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兄からの言葉

 修学旅行から帰ってきた翌日、良樹は居間で兄の竜樹と2人きりになった。

 部活に熱中している兄の竜樹は、練習で朝早く夜遅くてなかなか顔を合わせないし、まして二人きりになることなんていつ以来か記憶にないほどだった。

 なんとなく居心地の悪さを感じていた良樹だが、竜樹の方から話しかけてきた。

「なあ、良樹。お前、相変わらず志保と別々に学校行ってんのか?」

「……兄貴には、関係ないだろ」

「関係なくないさ。志保は俺にとって可愛い妹だからな。妹を泣かせる奴がいるなら、俺は兄貴としてやらなきゃならねえことがあるんだよ。その相手が弟でもな」

 良樹たちの現状をどこまで知っているのかわからないが、竜樹の瞳には有無を言わせぬ迫力があった。良樹に非があるのなら説教のひとつもしてやるつもりなのだろう。

「だいたいオマエさぁ、なんで急にそんなことしだしたんだよ。誰かにからかわれでもしたのか? いまさらそんなことで動じるオマエじゃないだろうに、何があったってんだよ?」

「……うるさいなぁ! カノジョと登下校するようになったからだよ!」

「はぁ? カノジョ? オマエ、カノジョいんの? いつの間にそんなん出来たんだ?」

 予想外の答えだったのか、竜樹は驚きのあまり思わず目を見開いた。

「悪いかよ」

「別に悪かねーよ。悪かねえけど……そうかぁ、カノジョねぇ……俺はてっきり」

「……てっきり、なんだよ?」

「いや、なんでもないけど……そうかぁ。なるほどなぁ」

 竜樹はなんだか一人で、しきりに感心しているような納得しているような、そんなヘンな顔をしている。

「まったく、お前らには昔からずっとハラハラさせられっぱなしだな。それにしても瑞樹からたまに渡辺さんって名前を聞いてはいたけど、それがカノジョの名前か?」

「……そうだよ」

 竜樹は少し考え込む素振りを見せてから口を開いた。

「なぁ良樹。志保がこの家に来た日のこと、オマエ覚えてるか?  父さんがオマエに何て言ったか」

 そう言われた瞬間、良樹の脳裏に遠い日の父の姿が蘇った。

 まだ小さかった自分と、泣きじゃくる志保の手を家族みんなの前で繋がせて、父の樹はこう言ったのだ。『いいか、良樹。今日からは、お前がこの子を守るんだ』と。

 あの時の父の真剣な眼差しを、良樹は忘れたことなど一度もない。

「……俺に、志保を守れって……」

「そうだ。父さんはオマエに『志保を守れ』って言った。でもな、オマエは知らないだろうけど、あのあと父さんは俺には『兄として、弟妹と同じように志保を可愛がってやれ』って言ったんだよ」

「えっ!? そうなの?」

 それは知らなかった。

(父さんは、兄貴にそんなことを言ってたのか……)

 父の樹は、自分には志保を守ることを、そして兄の竜樹には志保を実の妹だと思って接しろと言っていただなんて、そんな話は初耳だった。

「そうさ。知らなかったろ?」

「うん。全然知らなかった。俺だけが言われたのかと思ってた」

 俺も別に言わなかったしな、と言って竜樹は少し笑った。

「俺たちはさ、あの日からずっと、志保の『家族』であり『きょうだい』なんだよ……俺はあれから志保のことを、オマエや瑞樹と同様に分け隔てなく妹として可愛がってきたよ。親父の言いつけを守ってきたし、今も守ってるって自信を持って言えるぜ。で、オマエはどうだ? 今のオマエは、志保を守ってるって自信を持って言えるのか?」

「それはっ……」

「渡辺さんってコのことが好きなのは、まあでもそれはいい。恋愛は自由だからな」

 竜樹は意外にも、良樹が渡辺と付き合うことに肯定的だった。

「そりゃそうだろ。恋愛感情なんて誰かに命令されるもんじゃねえからな。だからそういう意味では、お前は何も悪くないよ。間違ったことはしてない。もし父さんや母さんから何か言われたら、俺も一緒に弁明してやるよ」

 兄が妙に優しくて気持ちが悪いなと良樹は思ったけれど、だがやはり単なる味方ではなかった。竜樹はさらに言葉を続けた。

「でもな、良樹。それと志保を傷つけていいってことは全く別の話だぞ。ただ勘違いするな。お前がどんな選択をしたってそれは自由だ。だけど、もしオマエの方が間違っていたら、当然だけど誰も味方はしない。血縁なんて関係ない。そんなもんあろうがなかろうが、志保は父さんと母さんの娘だし、俺の妹だし、瑞樹の姉なんだ。それは間違いなくそうなんだからな」

 竜樹の言葉は静かだったけれど、ズシンと良樹の腹の底に響いた。

(そうだ。兄貴の言う通りだ)

 良樹は渡辺のことが好きだ。でも、だからといって志保を傷つけていい理由にはならない。家族だからって傷つけていいわけないじゃないか。そんな簡単なことが、どうしてわからなくなっていたんだろうか。

「わかってるよ。俺だって……アイツを泣かせたいわけじゃねーもん」

 竜樹は「部屋に戻るわ」と立ち上がる。部屋のドアに手をかけた竜樹は、立ち止まると振り返らずに言った。

「なあ、良樹。渡辺さんって子の隣にいる時、オマエ、本当に笑えてるか?」

「……っ!」

「志保が他の男と楽しそうに話してるのを見て、それを心から『よかったな』って祝福してやれるのか?」

 答えられない問いかけだった。なぜならそれは、良樹がずっと自分自身に問いかけるのを無意識に避けてきた、最も痛い部分だったからだ。

「まあ、よく考えろよ。誰かに言われたからとかじゃない。オマエ自身が本当に守りたいのは誰で、本当に隣にいてほしいのは、いったい誰なのか」

 その言葉は、まるで鋭いくさびのように、良樹の胸のど真ん中に、深く深く打ち込まれた。

「なあ……俺は思うんだけどさ、いちばん自分の心に嘘をついてるのは、実はオマエ自身なんじゃねえのかな?」

 バタン、と静かにドアが閉まった。

(俺の、心……? 俺が自分で自分にウソをついてるって?)

 本当に隣にいて欲しいのは誰か。その問いの答えに良樹はまだたどり着けない。ただ、兄が残していった言葉が、まるで呪いのように頭の中で何度も繰り返される。

 竜樹が部屋を出て行った後も、良樹はその場から動けずにいた。

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