誠実と言う名のナイフ
修学旅行から帰ってきて、数日が過ぎた。あれだけ騒がしかった非日常は嘘のように消え去り、退屈な日常が戻ってきた。
だが良樹を取り巻く空気は、もう二度と元には戻らないであろうことを、彼は肌で感じていた。
市原や江藤とは、廊下や教室で顔を合わせても、必要最低限の会話しかしない。
そして志保とは学校内どころか、家でさえもまともに目を合わせることすらなかった。
竜樹に言われた言葉が、楔のように良樹の胸に突き刺さったまま抜けない。
――お前、本当に笑えてるか?
――志保が他の男と楽しそうに話してるのを見て、それを心から『よかったな』って祝福してやれるのか?
そんな答えの出ない問いを何度も頭の中で繰り返しながら、その日良樹は久しぶりに渡辺と二人きりで街を歩いていた。
今日のデートは、彼から誘った。
新幹線の中で固めた決意。まずは、渡辺に会って全てを正直に話す。それが彼が最初に果たさなければならない、最低限の誠意のはずだった。だったはずなのに……。
「あ、見て川島くん! クレープ屋さんだ! 食べたいなー!」
「お、おう」
隣で無邪気にはしゃぐ渡辺を前にして、良樹の口は、まるで鉛のように重くなっていた。
(いつ話す? どうやって切り出す?)
そんなことばかりが頭を巡り、渡辺が差し出してきたクレープの味も、ろくにわからなかった。
相変わらず、渡辺といるのは楽しい。それは間違いなくそうなのだ。
良樹のくだらない冗談にも、彼女は心の底から笑ってくれる。その笑顔を見ていると、修学旅行での悪夢のような出来事は全部嘘だったんじゃないかとさえ思えてくる。
(楽しいはずなんだ。以前と何も変わらないはずなんだ……)
なのに、頭のどこかに竜樹の言葉がこびりついて消えない。
俺は今、本当に心から笑えているのだろうか。自分で自分がわからない。
「川島くん、この後どうする? 映画でも観に行く?」
「あ、ああ、そうだな」
上の空で返事をしてしまったことに、自分でも気づいた。俺の言葉に渡辺の表情が、ほんの一瞬だけ曇ったからだ。
(ダメだ……俺は、また同じことを繰り返してるじゃないか)
彼女の隣にいるのに、心はここにはない。これじゃあ修学旅行の土産物屋での、あの最低な自分と何も変わらない。それじゃダメなのだ。
(俺自身の想いは、変わっていないはずなんだ。でも、だったらなんで、前みたいに楽しいとだけ思えなくなったんだろう。ずっと話していたいと、この時間を終わらせたくないと、強く思えなくなってしまったんだろう……いったい何が変わっちまったっていうんだよ)
渡辺は、そんな良樹に何も言わない。彼女は自分といて楽しいのだろうか。一緒にいて心から笑えているのだろうか。良樹はもう、何がなんだかわからなかった。
映画を観終えて外に出ると、空はもうオレンジ色に染まり始めていた。
結局、映画の内容もほとんど頭に入ってこなかった。隣に座る渡辺の横顔ばかりが気になって仕方がなかったからだ。
帰り道、2人は公園のベンチに少しだけ間を空けて座った。夕日が長く伸びた影を地面に描いている。ブランコが風に揺れて、キィと小さな音を立てた。
その沈黙を、破ったのは渡辺だった。
「川島くん、なんだか今日、ずっと心ここにあらずって感じだね。何か悩み事?」
そのあまりにも優しく、そして的確な一言に、良樹は心臓を掴まれたような気がした。
(ああ、そっか……)
渡辺はずっと気づいていたのだ。彼が無理して笑っていることにも、心がここにないことにも、全部気づいていた。
そしてその上で気づかないフリをして、今日一日良樹に合わせてくれていただけなのだ。
「……」
良樹は何も言えなかった。「俺が本当に隣にいて欲しいって思ってるのが渡辺かどうか悩んでる」だなんて、口が裂けても言えるわけがない。
しかし、ここでまた曖昧な答えを口にしたら、彼は新幹線の中で決意した自分を裏切ることになってしまう。兄の言葉からも目を背けることになってしまう。
竜樹の言葉が良樹の脳裏によみがえる。
――いちばん自分の心に嘘をついてるのは、実はオマエ自身なんじゃねえのかな?
「……ごめん。渡辺」
絞り出した声は自分でも驚くほど、か細く、そして情けないものだった。観念して、彼はようやく全てを話すことにした。
「あのさ……渡辺と一緒にいる時間は、本当に楽しいんだ。それは、絶対に嘘じゃないんだ」
まず、それだけは伝えたかった。彼女と過ごした時間が、自分にとってかけがえのないものだったこと。それだけは絶対にウソではないことを。
「でも……俺はずっと、志保のことが頭から離れなかった。何がってわけじゃなくて、なんかいつも頭の片隅に志保がいる、みたいな感じで……いつも気になってた」
渡辺は何も言わない。ただ、静かに良樹の言葉を聞いている。その表情は、夕日のせいで良樹からはよく見えなかった。
「そのせいで渡辺を、ずっと不安にさせてたと思う。修学旅行でもそうだ。渡辺のことを傷つけた。最低なカレシだったと思う……本当に、ごめん」
良樹はそう言って頭を下げた。他にできることなんて何もなかった。
「兄貴にも言われたんだ。オマエは自分の心にウソをついてるんじゃないかって。でも俺は、もう自分で自分の気持ちがよくわからないんだ……渡辺のことは本当に好きだって思ってる。それはウソじゃないけど、でも、志保のことも放っておけないっていうか……でも渡辺に対する気持ちと志保に対する気持ちは同じじゃないって言うか、俺は本当は誰が好きなのかわかんなくなってきたって言うか。ゴメン、何言ってるのか、自分でも、よくわかんなくなってきた」
しどろもどろで支離滅裂。これが、良樹が初めて見せた本当の誠意の形だった。
長い沈黙が流れた。
公園の木々の葉が、風にざわめく音だけが聞こえてくる。
良樹は罵倒されることも、泣かれることも、殴られることさえ覚悟していた。
だが、顔を上げた渡辺の取った態度は、そのどれでもなかった。
彼女は、泣いていなかった。怒ってもいなかった。
ただ、どうしようもなく悲しそうに、そして、少しだけ困ったように微笑んでいた。
「……そっか」
やっと聞こえてきた彼女の声は、不思議なくらい穏やかだった。
「話してくれて、ありがとう。……正直に言ってくれて、嬉しかったよ」
その言葉に、良樹は救われたような、それでいてもっと深い絶望に突き落とされたような、奇妙な感覚に陥った。
「ねえ、川島くん」
彼女は、一度息を吸って、そして言った。
「わたしたち、しばらく、距離を置こうか」
覚悟は、していたはずだった。
だが、その言葉は良樹が想像していたよりも、ずっとずっと重く鋭く彼の胸に突き刺さった。
「……」
何も言い返せなかった。「待ってくれ」とも「嫌だ」とも言えなかった。なぜなら、これが自分の不器用な誠実さが招いた、当然の結末なのだから。
「……うん」
ただ頷くのが精一杯だった。
「じゃあね」
渡辺は立ち上がると、いつもと同じように軽く手を振って、そして良樹に背を向けた。
その小さな背中が、夕日の中にゆっくりと消えていく。
一人ベンチに残される良樹は、その姿をただ見送ることしかできなかった。さっきまで彼女が座っていた場所が、もう冷たい。
(俺は、初めて正直になれた。でもそのせいで、俺は渡辺を失うのかもしれない)
誠実であることの痛みと、自分の罪の重さを、彼は初めて本当の意味で噛み締めていた。
空っぽになった良樹の心に、公園のブランコの寂しい音だけが、いつまでも響き続けていた。




