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第二部 源実朝罹患

 元久二(一二〇五)年八月二日、平賀朝雅の死が鎌倉へ伝えられた。吾妻鏡に平賀朝雅の死に関する感想などの描写はなく、ただ情報が届いたことを記すだけである。

 ただ、その後の記録を調べる限り、鎌倉ではかなりの混乱を呼び起こしたことが読み取れる。

 前月末に源実朝の名前で伊予国の武士達に対する処遇を決定している。それまでは伊予守護佐々木盛綱が伊予国の武士を統率する役を拝命していたが、七月末に、河野水軍を率いる河野通信に対して伊予国の三三名の御家人達に対する指揮権を保有させ、河野通信をトップとする組織の構築するよう指令を出している。伊予国は美濃国に並んで、国司として赴任することができれば、あるいは知行国とすることができれば、その者は莫大な資産を獲得できるとされてきた国である。その伊予国の武士の統率を、鎌倉幕府の一員である佐々木盛綱をトップとする組織から、現地の水軍のトップとした独自の軍事組織に転換させたのである。なお、この指令の発給に関与した人物として吾妻鏡は三善康信の名を記している。もっとも、このような伊予国への処遇を決めたのは、鎌倉幕府として伊予国の統治の困難さを問題視していたからだとも言える。先に伊予守護として佐々木盛綱の名を記したが、前年の元久元(一二〇四)年の伊予国守護の名としては後述する宇都宮頼綱の名が残っている。おそらく、宇都宮頼綱でも困難で、佐々木盛綱を投入して事態の収拾を図ろうとするも佐々木盛綱でも失敗し、結果として河野水軍の河野通信を選んだというところであろう。

 これが七月末の記録であり、いかに三善康信が関与したとは言え、これだけを見ると源実朝の将軍としての政務遂行に支障があるようには見えないし、鎌倉幕府の狼狽も垣間見えない。統治の困難さに難渋している様子は窺えるが、その難渋に立ち向かっている姿ならば垣間見えるのだ。

 ところが八月になると、より正確に言えば平賀朝雅の死の知らせを契機として、源実朝から冷静さが喪失し、鎌倉幕府全体が動揺を隠せなくなっていったのである。

 その動揺は、多少なりとも北条時政に荷担していた者の立場喪失という形で現れた。

 平賀朝雅の死の知らせが届いてから三日後の八月五日には、牧ノ方の兄である備前守大岡時親が出家を選んだ。大岡時親についての公的記録はここで途切れ、彼がそのあとどのような人生を過ごしたかの記録は残っていない。

 大岡時親についての記録は出家したという一文で終わるが、八月七日の出来事の記録はもっと大きく取り上げられている。

 宇都宮頼綱に謀叛の恐れありという噂が広まったのだ。

 宇都宮頼綱の祖父である宇都宮朝綱は建久五(一一九四)年五月に訴えを起こされ、土佐国への流罪が決まった人物である。孫の宇都宮頼綱もその事件の連座として豊後国への流罪が課せられたとの記録があるが、どうやらこの人は鎌倉幕府の庇護を受けることで流罪回避に成功し、根拠地である下野国に滞在し続けることが許され、鎌倉と下野国との往復生活を過ごしていたようなのである。実際、正治元(一一九九)年六月に亡くなった源頼朝の次女の乙姫の葬儀に参列したこと、同年一〇月の梶原景時弾劾に参加していること、そして、元久元(一二〇四)年には伊予国守護を務めていたことの記録がある。

 その宇都宮朝綱が一族郎党を率いて鎌倉へと南下しようとしているという噂が広まったのだ。北条政子のもとに、北条義時、中原広元、安達景盛といった面々が集まり、宇都宮朝綱とは叔父と甥の関係にある小山朝政が呼び寄せられた。

 一族郎党を率いて鎌倉へと向かおうとしているというのはあくまでも噂である。噂であるのに、このときの北条政子と北条義時は、宇都宮朝綱の処罰を決定しただけでなく、その処罰を小山朝政にさせることを選んだのだ。

 小山朝政は縁戚関係を理由に処罰に向かうことを拒否したことで鎌倉幕府として宇都宮朝綱を処罰すること自体はなくなったが、宇都宮朝綱のもとに鎌倉幕府からの処罰の動きがあるとの知らせは届いた。

 八月一一日に宇都宮朝綱から小山朝政のもとへ謀叛の意思など無いことを訴える書状が届き、小山朝政は宇都宮朝綱からの書状を鎌倉幕府に提出したものの、中原広元から検討に値しないと判断され一蹴された。

 八月一六日には宇都宮朝綱が出家をしたこと、また、宇都宮朝綱の出家に歩調を合わせておよそ六〇名の部下も出家したことの連絡も届いたが、この連絡についても幕府は冷淡であった。

 八月一九日には、僧体となった宇都宮朝綱が鎌倉までやってきて北条義時に直接弁明する機会を求めたが、北条義時は宇都宮朝綱を門前払いにした。せめてこれならと、宇都宮朝綱から結城朝光を通じて出家の証として(もとどり)が北条義時のもとに送られたが、北条義時は(もとどり)を目にしたものの、結城朝光のもとに返却した。

 その後、宇都宮頼綱は一人の僧侶としての人生を過ごし、宇都宮頼綱の子は幼少の者ばかりであったため、宇都宮頼綱の弟の宇都宮頼業が宇都宮家を代表することとなった。

 研究者は、このときの宇都宮朝綱の処遇によって、畠山重忠の乱に始まる一連の騒動は終わったとしている。

 そして、元久二(一二〇五)年八月の一連の流れで着目しておくべき事が一つある。

 前月の伊予国における処遇については何ら問題なく政務をこなしてた将軍源実朝が、八月になるとピタリと行動を見せなくなるのだ。何しろ、鶴岡八幡宮で開催される定例の行事ですら欠席するというほどなのだから徹底している。


 源実朝の立場で考えると理解できなくもない。

 祖父が自分を殺そうとし、北条政子と北条義時、源実朝にとっては母と叔父が祖父である北条時政を追放し、生まれる前から自分のそばにいた畠山重忠が殺害され、理論上は叔父でも源頼朝の猶子になっていたことから兄のような存在とも言えた平賀朝雅も、遠く京都の地で首を切り落とされたのだ。

 いくら源実朝が元服を迎えていようと、まだ十代前半の少年、現在の学齢で表すと中学一年生だ。その年代の少年がこのような激変を体験して、どうして平然としていられようか。

 元久二(一二〇五)年九月二日、内藤朝親が京都から戻ってきた。新古今和歌集を持参しての帰還である。内藤朝親は藤原定家の弟子のような立ち位置にある人でもあり、彼が新古今和歌集を持参して帰還したこと自体はおかしなことではない。また、源頼朝の詠んだ歌も収録されているというのは、新古今和歌集を源実朝に届けるのに十分な理由だ。

 これが源実朝を刺激した。

 源実朝は武士としてだけではなく、一人の貴族としての教養を身に着けるための教育を受けている。その中の一つに和歌もある。この時点での源実朝にとっての和歌は、貴族として身につけておくべき素養のうちの一つであり、耽溺するほどではなかった。

 ところが、このときの源実朝には和歌が、それも新古今和歌集に収録されているような最上級の和歌が、壊れかけていた心に染み渡るものになったのだ。和歌というのは詠み人の心情を三十一文字にまとめた文学作品だ。季節を詠み、日の移ろいを詠み、日常生活を詠み、そして、恋を詠む。と同時に、和歌の世界は殺伐とせず優雅な世界である。戦闘に挑む者を詠むことや、戦闘での死を覚悟して最期の言葉を詠むこともあるが、その点を踏まえても、武士として生きる者にとっての和歌とは武を感じさせない世界を感じさせる文学である。武人達の織りなす世界に心を痛めつけられている若き少年にとって、和歌の織りなす世界は、もっとも身近で体験できる理想郷の世界になったのである。

 以前から武より文を好むところがあり、妻として迎えた女性も京都の貴族世界に生きてきた女性である。生涯に渡って父への敬意を抱き続けてきた源実朝にとって、源頼朝が嗜んできた趣味に身を投じ、妻として迎えた女性とその周囲に伝える人達が鎌倉で伝える京都の最新の文化事情に触れ、そしてこのタイミングで新古今和歌集に接したことで、源実朝は武から更に離れ、文に、特に和歌により深く(のめ)り込んでいくこととなる。将軍として武の必要性を拒絶することは無く、武に対する知識も十分なものがあったのが源実朝という人であるが、源実朝自身は、自分のことを武士ではなく貴族の一人と考えるようになったのだ。

 ちなみに、新古今和歌集は印刷されたわけではなく、原本を後鳥羽上皇が保有し、必要に応じて書き写す書物になっており、このときの源実朝が手にしたのも内藤朝親の手による写本である。


 和歌に耽溺するようになったとは言え、源実朝が将軍としての職務を放棄したわけではない。元久二(一二〇五)年八月の一連の流れでは全く姿を見せず、鶴岡八幡宮での催事ですら欠席した源実朝であるが、新古今和歌集を手にした後の九月二〇日には源実朝が何事も亡かったかのように政務に戻り、山内首藤経俊からの嘆願書を却下している。

 何が起こったのか?

 建仁三(一二〇三)年一二月に平家の残党が武装蜂起を起こし、伊勢国と伊賀国の両国の守護を兼任する山内首藤経俊の館を襲撃した。このときの武装蜂起はその翌年に三日平氏の乱と呼ばれることとなる反乱につながるのだが、山内首藤経俊はその暴動の初動鎮圧に失敗したために伊勢国と伊賀国の両国の守護から罷免され、暴動鎮圧の最高指揮官となった平賀朝雅が両国の新たな守護に任命された。

 ところが、平賀朝雅が反逆を問われて処罰され殺害されたことで、伊勢国と伊賀国の守護の職が空席となったのである。

 山内首藤経俊からの嘆願書は、自身が罷免された両国の守護職への復職を訴えるものである。公的には鎌倉幕府に叛旗を翻したということになっている平賀朝雅に対する処罰を考えると、いかに平賀朝雅が故人となっていたとしても平賀朝雅の手にしていた権利を幕府が没収すること自体は不合理な話ではない。没収でないにしても故人になっているのだから誰かを後任として任命する必要がある。それに、平賀朝雅の討伐に向かった者の中に山内首藤経俊の息子がおり、平賀朝雅を討ったのは山内首藤経俊の息子の弓が放った矢なのだ。謀反人平賀朝雅を討ったことの報償を考えるならば、山内首藤経俊の息子、さらにはその父である山内首藤経俊に何かしらの報償が与えられるべきであり、その報償として守護職に戻すことを求めたのだ。

 山内首藤経俊は、平賀朝雅を罪人であるとし、罪人であるために守護職は没収されねばならず、平賀朝雅の前任である自分が両国の守護職に任命されるべきだと主張したのであるが、これに対する源実朝の返答は、平賀朝雅の兄である大内惟義を後任として任命するという布告である。あくまでも平賀朝雅が亡くなったために、平賀朝雅の兄を後任とするという姿勢を貫いたのだ。平賀朝雅が謀反人として討たれたことについて何ら言及していない。平賀朝雅が亡くなったことは認めるものの、その死の理由については何も言わないとしたのである。

 そしてこれは、源実朝からの一つの布告となった。畠山重忠から平賀朝雅に至るまでの騒動に関連する処罰はこれで終わりとし、平賀朝雅の親族に対する処罰も行わないというものである。山内首藤経俊としては満足いく回答では無かったろうが、これに対する山内首藤経俊からの返答は記録に残っていない。ただし、山内首藤経俊に対する記録自体は今後も残り続けているので、鎌倉幕府に仕える御家人の一人であり続けていたことは確認できる。


 平賀朝雅がこの世の人でなくなり、北条時政も鎌倉から追放された。

 この二人がいなくなったことは、鎌倉幕府における北条家の勢力拡充という点ではプラスに働いたが、肝心の統治という点では大きなダメージが存在する話である。

 平賀朝雅にしても、北条時政にしても、京都における鎌倉幕府の代理人、いわば、国際関係における常駐大使に相当する役職を果たせる人物でもあったのだ。さらに言うと、同じ扱いは源義経についても言える。京都に常駐して鎌倉から届く指令に基づいて行動すると同時に、鎌倉から指令が届かないまで動かないという消極的な役割ではなく、鎌倉からの指令があれば行動を止めるが、そうでないなら鎌倉幕府のために行動するという積極的な役割が求められる職務だ。

 この役職のことを京都守護という。鎌倉幕府における重要な職掌であることは誰もが認めるが、厄介な問題も併存する。

 相手にしなければならないのは鎌倉幕府の御家人ではなく京都の貴族達なのだ。そのため、北条時政や平賀朝雅といった鎌倉幕府の御家人が選ばれるとは限らず、一条能保や、一条能保の息子の一条高能といった鎌倉方に身を寄せた貴族も京都守護に選ばれている。そうでなければ対応しきれないのだ。

 平賀朝雅の務めていた伊勢国と伊賀国の守護の役職を山内首藤経俊は求めた。しかし、平賀朝雅の務めていた他の役職、すなわち、京都守護については求めていない。求めていないのではなく、務まるとは微塵も思っていないのだ。

 それは山内首藤経俊だけのことではない。鎌倉幕府に仕える武士のほぼ全員が、京都守護の職務を拝命することは望まないどころか忌避すらしていたのである。たとえば検非違使のように京都に赴いて武士としての能力を発揮することを求められるのなら喜んで応じるが、京都守護として京都の貴族達と渡り合い、さらには後鳥羽上皇と向かい合うとなると、いかに勇猛果敢な鎌倉武士とて二の足を踏む。鎌倉幕府の中で京都守護はかなりの高位の役職である。それでいてその役職に就こうと挙手する者は乏しい。ゼロではないが、他の役職と京都守護とのどちらか一方を選べるとしたならば、ほとんどの御家人は、京都守護のほうが高い役職であろうと、他の役職を選ぶ。

 とは言え、誰かが鎌倉幕府を代表して京都に駐在しなければならない。

 それも、京都の貴族達とまともに渡り合ってきた北条時政や平賀朝雅と同等、さらにはそれ以上の成果を見せなければならない。

 そのような人物はいるのか?

 それまでの実績だけを考えるならば、いない。

 しかし、抜擢ならば可能である。

 中原親能の子の中原季時だ。

 父の中原親能は源頼朝の代理として頻繁に鎌倉と京都とを往復してきた人物であり、中原季時も父に同行して京都と鎌倉を往復してきた過去がある。また、朝廷官職も保有しており、吾妻鏡によると駿河国司を務めた経験もあるというから、最低でも従五位下、順当に考えればそれ以上の位階を持つ貴族の一人としてカウントされる人物である。京都の貴族達と渡り合うことを考えれば、国司経験のある貴族であることは無視できない経歴となる。また、中原季時が中原広元の甥でもあるという点も無視できない要素である。圧倒的に武人が多く文人官僚が少ないのが鎌倉幕府という組織であるが、中原広元の存在は鎌倉幕府の抱える文人官僚の乏しさを一人で解消する人物である。良く言えば優秀、悪く言えば冷徹な中原広元を敵に回すようなことをする貴族はいない。

 ただ、如何せん、中原季時は経歴が浅い。鎌倉幕府の中では貴重な人材でも、特筆すべきキャリアが国司経験だけという貴族は京都では珍しくもない。中原季時がいかに中原広元の甥であると言っても京都の貴族達を相手に立ち回ることが可能か不安はあった。不安はあったが、その中原季時を鎌倉幕府は抜擢することとし、元久二(一二〇五)年一〇月一〇日に京都守護に任命した。新たな役職を背負った中原季時はただちに京都に向かった。

 そしてこの抜擢であるが、成功した。中原季時はなんと、このあと一四年間に亘って京都守護を勤め上げ続けることに成功する。二度に亘って中原親能を二度とカウントすると中原季時は七代目、源義経を含めると八代目の京都守護であり、中原季時の後には二名の京都守護が誕生するので合計一〇代の京都守護が存在することとなるが、この一〇代の中で中原季時は在職最長年数を記録するのである。

挿絵(By みてみん)


 新たな京都守護の中原季時が京都に向かったのが一〇月一〇日。その三日後の元久二(一二〇五)年一〇月一三日、実に物騒な記録が京都から届いた。既に記している通り京都守護平賀朝雅が討たれ、新たな京都守護中原季時はまだ京都に到着していないため、京都守護からの書状ではなく、京都駐在の御家人である五条有範からの書状である。

 書状に記されていたのは比叡山での火災、それも放火である。

 火災が発生したのは一〇月二日の真夜中、子刻とあるから現在の時制に直すと夜中の〇時頃に比叡山の法華堂が放火され、講堂、四王院、延命院、法華堂、常行堂、文殊楼、五仏院、実相院、丈六堂、五大堂、御経蔵、虚空蔵王、総社、南谷、彼岸所、円融房、極楽房、香集房といった建物が全焼して灰となり、炎がさらにひろがってきたため本尊や十二神将像などを退避させると同時に、前唐院の経典や宝物は法華堂や常行堂から取り出して避難させた。その後、供養の儀式を食堂で開催したというのが京都から届いた報告である。

 おそらく下働きの僧兵達が火を点けたのではないかというのが書状に記されている真犯人であるが、本当に真犯人なのかどうかは不明である。

 そもそも都合が良すぎる。

 平賀朝雅がいなくなったことは京都における鎌倉幕府のプレゼンスを低下させるに十分である。そうでなくとも南都北嶺で争っていた奈良の興福寺も、山門寺門で争っていた園城寺もかつての勢力を取り戻すことのできなくなっている状況で、比叡山延暦寺だけは一五〇年前とほぼ変わらぬ権勢を誇っていた。

 そもそも白河院や鳥羽院が武士をとりたてたのも、その時代に暴れ回っていた寺社の武装デモ勢力に対抗するためであり、鳥羽院亡き後に平家が国家権力を握り、平家滅亡後は源氏が日本国の最大武装勢力となったのも、突き詰めていくと寺社の武装デモ勢力から社会を守るためである。鎌倉幕府が成立した後、京都の安全を守る検非違使に京都在中の鎌倉幕府の御家人が多くなってきたのも、武力によって武装デモに対抗する目的があったからだ。

 その京都駐在の御家人を統率するのが京都守護であり、京都守護の平賀朝雅に対する京都市民からの支持が高かったのも、かつての源義経を彷彿とさせる平賀朝雅の若さに加え、平賀朝雅の築き上げてきた実績があったからだ。

 その平賀朝雅がいなくなった。これを武装デモ勢力から眺めると、今まで押さえつけられていたのを跳ね返す絶好のチャンスということになる。

 ところが、比叡山延暦寺が放火された。

 京都守護がいないために暴れ始めるチャンスを迎えたと考えたところで放火された。

 これは怪しいとするしかないのだが、鎌倉幕府の怪しさというのは当て推量であって証拠はない。おまけに、犯人とされているのが延暦寺の僧兵達となっているのだから、延暦寺としては何かしらの行動を起こす根拠が全く存在しないこととなる。残されているのは延暦寺に対する大ダメージの痕跡だけであり、延暦寺がすべきことは武装デモではなく自らの再建だけであった。

 ただし、比叡山延暦寺に限らず、この時代の宗教界全体が直面していた問題を看過することはなかった。

 宗教界全体で抱えていた問題の対処で主導することとなったのは、延暦寺ではなく、復興しつつあった奈良の興福寺である。元久二(一二〇五)年一〇月、興福寺の宗徒が法然の提唱する専修念仏の禁止を求めて朝廷に上奏したのである。

 この上奏文は九箇条からなっていたが、その中で画期的であったのは第一条であった。

 日本に存在する仏教の宗派は八宗、すなわち、法相宗、倶舎宗、三論宗、成実宗、華厳宗、律宗の南都六宗に、平安時代に加わった天台宗と真言宗の二宗の計八宗のみであり、法然の起こした新たな宗派である浄土宗は、仏教の正式な宗派ではなく、その存在自体が認められないのとしたのだ。興福寺自体は法相宗の寺院であるが、法相宗のためだけでなく既存の全ての宗派のために興福寺が動いたのだ。

 前年には比叡山延暦寺の衆徒が天台座主真性に対して専修念仏の禁止を要求したことの記録もあるのは既に述べた通りある。興福寺と延暦寺が新たな仏教勢力の前に手を組んだという噂も広まった。おそらくその噂は本当だったのであろう。延暦寺が放火に遭ったために動けなくなり、宗派の壁を越えて、これまでの対立も乗り越えて、新興勢力に対して協力することとしたのだ。


 亡き平賀朝雅に代わる新たな京都守護となった中原季時が上洛して最初にしたのは、畠山重忠以降の混乱の後始末であった。特に京都在駐の御家人達の統率と京都の治安維持が中原季時に課せられた使命であり、中原季時はその使命に早々に応えた。

 吾妻鏡によると元久二(一二〇五)年一一月三日に、京都から一人の女児が鎌倉にやってきた。綾小路師季こと源師季の娘であり、女児の父である綾小路師季は前月に右近衛少将を解任となっている。ちなみに、源を姓としていても綾小路師季は清和源氏ではなく村上源氏であり、右近衛少将という武官としての官職を手にしてはいても、本質的には京都の貴族である。当然ながら鎌倉幕府の御家人であるわけでなく、鎌倉幕府からは少し距離を置いた立場である、はずであった。

 だが、綾小路師季の妻は六月に討ち取られた稲毛重成の娘であり、その女性との間に女児をもうけていたのである。

 その女児のことを吾妻鏡は綾小路姫君と記しており、彼女の名そのものは記してはいない。女性の名を記さないのはこの時代の通例なので特におかしなことではなく、彼女を特定するための記載方法も特に不可思議なところはない。

 ただ、このときの女児についての記述は異例とすべき点が一点存在する。

 彼女の年齢だ。

 なんとこのとき、二歳である。

 当然ながら、二歳の女児が一人で歩いて京都から鎌倉までやってきたわけではなく、左近将監の小沢信重に連れられての鎌倉行きである。前述の通り彼女の母は稲毛重成の娘であり、稲毛重成が討ち取られたことで連座の危機を迎えたため、身を潜めなければならなくなった。何しろ父が右近衛少将を罷免されたのだ。

 二歳にして迎えることとなった運命を哀れんだ北条政子は綾小路姫君を保護するよう中原季時に命じ、中原季時は北条政子の命令に従って綾小路姫君を保護して、綾小路姫君を鎌倉まで送り届けることとした。稲毛重成の亡き妻は北条時政の娘であり、北条政子や北条義時の実の妹である。つまり、綾小路姫君は稲毛重成の孫であると同時に、北条政子の妹の孫でもある。北条政子が預かるというのならば、この時点で考えられる最大級の安全を得られることとなる。父からすると娘が遠い鎌倉まで連行されていったに等しいが、そのほうが娘の命を守れる可能性が高いならば、寂しさはあっても受け入れなければならない運命と覚悟したであろう。

 翌一一月四日、北条政子は綾小路姫君を自宅に招き、彼女を猶子として迎え入れることとした上で、かつて稲毛重成の所領であった武蔵国小沢郷、現在の川崎市中原区から高津区に掛けての一帯の所領を綾小路姫君が相続することを命じた。


 北条政子の猶子になった女児がいる一方、後に源実朝の猶子になる男児も人生を定める運命に立たされていた。

 亡き源頼家の息子である善哉(ぜんざい)である。善哉は正治二(一二〇〇)年生まれであるから、現在の学齢で言うとまだ小学校にも入学していない幼児である。その幼児は後に源実朝の猶子となるのだが、この時点ではそのように考えられてはおらず、鶴岡八幡宮に預けられて将来は僧となることが求められたのである。

 鶴岡八幡宮は神社であるのに僧侶になるとはどういうことかと思う方がいるかもしれないが、そうした疑問が浮かぶのは明治維新での神仏分離後の話であり、この時代の人は誰もそのような疑問を抱かなかった。この時代は寺院の敷地内に神社が、神社の敷地内に寺院があることが普通であり、特に後者のことを神宮寺という。鶴岡八幡宮に正式な神宮寺が設けられたのはこれより三年後の承元二(一二〇八)年のことであるが、それより以前から鶴岡八幡宮内に寺院があったことは記録に残っており、昭和五七(一九八二)年の発掘調査で寺院の遺構が確認されている。

 吾妻鏡の元久二(一二〇五)年一二月二日の記事にあるのも善哉が鶴岡八幡宮の別当、すなわち、鶴岡八幡宮のトップを務める阿闍梨の尊暁のもとに弟子入りしたという記事であり、阿闍梨という仏教界に於いて高位にある僧侶が鶴岡八幡宮のトップであること、その僧侶のもとに亡き源頼家の息子が弟子入りしたことは、源頼家の息子であるという点で特筆すべきポイントであるが、それ以外はよくあることであったといえる。

 なお、この時点での幼児の名は善哉であるが、現在に生きる我々は彼のことをそのような名で呼んでいない。公暁と呼ぶ。ただ、彼が公暁と呼ばれるようになったのは正式に出家してからであり、それまでは出家前の名前ということになる。

 なお、公暁のことを多くの人が「くぎょう」と読み上げているが、そのような仮名遣いをするようになったのは江戸時代からであり、その読みは正しくないのではないとする説が現在は強い。この時代の僧侶の読み名は唐代以前の中国語の発音である呉音であることが多かったが、後に公暁の師となる公胤、また、公胤の師である公顕の属する園城寺は、当時の寺院としては珍しく唐代の発音である漢音を用いており、漢音では公胤を「こういん」、公顕は「こうけん」となるため、公暁の一文字目は「こう」と読むと推測される。「暁」は「きょう」もしくは「ぎょう」なので、公暁の読みは「こうきょう」もしくは「こうぎょう」となるはずである。


 法然の起こした浄土宗に対する反発として興福寺から上奏文が朝廷へと提出されたのが元久二(一二〇五)年一〇月のことである。法然とその周囲が社会問題を伴う存在へと見做されるようになってきたことで朝廷から向けられる視線は許容から問題へと変容したが、一二月一九日、一つの形となって浄土宗のもとに示された。

 この日、宣旨が下ったのである。

 このときの宣旨はあくまでも、法然の周囲に集う僧侶のうちの一部が問題なのであって、法然自身も、法然の唱える専修念仏も問題ないとするというものである。

 これに対する興福寺の反応を一言でまとめると、激怒、である。

 新たな宗派が誕生して既存勢力に対して脅威となっていること自体が問題なのであり、求めるのは宗派そのものの殲滅であって、宗派内で問題行動を起こしている個人に対する弾劾ではないのだ。

 こうした捉え方は、興福寺が京都から距離を置いた奈良に存在する寺院であるという側面もある。法然の訴える専修念仏が魅了したのは、京都ではなく地方であった。特に、寺院が地域最大の有力勢力であるという土地であった。寺院が地域の中心であり、寺院に従うことが当たり前という生活をしている人達のもとに、寺院に関係なく、念仏を唱えることで救いが訪れるという教えが届いたのだ。それまでは信仰と権力とが密接に繋がることで寺院が地域における最大権力であることができたのに、その構図が崩されただけでなく、寺院に対する叛旗を示す者、さらには土地を捨てて法然のもとに走る者まで現れたのだ。

 さらに、有力者の中にも法然を擁護する者が多数現れた。その中でも特筆すべきは式子内親王と九条兼実の二人である。式子内親王は五年前にこの世の人ではなくなっており、式子内親王自身の記録の中にも法然に対する個人的な帰依の記録はないが、法然が、「聖如房」あるいは「正如房」と呼ばれる高貴な身分の尼の臨終に際して、長文の手紙を送ったという記録はあり、この尼が式子内親王と考えられている。また、九条兼実は建久七年の政変で関白の地位を追われてから政治の第一線から離れており、建仁二(一二〇二)年には法然を戒師として出家している。

 九条兼実と法然との関係のきっかけを追い求めると、九条兼実の長男である九条良通が早世してしまったことに行き着く。法然の唱える専修念仏は我が子を亡くして悲しみにくれる九条兼実の心を埋めるに十分であり、法然も九条兼実の喪失感を埋めるために「選択本願念仏集せんじゃくほんがんねんぶつしゅう」を著している。この著作は法然が九条兼実に向けて記した論文であるが、結果として九条兼実以外の人にも法然の教えを説く結果となり、現在にも残る浄土宗の重要論文となっている。

 ただし、九条兼実は法然に帰依したものの完全に心酔しているというわけではなく、特に、俗人であろうと、戒を破った僧侶であろうと、さらには、どのような悪人であろうと救われるという法然の教えには納得できていないところもあった。そのため、九条兼実は法然を試すべく、結婚の許されないはずの僧侶が結婚をしても救われるのかと問い、法然の弟子の一人を自分の娘と結婚させもした。ちなみに、このとき選ばれた法然の弟子が、後の浄土真宗の宗祖とされる親鸞である。

 また、鎌倉幕府の御家人の中にも法然に帰依する者も出てきた。戦乱に明け暮れる日々を余儀なくされるのが武士の宿命であり、敵となった者を殺さねばならない、殺さなければ殺されるというのが武士に課せられた宿命である。この宿命から逃れようと出家する者もいたが、そこまでの覚悟を決める武士は多数派ではない。多くの武士は課せられている宿命を受け入れたままの日々を過ごさねばならない以上、宿命から些細ながらも逃れることができる法然の教えは、武士にとってこれ以上なく染み込む教えであった。

 そしてこれは、心情的な感情ではなく世俗的な打算であるが、法然の教えは既存の寺院勢力を無効化する教えでもある。自らの有する所領に於いて寺院勢力が強力である場合、これまでであれば寺院勢力の顔を立てつつ機嫌を伺い続けなければならなかったが、本人を含め所領に住む全住人が法然の教えに帰依したならば、その寺院はそれまで保持していた勢力が完全に無に帰すこととなる。

 これは寺院勢力にとっては大打撃、寺院勢力に悩まされる側にとっては僥倖であった。


 年が明けた元久三(一二〇六)年一月、源実朝は将軍としての政務を元通りに遂行するようになっていた。吾妻鏡にあるのは将軍としての定例行事をこなしたことの記録であるが、その中には書物を用いた講義も含まれている。新古今和歌集に始まる和歌への耽溺はあくまでも趣味の領域であるが、書物自体は趣味の領域ではない。ちなみに、後述することとなるが、この時代の貴族であれば必ず読んでいるはずの古今和歌集を、この時点の源実朝は読んでいない、というより、この時点の鎌倉に編纂間もない新古今和歌集ならばあっても、貴族の必須素養とされていた古今和歌集の書物そのものが存在せず、源実朝は読みたくても読むことができなかったのである。

 古今和歌集はなくとも、中原広元をはじめとする文人官僚のもとには、この時代の貴族であれば学んでいるはずの、中国の古典をはじめとする書物ならば存在していた。若き貴族としての学習の意味もあり、また、そこで学ぶのは統治者として求められる知識の習得なのである。実際、中原親能の家人である中原仲業が教師となり、十三経のひとつである孝経の講義をしている。古今和歌集は鎌倉になくても、四書五経やそれ以後の漢籍書物ならば鎌倉にも存在している。

 中原仲業の生没年は不詳であるが、中原親能の家人であることから中原親能が鎌倉幕府に仕えることになったことに合わせて自身も鎌倉幕府に仕える身になったようで、建久二(一一九一)年には鎌倉幕府に仕える公事奉行人の一人として名前が残っていることから、どんなに若くても元久三(一二〇六)年時点で三〇歳以上のはずである。

 吾妻鏡で源実朝が孝経を学んでいることが記録されているのは元久三(一二〇六)年一月一二日の読書始めの儀の様子を描いたからであるが、源実朝は普段からこうした学習を繰り返し、その上で和歌も嗜みながらも、将軍としての政務は欠かすことなくこなしている。いや、順番としては、政務、学習、趣味という順番である。

 この時代の政務はその多くが先例踏襲主義であり、先例踏襲であるならば最初の政務でなければ記録に残らない。つまり、先例踏襲ではない政務についてでなければ記録に残らない。それは学習についても同じことが言え、政務があり、学習もして、その上で空いている時間に趣味を嗜むというのが源実朝の日常になる。そのうちの趣味が特異であるために記録に残ってしまうのは源実朝にとっても不本意であろう。何しろ記録だけを信じると源実朝は趣味に耽溺した気弱な将軍という扱いになってしまうのだ。

 元久三(一二〇六)年一月二七日に残されている記事は、そうした源実朝評に対し一石を投じる内容であろう。この日、源頼朝の時代に与えられた土地についてはよほどの大罪に手を染めない限り保有権が保障されるとしたのである。二階堂行村にその管理監督を担当させることで実効性のある基本方針としたのであるが、これは画期的なことであった。源頼朝の時代の決定を源実朝も遵守するというだけでなく、源実朝以降の人物が鎌倉幕府のトップに立つ場合の基本方針を定めたのである。

 鎌倉幕府に求められるのは、まずは治安維持、次に司法である。司法の多くは土地の保有権や所有権をめぐる争いへの裁決であり、源実朝がその基本方針を打ち出したことで。司法の基本方針も明瞭化されることとなったのである。

 鎌倉幕府の打ち出した基本方針は京都の朝廷にも波及する。後鳥羽上皇は源実朝の明瞭化した単純明快な基本方針を評価し、従四位下に昇叙させた。なお、右近衛権中将と加賀介についてはこれまで通り兼職としている。ちなみに、まだ政所を設置するに必要な位階ではないため、この時点の鎌倉幕府の発給する文書は、政所としての発給ではなく、源実朝の名での発給となっている。


 さて、鎌倉幕府のトップに立っているのは源実朝であるが、この時代の日本のトップに立っているのは、理論上は土御門天皇、事実上は後鳥羽上皇であり、源実朝は位階の低い貴族のうちの一人という扱いでしかない。

 さすがに鎌倉幕府という存在を無視できる者などいなくなっていたし、鎌倉幕府内部のゴタゴタは遠く離れた京都でも噂話にのぼるほどだ。京都における武力という点での鎌倉幕府は無視できなくなり、検非違使の実働部隊を探すとすれば鎌倉幕府の御家人以外に頼れる人材がいないという状況であり、鎌倉幕府に何かあったら京都の治安にも支障が出るというのはこの時代の京都人の共通認識になっていた。

 それでも、源実朝は数多くの貴族の一人、それも、父と兄はそれなりの位階まで登り詰めたが、本人はまだ幼いためにそこまでの位階に登り詰めることができないでいる貴族の一人と見られており、鎌倉幕府はその幼い貴族がトップであるものの、本質的には亡き源頼朝の部下たちが集まっている組織と見られていた。

 これを現在の感覚で捉えると、強烈なリーダーのもとに誕生した新たな国政政党が、そのリーダーが亡くなり、リーダーの長男が後を継ぐもうまく行かず、兄が病に倒れたために第一線を離れることとなったため、幼き次男が国政政党のトップに立つようになったというところか。年齢による選挙権や被選挙権の制限という概念のないこの時代、それがゆえにかえって、国政政党のトップに歳若き者が就いたとしてもおかしくない。それに、源実朝は位階が低いとはいえ低い理由はその幼さのみに由来しており、貴族の一員としてカウントできるぐらいの位階は手にできている。順当にいけば年齢を重ねて少年から青年になるにつれて位階を挙げて貴族社会の中枢に名を刻むようになるのは目に見えている。これも現在の感覚でいくと、内閣に大臣を送り出した新興政党があり、その政党のトップが亡くなり、今は内閣の一員ではなく当選回数の浅い一人の議員がトップに就いているが、その議員はそう遠くない未来に大臣の一人となると目されているといったところか。

 つまり、無視できる存在ではないものの、かつての源頼朝のように朝廷のキャスティングボードを握るわけではなく、源頼朝を相手にするよりはまだどうにかなる存在であると捉えることができる。

 そのあたりの行動パターンが、この頃の後鳥羽上皇の行動から読み取ることができる。

 元久三(一二〇六)年二月一四日、後鳥羽上皇が興福寺の訴えを受け入れて法然の門徒を流罪としたのである。前年一二月一九日の宣旨は、周囲の者の中に問題のある人物がいるのは認めるものの法然については問題なしとし、専修念仏についても問題なしとしたが、前年一二月一九日の宣旨に対する興福寺からの反発が出て、興福寺からは法然の弟子のうちの二人である法本房行空と安楽房遵西の両名を流罪にするよう訴えが出たのである。

 このような主張を宗教界が繰り広げるのは特に珍しいことでは無かったが、後鳥羽上皇が興福寺からの訴えを受け入れて行空と遵西の両名を流罪とする院宣を出したのは異例とするしかなかった。

 法然のはじめた浄土宗は既存の寺院勢力にとって脅威であった。宗教的にも脅威であったが実利の面でも脅威であった。それまで手にしてきた信仰と権力の融合から、信仰も、権力も、徹底的に奪われるのだ。

 特に厄介なのが鎌倉幕府の御家人である。以前は寺院の保有する荘園住人の一人であったか、あるいは荘園と無関係の人間であったのどちらかであり、寺院からしてみれば取るに足らない庶民の一人のはずであった。それが、時代とともに権勢を積み上げてきて荘園における有力者となり、鎌倉幕府という新たに誕生した組織に属することで国家レベルの権勢を手にすることになった。

 ここで浄土宗に対するダメージを与えることができれば既成勢力にとって望ましい環境、すなわち、これまでの宗教情勢の維持が見込める可能性がある。最良なのは浄土宗そのものの根絶であるが、それは現実的な話ではない。

 本来であれば後鳥羽上皇が院宣を出すことも考えづらい話なのだ。後鳥羽上皇が仮に興福寺からの訴えに同調したとしても、鎌倉幕府の存在を考えると興福寺からの訴えに応えることは難しい話である。

 それなのに後鳥羽上皇が興福寺からの訴えを受け入れた。

 これは驚愕であった。

 後鳥羽上皇は新古今和歌集をかなり強引な形で完成させたと主張したことは既に記した通りであるが、それは前触れであった。

 この頃から後鳥羽上皇は有職故実を徹底的に学ぶようになるのだ。

 もともと帝王教育を受けて育った人物である。天皇として、また、上皇として必要な知識は既に身につけている。ただ、後鳥羽上皇が求めたのは必要な知識の習得ではなく、他を圧倒する知識の習得である。藤原頼長の日記である台記や、九条兼実の日記である玉葉を提出させ、藤氏長者の政務を学び、有職故実を学んだのだ。

 現在の国会では、各種委員会で野党だけではなく与党からも質問が出て、それに対して政府が回答するという仕組みになっている。質問は口頭で行われることもあるが、質問主意書として文書で出されることが通例で、そうした口頭での質問や文書での質問に応えるのが国会の答弁において政府に求められることである。

 その構図は今から八〇〇年前も変わらない。口頭で行われることも、文書で行われることもあるという構図も現在と一緒である。違うのはその質。現在の国会では野党だけでなく与党からも政府に対して厳しい質問が飛び、質問への回答に政府が苦慮するというケースはよく見られる。一方、この時代はそこまで厳しい質問ではない。基本的には前例に則った質問とその返答であり、多くは先例踏襲でどうにかなる。

 ところが、後鳥羽上皇は違った。後鳥羽上皇も先例踏襲から無縁でいられるわけではなかったが、先例を全て頭に叩き込むことはもちろん、先例の無い答弁であっても全て応えるようにしたのである。これを貴族の立場で捉えると、戦々恐々としか形容できない。後鳥羽上皇に質問をする側であればまだいい。どのような質問でも後鳥羽上皇からは理路整然とした回答が戻ってくる。一方、後鳥羽上皇から質問を突きつけられると、後鳥羽上皇も感心せざるを得ないレベルで回答してやっと及第点、そうでなければ問答無用で落第扱いになるのだ。しかも人事権を握っているのは治天の君たる後鳥羽上皇であり、どんな貴族であろうと後鳥羽上皇に気に入られることなしに中央政界での立場を築くことができないのである。

 ただ一人、源実朝を除いて。

 しかも、源実朝が例外なのは彼がまだ幼いことと、京都ではなく鎌倉にいるために京都での政務に携わることができないという事情があるからであり、さらに言えば、鎌倉にいて武力を統率できる人間に求められること、すなわちこの国の治安維持という面では源実朝は十分に合格点をつけていい結果を出している。源実朝は後鳥羽上皇に気に入られなくてもどうにかなるという特権を得ていながら、後鳥羽上皇に気に入られるだけの結果を出しているという特異な存在であったのだ。

 後鳥羽上皇の表面的な記録を追いかけると、最愛の女性と死別して悲しみに暮れていた時期を除けば、蹴鞠や弓術、あるいは和歌といった趣味に没頭しているように見える。そして、その見識は途中までであれば間違いではない。だが、後鳥羽上皇は年齢を重ねるにつれて純然たる趣味人としての日常から、趣味に理解のある統治者としての日常へと変化していったのである。それは貴族たちを凌駕する政治家としての後鳥羽上皇の誕生を意味する。


 後鳥羽上皇が興福寺の意見を受け入れて二人の僧侶を流罪としたが、その方法は院宣であり、法に基づく処罰ではない。いかに院宣が事実上の法であるとしても、院宣はあくまでもこれから法制化される予定の法案であり、上皇や法皇が院宣を出した後、朝廷において議政官の議決を経て天皇のもとに上奏され、院宣を契機とする法案が正式に天皇の名で発せられてはじめて院宣は国法としての効力を持つ。議政官の議決を経ても太政大臣が拒否権を発動すれば議政官の議決は差し戻しとなって天皇の元への上奏がなくなるから、院宣は正式な法とならない。

 つまり、後鳥羽上皇がどのような判断を示そうと、朝廷は後鳥羽上皇の判断を覆すことが可能なのである。

 理論上は。

 実際には、余程のことがない限り院宣が出れば無条件で法となる。自分にとって不都合な院宣が発給されたならば、院宣が議政官の議決を経て正式な法となるまでの間に余程のことが起こるのを待つしかない。

 では余程のことが起こる可能性はどれだけあったか?

 結論から言うと、少し前であれば摂政兼太政大臣九条良経が後鳥羽上皇の出した院宣を握り潰す可能性に期待を持てた。九条義経自身はともかく、九条良経の実父の九条兼実が法然に帰依していたということもあるが、実際に権力を行使したわけではないが摂政と太政大臣を兼ねているため、議政官の議決に対する拒否権の発動もできるし、議政官の議決を否定して、土御門天皇の名で院宣を全否定する宣旨を出すことも不可能ではない。

 もっとも、そのようなことは、法制上可能であるというだけで実際にその権力を行使することはない。言わば、抜かれることのない伝家の宝刀であるが、拔かれることがないとは言え伝家の宝刀が存在していることは事実であり、ゆえに後鳥羽上皇の行動にも一定のブレーキが掛かっていたわけでもある。

 ただし、元久三(一二〇六)年初頭となると話が変わる。

 まず、九条良経が太政大臣を辞めている。

 そもそも、九条良経が太政大臣を務めることとなったのは土御門天皇の元服の儀のためであり、天皇との血縁関係を理由に天皇の元服のために太政大臣に就いた者は、元服の儀を終えて少ししたら太政大臣を辞めるのが通例となっている。これは、藤原摂関政治のピークでもある藤原道長とて例外ではない。

 この太政大臣という職務の持つ特殊事情は、一人の貴族の行使しうる権力を前提に考えたとき、人臣最高位であろうとかえってデメリットとなると気がついたのが藤原道長だ。藤原道長は太政大臣に就くと議政官の席次を失い、現代の三権分立で言うところの立法府の権限を失うことに着目し、実に二〇年間もの長きに亘って左大臣であり続けることで議政官を支配し、立法権を支配し続けたのである。その藤原道長ですら、元服に伴う太政大臣拝命からは逃れることはできなかったのだ。

 九条良経も藤原道長の先例を知らぬわけではない。しかし、自分以外に資格を有する人物がいないとなると、自分が太政大臣になるしかない。律令制における官職というものは、基本的に降格はない。左大臣と太政大臣とでは太政大臣のほうが格上だ。ただし、太政大臣になってしまったら議政官の一員になる資格を有さなくなるため、残る人生に於いては永遠に立法権から離れることとなる。さらに問題なのは、天皇の元服を前提とした太政大臣への就任はそう長くない未来に太政大臣を辞すことが求められるため、太政大臣としての権力発揮、すなわち、議政官の議決に対する拒否権の発動自体ができなくなる。まさに藤原頼実を政権に中枢から排除するために太政大臣に昇格させたのと同じ構図で、九条良経自身が政権の中枢から遠ざけられることとなったのである。

 九条良経は三八歳にして元太政大臣である専任摂政となってしまったのである。残る人生は、土御門天皇元服から数年後に起こるはずの摂政から関白への転任と、今後起こるかもしれない土御門天皇の次の天皇の元服に伴う太政大臣再任だけである。あとは、自分に手にできている法的根拠を利用して後鳥羽上皇の暴走を食い止めるのが九条良経の役割になる、はずであった。

 その予定が、元久三(一二〇六)年三月七日に突然終わった。

 九条良経死去。

 具体的な死因は記録に残されていない。何者かによって寝所で殺害されたとする説もあるが、記録にはただ三月七日の深夜に寝所で亡くなったとしか残されていないのである。


 朝廷内でただ一人、後鳥羽上皇の出した院宣を白紙撤回できる可能性の持つ人物がいなくなったことで、既存の宗教界は勢いづき、法然らの勢力はダメージを深めることとなった。

 ここでもう少し興福寺と法然との関係を追いかけると奇妙なことが見えてくる、

 興福寺からの要求に基づいて、元久三(一二〇六)年二月一四日に後鳥羽上皇は行空と遵西の両名を流罪にする院宣を出した。普通に考えれば興福寺は要求が受け入れられたことになるのだからここで矛を収めるべきであったが、興福寺の考えは違った。

 後鳥羽上皇の院宣を不服とし、摂政九条良経らに興福寺から使者を派遣し、興福寺をはじめとする既存寺院からの訴えとして法然の処罰を求めたのである。処罰しろと求めてきたので言われたとおりに処罰したら、その処罰に不満を示してもっと重い処罰をしろというのだからムチャクチャな話とするしかない。

 そのときの摂政九条良経がどのような返答を示したのかは不明である。そもそも九条良経は三月七日に亡くなっている。それも突然死している。

 父である九条兼実の記録を求めても満足いく答えは返ってこない。そもそも九条兼実は出家した身であるだけでなく、法然に帰依している。第一線を退いている身である以上、政治に対して何かしらの権力を行使することはできない。権威はあるため九条兼実の発言が無碍に扱われることはないが、議政官において九条兼実の言葉の代言者となることができるのは、九条良経の息子で九条兼実から見れば孫にあたる権中納言九条道家だけである。権中納言であれば議政官における法案審議に自らの意見を述べることが許されるが、このときの九条道家は九条良経の子どもであるということ以外に特色のない一四歳の少年である。藤原摂関家の子息は若くして議政官の一員に名を連ねるのが通例であるから一四歳の権中納言も珍しくはないのだが、若き少年が議政官で権力を発揮するとしたら父や祖父が現役の貴族として健在であることが必要条件となる。最低でも出家はしておらず、議政官の一員もしくは摂政、関白、太政大臣のいずれかの役職を務めている者が背後にいないと、発言権も強固な物とならない。

 かといって、九条兼実が還俗して再び朝廷に舞い戻るのは不可能である。そもそも舞い戻る場所がない。九条良経が亡くなったのだから摂政が空席になったではないかと思うかも知れないが、空席となった摂政には前任の摂政である近衛基通の子、左大臣近衛家実が就任している。九条良経の急死に伴う摂政就任であり、かなり慌ただしい形での摂政就任であったものの、空席は埋まっている。

 これを九条兼実の側から見ると、摂政の地位がライバルである近衛家のもとに移ったことを意味する。法然に対する対処だけを考えると、近衛家は九条兼実と違って法然に帰依しているわけではないので既存寺院からの要求を受け入れること自体は特に問題ないという位置づけである。信仰の問題ではなく、九条家の事実上のトップである九条兼実に対するダメージを与えることができるのだから、寺院勢力からの要求を受け付けることは問題ないというスタンスだ。

 摂政に左大臣近衛家実が就任ことの効果は三月三〇日にさっそく現れた。

 この日、行空と遵西の両名を処罰するという宣旨が布告されたのである。

 同日、法然が行空と遵西の両名を破門にすると宣言したことで興福寺からの要求はいったん鎮静化した。ただ、多くの人はこのときの鎮静化を嵐の前の静けさと捉えていた。


 ここで全く予想すらしなかった人物が事態の収拾に乗りだしてきた。

 一四歳の権中納言九条道家である。

 祖父の意見を受け入れて法然の庇護の意思を示したのだが、このとき、九条道家は自分のもう一つの背後を示したのだ。

 実は、九条道家の母は一条能保の娘である。そして、一条能保の婚姻相手は源頼朝の実妹である。つまり、九条道家は前摂政九条良経の息子であると同時に、現役の鎌倉幕府の将軍である源実朝の従姉の息子であり、九条道家は鎌倉幕府と独自の関係を持てるのだ。無論、九条道家が鎌倉幕府を自由自在に統率できるわけではないが、将軍源実朝の近親者ともなれば鎌倉幕府とて黙っているわけではなくなる。

 それを言うなら九条良経は源実朝と従兄弟同士の関係になるではないかとなるが、鎌倉幕府の他にも自らの権力行使のための要素が存在する九条良経と、鎌倉幕府のむき出しの武力を示す以外に自らの発言権を強める手段を有さない源実朝とでは、鎌倉幕府の存在の匂わせ方が大いに異なる。

 これを興福寺の側から捉えると厄介極まりない事態になったと気づいたはずである。

 法然の側に立っていた摂政九条良経がいなくなり、これでようやく今まで通りの仏教勢力へと戻れると思っていたところで、法然の側に立つと宣言した若者が登場し、しかも自らの背後に武力があることを匂わせたのである。

 九条良経が亡くなったこと、また、この頃に麻疹(はしか)、当時の記録によると赤斑瘡(あかもがさ)の流行も見られたことから改元が検討され、四月二七日に元久から建永への改元が決まり、ただちに布告された。

 改元してもただちに従来の問題が解決するということはなく、改元直後の建永元(一二〇六)年五月に再び興福寺から法然らに強い処分を求めるよう訴えが届き、朝廷では激しい協議が繰り返されたものの、今回はさすがに興福寺の要求に従うわけにはいかないと考えていた貴族が多かったことに加え、権中納言九条道家が背後に控える鎌倉幕府の圧力を暗に示した上で興福寺の要求を拒否するよう訴えたことで、興福寺からの圧力は次第に弱まり、さらに興福寺主導の法然への攻撃網から延暦寺が離脱するなど勢力は弱くなっていった。

 それこそ法然のはじめた浄土宗が堂々と信仰でき、布教でき、既存寺院から脱却する自由も復活したかのようであった。興福寺の従来からの圧力手段である春日神木を用いた強訴も見られることなく、このまま時期が過ぎるように多くの人は感じた。

 しかし、伏線は既に存在していたのである。

 一つは興福寺と近衛家との接近、もう一つは後鳥羽上皇である。後鳥羽上皇に関連する伏線は実際に露顕したときに記すので、興福寺と近衛家との接近について記すと、興福寺は藤原氏の氏寺である。そのため、興福寺の別当、すなわち、興福寺のトップを務める僧侶は藤原氏と関係を持つのが普通である。

 その興福寺の別当が上洛して、摂政左大臣近衛家実の元を訪れた。名目としては近衛家実の摂政就任を祝ってのことであるが、かつてと違っていまや藤原氏は一枚岩ではない。近衛家と九条家が摂関の地位を巡って争い、そこには協力関係などない。摂政は近衛家の近衛家実のものとなったから、藤原氏全体の氏寺である興福寺の別当が摂政就任を祝うために近衛家実のもとを訪問したとなると、興福寺が九条家ではなく近衛家を選んだことを意味するのだ。

 裏を返すと、近衛家は興福寺の僧兵の武力を手に入れることに成功したとも言える。九条家が鎌倉幕府を利用できると示したように。


 さて、九条家が鎌倉幕府を利用した圧力を用いて京都とその周辺からの寺社勢力からの圧力に対抗したことを、肝心の鎌倉幕府は知っていたのか?

 結論から言うと知っていた。

 ただし、黙認であって是認ではなかった。

 九条家と源実朝との血縁関係は理解しているし、鎌倉幕府の武力が一四歳という若き貴族の行使できる唯一のバックボーンであることも理解できている。問題は、その度合いである。

 九条道家自身は問題が無くとも、その周囲にまで問題が波及し、さらには九条家の指針が他にも影響を与えるとなると、鎌倉幕府にとって看過できることではなくなるのだ。

 その象徴的なエピソードが建永元(一二〇六)年五月六日のこととして吾妻鏡に記録されている。

 この日、伊勢神宮のトップを務める従二位大中臣能隆が鎌倉幕府に使節を派遣してきたのだ。

 ちなみに大中臣氏は藤原氏と深い関係がある。いや、血筋で言えば藤原氏のほうが大中臣氏の傍流であるとも言える。何しろ、大中臣氏の一人である中臣鎌足の子孫が藤原氏だ。理論上は中臣が本家であり、その本流を守っているのが大中臣氏、藤原氏は中臣氏の支流であるということになっている。大の文字を冠して氏族としての権威高揚を図るなど苦心したあとが見えるのも、藤原氏になれなかった一族のリアルが垣間見えると言えよう。

 中臣氏、そして大中臣氏は、貴族であると同時に神職でもある。仏教伝来以前は朝廷の宗教界の中軸を担い、仏教伝来に際しては強烈なまでの反発を示し、仏教伝来以後も神道を支え続けてきた大中臣氏は、仏教伝来から五〇〇年近くを経たこの時代にあっても、伊勢神宮のトップをはじめとするこの国の神道の重要位置を占めていた。藤原氏の権勢を認めてはいても、鳥居の内側では藤原氏とて大中臣氏に付き従う存在であるという自負があったのだ。

 話を大中臣能隆からの訴えに戻すと、執事として自分に仕えているはずの加藤光員が、今は鎌倉幕府に仕える身になったとして大中臣氏からの支配を脱し、伊勢神宮の領地を勝手に私有地としてしまったというのである。さらに、鎌倉幕府の許可なく勝手に検非違使に任命されているのも問題ではないかとしたのだ。

 苗字からわかる通り、加藤光員は藤原氏の一員である。佐藤、近藤、遠藤のように苗字の二文字目が藤である苗字は藤原氏の一員であることを示しており、近江国の藤原氏で近藤、遠江国の藤原氏で遠藤、加賀国の藤原氏で加藤、組織の二番目、すなわち(すけ)である藤原氏で佐藤というのが苗字の成立過程だ。大中臣氏からしてみれば、世俗的にはともかく、神社の中においては藤原氏とて大中臣氏より格下であり、しかも藤原氏の本流ではなく支流の、それも、貴族ではなく武士である人間が自分に逆らって土地を分捕るなと到底受け入れられない話である。

 ただ、現実問題、殴り合いになったら負ける。

 そもそも集めることのできる軍勢の数があまりにも違いすぎる。大中臣氏の考えるところの正義を成立させるには、この時代最大の武力集団である鎌倉幕府を頼るのが最も確実である。それに、加藤光員自身が鎌倉幕府の御家人を名乗っているのだから、鎌倉幕府から処罰が発せられれば、加藤光員とて受け入れざるを得なくなる。

 北条義時、中原広元、三善康信といった御家人達が中心となって協議を重ねた結果、鎌倉幕府からの回答が示された。加藤光員が伊勢神宮の所領に侵食していることを非難し、ただちに返却すること、ただし、検非違使の就任については後鳥羽上皇からの直接の任命によるものであるために不問とすること、以上である。

 翌日、加藤光員からの弁明があり、自分が手にした所領は新たに開墾した土地であること、伊勢神宮に対して相応の寄附をしていることも示したため、鎌倉幕府からは加藤光員に対してこれ以上追求しないこととした。また、伊勢神宮の側も検非違使については後鳥羽上皇の任命ゆえにやむをえないこと、所領の保有権について鎌倉幕府が明言したことを以て満足いく回答とし、これで矛を収めることとした。何と言っても、末端とは言え藤原氏の一員が伊勢神宮に屈したのであるから文句の付ける内容ではなかったのだ。


 伊勢神宮は皇室につながる特殊な宗教施設であるために他の寺社と大きな違いがあるが、それでも鎌倉幕府が宗教の権威と後鳥羽上皇の権威を尊重したことの意味は大きかった。

 改元の効果があったのか、それとも伊勢神宮に対する鎌倉幕府からの回答が穏当なものであったのか、建永元(一二〇六)年の夏は平穏な情勢が続いていた。京都も鎌倉も火種が燻っていないと言えば嘘になるが、ついこの前のような混迷は起こっていないように見えていた。

 この頃の後鳥羽上皇の記録を見ても、非道ゆえに眉をしかめることであるのはその通りではあるが、平和で呑気な光景と言えなくもない記録が出てくる。

 建永元(一二〇六)年七月三日、後鳥羽上皇が水泳に熱心になりすぎた末、泳げない近臣たちを二〇名ほど船に乗せて賀茂川に連れ出した後、まとめて突き落として面白がったという、鬼畜というか非道というか、理解しがたいことをしている。

 ちなみに後鳥羽上皇の水泳好きのエピソードとして、宇治川で周囲の者達と泳いだ後に、宇治川から平等院までフンドシ姿の一団となって歩いていったというのがあることは既に述べた通りであるが、その他にも大堰川で信じられないことをしている。

 大堰川のほとりで楽団の演奏を聴いていた後鳥羽上皇は、楽人たちに水練だとして水に入れ、そこで篳篥(ひちりき)を吹くように命じたという。楽人の一人である安部季遠は篳篥(ひちりき)を持ってなかったので陸に取りに上がったが、三宅守正はフンドシの中に篳篥(ひちりき)を隠し持っていたので陸に上がることなく、水に浮かびながら篳篥(ひちりき)を吹いたので後鳥羽上皇に褒められたというのがこのときの伝承だ。事実だとすれば最低なパワハラとしか形容できない。

 なお、後鳥羽上皇のパワハラについては記録に残っているのだが、その翌日以降に、確定はしていないものの後に大きな意味を持つ動きが鎌倉で起こったことが推測されている。

 何があったのか?

 中原広元が公文所別当を辞して隠遁しようとしたようなのである。

 確認できるところでは、建永元(一二〇六)年七月四日に発給された文書に中原広元の名が記されているが、現存する範囲ではその日付以降の文書に中原広元の名が登場していない。つまり、事実上はともかく形式上は公文所別当の地位から中原広元が退いたことになったらしいのである。

 断言できないのは、辞職してから一〇年後の建保四(一二一六)年に中原広元が政所別当に復職したという記録が出てくるのであるが、吾妻鏡の建永元(一二〇六)年の記録を追いかけても、建保四(一二一六)年の記録を追いかけても、中原広元の別当辞任や再就任についての記録も無く、また、隠遁の記録も無い。それどころか、中原広元は別当を辞任していたはずの一〇年間も、これまでと同様に幕府の主要メンバーとして登場し続けているのである。

 中原広元は源平合戦中の元暦元(一一八四)年に鎌倉まで出向いて鎌倉方の一員になった時点で既に従五位上の位階と安芸介の役職を得ていた貴族である。そのため鎌倉では特別な人材であった。ただし、源頼朝のもとに出向く前の中原広元は京都にいる数多くの貴族の一人でしかなく、九条兼実のもとに侍る数多くの貴族の一人でしかなかった。その中原広元が今や鎌倉幕府における文人官僚のトップとして申し分ない活躍を見せている。九条兼実は自分の日記の中で、中原広元が鎌倉で地位を掴み順調に出世をしていることや、鎌倉の代表として京都まで出向いて京都の貴族達と対等に渡り合っていることに、嘆き半分、嘲笑半分の文書を書き記しているが、これは中原広元を活かせなかった九条兼実のほうが失敗であったとするしかない。あるいは、源頼朝の政治家としての高さがあったからこそ中原広元を活かせたとすべきか。

 その中原広元は建永元(一二〇六)年時点で五九歳になっている。年齢だけを見れば第一線から退いてもおかしくない。そして、おそらく中原広元は自らの勇退と後継者への世襲を狙っていたと思われる。


 鎌倉幕府はたしかに既存宗教界の権威を認めたが、それはあくまで伊勢神宮の特殊性を勘案してのものであること、検非違使に鎌倉幕府の御家人を送り込んでいること、検非違使については鎌倉幕府から人員を送り込んでいるが、その任命権は後鳥羽上皇をはじめとする皇室権力に基づいており、鎌倉幕府は協力関係にあること、そして何より、後鳥羽上皇が既存の寺社勢力の強訴に対する強硬な姿勢を打ち出したならば鎌倉幕府としてもその姿勢に同調することは忘れてはならないことであった。

 興福寺をはじめとする寺社勢力にとっては、法然による浄土宗の進展により大ダメージを受け続けていることは無視できる話ではなく、鎌倉幕府の姿勢という大問題は解決していないのだ。しかも、その問題を対処するための強訴は通用しそうになく、足並みを揃えていたはずの比叡山延暦寺も離れたこともあってダメージを回避する(すべ)を失いつつあった。ただ一つを除いて。

 その一つとは何か?

 亡き源頼家の息子である善哉(ぜんざい)が鶴岡八幡宮に預けられ、鶴岡八幡宮の別当阿闍梨尊暁のもとに弟子入りしていることは既に示されており、将来は宗教界に入ることが確実視されていた。後に公暁と名乗ることとなるこの幼児を手中とすることで、既存宗教界は鎌倉幕府に食い込める可能性があるのだ。ただし、そのためには鶴岡八幡宮を離れて京都とその周辺の寺院にまで善哉を連れてこなければならない。僧侶になろうとする者が地方から京都とその周辺の有力寺院に来て受戒することはごく普通のことであり、その有力寺院に自分達の寺院が選ばれれば計り知れぬメリットを享受できる。

 もっとも、そのような寺院勢力の企みを黙って見ているほど鎌倉幕府も甘くはない。何と言っても善哉は数少ない源頼朝直系の男児なのだ。源実朝の身に何かあったら善哉が第四代将軍に就任する可能性だって存在する。その第四代将軍になる可能性のある男児を寺社勢力に取り込まれるのを鎌倉幕府が黙って見ているわけはない。北条政子は祖母として、自分の孫である男児を源実朝の猶子とするよう働きかけ、一〇月二〇日には正式に源実朝の猶子とすることに成功させたのである。これにより、善哉に対する他者からの介入を減らすことは可能となった。そう、あくまでも減らすのであって、無くすのではなかった。

 もっとも、この時点の源実朝はまだ数えで一五歳、現在の学齢で言えば中学生の少年である。跡継ぎがまだ生まれていないと言っても、この年齢で跡継ぎがいないことはまだ慌てる話ではない。善哉を猶子にしたと言っても将軍位継承者の筆頭となるのは考えづらいことであった。そう、この時点では考えづらかった。


 法然の二人の弟子を流罪とするとしたのは元久二(一二〇五)年一二月に後鳥羽上皇が発した院宣である。その翌年に興福寺からさらなる処罰の要求が来たが、そのときは後鳥羽上皇が何かしらのアクションを起こした記録はない。どうやらこの頃の後鳥羽上皇は、法然の浄土宗とも、興福寺らの既存仏教勢力とも、一定の距離を置いていたようなのである。あるいは、前者は胡散臭く、後者は鬱陶しいと感じていたというところか。

 ところが。後鳥羽上皇の感情が一気に法然への反発に傾く出来事が起こってしまったのだ。

 院宣からおよそ一年をへた建永元(一二〇六)年一二月頃、後鳥羽上皇が熊野詣に出かけている隙に、後鳥羽院の女性達が法然の弟子の開催する念仏法会に参加しただけでなく、最低でも女性二人が出家したというのだ。それも、女性達のほうが法然の弟子の元に通うのでなく、法然の弟子を後鳥羽上皇不在の御所に招き入れた上に、一晩をともに過ごしたというのである。ただし、このことは愚管抄であくまでも噂として記されているだけであり、後にこの二人の女性の名を、一人は松虫姫、もう一人を鈴虫姫という名前の女性だったと記した歴史資料が出てくるが、その史料の初出は江戸時代末期、広く見られるようになったのは明治時代からであり、同時代史料には出家した二人の女性の名、あるいはそのヒントとなるものも伝えられておらず、二人の女性の名は江戸時代末期に創作で名付けられたものであろう。

 それでも熊野詣から戻ってきてみれば院で働く女性が何名かいなくなって尼僧になっていたことは確実であり、後鳥羽上皇としては憤懣としか形容できない心情であったろう。おまけに、彼女達は法然の弟子達と性的関係にあるという噂まで広まったのだ。謎の新興宗教団体が院の女性を招き入れて出家させたというのだから、これはもう大スキャンダルである。いったんは鎮静化していた社会問題化が、ここに来てさらに再燃するようになったのだ。正確に言えば、怪しいとされていながら怪しさの痕跡を見つけることができなかったために社会問題化させることに失敗していたところで絶好の攻撃材料を見つけたと言ったところか。

 これは法然や浄土宗そのものに対する攻撃材料を探してきた面々に絶好の攻撃材料をもたらした。しかも、後鳥羽上皇を取り込むことに成功した上での攻撃材料を。

 女性の名は現在まで残っておらず、あるのは後世の創作のみであるが、後鳥羽上皇の御所に入り込んだ僧侶の名が安楽と住蓮であることはこの時代の史料から判明している。さらに年が明けてから徐々に後鳥羽上皇のもとに情報が集まり、建永二(一二〇七)年二月、浄土宗に対する弾圧が始まった。これを「承元の法難」という。なお、承元とはこの年の一〇月に改元した後の新たな元号であり、法難のスタート時の元号はあくまでも建永である。

 これで意味するとこはある程度理解できるであろう。

 ここから書き記すのは、あくまでも浄土宗に対する弾圧のスタートなのである。

 まず、後鳥羽上皇の御所に入り込んだ安楽と住蓮の二人の僧侶に対し死罪を命令。安楽は六条河原で死罪となり、住蓮は近江国馬淵で処刑された。また、西意善綽房と性願房の両名も死罪と決まり、ただちに死が命じられた。

 さらに、二月二八日には法然と、法然の七名の弟子を流罪とすると発表しただけでなく、僧籍も剥奪され民間人へと戻された。法然は藤井元彦と名を改めさせられた上で土佐国へ、法然の弟子の一人である親鸞は藤井善信と名を改めさせられた上で越後国へ配流と決まった。

 そして、浄土宗は布教禁止となったのである。

 ただし、法然については九条兼実の庇護もあり、土佐国に渡る途中の讃岐国に留まることができ、讃岐国でひっそりとではあるが浄土宗の布教を続け、越後に流された親鸞も越後国で布教を続けていたようである。九条兼実は当初、法然に対する流罪そのものを白紙にするよう求めていたようであるが、さほどの日数を経ることなく法然追放を受け入れざるを得なくなっていた。九条家当主となった一五歳の権中納言九条道家を中納言に昇格させると同時に左近衛大将に任命する代わりに法然追放を受け入れろとあっては、九条兼実とて黙るしかない。

 なお、流罪となる前の親鸞の僧名は善信、房の名前も記すと善信房綽空であり、善信の僧名が藤井善信という俗名に転化させられたことから、流罪を機に愚禿釋親鸞(ぐとくしゃくしんらん)へと名を変え、出家しているようでしていない、かといって、俗人であるようで俗人でもない、中途半端な立場を維持することで自らの布教を継続していたとある。ゆえに、建永二(一二〇七)年以前の同時代史料に親鸞という名はなく、以降の史書にはじめて親鸞の名が登場する。

 以上が「承元の法難」の始まりであるが、実はこの記録、いくつか矛盾点が存在する。法然が讃岐国に流され、法然の弟子の一人で新たに親鸞と名乗るようになった僧侶が越後国に流されたことは間違いないのだが。死罪になった四名の僧侶、そして、浄土宗の布教禁止についての記述があやふやなのである。

 まず、安楽と住蓮の二人の僧侶が死罪となったことの記録は、浄土宗の記録と愚管抄にしかない。当時の貴族の日記のどこを探しても存在せず、そしてもっとも肝心なこととして、朝廷の公式記録に存在しないのである。それでも愚管抄には安楽と住蓮の二人の僧侶がこのタイミングで殺害されたことは記しているから、ここで二名の僧侶の殺害があったことは否定できない。そのため、後鳥羽上皇の命令による死罪ではなく、検非違使による逮捕時の殺害があったのではないかとする説がある。検非違使が容疑者を逮捕する際に容疑者を殺害してしまうことの珍しくなかった時代であることを踏まえると、後鳥羽上皇が死罪を命じたのではなく、逮捕を命じたら亡くなってしまったと考えられるのだ。

 次に、西意善綽房と性願房の二名の僧侶であるが、両名とも後世の浄土宗の記録にはじめて登場する僧侶であり、この時代の史料には存在しない。つまり、自分達の被っている法難の被害をより強調するために生みだした架空の人物、あるいは、この頃に病気や事故で亡くなってしまった浄土宗の僧侶を法難の被害者の一人とカウントしたのではないかとする説が出てくる。

 そして最後に布教禁止であるが、実は肝心のこの記録が存在しないのだ。浄土宗や、後に成立する日蓮宗の記録に、建永二(一二〇七)年に布教禁止を命じる動きがあったことを記しているものの、具体的にいつ頃に布教禁止を命じたのか不明なのである。先に建永二(一二〇七)年二月のことと記したが、実際には一月中に、布教禁止ではなくより弱い形での布教の制限があった可能性が高い。後鳥羽上皇が命じたのは浄土宗の面々のうち問題を起こした人物についての処罰であって、浄土宗そのものの行動停止ではなかった可能性が高いのである。


 法然の浄土宗に対する弾圧をくいとめる最大の盾となっていたのは、鎌倉幕府の武力を背景にした九条家であり、九条家の当主たる中納言九条道家である。

 信仰の自由を守るというより、浄土宗への弾圧を求める興福寺ら既存勢力を利用する近衛家に対抗するために、自らのバックボーンを圧力材料として利用しつつ、浄土宗への弾圧を否定するという自らの姿勢を打ち出したと言えよう。

 九条道家自身がそのことを考えたのか、あるいは九条家の思惑を打ち出した結果か、九条道家はよくやっていたとするしかない。ただし、彼はまだ若かった。若すぎた。何しろまだ一五歳だ。九条家の名を前面に掲げ、鎌倉幕府の圧力を背景にして、それでようやく中納言としての権勢を振るうことができるというのが、議政官における九条家当主九条道家の立場であった。

 その立場をさらに弱めてしまったのが建永二(一二〇七)年四月五日のことである。この日、九条兼実が五九年間の生涯を終えたのだ。九条兼実は建久七年の政変で地位を追われ、出家して仏門に入った後は、表向きは政界を離れたということになっていたが、何と言っても藤原摂関家である九条家のトップだ。九条家当主の地位が息子の九条良経、孫の九条道家のもとに移っても、九条兼実の存在はなおも大きいままであり、九条道家が議政官で発言をするとき、議政官の他の面々は若造の発言ではなく、かつての摂政関白太政大臣九条兼実の発言として受け取ったのだ。

 九条兼実の日記は死の四年前である建仁三(一二〇三)年一月五日で終わっている。ゆえに、息子の九条良経の突然の死に際して、九条兼実がどのような心境であったかを伝える歴史資料はない。しかし、それからの九条兼実のプライベートの様子を伝える史料は存在する。藤原定家の日記がそれで、藤原定家によると、前年五月の時点で既に九条兼実は病気に苦しみ、自らの命の終焉を覚悟していたようである。その上で、孫の藤原道家を支え、帰依している法然の助命嘆願として後鳥羽上皇に使者を派遣している。九条兼実が病床にあって一五歳の孫を懸命に支えていたことは誰もが知るところであり、そのこともあって九条道家の発言は議政官で受け入れられたのだ。武力も、権勢も、無視できるものではないが、人道もまた、無視できるものではない。

 後鳥羽上皇は浄土宗を、そして法然を許すことはなかったが、法然の命を助け出そうとする九条家を後鳥羽上皇は保護するのである。たしかに浄土宗の伸張は看過できるものではなかったが、かつての白河院や鳥羽院の頃のように既存寺院の勢力には無力である院という構図を受け入れるわけにもいかない。また、摂政関白の地位が近衛家に戻ったことは、恒久的ではないにせよ藤氏長者が近衛家のものとなったことを意味する。そして何より、九条家は鎌倉幕府の武力を利用できる立場にある。

 これらを考えると、後鳥羽上皇が九条家を保護するというのは間違った選択ではないと言えよう。

 それに、後鳥羽上皇はこれまでずっと年少者として自分より歳上の人達とばかり接してきた人生であった。その意味でも、九条道家や源実朝といった、自分より歳下でありながらトップとして支えなければならなくなった人物に対して親近感を抱くのは理解できよう。


 後世から見ると、幕府とは一つの政治機構であり、筆者がこれまで何度か記してきたような現在の政党に比する組織であるが、この時代の人達にとってはそうではない。

 そもそもこの時代に幕府という概念などない。

 今に生きる我々が鎌倉幕府と呼ぶ組織が登場したときも政治組織として誕生したわけではない。あくまでも上級貴族であれば誰もが保有する家政機関の応用で誕生した組織であり、この時代の人達は鎌倉幕府という組織が京都から遠い地に存在することを認識してはいても「幕府」という特別な名で呼ぶことはなかった。場所が相模国鎌倉であるという一点では特異であるものの、源頼朝という上級貴族の家政機関を、源頼朝の死後に同じく上級貴族となった源頼家が継承し、さらに源実朝が継承したという認識であった。源実朝は藤原摂関家の人間ではないため位階はまだ低いが、このまま行けば父や兄と同様に上級貴族の一員になることは確実視されており、後の世の人が鎌倉幕府と呼ぶことになる家政組織を一六歳にして統率していると見做されていたのである。

 その意味で源実朝は、九条道家と比類して見られることが多くなってきていた。父である九条良経の死によって九条家の当主となった上に祖父も亡くなった一五歳の九条道家と、父の急死に加えて兄の突然の病気のために鎌倉幕府のトップになった一六歳の源実朝とは何かと比べられる運命にあった。その上で、源実朝は九条道家と比べると少し影が薄いと見られるようにもなっていた。

 トップに立ってからの歳月は源実朝のほうが長いが、鎌倉幕府はゼロからの組織構築の過程であったのに対し、九条家には藤原摂関家としてのノウハウを積み重ねてきた過去がある。また、鎌倉から離れないでいる源実朝と違って九条道家は京都にいる。つまり、政務に対するインパクトとなると九条道家のほうがインパクト面で優位に立つ。実際、議政官における若き中納言九条道家の存在は徐々に大きくなっていた。父も祖父もいなくなったがゆえに意気消沈するのではなく、父も祖父もいなくなったからこそ自分が支えなければならないという使命感で九条家の存続を一手に引き受ける姿勢が高く評価されたのである。

 これに対し源実朝は、ここ数年のゴタゴタの影響もあって少し見劣りするように捉えられていた。特に京都の新たなスターとなってきていた平賀朝雅を死に至らしめてしまったこと、また、京都守護としての経験もあり源平合戦後の京都で存在感を見せつけた北条時政を追放したことは、源実朝個人にはいかに責任がないこととされようと、鎌倉幕府という組織に対する不信感を伴った上で、源実朝に対するマイナスイメージを植え付けるに十分であった。

 平賀朝雅の死はイメージ構築に対するマイナスであったが、北条時政がいなくなったことはイメージ構築だけでなく鎌倉幕府内部の政務処理においてもマイナスであった。源頼朝が健在であった頃は源頼朝の権威があまりにも強固であるため、属人性を考慮する必要もなかった。源頼朝が亡くなり源頼家が新たなトップに立ってはじめて属人性が露顕化したが、それでも問題なかった。しかし、一人、また一人と鎌倉幕府の主要人物が退場していったことで組織が停滞し、ついには北条時政もいなくなったことで諸々の政務が停止する光景すら珍しくなくなったのだ。中原広元や三善康信といった文人官僚が鎌倉にいるし、彼ら一人一人の事務処理能力は、京都の朝廷や院、貴族の家政機関に勤める文人官僚と比べても遜色ないものがあったが、組織を統轄するという点になると見逃せない問題が露顕したのだ。

 北条時政は武人として一流とは言い切れなかったが及第点ではあった。そして、文人官僚としての能力は申し分なかった。それに、何と言っても源実朝の実の祖父であるという点は北条時政の発言や行動を強く裏付けた。その北条時政がいなくなり、誰も北条時政の穴を埋めることができなくなっていた。

 ただ一人を除いて。

 その人物の名は、北条義時。

 時間が少し遡ることになるが、現時点で確認できる鎌倉幕府の発給書類のうち、北条義時単独の署名のある書類の最古は、元久三(一二〇六)年三月二九日に発給された「関東御教書」である。

 御教書(みぎょうしょ)とは三位以上の貴族に仕える者が主人の意思を奉じて発給する文書であり、この時点ではまだ三位以上の位階に到達していない源実朝の家臣達は御教書を発給する権利を有さない。しかし、北条義時は源実朝だけでなく源頼朝にも仕えていた過去があり、源頼朝の最高位階は正二位であるから、源頼朝に仕えていた先例を踏まえると北条義時は御行書を発給する権利を有している。

 それだけなら北条義時以外の者でも御教書を発給できるではないかとなるが、実際には北条義時ただ一人とまではいかなくとも、鎌倉幕府の御家人の中で御教書を発給する権利を有している数少ない者のうちの一人となる。

 どういうことかというと、北条義時は正五位下という低い位階ではあるものの、また、緊急事態に備えた結果であるにしても、相模守を務める国司でもある。つまり、鎌倉幕府の御家人であると同時に朝廷に仕える貴族でもあるのだ。

 何度か記しているが、政所というものは本来、三位以上の位階を持つ貴族でないと設置できない家政機関である。そして、この時点の源実朝の位階は従四位下であるため政所を置く資格を有していないこととなる。つまり、源実朝の位階が三位以上となって政所を置く資格を有するまでの間は、鎌倉幕府に仕える御家人でありながら貴族の一員とカウントされ、かつ、正二位まで務めた貴族に仕えてきた記録も存在する北条義時の署名があるからこそ、御教書が政所の発給文書に相当する文書であるという扱いとなったのである。

 北条義時はここにきて、父の穴を埋めるキーパーソンの座に名乗り出たのだ。

 源実朝の叔父であり、源実朝の実母の最大級の協力者であり、源頼朝挙兵時からの鎌倉方の一員であり、相模守も務める貴族の一員でもあるという一連の背景を積み重ねれば、北条時政の後釜としてどうにかなる。ただ、吾妻鏡を追いかける限りでは源平合戦からの北条義時についての足跡もそれなりに見えてくるのだが、それでも鎌倉幕府第二代執権の経歴としてはかなり弱いとするしかない。吾妻鏡以外の史料となると、そもそも北条義時についての記録自体が存在しない。ある日突然、源実朝の叔父が登場したといった感じだ。吾妻鏡以外の公式記録に限って言えば、元久元(一二〇四)年三月六日に従五位下相模守としていきなり北条義時こと平義時が登場する。北条時政の娘が源頼朝の妻であることは周知の事実であるから、北条時政の後継者として、北条時政の息子であり、かつ、鎌倉の征夷大将軍の叔父でもある四〇代の人物がいきなり登場したといったところか。

 それでいて、これまでの鎌倉幕府の御家人達の行動を追いかけると、多くの御家人が北条義時を選んでいることがわかるし、この後の歴史をおいかけても北条義時は常にマジョリティであることが読み取れる。鎌倉幕府の御家人達の足跡を追いかけると、北条義時と行動を共にすれば鎌倉幕府の内紛での勝者になれると確信しているかのようだ。仲間殺しや内紛は社会運動の通常パターンだと言ってしまえばそれまでだが、それでも最終的な勝者となったのには理由が存在する。

 そこで北条義時の人生を追いかけてみると、この人には独断専行が存在せず、行動する際には必ず周囲と協力して来たことが読み取れる。

 北条家によって編纂された後世の歴史書であるためにバイアスが掛かっている点を差し引いても、吾妻鏡に記されている北条義時の政務についての記載は北条時政と大きく異なる。北条時政の場合は北条時政の独断専行の痕跡が見えるのに対し、北条義時の政務は協議の末の行動である痕跡しかなく、北条義時の独断の痕跡が全く見えないのだ。北条義時が中心となってはいても、その周囲には必ず中原広元、三善康信、二階堂行光といった御家人たちが存在し、数々の決定がそうした御家人達との協議の結果であることが書き記されているのである。

 そのことがよくわかるのが北条義時の手による御教書の数である。北条時政の御教書は最低でも二六通が現存するのに対し、北条義時の御教書は贋作の可能性がある文書を含めても五通しかない。源実朝が昇叙して政所を設置するまでの間、御教書を発給する権利を有していたのは、北条時政が二年間、北条義時が四年間である。つまり、北条時政の倍の期間がありながら、北条義時は御教書の発給回数があまりにも少ないのである。

 歴史上、北条義時に対する悪評は多々存在したが、独裁という悪評は無い。そのような評価があったならば見当違いな悪評とするしかない。

 北条義時は独裁を望んでいたのに独裁を諦めたのではない。北条義時には最初から独裁という考えがなかったのだ。

 そもそも北条義時の権力の源泉は徹頭徹尾血縁によるものである。姉が源頼朝と結婚したおかげで源頼朝の身内になることに成功し、そのまま流されるように鎌倉方の一員として源平合戦を乗り切って鎌倉幕府の御家人となった。

 さらに言えば、源頼朝挙兵前の北条家の勢力は御世辞にも強力と言えるものではなく、北条義時が行使できる権力は北条家に由来するものではなく将軍家との血縁関係によるものしか無いのだ。北条時政は伊豆国の在庁官人の一人として朝廷組織に組み込まれていた人物であり、大番役として京都に赴いて勤務した経験があるため、北条家そのものの勢力は強くなくとも北条時政個人ならば伊豆国限定でそれなりに名のある人物とも言えたが、その息子となると本拠地である伊豆国においても無名とするしかなかったのである。しかもこの人は、途中まで北条家の後継者と見倣されてもいなかった。北条家から分かれて新たに誕生した江間家の人物であるとされ、途中までは北条義時ではなく江間義時と呼ばれていたほどだ。

 元々の勢力の弱い北条義時にとって、自分が何かしらの影響力を行使しようとすれば、姉を通じた血縁を利用して将軍家との近さをアピールしただけでは不足しており、他の御家人の協力を得なければ北条義時は自らの立場を失う。

 その意味で、鎌倉幕府においてより強い権勢を持っていたのは、北条義時ではなく北条政子であったと言える。将軍源実朝の実母であるだけでなく、彼女は実父の北条時政も追放し、実の息子にして先代将軍であった源頼家も追放した過去がある。しかも、この追放は鎌倉幕府という組織全体にポジティブな結果を残したのだ。一人の娘として、あるいは一人の母親として彼女を見たとき、その覚悟の前に誰が文句を言えようか。北条政子は父の追放も息子の追放も鎌倉幕府のためを思って遂行したのだ。

 それでいて、北条政子は気遣いを欠かさなかった。伊豆に幽閉した源頼家のもとに北条政子から書状が送られていたことは知られており、(おおやけ)にはなっていないものの母として息子を気遣っていたことは多くの人の知ることとなっている。

 鎌倉幕府のために厳しい態度を示しながらも、プライベートでは母としての優しさを見せている北条政子のことを多くの御家人は敬意を持って接しており、その敬意は北条義時にも波及していた。しかも、北条義時は出しゃばるような性格ではない。あるいは、目立つことが自分にとってダメージになることを理解している。目立つことなく黙々と職務を遂行し、プライベートでは姉を支え、叔父として将軍と接する姿勢を取り続けることで、北条義時は自分の敵を作らせないことに成功したのである。


 中学あたりの歴史の教科書だと、鎌倉幕府のトップは誰であるかという表で、源実朝までは将軍がトップ、源実朝の死後は執権がトップであるとして列挙している教科書がある。そして、北条義時は鎌倉幕府第二代執権と記されている。

 と同時に、源実朝の将軍在籍期間と、北条義時の執権在職期間とは重なっていることは全く無視している。ついでに言うと初代執権としてカウントされている北条時政の執権在職期間が源実朝だけでなく源頼家の将軍在籍期間と重なっていることも無視している。これは多くの教科書で変わらない。

 つまり、そうした教科書の表に従えば、鎌倉幕府の草創期には同時期に二人のトップが鎌倉幕府に存在していたこととなるのだが、このことについて教科書などではあまり深く記さないでいる。記したとしても、源実朝は政務に関心を持たず和歌を詠む日々に明け暮れていたとか、この頃の鎌倉幕府の実際の政務は北条義時らの御家人達、あるいは実母の北条政子が司っていたという書き方になっている。

 しかし、こうした教科書の解釈は正しいと言い切れない。確かに源実朝は建永二(一二〇七)年時点でまだ一六歳である。若くして元服を迎えさせられたために表向きは大人という扱いになっているが、実際にはまだ少年だ。その少年を、源頼家だけでなく源頼朝と比較して捉えるのだから、どうしても見劣りしてしまう。ゆえに、鎌倉幕府の実務は北条家の執権が握っており、将軍は飾り物であったとする解釈の登場する余地もあるといえばある。

 実は、北条家に実権があるかどうかはともかく、この頃の源実朝は同時代の人達からも鎌倉幕府の理論上のトップではあっても実権まで有するトップであるとは見られていなかった。

 これは、比較対象が源頼朝であるという点に加え、同年代ということでどうしても九条道家と比べられてしまう宿命も無視できない。ただ、前者はともかく、後者はフェアではない。九条道家の属する九条家にはこれまで藤原摂関家の培ってきた摂政関白を育成するための帝王教育があるのに対し、鎌倉幕府内部にはまだ将軍育成のための教育など存在せず、若き源実朝をあるべき将軍へと成長させる教育は全くの手探りだったのだ。

 ゆえに、この時点の源実朝に対する評価はマイナスイメージを伴ったものであるという前提を考えねばならず、後世に生きる我々は、当時の評判ではなく、確認できる功績によって判断しなければならない。

 源実朝が和歌に耽溺したのはその通りである。新古今和歌集に感銘を受けたのもその通りである。しかし、この時代の和歌は貴族として必須の素養であり、梶原景時や、その息子の梶原景季のように、当時の貴族と互角に渡り合えるだけの和歌に対する造詣を持った武士も珍しくなかった。そして、源実朝の時代は他ならぬ治天の君たる後鳥羽上皇自身が和歌に耽溺している人物である以上、源実朝が和歌に深くのめり込むことはメリットこそあれデメリットの全く無いことであった。和歌への造詣を深めることを非難するのは、この時代の貴族に求められる素養を有さない者の悔し紛れの言葉でもあったのだ。

 さらに、この時代の鎌倉時代の文書を追いかけると、もっとも古くて元久二 (一二〇五)年の年末から源実朝の名前の署名のある文書が登場してくる。北条義時は御教書を発給する資格を有する一方、源実朝はまだ三位以上の位階を持つ貴族でないため政所を置くことができず、政所に由来する事務文書の発給はできない。しかし、鎌倉幕府内部に留まる文書ということであれば将軍源実朝の署名のある文書を発給できる。そのスタートは元久二 (一二〇五)年まで遡ることができ、建永元(一二〇六)年の年末には珍しくなくなっていた、すなわち、将軍としての職務を問題なく遂行するようになっていたと判断できるのである。


 和歌と源実朝との関係で特筆すべきエピソードが建永元(一二〇六)年一一月から一二月のこととして吾妻鏡の記録に残っている。

 東重胤という御家人が休暇を取って所領のある下総国に戻ったはいいが、それから数ヶ月に亘って音信不通になってしまったのだ。源実朝は東重胤に対して和歌を二首送った。鎌倉に戻ることを促す和歌である。これについても東重胤からの返信はなく、これに怒った源実朝は鎌倉に戻った東重胤との面会を拒否すると明言した。これが一一月一八日のことである。

 この知らせで慌てて鎌倉に戻った東重胤は源実朝との面会を求めるが、当然ながら源実朝からの返答は面会拒否というもの。これに困った東重胤は様々な手を尽くすがどうにもならず、一ヶ月以上を経た一二月二三日に北条義時に頼み込んで源実朝との謁見を用意してもらうも、北条義時からの頼みでも当初はうまくいかず、源実朝が和歌を送ってきたならば東重胤の側も和歌を送り返すべきであるとし、その場で詠んだ和歌を北条義時に託して源実朝に届け、源実朝は東重胤の詠んだ和歌の素晴らしさに感銘を受けて面会拒否を解除し、東重胤と面会して下野国の情勢を聞いたという。

 このあたりの記載はどこまで正しいかわからない。東重胤のエピソードは吾妻鏡に準拠しており、何と言っても吾妻鏡は北条家にとって都合良く編纂された歴史書である。

 東重胤の父親の東胤頼は歌人としての才覚も高く、東重胤が父から手ほどきを受けていたことは推測されるが、東重胤個人の記録を追いかけると建久六(一九九五)年から登場し、正治元(一一九九)年の梶原景時弾劾署名にその名が残されていること、この後のこととなるが滝口武者として京都に上洛していることから、単なる和歌の才覚だけではなく武人としての資質も高かった人物であると読み取れる。

 奇妙なのは北条義時がここに絡んでいるという一点である。

 東重胤が和歌の才覚のある人物であったことはその通りであろう。

 源実朝の和歌については言うまでもない。

 ただ、この二人の間を取り持つ人物が北条義時である必要性がどこにも無い。

 そこでこのような推測が立てられる。

 そもそもこのエピソード自体が、源実朝を和歌に耽溺する人物として描き、北条義時は御家人達と将軍との仲を取り持つ慈悲深き人物であったとして価値を高めるため、エピソードを捏造したのではないか、と。

 他の記録を追いかけてみても、吾妻鏡における源実朝の行動のうち、このときの行動だけ異質なのである。源実朝の若さからの暴走であった可能性は否定しないが、吾妻鏡だけを追いかけると、源実朝はこのときだけまるで別人になってしまったかのようだ。これは不自然に過ぎる。


 何度も記しているが、吾妻鏡は鎌倉幕府の正史であるものの、北条家にとって都合良く編纂されている歴史書でもあるために、信憑性という点で疑念を抱くべき記事が多々散見される。

 とは言え、全く信用ならない歴史書であるかと言われると、それも違う。同時代の貴族の日記をはじめとする他の資料と照らし合わせても完全に合致する、あるいは、京都と鎌倉とのタイムラグを考慮すれば納得のいくズレのある記録が見られることもあり、それらを踏まえると申し分ない歴史資料として通用することも珍しくない。

 その顕著な例が建永二(一二〇七)年の夏の記事である。

 同年六月の吾妻鏡は、六月だというのに三月か四月のような寒さであるという記録から始まるが、そのあとが不吉である。

 多くの者が病気がちになったというのだ。

 同種の記録は京都の貴族の日記からも読み取れる。藤原定家の日記によると建永二(一二〇七)年に四月三〇日に京都で大火があったことが記されているが、この大火はそれから始まる地獄のスタートでもあった。

 夏になると天然痘の流行が観測されるようになったのだ。

 さらに不穏な記録が六月二二日から六月二四日にかけて登場する。源実朝の義父にあたる大納言坊門信清からの使者が鎌倉に到着したのだが、その内容は不穏なものであった。

 紀伊国の民衆が高野山に入り込み、狩猟をし、さらには高野山金剛峯寺の年貢を奪っていったというのだ。しかも、この騒動を首謀したのが和泉国と紀伊国の守護を務める三浦義連の代官だというのだから穏やかではない。金剛峯寺は直ちに園城寺を通じ、さらに坊門信清を通じて、鎌倉幕府に対してこの騒動を止めるよう訴え出たのである。

 鎌倉幕府としてもこの訴えを受け入れないという選択肢はなかった。何しろ、三浦義連が亡くなったのちに、同職の後任を新たに任命していなかったのだ。つまり、守護が空席となっているところに守護の代官が勝手に民衆を率いて高野山に攻め込んでいったという図式になるのだが、これは単に代官を責めれば済む話でも、後任の守護を任命して派遣すれば済む話でもない。どうして攻め込んでいかなければならなかったのかを考えなければならないのだ。

 守護の代官を務めるパターンは二種類あり、一つは守護に任命された御家人の家臣のうちの誰かを任命して現地に派遣するというもの、もう一つは在地の者を任命するというものであり、三浦義連の代官を務めた者の名前を吾妻鏡は記していないことからも、今回の場合は後者であることが推測できる。

 すなわち、三浦義連とその上に君臨する鎌倉幕府を選ぶか、それとも地元の民衆の訴えを選ぶかという選択肢が示された場合、後者を選ぶ者が守護の代官であったのだ。

 なぜ後者を選ぶのか?

 それだけ生活が苦しいことを身近に感じているからだ。

 鎌倉幕府から派遣されているなら地元の声より鎌倉の意見を選ぶが、地元から選ばれたならば、耳を傾ける相手は鎌倉幕府ではなく地元の声になる。

 高野山に勝手に入り込んで狩猟をすることも、さらには高野山金剛峯寺の年貢を奪うことも、どちらも犯罪であることぐらい理解している。それでも犯罪に走らなければならなかったのは、それだけ生活が苦しいからだ。夏なのに気温が上がらないとなると、この年の収穫が期待できないことを意味する。それでも一年だけならどうにかなるかもしれないが、ここ千年間の年間気温の推移を調べる限り、低温は建永二(一二〇七)年だけではなく、前年も、前々年も起こっていることが読み取れ、収穫が満足いくものでは無かったことも読み取れる。つまり、六月ともなると、前年の年貢の支払いを終えた後の残りが乏しくなっていることが読み取れる。それだけでも一大事なのに天然痘の流行が重なったのだから、一家の働き手を失う者も現れるし、働き手を失わなかったにしてもこの年の収穫に大ダメージを受けること間違いないという家庭も現れる。こうなったときに実感するのは未来への絶望だ。それが犯罪だとわかっていても、生きるためには犯罪に手を染めなければならなくなる。生きるために犯罪に走ることを考えた者の意見を汲み取り、三浦義連の代官は自分が主導することで責任を自分が背負い、その代わりに和泉国と紀伊国の庶民が生きていけるようにしたのだ。

 高野山からの請願に対する鎌倉幕府からの回答は、和泉国と紀伊国の守護の地位を空席とし、その代わりに後鳥羽院の庇護を求めるというものであった。和泉国も、紀伊国も、ここ二百年ほどの一大レジャーとなっている熊野詣の経路にあたる国である。そして、後鳥羽上皇も熊野詣を嗜んでいる。その延長で、後鳥羽上皇に庇護を求めることで、鎌倉幕府はこの両国の統治から手を引くことを選んだのである。これにより、実情はどうあれ、名目上は鎌倉幕府の組織図に組み込まれている和泉国と紀伊国の守護の代官はその職を失うのだから、高野山としては請願に対する回答が示されたと納得するしかない。失われた年貢については諦めなければならないし、周囲の民衆の生活苦という問題が解決したわけではないので、一見すると鎌倉幕府はかなり無責任な回答を示したこととなるが、守護の本来あるべき役割である令制国単位での武力を用いた治安維持という点では、それまで守護たる三浦義連のもとに仕えていた武士達がそのまま現地に留まり続けるので、主君が守護から後鳥羽院に変わったものの、その役割を放棄してはいないとも言える。

 鎌倉幕府が提示したこの措置は後鳥羽院からしても悪いものではない。そもそも、令制国ごとに守護を、荘園毎に地頭を置き、その土地の治安維持を保証する代わりにその土地からの年貢徴収の権利を有するという仕組みであるものの、その仕組みで大ダメージを受けることとなったのは治安を乱す盗賊ではなく荘園領主のほうであった。源頼朝は律令に定められた税にプラスして鎌倉幕府への年貢を徴収するという構図を作りあげることで、荘園住民には減税をもたらしながら、鎌倉幕府の財源を確保するというミラクルを成し遂げていたのだが、それは荘園領主に対して年貢徴収を断念しろと言っているに等しい。この不満は極めて強く反発する向きも強かったが、鎌倉幕府相手に武力で抵抗するなどできない。できるのは、どうにかしてこれまで通りの年貢徴収を認めてもらうように鎌倉幕府に懇願することだ。そして、この懇願が受け入れられるケースは稀であり、稀であるがゆえに鎌倉幕府が行使できる特権でもあった。

 こうした恩恵は小出しにするよりも一度に大量に付与すると大きな効果をもたらす。しかも鎌倉幕府からの提示は個々の荘園領主ではなく後鳥羽上皇のもとへの権力委譲であるため、和泉国と紀伊国の二ヶ国限定ではあるものの、後鳥羽院に仕える身になるだけで鎌倉幕府に奪われた年貢徴収権を取り戻すことが可能となる。しかも、荘園の治安維持についてはこれまで通り鎌倉幕府の武士達が取り仕切っている。ただし、事実上はともかく理論上は院に仕える武士となるため、治安を乱す者があれば後鳥羽院の命令で鎌倉幕府の武士が動くこととなる。

 これは多くの貴族や寺社にとって、後鳥羽院のもとに仕える最高の理由となる。地頭が荘園に居座っているために、源頼朝以前とまでは行かないにしても、それまでのゼロ回答から、多少ではあるものの荘園からの収入を得られるようになったのである。

 当該地域の荘園住人としては増税になるので負担が増えるものの、鎌倉幕府からは後鳥羽院の熊野詣が移管の理由に挙げられているので黙るしかない。しかも、和泉国と紀伊国はこの時代の一大レジャーである熊野詣のルート上にある令制国だ。飛行機で目的地まで直行するなど存在しないこの時代、現在でいうところのインバウンド需要は目的地だけでなく経由地の全てが恩恵を預かることとなる。増税があっても特別収入が増えるならばトータルの収支はプラスになる。

 それに、建永二(一二〇七)年の夏は普通の夏では無かった。気温が低く例年通りの収穫が見込まれないことに加え、天然痘の流行も見られるとあっては、ここで守護を不在とし後鳥羽上皇のもとに移管することでインバウンド需要を増やすことを目論むのは統治者として許容できる内容であろうし、受け取ることとなる後鳥羽院としてもその理由は納得できる話である。

 ただ、この納得も限度がある。

 何であれ、これが最悪と考えられるのならば耐えられる。

 この年の夏は限度を超えてしまった。単なる冷夏ならまだしも、天災と人災が重なってしまったのである。建永二(一二〇七)年七月五日に安芸国の厳島神社が焼失したのをはじめ、七月九日には畿内で大風雨が暴れ回り、七月一九日には鎌倉でも暴風雨が吹き荒れ、死者を数えるまでになってしまった。ただでさえ天然痘に悩み苦しむ人が増えているところに加えてのこの仕打ちは、未来に対する絶望を抱かせるに十分であった。

 何かが起こっていると感じたとしてもおかしくはない。それも、人間がどうにかできるような何かではなく、人智を超えた何かが起こっていると感じてもおかしくない。しかも厄介なことに、それらは青天の霹靂ではなく、ここ数年の不安定の蓄積の末に発生している何かなのだ。暴風雨の被害を受けた田畑は数知れず、被害を受けなかったとしても冷夏のせいで満足な収穫を残さない。おまけに不作は前年から続いているのだから余剰などどこにもない。

 そのような世情のとき、現在では不可能でも、当時ならば可能な施策が一つだけ存在する。

 改元がそれだ。

 前年に改元したばかりではないかというのは改元を回避する理由にならない。この国に元号が導入されてから建永まで一一二の元号があるが、うち三九の元号が三年間以下しか続かず、二年未満で改元した元号も一三を数える。この時代の人達にとっての改元とは、現代人の感覚で言うと内閣総辞職と新内閣発足ぐらいの、大ニュースではあるものの珍しくもないニュースという感覚だ。

 平成から令和への改元は、改元があるという話が前年には既に決まっているだけでなく、新元号が改元の一ヶ月前に発表されるという異例づくしの改元であり、この時代の人達の改元に対する認識を知る際の参考にはならない。通常の改元は、噂程度は広まるものの、何の前触れもなく発表されるものである。

 その噂は一〇月二五日に成就した。

 建永二(一二〇七)年一〇月二五日、承元へ改元。


 無論、改元したところで天候が回復することもなく、天然痘が鎮静化することも無い。

 それどころか、改元後には鎌倉で天然痘が猛威を振るうようになるのである。

 吾妻鏡はこのあたりのことをぼやかして描いているが、承元への改元の少し前から源実朝が病気を理由に鶴岡八幡宮での催事を欠席していること、承元元(一二〇七)年の一二月には源実朝の病状回復を祈るための転読が行われたこと、年が開けた承元二(一二〇八)年の正月の儀式も源実朝の病気を理由に延期となり、延期の末の開催も北条政子が息子の代わりに参加したことを記している。

 それは何かをひた隠しにしているかのようであり、この時期に発給された幕府の文書を紐解いても、まだ従四位上であるために三位以上の位階を得ていないと開設できない政所の名を利用していることがわかる。北条義時の名による御教書ではなく、政所としての文書発給をしているのだ。政所の名による文書発給であるならば、最悪、鎌倉将軍が不在でも文書は発給できる。あくまでも三位以上の位階を持つ貴族が病気等の理由で文書に名を記せないという体裁にすればどうにかなるのだ。

 ただし、ここにはウラがある。

 政所発給の文書として確認できるのは後の日付の文書なのだ。建保四 (一二一六)年八月一七日発給の文書の中に「去る承元元年十二月日当家政所下文」という記述があることから承元元(一二〇七)年一二月に政所発給の文書が存在していたことされるのだが、その実物は存在しないのである。

 文書の発給は一枚の紙を書き記せば終わりというわけではない。同じ内容の文書を二通用意し、一枚を渡して一枚を保管するようになっている。このようにして偽書を防ぐのが通例なのだが、保管する文書が残っていないのである。かといって、全くの偽書であるとは言い切れない。どういうことかと言うこと、承元二(一二〇八)年一月一六日に三善康信の邸宅が火災に遭ってしまったのだ。名越にあった三善康信は単なる邸宅ではない。三善康信の邸宅の中に三善康信個人の集めてきた文書や書き記してきた日記、問注所として下してきた裁判記録、さらには幕府公式の文書の控えも保管していたのである。

 その邸宅が焼けてしまったために、鎌倉幕府の公式な文書の多くが灰になってしまったのである。

 裏を返せば、その時点までに発給された鎌倉幕府からの文書のうち、政所としての文書発給について朝廷から咎められた場合、火災を理由に政所としての文書発給が偽書であると言い逃れできることとなる。無論、咎められなければ、本来なら許されざる政所としての文書が正式な文書として通用することとなる。

 鎌倉幕府に何かしらの異常事態が起こっていることをひた隠しにしていることを朝廷も後鳥羽院も察知していたようであるが、その詳細を掴めずにいた。

 事情は理解できていた。今の鎌倉幕府のトップに立てる人物は源実朝しかいないのだ。その源実朝が病気を理由に公式の場から姿を消している。これは何かしらの異常事態か起こっているとするしかない。

 鎌倉幕府が源実朝の病状を正式に公表したのは承元二(一二〇八)年二月三日のことである。

 源実朝、天然痘罹患。


 奈良時代の天平年間に日本中に広まった天然痘は、当時の日本列島の人口の三分の一を死に至らしめたという大災害であった。

 それから何度も天然痘は日本中で流行し、天然痘に罹患したことで命を落とす者、また、命を落とさなかったものの生涯消えることの無い痕跡に苦しむ者が現れた。それは日本に限ったことではなく世界中で見られたことであり、一九八〇年に世界保健機関(WHO)が根絶宣言をするまで人類は天然痘に苦しめられてきた歴史を持っている。

 現在でこそ根絶できた天然痘であるが、今から八〇〇年前は当たり前の病気であり、死を覚悟しなければならない病気でもあった一方、一度罹患すると、余程のことがない限り二度目の罹患は無いことから、天然痘の流行はだいたい三〇年ぐらいの間隔を置くことが通例化していた。一度流行して多くの人が免疫を身につけると天然痘の流行が止み、免疫を持つ人が亡くなる一方で新たに免疫を持たない子が生まれ、成人し、社会の中心を占めるようになった頃に再び天然痘が流行する。その繰り返しだ。そして、天然痘に罹患し、苦しみ、ある者は命を落とし、ある者は命こそ助かったものの自らの顔と身体にその痕跡を残すようになる。そうした人が数多く現れてしまうのを定期的に繰り返すというのが、ワクチンをはじめとする現代医学によって天然痘を押さえ込むことに成功するまでの人類の歴史である。

 話を承元二(一二〇八)年に戻すと、源実朝が表舞台から姿を消した理由が天然痘であった。命こそ助かったものの頻繁に高熱を繰り返し、源実朝の顔にはその痕跡が残ってしまった。しかも、天然痘は空気感染する感染症だ。この時代には細菌やウィルスといった概念など無いが、罹患した人に接して問題ないのは既に罹患したことのある人だけであり、未感染者は近づくだけで感染するという知識ならばあった。源実朝は表舞台から姿を消したのではなく、隔離されたのである。あるいは自ら隔離されることを選んだのである。

 そこには自らの顔に現れてしまった痕跡への苦悩もあったろう。何しろまだ一七歳の少年だ。いかに平均寿命の短いこの時代であろうと一七歳の少年の考える未来は五〇年から六〇年はあろう。それだけの長期間を顔に痕跡を残したまま過ごさねばならないのであるから、苦悩が消えるなど考えられない話だ。

 それに、天然痘の苦しみは自分だけではない。多くの人が感染に苦しみ、中には命を落とす人もいる。本人は無事でも家族は命を落としてしまったという人もいる。そうした人を生み出すきっかけとなるのが他ならぬ自分であるというのもまた苦悩以外の何者でもない。自分の命は助かっても自分のせいで誰かが命を落とすことになるなど、誰かが不幸を背負い込むことになるなど、とてもではないが耐えられるものではない。

 源実朝が表に姿を見せない理由を鎌倉幕府が公表したことで、誰もが全ての理由を理解し、納得した。鎌倉幕府は、承元二(一二〇八)年二月末までに源実朝の病状が回復したと公式に発表した。正確にいうと、二月二九日に源実朝の病状が回復したことを記念するための沐浴の儀式を開催した。天然痘の症状だけを考えると罹患してから回復するまでの期間として不都合な数字ではないが、それで何もかも元通りになったと考えていられるほど源実朝は能天気な人ではない。源実朝はそれからも姿を隠し続け、三月三日に鶴岡八幡宮で開催された奉納式は高熱を理由に欠席し、やむなくという形であるが、母の北条政子と妻の坊門姫が代理として出席している。


 源実朝が表舞台から姿を消したとして、鎌倉幕府は正しく運営できるのか?

 結論から言うと、可能である。

 鎌倉幕府はもともと、源頼朝に仕える者を束ねる組織として誕生した。それも、武士のトップではなく、上級貴族に仕える面々を束ねる組織として誕生した。武士を束ねる組織となると先例は存在しないが、上級貴族に仕える面々を束ねる組織ならば先例は存在する。武家政権ならば平家政権があるではないかと思うかも知れないが、平家政権にしても、武士を束ねた組織というわけではなく平清盛をはじめとする平家の公達が上流貴族として名を連ねるという、藤原氏を模した上級貴族達の集団であり、平家の武士達は上級貴族である平家の公達に仕える面々としてカウントされている。平清盛以外にも上級貴族としてカウントされる者が多かった平家政権と、源頼朝と源頼家の二人しか上級貴族としてカウントできない鎌倉幕府とでは大きな違いがあるが、それでも構造としては、まずは貴族が存在し、武士は貴族に仕える者とされている。

 そうした先例の中には、組織のトップにある貴族が亡くなってしまったために後継者をトップとしたがその後継者の位階が低いので先代の組織の継承に支障が出たという先例もあるし、組織のトップである貴族が病床にあったという先例もある。鎌倉幕府が特異であったのは京都ではなく鎌倉に根拠地を置いた点ぐらいであり、位階の低い源実朝が病床に臥していたとしても、他の貴族が積み上げてきた先例を利用すれば組織運営は可能だ。

 この後の吾妻鏡の記録を追いかけても、源実朝が表に出てきて何かをしたという記録がしばらく出てこない。それでいて、鎌倉幕府は組織として正常に機能している。

 また、天然痘の流行によるものかどうかを明記してはいないものの、多くの人が病気に苦しんだこと、そして、命を落とす人も多かったことを吾妻鏡は記している。前述の通り、天然痘というのは一度罹患したら、滅多なことでは二度目の感染を引き起こさない病気であることを踏まえると、天然痘が治癒した源実朝は感染症キャリアになってしまう。源実朝が出歩くだけで周囲の人を感染させかねないのだ。このようなケースのときは、いかに重要人物であろうと外出させずに閉じ込めておくというのが、この時代の人が取りうる、現在でも通じる対処法のうちの一つだ。

 また、源実朝の病状は完全に回復したわけではないことも読み取れる。吾妻鏡の承元二(一二〇八)年閏四月一一日の記録に源実朝が急病に陥ったこと、閏四月二四日になって病状が回復したことを記している。その間の様子は全く書き記していない。一〇日以上病状に苦しんでいるのに鎌倉幕府として何かしらの問題があったとは記していないのである。あたかも、源実朝の身に何かあろうと、鎌倉幕府は組織として健在であると内外に示すかのようである。

 よく読むとそうではないが。


 承元二(一二〇八)年閏四月一五日、京都で大火が発生した。近衛家実の日記によると、七条北東洞院辺で発生した火災はそのまま西へ北へと燃え広がり、北は四条大路、西は朱雀大路まで被災地域が広がっていたことがわかる。かつて平安京の貴族の邸宅と言えば四条大路より北であり、四条大路より南は庶民街が広がっているものとされていたが、院政期に貴族の邸宅が四条大路より南にも築かれることが珍しくなくなり、この頃になると平安京南部にも貴族の邸宅街が見られるようになったのであるが、そうした邸宅街が炎に飲み込まれ、被災者となった人には宣陽門院覲子内親王、前太政大臣藤原頼実、大納言徳大寺公継といった面々も名を連ねていた。

 これで二年連続の京都の大火である。前年は四月、承元二(一二〇八)年は閏四月と時期もほぼ一緒だ。片平博文氏が平成一九(二〇〇七)年に発表した論文「一二~一三世紀における京都の大火災」によると、この両年とも梅雨入り前の雨が降らない時期に迎えた大火であり、近年の天気図での同時期の京都とその周辺の天気図を見ると高気圧に覆われた日々が続いた後に梅雨入りとなっていること、そして、南東から北西に向かって風が吹く日々が続いていることがわかる。つまり、火災が発生しやすい気象に加え、延焼しやすい気象であることも読み取れる。ついでに言うと、その後の梅雨の大気の不安定さは単に雨の日が続くだけでなく、当時の貴族の日記を見ると、雹や雷雨に見舞われていることも読み取れる。

 天候の問題に加えて火災であるから、後者はともかく前者となると人間の力でどうこうなる話ではない。しかし、この知らせがどのタイミングで鎌倉に届いたのかを捉えると、少し穿った見識となる。

 閏四月二五日なのだ。

 京都から鎌倉まで、かつては片道半月を要していたが、源頼朝以降、半分未満の日数で情報のやりとりができるようになっていた。七日間ではなく一〇日間というのは、かつてに比べれば短いが、源頼朝以降という視点では長い。

 起こってしまった災害の知らせを鎌倉に伝える、また、気候の問題もあるために情報を伝える人馬の通行に支障が生じたことも考えられよう。

 だが、その翌日に鎌倉に伝わった知らせを考えると、何やら意図的なものを感じる。

 承元二(一二〇八)年閏四月二六日、すなわち京都大火の知らせが鎌倉に届いた翌日、西国守護の沙汰、すなわち鎌倉幕府としての九州地方一一ヶ国の対処方法についての問い合わせが京都守護の中原季時から届いたのである。この問い合わせについて中原広元、三善康信、二階堂行光、平盛時らが協議したことを吾妻鏡は記しているが、協議に参加した面々はともかく、タイミングを考えると源実朝の病状はかなり厳しいものがあったのではないかと考えられるのだ。


 源実朝が病気で倒れるところまでは、問題ないとまでは言わないにしても許容できる範囲である。しかし、源実朝がいなくなってしまったら鎌倉幕府はどうなってしまうのか?

 鎌倉幕府の権力の根幹は征夷大将軍であり、征夷大将軍に就任できるのは血統である。すなわち、熱田神宮の宮司の娘を母とする源頼朝が武の象徴たる征夷大将軍に就任することで壇ノ浦の戦いで失われてしまった天叢雲剣あめのむらくものつるぎの新たな形代(かたしろ)とし、皇位継承に必要な三種の神器の一つを担い、換えの利かない正当性の土台とすることにある。

 もともと天叢雲剣あめのむらくものつるぎは熱田神宮に奉納されており、三種の神器の一つとなっていたのは熱田神宮の作り出した形代(かたしろ)である。壇ノ浦の戦いで失われてしまったので作り直してほしいと熱田神宮に頼んだとしても、熱田神宮からは自分達の宮司の娘の血を引いている源頼朝とその子孫こそが天叢雲剣あめのむらくものつるぎ形代(かたしろ)であると宣告されたなら、朝廷ですらどうにもならなくなる。

 しかも、征夷大将軍である。位階が低くても就任できる役職であるとは言え、朝廷のシビリアンコントロールを超えた独自の軍事行動が可能な人物である。常設武官の最高位である左近衛大将よりも低い扱いを受けたとしても、左近衛大将の指揮することが可能な軍事力などたかが知れている一方、征夷大将軍が動員できる軍事力はこの時代の国内最大勢力となっている。しかもそれは、征夷大将軍だから動員できる軍事力なのではなく、源実朝だから、厳密に言えば源頼朝の後継者であるからこそ動員可能な軍事力なのだ。一人一人の武人は源実朝に仕えている身であり、北条義時のように位階を得て朝廷官職に組み込まれているということになっている武人がいるとは言え、本質的には源実朝に仕える武人である。朝廷が源実朝に武力発動を命じたら源実朝の命令に従って軍を動かすが、朝廷が源実朝を無視して鎌倉幕府の個々の御家人に対して独自の武力発動を命じたとして、その後家人が源実朝を無視して朝廷の命令に従うだろうかとなると疑問符が付く。

 重要なのは源実朝の持つ正統性(レジティマシー)であり、いかに源実朝が若かろうと、ましてや戦場経験が皆無であろうと関係ない。源実朝が征夷大将軍として君臨しているからこそ、この時代の日本国内最大の武装勢力である鎌倉幕府は存続しているのである。

 しかし、ここで源実朝がいなくなったらどうなるか?

 組織存続の大前提が無くなるのだ。

 源実朝に男児がいればその男児が源実朝の後を継ぐことで組織を継続できるが、そのような男児などいない。考えたくはないその瞬間を迎えてしまったとき、鎌倉幕府という組織そのものが崩壊する。源平合戦時に源頼朝を選んだために鎌倉幕府の一員という社会の勝者になれ、鎌倉幕府の一員として従前では考えられなかった権利と資産を手にできた者も多い。そのような状況下で鎌倉幕府が無くなってしまったらどうなるか?

 源実朝の身に何か起こった瞬間に何もかもが破綻すると知って狼狽しない人がいたとすれば、そのほうがおかしい。

 組織の永続性(ゴーイングコンサーン)を考えるとき、現時点でトップの地位にある人の身に何かあったときの対処は絶対に欠かすことができない。そして、この時点の鎌倉幕府は永続性(ゴーイングコンサーン)に失敗している。源実朝の身に何かあったときの対処法を何ら考慮していない。

 吾妻鏡の承元二(一二〇八)年五月二九日の記事を読むと、事態の重要さも理解できるが、同時にどことなく安堵感に包まれたものも感じ取ることができる。京都からの使者に源実朝が面会したのだ。それまでずっと、病床にあった、あるいは、病床から復帰したもののまだ外出できない状況であるため、天然痘を広めないために面会を断るとしていた源実朝が、後鳥羽上皇からの使者に対してようやく姿を見せたのだ。なお、吾妻鏡によるとこのときにはじめて源実朝が古今和歌集の写本を手にしたとある。新古今和歌集ではなく古今和歌集であるというのは書き間違いではない。先に記したが源実朝は三年前に新古今和歌集の写本を入手しており、この瞬間を契機として源実朝は和歌に耽溺するようになっていった。それから三年を経ての古今和歌集の入手は、当時の貴族であれば誰もが基礎教養として暗唱できるほどに読み込んでいた書籍に、しかし、鎌倉にいる源実朝にとっては名前だけならば知っていても実物を目にすることのなかった書籍に、ようやく出会えたことを意味する。

 源実朝自身だけでなく、鎌倉幕府の誰もが、源実朝のことを貴族だと考えている。本来であれば京都の貴族の邸宅に住まいを構えて朝廷に出仕すべき身分の人が、鎌倉に居住して、それよりはるかに低い身分の人たちと接しているという構図で鎌倉幕府が成り立っていると、頭の中では考えている。しかし、頭の中では雲の上の人と理解していても、感情としては武士たちのボスとして身近にいてくれてもらいたい人と感じている。

 源頼朝も本質的には貴族であったが、この人は日本史上でも指折りの卓越した政治家である。自分の貴族趣味を隠さなかった代わりに、武士たちのトップであることを演じ続けてきたのだ。一人の武士としては貧弱でも、また、軍団を率いる指揮官としては愚将でも、政治家としての能力をいかんなく発揮して武士を束ねるボスとして完璧であり続けることに成功していたのだ。その甲斐もあって、平治の乱で一三歳にして貴族社会から追い出された源頼朝は、雌伏の時期を積み重ね、武士たちを束ねて平家政権に反旗を翻し、源平合戦の勝者となったことで貴族社会に復帰したことを、そして、源頼朝が官職と位階を手にしたことを、鎌倉方の武士達は心から祝福したし、貴族に復帰したことで隠すことのなかった貴族趣味に身を投じる源頼朝のことを誰も何も言わなかった。

 源実朝はその源頼朝の後継者である。それも、源平合戦の最中に生まれて武士たることも求められる人生設計が組まれた兄の源頼家と違い、父が貴族に復帰したのちに生まれ、武士ではなく貴族としての人生を歩むように求められたのが源実朝である。この時代の貴族とは政治家であり、貴族である人生を歩む宿命を背負った源実朝は、政治家としての人生を余儀なくされたと考えて良い。源実朝が貴族としての素養を学び、身につけ、貴族として振る舞うことも問題ない。それが鎌倉幕府の武士達の要望を全て実現させることになるか否かは別の話であるが、背後に一人の人物が見えてくるとなると別の話でもなくなる。

 そう、後鳥羽上皇という人物が。


 伊豆で流人生活を送っていた源頼朝が京都の情報を定期的に得続けていたことは何度も記してきた通りである。ただし、源頼朝が獲得していた情報はあくまでも私信であり公的なものではない。

 この情報連携システムは鎌倉幕府が成立した後も継続していた、いや、さらに発展していた。片道半月、往復一ヶ月というのが流人時代の源頼朝の頃の情報伝達速度であり、源頼朝は半月前の京都で入手できた情報に接するのが精一杯であったのだが、鎌倉幕府成立後、情報伝達速度は格段に向上し、片道七日、往復半月にまで短縮されている。それでいて、情報伝達ルートはより多く構築されたため、情報の速さだけでなく正確性についてもかなり向上している。

 この情報のやり取りについて調べてみると、奇妙な点が見えてくる。

 それがいつのことかはわからないが、気づいたら後鳥羽上皇がこの情報伝達システムに組み込まれるようになっていたのだ。あるいは、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の情報伝達システムを利用して逆に鎌倉の情報を入手したとも言える。情報伝達というのは一方通行ではない。例外はあるものの基本的には双方向だ。京都の情報が鎌倉まで伝わるのに七日で完了するならば、鎌倉の情報が京都まで伝わるのも七日で可能という話になる。

 それも、情報のやり取りに用いるのは書状である。現在、特定の人に向けて送られたeメールは何らかのハッキングをしない限り、受け取った本人しか中身を読むことができない。これは技術的なものである。一方、この時代の書状も現在のeメールと同様に宛名の人しか読んではならないことになっているが、技術的なものではなく約束事である。書状を畳んで封をしたなら、その封を剥がしてしまえば誰でも読めるとはいえ、それは犯罪。封を堂々と剥がしていいのは宛名の本人だけである。ただし、送られてきたeメールを転送することがあるように、封を剥がした書状を他の人にも読ませることもまた可能なのだ。

 考えてみていただきたい。後鳥羽上皇と源実朝との間の書状のやり取りを。

 元からして趣味人である後鳥羽上皇が自身の趣味に関する書状を源実朝に送り、源実朝は後鳥羽上皇の期待に応える。遠く離れているために互いに面識はないものの、互いに互いを必要とする関係が構築されているときに、趣味を通じた私信であっても関係を持つことはメリットが大きい。

 公人が公人に送る書状である。いかに私信であろうと、その書状はかなりの可能性で宛先だけでなく、すなわち源実朝だけでなく、鎌倉幕府の面々も目にする書状になる。書状の内容がいかに趣味の範囲の書状であろうと、政治的な思惑は必ず伴う。源実朝が後鳥羽上皇の趣味に同調し、鎌倉の地で模倣することは、後鳥羽上皇にとっても、源実朝にとっても、そして鎌倉幕府全体にとってもメリットの大きなことであった。源実朝は後鳥羽上皇の院政を支持し、後鳥羽上皇は鎌倉幕府の軍事力を暗に示すことができる。源平合戦で寺社勢力が弱まっていたのが徐々に復活してきたこともあり、後鳥羽上皇の元に鎌倉幕府というこの時代最大の軍事組織が控えていると示すことは、寺社勢力に対する何より大きな圧力となるのだ。

 先に、吾妻鏡の承元二(一二〇八)年五月二九日の記録として源実朝のもとに古今和歌集が贈られたことを記したが、実はこの日の記録はもう一つある。記録の量だけでいえばこちらの方が多いほどだ。

 この日の記録として、後鳥羽上皇のもとで大規模な競馬(くらべうま)や流鏑馬が開催されたことが残されているのである。なお、実際に開催したのは五月九日のことであり五月二九日のこととして記録に残っているのは、この時代としては異例の遅さで鎌倉に情報が届いたからであろう。もっとも、時間をかけているだけに競馬(くらべうま)や流鏑馬の勝敗の記録が細かく残っている。

 後鳥羽上皇はこの時代の皇族としては珍しく武芸への造詣も深い人であった。そして、それらの武芸の多くはこの時代の武士達にとっては鍛錬の一つであり、そうした鍛錬を趣味として嗜むことは歓迎こそすれ、嫌悪感を抱かせるものではない。鎌倉幕府の御家人達にとっては、自分たちの武芸鍛錬にも理解を示してくれる上皇様として敬愛の視線を向ける対象となった可能性が高く、その上皇様と繋がりを持つ将軍源実朝についても敬意を深めることになったはずである。

 しかし、ここには二点、注意すべきところがある。

 一点目は吾妻鏡には記されていないが、院政の歴史において重要なランドマークが失われたこと。

 二点目は参加した武士達が誰なのかという点である。

 一点目のランドマークについては後述するとして、二点目より先に記すと、参加したのは西面武士なのだ。

 後鳥羽上皇の創設した西面武士は、白河法皇以来の北面武士のように正式な朝廷官職と結びついているわけではなく、あくまでも後鳥羽上皇個人の身辺警護のための武士集団である。たとえば検非違使として鎌倉幕府の御家人を朝廷が雇う場合は鎌倉幕府の許可が必要である。何しろ征夷大将軍とは軍事行動中の指揮官という位置づけであり、征夷大将軍に仕える武士に朝廷の官職を付与して朝廷の政務の一端を担わせるというのは、軍事行動中の司令官のもとから武人を引き抜くこととなるのである。通常の指揮官であれば朝廷の命令を受け入れるしかないが、征夷大将軍はシビリアンコントロールの枠外にあり、軍事行動中の征夷大将軍は朝廷の命令に従う義務などない。そのため、北面武士や検非違使として鎌倉幕府の御家人を採用する場合は鎌倉幕府の許可が必要となるし、北条義時のように位階授与や国司任官となった場合は、それが事後承諾であろうと、鎌倉幕府の許可を必要としている。

 しかし、西面武士は違う。後鳥羽上皇個人の身辺警護であり、あくまでも私的な頼み事なのだ。鎌倉幕府の御家人であることと西面武士であることが両立可能なのである。

 さらに、西面武士には鎌倉幕府の御家人ではない武士も含まれている。競馬(くらべうま)や流鏑馬の参加者として吾妻鏡に残されている面々の名を見ても素性不明な者が多い。鎌倉幕府の御家人達のうち京都駐在の者もいたであろうが、鎌倉幕府とは距離を置いた武士もいたのだ。

 鎌倉幕府の成立は日本中の全ての武士が鎌倉幕府に仕えるようになったことを意味しない。多くの武士が源頼朝に臣従し、源頼家に、源実朝に臣従するようになったが、鎌倉幕府と距離を置いた武士も多くいたのだ。源平合戦で源平のどちらにも与しなかった武士もいたし、平家の一員として戦い、討ち取られはせず許されたものの、勢力を大きく失った武士の子孫もいる。源平合戦からの年月が経てば経つほど、本人は、あるいは子孫は、社会における立場が悪化し続ける一方だ。都に上って検非違使になる、あるいは北面武士になることを試みても、鎌倉幕府の視線から逃れることはできない。できたとしても鎌倉幕府の御家人である武士との間には大きな格差が生じる。だが、西面武士になれば失った立場が一変する。鎌倉幕府の御家人であろうがなかろうが関係なく扱われる。西面武士は北面武士よりも朝廷官職における立場は弱いし、ましてや検非違使のように正式な朝廷の官職を得るわけではない。だが、権勢ならば十分に獲得できる。

 開催場所も新日吉社であるので、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の御家人達に選手として出場するよう要請したのではなく、彼らは西面武士として新日吉社の神事に参加し、後鳥羽上皇は皇族として参列したに過ぎない。しかし、このインパクトは無視できるものではない。

 後鳥羽上皇が鎌倉幕府に頼らない独自の軍事力を作りあげつつあるのだ。


 後述するとした院政の歴史における重要なランドマークの消失についてであるが、その記録は吾妻鏡に記されていない。吾妻鏡の編纂者は記すまでもないことと扱ったのかもしれないが、院政の歴史を考えると重要なことであった。

 それは何か?

 承元二(一二〇八)年五月一五日に法勝寺の九重塔が落雷で焼失したのである。

 白河法皇が鴨川東岸の白河の地に法勝寺を建立し、この時代の京都における最高峰建築物である九重塔を法勝寺の境内に設けたことは、京都に住む全ての人に白河法皇の有する権力を意識させるに十分であった。

 九重塔の誕生まで、京都最大の権力、イコール日本最大の権力が存在するのは内裏であり大内裏であり、平安京に住む多くの人にとっては住まいの北を仰ぎ見ることを意味していた。そもそも北部が貴族街で南部が庶民街という計画で作られたのが平安京という都市であるため、平安京に住む庶民は北を仰ぎ見るのは当然のことという認識があった。

 その認識を破壊したのが白河法皇である。平安京の区画外ではあるため桓武天皇の基本設計から逸脱せず、それでいて平安京から目と鼻の先にある場所に、平安京に住む人なら意識せざるを得ないランドマークとなる巨大な高層建築物を建立したことで、従来の権力とは異なる存在が誕生したことを意識させるのに成功したのだ。

 一度誕生した意識は、鳥羽院政、後白河院政を経て、後鳥羽院政に続く。上皇や法皇は内裏に入ることが許されず、内裏から離れた場所に住まいを置くものの、院からは内裏に対する目が常に向かい続けているとほとんどの人は理解している。その理解を生み出す最大のシンボルとなっていたのが法勝寺の九重塔であり、平安京で生活しているならば否応なく目に飛び込んでくる法勝寺の九重塔を目にするたびに、平安京に住む人は、この国には院という朝廷とは違った別の権力があるのだと実感する日々を過ごすこととなる。

 ただし、過去三例の院政はそれぞれが独立した権力であり、後鳥羽院政もまた独立した権力である。たとえば、源頼朝が亡くなって源頼家が、そして源実朝が地位を継承しても鎌倉幕府という組織にいる者は同じ者であり、鎌倉幕府という組織そのものも続いている。しかし、院政はそのような繋がりなどない。院が薨去した瞬間に院司は全員が院における職を失い、新たな院に雇われることとなったとしてもゼロから雇われ直すという形式である。実際には前職と同じ職にそのまま就くことも珍しくなく、その待遇も同じか、あるいは前任者より上回っていたが、理論上は、院が変われば全てリセットされる。鳥羽院政も、後白河院政も、そして後鳥羽院政も、組織としてはゼロからの構築である。

 その一方で、これまでの院が構築してきた権力構造を利用することもある。そのうちの一つが法勝寺の九重塔であった。元暦二(一一八五)年七月九日に発生したマグニチュード七・四の巨大地震によって法勝寺は大打撃を受け、多くの建物が倒壊したが、大ダメージを受けながら倒壊はしなかった九重塔の存在は、院政という権力がこの国に存在することを意識させ続けるに十分であった。

 その九重塔が、落雷で焼失した。

 九重塔が視界から消えたことは、平安京内外に住む人に後鳥羽院政の存在に対する暗い影を感じさせることになってしまったのである。


 天然痘を乗り越え、病床から復帰し、後鳥羽上皇の趣味に同調することで朝廷権力を自身の背景に加えることに成功した源実朝は、政治家としての活動を徐々に強めていくこととなる。

 鎌倉幕府というのは朝廷組織のどこにも存在しない、いわば民間組織、現代風の感覚で捉えると、冒頭でも述べたように、また、平安時代叢書を通じて何度も述べてきたように、政党である。ただし、この組織は絶大な軍事力を保有している。しかも、朝廷から距離を置いた独自の軍事行動をとることが合法である。政党が軍事力を保有するというのは民主主義国に住む人だと感覚として掴めないかもしれないが、中国の人民解放軍は国家ではなく中国共産党の軍隊であるし、そこまでいかなくとも、第二次大戦までナチスが保有していた突撃隊や親衛隊といった軍事組織だって存在していた。日本国内に目を向けても政党が暴力性を持つことは多々存在していたし、今でも非合法ながら政党の暴力組織は存在しているとも言える。

 話をこの時代に戻すと、鎌倉幕府の有する軍事力は非合法どころか合法である。厳密に言うと、鎌倉幕府の軍事力が合法であるというより、征夷大将軍源実朝の有する軍事力が合法である。征夷大将軍はシビリアンコントロールの枠外の軍事行動を許されている職務であり、征夷大将軍が独自に編成した軍事組織の行動について朝廷は口出しが許されないというのがこの時代の法制上の位置づけだ。

 これは鎌倉幕府に限ったことではないが、人が力の権力に求めるのは、自らの身の安全である。犯罪を未然に防ぎ、犯罪が起こったら身を守ってくれると同時に犯罪者を処罰してくれることを望んでいる。幕府についてはこれまでにも何度か、三権分立のうち司法府と行政府が強く結びついている権力であると書き記した。立法府と行政府が強く結びついて現在の議院内閣制が成立しているのと同様に、司法府と行政府を結合させた権力が幕府であると考えると、色々とわかりやすい。

 そして、この時代に警察と検察の分離はない。さらに言えば、裁判も警察や検察と結びついており、それらの全てを幕府は包含している。ここまで重なると、鎌倉幕府に守ってもらえるという安心感を与えることが鎌倉幕府の存在価値となり、その安心感を得られないとなると鎌倉幕府の存在意義にかかわる話となる。

 庶民には到底太刀打ちできないような犯罪があったときに、庶民に代わって庶民感情を満足させてくれること、時代劇のように悪事をなす悪人を懲らしめる勧善懲悪が実現されることを、鎌倉幕府は求められている。そのことを源実朝は、そして、鎌倉幕府の面々は理解しているし、その機会を逃そうとはしない。わかりやすい悪を見つけて、悪を喧伝し、悪を懲らしめる機会を用意し、懲らしめる瞬間を多くの人の目に見せつけ、その様子を広く宣伝する。

 吾妻鏡の承元二(一二〇八)年七月一五日の記事はわかりやすい例だ。

 この日、威光寺の僧侶である円海が鎌倉までやってきて被害を訴え出たのである。狛江入道増西という僧侶の率いる五〇名ほどの集団が前月二六日に威光寺の領地にやってきて、収穫前の稲を刈りとってしまうという騒動があったというのだ。威光寺という名の寺院は現存していないが、川崎市多摩区にある妙楽寺が長尾山威光寺跡であるとされているので、川崎市多摩区の寺院と東京都狛江市の僧侶らとが争ったということとなる。

 円海の訴えが真実であるならば、威光寺は一方的な被害者ということとなる。しかし、円海がこのタイミングで鎌倉までやってきたのは威光寺の主張を訴えるためだけではない。まさに増西が鎌倉にいることを把握しているからこそ、円海もまた鎌倉までやってきて鎌倉幕府に訴え出たのである。

 訴えがあり、当事者が双方とも鎌倉にいることから、円海と増西の両名が源実朝の前まで呼び出された。裁判には、刑事訴訟と民事訴訟とがある。そして、犯罪があったときに犯罪者を法に則って処罰する刑事訴訟と並行して、犯罪被害者が加害者を訴え出る民事訴訟が起こされることも珍しくない。場合によっては、刑事で不起訴でも民事訴訟を起こすということもある。このときの訴えは、構図としては民事訴訟であるが、源実朝は刑事訴訟も踏まえた審理をすることにした。

 何度も記しているが、幕府というのは司法府と行政府とが結合した組織であり、将軍には行政だけでなく司法も求められる。源実朝は双方の主張を聞き、内容を調べた上で、円海の主張には間違いがないこと、すなわち収穫前の稲が刈り取られるという犯罪があったことを認めて増西を有罪とし、図書允清原清定の監視下のもと永福寺に預けられることとなった。

 この裁判は公開されており、鎌倉幕府はたとえ相手が誰であろうと、それこそこの時代であれば法の枠外とされることすらあった僧侶が相手であろうと、公平公正な裁判をして処罰するという姿勢を見せたのである。

 増西は狛江入道とも呼ばれている人物であることから、現在で言う東京都狛江市の僧侶だったことは窺える。ただし、どの寺院に所属していた僧侶なのかは明確にされていない。あるいは、そもそもどの寺院にも属していなかった可能性もある。それでいて五〇名ほどの乱暴者を集めることができたというのだから、増西は僧侶の集団を率いていたというより現在で言うところの反社集団を率いていたとも言えよう。もっとも、この時代は僧兵と化した僧侶達が暴れ回っていた時代でもあるので、僧侶の集団であることと反社集団であることとが重なることは珍しくないし、法の枠外とされることがあるだけに普通の反社集団よりタチが悪い。

 その反社集団と威光寺との間でどのようなイザコザがあったかわからないが、反社集団が言いがかりをつけ嫌がらせをするのは世の常であり、収穫前の作物を刈り取るというのは最上級の嫌がらせでもある。

 その嫌がらせを正式に認定して反社集団を処罰するとなれば、鎌倉幕府として最上級のアピールとなる。


 後鳥羽上皇と源実朝とは面識が無い。

 後述することになるが、源実朝はその一生を鎌倉とその周囲で終えたため、生涯に亘って後鳥羽上皇と顔を合わせることが無かった。

 しかし、間接的な面識ならば、承元二(一二〇八)年一〇月から一二月にかけて成立した。

 北条政子が熊野詣に出向いたのである。

 吾妻鏡の記載によると、北条政子が鎌倉を出発したのは一〇月一〇日のことであり、京都に到着したのは一〇月二七日であることも吾妻鏡に記録されている。なお、北条政子が一人で熊野詣に出向いたわけではなく、北条時房が同行している。

 吾妻鏡は北条政子が御宿願のために熊野詣に出向いたことを記しているが、その宿願の内容については吾妻鏡に記されていない。ただし、同時代史料でもある愚管抄に宿願の内容が記録されている。源実朝に男児が生まれることを願ったのだ。

 まだまだ源実朝は年若い。現在の学齢で言うと高校一年生だ。しかし、この時代はその年齢で子がいることが珍しくもなく、結婚してからの時間経過を考えても、そろそろ源実朝に子どもができてもおかしくない。それなのに、源実朝の妻には妊娠の兆候が見られないのだ。

 北条政子にしてみれば、宿願成就のために熊野詣に出向いてでも源実朝の後継者である男児が生まれてくれなければ困るというのはわかる。源頼家の子で源実朝から見れば甥である善哉を猶子としたが、後に公暁と呼ばれることとなるこの男児は基本的に寺社の中に閉じ込められており、鎌倉幕府の者の中にこの男児を源実朝の後継者と見做している者は少ない。ただ、それだけが理由というなら焦り過ぎではないかとも感じる。

 北条政子は征夷大将軍の後継者を求めていたが、源実朝は数えで一七歳、満年齢で一六歳の少年である。まだまだ未来は長く、それがいつのことになるかはわからないが、源実朝のもとに男児が生まれる未来がやって来る。このときの北条政子の行動は、愚管抄にあるように我が子に孫が生まれることを願う母の焦りだけが理由とは思えない。

 源実朝のもとに男児が生まれることを願う母親が熊野詣に出かけるという、誰もが理解できると思われる表向きの理由の裏で、もう一つの理由が考えられるのだ。

 北条政子が京都に行くことそのものである。鎌倉から熊野詣に出かける場合、最短距離で考えれば尾張国から伊勢国を経て紀伊国に向かうのが一般的なルートであるが、このときの北条政子は一〇月二七日に京都に到着している。つまり、熊野詣のためだけに鎌倉を出発するのではなく、熊野詣を名目として鎌倉から京都に向かい、京都から熊野詣に出向いている。熊野詣は京都に向かう名目であり、本当に熊野詣に出向いたのはアリバイ作りが目的であったとすべきなのだ。


 北条政子が京都に出向いたことで得られるメリットは三つある。

 一つは後鳥羽上皇と面会すること。本来であれば無位無官の北条政子が後鳥羽上皇に会うなど許されないのだが、夫も長男も正二位まで登り詰めており、次男もそう遠くない未来に父や兄と同じ地位、さらには、父や兄より上の地位に昇る可能性が高いとなると、京都としても北条政子のことを無碍に扱うことはできなくなる。

 また、後鳥羽上皇と源実朝の間の私的な書状のやりとりとのことは周知の事実であり、私的な書状のやりとりをしている人物が直接会いに来ること自体は不可解ではない。その上で、当事者が天然痘に罹患してしまったために今もなお外出できないので、母が息子に代わって会いに来たという体裁であれば納得できる理由となる。

 ここで後鳥羽上皇との私的な接点をより強固にすることは、源実朝個人だけでなく鎌倉幕府にとって大きな意味を持つ。

 メリットの二つ目であるが、京都在中の鎌倉武士達と顔を合わせることがある。彼らのもとに北条政子が会いに来てくれるというのは、京都在中の御家人達の忠誠心を鎌倉幕府につなぎ止め続けやすくなる。ただでさえ後鳥羽上皇が西面武士の武力を強固にしつつあり、鎌倉幕府の御家人達は後鳥羽上皇に引き抜かれてもおかしくない状況であったのである。ここで北条政子が京都まで出向いて御家人達に面会することで、亡き源頼朝のことを思い出させ、鎌倉幕府への忠誠心を湧き上がらせることができる。

 そして最後のメリットが、京都の貴族たちとの接点の構築である。

 北条政子は鎌倉幕府の重要人物であることは間違いないのだが、この人に貴族的素養は全く無い。人生で貴族的教養を積む期間が無かっただけでなく、貴族的素養を必要とする場面がこれまでなかったのだ。

 北条政子の上洛はこれが人生初ではない。しかし、前回は北条政子の横に源頼朝や北条時政がいた。源頼朝は超一流の政治家であり、また、貴族的素養という点でも京都の貴族達と互角に渡り合えてきた人物である。北条時政は源頼朝のような超一流の政治家というわけではないが、京都の貴族達と渡り合ってきた過去がある。そうした人達が隣にいる状況下であれば、貴族としての教育を全く受けてこなかった北条政子であってもどうにかなる。

 ところが今回は、北条時房が帯同してはいるものの、基本的には北条政子の単独行動である。普通に考えれば北条政子は京都の貴族達と渡り合うのはかなり困難である。京都の貴族というのはなかなかに意地が悪く、あの手この手でマウントをとって他者を見下そうとする。北条政子は平氏の血を引いてはおり、末席ではあるが貴族社会の一員に列せられる生まれであるが、その程度の生まれの者は、伊豆国であれば稀少と扱われても、京都ではかなり格下に扱われる。その扱いを覆す要素となるのは、貴族であれば身につけておくべき素養を身につけているか否かであるが、前述の通り北条政子に貴族的素養は全く無い。

 本来であれば北条政子はかなり厳しい態度を取られるはずである。あるいは、そもそも貴族達と会ってくれることもないはずである。

 しかし、北条政子はそうではなかった。この人にマウントは通用しないのだ。貴族的素養の欠落を突く嫌味など、北条政子には通用しないし、通用してしまったら今度は北条政子の怒りを買うこととなる。

 忘れてはならないのは、鎌倉幕府がほぼ全ての令制国に守護を、全国各地の荘園に地頭を配置し、年貢納入先を荘園所有者である貴族ではなく所領保有者である武士にさせたことである。源頼朝が実施した、鎌倉幕府にとっては増税、荘園住民にとっては減税という政策は、荘園所有者である貴族に大打撃を与えていた。その大打撃を乗り越える方法とは、貴族達が手を取り合って鎌倉幕府に対抗するのではなく、他の貴族を出し抜いて鎌倉幕府に接触し、全面的に、あるいは一部にせよ年貢の納入先を元に戻してもらう特例を得ることである。

 そして、鎌倉幕府における北条政子の存在の大きさは知らぬ人のいない話である。

 貴族の側にしてみれば、会いたくないと思っても、北条政子の胸先三寸で失ってしまった荘園からの収益の復活が可能となると、どんなに悔しさを滲ませようと貴族のほうから北条政子のもとに出向いて面会を申し込むしかなくなる。プライドにこだわっていたら貴族としての生活ができなくなるのだ。


 北条政子は鎌倉幕府のキーパーソンである。無位無官の一庶民であるという建前はあっても、鎌倉幕府の創設者の妻にして、現在の鎌倉幕府のトップである人物の実の母であるというのは、どうあろうと無視できる要素ではない。

 ただし、それと北条家全体が鎌倉幕府におけるキーパーソンであることとは必ずしも一致しない。

 現在から見れば鎌倉幕府の歴史の四分の三は北条家の歴史なのだが、承元二(一二〇八)年時点での北条家は、鎌倉幕府の重要人物たる北条政子をはじめ、北条義時や北条時房、失脚した北条時政といった人物を擁する有力集団であるものの、鎌倉幕府を取り仕切るほどの集団とは見做されていなかった。

 北条家に匹敵する存在であったのが三浦家である。三浦家は苗字が三浦である者だけで構成されているわけではない。岡崎、杉本、土屋、佐原、そして和田といった苗字の面々も三浦家を構成している面々である。

挿絵(By みてみん)

 その中でも三浦義村と、侍所別当の和田義盛の両名は鎌倉幕府の重要人物の一角を構成しており、特に和田義盛は侍所別当として幕府の人事権に強い影響力を与える人物であった。

 ここで勘違いしやすいのが、北条義時は承元二(一二〇八)年時点ではまだ政所別当の役職を務めていないことである。後世の執権職の誕生から遡る形で北条義時を鎌倉幕府第二代執権とし、執権就任を北条時政失脚と同タイミングとする意見もあるが、実際にはまだ北条義時が鎌倉幕府第二代執権であるとは言いがたい。鎌倉幕府の執権は政所別当と侍所別当の二つの職務を兼任することによって発生する鎌倉幕府内部の権力であり、この時点の北条義時は、そのどちらの職務も手にできていないのだ。

 無論、相模守の役職と従五位上の位階を得て朝廷組織図上の貴族に列せられている北条義時が無力な存在であるとは言えない。何しろ北条義時は、この時点の鎌倉幕府における御教書発給の権利を有する数少ない人物だ。だが、実際に北条義時が御教書を発給した枚数を考えでも、この時点の北条義時は、組織図上、鎌倉幕府の重要ポストに就いているとは言いがたいのである。姉が源頼朝の妻であり源実朝の実母であることが北条義時の権力の背景であり、北条義時個人の権勢が鎌倉幕府を支配しているとは言いがたい状況であったのである。

 また、何度も記しているようにこの時点の源実朝は政所を設置する権利を有していない。そう遠くない未来に政所を設置できる要件である従三位以上の位階を獲得することが有力視されていることと、亡き父や亡き兄が政所設置要件の位階を満たしていたことから、そうした上級貴族の家系の者が父や兄を継ぐまでの間、本来であれば四位以下の貴族のための家政組織である公文所を、事実上の政所として機能させることはできた。ただ、どんなに事実上の政所であるとは言え、公文所と政所では行使できる法的権限に大きな違いがある。

 京都基準で考えると数多くの貴族の一人であるが、鎌倉においては数少ない貴族の一人である北条義時と、貴族としてカウントされてはいないが侍所別当として幕府内の人事権を掌握している和田義盛、そして、その背後でもある北条家と三浦家、この両者のパワーバランスは拮抗しているがゆえに安定しているが、いつ壊れてもおかしく安定とも言えたのである。


 承元二(一二〇八)年一二月二〇日、熊野詣より北条政子が戻ってきた。

 と同時に、源実朝に一つの知らせが届いた。

 一二月九日に正四位下に昇叙したのである。

 これで政所設置要件である従三位まであと二つ、といきたいところであるが、実際にはあと一つである。

 どういうことかというと、正四位上という位階はほとんど使われなくなっていたのだ。貴族として位階を一つ一つ積み上げている者が正四位下まで昇り詰めた場合、かなりの可能性で正四位上を通り越して次は従三位に昇叙することとなる。

 つまり、朝廷は源実朝をそう遠くない未来に従三位以上に昇叙させることにすると表明したのであるが、これを鎌倉幕府の組織図で考えると簡単な話ではなくなる。

 何度も繰り返すこととなるが、政所が復活するのである。

 源実朝が征夷大将軍に就任してからこれまで、鎌倉幕府の文書発給は公文所が担当していた。事実上の政所の職掌をこなしていたとは言え、公文所の発給する文書と政所の発給する文書とでは効力が大きく違う。特に所領をめぐる法的な争いとして鎌倉幕府の御家人と朝廷貴族との争いが起こった場合のように鎌倉幕府の枠外における効力を考えると、公文所の発給した文書では通用しなくとも、政所の発給する文書では通用することも珍しくなくなる。

 どういうことか?

 公文所の発給する文書は一貴族の発給する文書であるのに対し、政所の発給する文書は議政官の一員である貴族、ないしは議政官の一員になる資格を有する貴族の発給する文書となる。現在の日本で考えると、公文所の文書は一人の国会議員が発給する文書であるのに対し、政所の文書は政令に相当する権限を持った文書となる。後世の視点で鎌倉幕府を捉えると武家集団であるが、この時代の感覚ではあくまでも有力貴族の周囲に集った者の集団であり、主軸は鎌倉武士ではなく、あくまでも貴族たる源実朝なのである。その源実朝の名で発給される文書が、そう遠くない未来に、現在で言うところの政令に相当する権威を持つ文書となるのだ。

 後に侍所別当と政所別当を兼務する執権職が誕生するのはその通りなのだが、執権北条義時を考えたとき、北条義時がどのタイミングで政所別当になったのかを明瞭化させなければならなくなる。そうしなければ北条家の権威につながる歴史的整合性がとれなくなる。

 侍所別当の和田義盛はまだいい。どのタイミングで侍所別当でなくなったのかはっきりしている。

 問題は政所別当の中原広元だ。この人がどのタイミングで政所別当を、あるいは公文所別当を辞したのか明瞭化させないと、北条義時が政所別当となったことが説明できなくなる。一方で、中原広元は和田義盛のような最期を迎えてはおらず、そもそも北条義時よりも長生きしている。建永元(一二〇六)年に公文所別当を辞したらしいという記録があるが、後任の公文所別当も不明である。

 そしてもう一歩踏み込んで調べると、もう一つの奇妙な点が見えてくる。

 鎌倉幕府の政所を調べてみると、最高責任者である別当が複数名いるケースが出てくるのだ。トップに立つ人物は一人であり、この時代に別当をトップに掲げる組織の全てが別当をただ一人としていることから、鎌倉幕府においても政所別当が一人だけという認識が立ちはだかり、別当が複数名いるという概念は浮かびづらい。実際、同じく鎌倉幕府の組織である侍所については和田義盛ただ一人が別当である。

 だが、別当が複数名いるとなれば、困惑が解消する。

 そもそも、政所にしろ、公文所にしろ、律令に規定された公的機関ではなく私的機関である。ゆえに、組織のトップである別当が複数名いようと、法的に問題はない。そして、複数名いるために史料の不整合への譲歩も可能となる。

 納得ではない、譲歩である。

 どういうことか?

 北条義時が政所別当に就任したという記録が複数回存在するのだ。

 確認できるだけでも、源実朝が鎌倉幕府第三代将軍に就任して間もない頃や、元久二(一二〇五)年の北条時政追放後に北条義時が政所別当に就任したという記録がある。北条義時が発給した御教書も、北条義時が貴族の一員であるために発給することの許される書状ではなく、政所別当として発給したと捉えることもできる。しかし、中原広元が公文所別当を辞したらしい建永元(一二〇六)年以降ならばともかく、それより前の日付で北条義時が政所別当、あるいは公文所別当であることはありえない。しかし、政所や公文所の別当が一人ではないとなると、北条義時が行使していた可能性のある政所別当の権限について、完全に納得はできないにしても、譲歩はできるのだ。

 後述するが源実朝が従三位に昇叙して正式に政所を設置する資格を経たときには既に政所別当としての北条義時が確認できていると同時に、他の者が政所別当に就いたとの記録も存在している。つまり、気づいたときには政所別当の一人、正確に言えば公文所別当の一人に北条義時が就任しており、別当を複数名とすることで政所の政務をよりスムーズにさせた痕跡が見られるのだ。

 そして、政所別当を複数名にするというアイデアがどのように誕生したのかを探していくと、源頼家の時代に計画された合議制の瓦解に行き着く。


 間もなく年が暮れようかという承元二(一二〇八)年一二月二六日、京都の中原親能が在京のまま六六歳で没したという連絡が来た。

 中原親能が亡くなったのは一二月一八日のこと、すなわち、源実朝が従四位下に昇叙したという知らせを受け取った頃にはもう、中原親能はこの世の人ではなくなっていたのである。

 いわゆる一三人の合議制が成立したのが建久一〇(一一九九)年四月一二日のこと。それから一〇年を経ずに、梶原景時と比企能員の二名が討ち取られ、三浦義澄、安達盛長、中原親能の三名が亡くなり、足立遠元と北条時政の二名が隠遁生活に入っている。足立遠元については史料にその名が残されなくなり、気づいたら消えていたという形なので北条時政とは事情が違うが、合議制に加わらなくなっているという点で違いは無い。

 一三名でスタートさせた体制でありながら一〇年を経る前に過半数である七名が消えて残り六名になっていた。ちなみに中原親能は京都に滞在することが多かったことから合議制に加わること自体が少なく、中原広元も鎌倉と京都を行き来することが多いので鎌倉にいないことがたびたび存在する。ついでに言うと、中原広元は公文所別当を辞して隠遁生活に入ろうとしていたので、一三人の合議制で残った面々の中に中原広元をカウントするには多少なりとも躊躇するところがある。

 すると、鎌倉在駐で合議制の一員としてカウントできるのは北条義時、三善康信、八田知家、和田義盛、二階堂行政の五名ということになる。一三人の合議制としてスタートしたはずなのに欠員を埋めなかったために一〇年も経たずに五名へと減ったのだ。これから先、梶原景時や比企能員のように討ち取られることも起こるかもしれないし、そのような物騒な事態とならなくとも加齢による離脱や死去もあり得る話であるのだから、何もせず放置しておけばゼロ名へと行き着いてしまう。欠員が出ても誰かで欠員を埋めることが困難であるというのは、非公式な協議体が持つ宿命である。

 しかし、公式な協議体としたらどうなるか?

 政所別当を複数名にするというのは、合議体を合議体として存続させる一つのアイデアである。

 先にも記したが、北条義時に対する悪評は多々あるものの、北条義時を独裁者だとする悪評は存在しない。そのような悪評を北条義時にぶつける人がいるとすれば、それは的外れな評価とするしかない。そもそも北条義時に限らずこのときの鎌倉幕府は誰か一個人が独裁を敷くなど許されない状況であり、北条義時が自らの意志に従って何かしらの権力を行使するとすれば、それは北条義時の独断ではなく、北条義時の意見が合議の結果として採用されたという構図を用意しなければならなかったのがこの頃の鎌倉幕府である。それなのに合議体を構築できないというのは致命的だ。

 その致命的な事態を回避する方法の一つのアイデアが、政所別当を複数名にし、鎌倉幕府の政務の一貫として政所が職務を遂行する際、政所別当の独断ではなく、複数名からなる政所別当達の合議の結果とするというアイデアだ。これならば、微妙なバランスを必要とするようになってしまっている鎌倉幕府であっても、政所の職務を一個人の独善に委ねることなく行使できる。


 年が明けた承元三(一二〇九)年一月、この時代の年齢の数え方は、誕生日で年齢を一つ刻む満年齢ではなく、元日と同時に年齢を一つ重ねる数え年であるため、源実朝は一八歳を迎えたこととなる。ちなみに、数え年は誕生した瞬間に一歳から数え始めるので、満年齢と比べると、誕生日前であれば満年齢より二つ、年齢の数字が増えることとなる。たとえば、このときの源実朝は一八歳であるが、現在の満年齢では一六歳である。

 貴族の位階や役職は、平時であればその年の一月に上がる。厳密に言うと、一月初頭に位階が上がり、一月中旬に新たな役職が与えられる。もっとも、議政官に入るような上級貴族となると、位階は十分に上がっており、役職については空席ができるのを待っているというのが一般的であるため、平時の通例に該当することは少ない。公卿補任に名を刻むような貴族となると、平時の通例に該当するのは新しく従三位の位階を得た貴族ということになる。

 承元三(一二〇九)年一月の場合、新しく従三位の位階を得て公卿補任に名を刻んだ貴族は三名である。

 平家の公達の一人でありながら平家都落ちに帯同しなかった父の平頼盛とともに源頼朝に投降し、源平合戦後も貴族の一員としてカウントされてきた平保盛、五三歳。

 藤原南家の貴族で、政界の中枢を担い続けてきた藤原北家と違い、文章得業生から朝廷のキャリアをスタートさせ実務官僚を経て貴族となった藤原範朝、三一歳。

 典型的な藤原北家の貴族で、前述の藤原範朝と違い一貫して貴族としてのキャリアを歩み続けてきた藤原定親、二六歳。

 以上の三名であり、ここに源実朝の名前はない。数えで一八歳という年齢を考えても、正四位下の位階を得てからまだ一ヶ月も経っていないという時間経過を考えても、ここに源実朝の名前があったらならそのほうがおかしな話になる。

 普通ならば。

 源実朝が受けた栄誉は普通ではなかった。

 また、タイミングも合っていた。

 全ては近衛道経こと右大臣藤原道経が承元三(一二〇九)年三月二六日に右大臣を辞したことにはじまる。近衛道経は何も高齢になって政界を引退したのではない。この人の生まれは寿永三(一一八四)年であるから、満年齢で二五歳、数えでも二七歳。とてもではないが引退など考えられない年齢である。

 ただ、この人は大臣としての職務を果たす資質を有しているから出世したわけではない。近衛家の重要人物であるために若くして出世した人なのだ。そして、同時代の人に大臣としての資質に欠けていると見做されていたのだ。

 近衛道経に対する評伝は少ない。公式記録を追いかけても、近衛家の人間として順当な出世を果たし、二五歳で内大臣、二六歳で右大臣と、若き大臣として出世街道を歩んでいたが、この人の若さはあまり着目されなかった。この頃は近衛道経より一つ歳下の内大臣九条良輔と、近衛道経より一〇歳若い一七歳の権大納言九条道家が宮中にいたのだ。

 内部で対立していても外に向かっては一枚岩になるという藤原氏の特性は過去の話となり、同じ藤原摂関家であっても近衛家と九条家の対立、そして、この二つの家と併存していたはずなのに徐々に埋没していく松殿家という構図は隠せないものとなっていた。

 この構図が成立しているのに加え、近衛家と対立する九条家の輩出した一七歳の若き俊英である九条道家の存在があまりにも大きかった。

 近衛家当主である近衛家実は関白である。普通ならば関白と右大臣の地位を近衛家が占めている、それも、関白近衛家実が三一歳、右大臣近衛道経が二七歳と若き貴族が朝廷の中枢に君臨しているのだから、時代は近衛家のもとにあると考えるところであろう。ちなみに、太政大臣は皇太子元服加冠のために藤原頼実が五年ぶりに復帰し、左大臣は本来なら松殿の苗字を名乗ってもおかしくないものの、傍流扱いを受けて松殿の苗字を名乗らずにいた藤原隆忠である。太政大臣は五五歳、左大臣は四七歳であるから、年齢相応の役職と感じる一方で、若さを打ち出している近衛家と同じ土俵に立つことはできない。

 ところが、九条家には近衛家より若い一七歳の権大納言九条道家がいるのだ。おまけに、内大臣九条良輔も二六歳という若さなのだ。ちなみに、九条良輔は九条兼実の四男であり、九条道家の叔父にあたる。

 近衛家がどんなに若さを前面に打ち出そうとしても、九条家はさらなる若さで近衛家の前に立ちはだかる。政治の世界における若さというのはその人の実際の能力を少しは隠してくれるヴェールになるのだが、相手がさらなる若さをぶつけるとなると純粋に政治家としての能力での勝負となる。そして、右大臣藤原道経は一歳下の内大臣九条良輔ではなく、一〇歳下の権大納言九条道家と比べられる。藤原道経の政治家としての能力が平均程度の資質を有していようと、未だ二〇歳にもなっていないにもかかわらず既に名声と評判を獲得している九条道家と比べられたら誰もが勝負を断念せざるを得なくなる。

 この状態で近衛家が選択できる手段は、藤原道経を右大臣から辞職させることである。ただし、政界から引退するわけではなく正二位の位階は保持し続けることが条件である。現代日本の感覚でいくと、大臣を辞めたが衆議院議員は辞めず、今後も総選挙に立候補し続け当選し続けるというところか。近衛家としては現時点での敗北を認めるが、次の世代での挽回は諦めないという姿勢を保つことで、勝負そのものは投げ出さないと示したと言えよう。

 話は長くなったが、藤原道経が右大臣を辞したことで右大臣職が空席となったのが承元三(一二〇九)年三月二六日のことである。そして、四月になると人事の大幅刷新が行われたのだ。

 四月一〇日にはまず、空席となった右大臣に内大臣九条良輔が昇格し、新たな内大臣には大納言徳大寺公継が昇格。大納言の空席は権大納言三条公房が昇格することで埋まり、権大納言の空席は中納言二条定輔が昇格。これにより、大納言二名、権大納言五名の体制は維持された。中納言の空席は権中納言藤原公国が昇格し、権中納言の空席は参議源定通が昇格と、空席を一つずつ埋める人事が展開された。

 さらに、四月一四日には各貴族の兼職をはじめとするその他の人事刷新に加え、空席を埋めるための位階の昇叙も行われ、その最後の一名に正四位下源実朝の従三位昇格があったのだ。正四位下に昇叙してからわずか四ヶ月での従三位は異例とするしかないが、人事としてはおかしな話ではなかったのである。


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