天文20(1551)年4月26~29日
4月26日。 出発の朝になった。この時代の航海、というほど大げさではないが、命がけなのは確かなので、イカシパ以下名残を惜しむ部落民が集まって見送ってくれた。それらの者達にいちいち挨拶を返していたら、出航が四半刻遅れてしまった。チッカに「行っちゃいやだ―」といって泣かれたのには参った。子供なりに心配してくれているんだろう。--我々も12歳の設定だから、たいして変わらんか。見え無くなるまで手を振りつつ、一時の別れを惜しんだ。とはいえ、此処に帰る時が来るだろうか?
結論から言うと、三郎の目論見通り4泊5日で徳山館が見下ろす入り江の港に着いた。しかし、こんな酷い
目に遭ったのは初めてだ。意識にはあっても、この時代の風任せの船旅がこれほど大変なものだとは、体験しないと分からない。モ・ルエラニの湾内では穏やかに吹いていた東風が、内浦湾に出るとやや強く吹き始め、順調以上に船足が早い。けっこう大型の舵を取り付けてあるので、強引に進む方向を決める。時には櫂も使った。ヨットのような三角帆ではなく、所謂スピネーカーのような追い風のときのみ働く一枚帆のメインセイルしかないので、逆風や横風のときはたたむしかない。この帆は、部落の女手の助けを借りて、女子二人が一生懸命縫ってくれたものだ。正式な帆布は専門店にしか売っていないらしく、それら専門店にはアクセスできない。そこでジーンズ用の布を多数買い込んで縫いまとめた。手間がかかって大変だったろうと思う。
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4月27日。 2日目夜の泊まりの時、地元のアイヌに襲われた。夕食時はボートを使って交代で上陸、焼肉パーティー(さすがに揺れる船の上で炭コンロを使うわけにはいかない)をした。船の中では海苔巻き握りやサンドイッチ、総菜パンと麦茶などのコンビニ飯ばかりだったので、時々はまともな食事をしたくなる。就寝時には、岸辺から10mほど離れたところに錨を下ろして停まっている船に戻ったのだが、夜半、騒がしくて起こされた。篝火を舳先に灯した小舟が2艘、我等の舟に横付けして乗り込もうとしている。船縁の高さが違うので、鍵綱を引っかけてよじ登ろうとしているのだが、モタモタしてなかなか上がってこれない。イメルッカが「(多分こんな内容だろうと想像)勝手に船に上がって来るな! 我等はモ・ルエラニからやってきた者だ。モ・ルエラニのイカシパの息子でイメルッカだ。知り合いだろうがっ!」と叫ぶと、よく聞き取れないが、「まずいぜ、止めようよ」と言ってるグループと怒鳴っているグループの二通りに分かれ、前者の意見が通ったようで小舟は引き返した。やれやれ、武器を使わないで済んでよかった。下手に傷つけたり殺しちゃったりしたら、交易で通過するときなど、後々面倒だからね。松前に到着したら、イメルッカ達三人は陸路/海路のどちらにしてもこの辺りを通って帰らねばならないから、争いごとは無い方が良い。
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4月28日。 朝の出発時に、昨夕バーベキューをしたあたりに粟を一袋と乾燥肉を一包み置いて、蟠り(わだかまり)の解消を図った。食糧は貴重だからね、贈り物をしておけば何とかなるだろう。
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4月29日。 渡島半島の東の先端、現在の地名でいうと恵山岬を回りこんだ処で、3日目の泊まりを終えて、いよいよ津軽海峡に入り込む。東風がとんでもなく強くなって帆を半分畳み込む羽目になり、結構苦労した。帆の所々に金具を付けておくべきだった。到着したら忘れずにやっておこう。しかし、それよりも潮流が西から東へ、要するに風向きと真逆なので困った。帆を半分たたんでいるので、潮流に逆らって西に進む力が弱くなっており、ノロノロとしか進まない。といって、帆を全部広げたら強すぎる東風で転覆するか帆が破れるか、ろくでもないことになりそう。結局、推進力の不足分は漕ぐことにした。男手は八人分あるので、櫂の数とちょうど見合う--ということは誰も休めない。全員に手袋を配ったが、一日漕いで疲労困憊、やっぱり掌の皮がむけて痛い。ようやく宇須岸(うすけし:函館の古名、湾の端を意味するアイヌ語のウショロケシが語源と言われる)のあたりに到着し、最後の4日目の泊まり。水深が浅かったり暗礁があったりするので、岸からかなり離れたところで錨を下ろして停まっているので、岸辺の村からは見えないのか誰もやってこない。三郎によると、ここら辺りは蠣崎の勢力圏で、普通の村民に加えて多数の武士が暮らしているとのこと。陸路で往来するときには寄ることが多いようだ。したがって上陸しても良いのだが、時間を取られるので面倒だ。このまま朝になったら松前に向けて出発してしまおう。




