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カミラーは瞬く間に彼らの背後に移動し、彼らの首元を手でぎゅっと掴んだ。目を一回瞑っただけで目の前から消えたカミラー(男)の姿に、彼らは驚きの表情を隠せない。
「今のはなん......?」
カミラーは、そのまま彼らの体を持ち上げ、路地の隅角へ力強く投げかけた。同時に、彼らは宙を舞い、やがて壁にぶつかって不格好に地面に倒れた。小さな煙が昇る。
カミラーは、そんな彼らに向かって瞬時に飛び上がり、倒れている彼らのすぐ前に勢いよく着地した。彼女の足元がえぐれる。
頭に手をのせながらやっと気を取り戻していた彼らは、さっきのやる気満々の態度は消え、自分の前に悪魔のように立ち尽くしているカミラーの姿に震え始めた。
そして、彼らの中の一人が怯えた顔で口を開いた。
「あ...あなたは、一体何者だ......」
「......」
カミラーは沈黙する。
「お金が欲しいんだったら、いくらでもあげるよ......今回の件は見逃してやるから、これ以上は勘弁してもらえないかな...」
「......」
「この後、俺たちを警察に通報しようがなんだろうがどうでもいいから、命だけは助けてくれー」
「黙れ」
瞬間、短い沈黙が空間に響いた。まるで一瞬だけ時計が止まったかのようだった。そして、カミラーは再び怒りとともに口を開いた。
「お前らのような雑魚どもがやった行動を弁えればいい。私のものに手を出したその罪が今の結果だ」
その瞬間、彼はすぐ横に視線を向けて倒れている若い女を見た。そして、その罪というものが何を意味するのか理解したようだった。
「な...なるほど!あの女はあなた様の娘か何かしらの人だったんですね。本当にごめんなさい。私どもみたいな人らがあんな人間以下の酷いことを身近な人にして、本当に申し訳ありませんでした。どうか今回だけは一回目を瞑って頂けないでしょうか。これからは、このようなことはせず、善良な人間として誠実に生きていきますので、どうかお許しください」
「.......」
両手を合わせて土下座までして懇願する彼の姿に、カミラーは一瞬滑稽さを覚えたが、暫く経って小さく首を横に振った。
「違う」
「......?と言いますと..?」
頭を下げていた彼は、頭をゆっくり上げ首をかしげた。そして、カミラーは話を続ける。
「あの女は、私が先に殺すと決めた女だ。それをお前らが先に横取りしようとしたのが罪だと言ってるんだよ」
「......?今なん...」
話を聞く彼らの瞳孔はどんどん大きくなっていった。聞いた言葉が信じられないという表情だった。
「もし、あの女がとっくに死んでたら今こうして話を聞くこともないだろうが。お前らは運がいい。最低でも人間が大好きな天国には行けると思うから」
カミラーはその後、口角をあげて笑みを浮かべて見せた。だが、それは彼らにとってはただの殺人鬼の笑みにしか映らず、身動きが取れないほどの大きな恐怖に呑み込まれた。
「下等生物人間よ。この世の捕食者である私の糧となることに感謝しなさい」
カミラーは片腕をあげ、彼らを見下した。一瞬、彼女の脳天から差し込む光が彼女の存在を幻想の悪魔の姿に近づけた。彼女の赤い瞳が宝石のように光を発する。
「君らのその大きな罪は、この神なる私の手で終止符を打つであろう」
カミラーは言葉が終わると、瞬時に手の内から両刃の斧を取り出し、握る手に力を入れた。
同時に、下で彼女を見上げている彼らの顔が青ざめる。もう、希望がないことを悟ってしまったようだった。
しばらくすると、彼女の命令だけを待っていた斧は勢いよく振り下ろされ、赤いしぶきが周囲に散らばった。
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荒い息が道の上を満たしていく。
「ハァ、ハァ」
茶色を帯びた短髪の髪の毛。
運動で鍛えられた引き締まった体。
頬をつたって首筋へ流れる熱い汗。
誰が見ても見惚れてしまうほどの美人である美口 凛は、いつものように午前の日差しを全身で受けながら、一人でランニングをしていた。
今日は体が軽く調子がいい。そのお陰か今日は前より疲れも感じず、長く走ることができた。
走っていた彼女は、一瞬立ち止まって腕にあるスマートウォッチに目を向ける。すると、画面は10:17分と表示されていた。
「えっこの時間にもうここまで来たのか!私えらい!」
驚く顔で喜びながら自画自賛する美口 凛。普段なら10時半ぐらいになってここに着くのだが、今日は約10分ぐらい早かった。気分がよくなった彼女はまだ時間があったので、もう少し走ることにした。
彼女は進み続ける。歩道の上をテンポよく通り抜け、横断歩道を過ぎ、橋の下で一人の時間を満喫する。
しばらくすると、ランニングを続けていた美口 凛は道の端っこまで来ていた。息を切らしながらスマートウォッチを確認すると、時間は午前10時33分だった。画面を横にスワイプしてどれぐらいの距離を走ったか見る。数字は8.3kmを示していた。
「おお、新記録じゃん!今日珍しいね。何か体も軽いし、エネルギーに満ち溢れている気がする!よっしゃ、今日もバイト頑張るぞー!」
心身とも軽くなった彼女は、満足げな表情とともに足を引き返した。
来た道を戻っていく。先ほど見た馴染みのある自然の光景が再び目に広がっていく。橋の下を過ぎて、階段を上って、歩道を走って、横断歩道を渡る。そして、さっきの高層ビルが立ち並ぶ都心部のところまで来た時だった。走っていた彼女の腕の方から振動が鳴り出した。
美口 凛は走るスピードを落としてスマートウォッチの方に目を向ける。すると、画面は誰かからメッセージが来ていることを知らせていた。彼女はつい気になって画面の通知をタップしてみる。送信者は他でもなく同じバイト先の橋本 亜理砂だった。メッセージの内容はこうである。
ーー「ごめん!!リンちゃん!あたし明日重要な約束が出来ちゃってバイト行けなくなったんだけど、明日のシフト代わりに入ってくれない?お願い(;o;)後でご飯奢るよ!!リンちゃんが大好きなオムライスとチーズケーキね!」
ーー「| 」
しばらくの間、美口 凛は少し呆れた顔で画面の中の文字を見つめていた。亜理砂ちゃんはバイト先で一番親しい友達だ。おそらく、今回は彼氏とのデートでシフトを飛ぼうとしているのだろう。最近、彼女はよく自分の彼氏について話していたのだ。その可能性が高かった。
だが、明日は唯一の休日であり、美口 凛にとっても明日は働かず家でゴロゴロしていたかった。彼女は迷う。
「あーもうどうしようー!!」
断られて失望するアリサの顔と美味しそうなオムライス、甘いチーズケーキのイメージが頭の中を巡り始める。心の中で何度もどうしよう、どうしようと呟き、どの選択を選ぶか悩み続けた。休日か。友達か。結局、彼女は長い間悩んだあげくアリサの要望を受け入れることにした。
「お金ももっと稼げるしいいじゃん!そうそう。明日休めなくても、私にはオムライスとチーズケーキがある!!おおお、私今週はもっと頑張るぞおー!」
美口 凛は、再び元気を出して声を張り上げた。周りからの視線が集まる。実は、彼女もアリサの巧妙な企みにやられることは知っていたが、どうしてもあの誘惑から逃れることはできなかった。オムライスとチーズケーキはチートなのだ。
ーー「分かったよ!!明日シフト入るから、ご心配なく!」
送信ボタンを押す。その後、返信を済ませた美口 凛は止まっていた足を再び動かし、道上を進んでいった。
それから、しばらく経った頃。歩くより少し早いスピードで歩道を進んでいた美口 凛は、どこから漂ってくる変な気配に気づき始めた。最初はただの勘違いかと思っていたが、やはりこれはただの勘ではなく、周囲の脅威から逃れるために体が勝手に送るサインだった。本能がそう告げていた。
「......?今のってなんだろう。気のせい?」
それらに気づくと、美口 凛は走るのをやめ、その気配がどこからくるものなのか探り始めた。初めてその気配に気づいた場所から慎重に道に沿って動き、目に見えない気配を辿っていく。
しばらくして、煉瓦で積み上げられた建物の近くを通るときだった。美口 凛は、横に見える一つの小道を見つけ、その奥に何かがあることに気づいた。中は暗くてよく見えなかったが、なぜかあそこから先程の変な気配が漂ってくるような気がした。さらに、耳を澄ませば何らかの音まで聞こえた。
「……?」
彼女は一度唾をごくりと飲み込み、一応そこに足を踏み入れ、何が起きているのか確認することにした。万が一の場合に備え、懐から携帯を取り出し、動画を撮る。彼女は片手に携帯を持ったまま、注意しながら少しづつ小道の中を進んでいった。
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両刃の斧が何度も力強く振り下ろされた。その度、肉が引き裂かれる音とともに赤い血が散る。カミラーの目は狂気に満ちていた。彼女にとってこれは生き甲斐だった。怒り。彼女が唯一感じることのできる感情。彼女が怒りに執着し、殺人を行うのは、この世の中で自分が生きているという感覚を得られるからだった。あの感情なしでは、自分はもう死んでいるようなものだった。空っぽなのだ。
この怒りは時に自分を苦しめ、残酷な殺人鬼にまで追い込んだが、同時に、自分の存在意義を与えた。諸刃の剣だった。実は、彼女も知っていた。人を殺すのはいいことではなく、やってはいけない悪いことだということを。だが、それ以前に、なぜ自分は生きているのかその理由が欲しかった。憤怒の感情しか知らないこの体に、怒りを覚えるということはそれだけ、その適切な理由を提示するようなものだった。
「......」
カミラーは動くはずもない死体を斧で切り裂き続けていた。もう死んでいるはずなのに、怒りの支配下に置かれ同じ行動を繰り返していた。彼女は最後の力を振り絞り、斧を力強く振り下ろした。同時に、一人の死体が正確に半分に分かれる。そして、やっと気を取り戻した彼女は自分のおでこに手を当て、頭が割れそうな頭痛を受け止めながらゆっくりと立ち上がった。その後、首を回して周りを見渡す。だが、気づけば隣にいたはずのあの若い女性の姿が見当たらなかった。彼女は驚き、すぐ行方不明になったあの女を探し出そうとした。
「あの女どこいった」
その瞬間だった。
後ろから小さな音がし、人の気配が感じられた。カミラーはすぐ音がしたところへ視線を送り、その正体が何かを確かめた。すると、カミラーの目の前にいるのは、他でもなく一人の若い女性だった。その女性はトレーニング服に薄い上着を羽織っており、驚いた顔でこっちを見ていた。
カミラーはさっきのあの女性かと思い、顔を確認しようとしたが、路地の隙間から差し込む強い日差しによって誰かは分からなかった。だが、そんな中で彼女の目を引いたのは、その女性の右手に持ってあるスマホだった。その瞬間、カミラーの脳裏を過ったのは、今の状況が録画されているということだった。それに気づくと、カミラーはすぐ行動に移した。
「死ね」
カミラーは息をする暇もなく、素早い速度でその女性のすぐ前まで移動した。そして、その女性の首筋を正確に狙って斧を振り回す。空気を切る鋭い音とともに、斧の刃先が女性の首の方へ近づいていった。刹那の瞬間ではあったが、その女性は相当驚いたらしく、両目が大きくなっていった。そして、カミラーがほぼ勝利を確信したその時だった。その若い女性は短い間に身をひねり、ほんのわずかな差で斧の刃を避けた。
「......?今、私の攻撃を避けた?」
カミラーはしばらくの間、自分の攻撃を避けたその女性を見ながら小さな声で呟いた。目を一度瞑るぐらいの短い瞬間のはずだが、余計に時間が長く感じられた。
今まで彼女の攻撃を避けた者など一人も存在しなかった。彼女の攻撃は完璧なのだ。全てが緻密に計算され、完璧なタイミングに下される一撃。そんな彼女の攻撃を避けられる者など、この世に存在しないと、カミラーはずっとそう考えていた。だが、先ほどその当たり前が完全に崩れた。カミラーは、その原因を必死に探そうとした。今日たまたま調子が悪かったからなのだろうか、それともただ今日に限って大きなミスを犯しただけなのだろうか。もしくはこの女の人の運動神経が異常に高いだけなのか。しかし、いくら考えてもその原因が分からなかった。そもそも、彼女が人を殺すときに誤りを犯すことなんてあり得ないのだ。もし、先程の眼球を貫いた日差しの影響で誤差を起こしてしまい、今の結果に至ったのではないかと、カミラーはしばらく心の中でそう結論を下した。
「ね!危ないじゃない!急になにしてんのよ。びっくりするじゃない」
地面に尻餅をついた美口 凛は、衝撃を受けた部分に手を当てながら不満っぼく言った。まだ、今の状況が理解できないという表情だった。
だが、しばらくして目の前に両刃の斧を手に握った男性を見つけると、彼女の顔色はますます青色に変わっていき、やがて少しずつ後ろに後退りし始めた。これは、自分の命が危険であることを悟ったからだった。
「.....ち...近づかないで...」
その女性が後ろに身を引く度、カミラーはそれに合わせて前へ足を踏み出していった。そして、取っ手を握る手に力を入れ、それを叩きつけようとした。
「これで最後だ」
今回は確実に仕留めるために、しっかりと狙いを定め、全神経を集中する。カミラーは腕を上げ、そのまま斧を振り下ろした。
「......」
「......」
長い沈黙が流れる。重たい金属の音が響くべき路地裏では、終わりのない沈黙だけが続いていた。気づけば、両刃の斧はその女性のすぐ頭の上で止まっており、カミラーは何か変なものでも見たかの顔でそれを眺めていた。実は、彼女がこのような行動を取るのには理由があった。
先ほどカミラーが斧を振り下ろそうとした頃、太陽の動きが変わり、ちょうどその女性がいるところまで光が届いていた。カミラーはそのまま彼女を殺そうとしたが、その時目に映った彼女の顔を初めてちゃんと見た瞬間、なぜか体に力が入らなくなり、急激なめまいがし始めた。さらに、体は思い通りに動かず、視野がぼやけ遠ざかっていった。理由は分からなかった。カミラー自分も驚いていた。今まで数多くの人間を殺してきた彼女だが、このような出来事は初めてだった。
やがて、意識を失いつつあったカミラーは、そのまま体の中心を失い、握っていた斧を落として地面に倒れた。同時にカミラーは、おじさんの姿から元の女子の姿に戻され、両刃の斧はまるで最初からこの世に存在しなかったかのように消えていった。
「......」
殺されるかと思って身をすくめていた美口 凛は、聞こえる変な音に瞑っていた目を開けて、周囲を見渡した。すると、さっきの自分を殺そうとしたあの男の人は消えており、地面に倒れている黒髪の女性が見えるだけだった。凛は首を傾げる。
「今の状況ってどういうこと?」
美口 凛は、まるで夢みたいなこの状況を理解しようとしたが、緊張したせいか上手くいかず、これからどうするのかについて考え始めた。
「えっどうしよう」
目の前に見える倒れている女の人を見つめながら、独り言を呟く。やがて、狼狽えていた美口 凛は自分の手に握られているスマホの存在に気づき、口を開いた。
「あ、そっか!私動画撮ってたんだ」
画面を確認すると、確かに動画は録画されていた。彼女は録画終了ボタンを押し、そのまま立ち上がって動く準備をした。だが、やはり気になるのは倒れているこの女の人だった。
「......警察呼んだ方がいいのかな」
美口 凛は、一瞬警察を呼ぶことを考えてみた。だが、今の状況をどうやって説明すればいいのか分からず、それはやめることにした。やがて、彼女はしばらく悩んだ末に一つの決断を下した。
「一旦、家に連れて帰ろうか。まぁ...少し悪いことをしてる感はあるけど、このまま放置するよりは増しだし...まぁいいか。その後のことはその時考えよう」
美口 凛は計画が定まると、羽織っていた上着を脱ぎ、それを倒れているその女性に着せ始めた。そして、下からゆっくりと抱き起こして、背中に背負い、ちゃんと身を隠して動き出す。
今までジョギングを頑張ったお陰で、それほど重くは感じなかったが、動きづらかった。周りから見れば、大人二人が昔の親との記憶に浸って、おんぶごっこをしているように見えるかもしれない。
彼女はそのまま歩道に出向き、勢いよく自分の家に向かって走り出した。




