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その背中に惹かれて

全50話のお話も45話まできました。もう少しだけお付き合いください。

 藤原から「冬休みが終わったら、本当の気持ちを聞かせてほしい」と言われてから、志保はずっと自分の心と向き合い続けていた。

 藤原といる時間は、本当に穏やかで満たされている。自分のまとまらない話を、彼はいつも優しい笑顔で聞いてくれる。

 彼が隣にいてくれるだけで、凍てついた心が、陽だまりの中にいるみたいに温かくなっていくのがわかる。

 このまま彼の優しさに身を委ねてしまえたら、どれだけ楽だろう。きっと自分は幸せになれるだろう。間違いなく、そうだろう。

 志保は頭ではわかっている。それが一番賢くて正しい選択だと。

 

 でも――。

 

 大晦日の夜、川島家はみんなでこたつに入って、年末の特番を見ていた。樹も竜樹も今日は早く帰っており、久しぶりに家族全員が揃っていた。

 薫子が淹れてくれた温かいお茶。瑞樹が剥いてくれたみかん。テレビから流れてくる、賑やかな笑い声。

 それはいつもの、志保が世界で一番大好きな川島家の風景だった。そのはずだった。たったひとつ違う点を除いては。

 志保との間に瑞樹を挟んで、こたつの一番端に座る良樹。彼だけは、その輪の中にいなかった。身体はここにあるのに、その心はどこかずっと遠い別の場所にいるようだった。

 竜樹の冗談にも、瑞樹のツッコミにも、彼はほとんど反応しない。ただ虚ろな目でテレビの画面を眺めているだけ。

 時折樹や薫子が心配そうに話しかけても「……ああ」とか「……うん」とか、短い返事しか返ってこない。

 リビングには、どこかぎこちない空気が流れていた。誰もそのことに触れない。触れられない。

 だがもう、みんな気づいていた。この家の太陽だったはずの彼が、今はすっかり光を失ってしまっていることに。

 (ごめんなさい……)

 志保は心の中で、いったい何度謝っただろう。

 渡辺と距離を置くことになったと志保は良樹自身から聞いたが、その理由は教えてくれなかった。

 けれど志保にはわかる。

 自分のせいで、良樹は大切な人を傷つけて、そして自分自身も傷ついている。

(私が、この家の調和をメチャクチャにしちゃったんだ……)

 時計の針は、もうすぐ夜の12時を指そうとしていた。

 テレビの司会者が、大声でカウントダウンを始める。

「5、4、3、2、1――!」

「「「あけまして、おめでとう!」」」

 樹が、薫子が、竜樹が、瑞樹が、一斉に笑い声を上げた。もちろん志保も「おめでとう!」と、笑顔を作る。

 そして志保は、良樹の顔を見た。彼は、彼だけは笑っていなかった。

 テレビの光に照らされたその横顔は、まるで世界にたった一人だけ取り残されてしまった子供のように、どうしようもなく孤独に見える。

 家族全員が、笑っている。新しい年の始まりを喜び合っている。

 その完璧なまでに幸せな家族の風景の中に、たったひとつだけポッカリと穴が空いている。

 たったひとつの欠けたピース。

 それを見た瞬間、志保の頭の中に、まるで雷が落ちてきたかのような強い衝撃が走った。そして、彼女はようやく気づいたのだった。自分が、心の奥底で本当は何を願っていたのかを。

(藤原くんの隣にいる時の私は、確かに幸せだ。穏やかで、優しくて、満たされている)

 

 ――でも、違うんだ。

 

 川島良樹が笑っていない世界は、志保にとっては根本的に間違っている世界なのだ。

 自分がどれほど個人的に幸せになったとしても、この家の太陽が輝いていないのなら、その世界はやっぱりどこか歪んでいる偽物なのだ。

 良樹が自分のせいで孤立している。この、世界で一番温かいはずの場所で、ただ一人凍えている。その事実が、志保にはもう耐えられない。

 志保の本当の願いは、たったひとつ。このかけがえのない「家族」という世界の「調和」を取り戻すことだ。

 そしてその調和の中心には、どうしても川島良樹の、あの馬鹿みたいで、不器用で、でも誰よりも優しい笑顔が必要不可欠なのだ。

(大好きな人たちを守るために、この大切な場所を守るために、私は早く答えを出さなくちゃいけないんだ)

 あらためてそう思う志保だった。



 年が明けて、三が日。志保は藤原から初詣に誘われた。

 藤原と過ごす時間は、やはり穏やかで、幸せで、満ち足りていた。

 人混みの中、はぐれないようにと彼はそっと志保の腕を引いてくれる。その遠慮がちな仕草に、彼女の胸が温かくなる。

 二人で並んで引いたおみくじは、藤原が大吉で、志保は中吉だった。

 「僕の運、少しだけ分けてあげるよ」と、藤原は子供みたいに笑う。

 冷えた体を温めようと、二人で飲んだ甘酒は、少しだけ大人の味がした。

(このまま、この人と一緒にいられたら……)

 志保の心は、その時確かに藤原の方へと、大きく大きく傾いていた。

 一人の女の子としての個人的な幸せ。それを選んだっていいのではないか……薫子と瑞樹は「あなたの心が、一番大切なのよ」と言ってくれた。だったら藤原を選んでもいいのではないか……そう思い始めていた矢先だった。

 神社の参道を抜け、帰り道の屋台が並ぶ賑やかな通り。その、ひときわ明るい光と人の波の、そのさらに向こう側。

 本当に、偶然だった。

 何百という人混みの中で、なぜ彼だけが目に飛び込んできたのかわからない。

 それは、一人で屋台のたこ焼きを食べている良樹の姿だった。渡辺も、市原も、美咲も、誰もいない。たった一人で彼はそこにいた。

 その横顔はひどく頼りなくて、たくさんの人に囲まれているはずなのに、その背中は世界で一番孤独に見えた。

 そのあまりにも小さく、そしてあまりにも寂しい背中を見てしまった瞬間、志保の心の中で理性が、計算が、藤原への感謝も罪悪感も、これまでの全ての葛藤が、まるで強風に吹き飛ばされた砂のように一瞬で消え去ってしまった。

(ああ、やっぱり、ダメなんだ……)

 志保はやっと理解した。頭じゃない。心でもない。もっと奥深くで自分の魂が、自分の意志とは全く関係のないところで叫んでいるのだ。どうしようもなく、この人の元へと還ってしまうのだ。

 頭では、わかっている。藤原の方が、絶対に自分を幸せにしてくれる。

(だって藤原君は優しくて、賢くて、いつも、私のことを一番に考えてくれるもの)

 わかっているのに、なのに彼女の足が、身体が、魂がどうしようもなくあの孤独な背中の方へと引き寄せられてしまう。まるで、引力に逆らえない小さな星のように。

 (これは、もう選択なんかじゃないんだ)

 好きとか、嫌いとか、そういう自分自身がコントロールできる感情じゃない。それはきっと、生まれた時からそう決まっていたのだ。

 きっと、こういうのを運命というのだろう。それはもう抗いようのない運命。そうとしか志保には思えない。

「――ごめん、なさい」

 隣にいた藤原に、志保はほとんど声にならない声で、そう呟いていた。

 彼は驚いて志保の方を見たが、その優しい瞳を、志保はもう見ることができなかった。

「ごめんなさい、藤原くん……っ!」

 そう言うと志保は走り出していた。人混みをかき分けるように、 ただまっすぐに、あの孤独な背中だけを目指して。

 大晦日の夜、志保は家族の調和を願った。でも、少し違ったようだ。

 彼女の本当の願いは、 この世界で一番放っておけない人のそばに、ただその場所にずっといたい。それだけだったのだ。

 それは恋愛感情とは少し違う。もっと素朴で、もっと純粋な欲求だった。良樹が自分のことをどう思っていようとも、自分は彼のことがどうしようもなく好きなのだ。

 たとえ彼と結ばれることがなかったとしても、それでも彼のそばにいたい。ずっといたい。女の子としてではなく、一人の人間として。

 それがどんなに茨の道だとしても、それがどんなに間違った選択だとしても、彼女はもう決して迷わないだろう。

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