表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/8

第三部 和田合戦前夜

 吾妻鏡によると源実朝が従三位に昇叙したとの報告が届いたのは承元三(一二〇九)年四月二二日のことである。四月一四日の昇叙の知らせと同時に鎌倉まで連絡が送られたと考えると順当であるが、このあたりは史料の不整合が見える。

 吾妻鏡によると、源実朝が従三位に昇叙したのは四月一〇日だという。

 一方、公卿補任には四月一四日の昇叙と記録されている。

 単なる書き間違いであるならばまだいいが、この二つの日付には大きな違いがある。

 端的に言うと、四月一〇日の昇叙は上級貴族、四月一四日の昇叙はその他大勢の貴族である。

 貴族としての格を考えると、源実朝は後者である。ただ、従三位に昇叙するということは後者から前者に移るタイミングでもあるので、前者であってもおかしくはない。おかしくはないのだが、これは吾妻鏡を書き記した人の願望が混ざった記載ミスとも言える。あるいは、この後の源実朝に振る舞いから考えての判断であるとも言える。何度も記すが、吾妻鏡は鎌倉幕府の正史であるものの、北条家にとって都合よく編纂された歴史書であり、また、後世になってまとめられた歴史書でもあるため、同時代史料としての価値は高いとは言えない。ゆえに、出来事に対する客観的把握のためには他の歴史資料との突合が必要となる一方、客観的事実との差異が見られる場合は吾妻鏡編纂時の北条家の視点が明瞭化されるという特性を持っている。源実朝の従三位昇叙の日付についての不整合はそのあたりの一例でもある。

 源実朝が従三位に昇叙したことで、それまでは公文所であった鎌倉幕府の政務機関が、このときから正式に政所となった。正確に言えば、源頼家から源実朝に征夷大将軍の官職が移ったと同時に政所から公文所に格下げになったのを、源実朝の従三位昇叙に合わせて政所として復活させたこととなる。

 政所は三位以上の貴族でなければ設置できない家政機関であり、四位以下の貴族は家政期間を公文所としなければならない。貴族の持つ荘園や所領、知行国の運営といった経営を取りまとめる機関という点で公文所と政所とに違いはないが、三位以上の貴族となると基本的には議政官の一員として国政に関与する身となり、私的な資産の経営であっても国家的な色彩を帯びる宿命を有する。また、三位以上の貴族はその多くが世襲であり、三位以上の位階を有するがゆえに設置することが許される政所も、理論上は個人の保有する資産の運営であっても、実質的には家の保有する資産の経営となる。源実朝は非参議、すなわち、位階を有してはいるものの議政官の一員ではない公卿であるが、実父の源頼朝が正二位権大納言を最終官職とする議政官の一員であったため、源実朝の設置する政所も家の保有する資産の経営と見做される。

 政務そのものだけを見れば政所も公文所も違いはないのだが、発給する文書の権威となると、公文所と政所とでは大違いである。公文所の文書は一人の貴族が私的に発給する文書であるのに対し、政所発給の文書は貴族に付随する朝廷権力の裏付けを有する文書となる。そのため、土地争いで他の者とぶつかり、権利を裏付ける文書を相互に裁判に提出した場合、一方が公文所発給の文書で、もう一方が政所発給の文書であったならば、政所発給の文書を持つ側の方が裁判で優位となる。公文所発給の文書でも無価値というわけではないが、公文所発給の文書はいかに体裁が完璧でもあくまでも私的文書に過ぎないのに対し、政所発給の文書は国の正式文書としての性格を帯びることとなる。

 源実朝が従三位に昇格したことで、源実朝の名で発給される鎌倉幕府の政所からの文書は、鎌倉幕府の私的な文書ではなく日本国の正式な文書としての性格を帯びることとなった。それがいかに鎌倉幕府の御家人達に対して所領の保有権を保障することを伝える文書であろうと、この日からは国家としての正式な文書となったのである。あるいは、源頼朝や源頼家の頃のように正式な文書と扱われるように戻ったとも言えよう。


 源実朝が従三位となった後に発給された政所文書は、下山忍氏の調査によると二十四通現存している。そのうち、現存する最古の文書は承元三(一二〇九)年七月二八日に発給された文書である。この文書の持つ性格自体は従来の公文所の発給する文書と大差ないが、この文書は画期的な側面がある。

 文書に政所別当の署名があること自体は問題ない。しかし、複数名の署名があり、その全員が政所別当として署名しているとなると状況は普通ではなくなる。

 先に政所別当を複数名とするアイデアについて記したが、そのアイデアを実現させた初出がこのときの文書なのである。

 そして、複数名からなる署名の先頭に、北条義時の署名が存在していた。

 署名の先頭に名を記すこと、そして、その資格を有する者のことを、執権という。この文書の場合は複数名からなる別当のうち先頭に名を記すことから執権別当ということとなる。

 そう、のちに鎌倉幕府の最高執政者の称号と見做されるようになる「執権」はこのときに誕生したのだ。北条義時自身は意識していなかったであろう権利が、のちに権力となって鎌倉幕府の命運そのものを握ることとなるのである。繰り返して記すが、北条義時に対する悪評は多々あれど、その中に北条義時の独裁を非難する悪評はない。北条義時という人は死ぬまで、自らを独裁者とさせぬべく、合議制を推進し、何かをするにしても独断ではなく、少なくとも多数の同意を得たという確証を得た後に行動する人であり続けた。その北条義時が選んだ独裁防止手段としての政所別当複数名というシステムが、皮肉にも鎌倉幕府における独裁者を生み出し続けるシステムとなったのだ。

 無論、このときの文書に北条義時をして独裁者たらしめる要素はどこにもない。あくまでも複数名からなる政所別当の中で最初に署名をした人というだけである。当時の人も、北条義時を有力者のうちの一人として見ることがあっても、北条義時を絶対的独裁者として扱うことはなかった。将軍源実朝の実母の弟であるため無視できぬ存在であること、また、鎌倉幕府の御家人達の中で数少ない、位階を有するために貴族の一人としてカウントされる人物であることは認めるが、それで北条義時を特別扱いすることにはつながらなかった。位階を持つ貴族でもある御家人は、確かに少ないが、珍しいとは言えないのである。

 ただし、厄介な問題が一つある。

 政所と並ぶ鎌倉幕府の重要機関である侍所別当の和田義盛だ。

 政所が鎌倉幕府の政務や財務を扱うのに対し、侍所は、戦時においては軍勢指揮を、平時においては人事を司る組織である。その別当である和田義盛は鎌倉幕府の有力御家人の一人であり、今や五名へと減ってしまった一三人の合議制のうちの一人であったのだから、和田義盛は鎌倉幕府の最重要人物の一人とも言えよう。

 ところが、この人の公的官職は六位相当の左衛門尉であったのだ。位階からわかるとおり、この人は貴族の一員としてカウントされていなかったのである。

 源平合戦において源頼朝が挙兵して間もなくの頃、和田義盛は自ら侍所別当に就任したいと源頼朝に申し出て、源頼朝もその申し出を受け入れたために、和田義盛は侍所別当となった。これだけを聞くと、組織が発足して間もない頃のどさくさで侍所別当になったと扱われそうだが、そして、どさくさでの侍所別当就任ではないと言い切れないのもその通りであるが、この人が侍所別当として無能であったわけではない。それどころか、この人が侍所別当、そして、梶原景時が侍所の二番手である侍所所司を務めるという体制があったことで、草創期の鎌倉方は源平合戦における勝者となれたのである。

 また、侍所別当としての和田義盛の能力は源平合戦終結後も止まらなかった。それどころか、平時になった後の方が和田義盛は侍所別当としての職掌を申し分なく発揮するのである。最終的には征夷大将軍の名で発せられるとは言え、基本的には、鎌倉幕府の人事を司っていたのが和田義盛である。六位相当ではあるが、左衛門尉の官職を得ていることは朝廷の武官の一員としてカウントされているということでもあり、和田義盛個人に与えられている権限は絶大とまでは言えないにせよ、全く権限を有していないというわけではない。それに、全く問題なかったとまでは言えないにせよ、この人の人事遂行能力は申し分なかったのだ。現在の感覚でいくと、ベンチャー企業の創業当初からその企業の人事を一手に担ってきた人が、東証プライム上場後も常務取締役として人事を担い続けているといったところか。その人の部下の中には大学院で学位を得た修士や博士もいるが、本人の学歴は学部卒の学士である。しかし、実績も実力も申し分なしなので、誰も何も文句を言わないという、ベンチャー企業から大企業に発展したところでよく見られる光景が、この時の鎌倉幕府でも見られたのである。

 吾妻鏡に正式な日付は残っていないのでそれがいつのことであるかわからないが、梶原景時は一時的に和田義盛から侍所別当の地位を奪って自らのものにしていたことがあるという。だが、その一時的な例外も梶原景時の死によって元に戻った。鎌倉に侍所が誕生してから承元三(一二〇九)年までの間、侍所別当とはすなわち和田義盛のことであったとも言えるのだ。

 吾妻鏡によると、その和田義盛が、承元三(一二〇九)年になると公的権威を求めるようになったとある。

 少し遡ることとなるが、五月一二日に和田義盛は上総国司への就任を望んだとある。

 着目すべきは、和田義盛が求めたのが上総介ではなく上総国司であるという点である。上総介は文字通りの国司としての意味と同時に、この時代には空席となっていた称号の意味もあったのだ。

 上総国は常陸国や上野国と同じく親王任国であり、令制国の名目上のトップは親王であるため(かみ)はおらず、他の国では二番手となる(すけ)が上総国では実質的なトップとなる。そして、律令のどこにも記されていない上総権介が令制国統治の二番手となる。現在でいうと、通常は知事である(かみ)と副知事である(すけ)がいるのに対し、上総国では(すけ)が知事で権介が副知事といったところか。

 また、上総国は令制国のランクとしては最上級である大国に位置付けられただけでなく前述の通り(かみ)のいない国であるため、他の大国では二番手となる(すけ)に就くには正六位下で十分であったのに対し、上総国では貴族の一員としてカウントされる従五位下になっていないと(すけ)に就くことはできなかった。

 理論上は六位相当の官職である左衛門尉でもあるので、現状の位階のまま上総介にスライドすることも不可能ではないが、現実問題、和田義盛が上総国司に就くためには貴族の一員としてカウントされる位階を得た上で、位階相当の官職を得るという手順を踏まなければならないのである。

 ちなみに、源頼朝挙兵直後に鎌倉方の一員として活躍するも途中で誅殺された上総介広常こと平広常の一族は、本当に全員が上総国司であったわけではなく、この時代から一八〇年ほど前の平忠常の乱以降、一族の多くの者が上総介に就いていたために上総介が苗字となったという経緯がある。なお、上総介広常自身は上総国司に就いてはいないが、上総権介の官職は得ていた記録がある。

 和田義盛と上総介広常とは面識がある。何しろ、ともに源頼朝挙兵時から鎌倉方の一員として立ち上がった仲間である。ただし、上総介広常は上総国で最大の武士団のトップであったのに対し、和田義盛は三浦一族の一員でしかない。有力者の一員であることは間違いないのだが、権勢となると上総介広常とは一段階見劣りする。

挿絵(By みてみん)

 さて、和田義盛は三浦一族の一員でしかないと記したが、三浦一族における和田義盛の立ち位置はかなり微妙である。

 まず、愚管抄は和田義盛のことを「三浦ノ長者」と記している。後世の史料ならばともかく愚管抄は同時代の人物である慈円の記した歴史書であり、同時代史料としての価値でいうと吾妻鏡以上の価値を持つこともある。ただし、京都とその周辺にいることが通常の慈円は鎌倉と物理的距離がある人物でもある。つまり、愚管抄とは、鎌倉の当事者ではなく鎌倉から離れた京都の視点で鎌倉での出来事をどのように捉えていたかという視点で記された歴史書であることを考えねばならない。

 慈円が和田義盛を三浦一族のトップと考えたのは二つの点から間違いとは言い切れない。一つは、鎌倉幕府の組織図において和田義盛が三浦一族の中で群を抜いた地位にあったこと、もう一つは、和田義盛の父である杉本義宗が三浦義明の長男であること、この二点である。必ずしも長子相続と定まっていないこの時代であるが、三浦一族のトップであった三浦義明の長男の長男とあれば、第三者からすれば三浦一族のトップの地位にあると見做されていてもおかしくない。ただし、和田義盛の父である杉本義宗は平治元(一一五九)年に三八歳の若さで命を落としており、長男が亡くなった時点で存命であった三浦義明は三浦一族のトップの地位を次男の三浦義澄に継承させ、三浦義澄の死後は三浦義村が父の地位を継いだ。

 こうなると、一三人の合議制の一人でもあり、また、侍所別当でもある和田義盛と、三浦一族の内部でトップの地位を世襲で受け継いだ三浦義村との関係は微妙なものとなる。三浦義村は鎌倉幕府における重要人物の一人であるが、幕府内の役職という点でも、朝廷官職という点でも、三浦義村は和田義盛ほどの地位を得てはいない。年齢で言っても、三浦義村は和田義盛より二〇歳は歳下だ。これを和田義盛の立場で捉えると、自分より格下であるはずの三浦義村が自分の所属する三浦一族のトップの地位を手にしているという図式になる。三浦一族の面々だけでなく、三浦一族に仕える郎党も、侍所別当である和田義盛ではなく、三浦義村を自分たちのトップであると考えている。

 この現実の前に和田義盛は、鎌倉幕府において侍所別当として職務を専念することで権勢を積み上げてきていたが、どうしても自らの置かれている境遇に満足しているとは言いきれなかった。三浦義村との関係を考えても、同じ別当である政所別当や公文所別当は貴族の一員としてカウントされているのに対し、侍所別当である和田義盛は左衛門尉の役職しか無かったというのがどうしても拭い去ることのできぬ点であり続けていた。貴族の一員とカウントされるようになれば一気に三浦一族のトップの地位が手に入るのだ。同じ別当として鎌倉幕府の組織図上は同格であるはずの北条義時は、将軍の叔父であるという点を差し引いても現役の相模守であり貴族の一員としてカウントされている。かつて政所別当を務めていた中原広元の場合は、因幡守をはじめ、左衛門大尉、明法博士、兵庫頭、掃部頭、大膳大夫といった官職を歴任した経験がある。一三人の合議制の生き残りという視点でも、八田知家は建仁三(一二〇三)年に筑後守に、二階堂行政は元久元(一二〇四)年に山城守に就任している。三善康信は国司就任の記録は無いが、源頼朝のスパイであった応保二(一一六二)年の段階で従五位下の位階を得ている。これらの経歴に対し、和田義盛は六位相当の左衛門尉である。承元三(一二〇九)年にこの地位に就いたわけではなく、建久元(一一九〇)年一二月に左衛門尉に就いてからずっと同じ朝廷官職であり続けていたのである。

 また、「侍受領」、すなわち左衛門尉を長年務めた武士がどこかの国の国司になるというキャリアは、平家政権の頃から武士の成功として最上級の昇進コースであった。さすがに大国である上総国司は贅沢に思える話であっても、位階を得て貴族の一員となりどこかの国の国司となること自体は珍しいとは言えなかった。左衛門尉を長年勤めただけでなく、このとき既に六三歳を迎えている和田義盛は、キャリアだけで言えば国司になってもおかしくなかったのである。

 ここで和田義盛が正式に上総介に就任できれば、和田義盛はかつての上総介広常の有していた権勢に匹敵する権威を手にできるだけでなく、三浦一族全体を指揮下に置くことも、北条義時と肩を並べることもできる。京都の貴族としてキャリアを積んでいた中原広元は別格として、源平合戦のスタート時は、和田義盛も、北条義時も、ともに東国の無位無官の武士であったのに、それからおよそ三〇年間の歳月を経た結果を比較すると、あまりにも大きな格差があることを実感する。その格差を埋めるために、上総国司に就くというのは一発逆転のアイデアであった。

 結論から言うと、和田義盛のこのアイデアは拒否された。

 承元三(一二〇九)年五月一二日、和田義盛は源実朝に直々に上総国就任の要望を出したが、この要望は北条政子の手によって握り潰された。源実朝にしてみれば和田義盛が朝廷官職を得ること自体が望ましくない話なのである。そもそも北条義時が相模守であるのは兄の急病によって生じた権力の空白に対処するために朝廷が下賜した臨時措置であり、あくまでも将軍の叔父であるという血縁を踏まえての特例措置なのである。和田義盛が鎌倉幕府に於いてどれだけ貢献してきたかを考えると北条義時と和田義盛を並べて扱うことは当然と言えるが、和田義盛と北条義時とを並列にするのであれば、和田義盛に朝廷官職を与えるのではなく、北条義時から朝廷官職を剥奪するほうが納得いく話となるのである。

 その根拠となるのが、亡き源頼朝が迎えた運命と下した決断である。特に源義経が朝廷官職を得たために発生してしまった戦乱は繰り返してはならない。であるならば、鎌倉幕府の御家人の全ての者が朝廷官職を得ないこと、得たとしてもその官職は低いものに留めることが重要となる。亡き源頼朝の意志に従うなら、和田義盛に源頼朝の意思を守らせるほうが正しいこととなる。ここでナイスアイデアであったのが、源実朝ではなく北条政子の意思としたことである。北条政子が亡き夫の願いを求めたので、その求めに源実朝が応じたという体裁にすれば、和田義盛の請願を握り潰すことはやむをえぬ措置と扱われる。鎌倉幕府の御家人達は基本的に源頼朝を軸として集った東国武士達であり、源実朝に仕えるのも源実朝が源頼朝の後継者であるからだ。ここで亡き源頼朝の正妻が生前の夫の意思を伝えたことで請願が握り潰されたとなったならば、和田義盛は黙って従うしかなくなるのだ。

 しかし、和田義盛は諦めていなかった。五月二三日に今度は中原広元に嘆願書を提出したのである。中原広元は鎌倉幕府に仕える御家人であると同時に、文人官僚であり、貴族でもある。朝廷に対する独自のパイプを有しており、朝廷官職を要望しながら源実朝に拒絶された和田義盛が、次なる方法として中原広元を選んだのはアイデアとして悪くない。しかし、中原広元は武士ではないが、まるで鎌倉幕府の古参の武士であるかのように、鎌倉幕府の一員として源頼朝の意思に従うことに躊躇しなかったのだ。また、和田義盛が国司となった場合に起こると予想される鎌倉幕府の内部のパワーバランスの崩れにも気が付いていた。ここで和田義盛が国司となり貴族の一員となったならば、侍所の権力が政所の権力と拮抗してしまうのだ。侍所と政所は並列の組織であるが、実態としては政所のほうが財政を握っている分だけより強い権限を有している。侍所と政所とで意見の相違が見られた場合、採用されるのは政所の意見のほうなのだ。現代の感覚で捉えると、衆議院と参議院との関係に近いと言える。衆議院も参議院も国権の最高期間である立法府であるが、同格ではなく、衆議院に優越性が与えられている。これと似たような権力の微妙な違いが、このときの政所と侍所の関係として存続していたのである。

 和田義盛が国司となった場合、政所と侍所のバランスが拮抗してしまって鎌倉幕府の政務が滞ることになってしまうのだ。

 二度の請願がともに白紙となったことで、和田義盛は国司就任を断念したようである。ただし、ここは和田義盛の偉いところとも言えるのであるが、それで侍所別当としての職務を疎かにはしなかったのだ。

 承元三(一二〇九)年五月二八日に発生した御家人同士の乱闘と、その結果としての殺害事件について、真っ先に出向いて事態に対応したのは侍所であり、侍所別当の和田義盛であった。それはいつもの和田義盛の職務遂行の様子と何ら違うことのない、頼れる侍所別当としての和田義盛であり続けていた。また、源実朝の和田義盛の対する態度も和田義盛の国司任官要望の前後で変わることは無かった。将軍としての決裁をするにあたり、和田義盛が侍所別当としての職務を遂行し幕府に貢献していること、それが治安維持に有効に働いていることを認め、その職務遂行に横槍を入れることは無かった。


 源平合戦において東国の武士達はどうして源頼朝の元に集ったのか?

 一言でまとめると、最適解である。数多くの選択肢の中から選び出した最善の選択肢が源頼朝であったのだ。

 源平合戦前は平家政権が盤石であったが、盤石具合が東国の武士達の有していた所領の保有権にまで及ぶとなると看過できぬ事態となる。とは言え、平家は正統な権力者であり、各地の統治のために平家の人物、あるいは、平家に仕える人物を全国各地に送り込むのは、感情的にはともかく法に基づけば何ら違法ではない。平家の送り込んだ人物が東国の武士達の持つ所領に手を出そうとしたという理由で地元の武士団が抵抗したとき、処罰されるのは地元の武士団のほうになる。

 しかし、源頼朝が反平家で立ち上がったとなると状況が一変する。源頼朝に従うことで自分達が保有していた所領に対する権利が保障されるだけでなく、源頼朝の敵の所領の再分配に立ち会うことができる。平家の送り込んできた人物に抵抗したとしても違法ではなくなる可能性が出てくるのだ。

 これは源頼朝が源平合戦の勝者となったあとも変わっていない。いや、源平合戦の勝者となったことで、平家に抵抗することが完全に合法になったのだ。その上で、これまでの所領の保有権を保証し、功績に応じた新たな所領を分配する。そのために鎌倉幕府の御家人達は征夷大将軍に仕え、征夷大将軍は御家人達に報いる。こうした御恩と奉公というシステムがあることでこの時代の武士の多くは鎌倉幕府のもとに身を寄せたのであるが、源頼朝の死後はどうであったか?

 まず源頼家であるが、吾妻鏡によると、源頼家は御恩と奉公に応えなかったかのような記述があるものの、現存する他の史料に従えば、それは源頼家に対する風評被害とするしかない。史料に従えば、将軍として申し分ない程度に取り組んでいたと評価できる。

 では、源実朝は?

 源実朝が将軍に就任したとき、理論上は元服を迎えた身であるが、事実上は年少者である。また、位階も低いため、家政機関は政所ではなく公文所となる。その延長上として、源実朝が将軍となってからの御恩と奉公は、名目上は源実朝の名での書状発給であるが、実質的には鎌倉幕府の有力者達からの合議を踏まえた上で、公文所から書状を発給する、あるいは御教書を発給するという形式での御恩と奉公となっている。

 これに御家人達が満足いくのかというと、一応は納得していた。ただし、源実朝が直接発給したわけではない文書が根拠であるという点は、やむをえぬこととして受け入れてはいたものの、源実朝が青年となったならば改善されるべきこととも考えていた。源頼朝がそうであったように、青年となった源実朝も御家人達と直接、御恩と奉公で接するようになってくれることを期待していたのである。

 承元三(一二〇九)年四月に従三位となって政所を設置する権利を獲得して以降の源実朝は、ある意味では期待に応え、ある意味では期待を裏切った。

 将軍として正しい決断をしたのだ。

 和田義盛の国司就任嘆願を握り潰したのもそうだが、所領争いにおける裁決でも、鎌倉幕府の御家人を優遇するのではなく、法に基づく処断をしたのである。これが仮に源頼朝であれば、明らかな法令違反でもない限り御家人の意向を汲んだ処断をしたであろうし、法的にグレーゾーンであるというなら、黒でなければ白であると考えて御家人に有利な決断をしたであろう。一方、源実朝は白で無ければ黒であると考えて、法的にクリアされていることを前提とした処断をしたのだ。

 さらに源実朝は法的に正しい処断を密室で裁決したのではない。

 相反する主張を持つ両者を自分の前に呼び出し、誰もが見ている前で主張させた上で法に基づく処断をしたのである。こうなると、自分にとって不利な処断であったとしても受け入れざるを得なくなる。御家人への利益誘導が無かったことに対する不満があったとしても、法に基づく処断であることが衆人環視のもとで示されたとあっては誰も文句を言えなくなる。


 このあたりは吾妻鏡を編纂した人の取捨選択の結果であろうが、従三位に昇叙した後の源実朝の記録については、吾妻鏡と、その他の記録とで大きな違いがある。

 大きな違いが発生しているのは、何度も記しているように吾妻鏡が北条家にとって都合良く編纂された史書であるからで、源実朝の業績のうち、将軍としての業績が優れているために北条家にとって都合悪い記録は敢えて記さないことがよくあるのだ。ちなみにこの不利益は、源実朝だけでなく源頼家についても当てはまる。

 そしてここが吾妻鏡編纂者の嫌らしいところではあるのだが、他の記録から間違いと指摘される記事がある一方、事実であると確認できる記録も混ざっているのである。しかも、その間違いについては意図的なミスであると言い切れないミスなのである。

 他方、歴史的事実であり、かつ、北条家にとって都合良い記録については吾妻鏡の記録に残っている。

 わかりやすい例が承元三(一二〇九)年八月一三日の記録である。源実朝が京都へ書状を送ったのであるが、書状の宛先が藤原定家であったのだ。もっとも、ここまでであればどうということはない。藤原定家は後鳥羽上皇の意を汲んで活躍する貴族の一人であり、藤原定家が後鳥羽上皇と源実朝との関係構築の中継をしているのであれば、藤原定家を通じた政治上のつながりの構築としておかしなことではない。

 だが、このときの源実朝が求めたのは、和歌の添削である。政治家としての、あるいは一人の人間としての藤原定家に対する良い評判というものはほとんどない。しかし、歌人としてならば当代随一の人である。何しろ、自身も和歌への造詣の深い後鳥羽上皇が直接、新古今和歌集の編者の一人として選んだのが藤原定家である。源実朝の詠んだ和歌を藤原定家に送り、藤原定家から和歌の評価が返ってくることを待ち侘びるというのだから、吾妻鏡編纂者にとっては政治をそっちのけで和歌に耽溺する将軍という情景を描かせる絶好の機会となったであろう。

 源実朝の送り届けた和歌に対する結果は、ちょうど一ヶ月後の九月一三日に鎌倉へと戻ってきた。また、藤原定家からの返書とともに詠歌の口伝、すなわち、和歌の入門書が送られてきた。

 以上が吾妻鏡の記載である。源実朝が和歌を藤原定家に送ったこと、藤原定家が源実朝の詠んだ和歌に対するチェックがあったことは記しているが、どのようなチェックがあったのかは記されていないし、源実朝の詠んだ和歌そのものも記録に残っていない。

 さらに一〇月には園城寺の明王院僧正公胤を鎌倉に招いている。この人物もまた歌人として有名であり、二階堂行光の住まいを旅の宿とさせ、佐々木広綱に警護を命じている。ここまでの記録を追いかけると、源実朝は政治を捨てて和歌の世界に耽溺するようになったのかとさえ感じてしまう。実際、吾妻鏡の承元三(一二〇九)年八月から一〇月までの記事を読むと、源実朝に政治家としての職務の様子が全く見えないのである。

 しかし、これらは全て源実朝の策謀であったとしたらどうなるか?

 実に恐ろしい点で結ばれるのである。


 まず、先に記したように藤原定家は当代随一の歌人であると同時に、後鳥羽上皇の側近の一人である。源実朝からの書状に始まる和歌を通じたやりとりだけを捉えれば、傍目には和歌に強い関心を持つ若者が和歌の達人に和歌を習うようになったとしか見えなくなる。

 しかし、そこに後鳥羽上皇が介在するとしたらどうなるか?

 後鳥羽上皇は西面武士を組織している。西面武士は鎌倉幕府の御家人でありながら後鳥羽上皇の周囲を固める武士となることもできるという、従来の北面武士より融通の効きやすい軍事組織である。鎌倉幕府に従っていた武士が鎌倉幕府のもとを離脱して後鳥羽上皇に降ることもありうるし、源平合戦以後は鎌倉幕府の御家人となる以外に武士としての行動ができないと考えていた者に鎌倉幕府以外の選択肢を用意することにもつながる。鎌倉幕府としては手放しで喜べるものではない。とは言え、両者の間で生じるのが対立ではなく友好関係であるならば、鎌倉幕府と西面武士とが協力しあえる関係も構築できる。それに、鎌倉幕府の御家人でありながら西面武士にもなれるということは、西面武士である者が鎌倉幕府の御家人になれるということでもある。鎌倉幕府の支配から外れた新たな軍事組織の誕生の危惧も確かにあるが、同時に、鎌倉幕府の勢力伸長にもつながるのだ。

 ここで重要なのは、後鳥羽上皇と源実朝との協力関係が維持できることである。間に和歌を介在させ、和歌の第一人者である藤原定家を介在させることによって、後鳥羽上皇と源実朝との間の協力関係はより強固なものとなる。後鳥羽上皇と源実朝は生涯に亘って一度も顔を合わせることはなかったものの、個人的な関係構築としては理想的な関係を作り上げることに成功したのである。後世から眺めると、後鳥羽上皇と源実朝という個人と個人の関係ではなく、後鳥羽院と鎌倉幕府という組織と組織の関係構築であるべきであったが、それは未来を知る者の思い抱く空想でしかない。後鳥羽上皇と源実朝の両名の年齢を考えても、この時点で考えるならば最上級の関係構築であったと評価できるのだ。

 しかも、従三位となった後の源実朝からスタートさせている。それまでにもつながりはあったが、従三位に昇って公卿の一人としてカウントされることとなった源実朝が、全ての人の目にも止まる形で後鳥羽上皇に接近することで、新たな軍事組織になりつつある西面武士を鎌倉幕府に取り込むための入り口を作り出したのであるから、後鳥羽上皇にしてみれば先手を打たれたといった感覚であったろう。しかも、名目上は和歌のやり取りであるから後鳥羽上皇にとっても何ら問題ない話とするしかないし、名目ではなく実利として、すなわち軍事問題としてどうなのかと考えたとしても、西面武士と鎌倉幕府との接近はやはり悪くない話になる以上、拒否するという選択肢はない。

 さらに、園城寺の公胤を鎌倉に招いたことは宗教政策としてだけでなく延暦寺対策として重要な意味を持つ。園城寺は比叡山延暦寺と同じく天台宗の寺院であるが、延暦寺と激しい対立を続けてきた寺院でもある。三井寺としても知られる園城寺は延暦寺に対する最大の抵抗勢力であったのだが、源平合戦勃発当初の治承四(一一八〇)年一二月に平重衡と平忠度によって焼き討ちを受けて大ダメージを負い、延暦寺に抵抗する勢力となれるほどの勢いは失われていた。

 ただし、平家の蛮行の被害者ということもあって鎌倉方の支援を受けた復興が進んでおり、承元三(一二〇九)年時点では、かつての勢いとまではいかないにしても、有力寺社の一つにカウントできるぐらいの勢いは取り戻していた。

 源実朝はその園城寺から僧侶を招いたのであるが、このことを延暦寺の立場から捉えると、かつての最大の抵抗勢力が鎌倉幕府と手を組むというのだから、何としても避けたい話となる。何しろ鎌倉幕府相手では延暦寺がいつも行使している武装デモが全く通用しないのだ。ここで園城寺と鎌倉幕府が手を組むとあれば、ただでさえ行動を制限されてきている延暦寺にとってさらなる脅威となってしまう。ゆえに、本来であれば延暦寺として何らかの形で抵抗を見せても良かったはずである。しかし、このときの延暦寺は公胤が鎌倉に赴くことについて何ら抵抗を見せていない。園城寺の僧侶として鎌倉に向かうのではなく、和歌に強い関心を示す一八歳の若者が、和歌の名人である人物を自宅に招いただけであるというのが承元三(一二〇九)年九月時点での捉え方であったのだ。

 その捉え方は承元三(一二〇九)年一〇月に完全に打ち砕かれた。

 承元三(一二〇九)年一〇月一〇日、鎌倉の永福寺に二階堂行光が建立した御堂の開眼供養が開催され、公胤が供養の指導僧を務めた。仏門に帰依する者が寺院の施設を建立して奉納し、高位の僧侶を招いて開眼供養を開催すること自体はごく普通のことである。しかし、鎌倉という場所で園城寺の僧侶が携わっての供養開催である。これは延暦寺として看過できないこととするしかなかった。

 これがもし、京都とその周辺であったならば直ちに比叡山から僧兵たちがやってきて暴れ回るところであったろうが、場所は鎌倉であり、延暦寺からはどんなに急いでも七日以上かかる。しかも、ここでいう急ぎとは馬に乗っての移動であり、人間の足で移動するとなると半月は考えなければならない。源頼朝による整備のおかげで情報だけなら京都と鎌倉との間は半月で往復できるようになったが、人間の移動となると半月でできるのは片道の移動である。鎌倉幕府の仏教行事に園城寺の僧侶が参加しただけでなく、行事の最重要賓客として扱われたという知らせを延暦寺が受け取ったときにはもう、鎌倉で開催された仏教行事の全てが終わっている。しかも、この行事の開催に納得できないとして僧兵を派遣して武装デモに打って出ようとしても人員を鎌倉にまで移動させるだけで一苦労だ。おまけに、鎌倉にいるのはこの時代の最大の軍事勢力である鎌倉幕府である。二重三重の意味で武装デモがどうこうできるシチュエーションではない。

 さらにここに、一〇月一三日に開催した法事の内容が延暦寺に伝わる。

 源頼朝の月命日であるこの日、出家して僧となっている北条政子が、亡き夫の墓のある法華堂に公胤を招いて法事を開催したのである。これに誰が文句を言えようか。夫を亡くして出家した女性が、高位の僧侶を招いて亡き夫の墓前で法事を開催するのである。これに文句を言おうものなら、勢力争い云々以前に人としての倫理観が問われる話になる。これもまた、延暦寺は黙認するしかなかった。

 そしてこの二回の法事はともに鎌倉中をお祭り気分にさせる一大イベントになったのだ。偉いお坊さんが鎌倉まで来てくれてありがたい読経をしてくれるとあって、鎌倉中の老若男女が詰め掛ける大盛況を生み出したのである。その僧侶が園城寺の僧侶であると知らない者は何も気にすることなくイベントを満喫でき、その僧侶が園城寺の僧侶であると知る者は比叡山延暦寺に一泡吹かせてやったことを喜びつつイベントを満喫できたのだ。

 京都内外に住む者は、ここ一五〇年に亘って、比叡山延暦寺の僧兵達が何度も繰り返してきた強訴という名の武装デモに苦しんできた。平家が勢力を築くきっかけとなったのも武装デモを強引に鎮圧させたからである。その平家が滅亡し鎌倉幕府が日本国最大の軍事勢力となった後も延暦寺の武装デモは燻り続け、時期を見ては爆発することが珍しくなくなっていたのがこの時代である。

 ここで比叡山延暦寺を完全に敵に回す行動に出ることは、武装デモに悩まされてきた人達の支持を得ることにつながる。それを鎌倉在住の一八歳の若者がやってのけたのだ。しかも、延暦寺に抵抗する隙を与えること無しに。これは溜飲の下がる思いであったろう。

 と同時に、政治家としての源実朝はなかなか侮れない人物であると悟ったはずである。

 ちなみに、公胤は後に、源頼家の子である公暁の師となるが、この時点では公胤と公暁との間に師弟関係はない。


 京都では、一七歳の権大納言九条道家が侮れない若者であると認識する者ならば多く、九条道家に比べると見劣りすると捉えられていたのがこれまでの源実朝である。特に、どうしても源頼朝と比べられてしまうことの多い源実朝は、その幼さが頼りなさのイメージに直結していた。

 これまでは。

 従三位に上り詰めたことで源実朝は九条道家と同様に侮れない若者であるという評判を生まれ、この国は、京都に一七歳の九条道家が、鎌倉に一八歳の源実朝がおり、その上に三〇歳の若き治天の君である後鳥羽上皇が君臨するという若き政治体制が確立したのだと見るようになった人が増えたのだ。

 九条道家の侮れなさは、九条道家の個人としての資質もあるが、九条家のバックボーンも存在する。藤原道長をはじめとする藤原摂関家の残してきた記録があり、藤原冬嗣以降の藤原氏の者が受けてきた教育システムも存在する。生来の資質に恵まれなかったとしても、背景があれば若さを補える。それが九条道家の評判を呼び寄せている。一七歳という若さでも、九条道家には藤原摂関家のトップに立つことが宿命づけられてきた者だからこそ得ることのできる背景が、九条道家の侮れなさという評判を呼び寄せるのに役立っている。

 一方、鎌倉幕府には九条家のようなバックボーンが存在しない。政治家としての資質に多少の難ありであろうと、九条家の人間であれば九条家のバックボーンは利用できるのに対し、源実朝が利用できるのは鎌倉幕府の人員だけである。おまけに、源実朝が比べられる人物は九条道家だけではなく源頼朝も存在する。いや、源頼朝との対比がまずは存在し、その後で、源実朝と一つ歳下である九条道家との対比が存在するといったところか。おまけに源実朝はこれまでの人生で一度も京都に姿を見せていない。つまり、京都の人達にとっては源実朝という人物が遠い相模国鎌倉の地にいることは知っているが、具体的なイメージを伴わない人物と見られていた。

 そのイメージが一変した。

 源実朝という若き政治家が世に登場した。これは大きなインパクトであったが、鎌倉幕府という組織に対するインパクトも現れた。これまでは源頼朝が極めて優秀な政治家であることを認めてはいたが、鎌倉幕府は源頼朝の元に集った東国武士の集団であり、軍事的インパクトはあっても政治的インパクトは無いと考えられていたのである。

 しかし、ここで一八歳の源実朝が政治家として存在した。

 鎌倉の地で若き俊英が無から登場したのではない。

 鎌倉幕府が若き俊英を作り出す組織になったのだ。

 ここでヒントとなるのが承元三(一二〇九)年一〇月一五日に開催された源実朝と公胤の対談、そして、一〇月一七日の公胤の帰還である。

 ともに中原広元が絡んでいるのだ。前者については中原広元がメインとなって介在し、後者については数多くの御家人達の中の中心に中原広元がいる。鎌倉幕府には中原広元をはじめとする文人官僚達がいて、彼らは京都で地位を掴めなかった代わりに鎌倉を選び、生まれの地位の低さから認められてこなかった者が、鎌倉では認められて重宝されている。その面々がブレインとして控えているのが源実朝なのだ。


 吾妻鏡を読んでいるだけでは源実朝が政治家としての名声を獲得していることを読み取れない。それどころか和歌に耽溺する軟弱な将軍というイメージを意図的に構築しているとさえ感じられる。

 承元三(一二〇九)年一一月四日、源実朝が臨席しての弓道大会が開催されたとある。それだけであれば鎌倉の武士達においておかしくない話なのであるが、関東武士は馬と弓矢の訓練を忘れてはならないと北条義時が進言したために開催されたというのが吾妻鏡の記載だ。

 さらに七日にはこの弓道大会の結果を踏まえての大宴会があったとある。それも御所に御家人達が集まって飲めや歌えやの大騒ぎであるから、源実朝も当然ながら臨席している。この場で北条義時と中原広元が、武芸を高め、朝廷を守ることこそが鎌倉幕府の安泰につながると演説をしたというのが吾妻鏡の記載だ。

 ここまでの記述であれば武芸を疎かにして軟弱な趣味に耽溺している源実朝と、鎌倉武士としての本分を忘れずにいる北条義時という構図になるであろう。しかし、ここで忘れてはならない点が二点ある。一つは吾妻鏡では源実朝自身の武に対する記載が意図的に省かれていること、もう一つは、源実朝は武士である前に貴族であり、将軍は貴族としての職務の一つであるということである。源実朝という人物は、武士であるか否かと問われれば武士であると答えるべき人物であるが、武士であるか貴族であるかと問われれば、貴族であると答える、あるいは、武士でもあり貴族でもあると答えるべき人物なのだ。極論すれば、源実朝が武芸に対する理解を示すのは必須であっても、武芸への興味を示すことは必須ではない。知っていて損をするわけではないが、最優先で身につけるべきことではない。それよりも、政治家として鎌倉幕府をいかに統治するかが源実朝に課せられている最大の使命であり、役割であって、源実朝が身につけるべきはそうした政治学の知識である。武士であるならば武芸に時間を費やすことはプライベートではなくオフィシャルになるが、政治家たる貴族であるならば武芸に時間を費やすることはオフィシャルではなくプライベートになるのだ。

 実は、源実朝自身の武芸鍛錬有無についての記録は確認できない。しかし、源実朝は間違いなく武芸鍛錬に対する理解を示していたことが他の記録から確認できるのである。

 その記録を残しているのは、方丈記の作者としても名を残している鴨長明。これより二年後のことになるが、鴨長明は鎌倉を訪問し源実朝と面会している。鴨長明は現在でこそ方丈記の作者として名を残しているが、この時代の鴨長明は有名な歌人という扱いである。鎌倉までやってきたのも同じ源実朝と和歌を通じたつながりであり、和歌に耽溺する源実朝が著名な歌人である鴨長明を呼び寄せたという図式だ。ところが、そのときの面会の記録は、和歌についての語らいではなく、源頼朝の思い出、そして、源頼朝が示していた武士達の武芸鍛錬の様子であったのだ。鴨長明は源頼朝と面識があり、また、源平合戦を同時代のこととして体験している。一方、源実朝はいかに源頼朝の実子であるとはいえ、源平合戦の頃はまだ生まれていない。つまり、武芸鍛錬の結果が如実に示される戦場の様子となると、幕府のトップである源実朝よりも、実際に戦場を目の当たりにしてきた鴨長明のほうが詳しくなるところなのであるが、源実朝と鴨長明との面会の場で起こったのは、予想とは逆に、源実朝の語りが鴨長明の体験を凌駕していたことなのだ。

 鴨長明は武士ではなく、一人の民間人として源平合戦の戦場を体験した。一方の源実朝は源平合戦そのものを体験してはいなくても、武芸そのものは理解していたのである。だからこそ、武芸の重要性と、その成果を発揮すべき局面を理解し、その上で政治家として判断でき行動できているのだ。

 北条義時の演説の一〇日後、源実朝は北条義時に対して政治家として行動した。スタートは北条義時から源実朝への要望である。北条義時がこの日、北条義時に古くから支えてきた武士達を鎌倉幕府内において御家人に準じた扱いとすることを求めたことから始まった。北条義時に仕えてきたということは、源頼朝が伊豆の流人であった頃から北条家に仕えてきたことを意味する。源平合戦勃発時から源頼朝に仕えていた御家人は数多くいるが、伊豆で流人生活を送っていた頃から仕えてきた御家人となるとその数は少なくなる。その数少ない御家人のうちの一人が北条義時であり、その北条義時に仕えてきた古参の武士となると、かなりの確率で源頼朝に仕えてきた古参の武士ということになる。ただし、源頼朝に直接仕えたのではなく、間に北条家というワンクッションを挟んでいる。

 温情を考えれば北条義時からの申し出も理解できなくはないが、このときの源実朝からの返答は、否。そのようなことを認めては北条義時一人が他の御家人達と比較して扱いがあまりにも大きくなってしまうだけでなく、将軍以外の者に仕えることで運命が変わってしまうという先例を生み出してしまう。それでも御家人に準じる地位を得た初代はまだいいが、代を重ねるに従って大きな問題へと発展することとなるというのが源実朝からの答えである。まるでこの後の鎌倉幕府の迎える運命をこの時点で知っているかのような返答であるが、このような指摘は多少なりとも政治を学んだならば誰もが思いつくことだ。組織の誕生から衰退に至るまでの経緯において、衰退のきっかけとなる要望に対し、温情で応えるのではなく歴史で拒絶することができるというのは、理論上こそ誰でもできるものだが、実際には簡単にできるものではない。目の前にいるのは父の忠臣でもあり、母の弟であり、鎌倉幕府の有力者の一人なのである。その人物からの要望を政治家として排除したのだ。

 ここまでであれば歴史に基づく判断を下した冷酷な統治者となるが、源実朝は冷酷と温情の双方を理解し、その使い分けも理解していたと言える。

 どういうことか?

 北条義時からの申し出を拒否してから二日後の承元三(一二〇九)年一一月二〇日、源実朝のもとに届いた諸国からの要請に対し、源実朝は実力主義を以て回答とすることにしたのである。

 具体的には、各国の治安情勢悪化を嘆く書状が源実朝のもとに届いており、源実朝はその原因を、諸国の守護や地頭の職務怠慢、ないしは、能力不足と考えたのである。初代はいい。その実力に応じた守護や地頭の任命なのであるから、任命に応える結果を出す可能性が高いし、実際に結果を出した者は鎌倉幕府の内部において地位を高め、働きに応じて新たな所領を手にできる。御恩と奉公の図式が成立する。

 問題はここから先。代が変わると守護や地頭として手にしている権利が世襲となってくる。そして、多くの場合において、世襲で守護や地頭となった者は手にした権利に見合った働きをしなくなる。そのわかりやすい結果が治安の悪化だ。

 源実朝は結果を出していない守護や地頭を排除するだけでなく、実力ある者を取り立てる仕組みを、それこそ、先に北条義時が要望した御家人に仕える武士の抜擢も含む仕組みを構築することとし、和田義盛、中原仲業、清原清定の三名に守護と地頭の調査と人員採用を命じたのである。

 ここまでであれば源実朝の政治家としての能力の高さを示すエピソードとなるが、この後で源実朝は失敗している。前段の守護と地頭の見直しを命じられてから七日後、和田義盛が源実朝に対して再び上総介就任を望んだことに対し、源実朝は判断を待つように応えている。承元三(一二〇九)年末までの時点で評価するならば及第点であるが、後の歴史から考えるとこの判断は源実朝のミスとするしかなかった。


 どうして承元三(一二〇九)年末までの時点での評価となるのか?

 これは承元三(一二〇九)年一二月一一日の出来事を考える必要がある。

 この日、美作朝親と橘公成との間で一悶着起こったのである。美作朝親と橘公成の両名の住まいは近い、いや、近いなんてものではない。何しろ両者の住まいの門が向かい合わせなのだ。

 こんな間近に住まいを構える鎌倉武士同士の衝突だ。単なる殴り合いで済む話ではない。互いに武装して向かい合うという事態に発展したのだ。

 美作朝親は源を姓とする武士であることまではわかっているが、このときが史料の初出であり、詳細な系図は不明である。村上源氏の流れを汲む可能性が高いが、清和源氏の血筋であるともされている。

 橘公成は史料によっては橘公業と記されることもある武士であり、名だけを見ると貴族の一員に感じるが、この人の史料初出は源平合戦勃発間もない治承四(一一八〇)年まで遡ることができ、その史料の内容も、平知盛の家人であった橘公成の父とともに源頼朝のもとに投降し、以後は鎌倉方の一員として活躍するようになったというものである。

 ともに武士である二人が衝突する、それも鎌倉市中で衝突するということで大問題となるはずであるが、ここにさらに問題が重なった。本来であれば問題解決にあたるべき侍所別当和田義盛が橘公成の側に立つと明言したのである。いや、和田義盛としての意見ではなく、三浦一族が揃って橘公成の側に立つと宣言し、和田義盛は三浦一族の一員として橘公成の側に立つこととしたのだ。

 一方、美作朝親の側のほうも多勢に無勢というわけではない。確認できるだけでも、甲斐源氏の主軸であった武田一族と、同じく甲斐源氏の一員である小笠原一族が美作朝親の側に立つこととなった。

 この騒ぎを聞きつけた源実朝はただちに和田義盛に対して騒ぎを鎮めるように命じようとしたが、上述の通り和田義盛は既に三浦一族の一員として橘公成の側に立っている以上、呼び戻せなくなっている。

 そこで源実朝は、北条時房を派遣することとした。

 結論から記すと、一触即発の状態であったのが、北条時房の仲介によって無事に戦闘回避に成功した。

 それにしても、どうしてこの両者は対立し、一触即発の事態に陥ったのか?

 吾妻鏡の伝えるところによると色恋沙汰であるという。

 実際にいつのことかはわからないが、美作朝親の奥さんが行方不明となってから数日を経た後、彼女が橘公成の邸宅内で橘公成と肉体関係となっていることが判明した。美作朝親は妻の浮気を咎め、浮気相手に妻を引き渡すように求めたのであるが、橘公成はその女性が美作朝親の妻であるとは知らなかったわけで、浮気だと言われるところまでは納得できても、返せと言われて素直に応じるのは難しかった。そもそも、先に家出があり、橘公成は家出をして寝起きする場所を失った女性を匿ったことからスタートしての肉体関係であって、拉致したわけではないのである。ただし、美作朝親にしてみれば橘公成の返答のほうが納得できない話であり、先に浮気関係があって、その後で家出と同棲になったと考えるのが自然だ。

 どのような事情で対決姿勢を見せるようになったのかを調べた源実朝は、橘公成に対して彼女を美作朝親のもとに返すように命じ、両名に対して矛を収めるようにさせたというのが吾妻鏡での記載である。

 ただ、吾妻鏡のこのあたりの記載は不自然に感じる。

 たしかに鎌倉武士の気質は短期で物騒である。厳密に言うと南北朝時代の作品であるためこの時代の作品ではないが、かの有名なマンガ作品にある「侍の本懐とはナメられたら殺す」はこの時代の鎌倉武士にも通用する考えなのだ。不快な思いをさせられたとき、司法に訴えるより先に武力に訴えるのが当たり前の鎌倉武士であるから、このときも美作朝親と橘公成の間の対立は、現代人からすると武装して向かい合うより法の裁きに従うべきではないかと考える内容であろうと、簡単に武装して向かい合う。

 ただ、それにしても大袈裟に感じるのだ。

 そこで、この両者の対立ではなく、この両者のサポートに入った面々に目を向けてみると、実に単純な図式が見えてくる。

 村上源氏か清和源氏か不明であるものの、源氏の一員としてカウントされる美作朝親のもとには甲斐源氏の末裔達が集っている。

 一方、橘公成のもとに集っているのは三浦一族である。三浦一族は桓武平氏の末裔である。

 一見すると源氏と平氏の関係のように見えるが、源頼朝の挙兵時に鎌倉方の一員として参加したのは三浦一族のほうであり、源氏の一員としてカウントされる美作朝親や甲斐源氏達は、打倒平家として立ち上がったものの途中までは源頼朝と距離を置いていた面々である。今でこそともに鎌倉幕府の御家人達の一員となっているが、スタート時から鎌倉方であった面々と、途中から鎌倉幕府に加わった面々との対立があったと考えることもできるのだ。

 吾妻鏡はこのときの騒動を、北条時房の仲介によって一時的に騒動は鎮静化し、源実朝の命令によって騒動は立ち消えとなったものの、美作朝親はなお戦闘準備を隠さないでいると結んでいる。

 ただし、公的には一二月一七日に美作朝親と橘公成の両名が矛を収めたこととなっている。


 承元三(一二〇九)年一二月一五日。前述の守護と地頭の見直しについての第一段として、関東近隣の守護の見直し結果が発表となった。

 ただ、その結果は源実朝の期待を裏切るものだった。

 全て現状維持であったのだ。

 特に、下総国守護千葉成胤、相模国守護三浦義村、下野国守護小山朝政の三名が揃って、自らが守護であり続けることの根拠となる文書を持ってきたことは、源実朝の想像を超えていた。

 下総国守護千葉成胤が下総国の国守護である根拠が、祖父の千葉常胤に源頼朝が下総国守護の権利を与えたことに基づくとした。さらに千葉常胤が下総国守護となった理由も、祖先である千葉元永が千葉荘の保有権を有していたことに由来するとした。

 相模国守護三浦義村も千葉成胤と同様に、自分が相模国の国守護である根拠が、父である三浦義澄が源頼朝から相模国守護の権利を受けたことに由来するとした。それも、源平合戦初期に戦死した祖父の三浦義明が天治年間から、西暦に直すと一一二四年から一一二五年の段階で既に相模国の国衙で鎌倉幕府の守護と同等の働きをしており、源頼朝がその功績を評価して、三浦義澄を相模国守護に任命したという証拠を示した。

 歴史という点で最も威力を発揮したのが下野国守護小山朝政である。何とこの人は自らが下野国守護である根拠を、平将門の乱における俵藤太藤原秀郷の功績に由来するとしたのだ。厳密に言うと源頼朝がその時代からおよそ一七〇年前の藤原秀郷の功績を評価し、下野国守護とするとしたのである。

 歴史というのは強力な武器になる。証拠のある歴史はさらに強力な武器になる。組織の祖先の残した記録は、これ以上ない強力な武器になる。

 吾妻鏡に具体名が残されているのはこの三名のみであるが、その他の国の守護についてもこの三名と同様に源頼朝の記した書状を持参していた。こうなると、いかに治安問題の懸念があろうと源実朝の一存で守護や地頭の交替はできなくなる。中原広元と協議した上で、源実朝は自らの目論んだ守護と地頭の入れ替えについて断念せざるを得ないこと、ただし、守護と地頭のチェックについては怠らないことを示すのみとした。

 それにしても、政所別当から離れたはずの中原広元がこうした場面には頻繁に登場するのを誰も何も文句を言っていない。このときの守護と地頭のチェックについて主軸を担ったのは中原広元であり、翌年のこととなるが、中原広元が鎌倉幕府の使者として京都に派遣されることとなることについても誰も何も指摘していない。


 承元四(一二一〇)年二月二一日に中原広元が京都に派遣された表向きの理由は、明王院僧正公胤が指導僧をつとめる後白河法皇の持仏堂の長講堂の法事に参加するためである。

 公胤と言えば、比叡山延暦寺対策のために源実朝が招いた園城寺の僧侶である。

 その僧侶が京都で開催される法事に参加する。それだけでもただの法事ではないことがわかるが、その法事に鎌倉幕府から中原広元が派遣されるというのは、理論上こそ一人の貴族が京都まで出向いて法事に参加するということであっても、実際には誰もそのような理論を信じない。いかに政所別当の地位から降りていると言っても朝廷官職から完全に離れたわけではなく、依然として位階も手にし続けている。つまり、鎌倉幕府の息の掛かった貴族を京都に派遣することを意味する。

 この一五〇年間、京都内外の人達は比叡山延暦寺の僧兵達が繰り広げる武装デモに悩まされ続けてきた。実際には延暦寺以外にも様々な寺院や神社が武装デモを繰り広げてきたが、強訴と言って思い浮かべる代表は延暦寺であり、延暦寺は信仰の対象であるよりも先に憎しみの対象であった。強訴として朝廷に要求を突きつけるだけではない。何しろ日常生活が破壊されるのだ。

 僧兵達にしてみれば強訴と呼ばれる筋合いもなく正当な権利であると考えていたが、被害に遭っている人にとっては迷惑千万な悪行であった。その悪行に対して武力で抵抗できる伊勢平氏や清和源氏を抱えることで歴代の院政は、積極的支持ではなく消極的支持ではあるものの、権力者としてのコンセンサスを得る契機とし、権力を維持できる手段としてきた。その流れの延長線上に後鳥羽院政があり、後鳥羽院政の協力者である源実朝が、遠く相模国鎌倉の地から京都内外の人達を守っているというイメージを創り出すことができたのである。

 源実朝はその後も京都と鎌倉との人員の行き来を活発化させている。源実朝自身は鎌倉に留まり続けたが、高倉天皇の第二皇女である坊門院範子内親王の死の知らせを受けて弔問の使者を派遣し、京都からの要請に応じて滝口武士の補充のために鎌倉武士を派遣するなど、人の流れを活発化させた。実際にこのときは、小山、千葉、三浦、秩父、伊東、宇佐美、後藤、葛西をはじめとする計一三の家から滝口武士が派遣されている。

 また、京都だけでなく奥州平泉についても源実朝は視線を向けている。奥州遠征後のかつての奥州藤原氏の領地をそのまま継承した鎌倉幕府は、平泉を軸とする東北地方の経営に対する責任も有していた。それまでおよそ一世紀に亘って支配してきた奥州藤原氏の権力が喪失したことは、何もしないでいると東北地方が無秩序な状態に陥ることを意味する。奥州遠征は単に奥州藤原氏を滅亡させることだけがゴールではない。奥州藤原氏の権力を鎌倉幕府がそのまま継承することで東北地方の秩序を維持し、発展させる義務を果たしてはじめてゴールとなる。これは古代ローマのユリウス・カエサルが採用した方法と同じであるが、新たに制した土地を統治するためには、反抗しないという前提で既存の権力構造を残しておいた方がいい。既存の権力構造を残し、反抗する部分だけを交換すると、反抗を未然に防ぐことができる上に、制する前と変わらぬ、あるいは制する前よりも優れた庶民生活の向上を果たすことができる。鎌倉方の奥州遠征についていうと、倒すのはあくまでも奥州藤原氏とその同調者のみであり、遠征終了後は倒した者の代わりに鎌倉方の面々を配置しただけとすることで、その他の権力構造は残している。

 源実朝が着目したのは、配置した鎌倉方の面々の状況だ。奥州藤原氏滅亡後、衰退してきている平泉の寺院群から源実朝のもとに寺院の衰退を訴える書状が源実朝に届いたため、承元四(一二一〇)年五月二五日に源実朝は中原広元を通じて統治の適正化を命じている。

 それにしても、いつの間に中原広元は京都から舞い戻ってきたのか、この人の健脚ぶりは気になるところである。中原広元は久安四(一一四八)年生まれであるから還暦をとっくに超えている。現在ならばともかく、この時代では平均寿命をとっくに通り越した高齢者だ。


 政治家としての源実朝の活動は前年から既に見えていたが、承元四(一二一〇)年に入るとより活発化することとなる。

 まず、時間は少し遡ることとなるが、中原広元を京都に派遣してからおよそ一ヶ月を経た三月一四日に武蔵国の検地台帳を作るよう命じた。検地自体は建久七(一一九六)年より断続的に実施していたが、その結果をまとめてはいなかったのである。検地結果をまとめる台帳の作成をこの日、まずは武蔵国から始めることとしたのだ。どんな施策であろうと、まずは現状把握から始まる。検地は土地政策における現状把握手段であり、実際に土地の利用状況、田畑の面積、そして所有権と保有権を調べることを源頼朝はスタートさせていたのであるが、調べるだけでまとめてはいなかった。まとめる前に亡くなってしまったからで、政策は宙に浮いた状態になっていたのである。源実朝は中途半端に留まっていた検地結果を改めてまとめることとしたのである。武士にとっての土地の重要性は記すまでもない。そのために所領争いは武士同士の対決における最多紛糾事由である。その紛糾を未然に防ぐためもあって、鎌倉武士達は源実朝に従ったのである。

 ただし、皮肉なこととでもあるが、六月三日のこととして、土地の重要性とは関係ないところで武士と武士との諍いがあったことが吾妻鏡に記されている。

 吾妻鏡によると、相模国丸子川、現在の神奈川県小田原市のあたりで、土肥家と小早川家の一族と、松田家と河村家の一族との、二対二の喧嘩があったという。二対二といっても二名対二名という戦いではなく、家単位の軍勢が二つずつまとまり、それぞれの軍勢が争うのである。実際にはまだ軍勢出動とはなっていないが、いつ軍勢同士の衝突があってもおかしくないというのだから穏やかではない。

 争いのきっかけは、納涼のために川沿いで涼んでいたところ、互いの先祖の手柄の優劣をめぐる口論となり、口論が発展して暴力になり、傷つけられた者が出て、互いに勢いを増していって、軍勢となり、衝突寸前となった。

 この知らせを聞きつけた源実朝は、侍所別当の和田義盛に加え、三浦義村も現地に派遣して強引に対立を強制終了させた。

 なお、この喧噪に関して北条義時は、今後このように武士同士の対立の末に軍勢を集めた者については、所領を没収するだけでなく、鎌倉幕府の御家人とは認めず幕府から追放すべしと述べ、この主張を記した書状を土肥家と松田家へ書状を送り届けている。ただ、ここで奇妙なことが起きている。

 源実朝が従三位に昇叙したことで政所を設置する権利を獲得したと同時に、北条義時は御教書を発行する権利を失っている。前述の通り、北条時政の御教書は最低でも二六通が現存するのに対し、北条義時の御教書は贋作の可能性がある文書を含めても五通しか存在していない。一方、御教書ではなく、政所発給の文書として北条義時の署名が記された鎌倉幕府の書状となると、一六通現存する。そして、そのうちの一〇通は源実朝が亡くなった後の書状である。ところが、残る六通は承元四(一二一〇)年の一年間に集中しているのだ。なお、現存する六通のうち六月三日の出来事に対する書状そのものは含まれていない。つまり、吾妻鏡には北条義時の名の書状が出されたという記録があるものの、その書状そのものは現存していない。

 そこで現存する北条義時の署名入りの書状を調べると、源実朝の名で発給する政所の書状に、他の者と同調して署名したに過ぎないこと、すなわち、北条義時の独断ではなく、衆議の上での決断と署名であったことがわかる。

 吾妻鏡では北条義時が厳しい処断を下して書状を書き記したかのように描いているこのときの情景も、実際には衆議を重ねた末に下された源実朝の政治家としての判断、それもかなり厳しい判断があり、北条義時は政所の一員として将軍の発給する書状に自らの署名を加えただけだったのではないかと類推されるのである。まるで源実朝は政治家として何もしていなかったと描くために、源実朝ではなく北条義時が処断したかを後世に伝えるかのように。


 先に述べたように、侍所別当和田義盛は上総介就任を望みながら放置されていた。

 源実朝が和田義盛の上総介就任について朝廷や後鳥羽院に打診したという記録はない。しかし、もしかしたら朝廷のもとに、和田義盛が上総介就任を望んでいること自体は情報として届いていた可能性ならば存在する。

 承元四(一二一〇)年六月一七日に、空席となっていた上総介の地位を後鳥羽上皇が埋めたのである。後鳥羽上皇が任命した上総介は藤原秀康、北面武士の一人としてこれまで後鳥羽上皇の周囲に仕えていた武士である。

 武士であっても前述のように北面武士であり、鎌倉幕府の御家人ではない。もっとも北面武士に限らず、鎌倉幕府の一員ではない武士は珍しくない。鎌倉幕府の勢力が圧倒的であるとはいえ、また、この時代の武士の多くが鎌倉幕府の支配下に組み込まれるようになっているとはいえ、武士が一人残らず源実朝に臣従するようになったわけではない。鎌倉幕府はあくまでも源実朝に仕える人を束ねている組織であって、武士であるが源実朝に臣従しているわけではないという武士はそれなりの人数がいたのである。

 先に述べたが、平家政権の頃には左衛門尉を長年務めたあとでどこかの国の国司になるという武士にとっての最高級のキャリア、「侍受領」が存在していた。和田義盛はこれを望んでいたのだが、後鳥羽上皇は自身の周囲に仕えてきた武士に対する恩賞として侍受領を与えたのだ。それも、侍受領でもおかしくない血筋の武士に与えたのである。

 藤原秀康という武士であるが、実は上総国司が最初の国司就任ではない。下野国、河内国、備前国、能登国といった国々の国司を経験しており、上総介就任は五ヶ国目であるから、侍受領としてはかなりの成功事例である。また、藤原秀康は平将門の乱で戦功を挙げた俵藤太こと藤原秀郷の子孫であり、武士としての血統でいうと源氏をも上回っているだけでなく、藤原秀郷が藤原北家でもあるため藤原秀康も藤原北家の系図に名の乗る人物であり、国司の歴任状況からもわかるとおり、武士であると同時に貴族の一員に列せられている人物である。

 こうなると、桓武平氏の血を引いているとは言え貴族の一員とカウントされることのなかった人生を歩んできた和田義盛には勝ち目がない。和田義盛としては、本心としては黙っていられる話ではなかったが、藤原秀康の上総国司就任は後鳥羽上皇直々の任命である上に、既に貴族の一員として各国の国司を歴任してきたキャリアを有する人物が上総国司としてやって来るのであるから黙っているしかない。選挙で首長が選ばれる現在と違い、国司や守護といった令制国単位の総責任者というものは中央から人員が派遣されるものという概念が通例であったのがこの時代であり、和田義盛の方が現地に詳しいというのは国司に抜擢される理由にはならない。後鳥羽上皇が派遣する人物がこれまで複数国の国司を歴任してきた実績を有し、その人物が過去の経歴を携えて関東にやって来て上総国司として申し分ない働きをするならば、自分はまだその人物の力量に至っていないと考えて自分で自分を納得させることも不可能ではないのだ。

 ところが、七月二〇日にとんでもない情報が飛び込んでくる。

 この新任国司の統治が悪政極まりないという苦情が飛び込んできたのだ。

 先例を無視しての勝手な振る舞いなだけでも大問題なのに、上総国衙の役人達の嘆きを無視して暴れ回るだけでなく、現地の農民を藤原秀康に仕える武士が斬り殺したとあっては取り返しの付かない問題だ。

 この問題を受けた鎌倉幕府では、北条義時、中原広元、三善康信といった面々が集まって事後対応を協議することとなったが、何と言っても後鳥羽上皇の派遣した国司である。鎌倉幕府ができたのは後鳥羽上皇に対して苦情の書状を送ることだけであった。

 このことに対し、和田義盛がどのような思いであったのかを伝える史料は無い。

 一方、藤原秀康は今後も登場する。より厳密にいうと、これより一三年後に鎌倉幕府の強大な敵として登場することとなる。


 はっきり言って、後鳥羽上皇が藤原秀康を上総国に派遣したことは大失敗であった。いかに各国の国司を歴任し、また、北面武士として鎌倉幕府とは独立した独自の武力を有している人材を派遣したとしても、現地でやっていることは看過できることではないとなると、後鳥羽上皇の失策とするしかない。

 どうにかして納得できる理由を探すとすれば、観測気球といったところか。鎌倉幕府の勢力が極めて強い地域に独自の武力を持った人物を国司として送り出すことで、鎌倉幕府に対する(くさび)を打ち込めるのではないかと観測するのである。これならば、藤原秀康を上総国に派遣したこともどうにか理解できる。

 理解はできるが、軽率にすぎる。

 そもそも観測気球というものは、飛ばした側だけでなく、飛んできた気球を見上げる側にとってもリアクションのきっかけとなる代物だ。後鳥羽上皇が院の権力で国司を任命して実際に現地に派遣したことは、そして、この新任国司が現地で何をしたかを見つめ直すことは、鎌倉幕府の側にも行動を起こすきっかけとなる。

 何度も述べているが、そもそも鎌倉幕府という単語はこの時代に存在しない。幕府という単語も漢語に詳しい人であれば戦地における陣を意味する単語であることは理解しても、それが現代人の考えるところの政治機関と同義とは考えない。

 しかし、鎌倉幕府という概念ならばある。相模国鎌倉に根拠地を構える武士集団であり、そのトップには従三位の位階を持つ貴族が征夷大将軍として君臨していることは、この時代の人であれば誰もが知っている。

 同時代の歴史資料では、鎌倉幕府のことを「関東」と記すことが多い。元々「関東」とは現在の関東地方だけでなく、東海や北陸、東北地方にいたる東日本全域を指す名称であったが、この時代になると現在の我々が考える関東地方とほとんど同じエリアを指す名称となり、同時に、鎌倉幕府の権力そのものを指す名称となった。「永田町」といえば政治、「霞ヶ関」といえば官僚、「兜町」といえば金融街を指すのと似た感覚といえよう。

 そのことは鎌倉幕府の方も理解しており、関東とは我々のことであり、関東地方とは我々の根拠地であると認識もしていた。

 後鳥羽上皇が国司を関東地方に送り込んだ。ここまではこの国の法制上何ら問題ないことである。しかし、その国司が国司としての政務を果たさないとなると、鎌倉幕府としては院に対する敬意を喪失させるに十分な大問題となる。かといって、現実問題、この国司を無視して独自の国司を鎌倉幕府が任命することなどできない。従三位の貴族である源実朝が鎌倉幕府の御家人の誰かを鎌倉地方の国司として朝廷や院に推薦することまではできても、その人物を国司に任命することまではできないのである。

 ただ、鎌倉幕府には一つの特権が存在する。各地の守護と地頭を任命し実際に派遣できるという特権である。名目上はあくまでも鎌倉幕府の送り込んだ人材であり、朝廷官職に基づく人材ではない。鎌倉幕府の中には五位以上の位階を有してどこかの令制国の国司になる資格を有している者もおり、かつての北条時政のように、一人の人物が国司を務める令制国と守護を務める令制国が別々であるということもおかしくないのである。国司や郡司は律令に基づく国家官職であるのに対し、守護も地頭も鎌倉幕府という組織の中での独自の役職である。現在の感覚でいうと、国司は都道府県知事、郡司は市区町村長に相当するのに対し、守護や地頭は政党の各地の支部の支部長といったところだ。ただし、現在の政党と違って鎌倉幕府は軍事力を有している。各県の県警が形骸化して機能していないというべき時代において、地域における最大規模の警察権力でもある上、合法的な司法権も握っている。現在の政党であれば、政党のその地域の支部の支部長であることなど、その政党とは無関係の人物にとってはどうでもいいことであるが、この時代の人にとっては守護が誰で地頭が誰であるかは極めて重要なことである。

 一度は中断していた守護と地頭の見直しについて、源実朝は再度手をつけることとしたのである。藤原秀康のように武力を持つ国司であろうと、鎌倉幕府の守護や地頭に勝てる武力まで手にしているわけではない。力でねじ伏せるなど物騒ではないか感じるかもしれないが、暴れ回る国司を押さえつける鎌倉武士という構図を作り上げることに成功すれば、統治における大きなメリットを享受することとなる。


 承元四(一二一〇)年後半の吾妻鏡の記載は、源実朝があまり政務に携わっていないかのような記し方をしている。しかし、記録をよく読むと、源実朝は合格点をつけて良いレベルの政務をしている。忘れてはならないのは、このときの源実朝はまだ二〇歳にもなっていない少年だということだ。

 たとえば承元四(一二一〇)年一〇月一五日には、中原広元に命じて聖徳太子の十七条憲法や物部守屋の旧跡、押収された田畑の数やその田畑の所在地といった情報を、天王寺や法隆寺といった寺院から取り寄せている。吾妻鏡にはただ当時の歴史資料を取り寄せたとしか記しておらず源実朝の真意など全く記していないが、どのような思いでこれらの歴史資料を取り寄せたのかは源実朝の立場に立つと理解できる。

 これ以上ない先例なのだ。

 現在と違い、この時代は聖徳太子の業績が全て事実と考えられていた。厩戸皇子という呼び名など一部の歴史学者しか知らず、聖徳太子という名が人口に膾炙されていた時代である。その時代に聖徳太子の記録を取り寄せるということは、単なる歴史趣味ではなく、統治における正統性(レジティマシー)を獲得する契機となる。

 記紀に従えば、聖徳太子という人物はそれまで朝廷において圧倒的な軍事力を有していた物部氏を滅ぼし新たな政治を構築した人物である。

 そして、聖徳太子の時代と承元四(一二一〇)年とを比較すると、鎌倉幕府はむしろ物部氏の側に位置することとなる。源実朝の時代の鎌倉幕府は朝廷権力に滅ぼされた物部氏の途中経過であるとも言えるのだ。

 源実朝と後鳥羽上皇との関係が悪いわけではない。ただ、その関係が永続するとは限らない。後鳥羽上皇が鎌倉幕府を何かと厄介に感じていることは周知の事実であるし、後鳥羽上皇と源実朝との関係が良好であるといっても、後鳥羽院と鎌倉幕府との関係まで良好であるとは言い切れない。ましてや北面武士の一人を鎌倉に国司として派遣しただけでなく、これまでとは違う新たな武装勢力である西面武士を結成させている。西面武士の武力は鎌倉幕府と比べてまだまだ小さいが、聖徳太子が物部氏を滅ぼしたときに聖徳太子が操ることのできた武力もまた、当時の物部氏の武力と比べれば小さいのだ。後鳥羽院との関係を考えたとき、武力の大小は必ずしも戦闘の勝敗を確約するものではないという先例から得られる教訓はいくら学んでも足りない。

 さらに源実朝は一一月二三日に奥州十二年合戦絵巻を京都から取り寄せている。いわゆる前九年の役の絵巻だ。清和源氏が武士として権勢を築くきっかけとなった一八〇年前の戦いの絵巻を取り寄せたことを、吾妻鏡は実にあっさりと書き記している。しかし、京都の立場から捉えると、鎌倉の、特に源実朝の動きが不気味なものとなる。後鳥羽上皇が武士でもある北面武士を国司として関東に派遣してからというもの、鎌倉の源実朝が見せている動きが明らかに歴史に紐づく行動に収斂されるのだ。それも、武力行使に関する歴史を取り寄せているのだから不気味とするしかない。

 朝廷や後鳥羽院の側から源実朝の動きを見つめたときの鎌倉幕府の姿勢とは、関東に対する干渉を許さない、武力を発動させるのであれば鎌倉もその用意がある、京都が武力行使に関する論拠を歴史に求めるなら鎌倉も歴史に基づいて行動する、そう捉えられてもおかしくない姿勢である。


 それにしても後鳥羽上皇はどうして観測気球を打ち上げたのか。そして鎌倉幕府はどうして観測気球に対して迅速に対処したのか?

 院政というものは、退位した天皇が上皇や法皇として圧倒的権力を有して朝廷に対する支配をするという構図である。上皇も、法皇も、朝廷に対して示すことができるのは院宣という名の要望であって、実質的にはともかく理論上は何ら法的拘束力を有していない。

 そして、院政を執り行うことができるのは院のみである。ただし、院であれば自動的に院政を執り行えるようになるわけではない。天皇を退位して上皇や法皇になることが重要なのではなく、新たな天皇の父や祖父や曽祖父といった天皇の近親者として強い影響力を与えることができてはじめて院政を執り行うことができる。

 過去三例の院政を見ると、白河法皇も、鳥羽法皇も、後白河法皇も天寿を全うしているが、それは偶然の結果であって、院政を始めたならば終身に亘って院政を執り行うことができるなどという決まりはないし、過去三例の法皇の何れも、時代のただ一人の上皇や法皇であったわけではない。新たな上皇や法皇が誕生しても、新たな院政を開始させることを阻止し続けることに成功していたのである。実際、源平合戦時に一時的に高倉上皇による高倉院政が成立していた時期があった。そのときは高倉上皇が亡くなったことで後白河院政が復活したが、これは再現性のあるものではない。

 以上を踏まえ後鳥羽上皇の立場に立つと問題が出てくる。

 後鳥羽上皇の息子である土御門天皇である。

 土御門天皇は承元四(一二一〇)年時点で、満年齢で一五歳、数えで記すと一六歳である。元服は済ませており、元久三(一二〇六)年に近衛家実は摂政から関白に変わっている。

 そして、院政の構図は関白に比するものである。

 摂政は、天皇が病気や幼少のために天皇としての政務を執ることができない場合の天皇の代行が可能となる職務である。あくまでも理論上ではあるが、天皇が何らかの意思決定をしても、摂政が天皇の意思に反する決定をした場合、摂政の意思が天皇の意思となって国の法律となる。

 一方、関白はあくまでも天皇の相談役であり、関白が何を言おうと天皇の意思決定が求められる。天皇臨席が求められる儀式でやむをえず天皇不在とならねばならないときに、天皇の代役を務めることまでは許されるが、それ以上の権利も権限も持たないのが関白だ。

 そして、上皇にしても法皇にしても公的には何ら権利も権力も有さない。しかし、天皇の父や祖父や曾祖父であるという権威が存在することで、上皇や法皇の言葉は強力な参考意見となって国政に反映されることとなる。これが院政の構造であり、ゆえに院政の仕組みは関白に類している。

 以上を後鳥羽上皇と土御門天皇との関係として捉えると、それまで行使できていた後鳥羽上皇の権威を土御門天皇が拒否することは可能なのだ。もっと言えば、いかに実父であろうと土御門天皇が後鳥羽上皇を無視した独自の政務を執ることも不可能ではないのだ。

 ただ、土御門天皇は大きな欠点があった。

 断じて無能ではない。それどころか、天皇としての資質だけを見れば父の後鳥羽上皇が帝位にあった頃よりも優れていると言える。

 統治者としての思いやりもある。土御門天皇と顔を合わせることのできる人や声を届けることのできる人の思いだけでなく、統治者として日本全体を見渡した上での判断もできる。

 ただ、他者に対して厳しい態度を取ることがないのだ。選挙のある現在では、他者を激しく糾弾した上で自らを強く主張することも当選のための方法の一つであるが、それが政治家としての有能さを示すとは限らないことを多くの人は知っている。それどころか、余計な敵を増やすために政治家としてただただ喧しい存在に終始することとなり、何ら結果を示すことなく次の選挙で地位を失うことも珍しくない。一方、明確な敵を作ることなく他者との融和を図る政治家は、熱狂的な支持を得ることこそないものの、政治家として十分な結果を残すことが多い。もっと言えば、それこそが政治家に求められる資質とすべきことである。

 後鳥羽上皇は明確な敵を作り出して敵を攻撃することで支持を集める政治家であるのに対し、土御門天皇は明確な敵を作ることなく、融和と温和で接している政治家なのだ。しかも、百戦錬磨の政治家というわけではなく、現在の学齢で言うと中学三年生である若き天皇の姿なのだ。

 その若き天皇が、父である後鳥羽上皇の意思、すなわち、明瞭な敵を作り出して敵を攻撃する姿勢に抵抗し、他者との融和を図るようになることは十分に考えられる話であったし。攻撃的な姿勢を崩さないでいる後鳥羽上皇を丸め込むことも、これから起こってもおかしくない話であった。

 意見が対立するとか、自分の意思に逆らうとかならまだいい。だが、自分を丸め込むというのは驚異でしかない。しかも、後鳥羽上皇に存在するのは天皇の実父であるという権威だけなのだ。その権威が息子の帝位の前に(かす)むようなことがあったら、後鳥羽院の存在意義そのものに悪影響を及ぼしかねないのである。

 普通なら、息子が父を凌駕するのを間のあたりにして第一線から退くことを余儀なくされる展開であるが、後鳥羽上皇にはこの時代ならではの解決方法が存在した。

 土御門天皇を退位させ、新たな者を帝位に就けるのだ。

 現在でも、第一線を退いた者がなお有力者として権威を持ち、新たな権力者の背後で強力な存在であり続けることを院政と比喩することがあるが、本家本元の院政は現在の比喩を軽く凌駕する行動を見せることも珍しくない。

 過去三例の院政で何度も見られてきた院主導による退位と新帝即位は承元四(一二一〇)年一一月にも起こった。

 承元四(一二一〇)年一一月二五日、土御門天皇、退位。

 同日、後鳥羽上皇の子で、退位した土御門天皇から見れば異母弟にあたる守成親王が新たな天皇となる。順徳天皇の治世の開始である。

 なお、退位した土御門天皇に太上天皇の称号が与えられ、正式に上皇となったのは一二月五日のことである。ゆえに、退位してから一〇日ほどは、天皇を退位したものの上皇とはなっていないという空白期間が存在するが、これは珍しいことではない。

 そして、二人の上皇が誕生し、院政を敷く資格を有する皇族が複数名誕生することとなったが、実際に院政を敷く皇族が一人だけであるという図式もまた珍しいことではない。

 ちなみに、勤労感謝の日でもある一一月二三日を過ぎてからの新帝即位のため大嘗祭までおよそ一年の期間があるが、一一月二三日という日付を動かすことはできないため、大嘗祭までおよそ一年間の期間があることは特におかしなことではない。理論上は。

 実際にはこれが大きな意味を持っている。

 どういうことか?

 実は後鳥羽上皇が計画的にこの日付を選んだようなのである。

 建暦元年九月二五日に、後鳥羽上皇は大嘗会、すなわち大嘗祭をテーマにした公事竪義を開催している。通常、議政官は左大臣が議長を務め、太政大臣や、関白専任となった者は、会議の結果について評論することはできても会議そのものに参加することは許されていない。しかし、後鳥羽上皇が開催を命じた公事竪義については関白近衛家実も参加を命じている。

 なお、後鳥羽上皇はこの会議の開催を命じ、臨席してもいたが、御簾の向こうに身を置いて言葉を出さずにいる。そこまではいい。

 問題は、言葉を出さなかったものの行動は示していたことである。藤原定家の日記によると、大嘗祭についての討論をさせるという名目で貴族達が正しい知識を有し、正しい知識を身につけたか否かを確かめたのである。何しろ少しでも間違いがあったならば後鳥羽上皇が板敷を叩いて指摘が飛んでくるというのだから、貴族達も気が気では無かったろう。

 それでも後鳥羽上皇はあるべき大嘗祭を、そして、あるべき平安京の姿を取り戻そうと画策したようで、そのためには大嘗祭を今年ではなく来年に延ばして時間を稼ぐ必要があると考え、その結果として順徳天皇への譲位を今年の新嘗祭の終わった後である一一月二五日にしたと考えられるのである。

 ちなみに、ここで後鳥羽上皇がこだわったのは大嘗祭の開催式次のことはでない。大嘗祭を開催するときの平安京の情景である。


 さて、後鳥羽天皇、土御門天皇と、三種の神器が揃わない状態での即位が続いていた。平家滅亡時、三種の神器の一つである天叢雲剣あめのむらくものつるぎが壇ノ浦に沈んだために朝廷に存在しないのである。

 そもそも後鳥羽天皇の即時の時点では三種の神器が三つとも存在していないばかりか、平家のもとに安徳天皇、京都には後鳥羽天皇と二人の天皇が並立し、しかも三種の神器は安徳天皇のもとにあったため、皇位継承の正当性すら問題視されるという状況であった。当時の後白河法皇は勘文(かんもん)に対する太上法皇詔書として、後鳥羽天皇の即位の場に、あたかも三種の神器が存在するかのように振る舞うことを求めて後鳥羽天皇を即位させたが、これはかなり無茶な解釈であった。ちなみに勘文とは朝廷からの諮問に対し学者や役人が上申した文書のことである。

 壇ノ浦の戦いで平家が敗れたとき、三種の神器は三つとも海に投げ込まれた。源義経は三種の神器のうちの八咫鏡(やたのかがみ)八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を取り返すことに成功したが、天叢雲剣あめのむらくものつるぎだけは取り戻すことができなかった。結局、三種の神器のうちの一つは後鳥羽天皇の治世中、さらには土御門天皇の治世中も、モノとして揃うことはなかったが、実はそれでも問題なかった。

 どういうことか?

 天叢雲剣あめのむらくものつるぎの新たな形代(かたしろ)として征夷大将軍が規定されたのである。

 天叢雲剣あめのむらくものつるぎの歴史は神代にまで遡る。出雲国で素戔嗚尊(すさのおのみこと)八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したとき、八岐大蛇(やまたのおろち)の尾から現れた剣が天叢雲剣あめのむらくものつるぎだ。それから景行天皇の時代までは宮中に天叢雲剣あめのむらくものつるぎが存在し続けたが、大和武尊(やまとたける)の東征時に剣は大和武尊(やまとたける)に託され、大和武尊(やまとたける)の死後、大和武尊(やまとたける)の妻である宮簀媛(みやずひめ)によって天叢雲剣あめのむらくものつるぎは尾張国に留め置かれ、それが後に熱田神宮となったというのが神話時代の話である。なお、熱田神宮では天叢雲剣あめのむらくものつるぎではなく草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)としているが、本作では天叢雲剣あめのむらくものつるぎの表記で統一する。

 どこまで本当かはわからないが、天叢雲剣あめのむらくものつるぎの実物は熱田神宮にあり、三種の神器の一つとしての天叢雲剣あめのむらくものつるぎは熱田神宮の作成した複製品である形代(かたしろ)であるというのは事実である。ちなみに、複製品といっても単なるコピーではなく、神道上はどちらも本物であると扱われる。つまり、壇ノ浦に本物の天叢雲剣あめのむらくものつるぎが沈んだままである一方で、熱田神宮に奉納されている本物の天叢雲剣あめのむらくものつるぎは現存し続けている。

 ならば、熱田神宮に命じて天叢雲剣あめのむらくものつるぎ形代(かたしろ)を再び作らせるという手段も選べるのではないかとなるが、実はそこまで甘くはない。何しろ熱田神宮からは天叢雲剣あめのむらくものつるぎ形代(かたしろ)がもう存在するという回答が出ている。

 それが源頼朝であり、源頼朝の子孫だというのだ。

挿絵(By みてみん)

 源頼朝は父系こそ清和源氏であるが、母系は熱田神宮につながる。源頼朝の生母は熱田神宮の宮司の娘であり、源頼朝が熱田神宮とつながっているからことも踏まえて考えた結果、平家は平治の乱の敗者となった源頼朝に死を命じることができず流罪とするしかなかったほどだ。熱田神宮の権威は平家にとって脅威であったが、熱田神宮を中心とする濃尾平野はこの時代の日本国における最大の穀倉地帯であり、熱田神宮が平家に反旗を翻すことは、平安京に対する食料供給が止まってしまうことを意味する。実際、源平合戦勃発ののちに流通が止まり、養和の大飢饉が発生している。

 話を源頼朝とその子孫に戻すと、天叢雲剣あめのむらくものつるぎは三種の神器のうちの武の象徴であり、武の象徴である天叢雲剣あめのむらくものつるぎは熱田神宮の血を継承する源頼朝に受け継がれ、源頼朝が就任した征夷大将軍の地位が天叢雲剣あめのむらくものつるぎの新たな形代(かたしろ)であるという回答が熱田神宮から出ている以上、皇位継承には三種の神器が欠かせないとするならば、三種の神器の一つである征夷大将軍の地位も欠けることは許されないこととなる。しかも、征夷大将軍に就くことができるのは源頼朝とその子孫だけだというのだから、事態は余計にややこしくなる。

 源実朝まではいい。源頼朝の実の息子だから熱田神宮に連なる血統の人物であり、征夷大将軍としての役割も申し分なく果たしている。後鳥羽上皇との関係も決して悪いとは言えない。だが、それは永続的なものでは無い。

 少なくとも承元四(一二一〇)年一一月時点で源実朝のもとに男児が生まれたという知らせは届いていない以上、源実朝の身に何かが起こったら、その瞬間に三種の神器の一つが欠けることとなる。また、源実朝の血を引く後継者が誕生したとして、その人物が朝廷や院と良好な関係を構築する保証はどこにもない。それどころか朝廷や院に対して叛旗を翻す可能性もゼロではない。この時代の人たちにとって平家政権や木曾義仲は歴史ではなく実体験した過去である。また、実際に朝廷に向かって反旗を翻した平将門のことも忘れてはならない。平将門は新皇宣言から一年も経たずに討ち取られたが、鎌倉方の勢力は三〇年にわたって存続し続けており、鎌倉幕府成立からも一八年を数えている。これだけの年数があれば一時的な勢力とは言い切れない。

 征夷大将軍を三種の神器の一つとするというのは、鎌倉幕府にとっても、熱田神宮にとっても最高のカードであるが、朝廷や院にとっては最悪のダメージポイントなのだ。

 後鳥羽上皇はそのことを理解していないわけではない。後鳥羽帝にとって三種の神器がない状態で即位したという過去は決して拭い去ることのできない人生の汚点であったのだ。土御門帝も後鳥羽天皇と同様に三種の神器が揃わない状態で即位した天皇であったが、後鳥羽上皇ほどにこだわってはいない。こだわっていないというより、後鳥羽上皇が時代の流れの前に妥協を余儀なくされた結果とも言える。

 だからこそ、新たに天皇となる順徳天皇の即位をいかにして三種の神器の揃った状態で執り行うかは、後鳥羽上皇の執念の産物となったのだ。時代に妥協しないために。

 まず、三種の神器そのものは神代に遡ることができるが、即位と三種の神器との関係を調べると、養老律令の神祇令ではじめて法として規定されていること、そして、神祇令に基づいて三種の神器が揃った状態での即位は持統天皇が最初であることがわかる。つまり、たかだか五三〇年ほどの歴史しかない。持統天皇以降の天皇は三種の神器が揃っていることを即位の条件としてきたが、持統天皇より前の天皇は三種の神器が揃っているかどうかなど気にしていなかったとも言える。もちろん、自らの帝位継承において神代まで遡ることができる三種の神器を無視するなどあり得なかったろう。また、法に明記される前から暗黙の了解として三種の神器を即位時の必須としていた可能性もある。ただ、法は法、暗黙の了解は暗黙の了解、そこには大きな違いがある。

 次に、熱田神宮に奉納されている天叢雲剣あめのむらくものつるぎの由来がある。景行天皇の時代になってようやく熱田神宮と天叢雲剣あめのむらくものつるぎとの関係が出てきており、それ以前の天叢雲剣あめのむらくものつるぎは朝廷に保管されていたことが見て取れる。そこでさらに歴史を遡ると何が出てくるか?

 崇神天皇の時代に天叢雲剣あめのむらくものつるぎ形代(かたしろ)が作られ、朝廷に保管されていた天叢雲剣あめのむらくものつるぎ形代(かたしろ)であり、実物は伊勢神宮に奉納されていることの記録が出てくる。景行天皇の時代に大和武尊(やまとたける)に託された天叢雲剣あめのむらくものつるぎは実物ではなく形代(かたしろ)であり、熱田神宮に奉納されている天叢雲剣あめのむらくものつるぎも実物ではなく形代(かたしろ)大和武尊(やまとたける)の死後に熱田神宮から奉納された天叢雲剣あめのむらくものつるぎ形代(かたしろ)は、実物からの形代(かたしろ)ではなく、形代(かたしろ)からの形代(かたしろ)、すなわち、コピーのさらなるコピーであったとの記録も出てくる。無論、熱田神宮はそれを認めていない。熱田神宮に奉納されている天叢雲剣あめのむらくものつるぎ形代(かたしろ)ではなく実物であると主張している。ゆえに、天叢雲剣あめのむらくものつるぎ形代(かたしろ)を作り出すことができるのも熱田神宮でだけであるというのが熱田神宮側の主張であるが、崇神天皇の時代にまで遡らせれば、伊勢神宮に奉納されている天叢雲剣あめのむらくものつるぎから形代(かたしろ)を作り出せるとしたのだ。

 もともと建久元(一一九〇)年一月の後鳥羽天皇の元服時、三種の神器が揃っていない状態ではあるものの、本来であれば天叢雲剣あめのむらくものつるぎのあるべき場所に昼御座の剣を置き、天叢雲剣あめのむらくものつるぎの代用とした。昼御座とは天皇が日中にいる平敷の御座であり清涼殿の中に存在する。昼御座の剣とは昼御座に安置された剣である。

 また、天皇の朝儀や行幸では以前から「剣が先、璽が後」、すなわち、三種の神器のうち天叢雲剣あめのむらくものつるぎを先、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を後とするという渡御の順番が存在していたが、実はこの順番が時代の経過を経て途中から入れ替わっていた。本来は先に八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)があり、天叢雲剣あめのむらくものつるぎが後であったのだ。ちなみに三種の神器の残る一つである八咫鏡(やたのかがみ)天照大神(あまてらすおおみかみ)の生き写しとされて三種の神器の残る二つより格上とされ、そもそも動かすこと自体が認められないという扱いになっている。

 この順番を、本来あるべき順番である「璽が先、剣が後」とすべきとしたのが九条兼実である。九条兼実も天叢雲剣あめのむらくものつるぎが壇ノ浦に沈んだことは知っている。また、建久元(一一九〇)年時点ではまだ源頼朝が征夷大将軍についていない、すなわち、天叢雲剣あめのむらくものつるぎの新たな形代(かたしろ)が存在しない状況であることも知っている。九条兼実が提唱したのは、天叢雲剣あめのむらくものつるぎの代わりに昼御座の剣を用いた上で、「璽が先、剣が後」という本来の順番に戻すことであった。

 九条兼実のこのアイデアは建久九(一一九八)年の土御門天皇践祚のときも、承元四(一二一〇)年の順徳天皇践祚のときも採用された。この二回は、理論上の天叢雲剣あめのむらくものつるぎ形代(かたしろ)である征夷大将軍が朝廷の命令による作戦遂行中であるために京都から遠く離れた相模国鎌倉に滞在しており、京都での践祚の儀式に帯同することができずにいるために昼御座の剣を天叢雲剣あめのむらくものつるぎの代わりに用いるという体裁であった。

 しかし、承元四(一二一〇)年一二月五日に後鳥羽上皇は現在でも影響を与える決定を下した。寿永二(一一八三)年に伊勢神宮祭主が後白河法皇に一つの剣を贈ったことの記録を持ち出し、蓮華王院宝蔵となっている伊勢大神宮神剣は天叢雲剣あめのむらくものつるぎ形代(かたしろ)であり、熱田神宮に奉納されている形代(かたしろ)と同格であるとした。その上で、平家が持ち出した天叢雲剣あめのむらくものつるぎ形代(かたしろ)形代(かたしろ)、すなわち、コピーのコピーであり、寿永二(一一八三)年の剣は本物からのコピーであるので従来の形代(かたしろ)より格上であるとしたのである。

 この瞬間、壇ノ浦の戦いから四半世紀に亘って燻り続けていた三種の神器の不完全さは終わりを迎え、征夷大将軍に付随するとされてきた天叢雲剣あめのむらくものつるぎ形代(かたしろ)としての性質は、公的には否定されたのである。

 もっとも熱田神宮はその公式見解を認めずにいたし、他ならぬ後鳥羽上皇自身がこの後も壇ノ浦に沈んでいる天叢雲剣あめのむらくものつるぎの捜索を命じ続けてきたことから、かなり苦しい見解であったことが見て取れる。

 しかしそれでも、このときの後鳥羽上皇の選択によって新たな三種の神器が揃うこととなり、これらの三種の神器は令和元(二〇一九)年の剣璽等承継の儀でもそのまま使用されることとなる。


 こうした後鳥羽上皇の動きを鎌倉はどのように捉えていたのか?

 吾妻鏡に従うと、何の前触れもなくいきなり、承元四(一二一〇)年一二月五日の記録として、先月二五日に譲位があったこと、その譲位は後朱雀院のときと同じく兄から弟への譲位であったことを記しているのみであり、それ以上は何も記していない。京都での出来事、それも皇位継承という大ニュースから一〇日を要しているのは、源頼朝以後の情報伝達整備を考えると遅く感じるが、季節と天候の問題を考えるとやむをえないとも言える。実際、このニュースの届いた後のことになるが、鎌倉で大雪が降ったことの記録も残っている。雪で交通に支障が生じたならば、七日の日程が一〇日に延びてもおかしくない。

 ただ、後鳥羽上皇が譲位をすること、そして、源頼朝が手にし、かつ、世襲とすることで権威を構築してきた根拠である、征夷大将軍とは天叢雲剣あめのむらくものつるぎ形代(かたしろ)であるとするつながりが断たれたことを、当の鎌倉幕府自身が掴んでいなかったとは考えづらい。しかも、順徳天皇の即位礼は承元四(一二一〇)年一二月二八日に順当に開催されている。そこに鎌倉幕府は何ら絡んでいない。

 そこでヒントとなるのが翌承元五(一二一一)年一月の記録である。

 公卿補任には一月五日に源実朝が従三位から正三位に昇叙したことの記録がある。吾妻鏡によると鎌倉に届いたのは一月一六日のこと。少し時間を要しているが年末年始の慌ただしさと大雪とを踏まえると一一日を要したのも妥当と言える。

 同じく一月一八日には正三位源実朝が美作権守に任命され、その知らせは一月二八日に鎌倉に到着している。

 藤原氏ではない二〇歳の貴族としてはかなりのスピード出世であるが、父が正二位権大納言まで務めた源頼朝であることを考えると、貴族としての出世も妥当なところと言えよう。

 ただし、承元五(一二一一)年元日の貴族の構成を考えると、別の側面が見えてくる。

 以下が承元五(一二一一)年元日時点の議政官、ならびに、三位以上の位階を持つ貴族の一覧である。

挿絵(By みてみん)

 一目見て多いと感じるはずである。

 まず、議政官の面々、すなわち左大臣から参議までの人数はもともと二十名でも多いとされてきたのに、承元五(一二一一)年元日時点で実に左大臣から参議末席まで二十九名という数字を記録しているのは異常とするしかない。

 それよりもっと異常事態であるのが、散位、すなわち、従三位以上の位階を得ていながら何の官職も帯びていない貴族が四十三名を数えていることである。そのうち、かつて何かしらの職務に就いていたが承元五(一二一一)年元日時点で何の職務にも就いていない者が九名というのもなかなかに多い数字ではあるが、我が子に職位を譲ることを条件として政界を引退したために職位を手放すことは珍しくないので、九名という数字は多いものの、複数名の元職の貴族がいること自体は通常である。問題は非参議の三十四名の貴族だ。本来であれば、従三位以上になれば議政官の一員として国政の中枢を担う立場になるはずなのに、従三位の位階を得ながらも参議の地位から遠く離れている貴族が三十四名もいるというのは、議政官二十九名という数字をもはるかに凌駕する異常事態だ。

 公卿補任をはじめとする史料にも生年や年齢に関する記録がないために年齢不詳の者もいるので断言はできないが、三十四名の非参議の貴族の中で年齢が判明している貴族となると、最年長は六七歳の藤原信定や大中臣能雅になる。その年齢になってもまだ参議の地位が回ってこないのだ。もっとも、大中臣能雅氏については後述するように特別な事情がある氏族であるから並列で扱うことはできず、藤原信定の場合は従三位の位階を得たのは六年前の元久二(一二〇五)年のことであるからキャリアのラストとして位階を得たという側面もあるが、それにしても、キャリアを積み重ねて位階を高める末に待っているのは参議にもなれない人生であるというのは残酷な結末とするしかない。

 それでも、位階を手にして公卿補任に名を残すことができたというのは、生涯をかけたピラミッドクライミングの回答としてはまだ妥協できる話であった。院に協力し、朝廷に仕え、国を支え続けたことの結果として位階を手にする。これは、個人に対する評価として、最上級とは言えないにしろ、なかなかに高い評価である。

 と同時に、このあたりに後鳥羽上皇の統治者としての限界も感じる。

 誰かを評価するのに位階と役職のどちらか、あるいはその両方を与えるというのは、聖徳太子の冠位十二階に起源を持つ位階制度においてよく見られる話である。ただし、あまりにも多くの人に位階を与えると、位階のインフレが起こる。本来であれば位階と官職は連動しており、その人の能力に応じた官職を務めてもらうために位階を付与するというのが本来の在り方であった。それが時代とともに、位階だけが先行して上昇し、いつまで経っても官職に巡り合えないというケースが当たり前になり、本来ならば正三位や従三位が就くことを想定している官職であるのに、他の官職に就く見込みがないからと従二位や正二位の貴族が降りてきて官職に就くことが増え、特例ということで定員を超える人数の官職の者が増え、正三位や従三位の貴族は位階相当より下の官職で我慢するか、どの官職にも就けないままの日々を過ごすかのどちらかを余儀なくされた。

 こうした問題を解決する方法の一つが位階を絞ることであった。世の中には、無位無官でも構わないからある人のために粉骨砕身するという人がいる。そうした人に対し、最後の最後になって位階を授け、これまでの奮闘に感謝するというのならばよく見られた光景であった。鎌倉方の面々を見ても、あるいは壇ノ浦に沈んだ面々を見ても、形に残る栄誉を求めることなく全てを捧げた者が数多く見られる。そうした無謬性の忠誠心は非合理的な感覚であるが、合理的と言えないからこそ存在することができる臣従の形でもある。

 それをカリスマ性と捉えることもできよう。

 後鳥羽上皇にはそれがない。朝廷にもそれがない。

 後鳥羽上皇の周囲に仕える人は数多くいるし、朝廷に仕える人も数多くいる。しかし、そのカリスマ性に魅せられて何の見返りもなく仕えるようになる人はいないのだ。全て打算の臣従であり、後鳥羽院にしても、朝廷にしても、それをわかっているからこそ、位階を授け、官職を授けることを見返りとした臣従を用意してきたのである。

 その結果が、議政官二十九名、非参議三十四名という莫大な規模の公卿である。

 後鳥羽上皇にはカリスマ性が無かった。だからこそ、位階でどうにかするしか自派を構築できなかったのだ。

 さて、改めて承元五(一二一一)年元日時点の公卿補任を眺めると、源実朝の位置付けの意外なまでの低さも感じる。

 源実朝が職務としている征夷大将軍が三種の神器の一つである天叢雲剣あめのむらくものつるぎ形代(かたしろ)であるというのは征夷大将軍を特別な職務とする要素の一つであるが、公卿補任を見る限り、そこまで重要な要素なのであろうかとも感じる。

 新帝即位に三種の神器が揃っていることを法で定めているのは養老律令の神祇令であるが、実際の条文を見てみると「十三踐祚條凡踐祚之日中臣奏天神之壽詞忌部上神璽之鏡釼」とある。現代文に訳すと「第十三条、践祚。新たに天皇の地位を受け継ぐ日には、中臣氏が天神(あまつかみ)の祝いの気持ちを述べた言葉を奏上し、忌部氏が三種の神器を奉る」とある。字義通りに訳すと三種の神器のうち八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)天叢雲剣あめのむらくものつるぎのみを奉って、残る八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)については明記していないように見え、実際に八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の扱いについては様々な議論もあったようであるが、養老律令そのものは現存しておらず延喜式より復元するしかないこと、日本書紀での当該箇所の記載では「神璽之鏡釼」ではなく「神璽剣鏡」とあることから、「璽」こと八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)はやはり必須であり、新帝即位時はやはり三種の神器が揃っていなければならないということになっている。

 さて、法に基づく三種の神器の扱いであるが、征夷大将軍を天叢雲剣あめのむらくものつるぎ形代(かたしろ)とすることなど些事とするしかない特権が存在する。すなわち、中臣氏と忌部氏の二つの氏族である。うち、中臣氏については中臣鎌足が後に藤原鎌足となった一方、藤原鎌足以外の中臣氏はそのまま中臣氏となり大中臣氏となって存続し続けていた。実際、前述のように大中臣能雅が正三位の位階を得ている。

 一方、忌部氏については全く姿が見えない。延暦二二(八〇三)年に忌部氏は斎部氏に改姓したが、斎部氏となった後も全く歴史に記録が残らない。ただ、新帝即位の都度、律令に従って三種の神器を捧げる役割を担ってきたことは間違いないのだ。

 ここで源頼朝とその子孫が征夷大将軍として天叢雲剣あめのむらくものつるぎ形代(かたしろ)であるという特権を手に入れたとして、それがどれほどの意味を持つのか?

 絶対に無視されることのない存在になることは間違いないが、中臣氏はともかく忌部氏の迎えた運命を捉えると、征夷大将軍を天叢雲剣あめのむらくものつるぎ形代(かたしろ)とすることのメリットはさほどないとも言えてしまう。

 かといって、せっかく手にした特権を手放すのは問題がある。何と言っても源実朝のもとにはこの時代の日本で最大の武力が存在するのである。

 後鳥羽上皇はおそらく、見返りを提示した上で特権放棄を迫ったのだろう。

 その回答のうちの一つが、源実朝の位階を上げた上での国司任官である。

 承元五(一二一一)年元日時点で非参議の貴族が三十四名、うち、従三位は二十名。二十名のうちの源実朝は序列九番目である。ちなみに序列はどのように決まるかというと、一日でも早く従三位になった者が上の序列となり、同日の従三位昇叙であれば従三位に昇叙する前の位階や役職が上であれば序列が上となる。

 承元五(一二一一)年一月五日に従三位から正三位に昇叙した非参議の貴族は二名。一名は従三位序列一位の平光盛、源平合戦期に平家都落ちに帯同せず鎌倉に降った平頼盛の三男である。そしてもう一人が序列第九位の源実朝である。序列一位の平光盛の昇叙は当然と見られたが、序列第九位の源実朝の昇叙は極めて異例な話だ。それこそ、かなりの見返りがなければありえない話である。

 とは言うものの、三種の神器の一つという、他には存在しない特権と引き替えではあまりにも軽いのではないかと思う人も多いであろう。

 実はその点についても答えは出ている。

 承元五(一二一一)年一月五日は見返りの第一段であり、まだまだ序章に過ぎなかったのだ。


 吾妻鏡には、後鳥羽上皇から特権の放棄を命じられたことの記録など存在しない。

 しかし、承元五(一二一一)年一月時点で鎌倉幕府は、征夷大将軍に付随していた天叢雲剣あめのむらくものつるぎ形代(かたしろ)としての特権が間もなく失われることを知っていたと思われる。

 と同時に、後鳥羽院から特権放棄の見返りを得ることに成功したことも知っていたと思われる。

 吾妻鏡の承元五(一二一一)年一月の記事を読むと、源実朝が将軍に就任したと同時に執り行われなくなった鎌倉幕府の正月の行事を復活させたことが読み取れる。

 具体的には、一月一日から三日にかけての年始の儀、一月九日の弓始の儀、一月一〇日の吉書始の儀、一月一五日の御行始の儀が復活したのである。

 源実朝の自己意識は、武士ではなく貴族であった。自分が征夷大将軍であることはさすがに理解していたが、それは自分に流れる熱田神宮の血、すなわち、皇位継承に欠かせぬ天叢雲剣あめのむらくものつるぎ形代(かたしろ)としての役割を示す称号であり、武士としての自分に対する評価ではなかった。

 それが、征夷大将軍という官職はそのままであるものの、天叢雲剣あめのむらくものつるぎ形代(かたしろ)としての役割は失われた。それはすなわち、鎌倉幕府の存在そのものが、天叢雲剣あめのむらくものつるぎ形代(かたしろ)を支える組織から、武人のトップを支える組織へと変化した瞬間でもあった。

 無論、源実朝の自己認識は貴族であって武人ではない。しかし、源実朝の周囲にいる全ての人が武人のトップである源実朝を求めているのである。それも、優れた武人を求めているのではなく、源頼朝の実の息子である源実朝を求めているのである。これまでは日本国の存続のために欠かせぬ特別な存在という自負があったが、天叢雲剣あめのむらくものつるぎ形代(かたしろ)という特権を失った以上、今後は武人である自分が求められることとなる。

 源実朝の本心は鎌倉幕府の御家人達が求める姿とは違う。

 しかし、鎌倉幕府の御家人達が求める姿を演じることはできる。

 源実朝は鎌倉幕府のために、理想の将軍を、理想のトップを演じることを選んだのである。

 天然痘に罹患してから控えることの多かった鶴岡八幡宮への参詣も、源頼朝の例に倣うように三年ぶりに復活させたのはその嚆矢である。


 現在に生きる我々の改元とは、新たな天皇となったと同時に元号が変わることを意味し、それ以外に元号が変わることはないという一世一元の制が共通認識となっているが、日本国にその認識が登場したのは明治維新以降のことであり、それまでは、新帝即位と改元とは必ずしも一致しない一方、災厄や陰陽道などの理由で改元することも珍しくなかった。現在の感覚で行くと、現在の改元というより新内閣発足に似ている。

 とは言え、新たな天皇が即位したなら元号も新たにするという認識はあり、順徳天皇の即位後も土御門天皇の頃の元号である承元を使い続けているのは、珍しくないとはいえ一般的な話ではなく、そう遠くない未来に改元があることは予期されていた。

 ただし、令和改元時のように事前に改元する日付が公表されることも、新しい元号が何であるかが事前に公表されることもなく、全ては突然である。強いて挙げれば、陰陽道に従った吉日に改元されることが多いことから、「この日に改元があるのでは?」と予測するぐらいであり、新たな元号がどのような元号になるかの予測に至っては事実上不可能である。改元日はともかく、新たな元号の予測が噂として話題に上がった瞬間に、元号を決める側がその元号を新たな元号の候補から外すからである。

 順徳天皇の即位に伴う改元があったのは承元五(一二一一)年三月九日のこと、新たな元号は建暦。そのどちらも特に驚きはなかった。吾妻鏡によると、鎌倉に改元の知らせが届いたのが改元から一〇日後の三月一九日のこと。改元のタイミングについても、新しい元号についても、特に言及していない。以降の記事についての日付を新元号である建暦で記すのみである。

 その後の源実朝の足跡を追いかけても、改元にとらわれることなく政治家としての政務に取り組む様子しか見えない。何度か記しているように、現在の議院内閣制が三権分立の立法と行政が密接につながる政治権力であるのに対し、鎌倉幕府は司法と行政とがつながる政治権力である。源実朝は鎌倉幕府の権力の及ぶ範囲に於いて、行政権と同時に司法権も行使する義務があった。

 改元の後でただちに出てくる記録も司法権の行使である。

 建暦元年四月二日に陸奥国の所領の保有権争いについて源実朝は裁断している。それも奥州藤原氏の時代にまで遡る保有権を証拠とする争いである。これまで源頼朝に由来する所領の保有権の争いについては裁断してきたが、このときはそれより前、何なら源頼朝によって滅ぼされた奥州藤原氏に由来する保有権についての司法判断であるが、源実朝は奥州藤原氏の藤原秀衡に由来する保有権を認める裁決を下したのである。

 ただしこれには裏がある。藤原秀衡に由来する保有権を源頼朝が認めたという証拠が提示されたために、源実朝も源頼朝の裁決を再確認したのである。何であれ先例優先なのがこの時代だ。源頼朝が下した先例があるなら源実朝も同じ決断を下すことが許されることとなり、今後の裁決の重要な先例となるのである。


 なお、この裁決からおよそ一ヶ月後の建暦元(一二一一)年五月一〇に、源実朝は、現代人からすると穏当あるいは当然と感じる、しかし、この時代では考えられない指令を出している。奥州藤原氏を滅ぼした際に藤原泰衡の邸宅などから略奪した品々を元の持ち主に返却するよう、侍所別当の和田義盛を通じて御家人達に命じたのである。

 源頼朝は奥州藤原氏を滅ぼしたが、奥州藤原氏の構築していた東北地方の統治体制を破壊することはなかった。概念上でしかないものの、朝廷組織図の上では奥州藤原氏全体が源頼朝の支配下に組み込まれていた。その源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼし、奥州藤原氏の代わりに源頼朝に仕える御家人が君臨するという体制を構築したことで、このような殲滅戦であるにもかかわらず源頼朝の東北地方運営はそこまで瓦解するようなものではなかっただけでなく、生活水準だけで言えば奥州藤原氏の頃よりも上回ってはいた。ただ、どうしても侵略者と被支配者という関係性は残るし、戦いで敗れた側にとってはスムーズに受け入れられる過去でもない。鎌倉に対する目に見えぬ反発は残り続けていたし、前述の保有権争いも、突き詰めれば奥州藤原氏を滅ぼしたことに由来する。

 ここで、鎌倉方の武士達が繰り広げた略奪に目を向けた上で、略奪に対する償いを鎌倉から示すことは、鎌倉幕府の東北地方経営を大きく改善させる効果がある、はずであった。

 結論から記すと、源実朝の指令はうまくいかなかった。源実朝の指令が空想的であったと言えばそれまでであるが、それよりも重要なこととして時間経過と鎌倉武士達の野蛮さがある。戦いの後で略奪した品々も、二二年も経過すれば所在がわからなくなる。邸宅に持ち帰って大切に保管していたならいいが、日常生活でぞんざいに扱った末に壊れて捨てられたものもあれば、高値で売り捌いたために今はどこにあるのかわからないものもある。また、相手は大切に思っていても略奪者が価値を感じないものは略奪時に破壊される。破壊の楽しみに加えて敗者に対する更なる苦痛を加えられるのだから、侵略者にとっては破壊そのものが愉悦をさらに増す行為だ。

 吾妻鏡によると、略奪してきた品々のほとんどは行方がわからなくなっており、和田義盛のもとに届けられたのはごく僅かであったという。吾妻鏡はこの時の記事の終わりを、葛西清重が差し出した縫い目のない小袖に、源実朝が特に興味を持ったという一文で終えている。その出来栄えの見事さもあるであろう。だが、このような衣服まで略奪してきたのかという自分たちの過去の所業に対する嘆息も存在したはずだ。

 過去の過ちというものは、自分が当事者ではなければ、また、当事者の近親者であったとしても自分の生まれる前の話であれば、感じなくても許される。ただしそれは一般的庶民の話であり、人の上に立つ人間というものは、自分が当事者でなかろうと、あるいは、自分の生まれる前の話であろうと、直面し、責任を背負う義務がある。


 建暦元(一二一一)年六月になると不穏な記事が増えてくる。

 六月二日に源実朝が急病で倒れたのだ。

 もともと源実朝は天然痘に罹患した過去がある。これは天然痘に限った話ではないが、感染症というものは、感染してその病気に対する免疫がついたとしても、その他の病気に対する免疫までつくわけではない。それどころか、病気の内容によっては長年に亘り、あるいは一生に亘って、体力が低下したままの暮らしを余儀なくされることとなる。

 源実朝は責任感の強い人であったのは間違いない。しかし、その責任感を全うできるだけの体力を取り戻せていたのかと考えると、疑問に感じるところもある。たしかに源実朝という人はどちらかといえばインドアな人である。若い頃から野山を駆け巡って体力をつけていれば、あるいは、何かしらのスポーツに興じていれば、大人になってからも幼少期の体験が体力増強につながったのではないかという考えも完全に否定はできないが、相手は天然痘だ。どんなに体力頑強な人が相手でも、容赦なく命を奪うか、命は奪わないにせよ残りの人生を奪うかのどちらかだ。

 天然痘に死ぬまで悩み続ける宿命を有する源実朝にとって、インドア趣味というのは体力消費が乏しいぶん、むしろ好都合であると言える。それに、インドア趣味というのは感染症リスクを抑える効果もある。このときに源実朝が倒れたのも、普段から体力をつけるようなアウトドア趣味を怠っていたからではなく、インドア趣味に身を置いていたから助かったとも言えるのだ。

 実際、北条時房などは源実朝の命の危機を感じたというが、その後の吾妻鏡の記録を追いかけると、源実朝は特に何もなかったかのように政務に復帰している。

 いや、何もなかったかのように振る舞わなければならない責任感で無理を重ねたとすべきか。

 何が起こったのか?

 強盗殺害事件である。

 六月七日、越後国三味荘の荘園領主から訴訟のために鎌倉まで派遣されてきた役人が、宿泊先の民家で殺害されたのだ。

 この時代にビジネスとしての旅館などない。旅行客は誰かの家に泊めてもらうか、寺院などに泊めてもらうか、野宿するかである。なお、このあたりは現在よりも鷹揚であったとすべきか、知り合いでもない赤の他人であっても困っているならば自宅に泊めることはあったし、泊めてもらう側もそのことを理解しており、自分を泊めてくれる家の人にそれなりの対価を用意するものであった。

 この二つが重なると何が起こるか?

 旅行客が泊まっている家をターゲットとする強盗である。

 何しろ顔見知りではない人物が大量の私財を持って宿泊しているのだ。現在のホテルであったら警備員が対処すべきであろうが、民家であるから警備はそこまで厳重ではない。巧妙なケースとなると、強盗のターゲットを宿泊客に限定させることでその家の人は強盗事件など無かったかのように感じさせることもできるし、裏で手を組んで、「夜明け前に立ち去った」とでも言い繕って強盗事件そのものをなかったことにもできる。私財が無くなっていようと、宿泊客が消えていようと、強盗事件ではなくただ単に宿泊客の出発が早かっただけとなれば、何ら怪しまれることはなくなる。殺害された宿泊客の遺体処理さえどうにかすれば、この時代の警察捜査能力であれば完全犯罪が成立する。

 このときも、ケースとしては民家に押し入った強盗が宿泊客を殺害したという構図である。

 しかし、その宿泊客は訴訟のために鎌倉まで来た人物であり、荘園領主からも鎌倉まで役人が派遣されることの連絡が来ている。それに、どこに宿泊しているのかも公表されているのだ。強盗殺害事件をもみ消すなどできない話であるどころか、侍所長官の和田義盛の初動が早かったこともあって、事件はすぐに動き始めた。

 ただし、和田義盛はここで誤認逮捕をしている。

 今回の事件を強盗殺害事件に見せかけた訴訟揉み消しであるとして、訴訟相手である荘園地頭の代官を逮捕したのだ。代官にしてみれば身に覚えのない話であり、ツテを辿って北条政子に頼み込み、北条政子を通じて和田義盛の捜査の打ち切りと逮捕された代官の釈放を求めたのである。

 これで大騒ぎになった。のちに誤認逮捕であることが確認できたが、このときは和田義盛の捜査のほうが正当で、事件揉み消しを図る地頭代官のほうが北条政子を通じた圧力での捜査揉み消しとされたのである。

 事態が急展開を見せたのは六月二一日のことである。この日に真犯人が見つかり逮捕されたのだ。なお、犯人の名は残されておらず、野三刑部丞こと小野成綱の家来であったこと、小野成綱が亡くなったと同時に無職となり各地を流浪する暮らしとなったことを記しているのみである。

 吾妻鏡の記事は和田義盛が誤認逮捕した荘園代官を釈放したところでこのときの出来事を締めているが、怪しいというだけで逮捕され、北条政子を通じた嘆願も無視されたことについては何とも言えない複雑な感情にある。それがこの時代の警察捜査だといえばそれまでであるが。

 歴史にIFは禁物であるとは繰り返し使われる言葉であるが、このときの和田義盛の行動次第では、二年後に悲劇は起こらなかったかもしれない。


 建暦元(一二一一)年六月二六日、東海道に新しい宿駅を設置する件について、過去に何度も決裁されているにもかかわらず未だに実行されていないことについて、源実朝から東海道の守護地頭に対し命令遂行の指令が出た。

 さらに七月四日には、源実朝が貞観政要を用いて政治学を学んだことの記録が出てくる。貞観政要は唐代に編纂された政治学書で、この時代の日本で手に入る最良の、いや、現在に至るまで世界のトップクラスに位置する政治学書である。正三位という公卿の一員に列せられる貴族の一員である以上、源実朝は政治家の一人として行動する義務があるし、政治家として身につけていなければならない素養も和多く存在する。ゆえに貞観政要を読んでいてもおかしくはない。ちなみに貞観政要を愛読していたのは源実朝一人ではなく、北条、足利、そして徳川といった歴代幕府の首脳はほぼ間違いなく貞観政要を読んでいる。

 さて、ここで源実朝の政治家としての業績と、政治家としての学習を記したのには理由がある。

 本作に限らず平安時代叢書全体で鎌倉幕府を現在の政党に類する存在と扱ってきたが、あえて取り扱ってこなかった二つの学説と向かい合わなければならなくなっているからである。

 それは、源実朝のもとから天叢雲剣あめのむらくものつるぎ形代(かたしろ)という特権が失われた後、一人の政治家として源実朝を、そして、政治集団として鎌倉幕府を考えたときに触れなければならない学説だからであり、さらには中世日本の政治構造はどのようなものであったかを考察する学説だからである。

 一つは、中世日本を天皇が中心に君臨する単一国家とし、貴族、宗教、そして鎌倉幕府をはじめとする武家が並立して相互に補完しつつ、朝廷はそれらの権門の上に立っていたとする「権門体制論」。

 もう一つは、鎌倉が朝廷から独立しており、朝廷の権威を認めつつも独自の権力構造を東日本に構築していたとする「東国国家論」。

 その他に、権門体制論を批判しつつも東西の流通や興隆に目を向け、東西の権力継承の積極的な係わりに着目する「二つの王権論」があるが、一般的には「権門体制論」と「東国国家論」との間での論争となっている。

 そして平安時代叢書では一貫して、基本的には権門体制論に基づいているものの、場面によって東国国家論に与するという姿勢で鎌倉幕府を捉えている。すなわち、鎌倉幕府はあくまでも朝廷の上級貴族である人物、建暦元(一二一一)年の場合は源実朝のもとに集った面々からなる組織であり、その中には五位以上の位階を得て貴族の一員に列せられている者もいるものの、指揮命令系統は源実朝に紐付いており、シビリアンコントロールから除外された勢力が源実朝を中心にまとまっている組織でもあるとするのが平安時代叢書の主張だ。

 シビリアンコントロールの有無は別として、鎌倉幕府のように上級貴族のもとに下級貴族が仕えるという構図そのものは珍しいことではなく、藤原氏をはじめとする有力貴族ならば間違いなく保持しているし、有力寺社にも似たようなことが言える。そして何より、この時代には院政が存在している。院もまた一つの権門であり、皇室との深いつながりを持つために院に仕える院司は朝廷権力と密接につながっている。

 ここで話を源実朝に戻すと、源実朝は自分のことを独自の政治権力であるとは、ましてや朝廷から独立した勢力であるとは考えていなかった。父の事績を追いかけ、父と兄の後を継いだことは知識として知っているが、基本的には自分のことを貴族の一員だと考えている。シビリアンコントロールの枠外にある征夷大将軍でもあり、名目上ではあるものの征夷大将軍としての作戦遂行中であるために朝廷も介入できない独自の権力を有していると同時に、源実朝は征夷大将軍の他にも朝廷権力に基づく位階と役職を有しており、政治家としての職務も遂行する義務と権利も持っているので、前述のように東海道の新たな宿駅を設置すること、設置遅延を是正することは、源実朝の政治家としての行動として正しい。

 たとえば、建暦元(一二一一)年七月一一日に源実朝が惟宗孝尚を逮捕監禁するよう命じ、北条時房のもとでの監禁生活となったのも、源実朝が行使しうる権力の行使である。逮捕監禁の理由は下野国中泉荘園に持っているとした隠田、現在でいうところの脱税であるから、逮捕するのは間違いではない。ただ、牢に入れられるわけではなく北条時房のもとでの軟禁生活である。

 ただ、ここで気になるところがある。

 七月一一日の一連の流れで侍所と問注所が出てこないのだ。

 これまでであれば、このような警察権の行使となったときは侍所と問注所が出てきた。

 侍所や問注所そのものに朝廷が委ねた司法権が存在するわけではない。あくまでも司法権は源実朝にあり、侍所は源実朝の司法権配下の警察権行使についての実働部隊として犯罪者の取り締まりに当たり、問注所は源実朝の司法権を行使するという構図だ。上級貴族であれば家政機関として構えておくことはおかしなことではなく、源実朝も征夷大将軍としてではなく上級貴族としてこれらの組織を構えている。ただし、京都在住の貴族にとっての侍所は自分の邸宅内や、その貴族に仕える面々を統括する部門であり、問注所に至ってはそもそも家政機関である政所の一部署として内部の揉めごとを解決するために設置されることがあるというレベルのものである。つまり、鎌倉幕府の侍所や問注所は、珍しい組織ではないのだが、規模が段違いに大きい。同じ位階の貴族を見ても、さらには藤原氏を見ても、同時代の源実朝のもとに存在する侍所や問注所に匹敵する規模の組織を構えていた者などいない。ちなみに政所についてならば、鎌倉と同規模の組織を構えているケースが散見される。

 この突出した規模の侍所や問注所は、ひとえに源実朝が征夷大将軍であることに由来する。鎌倉幕府の侍所や門柱所は、征夷大将軍としてシビリアンコントロールの枠外に置かれた軍事作戦を遂行中である貴族という前提で設置されている組織であり、本来であれば一人の貴族の勢力の範囲内に限定されるべき組織が、緊急事態の例外措置であるために拡張され、多大な権力を行使できるようになっているという構図だ。

 これは異常事態なのだ。

 その異常事態を正しくする第一歩として、侍所や問注所ではなく、朝廷に直接つながる形で犯罪を処罰した。これならば不合理ではない。何しろ、惟宗孝尚の脱税疑惑は鎌倉幕府独自の調査、あるいは幕府内部の問題として露顕したのではなく、京都から送られてきた脱税疑惑に関する通知が発端なのだ。

 司法権に警察と検察が内包されているこの時代、源実朝は京都の朝廷からの司令に従って、源実朝が持つ司法権を行使したわけである。鎌倉に勢力を持つ集団が権力の及ぶ範囲で独自の司法権を行使したという構図ではなく、朝廷から司法権を委ねられている権力として司法権を行使したという構図である。ちなみに、このときの軟禁は一二月一日に解除されている。許されたからではなく、鎌倉幕府の調査によって隠し田の事実が見つからなかったからである。

 さて、今回の一連の流れから除外されていた侍所や問注所の当事者はどう思うか、特に、一二月になって軟禁解除となった経緯も踏まえ、一連の流れを侍所別当の和田義盛はどう思ったかを考えると、この後に起こる事件の伏線も見えてきてしまう。和田義盛は冤罪逮捕をしたばかりか、冤罪逮捕に関しても問題なしとして無罪放免となって日も浅いのだ。


 鎌倉時代の特色の一つとして歴史の教科書に取り上げられることの多い鎌倉新仏教。大学入試で日本史を選択したならば、あるいは高校入試で社会科を学んだならば、以下に記す六宗派とその開祖を暗記したはずである。

 浄土宗、法然。

 臨済宗、栄西。

 浄土真宗、親鸞。

 曹洞宗、道元。

 日蓮宗(法華宗)、日蓮。

 時宗、一遍。

 この六つの宗派と六名の開祖はいずれも、本来の仏教は全ての人を救うための教えであるはずなのに既存の日本の仏教では救えていない人が多いと考え、仏教の本来あるべき姿である救済の道を取り戻すべく、従来の仏教を否定して新たな宗派を起こしたという共通点から何かとひとまとめで扱われることが多い。

 しかし、この六つの宗派、そして、この六名の開祖が同時代に受けてきた境遇は大きく異なる。

 もっとも大きな違いが、六名の僧侶の生きて生きた時代。

 前述の六宗派の記載順であるが、実は開祖の生年順である。

 建暦元(一二一一)年時点で言うと、法然と栄西は既に新たな宗派を起こして活躍しているが、親鸞は法然の弟子の一人であってまだ浄土真宗を起こしてはおらず、道元はこの時点でまだ一一歳の少年で仏門には入っておらず、日蓮と一編はまだ生まれていない。

 つまり、鎌倉新仏教の開祖のうち建暦元(一二一一)年時点で活躍していた開祖となると法然と栄西の両名ということになるのだが、この両名の立場はあまりにも違っていた。

 まず、過去に述べたように法然は承元元(一二〇七)年に後鳥羽上皇によって念仏停止の命令が下ったと同時に還俗させられ、名を藤井元彦として土佐国へと流罪となっていた。ただし、配流の途中に九条兼実の庇護によって讃岐国への流罪となったのち、摂津国に戻って数年を過ごし、建暦元(一二一一)年一一月に流罪が許されようやく京都へ戻ってくることができた。なお、法然と同時に流罪となった親鸞も同タイミングで流罪が許され京都に戻っている。ちなみに、この時点の親鸞は法然の弟子のうちの一人であり、浄土真宗の開祖とはまだなっていない。

 一方の栄西であるが、この人は迫害と全く無縁である。二度に亘って南宋に渡航して禅を学び、禅を日本に持ち込んで、日本で新たな仏教宗派である臨済宗をスタートさせていた。

 この栄西であるが、二つの点から法然と全く異なる生涯を歩んでいた。一つは既存の宗派との対立を最小限に食い止めようとし、栄西自身が真言宗の印信を得るなど融和路線に動いていたこと、二つ目はそれでも既存宗派との対立を察知していち早く京都を去り、長期に亘って鎌倉に身を置くことを選んだことである。

 鎌倉に住む者にしてみれば、当時の最先端の仏教を南宋で学んで来た人が、南宋で流行している最新宗派を鎌倉で布教しているわけで、栄西の説く禅の教えは新時代の都市である鎌倉に相応しい最新の教えであると認識されていた。

 後に同じ禅である曹洞宗が登場するがこの時代はまだ曹洞宗が存在せず、禅と言えば臨済宗である。栄西の説く臨済宗は法然の説く浄土宗と同じく、誰であろうと仏門による救いを得られるとする教えではあるものの、南無阿弥陀仏を唱えるだけで救われるとする浄土宗と違い、座禅を組んで師との問答を重ねることで悟りを得るということで、門戸は広いものの悟りに至るにはかなり難しいという点が鎌倉武士達に受け入れられる要因になっていた。

 建久九(一一九八)年に鎌倉へと向かった栄西は鎌倉幕府の庇護を得ることに成功し、正治二(一二〇〇)年には源頼朝一周忌の導師を務めるまでに至った。さらに、宗教界における鎌倉幕府の代理を務めるまでに信任を得て、建仁二(一二〇二)年には源頼家からの支援のもと京都に建仁寺を建立することに成功した。ちなみに建仁寺は禅だけではなく天台宗と真言宗も学ぶことのできる寺院であり、栄西の他宗派に対する配慮も見られる寺院であった。

 他宗派からの迫害を懸念して鎌倉にいることの多かった栄西も、これによって他宗派との融和を得ることに成功し、建永元(一二〇六)年には重源の後継者として東大寺勧進職に就任し、承元三(一二〇九)年には鴨川東岸の法勝寺九重塔再建を命じられるまでに至っていた。これだけ積み重ねれば僧侶としてかなりの成功者と言えよう。

 ただし、いかに鎌倉に滞在することが多く、また、著名人として名を馳せるようになっていようと、鎌倉の都市内では鶴岡八幡宮の権勢のほうが強力であり、建暦元 (一二一一)年九月一五日に源頼家の次男である善哉が出家した際は栄西ではなく鶴岡八幡宮が選ばれ、鶴岡八幡宮で出家した後、善哉は、いや、出家した後の法名でいう頼暁は、鶴岡八幡宮の手配した五名の武士を伴って上洛している。ちなみに、頼暁は後に公暁と名乗ることになる少年僧侶である。

 僧侶としての成功者である栄西であるが、同時に、現在で言う数多くのビジネス書を発行する作家のような存在でもあった。確認できる範囲では、密教について問答形式での入門書である「無名集」を安元三(一一七七)年に刊行したのが現存する栄西の最古の著作である。ただし、この段階ではまたセンセーションを巻き起こしてはいない。栄西の名を一躍広めたのは、何と言っても建久九(一一九八)年刊行の「興禅護国論」である。「興禅護国論」は日本初の禅の解説書であると同時に他宗派からの攻撃に対する抗弁の書であり、発表と同時に一大センセーショナルを巻き起こし、それより前に記した建久六(一一九五)年の「出家大綱」や、その後の元久元(一二〇四)年「日本仏法中興願文」といった書物とともに当時の日本国内の知識層に幅広く受け入れられることとなった。栄西の著作を読むことがこの時代の知識層の流行となり、栄西の本を読んだかどうかは、今から一〇年ほど前にビジネスパーソンの間でピケティを読んだかどうかが問われたのと似た環境を生みだしたのである。

 これらの書物は栄西の唱える禅の思想、悟りに至るまでの思考、そして栄西の唱える哲学を解説した書物として現在でも極めて重要な役割を担う書物であるが、栄西の著した書籍ということで忘れてはならない一冊、それも日本文化をも激変させた栄西の生涯最高のヒット作も忘れてはならない。

 建暦元(一二一一)年に誕生した「喫茶養生記」である。

 奥付という概念のないこの時代、何年の刊行なのかは推測できても、何月何日の刊行なのかは、新古今和歌集のように公表されたか、あるいは著者自身が日記等で正確な日付を記録してくれているかでないとわからない。それに、この時代の書物は基本的に全て写本だ。著者は一冊を記し、読みたい人が借りて、手元に置いておきたい人は借りた本を全て書き写してから持ち主に返すというシステムであり、あるいは、権力を持っていてかつ図々しい人だと原本を手元に置いて写本を返却、さらには借りたままで返さないというシステムであり、後世に生きる我々は、日記等で書籍を借りたという記録があればその時点で間違いなくその書籍がこの世に登場していたことがわかるので、あとはより古い記録が出てくるたびに刊行日を遡らせる。その繰り返しである。

 現時点で判明しているのは、喫茶養生記の最古の記録が建暦元(一二一一)年閏一月、いや、その時点ではまだ改元前であるから承元五(一二一一)年閏一月にはもう喫茶養生記が存在していたということである。

 日本に茶が伝わったのはもっと前の時代であるが、日本中で茶が飲まれるようになったきっかけは、栄西がこの年に記したこの一冊である。この本は茶の栽培方法から茶の飲み方、そして、茶の効用などを記した書物であり、著者名を隠して書名だけを読めば栄西の著作であると感じられない、しかし、中を見れば間違いなくベストセラー作家の文体である一冊である。

 なお、栄西の喫茶養生記に対する評判を吾妻鏡は記していない。その代わり、建暦元(一二一一)年一〇月のこととして、源実朝臨席のもと、栄西が南宋から輸入した一切経五〇〇〇巻を奉納したことを記しているのみである。

 ちなみに、吾妻鏡に茶が登場するのはこれより三年後のことであり、当時の最先端の飲料である茶は鎌倉でも流行の兆しを見せるようになっていたことがわかる。


 さて、栄西が著した喫茶養生記は現在まで伝わる名著であるが、鎌倉ではほぼ同タイミングで現在まで伝わる名著の著者が姿を見せている。

 その人物が鎌倉に来た理由は源頼朝の月命日の法要に参加するためであるが、同時に、源実朝の和歌の師匠となるべく、飛鳥井雅経から推薦させて鎌倉に送られてきたという側面もあった。この時点では出家していたため蓮胤(れんいん)という法名を名乗っていたが、今に生きる我々はこの人物のことを出家後の名で呼ぶことはほとんどなく、多くは出家前の名で呼ぶ。

 鴨長明がその人である。

 鴨長明の記した方丈記は、枕草子や徒然草とならぶ日本古典随筆の名作の一つであるが、同時に源平合戦の最中やその前後に起こった災害を書き記した最上級のルポタージュでもある。

 ただ、この時点の鴨長明はまだ方丈記を書き記していないか、あるいは、書いていたとしても現在にあるほどの評判を獲得していない。少なくとも現時点で確認できている方丈記に対する最古の記録は建暦二(一二一二)年であり、建暦元(一二一一)年一〇月時点の鴨長明は和歌の名手であるものの随筆家としての評判は得ていない。

 源実朝の和歌の師匠となるべく鎌倉に派遣されたのは飛鳥井雅経が鴨長明の才能を見抜いたからであるが、源実朝は鴨長明を師匠とすることなく、鴨長明はこの時期の鎌倉に滞在していた旅行客という扱いになっている。ここでもし、源実朝が鴨長明を和歌の師匠として受け入れていたならばこの後の歴史は大きく変わっていたであろうが、同時に、現在の歴史家を悩ませることになった可能性も高い。建暦元(一二一一)年ではまだ方丈記が記されていなかったとするならば、方丈記という記録が現在まで残るようなことはなかった、すなわち、方丈記に記された六つの災害、安元三(一一七七)年四月の太郎焼亡、治承四(一一八〇)年四月の竜巻、治承四(一一八〇)年六月の福原遷都、養和元(一一八一)年から養和二(一一八二)年の飢饉、元暦二(一一八五)年七月の震災についての現場体験者からのルポタージュが現在まで残らなかった可能性が高いのである。

 鴨長明の人生を一言でまとめると、不遇である。

 下鴨神社こと賀茂御祖神社の禰宜(ねぎ)である鴨長継の次男として生まれ、二条帝中宮の姝子内親王こと高松院の愛護を受けて従五位下にまで昇叙したものの、鴨長明のキャリアはここで終わってしまったのである。父を亡くした後、父の後を継いだのは鴨長明ではなく鴨祐季であったが、鴨祐季は延暦寺と争ったため失脚したので、鴨長明のもとに賀茂御祖神社の禰宜(ねぎ)の地位が転がり込んでくるかと思われた。しかし、その地位は鴨祐季の息子の鴨祐兼に奪われたのである。ちなみに、鴨長明の父である鴨長継と、鴨長継の後を継いだ鴨祐季との関係は再従兄弟(はとこ)同士の関係であり、祖父の代は兄弟で賀茂御祖神社の禰宜(ねぎ)の地位を争い、その子の代は従兄弟同士で賀茂御祖神社の禰宜(ねぎ)の地位争い、その次の代でも争いが続いた結果、鴨長明は下鴨神社こと賀茂御祖神社での地位を失ったのである。

 その後、和歌と琵琶を学ぶことで歌人として名を馳せるようになり、建仁元(一二〇一)年八月には和歌所寄人の一人に任命されたものの、やはり公的な地位を掴めないままであり、元久元(一二〇四)年に下鴨神社の摂社の一つである河合社(ただすのやしろ)禰宜(ねぎ)に欠員が生じたことから、下鴨神社ではなくその下に位置する河合社(ただすのやしろ)禰宜(ねぎ)に就くことを目論むが、下鴨神社の禰宜(ねぎ)であり続けていた鴨祐兼が自分の後継者とすることを目標として空席に息子の鴨祐頼を推したことで、鴨長明は神職の道が完全に塞がれた。

 このことで鴨長明は神職で身を立てる道を諦め、出家して仏門に入り、京都周辺の各地で僧侶として生活していたのであるが、その鴨長明を飛鳥井雅経は見捨てなかった。自分の代わりに源実朝の和歌の師匠を務めることのできる人物として鴨長明を抜擢し、鎌倉へと派遣することとしたのである。

 ここで鎌倉幕府の内部で地位を掴むことができたならば鴨長明の人生も最後に一発逆転となっていたであろうが、源の姉友は鴨長明を和歌の師とすることを選ばなかった。選ばなかった理由は変わらないが、結果として、それが随筆家にして希代のルポライターとしての鴨長明を誕生させたとも言える。


 平安京は本来、北端中央に大内裏、その中心に内裏があるという都市計画のもとで建設された都市である。しかし、建暦元(一二一一)年時点の大内裏はかつて内裏があった場所という位置づけであり、内裏は閑院が里内裏として用いられていた。

 平安京遷都から一六六年後の天徳四(九六〇)年、村上天皇の時代に内裏が火災に遭ってから、内裏や大内裏は何度も火災に遭い、その都度内裏は平安京内の別の場所を仮の内裏である里内裏としてきた。そして、何度も内裏や大内裏の復興をし、あるいは復興しようとしてきた。最も新しい例では保元の乱の後に信西による大内裏復興計画が進み、実際に途中まで復興してきていたという例がある。

 しかし、平治の乱によって工事が中断したばかりか、よりによって大内裏が戦場となり、さらに安元三(一一七七)年四月二八日、後に「太郎焼亡」と呼ばれることとなる大火災によって大内裏の多くが灰と化した。以後は閑院を内裏とすることが通例となり、福原遷都の一時的な例外を除いて閑院が内裏であり続ける時代となっていた。

 ただし、後鳥羽上皇がこれを是としていたわけではない。後鳥羽上皇は大内裏の復活を狙っていたようなのである。ただし、保元の乱の後の信西のように具体的に予算を組んで復旧工事を進めるのではなく、復旧せよと命じるだけで具体的な指示は出しておらず、予算も組んでいない。そのため、後鳥羽上皇の思いと現実とが一致することはなく、時間が経っても全く復旧しないばかりか、経年劣化が進む一方だったのだが、これに後鳥羽上皇が激怒した。

 建暦元(一二一一)年一一月四日の吾妻鏡の記事によると、後鳥羽上皇の怒りを受けて権中納言坊門忠信から鎌倉に書状が送られてきたとある。内裏の全面復旧どころか朱雀門の復旧工事がようやく着手したばかりだというのが使者の伝えた内裏復旧の状況であり、後鳥羽上皇からはせめて屋根を仮葺きするように命じたというのが書状の内容だ。何しろ瓦すら間に合わないというのだ。

 源実朝は人生で一度も京都に行ったことがない。そして、この人は生涯で一度も京都に行くことのない人となる。ゆえに、京都に大内裏があり内裏があるはずという知識と、そのどちらも災害と戦乱の影響で本来あるべき姿ではないという知識ならばあるが、現実は目の当たりにしていない。そこで、書状を読み上げた三善康信に対して京都の内裏の様子について訊ねたのである。

 三善康信は京都に生まれ京都に育った典型的な下級貴族であるから当然とも言えるが、大内裏や内裏の現状を知っているし、何なら災害の瞬間を体験している。

 三善康信はここで、そもそも内裏再建そのものが不要であると主張した。とは言え、表向きは不吉な事例の列挙である。保元の乱の後で再建に取り組んだ信西が平治の乱で惨殺され、太郎焼亡で大極殿と朱雀門が燃え、建久九(一一九八)年に門だけは再建されたものの造営を担当した一条能保と一条高能の親子がその直後に亡くなり、元久三(一二〇六)年に九条良経が門の揮毫を書き記したら亡くなってしまった。今回、造営上棟が済んで坊門信清の病気が治り内大臣にまで登り詰めたものの、禊に行った帰りに建礼門に入ろうとしたら建礼門が倒れた。これらが吾妻鏡に記されている三善康信の述べた不吉な事例の列挙である。


 三善康信は不吉な例を列挙することで後鳥羽上皇の求めた大内裏復興を暗に否定した。

 大内裏復興という野望は、推し進める後鳥羽上皇の意見も、暗に否定する三善康信も、どちらも理解できる話である。

 後鳥羽上皇は古き良き時代を、そして、あるべき平安京の姿を取り戻そうとしていたが、そうした心情の問題を別にして経済だけで考えると、後鳥羽上皇の進めている政策は大規模公共事業である。日本中が源平合戦の混迷と破壊に遭い、それから復興してきたのはその通りであるが、戦後復興というにはもう、かなりの時間が経ってしまっている。

 戦争というものは景気を悪化させる。自分と関係ないところで戦争が起こっていて、かつ、自分は平和な暮らしをしているというのであれば景気が良くなる可能性はあるが、そのような例外でもない限り、戦争は景気を悪化させる。

 平和は景気を良くする。生活を豊かにする。戦争への憎しみとか平和を求める心情とかを無視して損得勘定だけで考えれば、平和は儲かる。何が儲かるといって、戦争をしないことほど儲かるものはない。

 ただ、これが歴史の皮肉なのだが、経済が一気に発展し飛躍するのは、戦争をはじめとする極めて大きな悲劇があった後の平和のときなのだ。もう戦争に悩まされなくて済むという安心感を伴う復興は経済を一気に飛躍させ、あとは緩やかな成長となる。シルバーデモクラシーによる合成の誤謬が起こると衰退を招くが、普通は平和が続けば経済は成長する。

 しかし、ここに問題が二つある。

 一つは予算問題。

 もう一つは失業問題。

 平和が戻ったとき、災害に見舞われ職を失う人は数多く存在するのが通例だ。そうした人達に職を、あるいはもっと短絡的にいうと食を与える手段として、国家予算を投じての復興というのは極めて大きなリターンのある事業である。目に見えて社会が元に戻り、かつ、失業が減るのだ。

 ただ、そのための予算をどうやって用意するのかという大問題が存在する。復興に必要な予算が潤沢であるということは極めて稀である。保元の乱の後で信西が大内裏の復興に着手できたのも、かなり綿密に計算した上で予算を捻出したからである。ソロバンほどのスピードは出ないものの、多元方程式を解くことも可能な計算ツールである算木を信西が用いていたことは記録に詳しく残っている。

 後鳥羽上皇の前に広がっていたのは保元の乱とは比べものにならない大規模な戦乱である源平合戦を終えたあとの日本列島であり、特に木曾義仲の劫掠被害を受けた京都であった。これはあくまでも理論上であるが、源平合戦終結後ただちに平安京の大規模復旧工事に取り組んでいたら成功した可能性もある。そのときの京都内外に流れていた失業者は数多くおり、彼らに職業を与える目的で平安京の復興を目的とする公共事業を展開すれば成功していた可能性もある。

 ただし、予算があったならば。

 その予算はどこにもなかった。

 予算がないために平安京の復興どころか日々の生活をいかに再建するかに汲々とする状態であった。そのときの日本で潤沢な資産を持っていたのは奥州藤原氏と鎌倉方だけであったが、その双方とも資産に余裕があるように見えても平安京の大内裏を復旧させるほどの余裕ではなく、その双方が資金を出してようやく、大内裏ではなく里内裏の復旧ができたという程度である。しかもそれで、失業の減少という点では効果を発揮したのだ。

 さらにその後で奈良の復興が始まった。奈良の大仏の復興というのは誰の目にもわかりやすい平和の到来と復興のシンボルであっただけでなく、予算獲得という点でもどうにかなった。寄進、すなわち寄附でまかなえたのである。失業している人は労働力で、労働力を提供できない人は些細ながらも差しだした寄附によって大仏が蘇り、さらに大仏殿も蘇った。朝廷も東大寺の再建に乗って大仏や大仏殿の再建を国家的祝事とした。これは景気回復の何よりのアピールになったと同時に、再建に至るまでの工事がもたらす失業対策効果も大きかった。

 源平合戦後の復旧が進んだのは東大寺だけではない。園城寺も進んだし、興福寺も進んだ。平安京内部を見ても里内裏の復旧も進んだ。

 後鳥羽上皇が目論んだ大内裏復興は、東大寺復興を遙かに上回る大規模なものだ。当然ながらそれだけ予算を必要とするが、それ以前に、必要となる人員もかなりのものとなる。これがもし戦乱終結直後であれば失業者が大量にいたから人手不足に陥ることもなかったであろうが、建暦元(一二一一)年一一月ともなれば源平合戦終結から四半世紀は経過している。これだけの年数が経ったならば平和の到来による失業の吸収も可能だ。この状態で無理に人員を集めるとすれば、かなりの報酬で人手を用意するか、権力にモノを言わせて徴集するしかない。律令制が機能していた時代であれば調や雑徭で強引に人手を集めることもできたかも知れないが、上に政策あれば下に対策ありとは世の常である。やりたくない労苦を命じられそうになったならば、黙って受け入れるのではなくどうにかして逃れようとするのが通例だ。

 後鳥羽上皇は暗に権力を匂わせての徴集を求めたようであるが、不出来を叱責したところで人手は湧いてこないし、そもそも徴集を求めたところで、スタートが予算ゼロというのではどうにかできる代物では無い。三善康信が大内裏復興を暗に否定したのは、公共事業のもたらす経済効果ならば否定できないものの、後鳥羽上皇の求める公共事業の在り方はタイミングも遅ければ予算も少なすぎるという、経済効果よりも経済縮小を招いてしまうような在り方でもあったからだ。

 鎌倉幕府がここで後鳥羽上皇の意見に賛同して人手や予算を大内裏復興のために投入したらどうなるか?

 三善康信はむしろマイナスになると考えたのである。


 さて、建暦元(一二一一)年七月に京都から脱税疑惑を指摘され、北条時房のもとでの監禁生活となった惟宗孝尚が、一二月一日に軟禁解除となって釈放されたのは既に記したとおりである。釈放理由は、赦免ではなく、脱税たる隠田が見つからなかったからという無罪判定である。

 そして、源実朝は一連の流れに侍所も問注所も動かさなかった、特に侍所別当である和田義盛を動かさなかったことも既に記した通りである。吾妻鏡によると中原仲業に隠田の事実があるかを調査させ、京都からの疑惑が事実無根であることが示されたために釈放となったとある。源実朝はその上で、惟宗孝尚の釈放後に今後の捜査方針と司法方針について中原広元を通じて鎌倉幕府全体に布告している。

 和田義盛の焦りは建暦元(一二一一)年一二月二〇日に一つの諦めを生んだ。和田義盛はかつて上総国司への就任を求める嘆願書を提出したが、今回はその嘆願書の返却を求めたのである。和田義盛の四男の和田義直が中原広元のもとに嘆願書返却をかけかい、中原広元は和田義盛からの訴えを源実朝に伝えたことで、和田義盛の嘆願は取り消されたが、源実朝は良い気分ではなかったとされる。

 翌建暦二(一二一二)年一月、新年を迎えた鎌倉幕府は新年の行事を開催し、源実朝はその全てに顔を出している。

 鎌倉幕府の新年は、御家人が将軍に御馳走を振る舞うことで始まる。将軍が相手にするのは一日に一家であり、その順番は将軍にとって重要であればあるほど一月一日に近いものとなる。建暦二(一二一二)年一月の例で言うと、一日が北条義時、二日が中原広元、三日が小山朝政であるが、同じ家の者であればその場に臨席する。北条義時のときは北条時房が、小山朝政のときは結城朝光が臨席している。

 注意していただきたいのは、ここに和田義盛だけでなく三浦家そのものがいないことである。一月四日以後のことなのかと考えてその後の記録を見ても和田義盛だけでなく三浦家が全く出てこない。吾妻鏡が意図的に記録から消した可能性は否定しないが、吾妻鏡に記された動静に従うと、新年を迎えた源実朝が三浦家、そして和田義盛のいる場に姿を見せたのは一月一九日になってからであり、それも鎌倉幕府全体で鶴岡八幡宮に参詣した際に鎌倉幕府の主な御家人が集結している状況下で三浦家の面々もいたというものである。

 では、三浦義村や和田義盛をはじめとする三浦家はそれまで何もしていなかったのかというと、そんなことはない。特に、二月の吾妻鏡の記事を見ると、鎌倉幕府は三浦家に強大な勢力と向かい合うことを求めていたようなのである。

 その勢力とは、比叡山延暦寺。


 貴族の時代である平安時代から武士の時代である鎌倉時代に移り変わったのは一瞬の出来事ではない。平安時代の草創期に登場した武士が少しずつ勢力を持つようになり、朝廷や貴族達が武士を利用しなければならない状況へとなっていき、気がつけば武士の力が無視できるものではなくなっていたというのが大まかな流れである。

 特に白河法皇の時代には武士の力がどうしても必要な社会情勢を生むようになっていた。

 何が起こったのか?

 寺社の武装デモである。

 歴史用語では強訴というが、現代人の感覚でいうと国会や首相官邸、あるいは駅前でデモを繰り広げている集団が、刃物をはじめとする武器を持って暴れ回るようになったと考えていただきたい。これでは物騒極まりない話であり、デモ集団を強引に押さえつけるために、武力に対して武力をぶつけるために、白河法皇以降の院政期の皇族や貴族は武士を利用するようにしたのである。さらに、これらの武装デモ集団は、朝廷や院、すなわち政府に対してデモを繰り広げるだけでなく、他の寺社との争いも繰り広げていた。現在で言うと、新左翼が政権を敵として暴れ回るだけでなく、他の新左翼に対して襲撃を仕掛け、さらには命を奪うこともあるのと同じである。新左翼とは無関係の一般人からすればなぜそのようなことをするのか全く理解できないが、新左翼の中にいる人たちに言わせると、自分たちだけが正しく、他の新左翼は間違っているから成敗しているとのことである。この構図を平安時代に戻すと、同じ宗派である比叡山延暦寺と園城寺、すなわち山門寺門の争いがあり、また、奈良の地の寺院、特に興福寺が関係してくる南都北嶺の争いがある。同じ僧侶同士争うことなく仲良くすればいいではないかと考えるのは無関係の第三者の感想であり、当事者にとっては自分たちだけが正統で、他は異端であるがゆえに滅ぼされなければならないという考えらしい。

 そうした武装でも勢力の中で最強であったのが比叡山延暦寺である。日本の歴史を振り返ると、延暦寺の問題を解決するには織田信長を待たねばならねばならない。つまり、この時代は延暦寺の問題を解決する方法を持っておらず、せいぜいその都度対処するしかなかったのだ。

 これは延暦寺に限ったことではないが、何か問題があるからデモに訴えて問題を改善させようとするのではない。重要なのはデモそのものであり、もっと言えば暴れ回ることそのものが重要なのである。訴えとは、問題解決のための案の提示ではない。日頃の不満をぶつけるための口実である。このような集団に対して話し合いは通用しない。求めているのは暴れ回ることそのものである上に、冷静さを失っている。そのような集団に正論を用いての話し合いは通じない。

 正論を用いての話し合いは通じないが、正拳を用いての殴り合いは通じる。暴れ回ることを目的とする集団を抑え込むもっとも確実な方法は、暴れ回ろうとしている集団を力づくで押さえつけて身動きさせなくすることである。それでは問題の後回しにするだけではないかと思うかもしれないが、相手は人間、永遠の命を持つわけではない。問題を後回しにし続けて暴れ回りたい欲望を一度も満たせぬまま寿命のほうが先にやってきたならば、それで問題は完全に解決する。忘れてはならないのは、暴れ回ろうとしている当事者の周囲には、暴れ回ることで大迷惑を被る多くの人がいることである。武装デモに直面したときに真っ先に守るべきはデモと無関係の一般庶民の身の安全であり、現在進行形で暴れ回っている集団の一人一人のことは後回しでもいい。

 こうした寺社のデモを押さえつけるために採用された武士が徐々に力をつけてきて、次第に国の中枢に身を置くようになっていった。しかも、平清盛にしても、源頼朝にしても、貴族社会の一員とカウントされる家に生まれ育った身であり、周囲に武士が多いという点で特異ではあるものの、基本的には貴族として生涯を過ごしていた。つまり、武士と貴族との間は、貴族を上、武士を下とする上下関係が存在するものの、どこにその両者のボーダーラインがあるかは不明瞭なのである。武士としての功績を積んで貴族になるというケースもあるが、それも世代を重ねれば貴族の家に生まれたから貴族になるという生涯を過ごしてきた人である。ただ、周囲に武士が多く、自身も武士達を統率できる権利と権力を有している。そのため、朝廷から治安維持を求められたときに、私的な武力を発動させて治安維持にあたっている。

 鎌倉幕府は、より厳密に言えば鎌倉幕府の組織図に組み込まれている守護と地頭は、令制国単位の治安維持を司る守護と、荘園単位の治安維持を司る地頭という組み合わせにより、完璧ではないにせよ以前と比べれば治安維持においてかなり改善する動きを見せていた。また、京都においても鎌倉幕府の派遣する京都守護のもと、京都に鎌倉幕府の御家人が複数名駐在し、既存の朝廷権力、歴代の院が構えていた北面武士、後鳥羽院が創設した西面武士と協力する形で京都の治安維持にあたっていた。このように、京都に出向いて治安維持にあたることを京都大番役という。

 この京都大番役に問題が生じてきていた。

 全ては建暦二(一二一二)年一月二五日に法然が享年八〇で入滅したことに始まる。既存宗教に対する浄土宗の影響はあまりにも大きく、開祖法然をはじめとする浄土宗の主要人物は、良くて追放、そうでなければ斬首という承元の法難を招いたが、それで浄土宗が日本中から喪失するということはなかった。法然自身が強制的に還俗させられ流罪になっていたが、流罪先の讃岐国で浄土宗の布教に励み、赦されて摂津国に戻り、さらに京都に戻って布教を再開している。

 ただ、前述のように法然はもう八〇歳になっていた。数え年であるから満年齢にすると七八歳であるが、それでもかなりの高齢だ。当時でも高齢なだけでなく現在の感覚でも十分に高齢だ。どんな圧力に打ち勝つことはできても、年齢に打ち勝つことはできなかった。

 法然が亡くなったというのは浄土宗にとって大ピンチ、浄土宗に対する圧力を隠さないでいる既存宗教にとっては大チャンスである。中でも比叡山延暦寺にとっては最高のチャンスである。宗教勢力としての圧力の中には純粋に布教を推し進めることでの信者獲得もあるが、平安時代の寺社は僧兵を抱えており、信仰ではなく武力での圧力も珍しくなかったのだ。

 その問題を食い止めるのに最も確実で最も簡単な手段とは、京都で用意できる武力を動員して延暦寺の動きを封じることである。武力に対して武力で向かい合うのは野蛮に感じることもあるだろうが、歴史はそれが確実な方法であるという例に満ちている。

 ただし、武力で向かい合うことができることが条件である。

 吾妻鏡の建暦二(一二一二)年二月の記事を読むと、どうやらこの頃に鎌倉幕府の御家人達が京都大番役をサボるようになってきたようなのである。二月一九日に源実朝は、京都大番役を一ヶ月間務めなかった者は三ヶ月の京都大番役を務めるよう指令を出し、その指揮担当を、和田義盛、三浦義村、そして平盛時の三名に命じた。なお、平盛時とは源頼朝の右筆を務めていた人物であり、名前からすると平家の一員に見えてしまうが、少なくとも源平合戦の最中の元暦元(一一八四)年には既に源頼朝の個人的な秘書として歴史資料にその名が登場していること、同年一〇月の問注所の設置時には三善康信の補佐役として名を連ねていることから、鎌倉幕府における数少ない古参文人官僚のうちの一人であることがわかる。

 さらに二月二三日の吾妻鏡の記事を読むと、延暦寺の騒動に対して園城寺を守るよう、中原季時と佐々木広綱に指令を出したことが読み取れる。この両名は京都在任の者であり、特に中原季時は京都守護である。この時点の鎌倉幕府にとっての京都対策という点で即時に動かせる者となるとこの両名ということとなるが、それはあくまでも一時的なものとするしかない。すなわち、鎌倉から軍勢を送り込むのではなく、現地で用意できる軍勢ということとなる。この両名で対処できないとなれば、前段に記した京都大番役を通じた鎌倉幕府の軍勢派遣ということとなる。間に三浦家が、特に侍所別当の和田義盛が入っている以上、軍勢派遣は鎌倉幕府の通常人事でどうにかなる話だ。

 これは同時に、比叡山延暦寺に対する何よりの圧力になる。今は京都守護である中原季時と、京都在駐の佐々木広綱の両名が対処するが、この両者の手に負えない事態となったら鎌倉から容赦なく軍勢を派遣するというのだから、圧力を向けられた側にとってはたまったものではない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ