器を手にしての殺人事件であるという点で、忠臣蔵では犯人となった浅野内匠頭は切腹となった上に赤穂藩は御家断絶という処分となったが、このときは萩生右馬允を日向国への、伊逹爲家を佐渡島への流罪とすることとなった。これでも重い処分であるというのが吾妻鏡での言い分であるが、忠臣蔵とまでは言わなくとも、果たして本当にこれが重い処分なのだろうかとは感じる。
もっとも、後の江戸幕府はともかく、この時点の鎌倉幕府は日本国内に存在する数多くの権力組織のうちの一つであり、いかに源実朝の私邸の中での事件であっても、法に従えば私的な制裁ではなく公的な法に基づく処分でなければならない。源実朝は征夷大将軍であり、源実朝は朝廷のシビリアンコントロールの影響を受けないでいい軍事作戦の途中の指揮官、源実朝のもとに集う武士達もその指揮官に従う兵士であるというのが公的な構図であるため、作戦遂行中の規律維持のために、指揮官の名で法に基づく処分を下すとなると、流罪は順当であるとも言えるが。
なお、源実朝はこの件に関連して一つの指令を出している。それは、殺人事件があった現場を建て直せというもので、北条義時や中原広元はそのような考慮など不要としたが、源実朝は彼らの意見を拒否して、千葉成胤に再建を命じている。なお、千葉成胤は殺人事件の当事者の一人である萩生右馬允の上司にあたる人物、厳密に言うと千葉成胤は千葉常胤の孫で千葉一族の棟梁であり、萩生右馬允は千葉一族に仕える武士であるため、上司にも責任を取らせたという構図である。
先に、後鳥羽上皇が大内裏の復旧を目論んでいることは記した。と同時に、予算の問題でうまくいっていないことも記した。院にしても、朝廷にしても、潤沢な予算というわけではなかったのである。保元の乱の後で信西が大内裏の再建に着手できたのは綿密な計算をした結果であり、赤字国債という概念のないこの時代、信西のような計算も無しに、限られた予算で大規模な工事をすることはできない。
それでいて、大規模な工事に対する需要は存在している。大内裏の復旧はともかく、治水対策となると切実な訴えだ。実際に税を負担している庶民からすれば、大内裏の復旧など後回しにしてでも、自分たちが直面している洪水の危機をどうにかしてくれという考えになる。
そうした要望は治天の君たる後鳥羽上皇の元へと届いていく。届いていくが、後鳥羽上皇はその願いに応えない、いや、応えたくても応えられない。予算がないのだ。
建暦二(一二一二)年七月、後鳥羽上皇はかなり無茶な指令を出した。鴨川の堤防が要修理であることを認めつつ、近江国と丹波国のうち、寺社の荘園と藤原摂関家の荘園を除く全ての土地に対して堤防修理費用を負担するよう求めたのである。現在の感覚からすると理解し難い命令であるが、公共事業の費用負担を地方自治体単位に求めることは江戸時代までごく普通に見られてきたことであり、平安京との距離の近さに関係なく任意の国に租税負担を命じることは先例に従った施作でもある。なお、このように一時的な税負担があるときは他の租税を減らすことで納税者の税負担が重くならないようにするのが普通であり、理論上は同程度の税負担であるということにしている。もっとも、他の租税を減らすといってもそこまで減らされないことも珍しくなく、一度限りの税負担であると我慢していたら気づいたときには恒久的な税負担となり、税負担の重さに耐えかねて荘園としてもらうべく働きかけるか、あるいは、税から逃れるために土地を捨てる人も出てくるのはもはや恒例とすらなっている。いや、恒例となっていたと過去形で記すべきか。
記載が過去形であるのは、鎌倉幕府が登場したからである。鎌倉幕府の正体を突き詰めると東国武士の集合体であるが、鎌倉幕府とは、全ての令制国に守護を、全ての荘園に地頭を配置する権利を得ているだけでなく、法で定められている税率に加え鎌倉幕府が手にすることが許された独自の徴税権のみを有効な税であるとしたために、荘園や農地に住むにとっては減税としながら増税を実現させ、その差額を全て荘園領主に押し付けることに成功したという、特異な組織でもある。
ここで後鳥羽上皇が独自の徴税を命じたとして、鎌倉幕府が従う可能性は低い。鎌倉幕府とは、朝廷に仕える貴族の一人である源実朝のもとに集った私的な組織であると同時に、征夷大将軍のもとで独自の軍事行動を遂行しているという扱いの公的な組織でもある。つまり、後鳥羽上皇が独自の徴税を目論んだとしても、税を取り立てる場面で鎌倉幕府の地頭や守護が立ちはだかることが考えられるのだ。しかも、法的根拠は鎌倉幕府の側にも存在する。より詳細に記すと、法的根拠はまず朝廷に存在し、鎌倉幕府は朝廷の法的根拠を補完する。たとえば、建暦二(一二一二)年六月一五日に常陸国吉田荘で発生した税未納問題について、鎌倉幕府は現地の地頭ではなく荘園所有者の派遣した現場責任者の問題であるとし、鎌倉幕府独自の対処ではなく朝廷に対して意見を具申したことが述べられている。あくまでも具申であって最終決定権は朝廷にあるとしたのだ。
これは朝廷や院にとって不都合極まりない事態であるとも言える。鎌倉幕府はあくまでも意見を述べているだけであり、責任は朝廷や後鳥羽院に委ねている。それでいて、各国には守護が、各荘園には地頭が鎌倉幕府から派遣されているのだ。税に対する最終決定を朝廷や院が下すにしても、鎌倉幕府の無言の圧力が待ち構えているのである。
さらに鎌倉幕府には、無言ではなく有言の圧力も存在していた。この時代は大内裏が修復中であり、内裏は閑院が里内裏として用いられていたのであるが、閑院内裏もまた修繕中であったのだ。そして、その修繕費用の一部を鎌倉幕府が負担していたのである。鎌倉幕府からの資金援助が打ち切られた瞬間に閑院内裏は朽ち果てたままの里内裏になってしまうのだ。
吾妻鏡の建暦二(一二一二)年七月七日の記事によると、後鳥羽上皇は鎌倉幕府に悟られぬように徴税するよう命じたとあるが、それを察知した大内惟義から鎌倉に第一報が届けられ、鎌倉ではただちに対策が協議されることとなった。七月九日、鎌倉幕府は結論を下した。後鳥羽上皇の独自の徴税は認める代わりに該当地域に対しては他の租税を停止もしくは減免すること。これが条件である。なお、閑院内裏の修繕についてはあえて何の回答も記しておらず、これまで通りの資金援助を続けている。後鳥羽上皇にとっては、そして朝廷にとっては、少なくとも租税に関しては鎌倉幕府の目を逃れることなど不可能だと思い知らされる話になった。
ちなみに、資金援助とは言っても現金を送り届けるわけでも,ましてや現在の銀行のように金銭を振り込むのでもなく、現在でも通用する資産としては砂金、あとは木材をはじめとする建造用の資材や建築人員の派遣、そして、この時代の最重要貨幣と言えるコメを送り届けている。
租税についてさらに加えて記すと、鎌倉幕府が租税管理のために守護と地頭を派遣していると同時に、鎌倉幕府が守護と地頭そのものを管理監督しているという構図も成り立っている。
守護にしても、地頭にしても、治安維持のために鎌倉幕府から派遣された御家人であり、徴税は治安維持に関連する職務の一つである。治安維持の中には犯罪者の手から住民の命を守ることだけでなく、朝廷や院から下される不都合な納税指令に反発する動きを消すこともある。たとえば増税反対を前面に掲げるにせよ、そのテーマを題目とする集団暴動が起ころうものなら、あるいは、反鎌倉幕府の動きが見られようものなら、簡単に治安は悪化する。たとえそれが善意によるものであろうと、結果が悲劇を伴うならば、それは悪事である。
鎌倉幕府が見張っていたのは、朝廷や院が過分な税負担を強要しないかという点に加え、各地の守護や地頭が鎌倉幕府の認める範囲を超える負担を課していないかという点も存在するのだ。物納だけが問題なのではない。労働力の強制的な徴用もまた監視対象である。
ただし、どこまでを範囲とするかは時代によって変わる。
現在でも鉄道や高速道路を無料で利用するなどできないように、この時代も公共交通を利用するのには無料というわけにはいかない。この時代に公共交通があったのかと思うかもしれないが、現在と比べれば規模は少ないものの、あった。
船である。
船に乗って海に出て次の港へと移動するだけでなく、橋の架かっていない河川を渡るのにも船に乗ることはごく普通にあった。これらの船を用意するのも、港湾設備を整備するのも、さらには荷物の積み下ろしも無料でできる代物ではなく、どこかで誰かが用意しなければならない。あるいは、税で負担しなければならない。人やモノを船に乗せて運ぶときに費用負担を求めるのはわかりやすいケースであるが、船を停泊する港湾設備の維持費の負担となるとピンと来ない人も多い。無事に終わって当たり前、問題が起こったら管理不行き届きとなるようなことに、率先して費用負担を引き受けたがる人は少ない。頭の中ではどんなに必要であると考えていても、その負担をどうして課せあれなければならないのかという疑念は存在する。
何であれ、利益が出るなら民間で勝手に用意する。問題は、それで利益が出るわけではないが、それを整備しなければ船の運行に支障が出るという箇所の整備である。この時代の船舶航行に関していうと、船舶は民間所有でも、船舶用の港湾整備は公費負担であり、それらの設備の維持管理もまた守護や地頭の職務の一つであったのだ。
ところがここで問題がある。どんなに必要なことだとわかっていても船を利用するわけではない人にとっては無関係な出費なのだ。そこでこの時代の人たちは、守護や地頭に自腹を切らせるのではなく、津料や河手、すなわち港湾利用税として受益者負担とさせていたのである。
ただ、これは船を利用しない人たちからすれば無関心である一方、船を利用する人たちからすると不満しかない。そのため鎌倉幕府は津料や河手の廃止を検討した。その代わりに租税の一部を港湾整備に回すことを検討したのである。だが、ここで現地の守護や地頭から猛反発が起こった。受益者負担だけで済んでいる現状の方がまだマシというのが現地からの報告であり、廃止しようものなら港湾設備は荒れるがままになって船舶航行が崩壊するのだ。建暦二(一二一二)年九月二一日、鎌倉幕府は正式に津料と河手の廃止を白紙撤回し、これまで通りの受益者負担とすることを決めた。
建暦二(一二一二)年の吾妻鏡の記事を読むと、特に年の後半に、鎌倉に向けて雑多な訴えが起こされていることが読みとれる。
先に記した津料や河手の廃止の場合も、その理由を遡ると受益者負担の重さに対する悲鳴を鎌倉幕府に対して訴えた結果である。いざ検討してみたら現地の守護や地頭から反対意見が来たので廃止が白紙撤回されたが、その他の記録を読んでみると、鎌倉幕府は想像以上に細かな訴えにまで耳を傾けて判断を下していたのだと感心する。このあたりは、立法府と行政府が重なっている現在の議院内閣制と違い、司法府と行政府が重なっている幕府という存在の持つ宿命でもあろう。
また、鎌倉幕府は、他の貴族と違って問柱所という組織内裁判所を保有している機関である。この機関に鎌倉幕府の司法判断の大部分を委ね、源実朝の時間の大部分が司法に裂かれるという事態を防ぐことに成功してもいるが、それでも源実朝には征夷大将軍としての判断が求められるケースが多くなっている。北条義時や中原広元、三善康信といった面々のサポートがあるものの、源実朝はかなりの重責に追われる日々を過ごしている。このときの源実朝は数えで二一歳、現在の満年齢では若干二十歳の若者である。若いからこそ体力にモノを言わせての無茶もできるが、それとて限度はある。
これまでの吾妻鏡の記録を読むと何度も源実朝が病に倒れたことの記録が出てくる。そして、天然痘に苦しんだときを除き、病から立ち直ると、それまで病に苦しんでいたことが嘘であるかのように溌剌とした活躍が見えてくる。このあたりは藤原道長もそうだが、権力者に必要なのは病に打ち勝つ健康ではなく、病があっても受け入れ、病からの治癒のために適度に休みを入れること、休みの間にも組織を動かす仕組みを作ることなのだと痛感する。
建暦二(一二一二)年一〇月二二日の記事を読むと、鎌倉幕府から守護と地頭とは別に奉行人を派遣して庶民の訴えを聞き取り、鎌倉ではなく現地で判断可能な訴えに対して処理させることにしたとある。これで源実朝に課せられていた負担も少しは減ることになったであろう。実現したならば。
まったく、鎌倉幕府は人が多くいるようで人手が足りなすぎる組織である。武人ならば不足はないが、文人官僚が少なすぎる。鎌倉武士は人口に膾炙されるほどの無教養な人間ではないが、この時代の文人官僚に求められる資質を有している者の人数を数えると、鎌倉の地に留まっての幕府運営ならばできても、また、守護や地頭として地方に武士を派遣することはできても、幕府の一員として文人官僚を派遣するとなると、どうしても頭数が揃わないという結論になる。
奉行人の派遣を決めてからおよそ一ヶ月後の一一月二七日、奉行人の役割を引き受けることのできる人物の少なさから、奉行人の派遣そのものを白紙撤回し、訴えはこれまで通り鎌倉まで届けるようにさせたのである。
せめてもの救いは、建暦二(一二一二)年一二月一一日に源実朝が従二位に昇叙したことか。
源実朝が従二位に昇叙したことについて朝廷の提示した理由は征夷大将軍としてのこれまでの実績を評価してものであるが、これは真実の全てでは無い。もう一つ忘れてはならない理由がある。
征夷大将軍源実朝に付随していた天叢雲剣の形代としての権威を後鳥羽上皇は否定した。ただ、その見返りは絶対に必要であった。皇位継承に関係する話であるのだから後鳥羽上皇の公式見解はギリギリの話であった。それこそ源実朝の言動一つで後鳥羽上皇の見解も、さらには皇位継承の正統性も喪失してしまうのだ。源実朝はどうにかして黙らせなければならない。
建暦二(一二一二)年一二月時点で、三位以上の位階を有しながら議政官の役職に就いた経験を持たない貴族は二〇名を超えるが、従二位でありながら議政官の官職歴を持たない貴族は源実朝の他には二人しかいない。従二位は本来であれば左右の大臣や内大臣、あるいは大納言に就いているべき位階であり、これだけの高さの位階を持ちながら議政官の一員とカウントされないというのは本来ならば以上事態である。この以上事態を解消すべく、そう遠くない未来に、源実朝に対して最低でも参議、順当にいけば中納言の官職が付与されるのは確実視された。
ただし、朝廷内の序列はあくまでも、まずは官職があって、次に位階がある。同じ官職で同じ位階な者が複数名いたら、より先にその位階に就いた者が上になる。仮に同タイミングで同じ官職に就き、同タイミングで同じ位階を得た者がいたならば、その官職に登る前の官職と、その位階に登る前の位階で序列が決まる。ここまでマニュアル化されていると、完全に同タイミングでの官職や同タイミングでの位階の者がいなくなるので、完全に序列化される。
さて、年が明けた建暦三(一二一三)年一月時点で従二位でありながら参議にも就いたことのない貴族は三名いた。うち一人が源実朝である。
残る二人であるが、九条良経の次男である九条教家、そして、近衛基通の四男である近衛基教の二名である。苗字から想像できる通り、両名とも藤原摂関家、それも、将来の摂政や関白が期待できる家の生まれであり、また、親が誰であるかを考えただけでもある程度の年齢の想像がつく。
実は、三名の従二位のうち、数えで二二歳の源実朝が最年長なのだ。九条教家は二十歳、近衛基教に至っては十八歳である。つまり、源実朝は藤原摂関家の近衛家と九条家の次期当主候補とされる若者とほぼ同列に扱われることになったのである。
それだけでもこの時代の人達は、後鳥羽上皇が、そして、朝廷が源実朝をどのように対処しようとしているのか理解できる話であったが、建暦三(一二一三)年二月二七日に朝廷はさらなる栄誉を源実朝にもたらした。この日、九条教家と近衛基教の二人を追い抜いて正二位に昇叙したのである。名目としては閑院内裏の修繕に尽力したことである。実際、鎌倉幕府の資金援助がなければ閑院内裏の修理は完了しなかったし、鎌倉幕府以外にも閑院内裏の修繕に協力した者は数多くいるが、鎌倉幕府の貢献度は群を抜いており、源実朝を従二位から正二位へと昇叙させるのに、それも九条家と近衛家の若者を差し置いて昇叙させるに十分な理由である。
本来であれば源実朝の正二位昇叙は大々的な祝事として鎌倉幕府全体で騒ぎになるニュースであったのだが、鎌倉幕府はそこまでの騒ぎとはなっていない。無視したわけではないが、それどころではなかったというのが実情といったところか。
まさにこの頃、源実朝の人生最大の、そして鎌倉幕府存亡の危機となる大事件の第一弾が収束した頃だったのだ。
何があったのか?
後に和田合戦と呼ばれることとなる鎌倉幕府内部のクーデタの前兆が起こったのだ。
こののち和田合戦の前哨戦と扱われることとなる、いわゆる泉親衡の乱の始まりである。
泉親衡は鎌倉幕府の御家人であり、祖先をたどると源満仲まで遡ることのできる清和源氏である。泉という苗字も信濃国小県郡小泉荘、現在の長野県上田市を根拠地としていることからの苗字であり、甲斐源氏ほどの勢力を築き上げることはなかったものの無視できない勢力であった信濃源氏の一員である。ちなみに、泉親衡の本名は源親衡であり、正式な姓が平である者が多い鎌倉幕府の御家人の中では珍しい存在である。
ここまではわかっている。
ただ、この泉親衡という人物の素性がここまでしかわからない。謀反発覚時点の年齢も、それまでどのような生涯を過ごしてきたのかも全く不明である。泉親衡の父である泉公衡が源平合戦において源氏方の一員として戦ったのちに鎌倉幕府の御家人になったことは判明しているので、そのままの流れで息子である泉親衡も鎌倉幕府の御家人になっていたことは推測できる。建久元(一一九〇)年と建久六(一一九五)年の二度の源頼朝上洛時の双方ともに、源頼朝に随行した御家人の一人として泉八郎という名があるので、この人物が泉親衡の父の泉公衡、あるいは泉一族の誰かであろうというのが、泉親衡に関する数少ない記録である。
泉親衡の記録は泉親衡の乱の記録のスタートともに登場する。
建暦三(一二一三)年二月一五日、千葉成胤のもとに連絡が届いたことで事件が明るみになった。泉親衡が源頼家の遺児である千寿丸を新たな征夷大将軍として擁立すべく動き出しているというのである。泉親衡の乱のはじまりである。
泉親衡の郎党である青栗七郎の弟で、阿静坊安念という名の僧侶が千葉成胤のもとを訪ね、謀反への協力を求めてきたことで事件が明るみとなった。千葉成胤は謀反に参加せず安念を捕縛して北条義時の元へ連行した。北条義時は源実朝に報告し、源実朝は中原広元らと評議の上、安念の尋問を二階堂行村が執り行うことに決めた。なお、安念の身柄を二階堂行村のもとに引き渡すのは北条義時の部下である金窪行親に担当させている。この金窪行親という人物、後に和田合戦に至る流れの中で再度登場することとなる。
翌二月一六日、安念の自白によって泉親衡は二年前の建暦元(一二一一)年から源頼家の遺児である千寿丸を大将軍として北条義時を打倒しようと画策していたことが明らかとなった。泉親衡に与した武士は主だった者だけでも一三〇名あまり、ここにさらに仲間を加えると二〇〇名もの武士が名を連ねていることが判明し、ここで名の挙がった者は捕縛されることとなった。
以下が吾妻鏡に名の記されている者と、身柄を預かることとなった御家人である。
一村近村、信濃国の御家人。北条泰時が預かる。
籠山高成、信濃国の御家人。高山重親が預かる。
宿屋重房。山上時元が預かる。
上田兼綱およびその子ら三名。豊田幹重が預かる。
薗田成朝。宇都宮時綱が預かる。
狩野行時。結城朝光が預かる。
和田義直。伊東祐長が預かる。
和田義重。伊東祐廣が預かる。
渋川兼守。安達景盛が預かる。
和田胤長。金窪行親と安東忠家が預かる。金窪行親と同様、安東忠家も北条義時の部下である。
磯野安茂。小山朝政が預かる。
この外にも名が上がったものの捕縛できなかった容疑者として、信濃国の保科次郎、粟澤太郎父子、青栗四郎、越後国の木曾瀧口父子、下総国の八田三郎、和田、奥田太郎、奥田四郎、伊勢國の金太郎、上総介八郎の甥の臼井十郎、狩野又太郎といった面々の名を吾妻鏡では記している。
なお、この時点ではまだ謀反の疑いであって確定したわけではない。また、この時代の取り調べは拷問も当たり前であり、拷問とは真実を白状するのではなく拷問を命じている人間にとって都合良い回答を導き出す手段になりやすい。裏を返せば、拷問によって真相はかえって隠されやすくなる。拷問の結果の証言に基づいて直ちに行動できるとすれば、それはかなり前から計画を立てていて、計画実行のスタートに拷問で得た証言を持ってきている場合である。
このときの鎌倉幕府は直ちに行動しているとは言いがたい。たしかに名が挙がった面々を捕縛し、また、捕縛できなかった者の捜索をしているものの、二月一六日の一斉捕縛の後の対処を検討はしていたものの結論は出せずにいた。鎌倉幕府の側に事前に何かしらの計画性が存在していたなら、捕縛しておいてからこのあとの処分をどうしようか検討するなどありえない。鎌倉幕府としても即座に行動しうるとは言いがたく、情勢としてはまだ謀反計画を立てた側にも謀反計画そのものが言いがかりであると盛り返す余地は存在していたのである。
ところがここで、鎌倉幕府の側にも、陰謀計画を立てた側にも、取り返しのつかない失態が生じてしまう。事件発覚から三日後の建暦三(一二一三)年二月一八日に囚人として預けられていた薗田成朝が逃亡したのである。しかも、薗田成朝の逃亡が発覚したのが二月二〇日になってからだというのだから、監視する側である鎌倉幕府としては、暢気とかのレベルではなく不祥事である。一方、陰謀計画の側からしても逃亡そのものが未確定であった陰謀計画を確定させる失態となる。
吾妻鏡によると、薗田成朝は二月一八日の夜に宇都宮時綱の家からの脱走に成功し、普段から世話になっている僧侶の敬音のもとを訪ねたとある。敬音のもとを訪れた薗田成朝はことのあらましを話し、あらましを聞いた敬音は薗田成朝に対して、今回の事件に関わった全ての人は逃亡すべきではないこと、既に人生は詰んでしまっているので出家した方が良いことを諭したが、薗田成朝は敬音に対し、古来より有名な武将は不利なときにいったん身を引くものであると主張した上で、自分には国司任官という夢があると語った。そして、国司になる前に出家してしまっては大願を果たせないではないかと言って出家を断り、敬音のもとを去っていった。ここでいったん薗田成朝の消息は消えることとなる。
二月二〇日に薗田成朝の逃亡が判明した後、源実朝は敬音を呼び出した。呼び出された敬音は自分のもとを訪ねてきた薗田成朝が何を語ったかを全て述べ、敬音からの供述を全て聞いた源実朝は、恩赦も選択肢に含めた上で薗田成朝を捜索するように命じた。なお、吾妻鏡のどこにも、薗田成朝の身柄を預かりながら逃走を許してしまった宇都宮時綱に対する処罰は記されていない。宇都宮時綱の名は宝治元(一二四七)年まで頻出しているので特に処罰は無かったようである。
大願を果たすためと称して逃走する者がいる一方、源実朝の和歌趣味に頼ることで命乞いをする者も出た。
吾妻鏡によると、建暦三(一二一三)年二月二五日に、渋河兼守はいったん斬首となることが決まったとある。翌日の明け方に処刑するように安達景盛に命じられたとあり、渋河兼守は自分に対する斬首の命令を知って悲しみを抑えことができず一〇首の和歌を荏柄天神社の捧げるよう頼み込んだ。
その和歌は渋河兼守の求めたとおりに荏柄天神社に奉納されたが、その日はちょうど工藤祐高が荏柄天神社で夜籠もりをする日であった。荏柄天神社に一〇首の和歌が奉納されたばかりであるのを知った工藤祐高は奉納された和歌を持ち帰り大倉御所へと届けた。
伝承によると荏柄天神社の建立は長治元(一一〇四)年。菅原道真を勧請して創立された神社であり、その名は相模国鎌倉郡に存在した荏草郷の地名であるエガヤが転じてエガラとなり、漢字を改めて付したものとされている。
荏柄天神社は、源頼朝の邸宅にして鎌倉幕府の御所である大倉御所からおよそ二〇〇メートルという近さということもあって源頼朝や源頼家が参詣したことの記録が吾妻鏡に何度か登場しており、鶴岡八幡宮が鎌倉幕府の公的な宗教施設であるのに対し、荏柄天神社は征夷大将軍が私的に参詣する宗教施設という位置づけであった。ただし、征夷大将軍でなければ参詣できないというわけではなく誰もが参詣可能であり、このときの工藤祐高のように夜籠もりすることも特に珍しくはなかった。
このタイミングで和歌を贈って命乞いをするのは周囲からみっともないと見られるが、それでもなお命が助かるならチャンスを狙ってみようと考えたとしてもおかしくない。源実朝の和歌の趣味は周知の事実である。
御所に届けられた和歌を目にした源実朝は和歌の出来映えに感激し、いったんは斬首を命じた渋河兼守の刑罰を減じることにした。源実朝にしても、この時点で謀反の証言はあっても謀反の証拠はどこにもなく、このまま捕縛した状態で日数を経過させるのはあまり優れた方法ではない。命乞いのための和歌に対し、源実朝が和歌に感銘を受けて死罪から流罪へと罪を減じたとするのであれば、とりあえずの解決にはなるのだ。現在の裁判なら証拠不十分のときは無罪放免であるが、この時代の裁判では、証拠不十分とは無罪ではなく罪を減らすのが一般的である。
さらに二月二七日には捕縛された者に対する処罰を一律で流罪とすると発表になり、これにより謀反計画の容疑者として捕らえられた者の中に死を命じられた者はいないということになった。ただし、全員が流罪となったわけではなく二月二七日時点ではまだ判決が定まっておらず、なお捕縛中である者もいる。それでも、多くの者はこの段階で流罪評決となった。和歌を奉じたことで命が助かったために、吾妻鏡に従えば、この時代の人たちは「兼守愁虚名奉篇什。已預天神之利生。亦蒙將軍之恩化。凡感鬼神。只在和哥者歟(渋河兼守は無実の罪を嘆いて詩を集めて奉納し天神様の御利益を得て、将軍様の恩を受けたのだ。鬼神を感動させるのには、和歌に限る)」と感嘆したとある。
捕縛された者は流罪となったが、首謀者と見做されている泉親衡は消息不明となっている。
泉親衡の消息が判明したのは建暦三(一二一三)年三月二日のこと。鎌倉の中心部から北東にある筋替橋のあたりに身を潜めているとの噂があり、鎌倉幕府は工藤十郎を派遣して現地の捜索を命じた。
その噂は本当であった。
ただ、想像もできない結果になった。
泉親衡は抵抗しただけでなく、幕府から差し向けられた手勢を打ち負かして逃走したのである。吾妻鏡によるとここで数名の死者が出たとある。
ここまでであれば、不幸なことであるものの、犯罪捜査の場面でよくあることであるともいえるが、ここから先はなんとも理解しがたい結果になっている。
泉親衡の記録がここで終わり、泉親衡の乱もここで終わるのだ。
吾妻鏡をどんなに探しても、吾妻鏡以外の史料をどんなに探しても、少なくとも令和七年現在で泉親衡の今後の消息を伝える記録は全く見つかっていない。強いて挙げるとすれば、埼玉県川越市にある瑶光山最明寺に泉親衡が千寿丸とともに落ち延び、最明寺で出家し、文永二(一二六五)年に八八歳で生涯を終えたという記録があるのだが、残念ながらこの記録の信憑性は乏しい。特に問題なのが千寿丸に対する扱いで、最明寺に伝わる記録によると泉親衡とともに行動していたとあるが、他の記録によると泉親衡とは関係なく別の形で姿を見せているからである。
一方、多勢に無勢で鎌倉幕府の差し向けた追っ手を倒して逃走に成功したという逸話によって、泉親衡は怪力の持ち主として様々な脚色をされた伝説の人物へとなった。泉親衡の故郷である信濃国の民話では龍の化身と扱われ、長野県上田地方に伝わる民話である小泉小太郎伝説の主人公小太郎と同一視されることもあるほか、江戸時代には泉親衡を主人公とする読本が生まれているほどである。
また、泉親衡の由来の史跡とされる土地も日本各地に点在しており、特に鎌倉近郊には、泉親衡の住まいの跡とされる遺跡も、さらには泉親衡に由来する地名も現存している。その地名のうちの一つが横浜市泉区であり、厳密に言うと横浜市泉区と泉親衡との関係は直接の関係ではないものの無関係でもない。どういうことかというと、泉区という区名は区名公募の段階で寄せられた区名の中から選ばれた区名であるのだが、泉区の由来となっている和泉町の地名の由来をたどると泉親衡に行き着くので、接点がゼロというわけではないのである。
ただ、どんなに現在まで残る説話になり現在の地名の由来になるほどの人物であるとの評判が確立されようとも、そのことと、建暦三(一二一三)年時点の泉親衡が一三〇名ほどの名だたる武士をはじめとする二〇〇名以上もの仲間を集めることに成功したことの整合性がとれないのだ。泉親衡は建暦三(一二一三)年二月にいきなり史料に登場し、三月には早々に行方をくらませている。父が鎌倉幕府の御家人であったことは確認できているので泉親衡自身も鎌倉幕府の御家人の一人であったのは間違いなく、鎌倉幕府の他の御家人達とも顔や名前は通じていたであろう。そこまではいいのだが、何を以て泉親衡をリーダーとする謀反計画を立てる要素とできたのかがわからないのだ。泉親衡自身が清和源氏であり、また、源頼家の遺児を担ぎ上げての謀反計画なのだから、泉親衡に流れる貴種としての血統はあると言えばある。とは言うものの、泉親衡ではリーダーとして心許ないのだ。名目上のトップは源頼家の遺児であり泉親衡はその遺児を支える親類縁者という体裁であったとも考えられなくもないが、それはかなり無理がある。
何より大切なこととして、逃走した泉親衡を鎌倉幕府が真剣に捜索した気配がないのである。
そこで、泉親衡の乱そのものが何者かによって仕組まれた陰謀なのではないかとする説が存在する。
泉親衡の乱の勃発から終焉までの間に登場した人物を振り返ってみていただきたい。
本来であれば登場していなければならない人物、そして、登場していなければならない一族が登場していないのだ。
侍所別当の和田義盛が行動しておらず、そして、和田義盛も所属している三浦一族の姿が全く見えてこないのである。
実に奇妙なことに、泉親衡の乱の流れの中に三浦義村や和田義盛といった名前は全く出てこない。特に、本来なら捜査や捕縛の先人に立つべき侍所別当和田義盛の名がどれだけ探しても出てこないのである。これはもう異常事態とするしかない。主な容疑者の中に和田の苗字を持つ者が複数名いるにせよ、それこそ、和田義盛の四男の和田義直と、五男の和田義重、そして、和田義盛の弟の息子である和田胤長の三名の名が出ているという点を差し引いても、和田義盛の不在は不可思議なのだ。
おまけに、泉親衡の乱の知らせを受けてからの鎌倉幕府の面々の行動を見ると、和田義盛がいないこと、そして、三浦一族の姿が全く見えないことについて、誰も何ら疑問を抱かずに行動している。吾妻鏡が北条家にとって都合良く脚色された歴史書であるにしても、このような扱いは異常とするしかない。
そこでこのように考える研究者も多い。
曰く、泉親衡の乱そのものが和田義盛や三浦一族を排除するために繰り広げられた茶番である。
曰く、泉親衡の乱の背後には和田義盛や三浦一族が存在しており、泉親衡は和田義盛や三浦義村の傀儡であった。
その他にも木曽義仲の残党や比企一族の残党が繰り広げた陰謀であるとの説もあるが、有力なのは、被害者なのか加害者なのかの違いはあるにせよ、少なくとも和田義盛が何らかの形で泉親衡の乱に関係しているとする説である。
そこで改めて泉親衡の乱を振り返ると、ここに世代間対立の芽が見て取れる。
和田義盛は源頼朝の挙兵のときから鎌倉方の一員として戦った実績を有している。すなわち、建暦三(一二一三)年から振り返ると三三年も前の話であり、三分の一世紀も経過すれば、源平合戦勃発時は若手ないしは中堅世代の武士とカウントできていた世代の者も老練なベテランに変わっている。そもそも三分の一世紀という年月は世代の入れ替わりには十分な時間であり、源頼朝の挙兵の時点で源頼朝と同世代であった者は、泉親衡の乱の時点では還暦を超えている。実際、和田義盛は久安三(一一四七)年生まれであり、満年齢で六六歳、数え年では六七歳だ。
和田義盛だけでなく、源頼家のときに誕生した一三人の合議制は、源頼朝に仕え続けてきた鎌倉幕府の宿老の集合であり、北条義時以外は源頼家の一つ前の世代の面々である。これに対し源頼家は自分と同世代の者を重用して対抗しようとしたが失敗した。
だが、年月が経てば否応なく世代の入れ替わりは起こる。鎌倉幕府の宿老達は、失脚したり、引退したり、死を迎えたりして幕府の中心から離れ、次の世代が空席を埋めるようになる。ただ、世代交代は一度に進むのではなく、生き残った者がより多くの権力を握りつつ、生き残った者と協調できる次世代が空席を埋めていくモノだ。
こうした暫時的な世代交代は、人員交代があるものの内容が全く変わらないという宿命を持つ。特に潜在化している社会問題に対処することを考えたとき、問題であると多くの人が気づきながらも、問題を解決すると損害を被る人が大反発を示し、問題解決によって利益を得る人も具体的な利益をイメージできないために積極的に賛成できず、問題解決に着手できないまま時間が経過するという古今東西よくある結果を迎えやすくなる。
この結果を回避する方法はただ一つ、大反発があることを覚悟の上で強引に問題解決を図ることである。現在に生きる我々は選挙によって政権を一瞬にして一変する手段を有しているが、この時代にそのような概念はない。政権を一瞬にして一変する方法はただ一つ、武力による強引な交代である。
建暦三(一二一三)年時点の鎌倉幕府で問題となっていたのは、何と言っても北条家の勢力拡大である。後述するが、和田合戦で反逆軍に参加した者は相模国の武士が多い。そしてこれは泉親衡の乱においても適用できる。祖先から受け継いできた自分たちの権利や権益が少しずつ北条義時をはじめとする北条家の勢力に侵食されてきているのは大問題であった。また、北条義時の人生を振り返ってもこの人に独裁的性行は観られないものの、鎌倉幕府における有力者の序列となると、気がつけば源実朝の次にランクするほどの人物になっている。
また、経済情勢を考えてもこの頃は御世辞にも好景気であるとは言えなかった。これは政権の責任ではないともいえるが、生活が苦しくなっている理由を時代の執政者の責任であるとして糾弾する動きは古今東西どこでも現れたことであり、その矛先は北条家に、特に北条義時に向いていたのだ。現時点で起こっている問題を一人に押しつけ、その一人を打倒すれば問題は全て解決すると考えるのは短絡的で幼稚な考えであるが、血気盛んな面々をまとめるスローガンとしては手っ取り早い。
泉親衡の乱の参加者は総じて若い。また、有能な者として鎌倉幕府で働いていた者がどれだけいたかとなると疑問符がつく。つまり、鎌倉幕府内部で権勢を掴めずにいる比較的能力の低い者が集まり、一発逆転を狙って暴動を起こそうと目論んだとしてもおかしくない。自分たちが時流を掴めないでいる理由を、能力ではなく若さが原因であると考え、世代交代を目論んで一気に権力奪取を図る動きを計画した結果だとするならば理解できる話でもあるのだ。その意味で、泉親衡の乱の背後に和田義盛がいてもおかしくはないし、和田義盛がいなくてもおかしくはない。
どういうことかというと、こうした陰謀を企むときに、一つ前の世代でそれなりの有力者ではあるものの時流を掴めていない者をリーダーとするとまとまりやすくなるのである。この時点の鎌倉幕府で考えると和田義盛をリーダーとして担ぎ上げることは不思議ではない。一方で、和田義盛らを含む前の世代の者を計画から排除したとしてもそれはそれで世代間対立を前面に訴えることとなるので、計画参加者が一つにまとまることも可能となる。泉親衡の乱の場合でいうと、計画参加者が和田義盛をリーダーとして担ぎ上げたとしてもおかしくないし、和田義盛を陰謀に加えないとしてもおかしくないのである。
源実朝が従二位から正二位に昇叙したのは建暦三(一二一三)年二月二七日のこと。そして、その知らせが鎌倉に届いたのは三月六日になってからである。
大騒動が一段落した直後に届いた吉事ということで鎌倉幕府としては、それまでの混雷を一掃すべく祝賀ムードに突入してもおかしな話では無いのだが、そのような様子は全く無い。
源実朝が正二位に昇叙したのは閑院内裏の修繕に鎌倉幕府が尽力したからであり、京都から届いた知らせは閑院内裏の修繕が完了したことに伴うちょっとしたお祭りムードの内容の延長としての正二位昇叙の知らせであったが、鎌倉幕府としては単に情報を受け取っただけであった。
かなりドライな対応だと感じるかもしれないが、それは三月八日の吾妻鏡の記録を見ればわかる。
この頃の鎌倉内外では、鎌倉市中を舞台とする合戦が起こるであろうという風聞が飛び交っていたのである。新たな征夷大将軍を擁立しようという泉親衡の乱は、容疑者の捕縛となったものの主犯格である泉親衡は今なお逃走中である。また、そもそも泉親衡は何かしらの陰謀を企む際のリーダーたるに相応しい人物とも見なされていない。この頃の鎌倉内外で噂されていたのは、陰謀の中心となる黒幕がいて、その黒幕が間もなく軍勢を動き出して合戦となる、あるいはその黒幕を討伐すべく鎌倉幕府の軍勢が動き出して合戦となるのではないかという風聞である。
この風聞が飛び交ったことで鎌倉近辺だけでなく比較的遠くからも多くの御家人が軍勢を組織して鎌倉に集まってきていたのである。合戦になるかもしれないから軍勢を組織して鎌倉へと向かうのであるが、まさにその軍勢が集っているという現象が合戦を始める情景にも見えてしまうという悪循環だ。しかも、そうた面々の中には、泉親衡の乱において全く姿を見せなかった侍所別当の和田義盛がいた。上総国の伊北荘に滞在していた和田義盛は泉親衡の乱の始まりから終わりまで全く姿を見せずにいたのであるが、三月八日になってようやく姿を見せたのである。
しかも和田義盛が鎌倉にやってきて最初にしたのは、息子である和田義直と和田義重の赦免である。それも、将軍源実朝に直接願い出ての赦免であり、このときは二人の息子の釈放を勝ち取ることができたのであるが、その翌日、和田義盛は再び、それも九十八名もの郎等を引き連れて御所にやってきたのである。この日は和田義盛の甥である和田胤長の釈放を求めたのだ。
前日は源実朝と直接面会しての赦免であったが、この日は中原広元が取り次いでの赦免要求とその回答であり、この日の鎌倉幕府からの回答は、要求拒否。泉親衡の乱の名からわかるとおり、今回の事件の首謀者は泉親衡である。しかし、首謀者泉親衡は鎌倉に姿を見せることないままであり、鎌倉において謀反の中心を担っていたのは和田胤長であったとして、釈放ではなく拘束場所の変更が命じられたのである。和田胤長はこれまで北条義時の部下である金窪行親と安東忠家の両名に監視されていたが、和田胤長はこのとき、北条義時の命令で後ろ手に縛りあげ、縄の一方を首にかける罪人縛りで和田一族の前に引きたてられた上で二階堂行村のもとへと身柄を移されたのである。なお、和田胤長は三月一七日に陸奥国岩瀬郡、現在の福島県須賀川市へと流罪になっている。
和田義盛はこの対処に納得できず、御所にやってきたときの九十八名もの郎党からなる軍勢を解散せず、自宅に残置させた。もっとも、和田義盛にも言い分があり、この軍勢は三月一九日に迎える庚申待に備えての軍勢でもあるのだ。
現在のカレンダーは、どんなに大雑把なものでも月、日、曜日がわかるようになっている。少し細かなカレンダーを見ると、日付だけでなく月の満ち欠けや旧暦の日付、そして、「甲子」とか「丁酉」、そして「庚申」などの漢字が書いてある。
この漢字は何か?
これは日付を十干十二支、いわゆる干支で現した表現であり、現在では記されていないカレンダーも珍しくないが、この時代の人たちが用いていたカレンダーには必ず記載されており、現代人が曜日を使うような感覚で六〇種類の干支を用いていたのである。
庚申はそうした干支の一つであるが、この日は残る五九種類の干支の日と少し異なる。一年で六回ほどやってくる庚申の日は眠ってしまうと寿命が縮むという言い伝えがあり、眠らずに徹夜するという風習が存在したのである。これを「庚申待」という。この日は誰かの家に集まったり、あるいは集落の集会所となっている建物に集まったりして、徹夜で酒盛りをしながら夜明かしすることもあり、自宅がそうした庚申待の会場となる場合は前もって色々と準備をすることも珍しくなかった。
建暦三(一二一三)年三月一九日は干支で記すと庚申であり、庚申待の日でもあるのだ。そして、このときの庚申待の会場となっていたのが和田義盛の邸宅なのである。つまり、軍勢を待機させているのは、和田義盛だけでなく、和田義盛の邸宅で開催される庚申待にやってくる人たちの警護のためでもあり、実際に横山時兼は早いうちに和田義盛の邸宅に到着している。横山時兼は石橋山の戦いの頃から源頼朝に仕える古参の御家人であり、また、和田義盛の妻の甥であると同時に、和田義盛の息子と義理の従兄弟同士の関係でもあるため、和田義盛とは公私ともに旧知の仲である。ただ、鎌倉内外で合戦の噂が広まっている最中ということもあり、源実朝は和田義盛の邸宅での庚申待をただちに禁止するよう命じている。庚申待そのものを自宅ですることは特に何も言わないが、他者を招くのは禁じたのである。既に和田義盛の邸宅に到着していた横山時兼が源実朝の命令を受けてどのように対処したかは記録に残っていないが、今後の記録から推測可能となる。
後述することとなるが、このときの庚申待はかなりの高確率で計画立案のための舞台となったはずである。
おそらく和田義盛は泉親衡の乱の報せを受け取ったときに、自分が関係者になっているとは夢にも思っていなかったであろう。自分の息子や甥が加担していると知ったときも青天の霹靂であったろう。だからこそ、自分は泉親衡の乱とは無関係であると源実朝に訴えたのであろうし、源実朝も和田義盛が泉親衡の乱と関わっていないことの証拠を掴んでいたのであろう。だからこそ源実朝は和田義盛のこの訴えを受け入れて和田義盛の息子達を解放したのであろう。
ただし、それで今後の計画が止まることは意味しなかった。
鎌倉において泉親衡の乱の中心人物と扱われた和田胤長、すなわち和田義盛の甥は流罪となったが、一族もろとも流罪となったのではなく一人だけが流罪となっている。つまり、鎌倉に家族は残されており、これがさらなる悲劇を招いている。
建暦三(一二一三)年三月二一日、和田胤長の六歳の娘が病気に倒れてしまっただけでなく、遠く離れてしまった父を追い求めながら亡くなってしまった。このとき、和田義盛の孫である和田朝盛の外見が和田胤長に似ていると言われていたことから、病に伏せる幼女のもとに近寄って「父が帰ってきたよ」と言ったところ、一瞬だけ彼女は頭を上げたもののすぐに目を閉じ、そのまま二度と目を開けることはなかったという。
亡き幼子が荼毘に付された後、和田胤長の妻で亡き幼子の母である女性はすぐに出家した。二七歳での出家である。
三月二五日には和田胤長の屋敷をどのような扱いにするかが論争となった。流罪とは単に流罪となった者が遠くに追放されるだけではなく、流罪先に持って行くことのできない資産、具体的には不動産については没収されるのが通例である。流罪が許されて戻ってきたときに元の資産を取り戻すことはよく見られることであるが、流罪となっている間は不動産に対する権利を喪失しており、流罪中に我が住まいがどのようになっていようと流罪中の者は何ら異議申し立てをする権利を有さない。
和田胤長の屋敷は大きくはないものの荏柄天神社の前にあり、かつ、御所の東隣でもあるというかなりの好立地である。敷地面積は狭いものの、将軍のもとに仕える者、御所に足を運ぶことが多い者はこぞってこの屋敷を手に入れようとしていた。そして、この屋敷を手に入れたのは和田胤長の伯父である和田義盛であった。和田義盛は二つの理由から屋敷を手に入れた。一つは、源頼朝の頃から何度か領地没収はあったものの、一族全体の領地没収はともかく、一族の誰かの土地が没収となった場合は同じ一族の者が相続してきたこと。もう一つは、侍所別当としての職務を遂行するに便利な地であること、この二点である。この二つの理由が挙げられたならば、和田義盛以外の者が和田胤長の屋敷を手に入れる方法は存在しなくなる。
しかし、いったん和田義盛の手に渡った和田胤長の屋敷の所有権は建暦三(一二一三)年四月二日に北条義時のもとに移されたのである。
吾妻鏡によると、北条義時はかなり強引な方法で屋敷を手に入れたとある。和田胤長を後ろ手に縛って二階堂行村のもとへと身柄を預けたのは北条義時の部下の金窪行親と安東忠家の両名であるが、北条義時は和田胤長の屋敷の所有権をいったん手にした後に金窪行親と安東忠家の両名に屋敷を与え、既に住んでいる者を追い出したのである。
北条義時の仕打ちは和田義盛を激怒させるに十分であった。この日を最後に和田義盛は、本人だけでなく和田一族全体が御所への出仕をボイコットすることとしたのである。
ところが、世間の噂は和田義盛に味方しない。和田義盛は泉親衡の乱と深く関わっていたという噂も広まっていたのだ。なお、同じような噂が広まっているとき、和田義盛以外の真犯人として、三浦義村や、比企一族の残党、木曽義仲の残党といった噂も挙がっている。
何度も記しているが、吾妻鏡というのは北条家の編纂した鎌倉幕府の正史である。そのため、北条家にとって都合の悪いことはほとんどと言って良いほど割愛され、あるいは脚色されている。泉親衡の乱から和田合戦勃発の流れでいうと、奇妙なこととすべきか、北条義時の動きが乏しい。その乏しい北条義時の動きというのは、建暦三(一二一三)年三月九日に和田胤長を後ろ手に縛って引き渡したことと、四月二日に和田胤長の邸宅を北条義時が手にしたとき、そして、四月四日に奥州平泉の毛越寺の塔の破損について直ちに修復に取りかかるように政所で決定したことの三回しかない。なお、吾妻鏡は毛越寺の塔の修復について、北条政子が夢の中で鎧甲に身を固めた僧兵が毛越寺の荒れ果てている様子を嘆き直ちに修理してくれと願い出たのを見たとある。その上で、奥州藤原氏の藤原秀衡の命日に夢に出たことを北条政子が語ったという逸話を残している。このあたりは間もなく起こる和田合戦を暗示した創作かもしれない。何しろ、藤原秀衡の命日は一〇月二九日であり、四月とは何の関係もないのだから。
和田義盛の孫の和田朝盛が、父の追放に悲しむ六歳の幼女のために和田胤長を演じたことは既に記した。
ここで泉親衡の乱における和田一族を振り返ると、少なくとも三名が泉親衡の乱で犯罪者として処罰され、和田一族のトップである和田義盛は泉親衡の乱の始まりから終わりまで姿を見せなかった。
和田義盛は建暦三(一二一三)年時点で、満年齢で六六歳、数えで六七歳であり、これからの隠居生活を考えたとしてもおかしくない年齢である。現代に生きる我々からしても定年退職後の年金生活だ。しかし、和田義盛の孫の和田朝盛からすると、これから祖父の権勢を背景に鎌倉幕府の有力御家人として生きていこうとしていたのに、一瞬にして未来への絶望を感じるようになってしまったのである。
和田朝盛の具体的な生年月日は記録に残されていないが、源実朝は和田朝盛のことを同年代の若者として、また、これから源実朝が征夷大将軍としての職務を遂行するにあたって頼れる右腕の一人となると考えていたようである。そのことは和田朝盛も自覚していたようで、自分は将軍源実朝側近の一人であることを誇りとしていた。
注意すべきは、先にも述べたように侍所別当である和田義盛個人の勢力は鎌倉幕府として無視できるものではないものの、武士団として捉えたとき、和田一族は三浦一族の一部であり、和田義盛ですら三浦一族の武士団を構成する一人の武士という扱いであり、三浦一族のトップは和田義盛より二〇歳は歳下の三浦義村の手にあるということである。この実情に苦悩した和田朝盛は、祖父の権威や権勢を利用して、三浦一族のトップに立つことを目論んでいたのだ。
それなのに、未来が完全に消え失せた。
建暦三(一二一三)年四月一五日、和田朝盛、出家。源実朝のもとに向かって仏門に入ることを告げ、自宅へ戻らず京都へ向けて出発した。
翌日、孫の出奔を知って激怒した和田義盛は、たとえ僧体になっていようと連れ戻すよう四男の和田義直に命じ、和田義直は直ちに馬を走らせた。
四月一七日、和田義盛のもとに、源実朝から孫が出家するために出奔したことを見舞うための使者として行部丞忠季が送られてきている。この時点で既に和田義盛の孫が出家するために鎌倉を捨てて京都に向かったことは周知の事実となっており、和田義盛が息子の一人を派遣して孫を鎌倉に連れ戻そうとしていることもまた周知の事実となっていたが、この時点では孫を連れ戻すことなどできないだろうというのが多くの人の感想であった。
ところが、四月一八日に連れ戻しに成功したのである。京都に向かおうとしていた和田朝盛は駿河国手越宿、現在の静岡市駿河区のあたりで叔父に追いつかれ、そのまま鎌倉へと強引に連れ戻され、源実朝の前に引き出された。このときの和田朝盛は既に僧体であった。
この一連の騒ぎは鎌倉における噂を一つにまとめる効果があった。
泉親衡の乱の黒幕は和田義盛であり、さらにその背後には三浦一族が存在している。泉親衡を利用した謀反に失敗したため、和田義盛が自ら指揮し、和田一族だけでなく和田一族を含む三浦一族が結集して合戦を起こし、源実朝に代わる新たな将軍を擁立して鎌倉幕府を制圧しようとしているという噂である。
ここで視点を北条義時に向けると、これはもう、穏やかな話ではなくなる。自分を敵とし、自分を武力で倒そうという勢力が誕生しているのだ。同じ権力争いであっても、選挙と違い、勝つか負けるかの違いは生きるか死ぬかの違いとイコールである。生きるためには勝つしかないのだ。
泉親衡の乱は青天の霹靂であったが、和田義盛にしてみれば疑惑が払拭された過去の話であるのに対し、北条義時にしてみれば払拭されることのない疑念が生まれた瞬間となる。この疑念を完全に解消する方法とは、自分を打倒しようとする勢力の完全消滅以外にない。
しかも、北条義時の敵対勢力の背後に和田義盛がいる可能性がある。三浦一族内部における和田義盛の立ち位置は北条義時も理解していたが、和田義盛が三浦一族全体を率いて北条義時に向かい合う可能性は決して低いとは言えなかった。三浦義村と和田義盛の対立があったとしても、三浦義村が和田義盛の側に立って北条義時打倒に動いたならば、三浦一族の軍勢全体が北条義時の敵として存在することとなる。
また、和田義盛が北条義時に対する個人的怨恨を持っていないとなると、それは考えられない話になる。北条という新興勢力に対する恨みに加え、上総国司就任を渇望してきた和田義盛に対し、その障壁となっていたのが北条義時である。それに、和田義盛が上総国司に就任したらどうなるかを考えると、和田義盛個人のキャリアの構築という視点だけでなく、三浦一族内部に占める和田一族の立ち位置で考えても、さらには鎌倉幕府における三浦一族の立ち位置を考えても、極めて大きなアドバンテージとなる。それを北条義時は阻害した。
泉親衡の乱が世代間の争いだというのであれば鎌倉幕府として対処できる。しかし、泉親衡の乱の背後に三浦一族がいるとなると、あるいは和田義盛がいるとなると、そう簡単に対処できる話ではなくなる。しかも目標が幕府の制圧ではなく北条義時討伐となったならば、北条義時の立場に立つと絶対に黙っていらない話となる。当然のことながら、北条家の編纂した鎌倉幕府の正史である吾妻鏡に北条義時の策謀など一切描かれていない。しかし、北条家への忖度など必要ない他の史料となると、堂々と北条義時の策謀を描いている。
また、和田義盛の個人的な恨みを抱いている人物、あるいは野望を頓挫させた人物として挙げるべきは北条義時だけではない。中原広元もまた、和田義盛の立場からすると許しがたい人物であったといえる。中原広元は和田義盛の上総国司就任を妨害した人物のうちの一人であったこともあるが、中原広元が将軍に対する取り次ぎ役であることもまた、和田義盛をはじめとする多くの武士にとって許しがたい状況を生み出していた。
たとえば正治元(一一九九)年の梶原景時弾劾のとき、和田義盛をはじめとする御家人達は連名で梶原景時弾劾の書状を記したが、その書状を受け取った中原広元はその書状を将軍源頼家に提出することなく自分のもとにとどめていた。源頼家のもとに提出されたのは和田義盛から中原広元への催促があった後のことである。
さらに、泉親衡の乱に関与して拿捕された和田義盛の二人の息子は助命できたが、甥の和田胤長は助命どころか後ろ手に縛られて和田義盛の前に付き出されたが、この待遇の違いは、和田胤長が泉親衡の乱における事実上のトップと扱われたことだけでなく、和田義盛の二人の息子の場合は和田義盛が源実朝に直接助命嘆願したのに対し、和田義盛の甥の場合は中原広元に仲介を頼んだ結果であるという点もある。
中原広元は鎌倉幕府において特異な存在である。鎌倉武士達の多くは有能な武人であるが、京都の貴族や文人官僚とまともに渡り合えるだけの文人としての能力を有する者は御世辞にも多くなかった。だが、中原広元は鎌倉武士達とは逆に、京都の貴族や文人官僚達を手玉に取れるほどの卓越した才能を持った人物である。ゆえに鎌倉幕府において重宝されたのであるが、人間味は乏しく杓子定規であるため融通が利かないところがある一方で、そのために文人官僚としては頼りになる存在でもあった。ただ、融通が利かないために反発を買うことも多かった。北条義時を打倒しようと考える者がいた場合、その者はかなりの可能性で中原広元に対しても反発を示す。北条義時に対する誹謗中傷の言葉は多々あるものの、北条義時を独裁者として誹謗中傷する者はいない。少なくとも北条義時の独断専行は存在せず、最低でも中原広元には話を通してから行動している。裏を返せば北条義時を打倒しようとする者にとっては中原広元も打倒しなければ結果を得られないこととなる。
この動きは中原広元も理解するところである。これから戦乱を起こそうと考える面々がいて、その面々のターゲットとして北条義時と並んで自分が存在しているとあっては穏やかでいられる話ではない。ゆえに、挙兵するのではないかと考えている和田義盛に対して監視の目を光らせる。中原広元は武人ではないが源平合戦をくぐり抜けてきた身であり、同時に、京都の貴族社会を生き抜いてきた文人官僚でもある。戦場を駆け巡る能力は無くとも、陰謀渦巻く界隈を生き抜いてきた実績と経験ならば十分に存在する。
建暦三(一二一三)年三月一九日に和田義盛の邸宅で開催することとなっていた庚申待について、和田義盛が自宅で執り行うことについては問題ないが、他者を招くことを禁止するように促したのは、実は中原広元である。それでも横山時兼は和田義盛の邸宅に入っているが、邸宅に入ったときにはまだ禁止命令が出ていなかったことに加え、和田義盛と横山時兼の姻戚関係を考えたならば横山時兼が庚申待を和田義盛の邸宅で過ごすことは特に問題ないはずである。通常ならば。
中原広元は通常ではない。
中原広元は見破ったのである。そして、北条義時と意見の一致を見たのである。
それは持ち主無き邸宅となった和田胤長の住まいをどのようにするかという点で、和田義盛が強固に自分の所有権を主張したことから明らかとなった。和田義盛は一族の邸宅であるために自分が相続することを主張したことに加え侍所別当としての職務遂行の利便を訴えたが、まさにこの職務遂行の利便という点が問題であったのだ。
こちらの図を見ていただきたい。
幕府の御所の南西に和田義盛の邸宅が、西に三浦義村の邸宅がある。ここで北東に存在する和田胤長の邸宅も和田義盛が手に入れたならば、三浦義村が和田義盛らの行動に同調するという前提ではあるが、御所を和田義盛らが通常時から包囲することとなるのだ。
この問題を悟った北条義時は、金窪行親と安東忠家の両名を派遣して、強引に和田胤長の邸宅を入手した。この行動が賞賛されるかどうかはともかく、和田義盛らが御所を包囲する構図を解消する効果ならばあった。
包囲する構図を解消することは北条義時らにとってはメリットでも和田義盛らにとってはデメリットである。和田義盛にしてみれば、かなりの確率で自分が苦境に陥っていることを悟ったはずである。そのため、後述することとなる和田合戦のスタートと二日目との不整合の理由が説明できる。
建暦三(一二一三)年四月二七日、源実朝がはじめて和田義盛謀反の噂に対する行動を見せた。この日、源実朝が宮内兵衛尉公氏を和田義盛の屋敷へと派遣した。謀反有無の事実を調べるためである。この時点ではまだ物騒な雰囲気を漂わせてはいるものの、決定的な動きとはなっていない。
ところが、御所に戻ってきた宮内兵衛尉公氏の報告を受けている途中で北条義時が御所に姿を見せ、和田義盛に謀反の動きありと正式に宣言したのである。ただし、この段階ではまだ武装を求めてはおらず、反乱勃発前に沈静化させる可能性を否定しないでいる。
同日夜、行部丞忠季が使者として和田義盛のもとへ向かった。前回は孫が出家して出奔したことを見舞うための使者であったが、今回は反乱を食い止めるための使者である。吾妻鏡によると、このときの和田義盛の回答は以下の通りである。
「於上全不存恨。相州所爲。傍若無人之間。爲尋承子細。可發向之由。近日若輩等潜以令群議歟。義盛度々雖諌之。一切不拘。已成同心訖。此上事力不及」
すなわち、源実朝に対しては全く恨みなど無い。ただ、北条義時の所業が傍若無人なので、事情を確かめるため出向こうと、近日、若い武士たちが集まってひそかに相談しているようだ。和田義盛はたびたび諌めたが、いっさい耳を傾けることもせず既に一致団結してしまっている。こうなった以上、自分にはもう止めようがないというのが和田義盛からの回答である。ここではじめて、和田義盛は北条義時への敵対心を公表し、北条義時打倒に向けて和田一族を挙げて行動するつもりであることを伝えたのだ。
和田義盛が主導する三浦一族が、源実朝に代わる新たな将軍を擁立して鎌倉幕府を制圧しようとしているのではなく、北条義時を討伐するために武装蜂起するというのがこれから起こると予想される合戦の実情であると判明したのだ。
建暦三(一二一三)年四月二八日の夜、北条義時が御所で中原広元と協議した。和田義盛の武装蜂起は時間の問題であり、このまま武装蜂起とならずに計画頓挫となる可能性は低いという点で意見の一致を見たのである。鎌倉幕府の文人官僚達はここで、中原広元からの使者という名目で鶴岡八幡宮や勝長寿院に派遣された。
翌四月二九日、北条義時が前年五月に義絶した次男の北条朝時を呼び戻した。親子関係の断絶も意味する義絶の処分はこの時代の武士が家庭内で下すことのできる最大級の処分であるが、その処分を解いてでも鎌倉に呼び戻さざるを得ない事態とアピールすることは周囲に有効に働いた。なお、この時点で北条朝時は数えで二一歳、満年齢では二十歳である。自分の息子とは言え実績の無い若者を、それも犯罪をやらかして追放された次男を呼び戻さざるを得ないほど緊迫した情勢であるというのは、北条義時の打ち出すことのできる大きなプロモーションである。そしてこれは父の北条義時ですら見過ごしてしまう資質であるが、実はこの若者、一人の武士としても、軍勢を指揮する指揮官としてもなかなかに優秀であり、実兄の北条泰時を支える頼れる副官となり続けることとなる。
緊迫した状態の続いたまま月が変わり、建暦三(一二一三)年五月二日、徐々に緊迫感が増してきてはいたが、中原広元も、北条義時も、表面的には平静を装っていた。この日の午後までは。
和田合戦は本来であれば、建暦三(一二一三)年五月三日に挙兵する予定であったのに、実際にスタートしたのは五月二日の夕方。横山時兼が軍勢を率いてやってきたのが五月三日であることを考えると、元々は五月三日に横山時兼の率いる軍勢がやってくるのを待ってから挙兵する計画であったのが、挙兵計画が漏れてしまったので予定を前倒しにした。こう考えると納得できるのだ。
和田合戦はクーデタである。それも失敗したクーデタである。クーデタという代物は何の前触れもなく行動を開始するから意表を突く形で成功につながるのであって、討伐目的で軍事行動を起こした側を、討伐される予定の側が武装して待ち構えているという構図ではクーデタそのものが成立しない。もっと言えばそもそもクーデタを起こすなどあり得ない。相手の警護が手薄になっているから攻撃可能と判断できるのであり、堅牢な警護となっていたらそもそもクーデタ計画そのものを白紙にしなければならない。話し合いが通用しない相手でも殴り合いは理解できるのである。
かといって、軍勢を用意し続けてクーデタ対策のための警護を続けることはできない。そもそも警護できる人員を用意しなければならないし、その人員のための食料や宿舎も用意しなければならない。人員も物資も余っているというならそれでもいいかもしれないが、軍というのは基本的に何ら生産を生まない消費だけの組織である。長期間に亘って莫大な軍勢を展開するというのは警護を命じる側にとって多大な負担を要求することとなる。しかも、軍勢を展開し続けている間はクーデタを起こそうとする側が黙り込むことを意味するから、いつまで経ってもクーデタが起こらないまま時間だけが経過することとなる。一見するとクーデタを未然に防ぐのだから問題ないではないかと思えるが、基本的な問題は何ら解決していない。クーデタを察知したならば、クーデタの起こる直前まで軍勢を展開せず、クーデタが起きたならばただちに軍勢を展開して対処するという流れにしなければ抜本解決とはならないのである。
和田義盛らが動き始めたのが計画前日の夕方であったというのは、警護が堅牢になる前で、かつ、まともな夜間照明などないこの時代において許される昼明かりの中の行動の限界であったからである。御所の北東にある和田胤長の邸宅を失ったとは言え、和田義盛らが南西から御所に向かえばクーデタ成功の可能性が高まる。障壁となるのは途中にある北条義時の邸宅の警護の武士と、御所の真正面にある中原広元の邸宅の警護の武士となるが、予定より早くクーデタを起こしたならばクーデタの軍勢と真正面から向かい合う軍勢とはならずに済む。
ただし、事前に露見したために計画は見直しせざるを得なくなっている。御所の東西南北の四つの門のうち、東門については和田胤長の邸宅の保有権を失っているために制圧が困難になった。そのため、クーデタを起こして御所を制圧しようとなったならば、四つの門のうち東門以外の三つの門を制圧し、東門については南門もしくは北門を制圧した後に勢いで制圧するという流れを選ばざるを得ない。五月三日に横山時兼の率いる軍勢がやってきたならば南門制圧を経て東門の制圧までも一気に可能となるが、計画前倒しとなっただけでなく、急遽変更となったため横山時兼のもとにはまだ計画前倒しの情報が届いていない。横山時兼としてみれば事前からの情報の通りに五月三日に到着するよう準備をしている上に鎌倉から少し距離があるので、鎌倉から横山時兼のもとにどんなに急いで情報が来たとしても、そして、ただちに軍勢を結集して鎌倉に向けて出発したとしても、蜂起のタイミングにはまだ間に合わない。そのことは蜂起する側もわかっているから、今いる面々だけでどうにかするしかないと行動する。
この流れで重要なのは、別働隊となる三浦義村らである。三浦義村とその弟の三浦胤義は和田義盛の求めに応じて、御所の北門の制圧をすることについて起請文を記していたという。三浦義村の邸宅と御所の位置関係を考えても、道のりでの最短距離である北門と、直線距離での最短距離である西門の制圧を三浦兄弟に委ねるのは戦略として間違ってはいない。ただし、三浦兄弟が従うのならば、という条件がつくが。
そしてここで、泉親衡の乱の最中も、さらにはその後も全く記録に名が登場しなかった三浦義村が弟とともに動き始めた。三浦義村と三浦胤義の兄弟が北条義時のもとに向かい、和田義盛と行動を共にすることはないと宣言しただけでなく、三浦一族の軍勢は北条義時とともに行動することを宣言したのである。
この瞬間、武装蜂起は和田一族を含む三浦一族全体ではなく、三浦一族の一部である和田一族だけの武装蜂起であることが判明した。和田一族は三浦一族の一部であり、三浦義村は三浦一族のトップとして和田一族を切り捨てることを選んだのである。この段階で三浦義村兄弟の離脱を和田義盛は知らない。
和田義盛が御所の南門に向かって押し寄せたのも、西門と北門を三浦兄弟が制圧する前提が存在していたからである。吾妻鏡での無駄な脚色を除外し、他の記録や日記に記されている三浦兄弟の動きを見ると、五月二日の午前中までは和田義盛らと行動を共にする前提で自宅に待機していたことが読み取れる。そして、三浦義村らがどのような行動をしたかを振り返ると、早くても五月二日の正午頃、おそらくは五月二日の午後に和田義盛から三浦義村らにスケジュール前倒しの連絡が届き、夕刻に挙兵することとなったタイミングで三浦兄弟はクーデタへの協調を拒否し幕府側に立ったと考えられる。
三浦義村らが北条義時のもとに向かったとき、北条義時はまだ軍勢を整えられずにいただけでなく、御所の警備にも問題があることを悟ったと同時に、北門と西門はまだ制圧されていないこと、特に、北門が制圧されていないことは、北門の先にある法華堂に避難できる時間的余裕が獲得できることも意味した。
また、事態は急を要するとし、源実朝の実母の北条政子や源実朝の正妻である坊門姫をはじめとする大倉御所の女性達は鶴岡八幡宮へ避難することとなった。鶴岡八幡宮に参詣したことのある人はわかると思うが、鶴岡八幡宮は高所にある神社であり、仮にこれから市街戦となった場合、もっとも攻めづらく守りやすい位置にある。鎌倉市中で彼女達の身の安全を考えたとき、鶴岡八幡宮は最適解と言える。
この避難は正解であった。
まさにこの日の夕方、都市鎌倉誕生後初の、そして鎌倉幕府草創期最大の危機である和田合戦が勃発したのである。
和田義盛らが北条義時の邸宅の襲撃を計画し、三浦兄弟に西門と北門の制圧を委ねたのは、御所にいる源実朝の身柄を自らの支配下に置く目的が存在していたからである。源実朝を保護し、源実朝の周囲にいる者、特に北条義時を排除するという構図を構築するためである。しかし、いざ御所に押し入ってみると、三浦兄弟は裏切っていて、源実朝は中原広元らとともに法華堂へ避難した後、北条政子らは鶴岡八幡宮へと避難した後であった。
建暦三(一二一三)年五月二日の申刻、現在の時制に直すと午後四時頃、和田義盛がいきなり挙兵し、源実朝のいる大倉御所への襲撃を目的に動き始めた。
最初に和田義盛邸の近くに住む八田知重が軍勢の結集に気づき、将軍御所の南隣にある中原広元の邸宅に急使を派遣。宴の最中だった中原広元は知らせを受けて御所に急いで向かった。
ほぼ同タイミングで三浦義村と弟の三浦胤義が揃って北条義時の邸宅に駆け込んで和田義盛の挙兵を報せた。このとき三浦兄弟は、先立って和田義盛と協力して行動し御所の北門を警固するという内容の起請文を書き記したこと、今回はその起請文を裏切って北条義時のもとに出向いたことを告げている。この連絡を受けて北条義時も御所に直ちに向かった。
吾妻鏡は蜂起時の軍勢として以下の面々を挙げている。
和田義盛。
和田義盛の長男の和田常盛と、その息子で出家を目論みながら連れ戻された和田朝盛。
朝比奈義秀こと和田義盛の三男の和田義秀。
泉親衡の乱の容疑者とされて拿捕されながら一度は許された和田義盛の四男の和田義直、五男の和田義重。
和田義盛の六男の和田義信、七男の和田秀盛。
以上が蜂起時に名を連ねている和田一族の面々である。次男の和田義氏と八男の杉浦義国についてはこの段階で名を記されていない。
その他に、土屋義清、古郡保忠、渋谷高重、中山重政とその息子の中山行重、土肥惟平、岡崎実忠、梶原朝景とその息子の梶原景衡、梶原景盛と梶原景氏の兄弟、大庭景兼、深沢景家、大方政直とその息子の大方遠政、塩谷惟守といった面々であり、合計一五〇騎ほどになるという。いずれも和田義盛の親戚や、和田義盛をはじめとする和田一族の友人であり、吾妻鏡によると春頃から武装蜂起の計画に参加していたとされる。
本来ならここに三浦義村と三浦胤義の兄弟も加わるところであったが、この兄弟は前述の通り、早々に北条義時のもとに出向き、三浦義村ら三浦家の者は和田義盛らには加担しないこと、北条義時らとともに行動することを宣言している。
このあとの和田義盛らの軍勢の動きを見ると、三浦兄弟も加わった上での作戦遂行であったことがわかると同時に、挙兵直後のタイミングでは和田義盛が三浦兄弟の不在を知らなかったこともわかる。
和田義盛はまず、一五〇騎の軍勢を三つに分けて大倉御所の南門に一隊、北条義時の屋敷の西門に一隊、北門に一隊で囲んだ。つまり、全体の三分の二の軍勢を御所ではなく北条義時討伐に向けて差し向けたわけであるが、これでは御所への攻撃が手薄になってしまう。しかし、和田義盛は御所の北門の攻撃を三浦兄弟が担当することとさせていたのである。ここで計画がうまくいけば、まずは三浦義村が制圧し、三浦義村がダメでも北条義時の邸宅を制圧することで御所の西部が事実上和田義盛らの制圧下となり、御所は和田義盛らの軍勢で包囲されることとなる。
しかし、前述のように御所の北門を攻撃する予定の三浦兄弟が離反したことで御所の包囲は失敗し、源実朝は北条義時や中原広元らに守られながら源頼朝の墓所である法華堂へと避難している。
さらに、三浦兄弟は北条義時の側に立つと告げたことで、北条義時は御所に向かう時間を確保できただけでなく、御所に向かった後に源実朝を護衛しながら法華堂へと向かう時間も確保できた。このため、蜂起時に北条義時は北条義時邸にいなかっただけでなく、屋敷を守る軍勢の配備まで終えることができていた。この守備隊は板塀の一部を引きはがして隙間を作った上で、その隙間を矢狭間にして屋敷内から弓矢で攻撃をはじめた。ただし、隙間を作ったということは攻め込む側にとっても攻撃する隙間でもあるため、ここで少なくない数の守備隊の兵士が死傷することとなった。なお、あくまでも攻撃対象は北条義時であり、御所南門の向かいにある中原広元の邸宅は和田一族の軍勢の攻撃対象とはなっていない。
これ以後、吾妻鏡は和田義盛の軍勢を凶徒、すなわち反逆軍と書き記している。
反逆軍は御所南西の横大路まで至ったところで幕府を護衛するための御家人達と衝突。波多野忠綱がまずは先陣に立って反逆軍に向かい合ったが、ここで幕府護衛の軍勢として三浦義村率いる一団が登場し、反逆軍に向かい合う姿勢を見せたことで正式に三浦一族は反逆に荷担しないことが公表されることとなった。
ただし、勢いは反逆軍にある。酉刻、現在の時制にすると夕方六時頃に反逆軍は御所の四方を囲むことに成功し、軍旗をはためかせながら御所に向かって矢を射かけるに至った。ここで北条義時が直前に呼び戻した北条朝時が奮起する。幕府護衛の一員として足利義氏らとともに反逆軍に抵抗し、反逆軍の勢いを弱めるのに成功したのである。とはいえ、それでも反逆軍の攻撃を完全に食い止めるには至らず、反逆軍の面々の中では朝比奈義秀こと和田義盛の三男の和田義秀の奮闘がすさまじく、南門を突破して南庭に乱入し、幕府護衛の御家人らへの攻撃を続けただけでなく御所に火を放った。これにより御所内の建物がことごとく焼失するに至った。ちなみに、朝比奈義秀の母親は巴御前であるとする説がある。木曽義仲が命運を悟って最後の戦いに臨む前に巴御前を戦場から離脱させたことは平家物語でも描かれているが、彼女のその後は不明となっている。しかし、源平盛衰記では木曽義仲が亡くなって落ち延びた後の巴御前が鎌倉に呼び出され、その後、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだとしている。ただ、これが事実だとすると、朝比奈義秀の年齢は他の記録よりも最低でも一〇歳は若くなければならなくなるので、これは源平盛衰記のみの脚色であるとも言えよう。
もはや伝説ともなっている巴御前の息子とする説すら出るほどに朝比奈義秀の猛攻はすさまじく、五十嵐豊次、葛貫盛重、新野景直、礼羽蓮乗、高井重茂といった御家人達が殺害された。そのうちの高井重茂は苗字こそ和田ではないものの和田義盛の弟の息子、すなわち和田義盛の甥であり、朝比奈義秀とは旧知の仲である。和田一族ではあるが反逆軍に加わらず幕府防衛の側に立った高井重茂は朝比奈義秀の武力を十分に理解しており、まともにぶつかって対応できるのは自分しかいないと理解していた。ただし、それは朝比奈義秀に勝てることを意味するのではない。朝比奈義秀を落馬させることに成功しただけで、高井重茂は朝比奈義秀に殺害されてしまった。それでも、これによって和田一族全体が反逆軍と見做されることも、連帯責任として和田一族全体が殲滅対象となることも避けることができたのである。
落馬した隙を狙って朝比奈義秀を倒すべく北条朝時が襲いかかるも、北条朝時は朝比奈義秀に立ち向かえず、幸いにして命は奪われずに済んだものの負傷してしまい北条朝時は戦線を離脱した。
足利義氏は別箇所で奮闘していたものの朝比奈義秀に見つかり、足利義氏は立ち向かえないと考えて逃亡を図るも、政所の前にある筋替橋のそばで朝比奈義秀に捕まりそうになり、足利義氏は急いで馬に鞭をくれて鎧の一部が引きちぎられながらも西御門川の西へ逃れた。朝比奈義秀はなおも足利義氏を狙うも疲労困憊でもあり、西御門川の東側で留まった。ここで両者は睨み合いとなったのち、朝比奈義秀がまず動き出して橋を渡って足利義氏を追いかけようとし、足利義氏を助けようとした鷹司冠者がその間に入ったもののただちに朝比奈義秀に殺害され、足利義氏はその間に逃走に成功した。正確に言えば逃走ではないのだが、このタイミングでは逃走とみられてもおかしくなかった。
足利義氏が逃走したと見られた後、朝比奈義秀のターゲットとなったのは武田信光であるが、両者睨み合いの末、間もなく戦闘が始まろうかというタイミングで武田信光の息子の武田信忠が割って入り、朝比奈義秀は父を守ろうとする息子の心意気を感じて、戦闘を避けてこのまま走り去っていった。
足利義氏は逃走したのではない。そもそも朝比奈義秀は反逆軍の一人であり、重要な戦力であることは否定しないが反逆軍の主力ではない。反逆軍の主力は和田義盛の率いる軍勢である。日が沈んだ後も攻撃を止めることのない反逆軍の主力を防いでいたのが、後に鎌倉幕府第三代執権となる北条泰時である。これから八年後の承久の乱で鎌倉幕府の軍勢総指揮を執ることになる北条泰時であるが、この時点では戦闘経験の浅い若者でしかなく、北条義時の長男であること以外に特色など無いと見られていた。
その北条泰時が反逆軍の主力と真正面から向かい合って対等に渡り合っているのである。ただ、対等に渡り合っていても相手を上回る結果を残しているわけではなく、善戦してはいても戦勝には遠かった。なお、吾妻鏡では記録に残されていないが、愚管抄によると北条泰時のサポートとして三浦義村が入っており、北条泰時の指揮する軍勢の多くも三浦義村指揮下の武士であったという。
足利義氏はこの情勢を知り、八田知尚、波多野経朝、瀬田実季といった面々とともに反逆軍と向かい合うこととしたのである。要は包囲殲滅戦法だ。戦争の勝利のためならば朝比奈義秀との戦闘から逃走したという評判が生まれても問題ないと考える合理的精神の持ち主だったのだろう。
和田義盛ら反逆軍は、北条泰時率いる幕府軍と直接ぶつかることを避け、距離を置いて弓矢での攻撃を選んでいた。降り注ぐ矢の勢いは幕府軍に大ダメージを与え続け、日が沈み、夜を迎えたこともあって暗闇からいきなり矢が次々と飛んでくる光景は幕府軍の武士達に恐怖を与え続けていた。ただ、高低差のある戦いではなく平地での戦いであるため、こちらが弓矢での攻撃を受けるということは、こちらからも弓矢での攻撃ができるということである。北条泰時率いる幕府軍からの弓矢の攻撃は、徐々にではあるが確実に反逆軍にダメージを与え続けていた。
日がだんだんと昇ってきたタイミングで、反逆軍は受けているダメージが想像以上にあることと、足利義氏らの軍勢による包囲が進んでいることを悟り、いったん馬に鞭打って由比ヶ浜へと退却を決めた。北条泰時は後を追うにはダメージが大きいとして部下を率いて中の下馬橋に向かい防禦を固めることとした。
夜明けを迎えると鎌倉には雨が降り出し、戦乱の恐れから鎌倉を逃れた人達は和田義盛らの軍勢が由比ヶ浜に逃れたと知って鎌倉へと戻り始めていた。雨笠をかぶった面々が目の当たりにしたのは鎌倉のいたるところが戦場となり、戦乱の痕跡が残されていたことである。そんな中にあって中原広元は幕府の文書類を守るために、一時避難していた法華堂から政所へと戻っていった。
建暦三(一二一三)年五月三日の寅刻、現在の時制にして午前四時頃、和田義盛らとともに反逆軍に加わる予定であった横山時兼が、娘婿の波多野盛通や甥の横山五郎らを引き連れて腰越まで到着したところ、既に戦いが始まっていたことを知って愕然とした。しかも、この時点で反逆軍の食糧はもう尽きてきたという。横山時兼らがこのタイミングで腰越に到着したのはもともと五月三日に挙兵予定であったためであり、既に戦闘が始まっていたのは予定が前倒しになったからである。横山時兼らの到着は和田義盛にとっては貴重な援軍であったが、戦場に到着した横山時兼にとっては予定を台無しにする惨事が展開された後であった。三月一九日の庚申待で和田義盛の邸宅で行われていたのは挙兵のタイミングの打ち合わせであったのだ。それなのに、タイミングも失っている上に、三浦一族全体の参戦ではなく三浦一族の一部である和田一族の参戦に留まり、さらには三浦義村指揮下の軍勢がこぞって幕府側についているのを知って横山時兼は二重に愕然とした。
辰刻、現在の時制でいう午前八時頃、曽我、中村、二宮、河村といった相模国西部から伊豆国の御家人達の軍勢が武蔵大路から稲村ヶ崎に現れたものの、彼らはどちらが幕府軍でどちらが反逆軍かわからず、源実朝の御教書を求めた。この求めに応じて中原広元が征夷大将軍源実朝の名の御教書を作成させ、使者を送り、浜辺の軍勢に示させたことで御家人たちは帰趨を明らかにし、こぞって幕府軍につく。
ほぼ同時刻、千葉成胤が一族を引き連れて幕府軍に馳せ参じたことで幕府軍の軍勢はさらに勢いを増した。
しかし、反逆軍は自分たちと向かい合う軍勢が徐々に構築されていることを知って再び鎌倉市街に突入することを選択し、巳刻、現在でいう午前一〇時頃、反逆軍は再び鎌倉に突入。しかし、若宮大路では北条泰時と北条時房が、大町大路では足利義氏が、名越では源頼茂が、大倉郷では佐々木義淸と結城朝光が陣を張っているために反逆軍は容易に突破できず、由比浦から若宮大路にかけての一帯で合戦となった。
吾妻鏡では五月三日の戦いで活躍した御家人達の様子を書き記す。鎌倉市中の至る所で戦闘が繰り広げられ、多くの御家人が命を落とし、また、北条泰時をはじめ命の危機に直面した武士も数多く出た。
情勢は反逆軍不利に進み、酉刻、現在でいう夕方六時頃、和田義盛の四男の和田義直が伊具盛重に討たれたことがきっかけとなって反逆軍は瓦解していった。
息子の死を知った和田義盛は戦意を喪失し、うなだれてふらつきだしたことで大江能範の部下に討ち取られた。これと前後して、五男の和田義重、六男の和田義信、七男の和田秀盛ら首謀者七名も討ち取られ、朝比奈義秀らは、海岸へ出て船で安房国へと逃亡した。船で逃走した者はおよそ五〇〇騎、乗り込んだ船は六艘である。和田常盛、山内次郎、岡崎実忠、横山時兼、古郡保忠、和田朝盛の六名は戦場から逃亡した。
戦乱終結を受け、北条義時と中原広元の両名が書状を記し、源実朝の花押を載せた書状を京都へ送りだした。和田義盛らが反乱を起こしたものの制圧したこと、しかし、逃げ延びた者が多くいることを告げ、早々に反逆軍の生き残りや協力者を処分しなければならないことを告げている。
ただし、戦乱の途中から既に京都に向けて情報が送られていたようであり、藤原定家はその日記に和田義盛らの反乱についての詳細を記録している。なお、藤原定家によると、吾妻鏡ではあまり記されていない五月三日の三浦一族の様子について、三浦一族が反逆軍の前に立ちはだかったことで反逆軍の動きがかなり制限され、三浦一族の活躍によって幕府軍の勝利となったと記している。その一方で、吾妻鏡で高らかに歌いあげている北条泰時の活躍はほとんどと言って良いほど日記には記していない。
これにより、二日間に亘って繰り広げられた和田合戦は終わりを迎え、少なくとも都市鎌倉での戦闘は終結を迎えた。
建暦三(一二一三)年五月四日、和田常盛と横山時兼は甲斐国大菩薩峠で自ら命を絶ったとの知らせが届いたと同時に、この二人の首も鎌倉に届けられた。この二人を含め、片瀬川の浜で二百三十四の晒し首が並べられた。
同日辰刻、現在の午前八時頃、征夷大将軍源実朝が源頼朝の墓所である法華堂から、北条政子の住まいである東の御所へ移った後、西御門に移ってこの二日間で負傷した武士達を呼び集めて実態調査に入った。この日確認できた限りでは百八十八名を数えた。その中には兄の北条泰時の肩を借りてようやく歩くことができるほどの重傷を負った北条朝時がいた。
なお、このあとで和田合戦での戦乱の功績を巡る口論があり、吾妻鏡ではここでようやく三浦義村が自らの軍功を誇る姿を見せている。合戦の描写で三浦一族の様子が記されていなかった一方で、合戦後の描写で三浦一族の活躍が三浦義村の口頭での主張という形式であっても、また、それが口論の内容であるにせよ、三浦義村の語る内容が京都の貴族の日記に残っている内容とほぼ合致していることとを踏まえると、吾妻鏡の編纂者が悪意を以て編纂していようと三浦義村の主張は事実を述べたとも言えよう。ちなみに、ここで三浦義村の口論相手となった波多野忠綱は、歴史資料に残っている言葉であるものの、さすがにここに書き記すに憚られる言葉を三浦義村に投げかけて周囲をドン引きさせている。
翌五月五日、和田義盛や横山時兼をはじめとする反逆軍の参加者の領地や、美作国や淡路国などの守護職、横山荘をはじめとする主だった者の領地をまず取り上げて、手柄を立てた褒美に充てることにし、その役割を北条義時と中原広元の両名が中心となって実施することとなった。
また、和田義盛の死によって空席となった侍所別当については北条義時が就任することとなり、この瞬間、鎌倉幕府の執権職が事実上成立した。ただし、執権という役職が誕生したわけではない。政所別当と侍所別当の二つの職務を兼任した御家人が誕生したという図式である。
侍所別当としての北条義時の初仕事は、合戦記録をまとめることである。
吾妻鏡によると建暦三(一二一三)年五月六日の日付でこのたびの合戦の記録がまとめられている。
反逆軍参加者の死者および行方不明者は以下の通り。
【和田一族】
和田義盛 和田常盛 朝比奈義秀 和田義直
和田義重 和田義信 和田秀盛 和田朝盛
同八郎 同五郎 同宮内入道 同弥次郎
同弥三郎
以上十三人
【横山党】
横山時兼 箭内の六郎 平山次郎 同小次郎
粟飯原太郎 同小次郎 同藤五郎 田名の兵衛
田名の太郎 岡野次郎 小山太郎 ちみう次郎
同太郎 同次郎 同五郎 古郡保忠
同五郎 同六郎 同甥一人 同弟二人
同次郎 椚田太郎 同次郎 同五郎
同三郎 同五郎 同又五郎 横山六郎
同七郎 同九郎
以上三十一人
【土屋の人々】
土屋義清 同新兵衛 同次郎 同三郎
同四郎 薗田成朝 同太郎 同次郎
屋紀伊七郎 同次郎
以上十人
【山内の人々】
山内左衛門 同太郎 同次郎 岡崎実忠
同太郎義国 同次郎実村 由井太郎実常 高井重茂
名平の小次郎 同七郎 大多和久盛 同五郎久村
大方小次郎 同五郎政直 成山四郎 同太郎
同次郎 高柳小次郎 同太郎 同次郎
以上二十人
【渋谷の人々】
渋谷先三の次郎 同三郎 同五郎 同小次郎
同小三郎 中山重政 同太郎行重 同次郎
以上八人
【毛利の人々】
毛利景行 同小太郎 同小次郎 森辺五郎
甥一人 彦一人 渋川左衛門 同小次郎
同左衛門太郎 同次郎
以上十人
【鎌倉の人々】
梶原朝景 同太郎 同小次郎 宇佐美平太
大庭小太郎 土肥小太郎 豊田平太 四宮三郎
同太郎 愛甲小太郎 同三郎 同五郎
金子太郎
以上十三人
【その他戦死者】
逸見五郎 同次郎 同太郎 海老名季綱
同太郎兵衛 同次郎 同三郎 同四郎
荻野の八郎 六浦三郎 同平三 同六郎
同七郎 松田三郎 同小次郎 同四郎
同六郎 同七郎 我孫子の三郎 同四郎
ささのぶの六野太 波多野盛通 同太郎 同弥次郎
こさの入道 同禅師八郎 同五郎 塩谷三郎
同太郎 かせの弥二郎 白根与三次郎 佐那田春八
片平の弥八 同太郎 同次郎 同三郎
津久井の七郎
以上三十七人
【捕虜になった人々】
愛甲左衛門 同太郎 おほちはの三郎 村岡五郎
同太郎 同三郎 同四郎 荻野の弥八郎
同太郎 冨田三郎 三浦高井太郎父子 小高太郎
同次郎 金子与一太郎 同奥次 宇佐美平左衛門
をしぬきの野三 同太郎 深沢の次郎景家 高麗の太郎
高田次郎 同中八太郎 同四郎 菰の次郎
薗田六郎 同太郎 むかいの四郎
以上二十六人
吾妻鏡に注記があるように、上記の表は今回の戦いで反逆の一員として戦った主な御家人の名であり、その御家人に仕える従者や、御家人としてカウントされていない武士は除外されている。また、表に挙がっている人物と吾妻鏡の末尾に記された一族単位の人数とに差異があるが、末尾の数値は吾妻鏡に記載されているままの数値である。なお、山内の人々として戦死したと挙げられている者のうち、岡崎実忠とその息子の岡崎義国と岡崎実村の三名はいったん捕縛された後に打ち首になった者である。
その後、幕府軍の一員として戦って戦死した者を吾妻鏡は列挙している。こちらもまた主な御家人の名を記すのみであり、御家人に仕える従者や、御家人ではないと扱われている武士は除外されている。人数の差異も吾妻鏡の数値そのままである。
【味方で殺された人々】
筑後四郎兵衛 壱岐兵衛 同四郎 安東四郎兵衛
伊那の兵衛 染山の刑部 同太郎 古賀の太郎
土方の次郎 大貫の五郎 小川馬太郎 高部の左近
藤十郎 都幾川の七郎 神野左近 帥山禅師八郎
新平右馬允 冨所次郎 同小次郎 同太郎
沼田七郎 同次郎 五条七郎太郎 林太郎
黒田弥平太 平野与一 冨岡五郎 河井藤四郎
山田次郎重隆 西山大八 同太郎 片山刑部太郎
同八郎太郎 志多賀の小次郎 泉六郎 松本九郎
藤三 蓮乗坊 海野左近 高井の兵衛
林内藤次 津久井のさい太郎 五十嵐小豊次 藤五五郎
冨士四郎 栗林加藤次 筑紫の税所次郎 殿岡五郎
足洗四郎 与田小太郎 押足の三郎
以上五十人
その他に幕府軍の負傷者は千名以上を数えた。
建暦三(一二一三)年五月七日、今回の和田合戦での報償の打ち合わせが始まった。反逆軍の面々の保有していた所領を幕府軍の一員として戦い、戦功を残した者に配ることは決まっているが、誰がどこを手にするか、また、誰が行賞の対象者となるかについてゴタゴタが起こった。特に、三浦義村と口論となったあげく三浦義村を口汚く罵倒した波多野忠綱については、戦功を残したらしいのだがはっきりとした証拠がないことに加え、三浦義村に対する罵倒の言葉の汚さ、さらにその言葉を吐いたのが源実朝の目の前であったことが災いして、波多野忠綱個人に対する報償は認められず、次男の波多野経朝への報償ならば認められることとなった。
以下が和田合戦において反逆軍の一員であったがために没収された所領と、その所領を受け着いた者である。
これらの所領は反逆軍に参加した者、また、同調した者の所領である。
また、反逆軍に参加して命を落とした者や捕虜となった者の名も新たな侍所別当である北条義時の手によって一覧化されている。
しかし、反逆軍の全員が幕府の手に落ちたわけではない。戦場からの離脱に成功した者もいるし、そもそも戦闘に参加しなかった者もいる。鎌倉から遠いところにいた者の場合は、和田義盛と同調するという意思を内外に示していたとしても鎌倉まで赴く時間など存在しない。
建暦三(一二一三)年五月八日、山内首藤経俊が、和田義盛に同調することを明言していた山内政宣を捕縛している。これにより、現在の埼玉県八潮市に存在していた山内政宣の所領は没収となっている。なお、これで山内首藤経俊に特別な褒賞が与えられたという記録はない。
一方、報償を得ながら辞退した者もいる。
他ならぬ北条泰時がその人物である。
父も関与しての報償分配に対し、そもそも和田義盛は北条義時打倒を訴えて挙兵したのであり、北条泰時も幕府軍の一員として戦ったという側面もあるが、同時に父を守るために戦ったのであって、それは特別な報償の対象とならないとしたのである。また、幕府を守るために戦って和田義盛らの軍勢に殺害された者もおり、彼らは報償どころか家族を養うこともできなくなったことを考えるべきとし、北条泰時は自らに配布された報償の所領を返上した後、合戦の戦死者遺族の救済に充てるよう父に求め、北条義時も息子の意に応えた。
山内首藤経俊にしてみれば、捕縛はしたものの合戦には参加していない自分が、実際に軍勢を率いて戦った者を差し置いて報償を願うなど許されないと実感されられる状況である。それにしても山内首藤経俊という人は何かと貧乏クジを引かされる運命にあるようである。あるいは自らわざわざ貧乏クジを選ぶ人生を歩んでいるというべきか。
さて、何度も繰り返しているが、この時代の情報伝達網は鎌倉と京都の間が片道七日往復半月である。つまり、建暦三(一二一三)年五月二日にはじまり三日に終わりを迎えた合戦の情報が京都に届くのは、早くても五月九日ということとなる。実際、藤原定家の日記には五月九日のこととして鎌倉の合戦の情景が描かれている。
また、京都に対しては合戦が起こったという第一報、合戦終結を告げる第二報が既に送られているが、その後の対処についての第三報がまだ送られていない。
建暦三(一二一三)年五月九日、北条義時と中原広元の両名が連名で合戦後の後始末を告げる書状を送付している。
その書状の内容をまとめると、鎌倉に来るな、である。
鎌倉で合戦が繰り広げられたという情報が飛んでただちに鎌倉に向かう者が現れたが、前述の通り、京都から鎌倉まで急いでも七日はかかる。その上、彼らは合戦勃発を告げる第一報を知って直ちに動き始めたため、鎌倉に到着した頃には戦乱が終結したあとの後始末のタイミングということになる。これだけを考えればまだ笑い話で済む。
しかし、土地を離れて鎌倉に向かうことは大問題となる。反逆軍の一員が潜んでいる可能性が高いのだ。鎌倉幕府の御家人が鎌倉を守るために京都をはじめとする任地を直ちに出発した場合、今度はその任地で戦乱が起こる可能性がある。
また、特に京都が顕著であるが、御家人がこぞって任地から離れようものなら鎌倉以外の土地における鎌倉幕府のプレゼンスが落ちてしまう。守護にしろ、地頭にしろ、鎌倉幕府の御家人が目を光らせることで治安維持を図り、治安維持の実績を以て鎌倉幕府の権威を構築しているのである。その権威が一瞬でも失われようものなら鎌倉幕府の存在価値に関わる大問題にも発展してしまう。
書状では、特に院の御所の警護に務めるよう記している。後鳥羽院は、既存の北面武士だけでなく、新たな武士集団である西面武士を組織している。ここで何かあったとき、具体的には反逆軍の残党が暴れ出したとき、後鳥羽上皇は鎌倉幕府ではなく西面武士を出動させることが可能だ。これは鎌倉幕府の存在価値を喪失させる大問題である。反逆軍は鎌倉幕府の内部問題なのだ。鎌倉幕府内部で処理できればどうにかなるが、鎌倉幕府内部で処理しきれず西面武士が反逆軍と向かい合うような事態が起こってしまったら、鎌倉幕府の存在意義そのものに絡む話となるのである。
鎌倉幕府はここで、反逆軍の残党が九州に逃げたという話があるので、京都在中の御家人を京都に留めておくよう佐々木広綱に命じている。
なお、これは反逆軍の残党というわけではないが、和田胤長が流罪先の陸奥国岩瀬郡、現在の福島県須賀川市あたりで処刑されている。
さて、ここでもう一度、泉親衡の乱から和田合戦に至る流れを、別の角度から振り返ってみると別の側面が見えてくる。
まず、反逆軍として和田義盛とともに戦った武士達は、そのほとんどが相模国を根拠地とした武士であることがわかる。例外として挙げる武士となると和田義盛およびその息子と姻戚関係にあった横山家の面々ぐらいで、その他の武士はその多くが相模国の武士である。さらに言えば、名の挙がる全員が源頼朝の時代から鎌倉方の一員であった武士達である。
一方、鎌倉幕府側で戦った武士達を調べると、三浦義村などのように相模国の武士もいるが、相模国以外の土地を本拠地とする武士達が多いことがわかる。そして、もっと注目すべき点として、鎌倉幕府に直接仕えている御家人だけでなく、北条家に仕えている武士の名が列挙されている。吾妻鏡は北条家の記した鎌倉幕府の正史であるため、北条家にとって都合良く脚色されることもあり、また、吾妻鏡に記載するか否かの判定条件を北条家との関わりが深いか否かで決めることもある。正体不明の武士の名が吾妻鏡に列挙されているのも、彼らが鎌倉幕府の御家人ではなく北条家に仕える武士であったからである。
そこで泉親衡の乱から和田合戦に至る流れを振り返ると、相模国の勢力争いではないかという説が登場する。源頼朝が挙兵するまで伊豆国の武士であった北条家は相模国における新興勢力であるが、その新興勢力の北条家のトップである北条義時が鎌倉幕府において権力を握っただけでなく朝廷からも相模守として認められた存在である。源平合戦から鎌倉幕府草創の流れにおいて源頼朝とのつながりを前面に掲げて権勢を掴み、現在進行形で相模国に勢力を築き上げている北条家は、従前からの相模国の武士団にとって承服しがたい存在であったろう。
先にも述べたが、泉親衡の乱とはいうものの、勃発前まで無名の存在であったとするしかない泉親衡が、はたして反乱を起こせるほどの人員を集められるであろうかという疑念は当時から存在しており、黒幕は他にいるという説はこの時代から存在していた。たとえば藤原定家は自分の日記に、泉親衡の乱の首謀者は和田義盛であると記している。それも、藤原定家が耳にした情報として、和田義盛が反乱を企てたものの事前に露見して失敗して息子達や甥も逮捕され、和田義盛は源実朝に対して自分は無関係であると許しを請うたという噂話やラクガキが広まっていたとある。ただし、その記載をしているのは五月九日の日記であるから、時系列としては和田合戦勃発の第一報が京都に届き、戦乱の推移や結果がまだ届いていない頃の日記ということとなることは差し引く必要があることも忘れてはならない。
北条義時と中原広元の両名から京都在中の御家人に対して書状が発せられたのが建暦三(一二一三)年五月九日。この書状は後鳥羽上皇の目にも止まり、後鳥羽上皇から源実朝に対する返信の書状を持たせた使者が鎌倉に到着したのが五月二二日のことである。
それはなんともタイミングの悪い話であった。
使者到着の前日である五月二一日の正午頃、鎌倉で巨大な地震が発生したのだ。大地が鳴動し、家が破壊され、山は崩れ、大地は割れたというのだから、その地震の規模は相当なものであったろう。ただし、地震の後でやってくることの多い火災と、鎌倉が海に面した都市であるがゆえに危惧しなければならない津波については、その双方とも記録に残されていない。鎌倉幕府の正史である吾妻鏡だけでなく、この時代の貴族の日記にも、地震については記してはあっても火災や津波については記録に残していないので、双方とも起こらなかったと推測される。
それでも和田合戦の記憶も生々しく残っているだけでなく、反逆軍の残党の懸念も捨て去ることのできぬ状況下で発生した巨大地震である。都市鎌倉に住む全ての人、そして、関東地方や東海地方に住む御家人達にとってこの地震は、将来を悲観させる天譴ともいうべき自然災害に感じたであろう。
そして、このような流言飛語が飛び交った。
これから二十五日以内に合戦がある予兆である、と。
源実朝はこのときのことを「太上天皇の御書を預りし時の歌」として和歌に詠み、後に金槐和歌集にも載せている。
山はさけ 海は浅せなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも
(山が裂け、海が干あがってしまう世であっても、後鳥羽院に背く心は私にはありません)
との意である。
鎌倉は巨大地震による動揺が起きていたが、京都では情報不足による混乱が起こっていた。リアルタイムでの情報連携が可能な現在でも情報不足は簡単に憶測や混乱生み出す。ましてや鎌倉から京都までの情報伝達に片道七日を要するこの時代、京都にいる人のもとに鎌倉で不穏な動きが起こっているという知らせのみが届き、その詳細がまだ京都に届かないという状況下では、京都で混乱が起こらないとしたらその方がおかしい。
五月二二日に京都から鎌倉へと到着した使者が伝えたところによると、京都内外では様々な流言飛語が飛び交い、京都から鎌倉に向かおうとする京都駐在の武士達を京中警固のために後鳥羽院が留まらせているという。反逆軍の残党や協力者は鎌倉だけでなく京都にも存在しているであろうし、さらには西日本にも存在しているであろう。そうした面々が京都までやってきて暴れようものなら、起こりうる被害とは木曽義仲の前例を繰り返すレベルのものとなる。そして、そうなった場合の責任は源実朝に行き着くこととなる。
源実朝は自分が後鳥羽上皇に忠実に仕える者であり、また、朝廷に刃向かうなど全く考えていないと明言することで当面の危機を食い止める必要が存在した。
また、後に和田合戦と呼ばれる戦乱が鎌倉市中で起こったことは認めたが、その合戦はもう終わり、今は戦乱後の事後処理中であると宣言する必要もあった。これにより、公的には和田合戦が五月三日で終わったとされた。
建暦三(一二一三)年六月二五日、備後国、現在の広島県から広沢実高が鎌倉へ戻ってきた。和田合戦から遠く離れた地で、その余波が広沢実高の身に押し寄せたからである。
源頼朝は京都と鎌倉との間の情報網を整備し、従来は片道に半月を要していた情報のやりとりを半分の七日で済ませることに成功した。
ただし、この情報網が日本列島の全てで構築されていたとは言いがたい。交通網は飛鳥時代の街道整備が基準であり、この街道をベースとして奈良時代から平安時代に掛けてアップデートされてきたという図式である。源頼朝はその図式のうち、鎌倉と京都との間の交通を整備したのだ。そして、鎌倉と京都との間を結ぶ経路の大部分を占める東海道は利用者が増えたためにさらに整備が進むこととなり、交通事情のさらなる改善が情報伝達の迅速化を増していった。
問題は、そこまで利用者が増えたわけではない道である。飛鳥時代に整備された駅路は中央が地方を統治するために敷かれており、当初は大和国、平安京遷都後は山城国から各地方に向けて放射線状に道路が伸びている一方、地方と地方とを結ぶ経路が整備されたとは言いがたい。それでも需要があれば道路整備も進んでくるが、需要がなければそのまま放置される。
鎌倉幕府は相模国鎌倉郡に根拠地を置いており、鎌倉幕府の御家人の多くは関東地方や、伊豆国、甲斐国、信濃国の御家人であるので、鎌倉幕府内部の情報連携という意味では相模国から各地に御家人の本拠地に向けての情報のやりとりができる環境を整備すればそれで事足りる。
問題はその他の土地。
鎌倉幕府は各地に守護や地頭を置いたが、守護にしても、地頭にしても、頻繁に鎌倉との情報のやりとりをするわけではなく、かなりの裁量を与えられた上で任地に赴任している。というより、頻繁な情報のやりとりができる環境にないので、それなりに大きな裁量が事前に与えられていないと守護や地頭としての役職を果たすことができない。
これらが重なるとどうなるか?
鎌倉幕府と頻繁に情報のやりとりをするわけではない土地は、鎌倉からの情報がそこまで素早くやってくるわけではなくなる。特に京都より西の地域は、鎌倉から直接情報が届くのではなく京都経由で情報が届くこととなるのだが、鎌倉から京都までどんなに素早く情報を送れたとしても、京都からはこれまでと変わらない情報伝達スピードとなる。
和田合戦においては鎌倉から三度の情報が発せられている。五月二日の戦闘開始、五月三日の戦闘終了、その後の戦後処理の三度である。
この情報を京都より西で接したならばどうなるか?
特に鎌倉幕府から派遣された者が第一報に接したならば、鎌倉では既に問題が収束しているのに、鎌倉からの距離の遠さが理由で新たな問題を発生させてしまう。特に、本人は和田合戦の反逆軍に参加していないのに和田一族やその近親者と扱われると、無関係なのに余計な詮索が動いてしまう。広沢実高はそうした和田義盛と親しい人物の一人であった。しかも広沢実高は、瀬戸内海の海賊を討伐すべく準備を整えていたために、まさに結集させている軍勢が和田合戦の反逆軍の軍勢とみられてしまったのである。これでは海賊討伐どころの話ではない。いったん鎌倉まで戻って改めて源実朝の指令を発給してもらうことで、海賊討伐作戦を再開する目処を立てなければならなかったのである。
大倉御所は治承四(一一八〇)年に源頼朝が鎌倉入りして以降、源頼朝の住まいであると同時に鎌倉方の根拠地となっており、鎌倉幕府草創後は鎌倉幕府の所在地となった。ただし、鎌倉幕府の全てが大倉御所に集結しているわけではなく、たとえば侍所は大倉御所の中に存在しているものの、政所と問注所は大倉御所の敷地外であり、政所は北条義時の邸宅と大倉御所の中間、問注所に至ってはは大倉御所から少し距離を置いて存在している。大倉御所は、内裏は無論、里内裏ほどの敷地面積も持っていないのだ。
その大倉御所が和田合戦で焼け落ちたために再建することとなったが、和田合戦で侍所別当和田義盛が命を落としたこともあり、侍所別当の職務は政所別当北条義時が兼務することとなったため、臨時ではあるが侍所は政所に移されている。そのため、鎌倉幕府として必要な建物のうち、源実朝の住まいなど一部の建物を除いては、急いで復旧させる必要性は必ずしも存在しない。
建暦三(一二一三)年六月二六日、北条義時、北条時房、中原広元が集まって御所修復工事の日程についての話し合いが執り行われた。陰陽師を呼んで吉日を選ぶという、京都の貴族であれば執り行うような手順での復旧工事が予定された。なお、復旧工事が完了するまでは中原広元の邸宅が臨時の御所となっている。
吾妻鏡にしろ、京都の貴族達の日記にしろ、愚管抄にしろ、源実朝の行動については記録として書き記すことはあっても、源実朝自身の思いを書き記すことはない。いや、これは源実朝に限ったことではないが、歴史上の人物の思いはその人自身が何らかの形で思いを外に発露しない限り記録に残ることはない。
裏を返せば、その人自身が残した文書や発言が現在まで残っていれば、その人がどのような思いを抱いていたのかある程度推測できる。それは、自己を表すことなく客観的な描写に徹底したという評価を得ているカエサルのガリア戦記ですら例外ではない。
では、源実朝はどうか?
この人が口にした言葉が直接歴史書に残されることは無い。
しかし、この人の編み出した言葉はいまも残っている。
そして、その言葉から源実朝の思いを推し測ることができる。
和歌がそれだ。
和田合戦の後に源実朝が詠んだ和歌が金槐和歌集に採録されていることは既に記したとおりであるが、どうやら源実朝は和田合戦に関連して詠んだ和歌を、それも複数の和歌を後鳥羽上皇のもとへ届けたようなのである。また、和歌を届ける際には起請文も添えたようなのだ。
実は、金槐和歌集に「太上天皇の御書を預りし時の歌」として採録した和歌は一首だけではない。金槐和歌集は全部で六六三首が採録されており、先に挙げた和歌の他に二首、計三首は後鳥羽上皇のために捧げた和歌であると推測されているのである。
源実朝の心情を和歌から読み解くと、源実朝自身の精神的疲弊と、その疲弊を乗り越えなければ鎌倉幕府の存続問題まで発展することの危機感が読み取れる。建暦三(一二一三)年時点の源実朝は数え年で二二歳、満年齢では二十歳から二一歳であり、現在の感覚でいくと成人式を迎えたばかりの若者である。その若者が、自らの疲弊と向かい合いながらも自分達の存続のために現実に向かい合う責任感と直面し続けているのである。
そんな源実朝にとっての数少ない救いとなっていたのが和歌であり、源実朝が和歌に浸ることについては誰も何も言わず、北条義時や北条泰時、東重胤らが御所に集って和歌の会を開催するなど、御家人達も和歌に親しむようになった。
和田合戦の後始末は戦乱から二ヶ月を経ても完了していない。
完了していないのは当然で、反逆軍に加勢した者の中には戦場で討ち取られた者だけでなく、戦場からの脱出に成功した者、そして、そもそも戦場に到着しなかった者もいる。
さらに、グレーゾーンの者も多くいる。
和田合戦はクーデタであるため、クーデタ鎮圧後の鎌倉幕府としては微妙な対処としなければならない。
たとえば、和田一族ないしはその親族である、あるいは、和田一族とプライベートから親しいというのは、必ずしも有罪とはならない。鎌倉にいて鎌倉幕府の軍勢の一員として北条泰時や三浦義村らとともに反逆軍と戦ったというのならば何の問題も無いばかりか称賛の対象にすらなる。しかし、鎌倉から離れた場所にいた人の場合は反逆軍に加担していないという確実な証拠がない限り、反逆軍の一員ではないという証拠がどこにもないという状況となる。
さらにここに、鎌倉から距離があるために情報が不足していることの起因する情勢不穏が存在する。和田合戦のスタートが不意を突いての挙兵であるため、和田合戦に反逆軍として参加できたのは五月二日から五月三日に掛けて鎌倉にいることができた者に限られ、鎌倉から距離がある場所にいた者で、かつ、和田一族の一員や親しいと扱われた人は怪しまれる。広沢実高のように、鎌倉幕府からの海賊討伐命令が出たために軍勢を結集させていたのに反逆軍の一員と見なされてしまったため、改めて鎌倉に赴いて反逆軍と無縁であるという証明を得た者がいたほどである。
鎌倉幕府としてとりうる選択肢はただ一つ、一人一人それぞれ個別の対処しか無い。グレーゾーンと扱われている全ての人を十把一絡げにして扱うのは、単純明快なように思えて、実際にはグレーゾーンとそうでない人との間の境界線上の扱いが難しくなる。そのような難しさは取り返しのつかない災厄を生むことがある。本来ならば無罪としなければならないのに有罪と扱われる、あるいはその逆に、有罪とすべきところを無罪放免となってしまう。そのどちらも問題が存在する。だったら、一人一人それぞれに状況を判別し、一人一人それぞれに判断を下すほうがまだマシである。
建暦三(一二一三)年七月以降の吾妻鏡の記録には、和田合戦において反逆軍の一員として見なされた者、さらには反逆軍の一員で戦場からの逃亡に成功した者についての扱いが次々と出てくる。
ちなみに、源実朝から示される基本姿勢は、無罪放免、もしくは厳重注意の上での職場復帰という、クーデタに対しての処罰としてはかなり軽いものである。優秀な武人であれば鎌倉幕府の一員であり続けるべきであるとする源実朝の意思がそこにはあった。
鎌倉でクーデタが起こったという知らせは鎌倉でも唐突なニュースであったが、京都ではさらに衝撃的なニュースであった。
なぜか?
これはクーデタというものの宿命であるが、一時的に軍事力が空白になる。鎌倉幕府が京都に軍事力を置いていた理由は鎌倉が京都に睨みを利かせる目的もあったが、睨まれる側である朝廷や院にとっても、鎌倉幕府の軍事力が京都に、より正確に言えばギリギリで平安京の区画外である鴨川東岸の六波羅の地に鎌倉幕府の軍事力があることは求めていた。朝廷にしても、院にしても、軍事力が目と鼻の先にあることは驚異であるものの、白河院政の時代から続いていた寺社の武装デモに対処できる軍事力が京都近隣に存在するほうが、すなわち、寺社に対して鎌倉幕府の圧力を見せ続けることのほうが重要であったのだ。
その軍事力が一瞬にしていなくなった。ゆえに、衝撃的なニュースとなったのだ。
実際には鎌倉幕府の軍事力がまだ存続していたのであるが、これまで鎌倉幕府の軍事力と対峙していた寺社勢力にとっては、自分達の敵が一瞬にして消えたかのように見えたのだ。ただし、和田合戦もそうであったように、個人ならばともかく集団での暴発というのは、何の前触れもなくいきなり起こるわけではなく、事前にある程度の計画をしている。計画をして、タイミングを見計らって行動を移すのが通常だ。
先に寺社勢力の武装デモに対処する軍事力と記したが、武装デモは朝廷や院だけが対象となるのではなく他の寺社も対象となる。このあたりは二〇世紀の左翼の内ゲバと同様で、外部から見れば仲間内でのことなのに仲良くできないものかと思うが、当事者からすればどうしても受け入れられない差異となる。この差異が内ゲバを生み出し、武装した僧兵同士の乱暴狼藉が始まる。その乱暴狼藉は寺社の内部だけで完結するわけはなく、周囲に多大な迷惑を掛けることとなる。その多大な迷惑を強引に沈静化させる役割を鎌倉幕府の武士達が担っていたのだが、その武士達が和田合戦の余波で動けなくなったかのように見えた。
こうなると埋もれていた内ゲバの炎は容易に蘇る。
あとはきっかけがあれば怒りを生み出し、怒りが生まれれば集団暴徒が誕生する。目的は暴れることそのものであり、何かしらの問題を解決することではない。
建暦三(一二一三)年七月二五日、清水寺と清閑寺との間で裁判が起こった。清閑寺の領地に清水寺の僧侶が堂を建立したことを訴えたのである。ここまでであれば現在でも土地の所有者が民事訴訟を起こす内容であるから納得できる。
しかし、裁判と同時に、清水寺と清閑寺との対立から延暦寺と興福寺の対立へと発展したのだ。清閑寺は比叡山延暦寺の末寺であり、この時代の清水寺は興福寺の末寺となっていた。つまり、末寺同士の争いがトップ同士の争いとなり、双方とも僧兵を繰り出す事態へと発展したのだ。
延暦寺の僧兵が清水寺に攻め込もうという動きになったため、清水寺は寺院の周囲にバリケードを構築して対抗することとした。修学旅行等で清水寺を訪れたことのある人ならばわかると思うが、清水寺は山の中腹にある寺院であり、参詣者はかなりの坂道を登らなければ参詣できない。これを清水寺へと攻め込もうとする側から捉えると、清水寺は西側にのみ参道があって東側にある山岳地帯から攻め込むのは困難であるため現実的ではない以上、坂の下から坂を上って攻め込むしかないと考えるし、これを守備側から捉えれば坂道の途中にバリケードを築けば自分達を守りやすくなると考える。
バリケードが築かれたならば、そのまま攻撃しようものなら簡単に打ち負かされてしまうことぐらいわかる。攻撃するならば状況を分析した上で計画的に行動しなければならない。そのため、延暦寺の僧兵達は長楽寺に集まって攻撃準備を整えることとなった。
これまで幾度となく繰り返されてきた延暦寺と興福寺の争いが再び起ころうとしているのである。朝廷としてもこれを見逃しておくわけはなく、八月三日に、清水寺に対してはバリケードを取り除くこと、長楽寺に対してはただちに武装解除を命じた。
清水寺は、検非違使として派遣された平有範、大内惟信、後藤基清らの有言無言の圧力によってバリケードの破壊と武装解除を命じることに成功した。しかし、長楽寺については失敗した。検非違使だけではなく後鳥羽院の院司らも派遣したのであるが、院司らからの説得に対し、長楽寺に詰めかけていた延暦寺の僧兵らは、順徳天皇からの仰せを伝えようとしているのを遮って、命など惜しくないと述べただけでなく、朝廷からの指示にも従わないとしたのだ。そしてこれは現在でも見られることであるが、これから暴動を起こそうとして殺気立っている面々に対して説得しようとしても、まともに受け入れられないどころかブーイングが飛んでくるし、民度が低い相手だとゴミなどが飛んでくる。このときの長楽寺も同じで、ゴミではなく石礫が飛び交うまでになってしまったのだ。
もはや暴徒の暴発は時間の問題だと考えた後鳥羽上皇は、北面武士や西面武士を動員しただけでなく、京都駐在の御家人にも呼びかけて、長楽寺を包囲して僧兵達を逮捕するように命じた。長楽寺は清水寺と同様に西に参道があって東に山が広がるという山の中腹にある寺院であるが、寺院の位置は清水寺よりかなり低い。また、清水寺の東にはかなり高い山岳地帯が広がっているのに対し、長楽寺の東の山岳地帯は清水寺より低い。しかも、京都駐在の鎌倉武士の中には源平合戦をも経験した歴戦の猛者もいるし、その者を師として訓練を受けてきた武士もいる。そのうちの一人である大内頼茂は、長楽寺に立て籠もった僧兵達が攻めてくるだろうとは考えなかった方角である東に陣を敷き、旗を掲げることに成功した。
いかに武装デモで暴れ回っている僧兵であろうと、源平合戦を経験した武士達からすればどうということのない集団である。長楽寺に詰めかけた僧兵達は自分達の立場が厳しくなっていることを悟り、どうにかして逃走しようとしたものの多くの僧兵が捕虜となって後鳥羽上皇のもとに連行されることとなった。捕虜となった僧兵は二〇名を数え、さらに殺害された僧兵も数多く出た。
延暦寺への対処はこれで終わることなく、八月六日には比叡山の僧兵達に比叡山を下りること、多くの僧兵を輩出していた根本中堂と常行三昧堂の扉を封鎖すること、さらには常明灯を消すよう命じたという。ただし、延暦寺に残る記録によると、常明灯こと「不滅の法灯」は、延暦七(七八八)年から一度も消えることなく、元亀二(一五七一)年の織田信長による比叡山焼き討ちのときに消えてしまう危機があったことが記されているのみなので、このときは消されなかった可能性が高い。
この一連の流れは全て事後報告として鎌倉に届いたが、事後報告となったことについて鎌倉から特にアクションは起きていない。京都から鎌倉への情報連携は整備してもなお片道七日を要するのが一般的であるこの時代、問題の早期解決は事後報告となってもやむを得ない話である。
建暦三(一二一三)年八月二〇日、大倉御所の再建が完了し、源実朝が大倉御所へと戻ることとなった。吾妻鏡によると牛車を引く牛は用意できたものの肝心の牛車が用意できなかったため、源実朝は輿を使って大倉御所に移ることとなったという。
これは吾妻鏡の恒例であるが、こうした儀式に誰が参加し、行列はどのような構成であったかを事細かに記録している。
以下が、吾妻鏡に記された行列である。
これだけの行列が中原広元の邸宅から大倉御所のもとに移るための行列として組織されたのであるが、中原広元の邸宅は大倉御所の目の前にある邸宅である。果たしてここまでの行列を組織する必要はあるのかと思うが、鎌倉幕府の面々からしてみれば、これほどの壮麗な行列を組織するほどの一大イベントなのだとアピールすることは悪い話ではない。
そもそも、これぐらいの規模の行列を組むのは、京都の上級貴族であれば珍しくもない。誰もがやっているとまでは言わないが、源実朝の位階である正二位の位階を持つ貴族であれば当然の光景である。ただし、その行列に誰が参加するのかという点で、源実朝の組んだ行列の構成は異例である。京都ならば、行列に武士が加わることはあってもそれはあくまでも行列を守るための護衛であり、行列そのもののメインではない。だが、鎌倉ではまさに武士である御家人達が行列のメインとなっている。
そう、この行列は、自分達のトップが京都の貴族に匹敵する位階を持つ貴族であることを再認識させるだけでなく、御家人達が行列に加わることによって自分達自身が壮麗な儀式の一翼を担っていると意識させる効果があったのだ。自分達のトップはこれほどの行列を組める上級貴族であり、自分達はここまで壮麗な儀式をするほどの集団なのだという意識は、ケチな人だと断じて思いつかない効果を生み出す。費用対効果を考えるならばケチよりも遙かに優れている。
行列の壮麗さだけが御家人達の意欲を高めるのではない。大倉御所に到着した後、陰陽師安陪親職と彼に仕える二人の少女が先導し、源実朝は御所の寝殿へと入っていった。
その次に北条政子が、源親広と狩野行光が随行して入っていった。
その後、陰陽師安陪親職が褒美を与えられて退席し、あとは宴席である。儀式の壮麗さも御家人達の心を揺り動かしたが、宴席の場もまた御家人達の心を揺り動かした。
ただ、源実朝とその周辺の御家人達からなる豪奢な構図は、同じ鎌倉幕府の御家人であっても、源実朝に親しい一部の御家人と、そうでない大部分の御家人という格差を生み出すきっかけにもなった。
和田合戦に参加した者、また、その前哨戦たる泉親衡の乱に参加した者はどういった面々であるかを考えると、鎌倉幕府打倒という動きはともかく、鎌倉幕府の上層部を打倒すべしという動きならば現れる可能性はあるし、打倒とまではいかなくとも自分の名前を売って源実朝の周囲に仕える一人になろうとする者は当然のように現れる。
そのうちの人物の一人の暴走が、建暦三(一二一三)年九月に一つの悲劇を生み出した。
九月一九日、下野国の日光山二荒山神社の筆頭法眼である弁覚が鎌倉幕府に訴えを起こした。亡き畠山重忠の末子である大夫阿闍梨重慶こと畠山重慶が、日光山の麓に隠れ住んで多くの人を集め祈祷を熱心に繰り返しているというのである。畠山重慶の周囲に集まっている人を弁覚は牢人、すなわち、住まいを持たぬ人達としているが、これだけを見ると、畠山重慶は何かしらの理由で住まいをなくした人達を救済しているか、あるいは、世間との関わりを絶たせる怪しげな新興宗教を起こしたかのように見えなくもない。前者であれば宗教人らしい善行と言えるし、後者であれば物騒極まりない。そして、聞くところによると後者らしい。おまけに畠山重慶は討ち取られた畠山重忠の子。人を集めて何かをしていること自体が注視しなければならない対象だ。弁覚は畠山重慶が謀反計画を立てているとまで記したが、本当にそうなのかは実際に調べてみなければわからない。
弁覚からの訴えを聞いた源実朝は、訴えを聞き入れているときに近くにいた長沼宗政に対して、下野国に向かって畠山重慶を捕まえてくるよう命令した。
長沼宗政としては、これまでの境遇を脱して源実朝の周囲に仕える人材になる絶好のチャンスだ。長沼宗政はかなり早い時期から鎌倉方の一員として源頼朝のもとに仕えており、治承四(一一八〇)年には既に鎌倉方の一員としてカウントされていること、また、一ノ谷の戦いから壇ノ浦の戦いに至る一連の流れの中では源範頼率いる軍勢の一員として姿を見せ、奥州藤原氏討伐の奥州合戦でも功績を残し、比企能員の変、畠山重忠の乱でもその名を残していることから、御家人の中でも古参と言えよう。ただ、この人物には兄と弟がいて、兄の小山朝政も、弟の結城朝光も、源実朝の周囲の御家人として名を馳せるようになっていたのに、長沼宗政はそのような扱いを受けていなかった。
そんなタイミングでやってきた名を残す絶好のチャンスである。
長沼宗政はいったん自宅に戻って支度をする時間も惜しいと、大倉御所から直接下野国へ向かったのである。大倉御所への出仕に付き沿っていた家子一名と雑色八名を連れて、残りの者は自分を追いかけてくるようにとだけ告げたため、鎌倉ではちょっとした騒動になった。
ここまでであれば何の問題も無かったが、九月二六日、最悪な結果を伴って長沼宗政が鎌倉に戻ってきたのである。
畠山重慶の首を持ってきたのだ。
源実朝は畠山重慶を捕らえてくるように命じたのであって死を命じたのではない。それなのに、長沼宗政は畠山重慶を殺害して首を持ってきた。
これに源実朝が激怒した。鎌倉に連行し、取り調べをした上で有罪なのか無罪なのかを判断すべきところなのに、問答無用で殺害するとは何たることかというのが源実朝の主張だ。ただし、長沼宗政に直接怒りを見せたのではなく、近江前司仲兼こと源仲兼を通じて言葉を伝えている。
源仲兼は源を姓としているが清和源氏ではなく村上源氏の末裔であり、兄が後白河院に仕えていたこともあって近江国をはじめとするいくつかの国の国司を務めるなど貴族としてのキャリアを積んでいた人物である。源仲兼自身も後鳥羽院に仕えていたが、建暦三(一二一三)年時点では鎌倉で源実朝に仕える身になっていた。一見するとどうしてこの人物が鎌倉にいるのだろうかというキャリアの人物に見えるが、このときの源実朝は議政官の一員にこそ就いていないものの正二位というかなり上位の位階を持った上級貴族である。これだけの位階を持つ貴族となると国司を歴任したキャリアを持つ貴族が周囲にいてもおかしくなく、源実朝が自らの意思を御家人に伝えるときにワンクッション持たせるとしたら、近江前司仲兼を仲介するのはあり得る話である。
報償を得られると考えていたのに叱責を受けた長沼宗政は、これまでの兄や弟との境遇の違いがもたらす鬱憤もあって、ついに爆発した。源仲兼に源実朝批判とするしかない怒りの言葉をぶつけたのだ。
畠山重慶の陰謀は間違いない。生け捕りにして鎌倉まで連れてくることはたやすいが、生かして鎌倉まで連れてきたら、源実朝の周囲の女官や北条政子が命を助け出すように言い出し、源実朝は命を助けるであろうというのが長沼宗政の主張である。その上で、このようなことではいったい誰が忠義を尽くすというのかと怒りを見せた。亡き源頼朝であれば褒賞を与えたであろうに、叱責するとは何たることか。源実朝は武芸を軽視して和歌や蹴鞠に没頭し、取り上げた所領は手柄を残した武士ではなく周囲に侍らせている女性に配っているというのが吾妻鏡の記すところの長沼宗政の言葉である。なお長沼宗政の怒りの言葉はこれが全てではなく、吾妻鏡によるともっとえげつない言葉を口にしたとある。あまりの酷さに記録として残すのも躊躇ったようである。
源仲兼は長沼宗政の怒りを聞いただけで何も言わず、長沼宗政も言うべきことを言った後に大倉御所を去った。
なお、長沼宗政は弟の小山朝政の取りなしにより、閏九月一六日に大倉御所への出仕が許されている。
和田合戦は鎌倉で発生した事件であるが日本中を震撼させた事件でもある。
特に、源実朝が後鳥羽上皇に対し、鎌倉幕府として院や朝廷に背く意思がないと示さなければならなかった大事件である。
基本的に源実朝は後鳥羽上皇と良好な関係を築こうとしていたし、後鳥羽上皇も源実朝を利用していた。両者の間は、後鳥羽上皇が権威を、源実朝が武力と財力を提供することでの良好な関係の構築に成功していたと言える。
そう、源実朝には武力だけでなく財力も存在したのだ。
日本中の令制国に置かれた守護、日本中の荘園に置かれた地頭は、各地から納入される年貢を、これまでの知行国主や荘園領主ではなく、朝廷と鎌倉幕府に変更させた。名目こそ源義経探索のために置かれた役職であるが、源頼朝がそれだけで済ませるはずがない。守護にも、地頭にも、源義経探索など些事とするしかない巨大な政治的、社会的、経済的メリットがあるのだ。その嚆矢が、法で定められた税額よりは高いものの今までよりは安い税率とするという、庶民に減税を施しながら増税を成功させる離れ業である。庶民の暮らしは楽になり、鎌倉幕府には莫大な資産が入ってくるのだから、守護と地頭の制度はやめるわけがなく、源実朝も父の政策を継承して、鎌倉幕府のもとに日本中から資産を納めさせることに成功している。
ただ、源頼朝が選んだ方法は知行国主や荘園領主からすると自分達の資産を奪う極悪非道な所行なのだ。守護にしても、地頭にしても、治安維持という側面があるので全くの無価値であるとは言わない。ただ、これまで得ていた収益の大部分を失ったというのはあまりにも痛すぎるのだ。
そしてこれは、貴族や寺社だけでなく、院も同じであった。鎌倉幕府が豊かになればなるほど、京都の貴族や各地の大規模寺社、そして、院の財政は苦しくなっていく。朝廷に対し法に基づいた納税はしているので朝廷のもとには法に基づいた税収が存在するにはするが、律令というのは現実より理想を優先させており、現実を伴っていない。何しろ、理想の中での国家財政とは低負担高福祉である。しかし、そんなものは理想でしかなく、負担を減らせば福祉が減り、福祉を増やせば負担も増える。律令制は低負担高福祉を謳いながら高福祉を実現できなかったために高負担へと移行していき、高負担に耐えきれなくなった人が増えたために荘園という低負担の仕組みができあがり、税負担から逃れる人が減ったことで荘園領主や知行国主は豊かになる一方、国家財政は乏しくなり、国家的事業も困難になっていったのが平安時代である。
この仕組みが存在していたところで鎌倉幕府が誕生し、国家財政が乏しい状態のまま、荘園領主や知行国主がかつての豊かさを失って、鎌倉幕府が豊かになっていったという経済情勢が成立していた。
国家財政が乏しくなっていたときに国家的事業を遂行するため、歴代の藤原摂関家をはじめとする上級貴族は自身の資産を投入してきたが、今やそれも期待できない。資産投入が期待できるのは、閑院内裏の再建工事の費用負担からもわかるように、今や鎌倉幕府しかないのである。ただし、あくまでも自発的な資産提供であって強要はできない、はずであった。
その鎌倉幕府で失態が起こった。それも鎌倉幕府の最大の存在意義である治安維持にかかわる失態が起こった。これは国家予算の乏しさに嘆いている側にとって絶好のチャンスである。
後鳥羽上皇は鎌倉に知られぬよう、まずは鎌倉から遠いところで課税できないものかと考え、第一弾として九州で臨時の課税を課すことにした。ここで成功すれば、有耶無耶のうちに朝廷や院、さらには荘園領主といった面々が少しずつ徴税権を取り戻せるようになる。徴税権奪取に成功すれば範囲を九州以外にも広げ、既成事実化することで、源頼朝によって失った徴税権を取り戻すことも夢ではなくなる。
鎌倉幕府にも負い目があるこのタイミングでの徴税権奪取は、理論上は最良のタイミングであったろう。しかし、鎌倉幕府はそれを許すような組織では無かった。
建暦三(一二一三)年一〇月三日、源実朝から権大納言西園寺公経へと書状が送られた。内容は単純で、九州に課した独自の徴税に鎌倉幕府は一切応じないという意思の表明である。源実朝自身は後鳥羽上皇にも朝廷にも逆らう意思を示さないが、徴税だけは別である。これだけはいかなる理由があろうと同意できない話であり、中原広元の起草した書状に源実朝が花押を入れ、鎌倉幕府として独自の徴税を拒否すると示した上で西園寺公経への書状が送られたのである。
ここで西園寺公経が書状の送り先に選ばれたのは、源頼朝の妹と一条能保との間に生まれた女性が西園寺公経の妻であるためで、西園寺公経は源実朝から見て義理の従兄にあたることから、理論上はあくまでも親戚に書状を送ったという体裁である。しかし、その内容は鎌倉幕府からのかなり強力な意思が内包された徴税拒否の文章である。
この書状が送られたことで、後鳥羽上皇は自らが目論んだ九州での徴税を取りやめなければならなくなったと同時に、後鳥羽上皇は、そして、朝廷の面々は、鎌倉幕府という組織が想像以上に情報網を張り巡らせている組織であると痛感することとなった。
鎌倉幕府の情報網は想定以上に広がっていることを痛感したのは後鳥羽上皇や朝廷だけではない。京都における鎌倉幕府の勢力衰退を考えていた寺社勢力もまた、鎌倉幕府は健在であることを思い知ることとなったのである。
清水寺を舞台として延暦寺と興福寺が争いとなったのは既に記したとおりであり、延暦寺は大打撃を受けたはずであるが、それで問題が最終解決を迎えたわけではない。後の歴史を知る我々は、比叡山延暦寺の問題は織田信長の登場で解決したことを知っているが、当然のことながら、この時代から三五〇年も後の時代のことを見通せる人などいるわけがない。この時代の人達における比叡山延暦寺とは永遠に解決することのない問題と認識されており、被害をゼロにすることなどありえず、だた被害の多寡だけが問われる問題であった。
建暦三(一二一三)年七月末から八月初頭にかけての争いは、一度は沈静化したものの奥底ではくすぶり続けており、時期を見計らったというより、一〇月末に無計画な暴発として争いに発生したというべきであろう。
具体的な日付は記されていないが、鎌倉に情報として届いたのは一〇月二九日のことである。清水寺の僧侶の数名が、清水寺の保有する所領を勝手に比叡山延暦寺の末寺に寄付したことに興福寺の僧兵が激怒し、延暦寺に向けて襲撃を掛けると、それも放火するとして動き始めたのである。
鎌倉幕府に届いた第一報は、朝廷の武力を発動して興福寺の僧兵を食い止めようと検討するというものであり、書状が京都から発せられた時点では具体的に動き始めていない。
それからおよそ一ヶ月を経た一一月三〇日、鎌倉幕府に第二報が届いた。朝廷から軍勢を派遣して暴動発生を未然に防ぎ、奈良の興福寺を出発して北に向かっていた興福寺の僧兵達は、一一月二〇日に宇治で行動を諦めて南へと引き返した、これで騒動としては終わりである。
一見すると鎌倉幕府が関与せず朝廷独自の武力、その武力は具体的に示されてはいないが、おそらくは検非違使、北面武士、西面武士といった武力を発動させることで沈静化させたのであろうことはわかる。
そして、一一月三〇日の書状には末尾にちょっとした一言が書いてある。
関東から派遣した大友左衛門尉能直はまだ京都にいる、と。
何のことはない。興福寺が暴れそうだという情報に接して鎌倉から大友能直を派遣し、検非違使である左衛門尉に任官させることで朝廷指揮下の武人であるという体裁にして、名目上は朝廷の、実際には鎌倉幕府の武力で鎮圧したのである。




